神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第45話 黙らないために

黒川直人の供述によって、三年前の事故はようやく形を変えた。

 

単独事故ではない。

 

呼び出し。

進路妨害。

証拠隠し。

沈黙。

そして、ブレーキへの細工。

 

倉木怜央の死は、いくつもの嘘が重なって作られたものだった。

 

神奈川県警捜査一課の会議室では、最終報告に向けた確認作業が続いていた。

 

押村奏斗は、ホワイトボードの前で資料を整理していた。

 

「黒川直人は、倉木怜央さんのバイクに制動遅延が起きるよう細工したことを認めました。現場で発見された部品片、作業場の工具痕、整備メモも供述を裏づけています」

 

横溝重悟は腕を組んだまま頷く。

 

「殺意の立証は」

 

「本人は殺意を否認しています。ただし、危険性の認識は明白です。倉木さんの走行速度、カーブ進入時のライン、制動遅延が発生した場合の転倒可能性を事前に計算していた」

 

押村は整備メモの写しを置いた。

 

「少なくとも、死に至る危険を認識しながら実行したことは示せます」

 

横溝が低く言う。

 

「未必の故意か」

 

「はい」

 

千速は窓際に立ち、黙って聞いていた。

 

捜査資料の中にある倉木怜央の写真。

 

若く、挑発的な笑みを浮かべた男。

 

彼のことを、千速はよく知っていたわけではない。

 

五年前に一度、白バイで追った。

 

それだけだ。

 

けれど今は、その名前が妙に重かった。

 

自分の判断。

自分の名前。

自分の部下。

 

すべてが、三年前の道に絡め取られていた。

 

押村が続ける。

 

「藤崎啓吾は、倉木さんを呼び出すために千速の名前を使ったことを認めています。白いヘルメットで警察の存在を匂わせ、動揺を誘った。事故後は救護より証拠隠しを優先し、佐伯隊員を口止めした」

 

横溝の目が険しくなる。

 

「元白バイ隊員が聞いて呆れる」

 

千速は静かに言った。

 

「それでも、元白バイ隊員だったんだ」

 

横溝が千速を見る。

 

千速は続ける。

 

「だから佐伯は黙った。怖かったんだろ。現役の自分より、ずっと上手くて、ずっと強く見えた先輩に言われて」

 

横溝は少しだけ目を伏せた。

 

「庇うのか」

 

「庇わねぇよ」

 

千速は短く答えた。

 

「でも、分かることと許すことは別だって、奏斗が言ってた」

 

押村が少しだけ千速を見る。

 

千速は視線を逸らした。

 

横溝は鼻を鳴らす。

 

「押村の言葉、便利に使ってんじゃねぇか」

 

「便利だからな」

 

押村は真面目に言った。

 

「使えるなら使ってくれていい」

 

千速が少し笑う。

 

「そういうとこだぞ」

 

横溝も呆れたように息を吐いた。

 

だが、その小さなやり取りの後、会議室の空気はすぐに戻った。

 

事件はまだ終わっていない。

 

押村は資料をめくる。

 

「藤崎茜は、佐伯隊員を追い詰めたことを認めています。新井隊員への襲撃については、黒川を庇う形で虚偽供述をしていたことも認めました」

 

村上が補足する。

 

「倉木美緒については、藤崎茜へ封筒とステッカーを渡し、行動を促した事実があります。ただし、具体的な襲撃指示は現時点で確認されていません」

 

横溝が低く言った。

 

「美緒の扱いは慎重になるな」

 

押村は頷く。

 

「はい。彼女が事件の引き金を引いたことは確かです。ただ、黒川がさらに利用している」

 

千速の表情が硬くなる。

 

「引き金を引いたのが美緒で、弾を込めたのが黒川か」

 

押村は少し間を置いて頷いた。

 

「近いと思う」

 

「嫌な例えだな」

 

「はい」

 

千速は腕を組んだ。

 

「佐伯は?」

 

会議室が少し静かになる。

 

佐伯巡査部長。

 

三年前、事故直後の現場を見ながら黙った白バイ隊員。

 

今回、黒いバイクに狙われ、千速の前で命を落としかけた男。

 

横溝が資料を手に取る。

 

「佐伯は正式な供述を終えた。藤崎啓吾からの口止め、事故現場で見た白いヘルメット、赤い車、全部認めてる」

 

村上が続ける。

 

「懲戒処分の対象になる見込みです」

 

千速は静かに頷いた。

 

「そうか」

 

押村が千速を見る。

 

「君はどうする」

 

「何を」

 

「佐伯隊員と話すのか」

 

千速は少しだけ黙った。

 

「話す」

 

横溝が言う。

 

「感情的になるなよ」

 

千速は横溝を見る。

 

「なるかもしれねぇ」

 

「おい」

 

「でも、逃げねぇよ」

 

千速はまっすぐ言った。

 

「佐伯も逃げずに話した。なら、私も逃げずに聞く」

 

押村は小さく頷いた。

 

「それがいい」

 

第三交通機動隊の車庫は、夕方の光に包まれていた。

 

白バイが整然と並んでいる。

 

その一角に、佐伯は立っていた。

 

制服姿ではあるが、いつもの自信はない。

 

背筋は伸びている。

 

けれど、その肩には目に見えない重さが乗っているようだった。

 

千速はゆっくり近づいた。

 

少し後ろに押村がいる。

 

佐伯は千速の姿を見ると、深く頭を下げた。

 

「小隊長」

 

千速は数秒、何も言わなかった。

 

そして低く言う。

 

「顔を上げろ」

 

佐伯は顔を上げた。

 

その目は赤い。

 

眠れていないのだろう。

 

千速は白バイに視線を向けた。

 

「三年前、お前はここにいたのか」

 

佐伯は頷く。

 

「はい。第三交機に配属されたばかりでした」

 

「白バイに乗れて嬉しかったか」

 

佐伯は少し戸惑いながらも答える。

 

「はい」

 

「誇りはあったか」

 

「ありました」

 

千速は佐伯を見る。

 

「今は?」

 

佐伯の顔が歪んだ。

 

「……分かりません」

 

「そうか」

 

千速は白バイのフロントカウルに手を置いた。

 

「私はな、白バイは速さの象徴じゃないと思ってる」

 

佐伯は黙って聞いている。

 

「もちろん速く走れなきゃ話にならない。技術もいる。判断もいる。でも、一番大事なのは、止まることだ」

 

「止まること……」

 

「危険を止める。違反を止める。事故を止める。自分の怒りや焦りも止める」

 

千速の声は落ち着いていた。

 

「お前は三年前、止まれなかった」

 

佐伯の肩が震える。

 

「はい」

 

「藤崎啓吾に言われて怖くなった。私に迷惑がかかると思った。自分の立場も怖かった。だから黙った」

 

「はい」

 

「それで倉木の死は隠れた。美緒は苦しみ続けた。茜は壊れた。新井も襲われた」

 

佐伯は唇を噛む。

 

「はい」

 

千速の声が少しだけ強くなる。

 

「お前の沈黙が全部の原因だとは言わねぇ。でも、重さはある」

 

佐伯は深く頭を下げた。

 

「申し訳ありませんでした」

 

千速はすぐには答えなかった。

 

その沈黙の方が、怒鳴られるよりも苦しかった。

 

やがて千速は言った。

 

「謝る相手は私だけじゃない」

 

「はい」

 

「倉木美緒にも、藤崎茜にも、新井にも。それから、死んだ倉木にもだ」

 

佐伯は顔を上げる。

 

「はい」

 

千速は続ける。

 

「処分は受けろ。逃げるな」

 

「はい」

 

「白バイに戻れるかは分からない」

 

佐伯の目が揺れる。

 

「……はい」

 

「でも、警察官を続けるなら、今度は黙るな」

 

佐伯の表情が崩れた。

 

「はい」

 

千速は一歩近づいた。

 

「お前が見たこと、聞いたこと、怖かったこと。全部言え。恥ずかしくても、情けなくても、言え」

 

「はい」

 

「それができないなら、白バイには乗るな」

 

佐伯は涙を流しながら、もう一度頭を下げた。

 

「はい……」

 

押村は少し離れて、その姿を見ていた。

 

千速は佐伯を切り捨てなかった。

 

許したわけでもない。

 

ただ、逃げ道を塞ぎ、前へ進む道だけを残した。

 

それは、千速らしい厳しさだった。

 

その後、千速は新井の病室を訪ねた。

 

新井は退院が近いらしく、少しだけ顔色が良くなっていた。

 

ベッドの横には、第三交機の隊員たちからの見舞い品が置かれている。

 

果物。

お菓子。

なぜか大量のプリン。

 

千速がそれを見て眉をひそめる。

 

「何でプリンばっかなんだ」

 

新井は苦笑する。

 

「小隊長が前に開けてくれた話が広まって……」

 

「誰だ広めた奴」

 

「新田隊員です」

 

「あとで締める」

 

押村が静かに言う。

 

「見舞い品としては悪くないと思う」

 

千速が振り向く。

 

「そこじゃねぇ」

 

新井は小さく笑った。

 

その笑顔を見て、千速の表情も少しだけ柔らかくなる。

 

「退院、明後日だってな」

 

「はい。ただ、復帰まではまだかかります」

 

「焦るな」

 

「はい」

 

新井は少し真面目な顔になった。

 

「小隊長。犯人のこと、聞きました」

 

千速は椅子に座る。

 

「黒川のことか」

 

「はい。僕を襲ったのが黒川で、藤崎茜ではなかったことも」

 

「そうだ」

 

新井は包帯の巻かれた右腕を見た。

 

「正直、悔しいです」

 

千速は黙って聞いた。

 

「僕は、試されたんですよね。白バイ隊員なら避けられるだろうって」

 

押村が静かに言う。

 

「黒川はそう供述しています」

 

新井の拳が震える。

 

「腹が立ちます」

 

千速は短く言った。

 

「当たり前だ」

 

「でも、それより……怖かったです」

 

千速は少しだけ目を細める。

 

新井は続けた。

 

「襲われた時も怖かった。でも、あとで考えたらもっと怖くなりました。一歩間違えたら、歩道に突っ込んでいたかもしれない。自分が死ぬだけじゃなく、誰かを巻き込んだかもしれない」

 

押村は新井を見つめた。

 

新井は唇を噛む。

 

「白バイに戻るのが、少し怖いです」

 

千速はすぐには答えなかった。

 

新井は慌てるように言う。

 

「あ、でも辞めたいとかじゃなくて……ただ、その……」

 

「怖くていい」

 

新井が目を見開く。

 

千速は真っ直ぐ言った。

 

「怖くていいんだよ」

 

「小隊長……」

 

「怖くない奴の方が危ない。自分が何を背負って走ってるか分かってねぇからな」

 

千速は少しだけ声を柔らかくした。

 

「怖いって分かったなら、お前は前より慎重に走れる」

 

新井の目が潤む。

 

「戻れますかね」

 

「戻るかどうかは、お前が決めろ」

 

「はい」

 

「でも、戻るなら焦るな。怖さをごまかすな。ちゃんと言葉にしろ」

 

新井は涙をこらえながら頷いた。

 

「はい」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「あと、復帰したらまず洗車だ」

 

新井が驚く。

 

「洗車ですか」

 

「お前の白バイ、傷だらけで戻ってくるぞ。きっちり磨け」

 

新井は笑った。

 

少し泣きながら。

 

「はい。磨きます」

 

押村はその様子を見ていた。

 

白バイに戻れ、とは言わない。

 

戻るな、とも言わない。

 

自分で決めろ。

 

千速はいつも、厳しいようで、相手の足を奪わない。

 

押村は改めて思った。

 

彼女は、人を走らせるために、まず止まらせることができる人間なのだと。

 

夜。

 

千速と押村は病院を出て、駐車場を歩いていた。

 

春の夜風は少し冷たい。

 

千速は空を見上げ、短く息を吐いた。

 

「疲れた」

 

押村が隣で言う。

 

「珍しく素直だな」

 

「うるせぇ」

 

「でも、言ってくれてよかった」

 

千速は押村を見る。

 

「お前、本当にそういうところ変わったな」

 

「君に言われたから」

 

「私のせいかよ」

 

「いい意味で」

 

千速は少し笑った。

 

二人は並んで歩く。

 

事件の話をしない時間が、少しだけ流れた。

 

だが、完全に切り離せるほど、事件は軽くない。

 

千速はぽつりと言った。

 

「佐伯にも新井にも、偉そうなこと言ったけどさ」

 

「うん」

 

「私も黙ってたこと、あるんだよな」

 

押村は隣を見る。

 

千速は前を向いたまま続ける。

 

「研二が死んだ時も、陣平が死んだ時も。平気な顔して、泣かねぇで、周りに何も言わせなかった」

 

押村は静かに聞いていた。

 

「それで守った気になってた。自分のことも、周りのことも」

 

「はい」

 

「でも結局、押し込めただけだった」

 

押村は低く言った。

 

「今は、話してくれている」

 

千速は少し黙った。

 

「お前にな」

 

「はい」

 

「前なら絶対言わなかった」

 

「そうか」

 

「奏斗がしつこいからだ」

 

押村は真面目に頷く。

 

「必要なら、これからもしつこくする」

 

千速は吹き出した。

 

「宣言するなよ」

 

「大事なことだから」

 

千速は笑った後、少しだけ目を細めた。

 

「でも、ありがとな」

 

押村は千速を見る。

 

「どういたしまして」

 

千速は少し照れたように視線を逸らした。

 

そして、いつものように少し乱暴に言う。

 

「明日、第三交機で話す。隊員全員に」

 

「黙らないために?」

 

「ああ」

 

押村は頷いた。

 

「君なら伝えられる」

 

千速は小さく笑った。

 

「失敗したら慰めろよ」

 

「分かった」

 

「そこは“大丈夫だ”って言うところじゃねぇのか」

 

押村は少し考えた。

 

「大丈夫だ。でも、失敗したら慰める」

 

千速は一瞬黙り、それから笑った。

 

「百点」

 

押村は少しだけ表情を和らげた。

 

翌朝。

 

第三交通機動隊の詰所には、全隊員が集められていた。

 

新井はまだ入院中のため、オンラインで参加している。

 

佐伯もいた。

 

後ろの方に立ち、顔を上げている。

 

千速は隊員たちの前に立った。

 

いつものように腕を組んでいる。

 

だが、今日はいつもより少しだけ表情が硬い。

 

押村と横溝は、後方で見守っていた。

 

千速は全員を見渡した。

 

「今回の事件で、うちの隊員が襲われた」

 

詰所が静まり返る。

 

「新井は怪我をした。佐伯も狙われた。お前らにも不安を与えたと思う」

 

誰も声を出さない。

 

千速は続けた。

 

「事件の詳細は全部話せない。ただ、一つだけ言う」

 

千速の声が低く、はっきり響く。

 

「黙るな」

 

隊員たちの目が千速に向く。

 

「怖いこと。迷ったこと。見たこと。聞いたこと。自分に都合の悪いこと。誰かに迷惑がかかると思ったこと。全部、必要なら言え」

 

千速は佐伯を責めるような目では見なかった。

 

ただ、全員へ向けて言った。

 

「黙れば守れると思う時がある。言わなければ誰かを傷つけないと思う時がある。でも、その沈黙が、もっと大きな事故になることがある」

 

新井が画面の向こうで真剣に聞いている。

 

千速は白いヘルメットを持ち上げた。

 

「私たちは、白バイ隊員だ。速く走るだけが仕事じゃない。止めるのが仕事だ。危険を止める。事故を止める。時には、自分の弱さも止める」

 

千速は一人一人の顔を見た。

 

「怖いなら怖いと言え。迷うなら相談しろ。抱え込むな。私も聞く。怒る時は怒る。でも、聞く前に切り捨てたりしねぇ」

 

佐伯の目が潤んだ。

 

千速は最後に言った。

 

「白いヘルメットは軽くねぇ。でも、一人で背負うもんでもない。以上」

 

短い話だった。

 

けれど、詰所にはしばらく沈黙が残った。

 

やがて、新井の画面越しの声が聞こえた。

 

『小隊長』

 

千速が画面を見る。

 

「何だ」

 

『復帰したら、まず洗車します』

 

隊員たちの間に小さな笑いが広がった。

 

千速は少しだけ口元を緩める。

 

「当然だ」

 

新田隊員が手を上げた。

 

「小隊長、プリンの差し入れは継続でいいですか」

 

千速が睨む。

 

「お前か、広めたの」

 

新田が固まる。

 

「え、いや、その」

 

詰所に笑いが起きた。

 

佐伯も、小さく笑っていた。

 

それでいい。

 

事件の傷は消えない。

 

処分も、責任も、まだ残る。

 

でも、隊はまた少しずつ走り出せる。

 

黙らずに。

 

一人で背負わずに。

 

その日の午後。

 

押村は千速と並んで、第三交機の車庫を出た。

 

「いい話だった」

 

千速は横目で見る。

 

「本当か?」

 

「本当だ」

 

「ならよかった」

 

押村は少しだけ笑った。

 

「失敗していないから、慰めは不要だな」

 

千速は立ち止まる。

 

「そこ、覚えてたのかよ」

 

「約束だから」

 

千速は照れたように頭をかく。

 

「真面目だな、ほんと」

 

「はい」

 

千速は少しだけ笑った後、遠くを見る。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「次で、この事件を終わらせよう」

 

押村は頷いた。

 

「ああ」

 

残るのは、最後の報告。

 

倉木怜央の墓前。

倉木美緒への結論。

新井の復帰への一歩。

佐伯の処分。

そして、千速自身がこの事件に区切りをつけること。

 

三年前のカーブから始まった嘘は、ようやく終点へ近づいていた。

 

白バイは、また走る。

 

けれど今度は、誰かを追い詰めるためではない。

 

止まるべき場所で、ちゃんと止まるために。

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