事件の最終報告書がまとまったのは、数日後のことだった。
神奈川県警捜査一課の会議室には、長く続いた事件の資料が整然と積まれている。
黒川直人。
藤崎啓吾。
藤崎茜。
倉木美緒。
佐伯巡査部長。
新井拓也。
そして、倉木怜央。
名前の一つ一つに、誰かの罪と後悔が重なっていた。
押村奏斗は、最後の報告書に目を通していた。
横溝重悟は腕を組み、窓際に立っている。
萩原千速は椅子に座り、白いヘルメットを膝の上に置いていた。
「黒川直人は、倉木怜央のバイクに細工したことを正式に認めた」
横溝が低い声で言った。
「新井への襲撃も、罠の設置も、ほぼ固まった。藤崎啓吾は三年前の呼び出しと証拠隠し。藤崎茜は佐伯への襲撃。倉木美緒は茜への接触と封筒の提供。佐伯は三年前の沈黙」
押村は頷いた。
「はい。すべて検察へ送致する準備が整いました」
千速は膝の上のヘルメットを見下ろす。
「これで、終わりか」
横溝が少しだけ目を細めた。
「事件としてはな」
押村は静かに言った。
「ただ、関係者にとっては、ここから始まることもあります」
千速は顔を上げる。
「そうだな」
黒川の逮捕で真相は明らかになった。
だが、それで倉木怜央が戻るわけではない。
新井の怪我が消えるわけでもない。
佐伯の沈黙がなかったことになるわけでもない。
それぞれが、それぞれの場所で向き合わなければならない。
横溝が資料を閉じた。
「倉木美緒は?」
押村が答える。
「任意の聴取にはすべて応じています。藤崎茜を刺激し、事件の引き金を引いた責任はあります。ただ、直接の襲撃指示は確認されていません」
千速が静かに言う。
「それでも、あいつは背負うだろうな」
「はい」
「兄の死の真相を知った。自分のしたことも知った。簡単には終わらねぇ」
押村は千速を見る。
「今日、会うんだな」
「ああ」
横溝が眉を上げる。
「墓参りか」
千速は頷いた。
「倉木怜央の墓に行く。美緒から頼まれた」
横溝は少し黙った。
「押村も行くのか」
「はい」
千速は立ち上がった。
「重悟も来るか?」
横溝は腕を組み直し、少し顔をしかめた。
「俺はいい。捜査一課としてやることが残ってる」
「そうか」
「ただ、千速」
「何だ」
横溝は真面目な顔で言った。
「一人で背負うなよ」
千速は一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく笑う。
「お前までそれ言うのか」
「悪いか」
「いや」
千速はヘルメットを抱え直した。
「ありがとな、重悟」
横溝は視線を逸らす。
「礼を言われるほどのことじゃねぇ」
押村はその様子を見て、少しだけ表情を緩めた。
倉木怜央の墓は、海の見える小高い墓地にあった。
春の風が、墓石の間を抜けていく。
遠くには、穏やかな海が見えた。
倉木美緒は、墓の前に立っていた。
黒い服を着て、両手で花束を抱えている。
千速と押村が近づくと、美緒は静かに頭を下げた。
「来てくださって、ありがとうございます」
千速は短く答える。
「頼まれたからな」
美緒は少しだけ笑った。
「萩原さんらしいですね」
千速は墓石を見る。
そこには、倉木怜央の名前が刻まれていた。
五年前、千速が追った男。
三年前、止まろうとして止まれなかった男。
美緒は花を供えた。
「兄のこと、最後まで調べてくださってありがとうございました」
押村が静かに言う。
「我々がもっと早く向き合うべき事件でした」
美緒は首を横に振った。
「でも、私も間違えました」
その声は震えていたが、逃げてはいなかった。
「藤崎茜さんを追い詰めた。新井さんを傷つけるきっかけを作った。真実を知りたかったのに、そのために誰かが傷つくかもしれないことから目を逸らしました」
千速は黙って聞いていた。
美緒は続ける。
「兄が悪いことをしていたのは分かっています。違法レースをして、人を危険に晒した。それでも、兄は死んでいい人じゃなかった」
「そうだな」
千速は静かに答えた。
美緒は涙を浮かべる。
「でも、新井さんも、佐伯さんも、傷ついていい人じゃなかった」
「そうだ」
美緒は墓石の前で深く頭を下げた。
「兄さん。ごめん」
その言葉は、誰に向けたものでもあり、誰にも届かないものでもあった。
千速は、白いヘルメットを胸の前に抱えたまま、墓石を見つめる。
「倉木怜央」
美緒が顔を上げる。
押村も千速を見る。
千速は墓石に向かって言った。
「五年前、私はお前を追って、途中で止まった。あの判断は今でも間違ってなかったと思ってる」
風が吹く。
千速の髪が揺れる。
「でも、あの後のお前がどうなったか、私は知らなかった。知ろうともしなかった」
押村は何も言わなかった。
千速は続けた。
「お前は最後、止まろうとしたんだな」
美緒の目から涙が落ちる。
「それが分かった。だから、私はそれを忘れない」
千速は少しだけ頭を下げた。
「今度こそ、ちゃんと止める。危ないものも、嘘も、沈黙も。できる限りな」
美緒は泣きながら頷いた。
押村は静かに墓前へ手を合わせた。
倉木怜央の死は、やっと単独事故ではなくなった。
それは救いではない。
けれど、嘘のまま眠らせるよりは、少しだけましな結末だった。
数日後。
第三交通機動隊の車庫に、新井拓也の白バイが戻ってきた。
修理を終えた白い車体は、以前と同じように輝いている。
だが、新井はその前でしばらく立ち尽くしていた。
右腕の包帯は取れている。
まだ完全復帰ではないが、リハビリを兼ねて短時間の勤務に戻ることになっていた。
千速は少し離れた場所から見ていた。
「乗るのが怖いか」
新井は振り向く。
「……はい」
正直な答えだった。
千速は頷く。
「なら、まず磨け」
新井は少し驚いた顔をした後、笑った。
「はい」
新井はバケツとクロスを持ち、ゆっくり白バイを拭き始めた。
傷は修理されている。
けれど、本人の中の傷はまだ残っている。
千速はそれを急かさなかった。
しばらくして、佐伯が車庫に入ってきた。
周囲の隊員たちが一瞬だけ視線を向ける。
佐伯は静かに千速の前まで来て、頭を下げた。
「小隊長。処分が決まりました」
千速は表情を変えずに聞いた。
「そうか」
「しばらく現場を離れます。再教育と、処分期間中の配置換えです」
「白バイには」
佐伯は少しだけ唇を噛んだ。
「今は、戻れません」
新井が手を止める。
他の隊員たちも黙っていた。
佐伯は千速に向かって深く頭を下げる。
「申し訳ありませんでした」
千速はすぐには答えなかった。
やがて、低く言う。
「謝るだけで終わるな」
佐伯は顔を上げる。
千速はまっすぐ佐伯を見ていた。
「お前が戻るかどうかは、これからのお前次第だ。白バイに戻れなくても、警察官を続けるなら、今度は黙るな」
佐伯の目が揺れる。
「はい」
「それと」
「はい」
千速は少しだけ目を細めた。
「新井の白バイ、磨くの手伝え」
新井が驚く。
「小隊長?」
佐伯も目を見開いた。
千速は腕を組む。
「何だ。不満か」
佐伯はすぐに首を振る。
「いえ」
新井も少し戸惑いながら笑った。
「お願いします、佐伯さん」
佐伯はクロスを受け取り、新井の隣に立った。
二人は黙って白バイを磨き始める。
その姿を、隊員たちは何も言わずに見ていた。
許すわけではない。
なかったことにするわけでもない。
けれど、同じ車体を磨くことから始めてもいい。
千速はそう思った。
車庫の入口に、押村が立っていた。
仕事帰りなのか、スーツ姿だった。
千速が気づいて近づく。
「何しに来たんだ」
「近くまで来たので」
「嘘つけ。わざわざ来たんだろ」
押村は少し間を置いた。
「はい」
千速は小さく笑った。
「正直でよろしい」
押村は車庫の中を見る。
「いい光景だな」
「まだ始まったばかりだけどな」
「それでも」
千速は頷いた。
「そうだな」
その夜。
事件の打ち上げというほど明るいものではなかったが、押村、千速、横溝の三人は小さな居酒屋に集まった。
重い事件を終えた後の、区切りの食事だった。
横溝はジョッキを持ち上げる。
「とりあえず、お疲れ」
千速もグラスを上げる。
「お疲れ」
押村も静かに続く。
「お疲れさまでした」
三人は軽くグラスを合わせた。
しばらくは、事件の細かい話ではなく、くだらない話が続いた。
新井に届いた大量のプリン。
佐伯が洗車中に水をかぶったこと。
横溝が第三交機の隊員たちに妙に怖がられていること。
「重悟は見た目が怖いんだよ」
千速が言うと、横溝が眉を吊り上げた。
「お前に言われたくねぇ」
「私は美人だからいいんだよ」
「自分で言うな」
押村が真面目に言う。
「千速が美人なのは事実です」
千速が飲み物を吹きかけた。
横溝が固まる。
「押村、お前……そういうの普通に言うようになったな」
押村は首を傾げる。
「事実を言っただけですが」
千速は赤い顔で睨む。
「場所を考えろ、奏斗」
「すまない」
横溝は呆れたように笑った。
「お前ら、付き合い始めた頃より面白くなってんな」
千速がすぐ言い返す。
「うるせぇ、重悟」
そのやり取りに、少しだけ日常が戻ってきた気がした。
やがて、横溝は真面目な顔になる。
「千速」
「何だ」
「今回、お前が隊に話したこと、捜査一課でも使わせてもらう」
千速が少し驚く。
「黙るな、ってやつか」
「ああ」
横溝は押村を見る。
「こいつにも必要だしな」
押村は箸を止めた。
「俺ですか」
千速が即座に頷く。
「必要だな」
「そうか」
押村は少し考え込む。
横溝がため息をつく。
「そこで真面目に受け取るのが、お前のいいところで悪いところだ」
千速は笑った。
「でも、そこが奏斗だからな」
押村は千速を見る。
「褒めているのか」
「褒めてる」
「そうか」
押村の表情が少しだけ柔らかくなる。
横溝はそれを見て、わざとらしく咳払いした。
「はいはい。職場の上司の前でやるな」
千速が睨む。
「だからやってねぇって」
横溝は笑いながら酒を飲んだ。
食事を終え、店の外に出ると、夜風が少し冷たかった。
横溝は先に帰り、押村と千速は並んで駅へ向かって歩く。
街灯が二人の影を伸ばしている。
しばらく無言だった。
けれど、その無言は重くなかった。
千速がぽつりと言う。
「終わったな」
押村は頷いた。
「ああ」
「でも、完全にすっきりはしねぇ」
「そうだな」
「倉木は戻らない。新井の怖さも消えない。佐伯の処分も残る。美緒も、茜も、これからだ」
「はい」
千速は空を見上げた。
「事件が終わっても、人は続くんだな」
押村は静かに答えた。
「そうだな」
千速は少しだけ笑う。
「刑事っぽい答え」
「君も白バイ隊員らしいことを言っていた」
「何を」
「白バイは、止まるために走る」
千速は少し照れたように顔を逸らした。
「忘れろ」
「忘れない」
「だろうな」
二人は歩き続ける。
やがて、千速が押村の手を軽く握った。
押村は少し驚いたように見る。
千速は前を向いたまま言った。
「何だよ」
「いや」
「嫌なら離すぞ」
「嫌じゃない」
押村はそう言って、握り返した。
千速は小さく笑った。
「奏斗」
「何だ」
「私も、黙らないようにする」
押村は千速を見る。
「うん」
「つらい時も、腹立つ時も、昔のこと思い出した時も。全部は無理かもしれないけど、黙って抱え込むのはやめる」
押村は静かに頷いた。
「俺もそうする」
「お前は特にだぞ」
「はい」
千速は少し笑った。
「返事はいいんだよな、お前」
「実行する」
「ならよし」
駅へ向かう道の先で、遠くに白バイのサイレンが聞こえた。
二人は自然とそちらを見る。
誰かが、今も走っている。
危険を止めるために。
誰かを守るために。
止まるべき場所で、ちゃんと止まるために。
千速は静かに言った。
「白バイはまた走る」
押村はその横顔を見て、頷いた。
「君も」
千速は少しだけ口元を上げる。
「ああ。走るよ」
その手は、もう一人ではなかった。
三年前のカーブに残された嘘は、ようやく終わった。
黒いバイクの影は消えた。
そして、白いヘルメットはまた朝を迎える。
白バイはまた走る。
今度は、誰かを追い詰めるためではなく。
誰かが無事に帰れる道を、守るために。