神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

46 / 73
第46話 白バイはまた走る

事件の最終報告書がまとまったのは、数日後のことだった。

 

神奈川県警捜査一課の会議室には、長く続いた事件の資料が整然と積まれている。

 

黒川直人。

藤崎啓吾。

藤崎茜。

倉木美緒。

佐伯巡査部長。

新井拓也。

そして、倉木怜央。

 

名前の一つ一つに、誰かの罪と後悔が重なっていた。

 

押村奏斗は、最後の報告書に目を通していた。

 

横溝重悟は腕を組み、窓際に立っている。

萩原千速は椅子に座り、白いヘルメットを膝の上に置いていた。

 

「黒川直人は、倉木怜央のバイクに細工したことを正式に認めた」

 

横溝が低い声で言った。

 

「新井への襲撃も、罠の設置も、ほぼ固まった。藤崎啓吾は三年前の呼び出しと証拠隠し。藤崎茜は佐伯への襲撃。倉木美緒は茜への接触と封筒の提供。佐伯は三年前の沈黙」

 

押村は頷いた。

 

「はい。すべて検察へ送致する準備が整いました」

 

千速は膝の上のヘルメットを見下ろす。

 

「これで、終わりか」

 

横溝が少しだけ目を細めた。

 

「事件としてはな」

 

押村は静かに言った。

 

「ただ、関係者にとっては、ここから始まることもあります」

 

千速は顔を上げる。

 

「そうだな」

 

黒川の逮捕で真相は明らかになった。

だが、それで倉木怜央が戻るわけではない。

新井の怪我が消えるわけでもない。

佐伯の沈黙がなかったことになるわけでもない。

 

それぞれが、それぞれの場所で向き合わなければならない。

 

横溝が資料を閉じた。

 

「倉木美緒は?」

 

押村が答える。

 

「任意の聴取にはすべて応じています。藤崎茜を刺激し、事件の引き金を引いた責任はあります。ただ、直接の襲撃指示は確認されていません」

 

千速が静かに言う。

 

「それでも、あいつは背負うだろうな」

 

「はい」

 

「兄の死の真相を知った。自分のしたことも知った。簡単には終わらねぇ」

 

押村は千速を見る。

 

「今日、会うんだな」

 

「ああ」

 

横溝が眉を上げる。

 

「墓参りか」

 

千速は頷いた。

 

「倉木怜央の墓に行く。美緒から頼まれた」

 

横溝は少し黙った。

 

「押村も行くのか」

 

「はい」

 

千速は立ち上がった。

 

「重悟も来るか?」

 

横溝は腕を組み直し、少し顔をしかめた。

 

「俺はいい。捜査一課としてやることが残ってる」

 

「そうか」

 

「ただ、千速」

 

「何だ」

 

横溝は真面目な顔で言った。

 

「一人で背負うなよ」

 

千速は一瞬だけ目を丸くした。

 

それから、小さく笑う。

 

「お前までそれ言うのか」

 

「悪いか」

 

「いや」

 

千速はヘルメットを抱え直した。

 

「ありがとな、重悟」

 

横溝は視線を逸らす。

 

「礼を言われるほどのことじゃねぇ」

 

押村はその様子を見て、少しだけ表情を緩めた。

 

倉木怜央の墓は、海の見える小高い墓地にあった。

 

春の風が、墓石の間を抜けていく。

遠くには、穏やかな海が見えた。

 

倉木美緒は、墓の前に立っていた。

 

黒い服を着て、両手で花束を抱えている。

 

千速と押村が近づくと、美緒は静かに頭を下げた。

 

「来てくださって、ありがとうございます」

 

千速は短く答える。

 

「頼まれたからな」

 

美緒は少しだけ笑った。

 

「萩原さんらしいですね」

 

千速は墓石を見る。

 

そこには、倉木怜央の名前が刻まれていた。

 

五年前、千速が追った男。

三年前、止まろうとして止まれなかった男。

 

美緒は花を供えた。

 

「兄のこと、最後まで調べてくださってありがとうございました」

 

押村が静かに言う。

 

「我々がもっと早く向き合うべき事件でした」

 

美緒は首を横に振った。

 

「でも、私も間違えました」

 

その声は震えていたが、逃げてはいなかった。

 

「藤崎茜さんを追い詰めた。新井さんを傷つけるきっかけを作った。真実を知りたかったのに、そのために誰かが傷つくかもしれないことから目を逸らしました」

 

千速は黙って聞いていた。

 

美緒は続ける。

 

「兄が悪いことをしていたのは分かっています。違法レースをして、人を危険に晒した。それでも、兄は死んでいい人じゃなかった」

 

「そうだな」

 

千速は静かに答えた。

 

美緒は涙を浮かべる。

 

「でも、新井さんも、佐伯さんも、傷ついていい人じゃなかった」

 

「そうだ」

 

美緒は墓石の前で深く頭を下げた。

 

「兄さん。ごめん」

 

その言葉は、誰に向けたものでもあり、誰にも届かないものでもあった。

 

千速は、白いヘルメットを胸の前に抱えたまま、墓石を見つめる。

 

「倉木怜央」

 

美緒が顔を上げる。

 

押村も千速を見る。

 

千速は墓石に向かって言った。

 

「五年前、私はお前を追って、途中で止まった。あの判断は今でも間違ってなかったと思ってる」

 

風が吹く。

 

千速の髪が揺れる。

 

「でも、あの後のお前がどうなったか、私は知らなかった。知ろうともしなかった」

 

押村は何も言わなかった。

 

千速は続けた。

 

「お前は最後、止まろうとしたんだな」

 

美緒の目から涙が落ちる。

 

「それが分かった。だから、私はそれを忘れない」

 

千速は少しだけ頭を下げた。

 

「今度こそ、ちゃんと止める。危ないものも、嘘も、沈黙も。できる限りな」

 

美緒は泣きながら頷いた。

 

押村は静かに墓前へ手を合わせた。

 

倉木怜央の死は、やっと単独事故ではなくなった。

 

それは救いではない。

 

けれど、嘘のまま眠らせるよりは、少しだけましな結末だった。

 

数日後。

 

第三交通機動隊の車庫に、新井拓也の白バイが戻ってきた。

 

修理を終えた白い車体は、以前と同じように輝いている。

 

だが、新井はその前でしばらく立ち尽くしていた。

 

右腕の包帯は取れている。

まだ完全復帰ではないが、リハビリを兼ねて短時間の勤務に戻ることになっていた。

 

千速は少し離れた場所から見ていた。

 

「乗るのが怖いか」

 

新井は振り向く。

 

「……はい」

 

正直な答えだった。

 

千速は頷く。

 

「なら、まず磨け」

 

新井は少し驚いた顔をした後、笑った。

 

「はい」

 

新井はバケツとクロスを持ち、ゆっくり白バイを拭き始めた。

 

傷は修理されている。

 

けれど、本人の中の傷はまだ残っている。

 

千速はそれを急かさなかった。

 

しばらくして、佐伯が車庫に入ってきた。

 

周囲の隊員たちが一瞬だけ視線を向ける。

 

佐伯は静かに千速の前まで来て、頭を下げた。

 

「小隊長。処分が決まりました」

 

千速は表情を変えずに聞いた。

 

「そうか」

 

「しばらく現場を離れます。再教育と、処分期間中の配置換えです」

 

「白バイには」

 

佐伯は少しだけ唇を噛んだ。

 

「今は、戻れません」

 

新井が手を止める。

 

他の隊員たちも黙っていた。

 

佐伯は千速に向かって深く頭を下げる。

 

「申し訳ありませんでした」

 

千速はすぐには答えなかった。

 

やがて、低く言う。

 

「謝るだけで終わるな」

 

佐伯は顔を上げる。

 

千速はまっすぐ佐伯を見ていた。

 

「お前が戻るかどうかは、これからのお前次第だ。白バイに戻れなくても、警察官を続けるなら、今度は黙るな」

 

佐伯の目が揺れる。

 

「はい」

 

「それと」

 

「はい」

 

千速は少しだけ目を細めた。

 

「新井の白バイ、磨くの手伝え」

 

新井が驚く。

 

「小隊長?」

 

佐伯も目を見開いた。

 

千速は腕を組む。

 

「何だ。不満か」

 

佐伯はすぐに首を振る。

 

「いえ」

 

新井も少し戸惑いながら笑った。

 

「お願いします、佐伯さん」

 

佐伯はクロスを受け取り、新井の隣に立った。

 

二人は黙って白バイを磨き始める。

 

その姿を、隊員たちは何も言わずに見ていた。

 

許すわけではない。

なかったことにするわけでもない。

 

けれど、同じ車体を磨くことから始めてもいい。

 

千速はそう思った。

 

車庫の入口に、押村が立っていた。

 

仕事帰りなのか、スーツ姿だった。

 

千速が気づいて近づく。

 

「何しに来たんだ」

 

「近くまで来たので」

 

「嘘つけ。わざわざ来たんだろ」

 

押村は少し間を置いた。

 

「はい」

 

千速は小さく笑った。

 

「正直でよろしい」

 

押村は車庫の中を見る。

 

「いい光景だな」

 

「まだ始まったばかりだけどな」

 

「それでも」

 

千速は頷いた。

 

「そうだな」

 

その夜。

 

事件の打ち上げというほど明るいものではなかったが、押村、千速、横溝の三人は小さな居酒屋に集まった。

 

重い事件を終えた後の、区切りの食事だった。

 

横溝はジョッキを持ち上げる。

 

「とりあえず、お疲れ」

 

千速もグラスを上げる。

 

「お疲れ」

 

押村も静かに続く。

 

「お疲れさまでした」

 

三人は軽くグラスを合わせた。

 

しばらくは、事件の細かい話ではなく、くだらない話が続いた。

 

新井に届いた大量のプリン。

佐伯が洗車中に水をかぶったこと。

横溝が第三交機の隊員たちに妙に怖がられていること。

 

「重悟は見た目が怖いんだよ」

 

千速が言うと、横溝が眉を吊り上げた。

 

「お前に言われたくねぇ」

 

「私は美人だからいいんだよ」

 

「自分で言うな」

 

押村が真面目に言う。

 

「千速が美人なのは事実です」

 

千速が飲み物を吹きかけた。

 

横溝が固まる。

 

「押村、お前……そういうの普通に言うようになったな」

 

押村は首を傾げる。

 

「事実を言っただけですが」

 

千速は赤い顔で睨む。

 

「場所を考えろ、奏斗」

 

「すまない」

 

横溝は呆れたように笑った。

 

「お前ら、付き合い始めた頃より面白くなってんな」

 

千速がすぐ言い返す。

 

「うるせぇ、重悟」

 

そのやり取りに、少しだけ日常が戻ってきた気がした。

 

やがて、横溝は真面目な顔になる。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「今回、お前が隊に話したこと、捜査一課でも使わせてもらう」

 

千速が少し驚く。

 

「黙るな、ってやつか」

 

「ああ」

 

横溝は押村を見る。

 

「こいつにも必要だしな」

 

押村は箸を止めた。

 

「俺ですか」

 

千速が即座に頷く。

 

「必要だな」

 

「そうか」

 

押村は少し考え込む。

 

横溝がため息をつく。

 

「そこで真面目に受け取るのが、お前のいいところで悪いところだ」

 

千速は笑った。

 

「でも、そこが奏斗だからな」

 

押村は千速を見る。

 

「褒めているのか」

 

「褒めてる」

 

「そうか」

 

押村の表情が少しだけ柔らかくなる。

 

横溝はそれを見て、わざとらしく咳払いした。

 

「はいはい。職場の上司の前でやるな」

 

千速が睨む。

 

「だからやってねぇって」

 

横溝は笑いながら酒を飲んだ。

 

食事を終え、店の外に出ると、夜風が少し冷たかった。

 

横溝は先に帰り、押村と千速は並んで駅へ向かって歩く。

 

街灯が二人の影を伸ばしている。

 

しばらく無言だった。

 

けれど、その無言は重くなかった。

 

千速がぽつりと言う。

 

「終わったな」

 

押村は頷いた。

 

「ああ」

 

「でも、完全にすっきりはしねぇ」

 

「そうだな」

 

「倉木は戻らない。新井の怖さも消えない。佐伯の処分も残る。美緒も、茜も、これからだ」

 

「はい」

 

千速は空を見上げた。

 

「事件が終わっても、人は続くんだな」

 

押村は静かに答えた。

 

「そうだな」

 

千速は少しだけ笑う。

 

「刑事っぽい答え」

 

「君も白バイ隊員らしいことを言っていた」

 

「何を」

 

「白バイは、止まるために走る」

 

千速は少し照れたように顔を逸らした。

 

「忘れろ」

 

「忘れない」

 

「だろうな」

 

二人は歩き続ける。

 

やがて、千速が押村の手を軽く握った。

 

押村は少し驚いたように見る。

 

千速は前を向いたまま言った。

 

「何だよ」

 

「いや」

 

「嫌なら離すぞ」

 

「嫌じゃない」

 

押村はそう言って、握り返した。

 

千速は小さく笑った。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「私も、黙らないようにする」

 

押村は千速を見る。

 

「うん」

 

「つらい時も、腹立つ時も、昔のこと思い出した時も。全部は無理かもしれないけど、黙って抱え込むのはやめる」

 

押村は静かに頷いた。

 

「俺もそうする」

 

「お前は特にだぞ」

 

「はい」

 

千速は少し笑った。

 

「返事はいいんだよな、お前」

 

「実行する」

 

「ならよし」

 

駅へ向かう道の先で、遠くに白バイのサイレンが聞こえた。

 

二人は自然とそちらを見る。

 

誰かが、今も走っている。

 

危険を止めるために。

誰かを守るために。

止まるべき場所で、ちゃんと止まるために。

 

千速は静かに言った。

 

「白バイはまた走る」

 

押村はその横顔を見て、頷いた。

 

「君も」

 

千速は少しだけ口元を上げる。

 

「ああ。走るよ」

 

その手は、もう一人ではなかった。

 

三年前のカーブに残された嘘は、ようやく終わった。

 

黒いバイクの影は消えた。

 

そして、白いヘルメットはまた朝を迎える。

 

白バイはまた走る。

 

今度は、誰かを追い詰めるためではなく。

 

誰かが無事に帰れる道を、守るために。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。