神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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事件も完結したので、計2話でコメディーを書こうと思います。


第47話 新人刑事と育成担当

神奈川県警捜査一課。

 

その日の朝、刑事部屋にはどこか落ち着かない空気が漂っていた。

 

理由は一つ。

 

村上刑事の異動だった。

 

「短い間でしたが、お世話になりました」

 

村上が頭を下げると、周囲から拍手が起きた。

 

横溝重悟は腕を組んだまま、いつもの鋭い目で村上を見ている。

 

「向こうでもちゃんとやれよ」

 

「はい、横溝警部」

 

「変に気を抜くな。お前は詰めが甘い時がある」

 

「最後まで説教ですか」

 

村上が苦笑すると、周囲から小さな笑いが漏れた。

 

押村奏斗は村上の前に立ち、静かに言った。

 

「村上。向こうでも無理はするな」

 

村上は少し驚いたように押村を見る。

 

「押村警部補に言われると、説得力があるような、ないような」

 

横溝が横から言う。

 

「ないな。こいつが一番抱え込む」

 

「警部」

 

押村が困った顔をする。

 

村上は笑って、もう一度頭を下げた。

 

「押村警部補にも、横溝警部にも、本当にお世話になりました」

 

「元気でな」

 

押村がそう言うと、村上は少しだけ目を潤ませた。

 

その後、村上は荷物を持って刑事部屋を出ていった。

 

空いた机が一つ。

 

その寂しさを感じる間もなく、扉が開いた。

 

「本日付で配属になりました!」

 

明るい声が響いた。

 

入ってきたのは、スーツ姿の若い女性だった。

 

背筋が伸びていて、表情ははきはきしている。

髪は肩の少し上で揃えられ、目には強い意志がある。

 

「神奈川県警捜査一課に配属されました、三森沙月巡査部長です。よろしくお願いします!」

 

刑事部屋に拍手が起きる。

 

横溝が前に出た。

 

「横溝だ。こっちは押村警部補」

 

三森沙月は押村を見るなり、ぱっと表情を明るくした。

 

「押村警部補ですね。お噂は聞いています」

 

押村は少しだけ首を傾げる。

 

「噂?」

 

「はい。冷静で、現場での判断が早くて、捜査書類も正確で、しかも取り調べが丁寧だって」

 

横溝が鼻で笑う。

 

「ずいぶん盛られてるな」

 

押村は静かに言った。

 

「そこまでではありません」

 

三森は真剣な目で首を横に振る。

 

「いえ、私、押村警部補から学べるのを楽しみにしていました」

 

その瞬間、横溝の目が押村へ向いた。

 

押村は少し戸惑っている。

 

横溝は面白そうに口角を上げた。

 

「押村」

 

「はい」

 

「三森の育成担当、お前な」

 

押村は一瞬固まった。

 

「俺ですか」

 

「そうだ」

 

「横溝警部の方が適任では」

 

「俺がやると新人が三日で胃を壊す」

 

周囲の刑事たちが小さく笑う。

 

三森は慌てて言った。

 

「いえ! 横溝警部にもご指導いただきたいです!」

 

横溝は鋭い目で見る。

 

「本気で言ってるか?」

 

「はい!」

 

「なら根性はありそうだな」

 

押村は小さく息を吐いた。

 

「分かりました。三森巡査部長、よろしくお願いします」

 

「はい! よろしくお願いします、押村警部補!」

 

三森は嬉しそうに頭を下げた。

 

押村はいつものように淡々としていた。

 

だが、横溝はその様子を見て、どこか嫌な予感を覚えていた。

 

というより。

 

これは絶対に面倒なことになる。

 

主に、萩原千速方面で。

 

その日の昼過ぎ。

 

第三交通機動隊の詰所で、萩原千速は報告書を確認していた。

 

新井が復帰に向けたリハビリ勤務を始め、隊の空気も少しずつ戻ってきている。

 

そこへ、捜査一課から書類を届けに来た若い刑事が、何気なく言った。

 

「そういえば、今日から捜査一課に女性の新人さんが来ましたよ」

 

千速は書類から顔を上げた。

 

「女性の新人?」

 

「はい。三森沙月巡査部長って方です」

 

「へえ」

 

千速は特に気にしないような声を出した。

 

だが、手に持っていたペンが止まっている。

 

若い刑事は続けた。

 

「しかも、育成担当が押村警部補になったみたいで」

 

ペン先が、紙の上でぴたりと止まった。

 

「……奏斗が?」

 

「はい。何か、三森さんも押村警部補を尊敬してるみたいでしたよ。目を輝かせてました」

 

千速の眉がほんの少し動く。

 

「目を輝かせて?」

 

「はい。押村警部補から学べて嬉しいって」

 

「ふうん」

 

千速は書類へ視線を戻した。

 

「それで?」

 

「それだけです」

 

「そうか」

 

声は普通だった。

 

普通すぎた。

 

若い刑事は本能的に何かを察し、そそくさと頭を下げた。

 

「では、失礼します!」

 

刑事が出ていくと、新井が隣の机からそっと千速を見た。

 

「小隊長」

 

「何だ」

 

「ペン、折れそうです」

 

千速は自分の手元を見た。

 

確かに、ペンが少ししなっている。

 

「ああ」

 

千速は無表情でペンを置いた。

 

新井は慎重に言う。

 

「押村警部補なら、大丈夫じゃないですか」

 

千速の目が新井へ向く。

 

「私は何も言ってねぇぞ」

 

「はい」

 

「何も気にしてねぇ」

 

「はい」

 

「新人の女刑事が奏斗の育成担当になったからって、別にどうとも思ってねぇ」

 

新井は口を閉じた。

 

言っている。

 

ものすごく言っている。

 

新井は無難に頷いた。

 

「そうですね」

 

千速は書類へ目を落とす。

 

しかし、文字が頭に入ってこない。

 

奏斗が新人の育成担当。

 

女性の新人。

 

押村警部補から学べるのを楽しみにしていた。

 

目を輝かせていた。

 

「……ふうん」

 

千速は小さく呟いた。

 

その声に、詰所の空気が少し冷えた。

 

夕方。

 

押村は三森を連れて、事件資料の整理をしていた。

 

「現場に出る前に、まず資料を読む力をつける必要があります」

 

「はい」

 

「供述調書、鑑識資料、防犯カメラ映像、通話履歴。どれも単体で見てはいけません。必ず時間軸に置いてください」

 

「時間軸ですね」

 

三森は熱心にメモを取っている。

 

押村はそのノートを見て、少し頷いた。

 

「書くのは早いな」

 

「ありがとうございます!」

 

三森は嬉しそうに笑った。

 

「押村警部補、説明がすごく分かりやすいです」

 

「そうか」

 

「はい。もっと怖い方かと思っていました」

 

「怖い?」

 

「無口で近寄りがたいって聞いていたので」

 

横溝が遠くから言う。

 

「間違ってねぇな」

 

押村は横溝を見る。

 

「警部」

 

三森は楽しそうに笑った。

 

「でも、実際はすごく丁寧です」

 

「必要なことを説明しているだけです」

 

「そういうところも勉強になります」

 

押村はどう返せばいいか迷い、結局軽く頷いた。

 

その時、刑事部屋の入口に千速が現れた。

 

交通機動隊の制服姿。

 

腕を組み、いつものように堂々と立っている。

 

「重悟、いるか」

 

横溝が顔を上げる。

 

「いるぞ。何だ」

 

「この前の事故関係の確認だ」

 

「今行く」

 

千速は横溝の方へ歩きかけた。

 

だが、その視線が押村と三森で止まる。

 

三森はすぐに立ち上がった。

 

「お疲れさまです!」

 

千速は三森を見る。

 

「お疲れ」

 

三森は明るく頭を下げた。

 

「本日から捜査一課に配属されました、三森沙月です!」

 

「萩原千速。第三交通機動隊」

 

「萩原警部補ですね! 白バイ隊員の方ですよね。すごく格好いいです!」

 

千速は少し意外そうに目を細めた。

 

「そうか」

 

「はい! 私、白バイ隊員の方って憧れます」

 

「へえ」

 

横溝が後ろで頭を抱えた。

 

押村は何も気づいていない様子で言った。

 

「三森巡査部長。萩原警部補は現場判断が非常に正確です。交通事案の時は、彼女の意見を聞くといい」

 

三森の目がさらに輝く。

 

「はい! 萩原警部補にもぜひ色々教えていただきたいです!」

 

千速は押村を見た。

 

「奏斗」

 

押村が顔を上げる。

 

「何だ」

 

三森が少し驚いたように二人を見る。

 

「奏斗……?」

 

千速はしまった、という顔はしなかった。

 

むしろ、平然としていた。

 

押村も普通に答える。

 

「何か気になる点があるか」

 

千速は少しだけ口角を上げる。

 

「いや。ずいぶん丁寧に教えてるなと思って」

 

「育成担当だからな」

 

「そうだな」

 

三森は二人の空気を不思議そうに見ていた。

 

名字ではなく名前呼び。

 

しかも、萩原警部補の方は自然に「奏斗」と呼んだ。

 

だが新人である三森には、その意味がまだ分からない。

 

単に同期だから親しいのだろう、と思った。

 

横溝は小さくため息をつく。

 

「千速、こっちだ」

 

「ああ」

 

千速は横溝と打ち合わせに向かった。

 

去り際、押村にだけ聞こえるくらいの声で言う。

 

「育成、頑張れよ」

 

「ありがとう」

 

押村は普通に返した。

 

千速は少しだけ目を細めて歩いていった。

 

押村は首を傾げる。

 

三森が尋ねた。

 

「押村警部補、萩原警部補とはお知り合いなんですか?」

 

「同期です」

 

「同期なんですね!」

 

「はい」

 

押村はそれ以上言わなかった。

 

三森は素直に納得した。

 

横溝は遠くからその様子を見て、また頭を抱えた。

 

「押村……お前、そういうとこだぞ」

 

その日の勤務後。

 

三森は押村の机の前で、少し緊張した様子で立っていた。

 

「押村警部補」

 

「何だ」

 

「今日のお礼に、少し飲みに行きませんか」

 

押村の手が止まる。

 

「飲みに?」

 

「はい。色々教えていただいたので、お礼も兼ねて」

 

「礼は不要です」

 

「でも、せっかくなので。捜査一課のことも、もっと聞きたいです」

 

押村は少し困った。

 

新人の相談に乗ることは、育成担当として必要かもしれない。

だが勤務後に二人で飲みに行くのは、どうなのか。

 

断るべきだ。

 

そう思った瞬間、三森が少し不安そうな顔をした。

 

「すみません。迷惑でしたか?」

 

押村は言葉に詰まる。

 

「迷惑ではない」

 

「本当ですか?」

 

「はい」

 

「じゃあ、一時間だけでも」

 

押村は迷った。

 

横溝はすでに別件で席を外している。

 

周囲の刑事も少ない。

 

ここで強く断れば、新人との距離ができるかもしれない。

 

押村は、育成担当としての判断を優先してしまった。

 

「……一時間だけなら」

 

三森の顔が明るくなる。

 

「ありがとうございます!」

 

その瞬間。

 

刑事部屋の入口に、千速が立っていた。

 

書類を取りに戻っただけだった。

 

だが、聞こえていた。

 

一時間だけなら。

 

飲みに行きませんか。

 

ありがとうございます。

 

千速は一瞬だけ表情を消した。

 

押村が気づく。

 

「千速」

 

三森も振り返る。

 

「あ、萩原警部補」

 

千速はいつものように腕を組んだ。

 

「邪魔したか」

 

押村はすぐ言った。

 

「いや、三森巡査部長が捜査一課のことを聞きたいというので、一時間だけ飲みに――」

 

「説明しなくていい」

 

千速はにこりともせずに言った。

 

「育成担当だもんな」

 

押村は少し眉を寄せる。

 

「そうだが」

 

「いいんじゃねぇの。新人の面倒を見るのも仕事だ」

 

三森は何も知らず、明るく言った。

 

「はい! 押村警部補から色々勉強させてもらいます!」

 

千速の目が一瞬だけ細くなる。

 

「そうか。しっかり勉強してこい」

 

「はい!」

 

押村は千速を見た。

 

何かがいつもと違う。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「この後、電話する」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「いい。忙しいだろ」

 

「忙しくは――」

 

「私は第三交機に戻る」

 

千速は書類を手に取り、背を向けた。

 

「じゃあな、奏斗」

 

その声は普段通りだった。

 

普段通りすぎて、押村は逆に不安になった。

 

横溝が戻ってきたのは、その直後だった。

 

「何だ、この空気」

 

押村は横溝を見る。

 

「横溝警部」

 

「どうした」

 

「俺は何か間違えましたか」

 

横溝は三森を見る。

 

三森はきょとんとしている。

 

押村は真面目な顔をしている。

 

千速はすでにいない。

 

横溝はすべてを察した。

 

「押村」

 

「はい」

 

「お前、今日飲みに行くのか」

 

「三森巡査部長が捜査一課の話を聞きたいとのことで、一時間だけ」

 

横溝は天井を見上げた。

 

「終わったな」

 

「何がですか」

 

「お前の平和な夜が」

 

押村はますます分からない顔をした。

 

三森だけが、まだ何も知らなかった。

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