神奈川県警捜査一課。
その日の朝、刑事部屋にはどこか落ち着かない空気が漂っていた。
理由は一つ。
村上刑事の異動だった。
「短い間でしたが、お世話になりました」
村上が頭を下げると、周囲から拍手が起きた。
横溝重悟は腕を組んだまま、いつもの鋭い目で村上を見ている。
「向こうでもちゃんとやれよ」
「はい、横溝警部」
「変に気を抜くな。お前は詰めが甘い時がある」
「最後まで説教ですか」
村上が苦笑すると、周囲から小さな笑いが漏れた。
押村奏斗は村上の前に立ち、静かに言った。
「村上。向こうでも無理はするな」
村上は少し驚いたように押村を見る。
「押村警部補に言われると、説得力があるような、ないような」
横溝が横から言う。
「ないな。こいつが一番抱え込む」
「警部」
押村が困った顔をする。
村上は笑って、もう一度頭を下げた。
「押村警部補にも、横溝警部にも、本当にお世話になりました」
「元気でな」
押村がそう言うと、村上は少しだけ目を潤ませた。
その後、村上は荷物を持って刑事部屋を出ていった。
空いた机が一つ。
その寂しさを感じる間もなく、扉が開いた。
「本日付で配属になりました!」
明るい声が響いた。
入ってきたのは、スーツ姿の若い女性だった。
背筋が伸びていて、表情ははきはきしている。
髪は肩の少し上で揃えられ、目には強い意志がある。
「神奈川県警捜査一課に配属されました、三森沙月巡査部長です。よろしくお願いします!」
刑事部屋に拍手が起きる。
横溝が前に出た。
「横溝だ。こっちは押村警部補」
三森沙月は押村を見るなり、ぱっと表情を明るくした。
「押村警部補ですね。お噂は聞いています」
押村は少しだけ首を傾げる。
「噂?」
「はい。冷静で、現場での判断が早くて、捜査書類も正確で、しかも取り調べが丁寧だって」
横溝が鼻で笑う。
「ずいぶん盛られてるな」
押村は静かに言った。
「そこまでではありません」
三森は真剣な目で首を横に振る。
「いえ、私、押村警部補から学べるのを楽しみにしていました」
その瞬間、横溝の目が押村へ向いた。
押村は少し戸惑っている。
横溝は面白そうに口角を上げた。
「押村」
「はい」
「三森の育成担当、お前な」
押村は一瞬固まった。
「俺ですか」
「そうだ」
「横溝警部の方が適任では」
「俺がやると新人が三日で胃を壊す」
周囲の刑事たちが小さく笑う。
三森は慌てて言った。
「いえ! 横溝警部にもご指導いただきたいです!」
横溝は鋭い目で見る。
「本気で言ってるか?」
「はい!」
「なら根性はありそうだな」
押村は小さく息を吐いた。
「分かりました。三森巡査部長、よろしくお願いします」
「はい! よろしくお願いします、押村警部補!」
三森は嬉しそうに頭を下げた。
押村はいつものように淡々としていた。
だが、横溝はその様子を見て、どこか嫌な予感を覚えていた。
というより。
これは絶対に面倒なことになる。
主に、萩原千速方面で。
その日の昼過ぎ。
第三交通機動隊の詰所で、萩原千速は報告書を確認していた。
新井が復帰に向けたリハビリ勤務を始め、隊の空気も少しずつ戻ってきている。
そこへ、捜査一課から書類を届けに来た若い刑事が、何気なく言った。
「そういえば、今日から捜査一課に女性の新人さんが来ましたよ」
千速は書類から顔を上げた。
「女性の新人?」
「はい。三森沙月巡査部長って方です」
「へえ」
千速は特に気にしないような声を出した。
だが、手に持っていたペンが止まっている。
若い刑事は続けた。
「しかも、育成担当が押村警部補になったみたいで」
ペン先が、紙の上でぴたりと止まった。
「……奏斗が?」
「はい。何か、三森さんも押村警部補を尊敬してるみたいでしたよ。目を輝かせてました」
千速の眉がほんの少し動く。
「目を輝かせて?」
「はい。押村警部補から学べて嬉しいって」
「ふうん」
千速は書類へ視線を戻した。
「それで?」
「それだけです」
「そうか」
声は普通だった。
普通すぎた。
若い刑事は本能的に何かを察し、そそくさと頭を下げた。
「では、失礼します!」
刑事が出ていくと、新井が隣の机からそっと千速を見た。
「小隊長」
「何だ」
「ペン、折れそうです」
千速は自分の手元を見た。
確かに、ペンが少ししなっている。
「ああ」
千速は無表情でペンを置いた。
新井は慎重に言う。
「押村警部補なら、大丈夫じゃないですか」
千速の目が新井へ向く。
「私は何も言ってねぇぞ」
「はい」
「何も気にしてねぇ」
「はい」
「新人の女刑事が奏斗の育成担当になったからって、別にどうとも思ってねぇ」
新井は口を閉じた。
言っている。
ものすごく言っている。
新井は無難に頷いた。
「そうですね」
千速は書類へ目を落とす。
しかし、文字が頭に入ってこない。
奏斗が新人の育成担当。
女性の新人。
押村警部補から学べるのを楽しみにしていた。
目を輝かせていた。
「……ふうん」
千速は小さく呟いた。
その声に、詰所の空気が少し冷えた。
夕方。
押村は三森を連れて、事件資料の整理をしていた。
「現場に出る前に、まず資料を読む力をつける必要があります」
「はい」
「供述調書、鑑識資料、防犯カメラ映像、通話履歴。どれも単体で見てはいけません。必ず時間軸に置いてください」
「時間軸ですね」
三森は熱心にメモを取っている。
押村はそのノートを見て、少し頷いた。
「書くのは早いな」
「ありがとうございます!」
三森は嬉しそうに笑った。
「押村警部補、説明がすごく分かりやすいです」
「そうか」
「はい。もっと怖い方かと思っていました」
「怖い?」
「無口で近寄りがたいって聞いていたので」
横溝が遠くから言う。
「間違ってねぇな」
押村は横溝を見る。
「警部」
三森は楽しそうに笑った。
「でも、実際はすごく丁寧です」
「必要なことを説明しているだけです」
「そういうところも勉強になります」
押村はどう返せばいいか迷い、結局軽く頷いた。
その時、刑事部屋の入口に千速が現れた。
交通機動隊の制服姿。
腕を組み、いつものように堂々と立っている。
「重悟、いるか」
横溝が顔を上げる。
「いるぞ。何だ」
「この前の事故関係の確認だ」
「今行く」
千速は横溝の方へ歩きかけた。
だが、その視線が押村と三森で止まる。
三森はすぐに立ち上がった。
「お疲れさまです!」
千速は三森を見る。
「お疲れ」
三森は明るく頭を下げた。
「本日から捜査一課に配属されました、三森沙月です!」
「萩原千速。第三交通機動隊」
「萩原警部補ですね! 白バイ隊員の方ですよね。すごく格好いいです!」
千速は少し意外そうに目を細めた。
「そうか」
「はい! 私、白バイ隊員の方って憧れます」
「へえ」
横溝が後ろで頭を抱えた。
押村は何も気づいていない様子で言った。
「三森巡査部長。萩原警部補は現場判断が非常に正確です。交通事案の時は、彼女の意見を聞くといい」
三森の目がさらに輝く。
「はい! 萩原警部補にもぜひ色々教えていただきたいです!」
千速は押村を見た。
「奏斗」
押村が顔を上げる。
「何だ」
三森が少し驚いたように二人を見る。
「奏斗……?」
千速はしまった、という顔はしなかった。
むしろ、平然としていた。
押村も普通に答える。
「何か気になる点があるか」
千速は少しだけ口角を上げる。
「いや。ずいぶん丁寧に教えてるなと思って」
「育成担当だからな」
「そうだな」
三森は二人の空気を不思議そうに見ていた。
名字ではなく名前呼び。
しかも、萩原警部補の方は自然に「奏斗」と呼んだ。
だが新人である三森には、その意味がまだ分からない。
単に同期だから親しいのだろう、と思った。
横溝は小さくため息をつく。
「千速、こっちだ」
「ああ」
千速は横溝と打ち合わせに向かった。
去り際、押村にだけ聞こえるくらいの声で言う。
「育成、頑張れよ」
「ありがとう」
押村は普通に返した。
千速は少しだけ目を細めて歩いていった。
押村は首を傾げる。
三森が尋ねた。
「押村警部補、萩原警部補とはお知り合いなんですか?」
「同期です」
「同期なんですね!」
「はい」
押村はそれ以上言わなかった。
三森は素直に納得した。
横溝は遠くからその様子を見て、また頭を抱えた。
「押村……お前、そういうとこだぞ」
その日の勤務後。
三森は押村の机の前で、少し緊張した様子で立っていた。
「押村警部補」
「何だ」
「今日のお礼に、少し飲みに行きませんか」
押村の手が止まる。
「飲みに?」
「はい。色々教えていただいたので、お礼も兼ねて」
「礼は不要です」
「でも、せっかくなので。捜査一課のことも、もっと聞きたいです」
押村は少し困った。
新人の相談に乗ることは、育成担当として必要かもしれない。
だが勤務後に二人で飲みに行くのは、どうなのか。
断るべきだ。
そう思った瞬間、三森が少し不安そうな顔をした。
「すみません。迷惑でしたか?」
押村は言葉に詰まる。
「迷惑ではない」
「本当ですか?」
「はい」
「じゃあ、一時間だけでも」
押村は迷った。
横溝はすでに別件で席を外している。
周囲の刑事も少ない。
ここで強く断れば、新人との距離ができるかもしれない。
押村は、育成担当としての判断を優先してしまった。
「……一時間だけなら」
三森の顔が明るくなる。
「ありがとうございます!」
その瞬間。
刑事部屋の入口に、千速が立っていた。
書類を取りに戻っただけだった。
だが、聞こえていた。
一時間だけなら。
飲みに行きませんか。
ありがとうございます。
千速は一瞬だけ表情を消した。
押村が気づく。
「千速」
三森も振り返る。
「あ、萩原警部補」
千速はいつものように腕を組んだ。
「邪魔したか」
押村はすぐ言った。
「いや、三森巡査部長が捜査一課のことを聞きたいというので、一時間だけ飲みに――」
「説明しなくていい」
千速はにこりともせずに言った。
「育成担当だもんな」
押村は少し眉を寄せる。
「そうだが」
「いいんじゃねぇの。新人の面倒を見るのも仕事だ」
三森は何も知らず、明るく言った。
「はい! 押村警部補から色々勉強させてもらいます!」
千速の目が一瞬だけ細くなる。
「そうか。しっかり勉強してこい」
「はい!」
押村は千速を見た。
何かがいつもと違う。
「千速」
「何だ」
「この後、電話する」
千速は少しだけ笑った。
「いい。忙しいだろ」
「忙しくは――」
「私は第三交機に戻る」
千速は書類を手に取り、背を向けた。
「じゃあな、奏斗」
その声は普段通りだった。
普段通りすぎて、押村は逆に不安になった。
横溝が戻ってきたのは、その直後だった。
「何だ、この空気」
押村は横溝を見る。
「横溝警部」
「どうした」
「俺は何か間違えましたか」
横溝は三森を見る。
三森はきょとんとしている。
押村は真面目な顔をしている。
千速はすでにいない。
横溝はすべてを察した。
「押村」
「はい」
「お前、今日飲みに行くのか」
「三森巡査部長が捜査一課の話を聞きたいとのことで、一時間だけ」
横溝は天井を見上げた。
「終わったな」
「何がですか」
「お前の平和な夜が」
押村はますます分からない顔をした。
三森だけが、まだ何も知らなかった。