押村奏斗は、三森沙月と駅前の小さな居酒屋に入った。
席に着いてからも、どこか落ち着かなかった。
三森は緊張しつつも嬉しそうにメニューを見ている。
「押村警部補、何を飲まれますか?」
「烏龍茶で」
「お酒じゃないんですか?」
「明日も勤務ですから」
「真面目ですね」
「普通です」
三森は笑った。
「押村警部補らしいです」
押村はその言葉に、少し違和感を覚えた。
今日会ったばかりの相手に、らしいと言われるほど自分を知られているのだろうか。
だが、悪意がないのは分かる。
三森は本当に、尊敬の気持ちで接しているだけだ。
「三森巡査部長」
「はい」
「勤務外です。無理に気を遣わなくていい」
「では、押村さんと呼んでもいいですか?」
押村は一瞬止まった。
「職務上は押村警部補でお願いします」
「あ、すみません!」
「勤務外でも、慣れるまではその方がいいと思います」
三森は少し恥ずかしそうに笑った。
「分かりました」
押村は時計を見た。
一時間。
きっちり一時間で切り上げる。
それが自分にできる最善だと思った。
しかしその頃、第三交通機動隊の詰所では、千速が無言で書類を見つめていた。
いや、見つめているだけで、読んではいなかった。
新井が恐る恐る声をかける。
「小隊長」
「何だ」
「その書類、上下逆です」
千速は無言で書類を回した。
新井はさらに慎重に言う。
「押村警部補のことですか」
「違う」
「まだ何も言ってません」
「言っただろ」
「押村警部補のことですか、としか」
千速は黙った。
新井は心の中で、これは完全にそうだ、と思った。
千速は椅子にもたれ、腕を組む。
「別に、仕事だろ」
「はい」
「新人の育成担当なら、話を聞くのも仕事だ」
「はい」
「飲みに行く必要はあるか?」
新井は返答に困った。
「それは……内容によるかと」
千速の目が鋭くなる。
「内容?」
「いえ、一般論です」
「新人が奏斗を飲みに誘う。奏斗は断り切れずに行く。これは内容以前の問題じゃねぇのか」
新井は内心で、全部気にしている、と思った。
だが口には出さない。
「押村警部補は、浮ついたことをする方ではないと思います」
千速は即座に答える。
「それは分かってる」
「では」
「分かってるから余計に腹が立つんだよ」
新井は首を傾げる。
「どういうことですか」
千速は少し苛立ったように言った。
「あいつは変な下心がない。だから、相手の下心にも気づかない」
「三森さんに下心があるんですか?」
「知らねぇ」
「知らないんですね」
「でも、目が輝いてた」
新井は吹き出しそうになったが、必死にこらえた。
千速が睨む。
「笑ったか」
「いいえ」
「笑っただろ」
「少しだけ」
「正直だな」
「小隊長に教わりました」
千速はため息をついた。
その時、スマホが震えた。
押村からだった。
一時間で帰る。終わったら連絡する。
千速は画面を見つめた。
短い。
真面目。
誠実。
それなのに腹が立つ。
千速は返信を打つ。
好きにしろ。
送信。
数秒後、既読がつく。
しばらくして返事。
分かった。終わったら連絡する。
千速はスマホを伏せた。
「分かってねぇ……」
新井は小さく呟いた。
「押村警部補らしいですね」
「新井」
「はい」
「復帰訓練、倍にするぞ」
「すみませんでした」
居酒屋では、三森が熱心に質問を続けていた。
「押村警部補は、現場で迷うことはないんですか?」
「あります」
「あるんですか?」
「はい。迷わない人間はいません」
三森は少し驚いた顔をした。
「でも、押村警部補はいつも冷静そうです」
「冷静に見えるようにしているだけです」
「どうしてですか」
押村は少し考えた。
「自分が乱れると、周囲も乱れるからです」
三森は真剣にメモを取り出した。
押村が止める。
「勤務外です」
「あ、すみません。つい」
押村は小さく息を吐いた。
「熱心なのはいいことです。ただ、休む時は休むことも覚えてください」
「押村警部補も休めていますか?」
押村は少し黙った。
その瞬間、千速の顔が浮かんだ。
お前は特にだぞ。
そんな声まで聞こえる気がした。
「以前よりは」
三森はにこりと笑った。
「何かきっかけがあったんですか?」
押村は自然に答えた。
「大切な人に言われたので」
三森の表情が一瞬止まった。
「大切な人、ですか」
「はい」
「ご家族ですか?」
押村は少し迷った。
ここで言うべきだ。
千速と付き合っていることを。
だが、職場での扱いもある。
千速の立場もある。
軽々しく言っていいのか、一瞬判断が遅れた。
「恋人です」
言い切った。
三森の目が丸くなる。
「恋人……いらっしゃるんですか?」
「はい」
「そうなんですね」
三森は明らかに動揺した。
押村はそれを見て、ようやく気づいた。
もしかして、三森は自分をただの育成担当以上に見ていたのかもしれない。
押村は静かに言った。
「三森巡査部長」
「はい」
「今日の件ですが、今後は勤務時間内に話しましょう」
三森は少し顔を赤くし、うつむいた。
「すみません……私、勘違いしていたかもしれません」
「勘違い?」
「押村警部補が優しくしてくださるので、その……」
押村は少し困った。
「育成担当として当然のことをしただけです」
「ですよね」
三森は苦笑した。
「すみません。恥ずかしいです」
「謝る必要はありません。ただ、俺には恋人がいます」
「はい」
「それと、職場ではあなたの育成担当です。そこははっきりしておきたい」
三森は背筋を伸ばした。
「分かりました。すみませんでした」
「謝罪より、明日から変わらず仕事をしてください」
三森は少し驚いた後、頷いた。
「はい」
押村は時計を見た。
まだ一時間経っていない。
だが、もう十分だった。
「今日はここまでにしましょう」
「はい」
三森は少し寂しそうにしながらも、きちんと頭を下げた。
押村は会計を済ませ、店を出た。
そしてすぐに千速へ電話をかけた。
千速はスマホの着信を見た。
押村奏斗。
出るか迷った。
三秒ほど迷って、出た。
「何だ」
『終わった』
「早いな」
『一時間経っていない』
「そうか」
沈黙。
押村が言う。
『会えるか』
千速の胸が少し揺れた。
だが、声は平静を装う。
「何で」
『話したい』
「電話でいいだろ」
『直接がいい』
千速は唇を結んだ。
こういう時だけ、まっすぐ来る。
いや、いつもまっすぐなのだ。
まっすぐすぎて、時々周りが見えていないだけで。
「……第三交機の近くまで来い」
『分かった』
電話が切れる。
新井がそっと見ていた。
千速が睨む。
「何だ」
「いえ。よかったですね」
「復帰訓練、三倍」
「すみませんでした」
第三交機近くの駐車場。
千速が腕を組んで立っていると、押村が小走りでやってきた。
息は少し上がっている。
「走ってきたのか」
「少し」
「刑事が夜道を走るな。怪しまれるぞ」
「急いだ」
千速は目を逸らした。
「……そうか」
押村は千速の前に立った。
「千速」
「何だ」
「三森巡査部長には、恋人がいると伝えた」
千速は一瞬だけ目を動かした。
「へえ」
「君の名前は言っていない。職場で言っていいか分からなかったから」
「それは別にいい」
「ただ、今後は勤務時間内に話すことにした」
千速は押村を見る。
「随分はっきり言ったな」
「君が嫌だと思ったなら、俺の判断が悪かった」
千速は少し黙った。
押村は続ける。
「最初に断るべきだった。育成担当としての距離と、私的な誘いの距離を混同した」
「真面目な反省文みたいだな」
「反省している」
千速は息を吐いた。
「奏斗」
「何だ」
「私は、三森って子が嫌いなわけじゃない」
「うん」
「たぶん悪い子じゃない。むしろ素直で、熱心で、いい新人なんだろ」
「はい」
「だから余計に、自分が嫌だった」
押村は黙って聞いた。
千速は続ける。
「嫉妬した。奏斗が女の新人に丁寧に教えて、相手が目を輝かせてて、飲みに誘われて、断り切れずに行くって聞いて……腹が立った」
押村は静かに頷いた。
「うん」
「でもそれ、仕事だろって自分でも思った。私が口出すことじゃないって。でも嫌だった」
押村は一歩近づいた。
「言ってくれてありがとう」
千速は眉を寄せる。
「そこで礼を言うのか」
「黙らないと約束したから」
千速は言葉に詰まった。
この前の事件で、自分が隊員たちに言った。
黙るな。
そして押村にも、自分も黙らないと言った。
押村は、それをちゃんと覚えている。
千速は小さく笑った。
「ずるいな、お前」
「ずるい?」
「そうやって真っ直ぐ受け止められると、怒りにくい」
「怒っていい」
「もう怒ってねぇよ」
押村は少し安心したように息を吐いた。
千速は押村を見る。
「ただし」
「はい」
「次から女に飲みに誘われたら、まず断れ」
押村は真剣に頷いた。
「分かった」
「仕事の相談なら、勤務時間内。どうしても必要なら横溝か誰かを入れろ」
「そうする」
「あと、私に先に言え」
「はい」
千速は少しだけ顔を赤くする。
「別に束縛したいわけじゃねぇけど」
押村は静かに言った。
「嫌なことを教えてくれた方が助かる」
千速は押村を見上げる。
「本当に?」
「本当に」
千速は小さく息を吐いた。
「じゃあ言う。嫌だった」
押村は頷いた。
「もうしない」
「よし」
そこでようやく、千速は少し笑った。
押村もほんの少し表情を緩める。
「千速」
「何だ」
「俺も一つ言っていいか」
「いいぞ」
「君が嫉妬したと聞いて、少し嬉しかった」
千速の顔が一気に赤くなった。
「お前な!」
「すまない。でも本当だ」
「そういうことを真顔で言うな!」
押村は少し困ったように言う。
「笑って言えばいいのか?」
「そういう問題じゃねぇ!」
千速は拳を握ったが、結局殴らなかった。
代わりに押村の胸元を軽く小突く。
「馬鹿」
「はい」
「返事すんな」
「分かった」
千速は呆れながらも、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、押村も安心した。
翌朝。
捜査一課。
三森沙月は、少し緊張した面持ちで押村の前に立っていた。
「押村警部補」
「はい」
「昨日はすみませんでした。今日からはきちんと仕事として学ばせていただきます」
押村は頷いた。
「こちらこそ、育成担当として距離の取り方が曖昧でした。改めてよろしくお願いします」
「はい!」
三森は明るく返事をした。
少し恥ずかしさは残っているが、表情は前向きだった。
そこへ横溝が来る。
「三森」
「はい」
「押村は仕事はできるが、私生活は鈍い。変だと思ったら俺に言え」
押村が横溝を見る。
「警部」
三森は一瞬きょとんとした後、笑った。
「分かりました!」
横溝は押村へ低く言う。
「昨日、ちゃんと話したのか」
「はい」
「千速は?」
「怒っていましたが、話せました」
「そうか」
横溝は少しだけ口元を緩めた。
「ならいい」
その時、入口から千速が顔を出した。
「重悟、昨日の件で確認が――」
三森がすぐに立ち上がる。
「萩原警部補、お疲れさまです!」
「お疲れ」
三森は少し迷ってから、千速に向かって頭を下げた。
「昨日は、押村警部補をお借りしてすみませんでした」
刑事部屋の空気が止まった。
押村も止まった。
横溝は額を押さえた。
千速は一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。
「借り物じゃねぇよ」
三森が慌てる。
「あ、すみません! 言い方が変でした!」
千速は押村を見る。
押村は真面目な顔で立っている。
千速は小さく笑う。
「でも、まあ」
三森を見る。
「仕事で必要なら、しっかり学べ。奏斗は教えるのは上手い」
三森はぱっと顔を明るくする。
「はい!」
千速は少しだけ目を細める。
「ただし、飲みに誘うなら複数人にしとけ」
三森の顔が真っ赤になる。
「はいっ!」
横溝が吹き出しそうになるのをこらえる。
押村は真面目に言った。
「今後は勤務時間内で対応します」
千速は押村を見る。
「よろしい」
三森はそのやり取りを見て、ようやく何かを察した。
「あの……もしかして」
横溝が低く言う。
「気づくの遅ぇな」
三森は千速と押村を交互に見る。
「萩原警部補と押村警部補って……」
千速は腕を組む。
「まあ、そういうことだ」
押村も静かに頷く。
「はい」
三森は数秒固まり、それから深々と頭を下げた。
「大変失礼しました!」
千速は笑った。
「別にいい。知らなかったんだろ」
「はい……」
「でも、奏斗は鈍いから気をつけろ」
三森は真剣に頷く。
「分かりました」
押村が少し困る。
「全員で俺を鈍いと言うのはどうかと思う」
横溝、千速、三森の声が重なった。
「鈍い」
押村は黙った。
刑事部屋に笑いが起きた。
その日の昼。
千速は捜査一課を出る前に、押村の机の横で立ち止まった。
「奏斗」
「何だ」
「今日、仕事終わったら飯行くぞ」
押村は顔を上げる。
「分かった」
三森が隣で資料を整理しながら、少し微笑ましそうに見ている。
千速が三森に言う。
「三森」
「はい」
「こいつ、仕事中は頼りになるけど、たまに変なところで抜けてるから、困ったら重悟に言え」
「はい!」
押村は静かに言う。
「千速まで」
「事実だろ」
「否定は難しい」
「だろ」
千速は満足そうに笑った。
押村は少しだけ表情を緩める。
三森はその二人を見て、もう迷うことはなかった。
押村警部補は尊敬できる先輩。
萩原警部補は、少し怖いけれど格好いい人。
そして二人は、思った以上にお似合いだった。
横溝はその様子を見ながら、ぼそっと呟く。
「新人教育より、こいつらの扱いの方が難しいな」
千速が振り返る。
「何か言ったか、重悟」
「何も言ってねぇ」
押村が真面目に言う。
「今、何か言っていました」
「押村、お前は黙ってろ」
刑事部屋にまた笑いが起きた。
新しい新人刑事の配属は、少しの波風を立てた。
千速は嫉妬した。
押村は反省した。
三森は盛大に勘違いした。
横溝は頭を抱えた。
それでも、捜査一課はまた動き出す。
新しい事件も、きっとすぐに来る。
その前に、今日くらいは。
千速と奏斗は、少しだけ素直に向き合う時間を持つことにした。
白バイ隊員と刑事。
職場ではそれぞれの立場がある。
けれど、二人の距離は、昨日より少しだけ近くなっていた。