神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第48話 一時間だけのすれ違い

押村奏斗は、三森沙月と駅前の小さな居酒屋に入った。

 

席に着いてからも、どこか落ち着かなかった。

 

三森は緊張しつつも嬉しそうにメニューを見ている。

 

「押村警部補、何を飲まれますか?」

 

「烏龍茶で」

 

「お酒じゃないんですか?」

 

「明日も勤務ですから」

 

「真面目ですね」

 

「普通です」

 

三森は笑った。

 

「押村警部補らしいです」

 

押村はその言葉に、少し違和感を覚えた。

 

今日会ったばかりの相手に、らしいと言われるほど自分を知られているのだろうか。

 

だが、悪意がないのは分かる。

 

三森は本当に、尊敬の気持ちで接しているだけだ。

 

「三森巡査部長」

 

「はい」

 

「勤務外です。無理に気を遣わなくていい」

 

「では、押村さんと呼んでもいいですか?」

 

押村は一瞬止まった。

 

「職務上は押村警部補でお願いします」

 

「あ、すみません!」

 

「勤務外でも、慣れるまではその方がいいと思います」

 

三森は少し恥ずかしそうに笑った。

 

「分かりました」

 

押村は時計を見た。

 

一時間。

 

きっちり一時間で切り上げる。

 

それが自分にできる最善だと思った。

 

しかしその頃、第三交通機動隊の詰所では、千速が無言で書類を見つめていた。

 

いや、見つめているだけで、読んではいなかった。

 

新井が恐る恐る声をかける。

 

「小隊長」

 

「何だ」

 

「その書類、上下逆です」

 

千速は無言で書類を回した。

 

新井はさらに慎重に言う。

 

「押村警部補のことですか」

 

「違う」

 

「まだ何も言ってません」

 

「言っただろ」

 

「押村警部補のことですか、としか」

 

千速は黙った。

 

新井は心の中で、これは完全にそうだ、と思った。

 

千速は椅子にもたれ、腕を組む。

 

「別に、仕事だろ」

 

「はい」

 

「新人の育成担当なら、話を聞くのも仕事だ」

 

「はい」

 

「飲みに行く必要はあるか?」

 

新井は返答に困った。

 

「それは……内容によるかと」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「内容?」

 

「いえ、一般論です」

 

「新人が奏斗を飲みに誘う。奏斗は断り切れずに行く。これは内容以前の問題じゃねぇのか」

 

新井は内心で、全部気にしている、と思った。

 

だが口には出さない。

 

「押村警部補は、浮ついたことをする方ではないと思います」

 

千速は即座に答える。

 

「それは分かってる」

 

「では」

 

「分かってるから余計に腹が立つんだよ」

 

新井は首を傾げる。

 

「どういうことですか」

 

千速は少し苛立ったように言った。

 

「あいつは変な下心がない。だから、相手の下心にも気づかない」

 

「三森さんに下心があるんですか?」

 

「知らねぇ」

 

「知らないんですね」

 

「でも、目が輝いてた」

 

新井は吹き出しそうになったが、必死にこらえた。

 

千速が睨む。

 

「笑ったか」

 

「いいえ」

 

「笑っただろ」

 

「少しだけ」

 

「正直だな」

 

「小隊長に教わりました」

 

千速はため息をついた。

 

その時、スマホが震えた。

 

押村からだった。

 

一時間で帰る。終わったら連絡する。

 

千速は画面を見つめた。

 

短い。

 

真面目。

 

誠実。

 

それなのに腹が立つ。

 

千速は返信を打つ。

 

好きにしろ。

 

送信。

 

数秒後、既読がつく。

 

しばらくして返事。

 

分かった。終わったら連絡する。

 

千速はスマホを伏せた。

 

「分かってねぇ……」

 

新井は小さく呟いた。

 

「押村警部補らしいですね」

 

「新井」

 

「はい」

 

「復帰訓練、倍にするぞ」

 

「すみませんでした」

 

居酒屋では、三森が熱心に質問を続けていた。

 

「押村警部補は、現場で迷うことはないんですか?」

 

「あります」

 

「あるんですか?」

 

「はい。迷わない人間はいません」

 

三森は少し驚いた顔をした。

 

「でも、押村警部補はいつも冷静そうです」

 

「冷静に見えるようにしているだけです」

 

「どうしてですか」

 

押村は少し考えた。

 

「自分が乱れると、周囲も乱れるからです」

 

三森は真剣にメモを取り出した。

 

押村が止める。

 

「勤務外です」

 

「あ、すみません。つい」

 

押村は小さく息を吐いた。

 

「熱心なのはいいことです。ただ、休む時は休むことも覚えてください」

 

「押村警部補も休めていますか?」

 

押村は少し黙った。

 

その瞬間、千速の顔が浮かんだ。

 

お前は特にだぞ。

 

そんな声まで聞こえる気がした。

 

「以前よりは」

 

三森はにこりと笑った。

 

「何かきっかけがあったんですか?」

 

押村は自然に答えた。

 

「大切な人に言われたので」

 

三森の表情が一瞬止まった。

 

「大切な人、ですか」

 

「はい」

 

「ご家族ですか?」

 

押村は少し迷った。

 

ここで言うべきだ。

 

千速と付き合っていることを。

 

だが、職場での扱いもある。

千速の立場もある。

軽々しく言っていいのか、一瞬判断が遅れた。

 

「恋人です」

 

言い切った。

 

三森の目が丸くなる。

 

「恋人……いらっしゃるんですか?」

 

「はい」

 

「そうなんですね」

 

三森は明らかに動揺した。

 

押村はそれを見て、ようやく気づいた。

 

もしかして、三森は自分をただの育成担当以上に見ていたのかもしれない。

 

押村は静かに言った。

 

「三森巡査部長」

 

「はい」

 

「今日の件ですが、今後は勤務時間内に話しましょう」

 

三森は少し顔を赤くし、うつむいた。

 

「すみません……私、勘違いしていたかもしれません」

 

「勘違い?」

 

「押村警部補が優しくしてくださるので、その……」

 

押村は少し困った。

 

「育成担当として当然のことをしただけです」

 

「ですよね」

 

三森は苦笑した。

 

「すみません。恥ずかしいです」

 

「謝る必要はありません。ただ、俺には恋人がいます」

 

「はい」

 

「それと、職場ではあなたの育成担当です。そこははっきりしておきたい」

 

三森は背筋を伸ばした。

 

「分かりました。すみませんでした」

 

「謝罪より、明日から変わらず仕事をしてください」

 

三森は少し驚いた後、頷いた。

 

「はい」

 

押村は時計を見た。

 

まだ一時間経っていない。

 

だが、もう十分だった。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

「はい」

 

三森は少し寂しそうにしながらも、きちんと頭を下げた。

 

押村は会計を済ませ、店を出た。

 

そしてすぐに千速へ電話をかけた。

 

千速はスマホの着信を見た。

 

押村奏斗。

 

出るか迷った。

 

三秒ほど迷って、出た。

 

「何だ」

 

『終わった』

 

「早いな」

 

『一時間経っていない』

 

「そうか」

 

沈黙。

 

押村が言う。

 

『会えるか』

 

千速の胸が少し揺れた。

 

だが、声は平静を装う。

 

「何で」

 

『話したい』

 

「電話でいいだろ」

 

『直接がいい』

 

千速は唇を結んだ。

 

こういう時だけ、まっすぐ来る。

 

いや、いつもまっすぐなのだ。

 

まっすぐすぎて、時々周りが見えていないだけで。

 

「……第三交機の近くまで来い」

 

『分かった』

 

電話が切れる。

 

新井がそっと見ていた。

 

千速が睨む。

 

「何だ」

 

「いえ。よかったですね」

 

「復帰訓練、三倍」

 

「すみませんでした」

 

第三交機近くの駐車場。

 

千速が腕を組んで立っていると、押村が小走りでやってきた。

 

息は少し上がっている。

 

「走ってきたのか」

 

「少し」

 

「刑事が夜道を走るな。怪しまれるぞ」

 

「急いだ」

 

千速は目を逸らした。

 

「……そうか」

 

押村は千速の前に立った。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「三森巡査部長には、恋人がいると伝えた」

 

千速は一瞬だけ目を動かした。

 

「へえ」

 

「君の名前は言っていない。職場で言っていいか分からなかったから」

 

「それは別にいい」

 

「ただ、今後は勤務時間内に話すことにした」

 

千速は押村を見る。

 

「随分はっきり言ったな」

 

「君が嫌だと思ったなら、俺の判断が悪かった」

 

千速は少し黙った。

 

押村は続ける。

 

「最初に断るべきだった。育成担当としての距離と、私的な誘いの距離を混同した」

 

「真面目な反省文みたいだな」

 

「反省している」

 

千速は息を吐いた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「私は、三森って子が嫌いなわけじゃない」

 

「うん」

 

「たぶん悪い子じゃない。むしろ素直で、熱心で、いい新人なんだろ」

 

「はい」

 

「だから余計に、自分が嫌だった」

 

押村は黙って聞いた。

 

千速は続ける。

 

「嫉妬した。奏斗が女の新人に丁寧に教えて、相手が目を輝かせてて、飲みに誘われて、断り切れずに行くって聞いて……腹が立った」

 

押村は静かに頷いた。

 

「うん」

 

「でもそれ、仕事だろって自分でも思った。私が口出すことじゃないって。でも嫌だった」

 

押村は一歩近づいた。

 

「言ってくれてありがとう」

 

千速は眉を寄せる。

 

「そこで礼を言うのか」

 

「黙らないと約束したから」

 

千速は言葉に詰まった。

 

この前の事件で、自分が隊員たちに言った。

 

黙るな。

 

そして押村にも、自分も黙らないと言った。

 

押村は、それをちゃんと覚えている。

 

千速は小さく笑った。

 

「ずるいな、お前」

 

「ずるい?」

 

「そうやって真っ直ぐ受け止められると、怒りにくい」

 

「怒っていい」

 

「もう怒ってねぇよ」

 

押村は少し安心したように息を吐いた。

 

千速は押村を見る。

 

「ただし」

 

「はい」

 

「次から女に飲みに誘われたら、まず断れ」

 

押村は真剣に頷いた。

 

「分かった」

 

「仕事の相談なら、勤務時間内。どうしても必要なら横溝か誰かを入れろ」

 

「そうする」

 

「あと、私に先に言え」

 

「はい」

 

千速は少しだけ顔を赤くする。

 

「別に束縛したいわけじゃねぇけど」

 

押村は静かに言った。

 

「嫌なことを教えてくれた方が助かる」

 

千速は押村を見上げる。

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

千速は小さく息を吐いた。

 

「じゃあ言う。嫌だった」

 

押村は頷いた。

 

「もうしない」

 

「よし」

 

そこでようやく、千速は少し笑った。

 

押村もほんの少し表情を緩める。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「俺も一つ言っていいか」

 

「いいぞ」

 

「君が嫉妬したと聞いて、少し嬉しかった」

 

千速の顔が一気に赤くなった。

 

「お前な!」

 

「すまない。でも本当だ」

 

「そういうことを真顔で言うな!」

 

押村は少し困ったように言う。

 

「笑って言えばいいのか?」

 

「そういう問題じゃねぇ!」

 

千速は拳を握ったが、結局殴らなかった。

 

代わりに押村の胸元を軽く小突く。

 

「馬鹿」

 

「はい」

 

「返事すんな」

 

「分かった」

 

千速は呆れながらも、少しだけ笑った。

 

その笑顔を見て、押村も安心した。

 

翌朝。

 

捜査一課。

 

三森沙月は、少し緊張した面持ちで押村の前に立っていた。

 

「押村警部補」

 

「はい」

 

「昨日はすみませんでした。今日からはきちんと仕事として学ばせていただきます」

 

押村は頷いた。

 

「こちらこそ、育成担当として距離の取り方が曖昧でした。改めてよろしくお願いします」

 

「はい!」

 

三森は明るく返事をした。

 

少し恥ずかしさは残っているが、表情は前向きだった。

 

そこへ横溝が来る。

 

「三森」

 

「はい」

 

「押村は仕事はできるが、私生活は鈍い。変だと思ったら俺に言え」

 

押村が横溝を見る。

 

「警部」

 

三森は一瞬きょとんとした後、笑った。

 

「分かりました!」

 

横溝は押村へ低く言う。

 

「昨日、ちゃんと話したのか」

 

「はい」

 

「千速は?」

 

「怒っていましたが、話せました」

 

「そうか」

 

横溝は少しだけ口元を緩めた。

 

「ならいい」

 

その時、入口から千速が顔を出した。

 

「重悟、昨日の件で確認が――」

 

三森がすぐに立ち上がる。

 

「萩原警部補、お疲れさまです!」

 

「お疲れ」

 

三森は少し迷ってから、千速に向かって頭を下げた。

 

「昨日は、押村警部補をお借りしてすみませんでした」

 

刑事部屋の空気が止まった。

 

押村も止まった。

 

横溝は額を押さえた。

 

千速は一瞬だけ目を丸くし、それから笑った。

 

「借り物じゃねぇよ」

 

三森が慌てる。

 

「あ、すみません! 言い方が変でした!」

 

千速は押村を見る。

 

押村は真面目な顔で立っている。

 

千速は小さく笑う。

 

「でも、まあ」

 

三森を見る。

 

「仕事で必要なら、しっかり学べ。奏斗は教えるのは上手い」

 

三森はぱっと顔を明るくする。

 

「はい!」

 

千速は少しだけ目を細める。

 

「ただし、飲みに誘うなら複数人にしとけ」

 

三森の顔が真っ赤になる。

 

「はいっ!」

 

横溝が吹き出しそうになるのをこらえる。

 

押村は真面目に言った。

 

「今後は勤務時間内で対応します」

 

千速は押村を見る。

 

「よろしい」

 

三森はそのやり取りを見て、ようやく何かを察した。

 

「あの……もしかして」

 

横溝が低く言う。

 

「気づくの遅ぇな」

 

三森は千速と押村を交互に見る。

 

「萩原警部補と押村警部補って……」

 

千速は腕を組む。

 

「まあ、そういうことだ」

 

押村も静かに頷く。

 

「はい」

 

三森は数秒固まり、それから深々と頭を下げた。

 

「大変失礼しました!」

 

千速は笑った。

 

「別にいい。知らなかったんだろ」

 

「はい……」

 

「でも、奏斗は鈍いから気をつけろ」

 

三森は真剣に頷く。

 

「分かりました」

 

押村が少し困る。

 

「全員で俺を鈍いと言うのはどうかと思う」

 

横溝、千速、三森の声が重なった。

 

「鈍い」

 

押村は黙った。

 

刑事部屋に笑いが起きた。

 

その日の昼。

 

千速は捜査一課を出る前に、押村の机の横で立ち止まった。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「今日、仕事終わったら飯行くぞ」

 

押村は顔を上げる。

 

「分かった」

 

三森が隣で資料を整理しながら、少し微笑ましそうに見ている。

 

千速が三森に言う。

 

「三森」

 

「はい」

 

「こいつ、仕事中は頼りになるけど、たまに変なところで抜けてるから、困ったら重悟に言え」

 

「はい!」

 

押村は静かに言う。

 

「千速まで」

 

「事実だろ」

 

「否定は難しい」

 

「だろ」

 

千速は満足そうに笑った。

 

押村は少しだけ表情を緩める。

 

三森はその二人を見て、もう迷うことはなかった。

 

押村警部補は尊敬できる先輩。

 

萩原警部補は、少し怖いけれど格好いい人。

 

そして二人は、思った以上にお似合いだった。

 

横溝はその様子を見ながら、ぼそっと呟く。

 

「新人教育より、こいつらの扱いの方が難しいな」

 

千速が振り返る。

 

「何か言ったか、重悟」

 

「何も言ってねぇ」

 

押村が真面目に言う。

 

「今、何か言っていました」

 

「押村、お前は黙ってろ」

 

刑事部屋にまた笑いが起きた。

 

新しい新人刑事の配属は、少しの波風を立てた。

 

千速は嫉妬した。

 

押村は反省した。

 

三森は盛大に勘違いした。

 

横溝は頭を抱えた。

 

それでも、捜査一課はまた動き出す。

 

新しい事件も、きっとすぐに来る。

 

その前に、今日くらいは。

 

千速と奏斗は、少しだけ素直に向き合う時間を持つことにした。

 

白バイ隊員と刑事。

 

職場ではそれぞれの立場がある。

 

けれど、二人の距離は、昨日より少しだけ近くなっていた。

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