今日は勤務後ではなく、二人とも私服だった。
千速は、淡い色のニットに細身のロングスカートを合わせ、上から短めのジャケットを羽織っていた。
普段の制服姿や白バイ隊員としての凛々しさとは違い、柔らかい雰囲気がある。
それでも、背筋の伸びた立ち姿や、迷いのない歩き方には、いつもの千速らしさが残っていた。
店の灯りの下で揺れる髪と、さりげなく耳元で光る小さなピアスを見て、押村は一瞬だけ視線を止めてしまう。
「どうした」
千速が眉を上げる。
「いや」
「何だよ」
「似合っていると思った」
千速は一瞬で顔を赤くした。
「……店の前で言うな」
「すまない」
「謝ればいいってもんじゃねぇ」
そう言いながら、千速の口元は少しだけ緩んでいた。
二人が店に入ると、奥の座敷からすぐに声が飛んできた。
「おーい! 押村! 萩原!」
「久しぶりだな!」
「お前ら並んで来るの、やっぱ迫力あるな!」
千速が手を上げる。
「おう、久しぶり」
押村も軽く頭を下げる。
「久しぶりです」
「押村、相変わらず硬いな!」
「萩原は相変わらず格好いいな!」
千速は笑って席に座った。
「褒めても何も出ねぇぞ」
「いや出るだろ。白バイの違反切符とか」
「切るぞ、本当に」
「冗談です!」
同期たちの笑い声が広がる。
押村は千速の隣に座った。
自然に隣に座っただけなのに、周囲の何人かがにやにやしている。
その視線に気づいた千速が、低く言った。
「何だよ」
同期の一人が笑いながら言う。
「いや、二人が付き合ってるって聞いた時は驚いたけど、こうして見ると妙にしっくりくるなって」
別の同期が続く。
「警察学校の時から仲良かったもんな」
千速が即座に言う。
「仲良かったか?」
「仲良かっただろ。萩原が押村のことをやたら構ってた」
「構ってねぇよ」
押村が静かに言った。
「構ってくれていたと思う」
千速が押村を睨む。
「お前は黙ってろ」
同期たちはどっと笑った。
その空気が懐かしかった。
警察学校時代の千速は、今より少しだけ尖っていた。
押村は今よりさらに無口で、必要なこと以外ほとんど喋らなかった。
それでも、二人はなぜかよく一緒にいた。
当時は恋人になるなんて、誰も思っていなかった。
本人たちでさえ。
乾杯が終わると、近況報告が始まった。
昇進した者。
異動した者。
地方署へ移った者。
怪我をして現場を離れた者。
それぞれの話を聞きながら、千速は楽しそうに笑っていた。
押村は静かに聞いている。
時折、同期から話を振られては短く答える。
「押村、捜査一課どうなんだよ。相変わらず忙しいのか?」
「忙しい時は忙しい」
「答えが押村すぎる」
「でも、萩原と付き合ってから少し丸くなったよな」
千速が飲み物を持ったまま固まる。
「何でそこで私が出る」
「いや、明らかに変わったって。昔なら“忙しいです”で終わってた」
押村は少し考えて言った。
「千速には、話すように言われている」
同期たちが一斉に反応した。
「おおー」
「何それ」
「いいじゃん」
千速は耳まで赤くなる。
「茶化すな」
同期の一人、女性警察官の宮原が笑った。
「いいなぁ。うちの旦那にも聞かせたい」
千速が反応する。
「旦那?」
「そうそう。私、去年結婚したんだよ」
「そうだったのか。おめでとう」
「ありがとう。子どもも今度生まれる予定」
「えっ、マジか」
「マジ」
周囲から拍手と祝福の声が上がる。
別の同期も手を上げた。
「俺も来月式なんだ」
「お前も?」
「地域課の同期と。まあ、付き合い長かったしな」
「うちはもう同棲三年目。結婚はまだだけど、そろそろかなって話してる」
同期会の話題は、いつの間にか結婚や同棲の話になっていた。
「勤務時間合わないと大変だよな」
「夜勤明けで帰ったら相手が出勤とか普通にある」
「でも一緒に住んでると、顔見られるだけで違うぞ」
「家事分担で揉めるけどな」
「うちは洗濯で一回本気の喧嘩した」
「警察官同士だと、仕事の愚痴を言いやすいのはいいよな」
「でも事件の話は守秘義務あるから、結局ふわっとしか話せない」
笑いながらも、皆どこか現実的だった。
結婚は夢だけではない。
同棲も甘いだけではない。
勤務、生活、家事、将来、家族。
そういう話が当たり前に出てくる年齢になったのだと、千速はふと思った。
三十一歳。
警察学校で泥だらけになって走っていた頃には、遠い未来の話だった。
でも今は、すぐ隣にある話だ。
千速は隣の押村を見る。
押村は静かに同期たちの話を聞いていた。
表情はいつも通りだ。
だが、何かを考えている顔だった。
千速は少しだけ胸の奥が落ち着かなくなった。
「で、萩原と押村は?」
突然、話がこちらへ向いた。
千速が顔を上げる。
「何が」
「何がって、結婚とか同棲とか考えてんの?」
飲み物を口に含んでいた千速は、危うくむせかけた。
押村もわずかに動きを止める。
同期たちは面白そうに二人を見る。
「付き合ってるんだろ?」
「二人とも忙しそうだけどさ」
「警察官同士なら、逆に分かり合えるんじゃない?」
千速は視線を泳がせた。
「いや、そういう話は……」
普段なら強気に返す。
「余計なお世話だ」とか、「聞くな」とか。
でも、なぜか今日は言葉が出てこなかった。
押村は少しだけ考えた後、静かに言った。
「まだ具体的には話していません」
千速は押村を見る。
押村は嘘をつかない。
その答えは正しい。
正しいが、なぜか千速の胸に小さく引っかかった。
まだ具体的には話していない。
つまり、考えたことはあるのだろうか。
同期の一人が笑う。
「押村らしい答えだな」
宮原が優しく言った。
「でも、話しておいた方がいいよ。結婚するかしないかだけじゃなくて、どう暮らしたいかって」
「どう暮らしたいか?」
千速が聞き返す。
宮原は頷く。
「うん。警察官同士って、勤務も不規則だし、急に呼び出しもあるし、休みも合わない。だから一緒に住むなら、家事とか生活リズムとか、ちゃんと話しておかないと意外とすれ違う」
別の同期も頷いた。
「俺、同棲始めた時にそれで揉めた。帰って寝るだけの家になって、相手が寂しがってたのに気づかなかった」
押村の目が少し動く。
千速も黙った。
寂しい。
その言葉が妙に残った。
千速は一人でいることに慣れている。
研二が殉職してから、同居していた部屋は広すぎた。
それでも、慣れるしかなかった。
松田がいなくなった時も、泣かずに立っていた。
一人で帰る部屋。
それは平気なはずだった。
でも、奏斗と付き合ってから。
たまに押村の家へ行くようになって。
一緒に飯を食って、くだらないことを言い合って、帰り際に少し寂しくなるようになった。
その変化を、千速は自分でもまだうまく扱えていなかった。
宮原が笑う。
「まあ、二人なら大丈夫そうだけどね」
千速がすぐ言う。
「何を根拠に」
「萩原は何だかんだ面倒見いいし、押村は真面目だし」
別の同期が口を挟む。
「でも押村は家事できるのか?」
押村は淡々と答えた。
「最低限は」
「最低限って怪しいな」
千速が横から言う。
「奏斗の家は普通に片付いてるぞ」
同期たちが一斉ににやにやする。
「あれ、家行ってるんだ」
千速はしまった、という顔をした。
押村は普通に頷く。
「来ることはある」
「押村、そこで普通に言うな!」
千速が小声で怒る。
押村は不思議そうに見る。
「事実だ」
「そういうとこだよ!」
同期たちはまた笑った。
同期会が終わったのは、夜十時前だった。
店の外に出ると、少し冷たい風が吹いていた。
同期たちは駅へ向かってばらばらに歩き出す。
「また集まろうな」
「次は誰かの結婚式かもな」
「萩原と押村だったりして」
「うるせぇ!」
千速の怒鳴り声に、同期たちは笑いながら手を振って去っていった。
気づけば、押村と千速の二人だけが少し後ろに残っていた。
駅までの道を並んで歩く。
しばらく、二人とも黙っていた。
沈黙は気まずくはない。
けれど、いつもより少しだけ重い。
千速が先に口を開いた。
「みんな、変わってたな」
押村は頷く。
「ああ」
「結婚とか、子どもとか、同棲とか」
「はい」
千速は横目で押村を見る。
「お前、敬語になってる」
押村は少しだけ瞬きをした。
「そうか」
「考え事してる時、たまに戻る」
「気をつける」
「別にいいけど」
また少し黙る。
千速はポケットに手を入れた。
「奏斗」
「何だ」
「さっきの話」
「結婚や同棲の話か」
「直球で言うな」
「すまない」
千速は軽く息を吐いた。
「考えたこと、あるのか」
押村はすぐには答えなかった。
だが、目を逸らしもしなかった。
「ある」
千速の胸が少し跳ねた。
「……あるのか」
「はい。いや、ある」
押村は言い直した。
千速は前を向く。
「そっか」
「千速は?」
聞かれると、なぜか答えに詰まった。
自分から聞いたのに。
「私は……」
千速は夜道の先を見た。
「考えないようにしてたかもしれねぇ」
「なぜ」
「怖いから」
押村は黙って千速を見る。
千速は笑おうとして、うまく笑えなかった。
「一緒に住むとか、結婚とか。そういうのってさ、嬉しいことのはずだろ」
「うん」
「でも、私は一度、一緒に住んでた家族を突然失ってる」
押村の表情が静かに変わる。
研二。
千速の弟。
一緒に暮らしていた弟が、爆弾解体中に殉職した。
あの日から、千速の家は一人の場所になった。
「誰かと暮らすことを考えると、嬉しいより先に、失うことを考える」
千速の声は静かだった。
「朝、行ってらっしゃいって送り出して、そのまま帰ってこなかったらどうするんだろうって」
押村は何も言わなかった。
千速は続ける。
「お前も刑事だ。危ない現場に行く。私は白バイに乗る。お互い、絶対に帰ってくる保証なんかない」
「うん」
「だったら最初から、一人の方が楽なんじゃないかって思う時がある」
押村は足を止めた。
千速も少し先で止まり、振り返る。
押村はまっすぐ千速を見ていた。
「千速」
「何だ」
「俺も怖い」
千速は目を少し開いた。
押村がそういうことを自分から言うのは珍しい。
「君が白バイに乗って出ていく時、無事に戻ると分かっていても、怖い時がある」
「奏斗……」
「事件現場で君が危険な場所へ行くと、止めたいと思う時もある。でも、君は白バイ隊員で、警察官だ。俺がその足を止めることはできない」
押村は静かに言った。
「だから、怖い」
千速は言葉を失った。
押村はさらに続ける。
「一緒にいる時間が増えれば、その怖さも増えると思う」
「……なら」
千速が言いかける。
押村は首を横に振った。
「でも、一緒にいない方が楽だとは思わない」
千速の胸が詰まる。
押村は少しだけ柔らかい声で言った。
「怖くても、帰る場所が君のいる場所ならいいと思っている」
千速は顔を伏せた。
こんな場所で。
駅へ向かう夜道で。
何でもない顔をして、そんなことを言う。
「お前、本当にさ……」
「何だ」
「そういうこと、急に言うな」
「急だったか」
「急だよ」
千速は目元をこすった。
泣いてはいない。
泣いてはいないが、少し危なかった。
押村は一歩近づく。
「すまない」
「謝るな」
「分かった」
千速は深く息を吸った。
それから、少しだけ笑った。
「でも、嬉しかった」
押村の表情がわずかに和らぐ。
「そうか」
「うん」
駅の近くのベンチに、二人は並んで座った。
帰るにはまだ少し早かった。
話すべきことがある気がした。
千速は自販機で買った温かい缶コーヒーを両手で包んでいる。
押村は隣で同じ缶を持っていた。
「同棲ってさ」
千速がぽつりと言う。
押村が横を見る。
「うん」
「実際、どうなんだろうな」
「生活リズムは合わないと思う」
「いきなり現実的だな」
「大事なことだ」
「まあな」
千速は少し笑う。
「お前、家事は最低限って言ってたけど、具体的には?」
押村は真面目に答える。
「掃除、洗濯、簡単な料理」
「簡単な料理?」
「焼く、茹でる、炒める」
「煮るは?」
「頻度は低い」
「何だよ、その回答」
押村は少し考える。
「カレーは作れる」
千速は吹き出した。
「急に家庭感出たな」
「問題あるか」
「ない。今度作れ」
「分かった」
千速は缶コーヒーを口に運ぶ。
「私は仕事が不規則だし、急な呼び出しもある。白バイの訓練で疲れて帰る日もある。機嫌悪い日もある」
「知っている」
「知ってるって何だ」
「そのままの意味だ」
「喧嘩売ってるか?」
「売っていない」
千速は少し笑った。
押村もほんの少し笑う。
千速は続けた。
「あと、私はたぶん、素直に甘えるのが下手だ」
「知っている」
「だからその言い方」
「すまない」
「まあ、事実だけど」
千速は缶を見つめた。
「でも、もし一緒に住むなら……ちゃんと話す。黙らない。嫌なことも、怖いことも」
押村は頷いた。
「俺も話す」
「お前は特にだぞ」
「はい」
「敬語」
「ああ」
千速は少しだけ肩の力を抜いた。
「結婚は?」
その言葉を自分で言って、千速は少し耳が熱くなった。
押村は驚かなかった。
ただ、少しだけ真剣な顔になった。
「考えている」
千速は缶を握る手に力を入れた。
「そうか」
「ただ、今すぐ勢いで決めることではないと思っている」
「うん」
「君の仕事も、俺の仕事もある。住む場所、生活、将来。ちゃんと話す必要がある」
「真面目だな」
「大事なことだから」
千速は小さく笑う。
「そういうとこ、嫌いじゃない」
押村は千速を見る。
「俺は、君と結婚したいと思っている」
千速は完全に固まった。
缶コーヒーを落としそうになり、慌てて握り直す。
「お、お前な……!」
押村は真面目な顔のまま続ける。
「今すぐという意味ではない。でも、いつかの話として、考えている」
千速は顔を真っ赤にして押村を見る。
「そういうのは、もう少し段階を踏め!」
「段階?」
「もっとこう、雰囲気とか、場所とか!」
押村は周囲を見る。
駅前のベンチ。
自販機の明かり。
遠くの電車の音。
「確かに、今言うべきではなかったかもしれない」
「遅いわ!」
押村は少し困った顔をする。
「取り消した方がいいか」
千速は即座に言った。
「取り消すな」
押村は黙った。
千速も黙った。
数秒後、千速は顔を逸らしながら言った。
「……嬉しかったから」
押村の目が柔らかくなる。
「そうか」
「ただ、次にそういうこと言う時は、ちゃんとしろ」
「ちゃんと?」
「ちゃんとだ」
「分かった。考える」
「考えすぎて変なことするなよ」
押村は少しだけ真剣に悩む顔をした。
千速はそれを見て笑った。
「今から悩むな」
「大事なことだから」
「本当に真面目だな、お前」
でも、その真面目さが嬉しかった。
軽く言われたわけではない。
勢いで言われたわけでもない。
押村は押村なりに、ずっと考えていたのだ。
千速との未来を。
一緒に暮らすことを。
結婚することを。
千速は胸の奥が温かくなるのを感じた。
それと同時に、少し怖かった。
でも、その怖さを今は一人で抱えなくていい。
隣に、同じように怖いと言ってくれる人がいる。
帰り道。
二人は駅の改札前で立ち止まった。
千速はいつもなら軽く手を振って帰る。
だが今日は、少しだけ迷った。
押村が言う。
「送る」
「方向違うだろ」
「送る」
「頑固だな」
「今日はそうしたい」
千速は少し笑った。
「じゃあ、途中まで」
二人は並んで歩き出した。
しばらくして、千速が言う。
「同棲の話」
「うん」
「今度、ちゃんとしよう」
押村は頷いた。
「分かった」
「勢いじゃなくて、ちゃんと。勤務のこととか、家のこととか、色々」
「ああ」
「結婚の話も……まあ、そのうち」
押村は千速を見る。
千速は前を向いたまま、少し赤い顔で言った。
「何だよ」
「嬉しい」
「だから真顔で言うな」
「すまない」
千速は小さく笑った。
そして、少しだけ手を伸ばす。
押村の手に、指先が触れた。
押村は自然にその手を握った。
千速は何も言わなかった。
押村も何も言わなかった。
夜の道を、二人で歩く。
結婚も、同棲も、まだ具体的には決まっていない。
でも、今日初めて、二人は同じ方向を見た。
警察官としての現実。
失うことへの怖さ。
一緒にいることの温かさ。
生活の不安。
未来への期待。
その全部を、少しずつ言葉にしていけばいい。
黙らずに。
抱え込まずに。
千速は隣の押村を見上げた。
「奏斗」
「何だ」
「カレー、今度作れよ」
押村は真面目に頷いた。
「分かった」
「まずはそこからだな」
「同棲の前に?」
「そうだ。お前の生活力を確認する」
「重要だな」
「重要だ」
押村は少しだけ笑った。
千速も笑った。
遠くで電車の音がした。
街の明かりの下、二人の影が並んで伸びていく。
未来はまだ決まっていない。
でも、そこへ向かう道は、もう一人で歩くものではなかった。