神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第49話 同期会の夜に

今日は勤務後ではなく、二人とも私服だった。

 

千速は、淡い色のニットに細身のロングスカートを合わせ、上から短めのジャケットを羽織っていた。

普段の制服姿や白バイ隊員としての凛々しさとは違い、柔らかい雰囲気がある。

 

それでも、背筋の伸びた立ち姿や、迷いのない歩き方には、いつもの千速らしさが残っていた。

 

店の灯りの下で揺れる髪と、さりげなく耳元で光る小さなピアスを見て、押村は一瞬だけ視線を止めてしまう。

 

「どうした」

 

千速が眉を上げる。

 

「いや」

 

「何だよ」

 

「似合っていると思った」

 

千速は一瞬で顔を赤くした。

 

「……店の前で言うな」

 

「すまない」

 

「謝ればいいってもんじゃねぇ」

 

そう言いながら、千速の口元は少しだけ緩んでいた。

 

二人が店に入ると、奥の座敷からすぐに声が飛んできた。

 

「おーい! 押村! 萩原!」

 

「久しぶりだな!」

 

「お前ら並んで来るの、やっぱ迫力あるな!」

 

千速が手を上げる。

 

「おう、久しぶり」

 

押村も軽く頭を下げる。

 

「久しぶりです」

 

「押村、相変わらず硬いな!」

 

「萩原は相変わらず格好いいな!」

 

千速は笑って席に座った。

 

「褒めても何も出ねぇぞ」

 

「いや出るだろ。白バイの違反切符とか」

 

「切るぞ、本当に」

 

「冗談です!」

 

同期たちの笑い声が広がる。

 

押村は千速の隣に座った。

 

自然に隣に座っただけなのに、周囲の何人かがにやにやしている。

 

その視線に気づいた千速が、低く言った。

 

「何だよ」

 

同期の一人が笑いながら言う。

 

「いや、二人が付き合ってるって聞いた時は驚いたけど、こうして見ると妙にしっくりくるなって」

 

別の同期が続く。

 

「警察学校の時から仲良かったもんな」

 

千速が即座に言う。

 

「仲良かったか?」

 

「仲良かっただろ。萩原が押村のことをやたら構ってた」

 

「構ってねぇよ」

 

押村が静かに言った。

 

「構ってくれていたと思う」

 

千速が押村を睨む。

 

「お前は黙ってろ」

 

同期たちはどっと笑った。

 

その空気が懐かしかった。

 

警察学校時代の千速は、今より少しだけ尖っていた。

 

押村は今よりさらに無口で、必要なこと以外ほとんど喋らなかった。

 

それでも、二人はなぜかよく一緒にいた。

 

当時は恋人になるなんて、誰も思っていなかった。

 

本人たちでさえ。

 

乾杯が終わると、近況報告が始まった。

 

昇進した者。

異動した者。

地方署へ移った者。

怪我をして現場を離れた者。

 

それぞれの話を聞きながら、千速は楽しそうに笑っていた。

 

押村は静かに聞いている。

 

時折、同期から話を振られては短く答える。

 

「押村、捜査一課どうなんだよ。相変わらず忙しいのか?」

 

「忙しい時は忙しい」

 

「答えが押村すぎる」

 

「でも、萩原と付き合ってから少し丸くなったよな」

 

千速が飲み物を持ったまま固まる。

 

「何でそこで私が出る」

 

「いや、明らかに変わったって。昔なら“忙しいです”で終わってた」

 

押村は少し考えて言った。

 

「千速には、話すように言われている」

 

同期たちが一斉に反応した。

 

「おおー」

 

「何それ」

 

「いいじゃん」

 

千速は耳まで赤くなる。

 

「茶化すな」

 

同期の一人、女性警察官の宮原が笑った。

 

「いいなぁ。うちの旦那にも聞かせたい」

 

千速が反応する。

 

「旦那?」

 

「そうそう。私、去年結婚したんだよ」

 

「そうだったのか。おめでとう」

 

「ありがとう。子どもも今度生まれる予定」

 

「えっ、マジか」

 

「マジ」

 

周囲から拍手と祝福の声が上がる。

 

別の同期も手を上げた。

 

「俺も来月式なんだ」

 

「お前も?」

 

「地域課の同期と。まあ、付き合い長かったしな」

 

「うちはもう同棲三年目。結婚はまだだけど、そろそろかなって話してる」

 

同期会の話題は、いつの間にか結婚や同棲の話になっていた。

 

「勤務時間合わないと大変だよな」

 

「夜勤明けで帰ったら相手が出勤とか普通にある」

 

「でも一緒に住んでると、顔見られるだけで違うぞ」

 

「家事分担で揉めるけどな」

 

「うちは洗濯で一回本気の喧嘩した」

 

「警察官同士だと、仕事の愚痴を言いやすいのはいいよな」

 

「でも事件の話は守秘義務あるから、結局ふわっとしか話せない」

 

笑いながらも、皆どこか現実的だった。

 

結婚は夢だけではない。

 

同棲も甘いだけではない。

 

勤務、生活、家事、将来、家族。

 

そういう話が当たり前に出てくる年齢になったのだと、千速はふと思った。

 

三十一歳。

 

警察学校で泥だらけになって走っていた頃には、遠い未来の話だった。

 

でも今は、すぐ隣にある話だ。

 

千速は隣の押村を見る。

 

押村は静かに同期たちの話を聞いていた。

 

表情はいつも通りだ。

 

だが、何かを考えている顔だった。

 

千速は少しだけ胸の奥が落ち着かなくなった。

 

「で、萩原と押村は?」

 

突然、話がこちらへ向いた。

 

千速が顔を上げる。

 

「何が」

 

「何がって、結婚とか同棲とか考えてんの?」

 

飲み物を口に含んでいた千速は、危うくむせかけた。

 

押村もわずかに動きを止める。

 

同期たちは面白そうに二人を見る。

 

「付き合ってるんだろ?」

 

「二人とも忙しそうだけどさ」

 

「警察官同士なら、逆に分かり合えるんじゃない?」

 

千速は視線を泳がせた。

 

「いや、そういう話は……」

 

普段なら強気に返す。

 

「余計なお世話だ」とか、「聞くな」とか。

 

でも、なぜか今日は言葉が出てこなかった。

 

押村は少しだけ考えた後、静かに言った。

 

「まだ具体的には話していません」

 

千速は押村を見る。

 

押村は嘘をつかない。

 

その答えは正しい。

 

正しいが、なぜか千速の胸に小さく引っかかった。

 

まだ具体的には話していない。

 

つまり、考えたことはあるのだろうか。

 

同期の一人が笑う。

 

「押村らしい答えだな」

 

宮原が優しく言った。

 

「でも、話しておいた方がいいよ。結婚するかしないかだけじゃなくて、どう暮らしたいかって」

 

「どう暮らしたいか?」

 

千速が聞き返す。

 

宮原は頷く。

 

「うん。警察官同士って、勤務も不規則だし、急に呼び出しもあるし、休みも合わない。だから一緒に住むなら、家事とか生活リズムとか、ちゃんと話しておかないと意外とすれ違う」

 

別の同期も頷いた。

 

「俺、同棲始めた時にそれで揉めた。帰って寝るだけの家になって、相手が寂しがってたのに気づかなかった」

 

押村の目が少し動く。

 

千速も黙った。

 

寂しい。

 

その言葉が妙に残った。

 

千速は一人でいることに慣れている。

 

研二が殉職してから、同居していた部屋は広すぎた。

 

それでも、慣れるしかなかった。

 

松田がいなくなった時も、泣かずに立っていた。

 

一人で帰る部屋。

 

それは平気なはずだった。

 

でも、奏斗と付き合ってから。

 

たまに押村の家へ行くようになって。

 

一緒に飯を食って、くだらないことを言い合って、帰り際に少し寂しくなるようになった。

 

その変化を、千速は自分でもまだうまく扱えていなかった。

 

宮原が笑う。

 

「まあ、二人なら大丈夫そうだけどね」

 

千速がすぐ言う。

 

「何を根拠に」

 

「萩原は何だかんだ面倒見いいし、押村は真面目だし」

 

別の同期が口を挟む。

 

「でも押村は家事できるのか?」

 

押村は淡々と答えた。

 

「最低限は」

 

「最低限って怪しいな」

 

千速が横から言う。

 

「奏斗の家は普通に片付いてるぞ」

 

同期たちが一斉ににやにやする。

 

「あれ、家行ってるんだ」

 

千速はしまった、という顔をした。

 

押村は普通に頷く。

 

「来ることはある」

 

「押村、そこで普通に言うな!」

 

千速が小声で怒る。

 

押村は不思議そうに見る。

 

「事実だ」

 

「そういうとこだよ!」

 

同期たちはまた笑った。

 

同期会が終わったのは、夜十時前だった。

 

店の外に出ると、少し冷たい風が吹いていた。

 

同期たちは駅へ向かってばらばらに歩き出す。

 

「また集まろうな」

 

「次は誰かの結婚式かもな」

 

「萩原と押村だったりして」

 

「うるせぇ!」

 

千速の怒鳴り声に、同期たちは笑いながら手を振って去っていった。

 

気づけば、押村と千速の二人だけが少し後ろに残っていた。

 

駅までの道を並んで歩く。

 

しばらく、二人とも黙っていた。

 

沈黙は気まずくはない。

 

けれど、いつもより少しだけ重い。

 

千速が先に口を開いた。

 

「みんな、変わってたな」

 

押村は頷く。

 

「ああ」

 

「結婚とか、子どもとか、同棲とか」

 

「はい」

 

千速は横目で押村を見る。

 

「お前、敬語になってる」

 

押村は少しだけ瞬きをした。

 

「そうか」

 

「考え事してる時、たまに戻る」

 

「気をつける」

 

「別にいいけど」

 

また少し黙る。

 

千速はポケットに手を入れた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「さっきの話」

 

「結婚や同棲の話か」

 

「直球で言うな」

 

「すまない」

 

千速は軽く息を吐いた。

 

「考えたこと、あるのか」

 

押村はすぐには答えなかった。

 

だが、目を逸らしもしなかった。

 

「ある」

 

千速の胸が少し跳ねた。

 

「……あるのか」

 

「はい。いや、ある」

 

押村は言い直した。

 

千速は前を向く。

 

「そっか」

 

「千速は?」

 

聞かれると、なぜか答えに詰まった。

 

自分から聞いたのに。

 

「私は……」

 

千速は夜道の先を見た。

 

「考えないようにしてたかもしれねぇ」

 

「なぜ」

 

「怖いから」

 

押村は黙って千速を見る。

 

千速は笑おうとして、うまく笑えなかった。

 

「一緒に住むとか、結婚とか。そういうのってさ、嬉しいことのはずだろ」

 

「うん」

 

「でも、私は一度、一緒に住んでた家族を突然失ってる」

 

押村の表情が静かに変わる。

 

研二。

 

千速の弟。

 

一緒に暮らしていた弟が、爆弾解体中に殉職した。

 

あの日から、千速の家は一人の場所になった。

 

「誰かと暮らすことを考えると、嬉しいより先に、失うことを考える」

 

千速の声は静かだった。

 

「朝、行ってらっしゃいって送り出して、そのまま帰ってこなかったらどうするんだろうって」

 

押村は何も言わなかった。

 

千速は続ける。

 

「お前も刑事だ。危ない現場に行く。私は白バイに乗る。お互い、絶対に帰ってくる保証なんかない」

 

「うん」

 

「だったら最初から、一人の方が楽なんじゃないかって思う時がある」

 

押村は足を止めた。

 

千速も少し先で止まり、振り返る。

 

押村はまっすぐ千速を見ていた。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「俺も怖い」

 

千速は目を少し開いた。

 

押村がそういうことを自分から言うのは珍しい。

 

「君が白バイに乗って出ていく時、無事に戻ると分かっていても、怖い時がある」

 

「奏斗……」

 

「事件現場で君が危険な場所へ行くと、止めたいと思う時もある。でも、君は白バイ隊員で、警察官だ。俺がその足を止めることはできない」

 

押村は静かに言った。

 

「だから、怖い」

 

千速は言葉を失った。

 

押村はさらに続ける。

 

「一緒にいる時間が増えれば、その怖さも増えると思う」

 

「……なら」

 

千速が言いかける。

 

押村は首を横に振った。

 

「でも、一緒にいない方が楽だとは思わない」

 

千速の胸が詰まる。

 

押村は少しだけ柔らかい声で言った。

 

「怖くても、帰る場所が君のいる場所ならいいと思っている」

 

千速は顔を伏せた。

 

こんな場所で。

 

駅へ向かう夜道で。

 

何でもない顔をして、そんなことを言う。

 

「お前、本当にさ……」

 

「何だ」

 

「そういうこと、急に言うな」

 

「急だったか」

 

「急だよ」

 

千速は目元をこすった。

 

泣いてはいない。

 

泣いてはいないが、少し危なかった。

 

押村は一歩近づく。

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

「分かった」

 

千速は深く息を吸った。

 

それから、少しだけ笑った。

 

「でも、嬉しかった」

 

押村の表情がわずかに和らぐ。

 

「そうか」

 

「うん」

 

駅の近くのベンチに、二人は並んで座った。

 

帰るにはまだ少し早かった。

 

話すべきことがある気がした。

 

千速は自販機で買った温かい缶コーヒーを両手で包んでいる。

 

押村は隣で同じ缶を持っていた。

 

「同棲ってさ」

 

千速がぽつりと言う。

 

押村が横を見る。

 

「うん」

 

「実際、どうなんだろうな」

 

「生活リズムは合わないと思う」

 

「いきなり現実的だな」

 

「大事なことだ」

 

「まあな」

 

千速は少し笑う。

 

「お前、家事は最低限って言ってたけど、具体的には?」

 

押村は真面目に答える。

 

「掃除、洗濯、簡単な料理」

 

「簡単な料理?」

 

「焼く、茹でる、炒める」

 

「煮るは?」

 

「頻度は低い」

 

「何だよ、その回答」

 

押村は少し考える。

 

「カレーは作れる」

 

千速は吹き出した。

 

「急に家庭感出たな」

 

「問題あるか」

 

「ない。今度作れ」

 

「分かった」

 

千速は缶コーヒーを口に運ぶ。

 

「私は仕事が不規則だし、急な呼び出しもある。白バイの訓練で疲れて帰る日もある。機嫌悪い日もある」

 

「知っている」

 

「知ってるって何だ」

 

「そのままの意味だ」

 

「喧嘩売ってるか?」

 

「売っていない」

 

千速は少し笑った。

 

押村もほんの少し笑う。

 

千速は続けた。

 

「あと、私はたぶん、素直に甘えるのが下手だ」

 

「知っている」

 

「だからその言い方」

 

「すまない」

 

「まあ、事実だけど」

 

千速は缶を見つめた。

 

「でも、もし一緒に住むなら……ちゃんと話す。黙らない。嫌なことも、怖いことも」

 

押村は頷いた。

 

「俺も話す」

 

「お前は特にだぞ」

 

「はい」

 

「敬語」

 

「ああ」

 

千速は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「結婚は?」

 

その言葉を自分で言って、千速は少し耳が熱くなった。

 

押村は驚かなかった。

 

ただ、少しだけ真剣な顔になった。

 

「考えている」

 

千速は缶を握る手に力を入れた。

 

「そうか」

 

「ただ、今すぐ勢いで決めることではないと思っている」

 

「うん」

 

「君の仕事も、俺の仕事もある。住む場所、生活、将来。ちゃんと話す必要がある」

 

「真面目だな」

 

「大事なことだから」

 

千速は小さく笑う。

 

「そういうとこ、嫌いじゃない」

 

押村は千速を見る。

 

「俺は、君と結婚したいと思っている」

 

千速は完全に固まった。

 

缶コーヒーを落としそうになり、慌てて握り直す。

 

「お、お前な……!」

 

押村は真面目な顔のまま続ける。

 

「今すぐという意味ではない。でも、いつかの話として、考えている」

 

千速は顔を真っ赤にして押村を見る。

 

「そういうのは、もう少し段階を踏め!」

 

「段階?」

 

「もっとこう、雰囲気とか、場所とか!」

 

押村は周囲を見る。

 

駅前のベンチ。

自販機の明かり。

遠くの電車の音。

 

「確かに、今言うべきではなかったかもしれない」

 

「遅いわ!」

 

押村は少し困った顔をする。

 

「取り消した方がいいか」

 

千速は即座に言った。

 

「取り消すな」

 

押村は黙った。

 

千速も黙った。

 

数秒後、千速は顔を逸らしながら言った。

 

「……嬉しかったから」

 

押村の目が柔らかくなる。

 

「そうか」

 

「ただ、次にそういうこと言う時は、ちゃんとしろ」

 

「ちゃんと?」

 

「ちゃんとだ」

 

「分かった。考える」

 

「考えすぎて変なことするなよ」

 

押村は少しだけ真剣に悩む顔をした。

 

千速はそれを見て笑った。

 

「今から悩むな」

 

「大事なことだから」

 

「本当に真面目だな、お前」

 

でも、その真面目さが嬉しかった。

 

軽く言われたわけではない。

 

勢いで言われたわけでもない。

 

押村は押村なりに、ずっと考えていたのだ。

 

千速との未来を。

 

一緒に暮らすことを。

 

結婚することを。

 

千速は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 

それと同時に、少し怖かった。

 

でも、その怖さを今は一人で抱えなくていい。

 

隣に、同じように怖いと言ってくれる人がいる。

 

帰り道。

 

二人は駅の改札前で立ち止まった。

 

千速はいつもなら軽く手を振って帰る。

 

だが今日は、少しだけ迷った。

 

押村が言う。

 

「送る」

 

「方向違うだろ」

 

「送る」

 

「頑固だな」

 

「今日はそうしたい」

 

千速は少し笑った。

 

「じゃあ、途中まで」

 

二人は並んで歩き出した。

 

しばらくして、千速が言う。

 

「同棲の話」

 

「うん」

 

「今度、ちゃんとしよう」

 

押村は頷いた。

 

「分かった」

 

「勢いじゃなくて、ちゃんと。勤務のこととか、家のこととか、色々」

 

「ああ」

 

「結婚の話も……まあ、そのうち」

 

押村は千速を見る。

 

千速は前を向いたまま、少し赤い顔で言った。

 

「何だよ」

 

「嬉しい」

 

「だから真顔で言うな」

 

「すまない」

 

千速は小さく笑った。

 

そして、少しだけ手を伸ばす。

 

押村の手に、指先が触れた。

 

押村は自然にその手を握った。

 

千速は何も言わなかった。

 

押村も何も言わなかった。

 

夜の道を、二人で歩く。

 

結婚も、同棲も、まだ具体的には決まっていない。

 

でも、今日初めて、二人は同じ方向を見た。

 

警察官としての現実。

失うことへの怖さ。

一緒にいることの温かさ。

生活の不安。

未来への期待。

 

その全部を、少しずつ言葉にしていけばいい。

 

黙らずに。

 

抱え込まずに。

 

千速は隣の押村を見上げた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「カレー、今度作れよ」

 

押村は真面目に頷いた。

 

「分かった」

 

「まずはそこからだな」

 

「同棲の前に?」

 

「そうだ。お前の生活力を確認する」

 

「重要だな」

 

「重要だ」

 

押村は少しだけ笑った。

 

千速も笑った。

 

遠くで電車の音がした。

 

街の明かりの下、二人の影が並んで伸びていく。

 

未来はまだ決まっていない。

 

でも、そこへ向かう道は、もう一人で歩くものではなかった。

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