神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

5 / 67
第5話 白バイの追跡

夕暮れの横浜に、サイレンが響いた。

 

赤く染まり始めた空の下、萩原千速の白バイは産業道路へ向かって一直線に駆けていた。

 

前方には渋滞気味の車列。

左には大型トラック。

右には工場地帯へ続く側道。

 

そのわずかな隙間を、千速は迷いなく抜けていく。

 

後ろに乗る押村奏斗は、ヘルメット越しに前方を見据えていた。

 

普段なら捜査車両の助手席で資料をめくっている。

だが今は、白バイの後部座席で、風を切っている。

 

状況は異常だった。

 

「萩原、速度を落とせ」

 

押村が言った。

 

千速は前を向いたまま答える。

 

「落としたら見失う」

 

「危険だ」

 

「分かってる」

 

「分かっている運転には見えない」

 

「うるせぇな。私を誰だと思ってんだ」

 

押村は短く息を吐いた。

 

「第三交通機動隊小隊長、萩原千速警部補」

 

「そういうところは律儀だな、奏斗」

 

千速はわずかに笑った。

 

その瞬間、無線が鳴る。

 

『第三交機より萩原小隊長。対象車両と思われる黒いセダン、産業道路を南下中。速度を上げています』

 

千速の目が鋭くなる。

 

「了解。現在向かってる。対象の特徴は?」

 

『古い型の黒いクラウン。左後部バンパーに白い擦過痕あり。ナンバーは確認不能。運転がかなり荒いです』

 

押村が声を低くする。

 

「やはり同じ特徴だ」

 

「本牧の車とは別個体か?」

 

「その可能性が高い。三年前の事件に複数の車両が使われていたか、あるいは同じ特徴を意図的につけている」

 

「偽装か」

 

「はい」

 

千速は舌打ちした。

 

「面倒くせぇことしやがる」

 

白バイは交差点を鋭く曲がる。

 

前方、赤信号の向こうに黒い車影が見えた。

 

古い型のセダン。

黒いボディ。

左後部に白い傷。

 

千速が低く呟く。

 

「いた」

 

押村の目も細くなる。

 

「対象確認」

 

千速は無線に叫んだ。

 

「萩原、対象を視認。産業道路南下中。各隊、前方を塞げ。一般車を巻き込むな!」

 

『了解!』

 

黒いセダンは信号を無視して交差点へ突っ込んだ。

 

クラクションが鳴り響く。

急ブレーキの音。

歩道の通行人が驚いて振り返る。

 

千速は歯を食いしばった。

 

「あの野郎……!」

 

白バイが一気に加速する。

 

押村は片手で千速の腰を支えながら、もう片方の手でスマホを確認した。

 

「前方二キロ先、鶴見大橋方面に向かっています」

 

「逃げ道は?」

 

「橋を渡れば湾岸方面へ抜けられる。港湾部に入られたら厄介です」

 

「じゃあ、その前に止める」

 

千速の声は迷いがなかった。

 

押村は彼女の背中を見た。

 

白バイ隊員としての千速は、普段の男勝りな態度とはまた違う鋭さを持っていた。

道路の流れを読み、車間を読み、危険を一瞬で判断する。

 

その判断は乱暴に見えて、無駄がない。

 

彼女は道路の上で戦う人間だった。

 

黒いセダンが左へ大きく振れた。

 

「来るぞ!」

 

千速が叫ぶ。

 

次の瞬間、セダンは前方のトラックを避けるように急ハンドルを切り、側道へ滑り込んだ。

 

千速も迷わず追う。

 

狭い側道。

両脇には倉庫の壁。

路面には砂利が散っている。

 

白バイのタイヤが小さく跳ねた。

 

押村は思わず体に力を込めた。

 

「萩原!」

 

「掴まってろ!」

 

千速は姿勢を低くし、バイクをねじ伏せるように走らせる。

 

黒いセダンとの差が少しずつ縮まる。

 

その時、助手席の窓が開いた。

 

押村の目が鋭くなる。

 

「萩原、車内に二名!」

 

「何だと?」

 

黒いセダンの助手席から、黒い何かが投げ出された。

 

小さな金属音。

 

道路上を転がるそれを見た瞬間、押村は叫んだ。

 

「スパイクだ!」

 

千速は反射的に車体を倒した。

 

白バイはスパイクを紙一重で避け、側道の端を走る。

 

だが、避けきれなかった金属片が後輪をかすめた。

 

車体が大きく揺れる。

 

「くっ……!」

 

千速がハンドルを押さえ込む。

 

押村の体も振られた。

 

それでも千速は転倒させなかった。

 

白バイは蛇行しながらも、何とか体勢を立て直す。

 

押村は背後を確認した。

 

「後続なし。一般車への被害はありません」

 

「上等だ」

 

千速は荒く息を吐いた。

 

「奏斗、あいつら本気で殺しにきてるぞ」

 

「はい」

 

「怖くなったか?」

 

「萩原が運転している以上、別の意味では怖い」

 

「この状況で皮肉言えるなら大丈夫だな」

 

千速は笑った。

 

だが、その目は笑っていなかった。

 

黒いセダンはさらに速度を上げる。

 

側道を抜けた先は、埠頭へ続く直線道路。

周囲に人影は少ない。

 

押村のスマホが震えた。

 

横溝重悟からの着信だった。

 

押村はすぐに応答する。

 

「押村です」

 

『押村、聞け。佐伯慎吾の所在を押さえた』

 

「どこですか」

 

『県警にはいねぇ。自宅にも戻ってない。だが、携帯の最終位置が出た』

 

押村の顔が険しくなる。

 

「場所は?」

 

『鶴見の港湾倉庫街だ。お前らが追ってる対象の進行方向と重なる』

 

押村は息を呑んだ。

 

「佐伯が、逃走車両と合流する可能性があります」

 

『ああ。押村、千速、無理はするな。俺も向かってる』

 

横溝の声は荒かったが、その奥に焦りがあった。

 

「分かりました」

 

通話を切ると、千速がすぐに聞いた。

 

「佐伯か?」

 

「はい。進行方向にいます」

 

「じゃあ、あの車は佐伯を拾いに行ってるのか」

 

「あるいは、佐伯を消しに行っている」

 

千速の表情が険しくなった。

 

「仲間割れか」

 

「内通者が複数いるなら、口封じは十分あり得ます」

 

黒いセダンは港湾倉庫街へ入っていった。

 

夕陽は倉庫の影に隠れ、周囲は急に暗くなる。

 

コンテナが積み上がり、道路は迷路のように入り組んでいた。

 

千速は速度を落とした。

 

「視界が悪い。突っ込むと危ねぇ」

 

「正しい判断です」

 

「珍しく素直だな」

 

「事実だからな」

 

その時、前方から衝突音が響いた。

 

金属が潰れるような鈍い音。

 

千速は白バイを急停止させた。

 

押村は即座に降りる。

 

「前方です」

 

二人は走った。

 

倉庫と倉庫の間の路地。

その奥で、黒いセダンがコンテナに突っ込んでいた。

 

フロント部分は大きく潰れている。

煙が上がっている。

 

千速は無線で応援を要請する。

 

「萩原、対象車両停止。場所は鶴見港湾倉庫街、第三ブロック付近。救急と消防を要請!」

 

押村は拳銃に手をかけながら、車両へ近づいた。

 

「警察だ! 車内の者は手を見える位置に出せ!」

 

返答はない。

 

運転席には男が一人、ぐったりしている。

助手席は空だった。

 

押村は目を細めた。

 

「助手席の人物がいない」

 

千速が周囲を見回す。

 

「逃げたか」

 

その時、倉庫の陰から物音がした。

 

千速が即座に反応する。

 

「そこか!」

 

彼女は走り出した。

 

「萩原、待て!」

 

押村も追う。

 

倉庫の裏手。

薄暗い通路。

錆びた鉄階段。

 

そこに、男が一人立っていた。

 

中年の男。

乱れたスーツ。

顔には焦りと恐怖が浮かんでいる。

 

押村はその顔を資料で見ていた。

 

「佐伯慎吾」

 

男は大きく肩を震わせた。

 

千速が一歩前に出る。

 

「逃げるなよ。走ったら私が捕まえる」

 

佐伯は震える声で言った。

 

「違う……俺じゃない……」

 

押村は静かに拳銃を構えた。

 

「何が違うんですか」

 

「俺は……命令されただけだ」

 

千速が眉をひそめる。

 

「三年前の車両照会を止めたことか」

 

佐伯の顔色が変わる。

 

「なぜそれを……」

 

「答えろ」

 

押村の声は静かだった。

 

静かだからこそ、逃げ場がなかった。

 

佐伯は壁にもたれかかり、崩れるように膝をついた。

 

「俺は……車両リストから一台外せと言われただけだ。詳しい理由は聞いてない」

 

「誰に」

 

佐伯は唇を震わせた。

 

「言えない」

 

千速が一歩詰める。

 

「今さら何を守ってんだ。村瀬は殺された。三浦も殺されかけた。次はあんたかもしれねぇんだぞ」

 

佐伯は目を見開いた。

 

その目には、明確な恐怖があった。

 

「もう……遅い」

 

「何が遅い」

 

押村が問う。

 

佐伯は震える手でポケットから何かを取り出そうとした。

 

押村が鋭く叫ぶ。

 

「手を止めろ!」

 

だが、それは武器ではなかった。

 

古い携帯電話だった。

 

佐伯はそれを地面に置いた。

 

「この中に……残ってる」

 

「何がですか」

 

「三年前の通話記録と、録音だ」

 

押村と千速が顔を見合わせる。

 

佐伯は涙を浮かべながら言った。

 

「俺は怖かった。相手が誰か知って、逆らえなかった。でも……村瀬が死んで、三浦まで……もう無理だ」

 

千速が低く言う。

 

「相手は誰だ」

 

佐伯はゆっくりと顔を上げた。

 

その時だった。

 

乾いた音が響いた。

 

銃声。

 

佐伯の肩が跳ね、血が飛んだ。

 

「伏せろ!」

 

押村が叫び、千速を引き寄せた。

 

二人はコンテナの陰に飛び込む。

 

佐伯は地面に倒れ、苦しげに呻いた。

 

押村は銃声の方向を見る。

 

倉庫の二階通路。

そこに黒い影が見えた。

 

拳銃を持った人物。

 

顔は見えない。

 

千速が歯を食いしばる。

 

「狙撃かよ……!」

 

押村は冷静に佐伯の位置を確認した。

 

「佐伯はまだ生きています」

 

「助けに行くぞ」

 

「危険です」

 

「分かってる!」

 

千速は押村を睨んだ。

 

「でも、ここで死なせたら全部終わるだろうが!」

 

押村は一瞬だけ目を伏せた。

 

そして頷いた。

 

「援護します。萩原は佐伯を」

 

「任せろ」

 

押村はコンテナの陰から身を乗り出し、拳銃を構えた。

 

「警察だ! 武器を捨てろ!」

 

返答の代わりに、再び銃声が響いた。

 

弾がコンテナに当たり、火花が散る。

 

千速はその隙に走った。

 

低い姿勢で、一気に佐伯のもとへ向かう。

 

「萩原!」

 

押村は銃撃方向に威嚇射撃を行った。

 

影がわずかに後退する。

 

千速は佐伯の襟を掴み、力任せに引きずった。

 

「おい、死ぬな! あんたには話してもらうことが山ほどあるんだよ!」

 

佐伯は苦しげに呻く。

 

「電話……電話を……」

 

「分かってる!」

 

千速は佐伯をコンテナ陰まで引きずり込んだ。

 

押村もすぐに合流する。

 

「萩原、怪我は」

 

「ない。佐伯は肩を撃たれてる」

 

押村はすぐに止血を始めた。

 

千速は地面に転がっていた古い携帯電話を拾い上げる。

 

「奏斗、これ」

 

押村は携帯を受け取った。

 

その瞬間、再びスマホが震えた。

 

差出人不明のメール。

 

本文には、こう書かれていた。

 

『佐伯を渡せ。萩原千速を殺されたくなければ』

 

押村の目が暗く沈んだ。

 

千速はその画面を見て、鼻で笑った。

 

「しつこいな。そんなに私を殺したいなら、正面から来いってんだ」

 

「萩原」

 

「何だ」

 

「今度は俺が言う」

 

押村は彼女を見た。

 

「無茶はするな」

 

千速は少し驚いた顔をした。

 

そして、すぐに笑う。

 

「お前に言われると腹立つな」

 

「自覚はある」

 

その時、遠くからパトカーのサイレンが近づいてきた。

 

横溝の怒鳴り声が響く。

 

「押村! 千速!」

 

横溝が拳銃を構えながら走ってくる。

 

その後ろには応援の刑事たち。

 

銃撃していた影は、すでに姿を消していた。

 

横溝は佐伯を見て舌打ちする。

 

「くそっ、やられたか」

 

「生きています」

 

押村は言った。

 

「そして、証拠も残りました」

 

彼は古い携帯電話を握りしめた。

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「中身は」

 

「三年前の通話記録と録音だそうです」

 

千速が倉庫の二階通路を睨む。

 

「でも、撃ったやつは逃げた」

 

横溝は奥歯を噛みしめた。

 

「そいつが本丸かもしれねぇな」

 

押村は黒い倉庫の闇を見つめた。

 

三年前の車両照会を止めた佐伯。

佐伯を撃った謎の人物。

複数の黒いセダン。

そして、警察内部に潜む本当の黒幕。

 

事件は、ようやく一つの扉を開けた。

 

だが、その向こうにあったのは、さらに深い闇だった。

 

救急隊が到着し、佐伯が担架に乗せられる。

 

運ばれる直前、佐伯は押村の腕を掴んだ。

 

「押村……」

 

「話さないでください」

 

「違う……これだけは……」

 

佐伯は血の気のない唇で、かすかに言った。

 

「三年前の夜……運転していたのは……」

 

押村は息を呑む。

 

横溝も千速も、佐伯に視線を向けた。

 

佐伯は震える声で続けた。

 

「警察官じゃない……」

 

千速が眉をひそめる。

 

「どういう意味だ」

 

佐伯の目から涙が落ちた。

 

「警察官の……息子だ……」

 

その言葉を最後に、佐伯は意識を失った。

 

夜の港に、救急車の赤い光が回る。

 

押村は動けなかった。

 

警察官本人ではない。

警察官の息子。

 

では、三浦が言った「警察の人間」とは何だったのか。

 

誰が息子を守るために、三年前の事件を潰したのか。

 

横溝が低く言った。

 

「押村」

 

「はい」

 

「この事件、上層部まで食い込んでるぞ」

 

押村は静かに頷いた。

 

千速は拳を握りしめ、夜の倉庫街を睨んだ。

 

「だったら、上まで引きずり出すだけだ」

 

その言葉に、押村は小さく頷いた。

 

黒いセダンの闇は、ただの車ではなかった。

誰かの罪を隠すために走り続けた、三年前からの亡霊だった。

 

そしてその亡霊は今、県警の奥深くへと続く道を示していた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。