夕暮れの横浜に、サイレンが響いた。
赤く染まり始めた空の下、萩原千速の白バイは産業道路へ向かって一直線に駆けていた。
前方には渋滞気味の車列。
左には大型トラック。
右には工場地帯へ続く側道。
そのわずかな隙間を、千速は迷いなく抜けていく。
後ろに乗る押村奏斗は、ヘルメット越しに前方を見据えていた。
普段なら捜査車両の助手席で資料をめくっている。
だが今は、白バイの後部座席で、風を切っている。
状況は異常だった。
「萩原、速度を落とせ」
押村が言った。
千速は前を向いたまま答える。
「落としたら見失う」
「危険だ」
「分かってる」
「分かっている運転には見えない」
「うるせぇな。私を誰だと思ってんだ」
押村は短く息を吐いた。
「第三交通機動隊小隊長、萩原千速警部補」
「そういうところは律儀だな、奏斗」
千速はわずかに笑った。
その瞬間、無線が鳴る。
『第三交機より萩原小隊長。対象車両と思われる黒いセダン、産業道路を南下中。速度を上げています』
千速の目が鋭くなる。
「了解。現在向かってる。対象の特徴は?」
『古い型の黒いクラウン。左後部バンパーに白い擦過痕あり。ナンバーは確認不能。運転がかなり荒いです』
押村が声を低くする。
「やはり同じ特徴だ」
「本牧の車とは別個体か?」
「その可能性が高い。三年前の事件に複数の車両が使われていたか、あるいは同じ特徴を意図的につけている」
「偽装か」
「はい」
千速は舌打ちした。
「面倒くせぇことしやがる」
白バイは交差点を鋭く曲がる。
前方、赤信号の向こうに黒い車影が見えた。
古い型のセダン。
黒いボディ。
左後部に白い傷。
千速が低く呟く。
「いた」
押村の目も細くなる。
「対象確認」
千速は無線に叫んだ。
「萩原、対象を視認。産業道路南下中。各隊、前方を塞げ。一般車を巻き込むな!」
『了解!』
黒いセダンは信号を無視して交差点へ突っ込んだ。
クラクションが鳴り響く。
急ブレーキの音。
歩道の通行人が驚いて振り返る。
千速は歯を食いしばった。
「あの野郎……!」
白バイが一気に加速する。
押村は片手で千速の腰を支えながら、もう片方の手でスマホを確認した。
「前方二キロ先、鶴見大橋方面に向かっています」
「逃げ道は?」
「橋を渡れば湾岸方面へ抜けられる。港湾部に入られたら厄介です」
「じゃあ、その前に止める」
千速の声は迷いがなかった。
押村は彼女の背中を見た。
白バイ隊員としての千速は、普段の男勝りな態度とはまた違う鋭さを持っていた。
道路の流れを読み、車間を読み、危険を一瞬で判断する。
その判断は乱暴に見えて、無駄がない。
彼女は道路の上で戦う人間だった。
黒いセダンが左へ大きく振れた。
「来るぞ!」
千速が叫ぶ。
次の瞬間、セダンは前方のトラックを避けるように急ハンドルを切り、側道へ滑り込んだ。
千速も迷わず追う。
狭い側道。
両脇には倉庫の壁。
路面には砂利が散っている。
白バイのタイヤが小さく跳ねた。
押村は思わず体に力を込めた。
「萩原!」
「掴まってろ!」
千速は姿勢を低くし、バイクをねじ伏せるように走らせる。
黒いセダンとの差が少しずつ縮まる。
その時、助手席の窓が開いた。
押村の目が鋭くなる。
「萩原、車内に二名!」
「何だと?」
黒いセダンの助手席から、黒い何かが投げ出された。
小さな金属音。
道路上を転がるそれを見た瞬間、押村は叫んだ。
「スパイクだ!」
千速は反射的に車体を倒した。
白バイはスパイクを紙一重で避け、側道の端を走る。
だが、避けきれなかった金属片が後輪をかすめた。
車体が大きく揺れる。
「くっ……!」
千速がハンドルを押さえ込む。
押村の体も振られた。
それでも千速は転倒させなかった。
白バイは蛇行しながらも、何とか体勢を立て直す。
押村は背後を確認した。
「後続なし。一般車への被害はありません」
「上等だ」
千速は荒く息を吐いた。
「奏斗、あいつら本気で殺しにきてるぞ」
「はい」
「怖くなったか?」
「萩原が運転している以上、別の意味では怖い」
「この状況で皮肉言えるなら大丈夫だな」
千速は笑った。
だが、その目は笑っていなかった。
黒いセダンはさらに速度を上げる。
側道を抜けた先は、埠頭へ続く直線道路。
周囲に人影は少ない。
押村のスマホが震えた。
横溝重悟からの着信だった。
押村はすぐに応答する。
「押村です」
『押村、聞け。佐伯慎吾の所在を押さえた』
「どこですか」
『県警にはいねぇ。自宅にも戻ってない。だが、携帯の最終位置が出た』
押村の顔が険しくなる。
「場所は?」
『鶴見の港湾倉庫街だ。お前らが追ってる対象の進行方向と重なる』
押村は息を呑んだ。
「佐伯が、逃走車両と合流する可能性があります」
『ああ。押村、千速、無理はするな。俺も向かってる』
横溝の声は荒かったが、その奥に焦りがあった。
「分かりました」
通話を切ると、千速がすぐに聞いた。
「佐伯か?」
「はい。進行方向にいます」
「じゃあ、あの車は佐伯を拾いに行ってるのか」
「あるいは、佐伯を消しに行っている」
千速の表情が険しくなった。
「仲間割れか」
「内通者が複数いるなら、口封じは十分あり得ます」
黒いセダンは港湾倉庫街へ入っていった。
夕陽は倉庫の影に隠れ、周囲は急に暗くなる。
コンテナが積み上がり、道路は迷路のように入り組んでいた。
千速は速度を落とした。
「視界が悪い。突っ込むと危ねぇ」
「正しい判断です」
「珍しく素直だな」
「事実だからな」
その時、前方から衝突音が響いた。
金属が潰れるような鈍い音。
千速は白バイを急停止させた。
押村は即座に降りる。
「前方です」
二人は走った。
倉庫と倉庫の間の路地。
その奥で、黒いセダンがコンテナに突っ込んでいた。
フロント部分は大きく潰れている。
煙が上がっている。
千速は無線で応援を要請する。
「萩原、対象車両停止。場所は鶴見港湾倉庫街、第三ブロック付近。救急と消防を要請!」
押村は拳銃に手をかけながら、車両へ近づいた。
「警察だ! 車内の者は手を見える位置に出せ!」
返答はない。
運転席には男が一人、ぐったりしている。
助手席は空だった。
押村は目を細めた。
「助手席の人物がいない」
千速が周囲を見回す。
「逃げたか」
その時、倉庫の陰から物音がした。
千速が即座に反応する。
「そこか!」
彼女は走り出した。
「萩原、待て!」
押村も追う。
倉庫の裏手。
薄暗い通路。
錆びた鉄階段。
そこに、男が一人立っていた。
中年の男。
乱れたスーツ。
顔には焦りと恐怖が浮かんでいる。
押村はその顔を資料で見ていた。
「佐伯慎吾」
男は大きく肩を震わせた。
千速が一歩前に出る。
「逃げるなよ。走ったら私が捕まえる」
佐伯は震える声で言った。
「違う……俺じゃない……」
押村は静かに拳銃を構えた。
「何が違うんですか」
「俺は……命令されただけだ」
千速が眉をひそめる。
「三年前の車両照会を止めたことか」
佐伯の顔色が変わる。
「なぜそれを……」
「答えろ」
押村の声は静かだった。
静かだからこそ、逃げ場がなかった。
佐伯は壁にもたれかかり、崩れるように膝をついた。
「俺は……車両リストから一台外せと言われただけだ。詳しい理由は聞いてない」
「誰に」
佐伯は唇を震わせた。
「言えない」
千速が一歩詰める。
「今さら何を守ってんだ。村瀬は殺された。三浦も殺されかけた。次はあんたかもしれねぇんだぞ」
佐伯は目を見開いた。
その目には、明確な恐怖があった。
「もう……遅い」
「何が遅い」
押村が問う。
佐伯は震える手でポケットから何かを取り出そうとした。
押村が鋭く叫ぶ。
「手を止めろ!」
だが、それは武器ではなかった。
古い携帯電話だった。
佐伯はそれを地面に置いた。
「この中に……残ってる」
「何がですか」
「三年前の通話記録と、録音だ」
押村と千速が顔を見合わせる。
佐伯は涙を浮かべながら言った。
「俺は怖かった。相手が誰か知って、逆らえなかった。でも……村瀬が死んで、三浦まで……もう無理だ」
千速が低く言う。
「相手は誰だ」
佐伯はゆっくりと顔を上げた。
その時だった。
乾いた音が響いた。
銃声。
佐伯の肩が跳ね、血が飛んだ。
「伏せろ!」
押村が叫び、千速を引き寄せた。
二人はコンテナの陰に飛び込む。
佐伯は地面に倒れ、苦しげに呻いた。
押村は銃声の方向を見る。
倉庫の二階通路。
そこに黒い影が見えた。
拳銃を持った人物。
顔は見えない。
千速が歯を食いしばる。
「狙撃かよ……!」
押村は冷静に佐伯の位置を確認した。
「佐伯はまだ生きています」
「助けに行くぞ」
「危険です」
「分かってる!」
千速は押村を睨んだ。
「でも、ここで死なせたら全部終わるだろうが!」
押村は一瞬だけ目を伏せた。
そして頷いた。
「援護します。萩原は佐伯を」
「任せろ」
押村はコンテナの陰から身を乗り出し、拳銃を構えた。
「警察だ! 武器を捨てろ!」
返答の代わりに、再び銃声が響いた。
弾がコンテナに当たり、火花が散る。
千速はその隙に走った。
低い姿勢で、一気に佐伯のもとへ向かう。
「萩原!」
押村は銃撃方向に威嚇射撃を行った。
影がわずかに後退する。
千速は佐伯の襟を掴み、力任せに引きずった。
「おい、死ぬな! あんたには話してもらうことが山ほどあるんだよ!」
佐伯は苦しげに呻く。
「電話……電話を……」
「分かってる!」
千速は佐伯をコンテナ陰まで引きずり込んだ。
押村もすぐに合流する。
「萩原、怪我は」
「ない。佐伯は肩を撃たれてる」
押村はすぐに止血を始めた。
千速は地面に転がっていた古い携帯電話を拾い上げる。
「奏斗、これ」
押村は携帯を受け取った。
その瞬間、再びスマホが震えた。
差出人不明のメール。
本文には、こう書かれていた。
『佐伯を渡せ。萩原千速を殺されたくなければ』
押村の目が暗く沈んだ。
千速はその画面を見て、鼻で笑った。
「しつこいな。そんなに私を殺したいなら、正面から来いってんだ」
「萩原」
「何だ」
「今度は俺が言う」
押村は彼女を見た。
「無茶はするな」
千速は少し驚いた顔をした。
そして、すぐに笑う。
「お前に言われると腹立つな」
「自覚はある」
その時、遠くからパトカーのサイレンが近づいてきた。
横溝の怒鳴り声が響く。
「押村! 千速!」
横溝が拳銃を構えながら走ってくる。
その後ろには応援の刑事たち。
銃撃していた影は、すでに姿を消していた。
横溝は佐伯を見て舌打ちする。
「くそっ、やられたか」
「生きています」
押村は言った。
「そして、証拠も残りました」
彼は古い携帯電話を握りしめた。
横溝の目が鋭くなる。
「中身は」
「三年前の通話記録と録音だそうです」
千速が倉庫の二階通路を睨む。
「でも、撃ったやつは逃げた」
横溝は奥歯を噛みしめた。
「そいつが本丸かもしれねぇな」
押村は黒い倉庫の闇を見つめた。
三年前の車両照会を止めた佐伯。
佐伯を撃った謎の人物。
複数の黒いセダン。
そして、警察内部に潜む本当の黒幕。
事件は、ようやく一つの扉を開けた。
だが、その向こうにあったのは、さらに深い闇だった。
救急隊が到着し、佐伯が担架に乗せられる。
運ばれる直前、佐伯は押村の腕を掴んだ。
「押村……」
「話さないでください」
「違う……これだけは……」
佐伯は血の気のない唇で、かすかに言った。
「三年前の夜……運転していたのは……」
押村は息を呑む。
横溝も千速も、佐伯に視線を向けた。
佐伯は震える声で続けた。
「警察官じゃない……」
千速が眉をひそめる。
「どういう意味だ」
佐伯の目から涙が落ちた。
「警察官の……息子だ……」
その言葉を最後に、佐伯は意識を失った。
夜の港に、救急車の赤い光が回る。
押村は動けなかった。
警察官本人ではない。
警察官の息子。
では、三浦が言った「警察の人間」とは何だったのか。
誰が息子を守るために、三年前の事件を潰したのか。
横溝が低く言った。
「押村」
「はい」
「この事件、上層部まで食い込んでるぞ」
押村は静かに頷いた。
千速は拳を握りしめ、夜の倉庫街を睨んだ。
「だったら、上まで引きずり出すだけだ」
その言葉に、押村は小さく頷いた。
黒いセダンの闇は、ただの車ではなかった。
誰かの罪を隠すために走り続けた、三年前からの亡霊だった。
そしてその亡霊は今、県警の奥深くへと続く道を示していた。