押村奏斗が二輪免許に興味を持ち始めたのは、突然のことだった。
きっかけは、萩原千速だった。
休日の午後。
千速は白バイ隊員としての訓練映像を確認していた。
リビングのテーブルには、交通機動隊の資料と、温くなったコーヒーが置かれている。
押村はその隣で、静かに画面を見ていた。
映像の中の千速は、白バイを滑らかに倒し、狭いコースを迷いなく抜けていく。
無駄のない動き。
速度よりも、制御の美しさがあった。
「すごいな」
押村が呟いた。
千速は画面から目を離さずに答える。
「白バイ隊員なら普通だ」
「普通ではないと思う」
「褒めても何も出ねぇぞ」
「事実を言っただけだ」
千速は少しだけ口元を緩めた。
押村は画面を見つめたまま言った。
「二輪に乗る感覚を、少し知ってみたい」
千速の手が止まる。
「は?」
押村は真面目な顔で続けた。
「車とは違う。身体で曲がる。倒す。止める。現場で二輪が関わる事件を見ることは多いが、乗る側の感覚は分かっていない」
千速は押村を見る。
「それ、興味っていうより捜査目線じゃねぇか」
「それもある」
「それも?」
押村は少しだけ間を置いた。
「君が見ている道を、少し知りたいとも思った」
千速は一瞬、何も言えなかった。
それから顔を逸らす。
「……そういうこと急に言うな」
「急だったか」
「急だよ」
押村は真剣に頷いた。
「すまない」
千速はため息をついた。
「で、二輪免許を取る気か?」
「はい」
「普通二輪?」
「まずは普通二輪で考えている」
「まずは、って何だよ。大型まで行く気か」
「必要なら」
「必要ない」
千速は即答した。
押村は少し首を傾げる。
「そうか」
「そうだ」
千速は腕を組み、押村をじっと見た。
「言っとくけど、バイクは甘くねぇぞ」
「分かっている」
「転ぶ時は転ぶ。車と違って身体がむき出しだ。判断を間違えれば、怪我じゃ済まない」
「分かっている」
「それでも取るのか」
押村は静かに頷いた。
「ああ」
千速はしばらく押村を見ていた。
やがて、少しだけ笑う。
「なら、ちゃんと学べ」
「はい」
「私が教えるわけじゃねぇからな。教習所では教官の言うことを聞け」
「分かった」
「変に理屈で考えすぎるなよ。身体で覚える部分もある」
「努力する」
千速は不安そうに押村を見る。
「……転ぶなよ」
押村は少し柔らかい声で答えた。
「気をつける」
その数日後。
押村は横浜市内にある教習所に入校した。
教習所の名前は、港南中央モータースクール。
仕事の合間を縫って通うには、職場からも自宅からも比較的行きやすい場所だった。
初日。
押村は受付で手続きを済ませ、二輪教習の待合室に向かった。
そこには、数人の教習生がいた。
大学生らしき青年。
会社帰りの男性。
主婦と思われる女性。
そして、押村より少し年上に見える男。
男は、やけに落ち着かない様子でスマホを見ていた。
押村はその様子を何となく記憶に留めた。
刑事としての癖だった。
しばらくすると、教官が入ってきた。
「本日から二輪教習を担当する、瀬戸です」
瀬戸誠司。
四十代半ば。
日焼けした肌に、よく通る声。
元白バイ隊員だという噂があるらしく、待合室の教習生たちが少しざわついた。
瀬戸は教習生を見渡し、押村の前で一瞬だけ止まった。
「押村奏斗さん」
「はい」
「神奈川県警の方ですね」
押村はわずかに眉を動かした。
「職業欄を見ましたか」
瀬戸は笑った。
「ええ。刑事さんが二輪免許とは珍しい」
「必要を感じました」
「いいことです。二輪は乗ってみないと分からない」
瀬戸はそう言って、次の教習生へ視線を移した。
だが押村は、その一瞬の間が気になった。
瀬戸は、ただ職業を確認しただけではない。
何かを探るような目だった。
教習は基本から始まった。
取り回し。
スタンドの扱い。
乗車姿勢。
発進と停止。
押村は決して運動神経が悪いわけではない。
ただ、勉強や書類のように最初から整理して理解する分野とは違い、身体の感覚で掴む作業には少し時間がかかった。
瀬戸が横から声をかける。
「押村さん、肩に力が入りすぎです」
「はい」
「刑事さんだからって、バイクを取り調べる必要はありませんよ」
周囲の教習生が笑う。
押村は真面目に答えた。
「取り調べるつもりはありません」
瀬戸は一瞬きょとんとし、それから笑った。
「真面目ですね」
押村は少し困った顔をした。
その日の教習を終えた頃には、押村の腕には軽い疲労が残っていた。
慣れない筋肉を使ったせいだ。
教習所の駐輪場を出る前、押村はふとコースの奥を見た。
整備棟の前で、瀬戸教官と一人の男が話している。
男は待合室にいた、落ち着きのない様子の教習生だった。
声は聞こえない。
だが、瀬戸の表情は明らかに険しかった。
男が何かを言う。
瀬戸が首を横に振る。
男は舌打ちするように顔を背けた。
押村は足を止めた。
その時、背後から声がした。
「気になりますか?」
振り返ると、受付の女性職員が立っていた。
「いえ」
押村はそう答えたが、視線は自然に二人へ戻った。
女性職員は少し困ったように笑った。
「あの人、最近よく瀬戸教官と揉めてるんです」
「教習生ですか」
「はい。真島亮さん。大型二輪の教習生です」
「理由は?」
「詳しくは分かりません。ただ、瀬戸教官が補習を出したとか、検定を受けさせないとかで」
押村は小さく頷いた。
「そうですか」
その時、瀬戸と真島の会話が終わった。
真島亮は荒い足取りで駐車場へ向かい、瀬戸はしばらくその背中を見ていた。
押村はその視線の重さを見逃さなかった。
翌日。
捜査一課で書類を確認していると、横溝重悟が押村の机に近づいてきた。
「押村」
「はい」
「お前、二輪免許取りに行ってるらしいな」
押村は顔を上げた。
「はい」
「千速に聞いた」
「そうですか」
横溝は腕を組む。
「怪我すんなよ」
「気をつけます」
「お前が二輪に乗るとか、何か変な感じだな」
「そうでしょうか」
「刑事がバイクに乗る理由なんざ、だいたい碌でもねぇ事件に巻き込まれる前振りだ」
押村は真面目に言った。
「そうとは限りません」
横溝は鼻で笑った。
「どうだかな」
その予感は、翌週、現実になった。
港南中央モータースクールで、事故が起きた。
大型二輪教習中の教習生が、急制動の直後に転倒。
教習車はコース脇の鉄柱へ衝突し、教習生は搬送先の病院で死亡した。
死亡したのは、真島亮。
押村が初日に見た、瀬戸教官と揉めていた男だった。
最初の報告は、単純な教習中の事故だった。
だが押村は、現場写真を見た瞬間に違和感を覚えた。
急制動の転倒にしては、バイクの倒れ方が不自然だった。
そして、現場に残っていたブレーキ痕。
それは、途中で急に乱れていた。
押村は資料を手に、静かに呟いた。
「事故ではないかもしれません」
横溝が目を細める。
「何?」
押村は顔を上げた。
「殺人の可能性があります」
港南中央モータースクールの二輪コースは、捜査員と鑑識で封鎖されていた。
青いシートの下には、大型二輪の教習車が倒れている。
鉄柱には衝突痕。
路面には、乱れたブレーキ痕。
教習所の職員たちは、不安そうに遠巻きに見ていた。
横溝重悟は腕を組み、事故現場を睨んでいる。
「教習中の事故に見せかけた殺人、か」
押村奏斗はしゃがみ込み、路面を確認していた。
「断定はまだです。ただ、不自然です」
「どこがだ」
押村はブレーキ痕を指した。
「急制動の練習なら、前輪と後輪の荷重移動が起きます。多少のふらつきはありますが、ここまで横へ流れるのは不自然です」
横溝が眉をひそめる。
「お前、もうそんなこと分かるのか」
「基礎教習で少し学びました」
「教習所通いが役に立つとはな」
押村は続ける。
「それに、真島さんは大型二輪の教習生です。初心者ではありますが、普通二輪の経験はある。急制動でここまで操作を失うとは考えにくい」
鑑識員が報告に来る。
「押村警部補。ブレーキ周りに違和感があります」
「違和感?」
「現場では断定できませんが、前輪ブレーキの油圧系統に何らかの細工があった可能性があります」
横溝の目が鋭くなる。
「またブレーキかよ」
押村も一瞬だけ目を伏せた。
前の事件を思い出さずにはいられなかった。
倉木怜央のバイク。
黒川直人が仕掛けた制動遅延。
止まろうとして止まれなかった命。
だが、今回は違う。
同じ轍を踏むわけにはいかない。
押村は鑑識に言った。
「ブレーキライン、マスターシリンダー、キャリパー、ブレーキフルードをすべて確認してください。整備記録も押さえます」
「了解しました」
横溝は周囲を見渡す。
「関係者を洗うぞ」
押村は頷いた。
「はい」
死亡した真島亮。
三十六歳。
中古車販売会社勤務。
大型二輪免許取得のため、二か月前から教習所に通っていた。
教習態度は荒く、教官との衝突が多かった。
特に揉めていたのが、瀬戸誠司教官。
元白バイ隊員という経歴を持つ、二輪教習の主任教官だった。
押村と横溝は、まず瀬戸から事情を聞いた。
瀬戸は教官控室で、両手を膝の上に置いて座っていた。
顔色は悪い。
だが、動揺しすぎている様子はない。
横溝が問う。
「真島亮さんと揉めていたそうですね」
瀬戸は静かに頷いた。
「はい」
「理由は」
「危険運転です」
瀬戸の声は低かった。
「真島さんは技術に自信がありすぎた。教習中も指示を無視し、無理に車体を倒すことがありました。検定に出せる状態ではないと判断しました」
押村が尋ねる。
「そのことで口論に?」
「何度か」
「事故前にも?」
瀬戸は一瞬だけ黙った。
「はい。昨日、検定を受けさせろと言われました。私は断りました」
横溝が鋭く見る。
「真島さんは怒った?」
「かなり」
「あなたを恨んでいた可能性は?」
瀬戸は苦い顔をした。
「あると思います」
押村は静かに問う。
「あなたは真島さんを恨んでいましたか」
瀬戸は押村を見る。
「教官として、危険な教習生を道路へ出したくなかっただけです」
「答えになっていません」
瀬戸の眉がわずかに動く。
押村は続けた。
「恨んでいたかどうかを聞いています」
瀬戸は少し沈黙した後、答えた。
「腹は立っていました」
「殺したいほど?」
横溝の声が低くなる。
瀬戸は強く首を横に振った。
「違います」
押村は瀬戸を見つめた。
その否定は早かった。
早すぎた。
だが、それだけで犯人とは言えない。
押村は話題を変えた。
「事故車の整備は誰が担当しましたか」
瀬戸は答える。
「整備担当の大熊です」
「大熊さんは今どこに」
「整備棟にいるはずです」
押村は横溝と視線を交わした。
整備担当の大熊徹は、五十代の無口な男だった。
油で汚れた作業着。
太い指。
必要以上のことは話さないタイプに見える。
大熊は事故車を見ながら言った。
「整備不良じゃない」
横溝が眉を上げる。
「まだ何も聞いてねぇぞ」
大熊は押村を見る。
「どうせ整備を疑ってるんだろ」
押村は静かに言った。
「事故車の整備記録を見せてください」
大熊は無言でファイルを出した。
記録上、事故車は前日に点検済み。
ブレーキフルード交換は一週間前。
異常なし。
押村は記録を見ながら問う。
「事故当日の朝、誰が車両に触れましたか」
「俺と瀬戸」
「瀬戸教官も?」
「二輪教官は始業前に車両確認する」
「真島さん自身が触れる機会は?」
「教習開始前に跨る程度だ。工具を使える時間はない」
横溝が低く言う。
「つまり、整備担当か教官なら細工できる」
大熊は横溝を睨む。
「俺はやってない」
押村は大熊の手元を見た。
右手の親指に、小さな切り傷がある。
「その怪我は?」
大熊は手を隠すようにした。
「工具で切っただけだ」
「いつ」
「昨日」
「どの作業で」
「覚えてない」
横溝の目が鋭くなる。
「整備士が作業を覚えてないってか」
大熊は押し黙った。
押村は記録ファイルを閉じた。
「大熊さん。真島さんと面識は?」
「教習生だからな」
「個人的な関係は?」
「ない」
その答えにも、わずかな硬さがあった。
押村はそれを記憶に留めた。
次に話を聞いたのは、受付職員の女性だった。
名前は江藤由香。
押村に初日、真島と瀬戸が揉めていると教えてくれた女性だ。
江藤は青ざめた顔で話した。
「真島さんは、瀬戸教官だけじゃなく、他の人とも揉めていました」
「誰とですか」
「大熊さんとも。それから、もう一人の教習生とも」
横溝が問う。
「教習生?」
「はい。桐生圭吾さん。大型二輪の教習生です」
押村は名簿を確認する。
桐生圭吾。
三十四歳。
会社員。
真島と同じ時間帯に教習を受けていた。
江藤は続けた。
「真島さんは、桐生さんに何度も絡んでいました。運転が遅いとか、邪魔だとか」
「事故当日、桐生さんは?」
「教習所に来ていました。でも、事故後すぐに帰ったみたいです」
押村の目がわずかに細くなる。
「事故直後に?」
「はい。気分が悪くなったと言って」
横溝が村上の後任刑事に命じる。
「桐生圭吾を呼べ」
「はい」
押村はもう一つ尋ねた。
「江藤さん。事故当日の朝、真島さん宛てに何かありましたか」
江藤は少し考えた。
「そういえば、封筒が届いていました」
「封筒?」
「はい。差出人なしで、真島さん宛てに」
押村の表情が変わる。
「中身は」
「分かりません。真島さんがすぐに持っていったので」
「封筒の色は?」
「白でした」
白い封筒。
押村は少しだけ違和感を覚えた。
前の事件の黒い封筒とは違う。
だが、匿名の封筒という手口は妙に引っかかった。
「防犯カメラを確認します」
「はい」
捜査一課に戻った押村は、防犯カメラ映像を確認した。
封筒を届けた人物は、帽子とマスクで顔を隠していた。
背格好は中肉中背。
性別は判然としない。
だが歩き方に特徴があった。
左足をわずかに引きずっている。
横溝が映像を見ながら言った。
「大熊か?」
押村は首を横に振る。
「大熊さんは右足に体重をかける癖があります。この人物は左足を庇っています」
「瀬戸は?」
「歩行に大きな癖はありません」
「桐生はまだ不明か」
「はい」
その時、鑑識から連絡が入った。
事故車の前輪ブレーキに、細工の痕跡が見つかった。
ブレーキラインの一部に極細の穴。
通常走行ではすぐには異常が出ない。
だが急制動で強い圧がかかると、油圧が抜け、制動力が急激に落ちる。
横溝は低く言った。
「完全に殺しに来てるな」
押村は静かに頷いた。
「はい」
さらに、ブレーキラインに付着していた微量の接着剤成分。
応急的に穴を塞ぎ、一定の圧力で剥がれるようにしたものだった。
「技術がある人間の犯行です」
横溝が言う。
「整備士の大熊」
押村は答える。
「または、二輪構造に詳しい人物」
「瀬戸も元白バイなら詳しい」
「はい」
「桐生は?」
「まだ分かりません」
そこへ、桐生圭吾が任意同行に応じたという連絡が入った。
桐生は痩せた男だった。
眼鏡をかけ、終始落ち着かない様子を見せている。
取調室で、横溝が問う。
「真島亮さんと揉めていたな」
桐生はすぐに頷いた。
「はい。でも、僕は殺してません」
「まだ殺したとは言ってねぇ」
桐生は顔を青くする。
押村が静かに聞く。
「事故直後、なぜ帰ったのですか」
「怖くなって……」
「真島さんが死ぬ前に?」
「事故を見て、無理だと思って。吐き気がして」
「封筒について知っていますか」
桐生の目が一瞬だけ動いた。
押村は見逃さなかった。
「知っていますね」
桐生は唇を噛んだ。
「中身は知らないです」
「封筒の存在は知っていた」
「はい」
「なぜ」
桐生は震える声で言った。
「真島さんが見せてきたんです」
「何を」
「写真です」
横溝が身を乗り出す。
「写真?」
桐生は頷いた。
「真島さんと、瀬戸教官が一緒に写っている古い写真でした」
押村の眉が動く。
「古い写真?」
「はい。十年以上前のものだと思います。真島さんが言っていました。“瀬戸は俺を落とせない。昔のことをバラされたくなければな”って」
横溝が低く言う。
「脅迫か」
押村は静かに問う。
「昔のこととは?」
桐生は首を横に振る。
「そこまでは知りません」
瀬戸誠司と真島亮。
二人には、教習所で出会った以上の関係がある。
押村はそう確信した。
そしてその夜。
押村の携帯に、非通知の電話が入った。
出ると、相手は名乗らなかった。
低く抑えた男の声。
『港南中央モータースクールの件から手を引け』
押村の目が鋭くなる。
「誰ですか」
『あの事故は、県警が触るには少し面倒だ』
「どういう意味ですか」
短い沈黙の後、男は言った。
『警察庁警備局が関心を持っている』
通話はそこで切れた。
押村はスマホを見つめた。
警察庁警備局。
通称、ゼロ。
教習所で起きた殺人事件。
その背後に、何があるのか。
押村は静かに立ち上がった。
事件は、想像より深い場所へ繋がり始めていた。