押村奏斗は、非通知の電話について横溝重悟に報告した。
横溝は顔をしかめた。
「警察庁警備局だと?」
「はい」
「ゼロが、教習所の事故に関心を持ってるってか」
「相手が本当に警備局関係者かは不明です」
「だが、わざわざその名前を出した」
横溝は腕を組む。
「厄介だな」
押村は頷いた。
「はい。ただ、事件から手を引く理由にはなりません」
横溝は押村を見る。
「当然だ」
その時、部屋の外から声がした。
「その件、少し扱いに気をつけてもらえますか」
入口に立っていたのは、見慣れない男だった。
三十代前半。
スーツ姿。
穏やかな顔立ちだが、目だけは読めない。
男は警察手帳を見せた。
「警察庁警備局警備企画課、古谷です」
横溝の表情が硬くなる。
「警備局が県警の捜査一課に何の用だ」
古谷は微笑む。
「用というほどではありません。情報共有です」
「情報共有にしては、ずいぶん上から来るな」
「そう見えたなら申し訳ありません」
押村は古谷を観察した。
丁寧な口調。
無駄のない姿勢。
隠していることがある人間の目。
「古谷さん」
「はい」
「真島亮さんと警備局に関係があるのですか」
古谷は一瞬だけ沈黙した。
「直接の関係はありません」
「では、瀬戸誠司さんは?」
古谷は答えない。
横溝が低く言う。
「おい」
古谷は小さく息を吐いた。
「瀬戸誠司さんは、過去にある捜査協力者と接点がありました」
押村が問う。
「捜査協力者?」
「詳細は言えません」
横溝が机を叩いた。
「殺人事件だぞ。言えませんで済むと思ってんのか」
古谷の表情は崩れない。
「だから来ました。事件捜査を妨害するつもりはありません。ただし、過去の一部には機密が絡みます」
押村は静かに言った。
「なら、事件に必要な範囲だけ話してください」
古谷は押村を見た。
「十年前、瀬戸誠司さんは警視庁の白バイ隊員でした」
「元白バイという噂は本当ですか」
「はい」
古谷は続ける。
「当時、瀬戸さんはある不審車両の追跡中に事故を起こしました。公式には単独の追跡事故として処理されています」
横溝が目を細める。
「公式には?」
古谷は少しだけ声を落とした。
「追跡していた相手が、公安案件に関係する人物だった可能性があります」
押村は黙って聞いた。
「真島亮さんは、その事故現場にいた人物の一人です」
「目撃者ですか」
「そうです」
押村はすぐに繋げた。
「封筒の写真は、その十年前の事故に関するもの」
古谷は否定しなかった。
横溝が言う。
「瀬戸は真島に脅されていた。十年前の事故をバラすと」
古谷は答える。
「その可能性があります」
「それで瀬戸が真島を殺した?」
「私は断定しません」
押村は古谷を見つめた。
「あなたは、瀬戸さんを守りたいのですか」
古谷の目がわずかに動いた。
「違います」
「では、何を守りたいのですか」
古谷は微笑みを消した。
「今は言えません」
横溝が舌打ちする。
「面倒くせぇな、ゼロってのは」
古谷は静かに頭を下げた。
「申し訳ありません」
押村は言った。
「捜査資料の閲覧は認めません」
古谷は少しだけ笑う。
「もちろんです。県警の事件ですから」
言葉だけは丁寧だった。
だが、押村には分かる。
古谷はすでにかなりの情報を持っている。
それでも、こちらへ小出しにしている。
利用するつもりだ。
押村はそれを不快に思いながらも、表情には出さなかった。
瀬戸誠司への再聴取が行われた。
押村は机の上に、十年前の事故現場写真を置いた。
写真には、若い瀬戸と、若い真島が写っている。
瀬戸の表情が変わった。
「これをどこで」
押村は答えない。
「真島さんは、この写真であなたを脅していましたね」
瀬戸は黙った。
横溝が低く言う。
「十年前、何があった」
瀬戸は両手を握りしめた。
「私は白バイ隊員でした」
「知ってる」
「不審車両を追跡しました。相手は逃走し、山道へ入った。私は追った。しかし途中で一般車が入り、私は追跡を中止しようとした」
押村は静かに聞く。
「その後は?」
瀬戸は声を震わせた。
「相手の車が事故を起こしました。運転手は死亡。助手席にいた男は逃走。その場に、偶然居合わせたのが真島です」
横溝が問う。
「真島は何を見た」
「私が追跡を中止する直前まで、かなり強引に追っていたところです」
「違法追跡か」
瀬戸は顔を伏せた。
「当時の私は、功を焦っていました。結果を出したかった」
押村は問う。
「その事故は隠蔽されたのですか」
瀬戸は首を横に振った。
「いえ。処分は受けました。ただ、追跡対象の詳細は伏せられた。警備局の案件だと後で知りました」
横溝が目を細める。
「それを真島が最近知った?」
「はい。どこからか情報を得て、私を脅してきた。大型二輪の検定を通せと」
「あなたは断った」
「はい」
「だから殺した?」
瀬戸は強く否定した。
「違います!」
押村は瀬戸の目を見た。
「では、真島さんを殺したのは誰だと思いますか」
瀬戸は唇を震わせた。
「分かりません。ただ……」
「ただ?」
「大熊が、真島を憎んでいました」
横溝が顔を上げる。
「整備担当の大熊か」
瀬戸は頷く。
「真島は以前、大熊の息子を事故で死なせています」
押村の目が鋭くなった。
「どういうことですか」
瀬戸は苦い顔で言った。
「五年前、真島は中古車販売会社で無理な改造バイクを売っていました。そのバイクに乗った若者が事故死した。若者は、大熊の息子でした」
横溝が低く唸る。
「復讐の動機か」
押村は大熊徹の右手の傷を思い出した。
整備技術。
真島への恨み。
事故車に触れられる立場。
条件は揃っている。
だが、揃いすぎている。
押村は静かに言った。
「大熊さんをもう一度聴取します」
大熊徹は、最初から覚悟したような顔で取調室に入ってきた。
横溝が資料を置く。
「大熊。真島亮は、お前の息子の死に関わっていたな」
大熊はゆっくり頷いた。
「はい」
「なぜ黙っていた」
「聞かれなかった」
横溝の目が鋭くなる。
「ふざけるな」
大熊は押村を見る。
「真島は、息子に危険な改造バイクを売った。息子は死んだ。でも真島は法の隙間を抜けた」
押村は静かに問う。
「だから殺したのですか」
大熊は答えない。
押村は続けた。
「あなたならブレーキに細工できる。事故車にも触れられた。動機もある」
大熊は低く笑った。
「なら、俺で決まりだな」
横溝が目を細める。
「認めるのか」
大熊は押村から視線を逸らさない。
「俺がやったと言えば、終わるんだろ」
押村はしばらく大熊を見ていた。
そして言った。
「いいえ」
大熊の目が動く。
「あなたは犯人ではない」
横溝が押村を見る。
「押村?」
押村は大熊の右手を見た。
「あなたの右手の傷は、ブレーキ細工の時についたものではありません。工具の切創にしては浅すぎる。むしろ、紙や薄い金属で切った傷に近い」
大熊は黙った。
押村は続ける。
「あなたは封筒を開けましたね」
大熊の表情が変わる。
「真島さん宛ての封筒を、事前に見た」
大熊は唇を噛んだ。
横溝が低く言う。
「中身は何だった」
大熊は長い沈黙の後、答えた。
「写真と、紙が一枚」
「紙?」
「“真島を裁く機会を与える”と書いてあった」
押村の目が鋭くなる。
「誰が送った」
「分からない」
「あなたはそれを見て、真島を殺そうとした?」
大熊は拳を握った。
「思った。何度も思った。でも、できなかった」
「なぜ」
大熊の声が震える。
「息子が……そんなこと望まないと思ったからだ」
取調室が静まった。
押村は低く言った。
「では、あなたは何をしたのですか」
大熊は答えた。
「事故車のブレーキに、細工の痕跡を見つけた」
横溝が身を乗り出す。
「事故前にか?」
「はい。教習前の点検で、違和感があった。でも、その時は確証が持てなかった。真島を殺したい気持ちが自分にあったから、見間違いかもしれないと思った」
押村は表情を変えずに聞いた。
「なぜ報告しなかった」
大熊は顔を歪めた。
「報告すれば、自分が疑われると思った。息子の件もある。だから、確かめようとして……その間に事故が起きた」
横溝が低く吐く。
「また黙った結果か」
押村は目を閉じた。
この事件もまた、沈黙が重なっていた。
だが犯人は、大熊ではない。
真島を憎む大熊に、封筒を送り、殺意を誘導した人物がいる。
そして、ブレーキに細工できる人物。
押村はふと気づいた。
「瀬戸さんでも、大熊さんでもない」
横溝が問う。
「誰だ」
押村は資料を見た。
「桐生圭吾です」
桐生圭吾。
大型二輪教習生。
真島に絡まれていた被害者のような男。
だが、彼には一つ隠していた経歴があった。
押村は古谷から得た断片情報と、県警の照会結果を組み合わせた。
桐生は会社員ではある。
しかし以前、バイク用品メーカーの開発部に勤務していた。
油圧ブレーキのパーツ設計に関わっていた技術者だった。
横溝が資料を睨む。
「整備士じゃなくても、細工は可能か」
押村は頷く。
「はい。むしろ、事故に見せかけるには十分な知識があります」
「動機は?」
押村は静かに言った。
「十年前の事故で死亡した運転手の弟です」
横溝の目が変わった。
「何?」
「十年前、瀬戸さんが追跡した不審車両。その運転手の弟が、桐生圭吾でした」
「つまり、桐生は瀬戸を恨んでいた」
「はい。ただし、殺されたのは真島さんです」
「なぜ真島を殺した」
押村は低く答えた。
「瀬戸を壊すためです」
桐生は、十年前の事故で兄を失った。
兄は公安案件に関係していた可能性がある。
詳細は伏せられ、真相は曖昧なまま終わった。
その現場を目撃していた真島は、瀬戸を脅迫していた。
桐生はそれを利用した。
真島を殺し、瀬戸に疑いを向ける。
同時に、大熊にも封筒を送り、真島への復讐心を煽る。
瀬戸にも、大熊にも、動機があるように見せた。
「そして警備局の名前を出して、県警の捜査を揺さぶった」
横溝が低く言った。
「非通知の電話は桐生か」
押村は頷いた。
「可能性が高いです」
「証拠は」
押村は静かに言った。
「これから取ります」
その夜。
押村は教習所へ向かった。
理由は、桐生が忘れ物を取りに来るという連絡があったからだ。
だが押村は、それが逃亡前の証拠回収だと考えていた。
教習所の整備棟。
薄暗い建物の中で、桐生圭吾が工具箱を開けていた。
押村は入口に立った。
「何を探していますか」
桐生の手が止まる。
「押村警部補……」
押村は静かに歩み寄る。
「事故車に細工した工具ですか。それとも、封筒を作った証拠ですか」
桐生は顔を強張らせた。
「何の話ですか」
「あなたは真島亮さんを殺害した。瀬戸誠司さんと大熊徹さんに罪を向けるために」
桐生は後ずさる。
「証拠はあるんですか」
押村は答えた。
「防犯カメラの人物は、左足を庇っていました。あなたは十年前、兄の事故直後に現場で転倒し、左足に後遺症が残っていますね」
桐生の顔が変わる。
押村は続ける。
「ブレーキラインの細工に使われた微細工具。あなたの勤務していたメーカーで扱っていた試作用工具と一致しました」
桐生は黙る。
「そして、あなたは今日、その工具を回収しに来た」
押村が視線を落とす。
桐生の手元には、小さな専用工具が握られていた。
桐生は笑った。
「全部、あいつらのせいですよ」
押村は動かない。
桐生は続ける。
「兄は死んだ。警察は何も話さなかった。瀬戸は処分を受けただけで、また人に運転を教えている。真島はその事故をネタに金を取ろうとしていた。大熊は真島を憎んでいた」
「だから、全員を利用した」
「全員、裁かれるべきだった」
押村の声が低くなる。
「あなたが裁く権利はありません」
桐生の目が冷たくなる。
「警察が裁かなかったからだ」
「それでも、人を殺していい理由にはならない」
桐生は工具を投げ捨て、出口へ走った。
だが外には横溝たちが待っていた。
「桐生圭吾」
横溝が手錠を構える。
「殺人容疑で逮捕する」
桐生は抵抗しなかった。
ただ、押村を見て言った。
「警察庁警備局に聞いてみろ。十年前、兄が何を運んでいたのかを」
押村は何も答えなかった。
桐生は連行されていく。
教習所の夜は静かだった。
だが、事件は終わっていない。
殺人事件としては解決した。
しかし、十年前の事故。
そして警察庁警備局が隠している何か。
それは、まだ闇の中にあった。