神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第52話 ゼロの影

桐生圭吾の逮捕により、教習所殺人事件は解決へ向かった。

 

真島亮は、事故で死んだのではない。

 

桐生によってブレーキに細工され、急制動中に制御を失うよう仕組まれていた。

 

瀬戸誠司は、十年前の事故を真島に脅されていた。

大熊徹は、息子を真島に間接的に奪われ、復讐心を抱えていた。

桐生はその二人の動機を利用し、事件を複雑に見せかけた。

 

すべては、瀬戸を破滅させ、真島を殺し、大熊にも罪を背負わせるためだった。

 

捜査一課の会議室で、横溝重悟は資料を閉じた。

 

「胸糞悪い事件だったな」

 

押村奏斗は頷いた。

 

「はい」

 

「桐生は供述してるのか」

 

「真島さん殺害については認めています。ただし、十年前の事故について警備局が何か隠していると繰り返しています」

 

横溝は顔をしかめる。

 

「ゼロ絡みか」

 

押村は答えない。

 

答えられなかった。

 

その時、会議室の扉が開いた。

 

古谷が入ってくる。

 

相変わらず穏やかな表情だった。

 

横溝が即座に睨む。

 

「また来たのか」

 

「事件解決のご挨拶に」

 

「白々しいな」

 

古谷は苦笑した。

 

「否定はしません」

 

押村は古谷を見た。

 

「十年前、桐生の兄は何を運んでいたのですか」

 

古谷は押村を見返した。

 

「押村警部補は、そこまで踏み込みますか」

 

「殺人事件の背景です」

 

「今回の事件に必要な範囲では、すでに説明しました」

 

横溝が低く言う。

 

「都合が悪いところは機密か」

 

古谷は静かに答えた。

 

「国家の安全に関わる情報です」

 

「便利な言葉だな」

 

押村は一歩前へ出た。

 

「桐生は、兄の死の真相が隠されたことで復讐に走りました」

 

「はい」

 

「情報を隠すことが、新たな事件を生むこともある」

 

古谷の表情がわずかに変わった。

 

押村は続けた。

 

「あなたたちは、それを理解していますか」

 

古谷はしばらく黙った。

 

そして、初めて少しだけ感情の見える声で言った。

 

「理解しています」

 

「なら」

 

「それでも話せないことがあります」

 

古谷は静かに言った。

 

「押村警部補。あなたの言うことは正しい。ですが、正しいことだけでは守れないものもある」

 

横溝が苛立ったように言う。

 

「その結果、人が死んでるんだぞ」

 

古谷は目を伏せた。

 

「承知しています」

 

押村は古谷の顔を見た。

 

この男は、何も感じていないわけではない。

 

だが、それでも口を閉ざす。

 

組織として。

 

任務として。

 

押村は低く言った。

 

「俺は県警の刑事です。目の前で起きた事件は追います」

 

古谷は頷いた。

 

「だから、あなたに興味があります」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「興味?」

 

古谷は微笑んだ。

 

「いずれ、またお会いするかもしれません」

 

「会いたくはありません」

 

「そう言われると思いました」

 

古谷は一礼し、去っていった。

 

横溝はその背中を見送りながら吐き捨てる。

 

「気に食わねぇな」

 

押村は静かに答えた。

 

「はい」

 

「お前、ああいう連中に目をつけられたかもな」

 

「そのようです」

 

「面倒だぞ」

 

「分かっています」

 

横溝は押村を見る。

 

「深入りしすぎるなよ」

 

押村は少しだけ間を置いた。

 

「必要なら、します」

 

横溝はため息をついた。

 

「お前はそういう奴だったな」

 

事件後。

 

押村は教習所に戻った。

 

もちろん、捜査ではない。

 

教習のためだった。

 

受付の江藤は驚いた顔をした。

 

「押村さん、本当に教習を続けるんですか」

 

「はい」

 

「怖くないんですか」

 

押村は少し考えた。

 

「怖くないわけではありません」

 

「それでも?」

 

「だからこそ、正しく学ぶ必要があります」

 

江藤は少しだけ笑った。

 

「瀬戸教官も、そう言うと思います」

 

瀬戸誠司は、教官を続けるかどうか迷っていた。

 

十年前の事故。

真島からの脅迫。

今回の事件。

 

向き合うべきことは多い。

 

だが、少なくとも彼は真島を殺してはいなかった。

 

教習コースで、押村は再びバイクに跨った。

 

瀬戸は少し痩せた顔で立っていた。

 

「押村さん」

 

「はい」

 

「教習を続けるんですね」

 

「はい」

 

瀬戸は少しだけ苦笑した。

 

「刑事さんは、やっぱり変わっていますね」

 

「よく言われます」

 

「今日は急制動はやめておきますか」

 

押村は首を横に振った。

 

「お願いします」

 

瀬戸の表情がわずかに引き締まる。

 

「分かりました」

 

押村はヘルメットを被った。

 

エンジンが震える。

 

発進。

 

ゆっくりと加速し、指定速度へ。

 

目標線が近づく。

 

押村は呼吸を整えた。

 

ブレーキ。

 

前輪、後輪。

 

身体が前へ持っていかれる感覚。

タイヤが路面を掴む感覚。

止まるために必要な力。

 

バイクは目標範囲内で止まった。

 

押村は深く息を吐いた。

 

瀬戸が頷く。

 

「今のは良かったです」

 

「ありがとうございます」

 

押村はヘルメットの中で、少しだけ目を閉じた。

 

止まること。

 

千速が何度も言っていた言葉。

 

白バイは、止まるために走る。

 

その意味を、ほんの少しだけ身体で理解した気がした。

 

その日の夜。

 

押村は千速と会った。

 

場所は、いつもの小さな定食屋だった。

 

千速は箸を持ちながら、押村をじっと見ている。

 

「で、教習所の事件に巻き込まれたわけだ」

 

「はい」

 

「重悟が言ってたぞ。刑事がバイクに乗る理由なんざ、碌でもねぇ事件に巻き込まれる前振りだって」

 

「言っていました」

 

「当たってんじゃねぇか」

 

押村は少し困った顔をした。

 

「否定できない」

 

千速はため息をつく。

 

「怪我は?」

 

「ありません」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

千速はようやく少し安心したように息を吐いた。

 

「ならいい」

 

押村は千速を見る。

 

「急制動を習った」

 

「どうだった」

 

「難しい」

 

千速は少し笑った。

 

「当たり前だ」

 

「止まるのは、思ったより怖い」

 

千速の目が少し柔らかくなる。

 

「そうだろ」

 

「はい」

 

「でも、ちゃんと止まれたか」

 

「今日は」

 

「なら上出来だ」

 

押村は少しだけ表情を緩めた。

 

千速は味噌汁を飲み、それから聞いた。

 

「事件は終わったのか」

 

押村は少し沈黙した。

 

「教習所の事件は終わった」

 

千速はその言い方に気づく。

 

「別の何かが残ってるんだな」

 

「はい」

 

「言える範囲で」

 

押村は千速を見た。

 

「警察庁警備局が関わっている可能性がある」

 

千速の表情が変わる。

 

「ゼロか」

 

「はい」

 

「面倒な連中だな」

 

「そう思う」

 

千速は押村をじっと見た。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「一人で突っ込むなよ」

 

押村はすぐに頷いた。

 

「分かっている」

 

千速は目を細める。

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

「怪しい」

 

「努力する」

 

「そこは言い切れ」

 

押村は少し考えた後、言った。

 

「一人で突っ込まない」

 

千速は満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

そして少しだけ笑う。

 

「免許取れたら、後ろ乗せてくれるのか?」

 

押村は真面目に答えた。

 

「まだ自信がない」

 

千速は吹き出した。

 

「正直だな」

 

「君を乗せるなら、安全に走れるようになってからがいい」

 

千速は一瞬だけ赤くなった。

 

「……そういうことは、さらっと言うな」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

二人の間に、少し穏やかな沈黙が落ちた。

 

だが、その外側では、別の影が動き始めていた。

 

警察庁。

 

警備局の一室。

 

古谷は、薄暗い部屋で一枚の資料を机に置いた。

 

そこには、押村奏斗の名前があった。

 

神奈川県警捜査一課。

警部補。

三十一歳。

 

仕事はできるが、一人で抱え込む傾向あり。

観察力、推理力ともに高い。

公安案件への不用意な接触あり。

 

古谷の向かいには、顔の見えない男が座っていた。

 

男が静かに問う。

 

「彼は使えるか」

 

古谷は少しだけ沈黙した。

 

「使うには、危険です」

 

「危険?」

 

「従順ではありません。納得できなければ、相手が警察庁でも踏み込む」

 

男は小さく笑った。

 

「だから使える」

 

古谷は資料を閉じた。

 

「神奈川県警を巻き込むつもりですか」

 

男は答えなかった。

 

代わりに、別の写真を机に置いた。

 

そこには、ある男の顔が写っていた。

 

十年前、桐生の兄が関わっていたとされる公安案件。

 

その中心にいた人物。

 

男は低く言った。

 

「この男が、神奈川に戻ってきた」

 

古谷の表情が初めて変わる。

 

「生きていたんですか」

 

「確認中だ」

 

「県警には?」

 

「まだ言うな」

 

古谷は静かに目を伏せた。

 

「押村警部補は、いずれ気づきます」

 

男は笑った。

 

「なら、その時が始まりだ」

 

古谷は資料を抱え、部屋を出た。

 

廊下の先には、窓のない長い通路が続いている。

 

ゼロの影は、まだ表には出ない。

 

だが、確かに近づいていた。

 

押村奏斗が二輪免許を取ろうとした小さなきっかけは、思わぬ事件を呼び込んだ。

 

そしてその事件は、次の大きな闇への入口にすぎなかった。

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