神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第53話 消えた刑事

数か月後。

 

押村奏斗は、いつもと同じ朝を迎えていた。

 

特別なことは何もない。

 

薄い曇り空。

少し湿った空気。

駅へ向かう人の流れ。

改札を通る電子音。

ホームに滑り込む電車のブレーキ音。

 

いつもと同じ。

 

だからこそ、誰も疑わなかった。

 

神奈川県警捜査一課警部補、押村奏斗。

 

その男がこの日を境に、表の世界から消えることを。

 

電車は朝の通勤客で混み合っていた。

 

奏斗は吊革につかまり、窓の外を流れる景色を見ていた。

 

スーツ姿の会社員。

制服の学生。

スマホを見つめる人々。

眠そうに目を閉じる老人。

 

日常そのものの光景だった。

 

だが、奏斗の視線がふと足元で止まる。

 

座席の下。

 

紙袋が置かれていた。

 

誰かの忘れ物に見える。

 

けれど、奏斗はすぐに違和感を覚えた。

 

置き方が不自然だった。

 

奥へ押し込まれているわけではない。

かといって、足元に置いて忘れたようにも見えない。

人目につきにくい位置に、意図的に置かれている。

 

奏斗は周囲を確認した。

 

誰も紙袋に注意を払っていない。

 

次の駅までは、あと数分。

 

奏斗は静かにしゃがみ込んだ。

 

近くの乗客が怪訝そうに見る。

 

「すみません」

 

奏斗は短く声をかけ、紙袋へ手を伸ばした。

 

中を確認した瞬間。

 

彼の表情が変わった。

 

そこに入っていたのは、爆発物だった。

 

詳細を見なくても分かる。

 

これは忘れ物ではない。

 

誰かが、ここに置いた。

 

人を殺すために。

 

奏斗はすぐに周囲へ声をかけた。

 

「この車両から移動してください」

 

近くの乗客が困惑する。

 

「え?」

 

「不審物です。落ち着いて、隣の車両へ移動してください」

 

奏斗は警察手帳を示した。

 

その瞬間、周囲の空気が変わる。

 

ざわめき。

不安。

押し寄せる視線。

 

奏斗は声を荒げなかった。

 

「走らないでください。押さないでください。順番に移動を」

 

その冷静な声に、乗客たちは少しずつ動き始めた。

 

奏斗は車掌へ連絡を取るよう近くの乗客に頼み、紙袋から目を離さなかった。

 

爆弾のそばには、一台のスマートフォンが入っていた。

 

その画面が、突然光った。

 

着信。

 

非通知。

 

奏斗は数秒だけ画面を見つめた。

 

そして、通話ボタンを押した。

 

『押村奏斗警部補』

 

変声された声だった。

 

奏斗は静かに答える。

 

「誰だ」

 

『その紙袋を持って、次の駅で降りろ』

 

「乗客を巻き込む気か」

 

『お前が従えば、誰も死なない』

 

奏斗は周囲の避難状況を確認した。

 

乗客は隣の車両へ移動している。

 

完全ではないが、混乱は抑えられている。

 

『駅で降りたら、指定する場所へ向かえ。警察へ連絡すれば爆発する』

 

奏斗は低く言った。

 

「目的は何だ」

 

『お前だよ、押村奏斗』

 

通話はそこで切れた。

 

電車が次の駅へ近づく。

 

奏斗は紙袋を持ち上げた。

 

重さはある。

 

手の中に、人の命を奪うための悪意がある。

 

だが、奏斗の指は震えなかった。

 

扉が開く。

 

奏斗は乗客を先に降ろし、自分もホームへ出た。

 

ホームの防犯カメラが、彼の姿を捉える。

 

紙袋を持った刑事。

 

その顔は冷静だった。

 

あまりにも冷静だった。

 

その知らせが神奈川県警に届いたのは、それから数分後だった。

 

「電車内で不審物。発見者は押村警部補です」

 

捜査一課が騒然となる。

 

横溝重悟は椅子から立ち上がった。

 

「押村が?」

 

「はい。不審物を持って次の駅で降車。その後、連絡が取れていません」

 

横溝の顔色が変わる。

 

「馬鹿野郎……何やってやがる」

 

すぐに捜査員が動き出す。

 

駅の防犯カメラ。

通話履歴。

爆発物処理班への連絡。

周辺警戒。

 

だが、奏斗はすでに駅から出ていた。

 

スマートフォンに、再び着信が入る。

 

奏斗は応答する。

 

『駅前の通りを右へ。タクシーには乗るな。徒歩で向かえ』

 

「どこへ行かせる」

 

『言われた通りに歩け』

 

奏斗は無言で歩き出した。

 

朝の街。

 

誰もがいつも通り通勤し、学校へ向かい、店を開けている。

 

その中で、奏斗だけが紙袋を持ち、指示された道を進んでいた。

 

通話は何度も切れ、何度もかかってきた。

 

『次の交差点を左』

 

『歩道橋を渡れ』

 

『公園を抜けろ』

 

『振り返るな』

 

奏斗は従った。

 

その様子は、街中の防犯カメラに断片的に残った。

 

だが、決定的な瞬間だけが抜け落ちていた。

 

まるで、誰かがあらかじめカメラの死角を知っていたかのように。

 

そして奏斗は、海沿いの古い廃ビルへ誘導された。

 

かつて倉庫として使われていた建物。

 

今は取り壊し予定で、人の出入りはない。

 

スマホが鳴る。

 

『中へ入れ』

 

奏斗は廃ビルを見上げた。

 

曇った空の下、古いコンクリートが黒く沈んでいる。

 

彼は何も言わずに中へ入った。

 

その頃。

 

萩原千速は第三交通機動隊の詰所にいた。

 

書類を確認していた手が、突然止まる。

 

胸騒ぎがした。

 

理由はない。

 

ただ、嫌な感じがした。

 

その直後、重悟から電話が入った。

 

千速はすぐに出る。

 

「重悟?」

 

『千速、落ち着いて聞け』

 

その言い方で、千速の顔から表情が消えた。

 

「何があった」

 

『押村が、電車内で不審物を見つけた』

 

「奏斗が?」

 

『中身は爆発物らしい。乗客を避難させたあと、不審物を持って駅で降りた』

 

千速は椅子を蹴るように立ち上がった。

 

「何で一人で持ってくんだよ!」

 

『犯人から着信があった。誘導されてる。今、追ってる』

 

「場所は!」

 

『まだ追跡中だ。お前は待機しろ』

 

「ふざけんな!」

 

千速の怒鳴り声が詰所に響いた。

 

新井が驚いて振り向く。

 

千速はスマホを握りしめた。

 

「私も行く」

 

『来るな。爆発物が絡んでる。現場が分かり次第――』

 

電話の向こうで、誰かの叫び声がした。

 

そして、重悟の声が途切れる。

 

数秒後。

 

低い爆発音が、通話越しに聞こえた。

 

千速の呼吸が止まった。

 

「……重悟?」

 

返事がない。

 

「重悟!」

 

ようやく、雑音の向こうから重悟の声が戻る。

 

『廃ビルで爆発……押村が中に……』

 

千速の視界が揺れた。

 

「嘘だろ」

 

『千速、まだ確認中だ。お前は――』

 

千速は電話を切った。

 

ヘルメットを掴む。

 

新井が叫ぶ。

 

「小隊長!」

 

「どけ!」

 

「行くんですか!」

 

「当たり前だ!」

 

千速は白バイへ走った。

 

誰も止められなかった。

 

廃ビル周辺は、すでに警察車両と消防車両で封鎖されていた。

 

黒煙が立ち上っている。

 

ビルの一部は崩れ、窓ガラスは吹き飛び、外壁には焦げ跡が広がっていた。

 

千速の白バイが規制線の手前で急停止する。

 

ヘルメットを外すより早く、彼女は走り出した。

 

「奏斗!」

 

警備の警官が止めようとする。

 

「萩原警部補、危険です!」

 

「どけ!」

 

「二次爆発の恐れがあります!」

 

千速は規制線を掴んだ。

 

その向こうで、横溝重悟が彼女に気づく。

 

「千速!」

 

重悟は駆け寄り、千速の肩を掴んだ。

 

「行くな!」

 

「離せ!」

 

「まだ中に入れねぇ!」

 

「奏斗が中にいるんだろ!」

 

重悟の顔が歪んだ。

 

その表情を見た瞬間、千速は息を呑んだ。

 

「……いるんだな」

 

重悟は答えられなかった。

 

千速はもう一度、爆発した廃ビルを見た。

 

黒煙。

焦げた臭い。

崩れたコンクリート。

消防隊員の怒号。

警察無線のざわめき。

 

そして、その中に奏斗の姿はない。

 

千速は重悟の手を振りほどこうとした。

 

「探す」

 

「千速!」

 

「探すんだよ!」

 

「今入ったらお前まで死ぬ!」

 

その言葉で、千速の動きが止まった。

 

死ぬ。

 

その単語が、嫌に鮮明に響いた。

 

研二。

陣平。

爆発。

煙。

届かない場所。

 

過去の記憶が一気に押し寄せる。

 

千速の膝が、わずかに崩れた。

 

重悟が支える。

 

「千速……」

 

千速は震える声で言った。

 

「またかよ」

 

重悟は何も言えなかった。

 

「また爆発で……また、私の前から……」

 

千速は廃ビルを見つめたまま、息を乱す。

 

「奏斗……」

 

名前を呼んでも、返事はない。

 

捜索は数時間に及んだ。

 

爆発の中心部付近から、押村奏斗の所持品と思われるものが見つかった。

 

破損した腕時計。

焦げた警察手帳の一部。

スーツの布片。

そして、本人のものと一致する痕跡。

 

遺体は、完全な形では見つからなかった。

 

爆発の規模と火災の影響で、確認には時間がかかるとされた。

 

だが、現場の状況は絶望的だった。

 

押村奏斗警部補は、爆発に巻き込まれ死亡した可能性が極めて高い。

 

その報告が出た時、捜査一課は沈黙した。

 

誰も声を出せなかった。

 

横溝は拳を握りしめ、壁を殴った。

 

「ふざけんな……」

 

部下たちは誰も止めなかった。

 

止められなかった。

 

第三交通機動隊では、新井が報告を聞いて顔を真っ白にした。

 

「押村警部補が……?」

 

千速は何も言わなかった。

 

ただ、椅子に座ったまま、一点を見つめていた。

 

泣かない。

 

叫ばない。

 

壊れたように静かだった。

 

新井が恐る恐る声をかける。

 

「小隊長……」

 

千速は低く言った。

 

「仕事に戻れ」

 

「でも」

 

「戻れ」

 

その声に、新井は何も言えなくなった。

 

千速は立ち上がる。

 

「私は現場に行く」

 

「現場って……」

 

「奏斗が最後にいた場所だ」

 

誰も止められなかった。

 

夜。

 

爆発現場には、まだ焦げた臭いが残っていた。

 

規制線の外に、千速は一人で立っていた。

 

遠くに捜査員の姿がある。

 

横溝は少し離れた場所で、彼女を見ていた。

 

千速は地面に落ちた小さな破片を見つめている。

 

奏斗が、ここにいた。

 

爆弾を持って。

犯人に誘導されて。

誰にも言わずに。

一人で。

 

「馬鹿野郎……」

 

千速の声は震えていた。

 

「一人で行くなって、言っただろ」

 

返事はない。

 

「黙るなって、言っただろ」

 

黒く焼けた廃ビルは、何も答えない。

 

千速は拳を握る。

 

「何でだよ、奏斗」

 

その時、背後から横溝が近づいた。

 

「千速」

 

「重悟」

 

「帰れ。今日はもう無理だ」

 

「無理なのはそっちだ」

 

千速は振り返らない。

 

「奏斗は、何で一人で動いた」

 

横溝は低く答える。

 

「乗客を守るためだ」

 

「それは分かる」

 

「犯人に誘導された」

 

「それも分かる」

 

千速は振り返った。

 

その目は赤くない。

 

涙はない。

 

だからこそ、重悟は胸が締めつけられた。

 

「でも、何か変だ」

 

横溝の眉が動く。

 

「何?」

 

「奏斗が、完全に一人で抱え込んで死ぬか?」

 

「……あいつは抱え込むタイプだ」

 

「知ってる」

 

千速は低く言った。

 

「でも、最近は違った。少なくとも、私には言うようにしてた」

 

横溝は黙った。

 

千速は続ける。

 

「何かがおかしい」

 

「千速」

 

「私は、あいつが死んだってまだ認めてねぇ」

 

重悟の目が揺れる。

 

「現場状況は――」

 

「分かってる!」

 

千速は怒鳴った。

 

そして、すぐに声を落とす。

 

「分かってるよ。爆発した。所持品も出た。痕跡もある。普通なら死んでる」

 

「なら」

 

「でも、奏斗の声が聞こえねぇ」

 

重悟は言葉を失った。

 

千速は廃ビルを見る。

 

「変だろ。こんな時に、まだ冷静に考えてる自分がいる」

 

「それでいい」

 

重悟は低く言った。

 

「お前が壊れたら、押村が怒る」

 

千速は小さく笑った。

 

「怒るかな」

 

「ああ。静かに怒る」

 

「想像できるな」

 

その笑いはすぐに消えた。

 

千速は拳を握ったまま、暗い廃ビルを見つめ続けた。

 

だが、千速の違和感は、証拠にはならなかった。

 

翌日。

 

押村奏斗警部補の死亡は、正式に扱われることになった。

 

報道では、こう伝えられた。

 

神奈川県警の刑事が、通勤中の電車内で不審物を発見。乗客を避難させた後、犯人に誘導され、廃ビルで爆発に巻き込まれ死亡したとみられる。

 

勇敢な刑事。

 

乗客を救った警察官。

 

殉職。

 

そんな言葉が並んだ。

 

けれど、千速はテレビを消した。

 

殉職。

 

その言葉が嫌いだった。

 

研二にも使われた。

陣平にも使われた。

そして今度は、奏斗に使われる。

 

何度聞いても、慣れるわけがない。

 

横溝は捜査本部で、爆弾犯の追跡に全力を注いでいた。

 

だが、不自然なほど手がかりは少なかった。

 

爆弾の部品は出所不明。

スマホは匿名で購入されたもの。

通話記録は巧妙に偽装。

廃ビルへ誘導するルートは、防犯カメラの死角を縫っていた。

 

まるで、最初から「押村奏斗が死んだ」という事実だけを残すために組まれたようだった。

 

横溝は資料を見つめ、低く呟いた。

 

「犯人は何者だ……」

 

その背後で、誰にも知られずに動いていた者たちがいる。

 

警察庁警備局。

 

通称、ゼロ。

 

一か月前。

 

警察庁の一室。

 

押村奏斗は、古谷と向かい合って座っていた。

 

部屋に窓はない。

 

机の上には、数枚の資料だけが置かれていた。

 

古谷は静かに言った。

 

「押村警部補。あなたに、表の身分を捨ててもらいます」

 

奏斗は資料を見つめた。

 

そこには、今回の偽装計画の概要が書かれていた。

 

電車内の不審物。

爆発物処理を装った誘導。

廃ビルでの爆発。

死亡扱い。

身元の痕跡。

報道統制。

戸籍上の処理。

県警内部への情報遮断。

 

あまりにも綿密だった。

 

奏斗は静かに問う。

 

「千速や横溝警部には?」

 

古谷は答えた。

 

「知らせません」

 

「なぜ」

 

「痕跡が残るからです」

 

古谷の声は冷たい。

 

「あなたが生きている可能性を、誰かが知っていれば、必ず揺らぎが出る。疑い、探し、守ろうとする。それは敵にとって手がかりになります」

 

奏斗は黙った。

 

古谷は続ける。

 

「ゼロになるということは、誰にも帰れないということです」

 

「……」

 

「恋人にも。上司にも。仲間にも」

 

奏斗の脳裏に、千速の顔が浮かんだ。

 

怒った顔。

笑った顔。

白バイに乗る横顔。

夜道で手を握ってくれた時の温度。

 

そして重悟。

 

荒っぽく、口は悪いが、いつも部下を見ている上司。

 

新井や三森。

捜査一課の仲間たち。

 

すべてを捨てる。

 

死んだことにする。

 

生きている痕跡は、一切残さない。

 

古谷は静かに言った。

 

「決めるのはあなたです」

 

奏斗は資料から目を上げた。

 

「これは命令ではないのですか」

 

「命令ではありません。志願という形になります」

 

「卑怯ですね」

 

古谷は少しだけ笑った。

 

「よく言われます」

 

奏斗はしばらく沈黙した。

 

その沈黙の中で、彼はすでに答えを出していた。

 

なぜゼロになる決意をしたのか。

 

その理由は、まだ誰にも話していない。

 

千速にも。

 

重悟にも。

 

そして、この時点の古谷にも、すべては話していなかった。

 

奏斗は静かに言った。

 

「分かりました」

 

古谷の目がわずかに細くなる。

 

「引き受けるのですか」

 

「はい」

 

「後戻りはできません」

 

「承知しています」

 

「萩原警部補は、あなたの死を信じます」

 

奏斗の指がわずかに動いた。

 

古谷は続ける。

 

「横溝警部も、新井巡査部長も、三森巡査部長も。全員があなたを失ったと思う」

 

奏斗は目を伏せた。

 

「それでも、必要なら」

 

古谷は静かに問う。

 

「本当にできますか」

 

奏斗は答えた。

 

「できます」

 

その声は揺れなかった。

 

揺らしてはいけなかった。

 

ゼロになるために。

 

表の自分を殺すために。

 

そして現在。

 

廃ビルの爆発から数日後。

 

押村奏斗の葬儀は、身内と関係者だけで静かに執り行われた。

 

棺の中に、完全な遺体はない。

 

それでも、形式は進む。

 

遺影には、警察手帳用に撮られた真面目な顔の写真が使われた。

 

千速は喪服姿で、遺影の前に立っていた。

 

顔色は悪い。

 

だが、泣いてはいない。

 

重悟はその隣に立つ。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「無理するな」

 

千速は遺影を見つめたまま言った。

 

「無理しなきゃ立ってられねぇよ」

 

重悟は何も言えなかった。

 

焼香の煙が静かに上がる。

 

同期たち。

捜査一課の仲間。

第三交機の隊員たち。

 

皆、押村奏斗の死を悼んでいた。

 

三森は泣いていた。

 

新井も唇を噛みしめている。

 

横溝は最後まで泣かなかった。

 

ただ、遺影の前で深く頭を下げた。

 

千速はその後、ゆっくり遺影の前へ進んだ。

 

「奏斗」

 

小さな声だった。

 

誰にも聞こえないほどの。

 

「私はまだ、納得してねぇ」

 

遺影の中の奏斗は何も言わない。

 

千速は白い花を置いた。

 

「でも、今は……」

 

言葉が詰まる。

 

初めて、目に涙が浮かんだ。

 

「今は、さよならって言うしかねぇんだな」

 

花を置いた手が震える。

 

「馬鹿野郎」

 

その言葉だけを残して、千速は下がった。

 

同じ時刻。

 

どこかの地下通路。

 

一人の男が、黒いスーツ姿で歩いていた。

 

髪型も、眼鏡も、服装も、以前とは違う。

 

顔つきもわずかに変えられている。

 

だが、その目だけは変わらない。

 

押村奏斗だった。

 

いや。

 

もう、その名前は使えない。

 

彼は立ち止まり、壁に設置された監視カメラを見上げた。

 

古谷が隣に並ぶ。

 

「今日で、押村奏斗は完全に死にました」

 

奏斗は何も言わない。

 

古谷は続ける。

 

「後悔していますか」

 

少しの沈黙。

 

奏斗は静かに答えた。

 

「後悔する資格はありません」

 

「そうですか」

 

「千速は」

 

言いかけて、奏斗は口を閉じた。

 

その名前を出してはいけない。

 

もう、自分は彼女の恋人ではない。

 

神奈川県警捜査一課の押村奏斗でもない。

 

古谷はあえて何も言わなかった。

 

奏斗は深く息を吐く。

 

生きている痕跡は残さない。

 

連絡もしない。

姿も見せない。

声も届かせない。

 

千速が泣いていても。

重悟が怒っていても。

仲間たちが悲しんでいても。

 

戻らない。

 

戻れない。

 

それが、ゼロになるということだった。

 

古谷は一枚の身分証を差し出した。

 

そこには、押村奏斗とは違う名前が記されていた。

 

「これが、今日からのあなたです」

 

奏斗はそれを受け取った。

 

指先に、ほんのわずかな震えがあった。

 

だが、すぐに止めた。

 

「任務は」

 

古谷は静かに答えた。

 

「すでに始まっています」

 

奏斗は顔を上げた。

 

その目は、刑事だった頃よりも深く、冷たく、遠い場所を見ていた。

 

神奈川県警捜査一課警部補、押村奏斗。

 

彼は爆発で死んだ。

 

そう記録される。

 

そう信じられる。

 

そうでなければならない。

 

そして。

 

誰にも知られず、彼はゼロになった。

 

表の世界に残したものを、すべて切り捨てて。

 

たった一つ、胸の奥に消せない名前を抱えたまま。

 

千速。

 

その名を、二度と呼べない場所へ。

 

奏斗は静かに歩き出した。

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