神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

54 / 88
第54話 ゼロへの入口

数か月前。

 

港南中央モータースクールで起きた桐生圭吾事件は、表向きには解決していた。

 

大型二輪教習中の事故死に見せかけた殺人。

被害者は真島亮。

犯人は桐生圭吾。

 

動機は、十年前に兄を失ったことへの復讐だった。

 

瀬戸誠司。

大熊徹。

真島亮。

 

それぞれの過去と恨みを利用し、桐生は教習所内で殺人を実行した。

 

押村奏斗は事件を解決した。

 

だが、桐生圭吾が最後に残した言葉だけが、どうしても引っかかっていた。

 

警察庁警備局に聞いてみろ。十年前、兄が何を運んでいたのかを。

 

事件が終わった後も、その言葉は押村の中に残り続けた。

 

捜査一課の会議室。

 

事件資料の整理を終えた横溝重悟は、押村の机に紙コップのコーヒーを置いた。

 

「押村」

 

「はい」

 

「まだ桐生の資料見てんのか」

 

押村は顔を上げた。

 

「はい」

 

横溝は椅子に腰を下ろし、顔をしかめる。

 

「真島殺しは固まった。送致も済んだ。お前が気にすることはもうねぇだろ」

 

「殺人事件としては終わっています」

 

「その言い方、嫌な予感しかしねぇな」

 

押村は資料を一枚めくった。

 

「十年前の事故について、未解明の点が多すぎます」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「警備局絡みの件か」

 

「はい」

 

「深入りするなと言ったはずだ」

 

「覚えています」

 

「覚えてて見てるのか」

 

「はい」

 

横溝は大きく息を吐いた。

 

「お前は本当に面倒な奴だな」

 

押村は静かに言った。

 

「桐生圭吾は兄の死の真相が分からないまま、十年抱え込んだ。その結果、真島を殺しました」

 

「それは桐生の罪だ」

 

「はい」

 

押村は横溝を見る。

 

「でも、情報が意図的に伏せられたことで、新たな事件が生まれた可能性はあります」

 

横溝はしばらく黙った。

 

それは、横溝にも分かっていた。

 

ただ、分かることと踏み込むことは違う。

 

警察庁警備局。

 

通称、ゼロ。

 

県警の捜査一課が簡単に手を出せる相手ではない。

 

「押村」

 

「はい」

 

「正義感だけで触ると、潰されるぞ」

 

押村は少しだけ間を置いた。

 

「正義感だけではありません」

 

「じゃあ何だ」

 

「違和感です」

 

横溝は眉をひそめる。

 

「違和感?」

 

押村は十年前の事故資料を机に置いた。

 

「桐生圭吾の兄、桐生誠は、公安案件に関係する人物だった可能性があります。瀬戸さんは当時、警視庁の白バイ隊員として不審車両を追跡した。しかし、なぜ一介の白バイ隊員が、警備局案件の対象を追うことになったのか」

 

「たまたま見つけたんじゃねぇのか」

 

「それにしては、その後の処理が早すぎます。事故直後、現場周辺の防犯カメラ映像が一部欠落している。搬送記録も一部黒塗り。現場にいたはずのもう一人の男の行方も不明です」

 

横溝は資料を見る。

 

「逃げた助手席の男か」

 

「はい」

 

「そいつが、今も生きてると?」

 

押村は頷いた。

 

「可能性があります」

 

横溝の顔がさらに険しくなる。

 

「どこからそう思った」

 

押村は一枚の写真を出した。

 

防犯カメラの粗い画像。

 

桐生事件の後、教習所近くで撮られたものだった。

 

帽子を深く被った男。

 

顔はほとんど見えない。

 

だが、歩き方に特徴があった。

 

「桐生事件の捜査中、教習所周辺に不審な男が映っていました。桐生でも、瀬戸さんでも、大熊さんでもありません」

 

横溝が目を細める。

 

「これだけじゃ分からねぇだろ」

 

「はい。ただ、十年前の事故現場で逃走した助手席の男にも、右足を引きずる特徴があったという未確認証言があります」

 

横溝は黙った。

 

「十年前の男が、今になって教習所周辺に現れた可能性があるのか」

 

「はい」

 

「何のために」

 

押村は静かに答えた。

 

「桐生圭吾を見ていたのだと思います」

 

「見ていた?」

 

「桐生が復讐を実行するかどうか。あるいは、十年前の件を掘り返すかどうか」

 

横溝の表情が変わった。

 

「お前、それを古谷に話したか」

 

「まだです」

 

「話すな」

 

押村は横溝を見る。

 

横溝は低く言った。

 

「それが本当なら、桐生事件はただの復讐事件じゃなくなる。警備局が隠してる十年前の案件が、今も動いてるってことになる」

 

「はい」

 

「だから危ねぇんだよ」

 

押村は黙った。

 

横溝は苛立ったように頭をかいた。

 

「千速には言ったのか」

 

「いいえ」

 

「言うなよ」

 

「なぜですか」

 

「心配するからだ」

 

押村は少しだけ目を伏せた。

 

その顔を見て、横溝はさらに深いため息をついた。

 

「……もう心配させる気満々の顔してんじゃねぇか」

 

押村は否定しなかった。

 

その日の夜。

 

押村は千速と会っていた。

 

小さな定食屋。

 

いつもの席。

 

千速は焼き魚定食を前に、箸を止めて押村を見ていた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「何か隠してるだろ」

 

押村はわずかに動きを止めた。

 

千速は目を細める。

 

「今ので確定だな」

 

「まだ何も言っていない」

 

「お前は隠し事すると、一瞬だけ箸の動きが止まる」

 

押村は自分の手元を見た。

 

「そうなのか」

 

「そうだよ」

 

千速は味噌汁を置く。

 

「桐生の事件か」

 

押村はすぐには答えなかった。

 

千速の視線が鋭くなる。

 

「警備局絡みか」

 

「……言える範囲なら」

 

「その言い方がもう嫌だ」

 

押村は静かに息を吐いた。

 

「事件は終わりました。ただ、十年前の事故について不明な点があります」

 

千速は黙って聞く。

 

「桐生の兄が死亡した事故。その時逃げた男が、今も生きている可能性がある」

 

「それが警備局の案件だったと」

 

「はい」

 

千速は箸を置いた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「深入りする気か」

 

押村は千速を見た。

 

「まだ分からない」

 

「嘘だな」

 

「……」

 

「お前はもう踏み込む気でいる」

 

押村は否定できなかった。

 

千速は小さく息を吐く。

 

「止めても無駄か」

 

「危険だと判断すれば、横溝警部に報告します」

 

「そういう話じゃねぇ」

 

千速の声が少し低くなる。

 

「一人で抱え込むなって話だ」

 

押村は目を伏せた。

 

「分かっている」

 

「本当に?」

 

「努力している」

 

「そこは言い切れって言っただろ」

 

押村は少し間を置いた。

 

「一人で抱え込まない」

 

千速はしばらく押村を見ていた。

 

「信じるぞ」

 

「はい」

 

「敬語」

 

「……信じてくれ」

 

千速はようやく少しだけ笑った。

 

「よし」

 

しかし、その夜の千速は、完全には安心していなかった。

 

押村が何かに引き寄せられている。

 

それが分かったからだ。

 

正義感だけではない。

 

好奇心でもない。

 

あの男は、見過ごせないものを見つけてしまった時、静かにそこへ向かっていく。

 

危険だと分かっていても。

 

誰かが止めなければ、どこまでも。

 

翌日。

 

押村は、桐生圭吾の再聴取に立ち会った。

 

桐生は取調室で、以前よりもやつれた顔をしていた。

 

横溝は後方に立ち、腕を組んでいる。

 

押村は正面に座った。

 

「桐生さん。十年前の事故について確認します」

 

桐生は小さく笑った。

 

「やっとそこに興味を持ったんですか」

 

「兄の誠さんは、事故当時何を運んでいたのですか」

 

桐生の目が濁る。

 

「知りません」

 

「本当に?」

 

「兄は何も話してくれなかった。ただ、事故の少し前、変なことを言っていました」

 

「変なこと?」

 

桐生は遠くを見るように言った。

 

「“もう抜けたい。でも、抜けたら消される”って」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

押村は問う。

 

「何から抜けたいと言っていたのですか」

 

「知りません。でも兄は、普通の運送業じゃなかった」

 

「なぜそう思う」

 

「夜中に呼び出される。知らない車に乗る。帰ってくると手が震えている。なのに金だけは増えていた」

 

押村はメモを取る。

 

「事故当日、助手席にいた男については?」

 

桐生の表情が変わった。

 

「兄が一度だけ名前を出しました」

 

「名前?」

 

「本名かどうかは知りません」

 

桐生は押村を見る。

 

「“榊”」

 

押村の手が止まる。

 

「榊」

 

「はい。兄はその男を怖がっていた。榊に逆らったら終わりだ、と」

 

横溝が問う。

 

「榊の特徴は」

 

「右足を少し引きずる。声が低い。兄より年上。顔は見たことがありません」

 

押村は、防犯カメラの男を思い出した。

 

右足を引きずる男。

 

十年前の事故現場から逃げた助手席の男。

 

そして、桐生事件の頃に教習所付近に現れた不審者。

 

「桐生さん」

 

「何ですか」

 

「あなたは、榊が今も生きていると思っていたのですか」

 

桐生は笑った。

 

「思っていましたよ」

 

「なぜ」

 

桐生は低く言った。

 

「事件を起こす前、封筒が届きました」

 

押村の表情が変わる。

 

「封筒?」

 

「ええ。兄の事故資料の一部が入っていた。そこに、榊の名前がありました」

 

横溝が一歩前に出る。

 

「その封筒はどこだ」

 

「燃やしました」

 

「誰が送った」

 

「分かりません」

 

押村は静かに問う。

 

「あなたは、その封筒を見て真島さんへの復讐を決めた」

 

桐生は笑った。

 

「そうです。真島が瀬戸を脅していると知った。瀬戸を壊すには、真島を殺せばいいと思った。大熊も利用できると思った」

 

「あなたを動かした人間がいる可能性があります」

 

桐生は押村を見た。

 

「でしょうね」

 

「分かっていて動いたのですか」

 

「関係ない。俺は兄のためにやった」

 

押村は静かに言った。

 

「あなたも利用された」

 

桐生の顔から笑みが消えた。

 

押村は続けた。

 

「あなたは真島さんを殺した。その罪は消えません。ただ、あなたに情報を与え、憎しみを誘導した人間がいる」

 

桐生は拳を握った。

 

「だったら捕まえてくださいよ」

 

「そのつもりです」

 

横溝が押村を見る。

 

「おい」

 

押村は視線を逸らさなかった。

 

桐生は低く笑った。

 

「無理ですよ。県警の刑事じゃ、そこまでは届かない」

 

押村は静かに答えた。

 

「届かせます」

 

その言葉を聞いた横溝は、嫌な予感を覚えた。

 

押村奏斗は、こういう時だけ妙に頑固になる。

 

普段は冷静で、無駄なことはしない。

 

けれど、誰かの死が意図的に隠され、その隠蔽が次の事件を生んだと分かった時。

 

押村は止まらない。

 

その日の午後。

 

押村のもとに、古谷から連絡が入った。

 

指定された場所は、警察庁ではなかった。

 

横浜市内の古い喫茶店。

 

店内は薄暗く、客は少ない。

 

奥の席に、古谷が座っていた。

 

「来ていただけると思っていました」

 

押村は向かいに座る。

 

「桐生圭吾に封筒を送ったのは、警備局ですか」

 

挨拶もなく切り込む。

 

古谷は少しだけ笑った。

 

「いきなりですね」

 

「答えてください」

 

「違います」

 

「では、誰ですか」

 

「我々も探っています」

 

押村は古谷を見つめた。

 

「十年前の事故現場から逃走した男、榊。彼が関係していますか」

 

古谷の表情がわずかに変わった。

 

それだけで十分だった。

 

「やはり知っているんですね」

 

古谷はコーヒーに手を伸ばす。

 

「榊という名は、本名ではありません」

 

「何者ですか」

 

「元協力者です」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「警備局の?」

 

古谷は答えない。

 

押村は続ける。

 

「桐生誠さんは、榊に利用されていた」

 

「……近いです」

 

「十年前、桐生誠さんは何を運んでいたのですか」

 

古谷はしばらく沈黙した。

 

店内の時計の音だけが聞こえる。

 

やがて、古谷は低く言った。

 

「ある人物の移送に関わる情報です」

 

「人物?」

 

「国外組織と接触していた日本人。こちらが内偵していた対象でした」

 

「桐生誠さんは、その情報を運ばされていた」

 

「はい」

 

「そして逃げようとして事故に遭った」

 

「そう見ています」

 

押村は眉を寄せる。

 

「そう見ている?」

 

古谷は静かに言った。

 

「十年前の事故は、本当に事故だったのか分かっていません」

 

押村の表情が変わった。

 

「どういう意味ですか」

 

「瀬戸さんの追跡によって起きた事故。それが公式記録です」

 

「実際は?」

 

古谷は声を落とした。

 

「車両に細工があった可能性があります」

 

押村は言葉を失った。

 

車両への細工。

 

桐生事件と同じ。

 

いや、桐生事件は十年前の再現だったのかもしれない。

 

「榊が桐生誠さんを消した?」

 

「可能性があります」

 

「なぜ公表しなかったのですか」

 

古谷は目を伏せた。

 

「確証がなかった。そして、当時追っていた案件が大きすぎた」

 

押村の声が低くなる。

 

「人が死んでいます」

 

「承知しています」

 

「承知していて、隠した」

 

古谷は押村を見る。

 

「隠した結果、桐生圭吾が復讐に走った。それは事実です」

 

「なら」

 

「だから、あなたに接触しました」

 

押村は眉をひそめた。

 

古谷は続ける。

 

「榊が神奈川に戻っています」

 

「目的は」

 

「分かりません。ただ、桐生事件の裏で情報を流したのが榊なら、彼は県警と警備局の動きを試している」

 

「なぜ俺に話すのですか」

 

古谷は少しだけ口元を緩めた。

 

「あなたが気づいたからです」

 

「気づいた人間を利用するのですか」

 

「言い方は悪いですが、その通りです」

 

押村は冷たい目で古谷を見た。

 

古谷は表情を変えない。

 

「榊は、警備局内部の手順を知っています。こちらの人間が正面から動けば、すぐに察知される」

 

「県警の刑事なら気づかれにくい」

 

「はい」

 

「囮にするつもりですか」

 

「その危険はあります」

 

押村は立ち上がりかけた。

 

その時、古谷が一枚の写真を置いた。

 

写っていたのは、防犯カメラに映った右足を引きずる男。

 

そして、その後ろにもう一人。

 

男がいた。

 

見覚えのある顔だった。

 

押村は写真を手に取った。

 

「これは……」

 

古谷が言う。

 

「三日前、横浜市内で撮影されました」

 

写真の中で、右足を引きずる男と接触していた人物。

 

それは、神奈川県警内部の人間だった。

 

捜査一課ではない。

 

だが、県警本部に出入りできる立場の男。

 

古谷は低く言った。

 

「榊は、県警内部にも接触しています」

 

押村の目が変わった。

 

「名前は」

 

「まだ確定していません」

 

「本当に?」

 

古谷は微笑まなかった。

 

「ここから先は、押村警部補。あなたが自分で確かめるかどうかです」

 

押村は写真を見つめた。

 

県警内部に、榊と通じる人間がいる。

 

桐生事件は、ただの復讐ではなかった。

 

十年前に隠されたものが、今も誰かを動かしている。

 

そして、その線は神奈川県警の中にも伸びていた。

 

押村は写真を机に戻した。

 

「俺に何をさせたいのですか」

 

古谷は静かに答えた。

 

「見つけてください。県警の中にいる榊の協力者を」

 

「警備局が動けばいい」

 

「動けば逃げられます」

 

「俺が動けば、俺が狙われます」

 

「はい」

 

古谷は否定しなかった。

 

押村はその正直さが嫌だった。

 

「千速や横溝警部には」

 

「知らせない方がいい」

 

「またそれですか」

 

「知れば、巻き込まれます」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「もう巻き込んでいます」

 

古谷は少しだけ沈黙した。

 

「それでも、守れる範囲があります」

 

押村は答えなかった。

 

守る。

 

その言葉は便利だ。

 

守るために隠す。

守るために黙る。

守るために遠ざける。

 

だが、前の事件でも見た。

 

黙ることが、人を傷つけることがある。

 

千速にも言われた。

 

一人で抱え込むな、と。

 

それでも。

 

今回ばかりは、話すことが本当に彼女を危険に近づけるかもしれない。

 

押村はしばらく黙っていた。

 

古谷は待っていた。

 

やがて押村は、低く言った。

 

「協力者を見つけるだけです」

 

古谷は頷いた。

 

「十分です」

 

「俺はゼロになるつもりはありません」

 

古谷はわずかに笑った。

 

「今は、それで構いません」

 

その言葉が、押村には妙に引っかかった。

 

今は。

 

まるで、いずれそうなることを見越しているような言い方だった。

 

その日から、押村の周囲にわずかな変化が生まれた。

 

県警内部の記録を確認する。

十年前の事故に関わった部署を洗う。

桐生事件の資料閲覧履歴を追う。

榊と思われる男の防犯カメラ映像を集める。

 

すべて、通常業務の合間に。

 

横溝はそれに気づいていた。

 

当然だった。

 

「押村」

 

夜の捜査一課。

 

人が少なくなった部屋で、横溝が押村を呼んだ。

 

「何を調べてる」

 

押村は手を止めた。

 

「十年前の事故です」

 

「誰に頼まれた」

 

押村は黙った。

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「古谷か」

 

押村は答えなかった。

 

それが答えだった。

 

横溝は低く言った。

 

「俺に黙ってゼロの連中と組む気か」

 

「組んでいるわけではありません」

 

「同じだ」

 

「県警内部に、榊と接触している人物がいる可能性があります」

 

横溝の表情が変わる。

 

「何だと」

 

押村は写真を出そうとして、止めた。

 

古谷の言葉が頭をよぎる。

 

知れば、巻き込まれる。

 

だが、横溝は上司だ。

 

そして、押村が信頼する人間だ。

 

押村は写真を机に置いた。

 

「この人物です」

 

横溝は写真を見て、目を細めた。

 

「……こいつは」

 

「知っていますか」

 

横溝は低く答えた。

 

「警務部の尾崎だ。内部監察にも顔が利く」

 

押村は静かに息を吐いた。

 

「やはり県警内部の人間ですね」

 

横溝は写真を握りしめた。

 

「何でお前がこんなもん持ってる」

 

「古谷からです」

 

「押村」

 

横溝の声が低くなる。

 

「お前、もう片足突っ込んでるぞ」

 

「分かっています」

 

「分かってねぇ」

 

横溝は机に手をついた。

 

「ゼロはな、必要なら人を消すぞ。味方でも、協力者でも、都合が悪くなれば表から消す。そういう場所だ」

 

押村は横溝を見た。

 

「横溝警部は、ゼロについて詳しいのですか」

 

横溝は一瞬だけ黙った。

 

押村はそれを見逃さなかった。

 

「警部?」

 

横溝は目を逸らした。

 

「昔、少し関わっただけだ」

 

「どういう意味ですか」

 

「今は関係ねぇ」

 

「警部」

 

横溝は強い口調で言った。

 

「これ以上踏み込むな」

 

その声には、怒りよりも恐れが混じっていた。

 

押村は初めて見る横溝の表情に、言葉を止めた。

 

横溝重悟は荒っぽい男だ。

 

怒鳴ることはある。

 

苛立つこともある。

 

だが、怯えるような目は滅多にしない。

 

ゼロ。

 

警察庁警備局。

 

横溝は、その闇の深さを知っている。

 

押村は静かに言った。

 

「それでも、県警内部に協力者がいるなら放置できません」

 

横溝は苦しそうに顔を歪めた。

 

「お前は……本当にそういう奴だな」

 

その時、押村のスマホが震えた。

 

非通知。

 

押村と横溝は同時に画面を見た。

 

押村が応答する。

 

数秒の沈黙。

 

そして、低い男の声。

 

『押村奏斗警部補』

 

押村の目が鋭くなる。

 

「誰だ」

 

『探し物は見つかったか』

 

横溝の表情が変わる。

 

電話の向こうの声は続けた。

 

『尾崎に近づくな。次は、萩原千速が事故に遭う』

 

押村の呼吸が止まった。

 

横溝が身を乗り出す。

 

「押村!」

 

押村は低く言った。

 

「お前が榊か」

 

男は笑った。

 

『名前など意味はない』

 

「千速に手を出すな」

 

『なら、知りすぎるな』

 

通話は切れた。

 

押村はスマホを握りしめたまま動かなかった。

 

横溝が怒鳴る。

 

「今すぐ千速に連絡しろ!」

 

押村はすぐに電話をかけた。

 

数コール。

 

千速が出る。

 

『何だ、奏斗』

 

その声を聞いた瞬間、押村はわずかに息を吐いた。

 

「今どこにいる」

 

『第三交機。何だよ、急に』

 

「一人か」

 

『いや、新井たちもいる。何かあったのか』

 

押村は一瞬だけ言葉に詰まった。

 

言うべきか。

 

言わないべきか。

 

千速がすぐに気づく。

 

『奏斗』

 

「……今日、帰る時は誰かと一緒に」

 

『何があった』

 

「頼む」

 

千速の声が低くなる。

 

『また隠してるな』

 

押村は目を閉じた。

 

「後で話す」

 

『本当だな』

 

「本当だ」

 

横溝が横で低く言う。

 

「俺も行く」

 

押村は頷いた。

 

「横溝警部も行く」

 

電話の向こうで、千速が少し息を吐いた。

 

『分かった。待ってる』

 

電話が切れた。

 

押村はスマホを下ろす。

 

横溝は低い声で言った。

 

「もう引けねぇぞ」

 

「はい」

 

「千速を脅しに使った。あいつらは本気だ」

 

押村は静かに頷いた。

 

胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。

 

自分が踏み込んだことで、千速の名前が出た。

 

それは、押村にとって許せないことだった。

 

自分が狙われるならいい。

 

だが、千速を。

 

彼女を巻き込むなら。

 

押村は初めて、この闇を外側から追うだけでは足りないと思った。

 

中に入らなければ届かない。

 

その考えが、まだ形にならないまま、胸の奥で静かに芽を出した。

 

その夜。

 

第三交通機動隊の駐車場。

 

千速は白バイの横で待っていた。

 

押村と横溝が到着すると、すぐに歩み寄る。

 

「説明しろ」

 

押村は千速を見る。

 

隠すことは、もうできなかった。

 

「桐生事件の背後に、十年前の公安案件が関係している可能性がある」

 

千速の顔が険しくなる。

 

「公安案件?」

 

横溝が横から補足する。

 

「警備局だ。ゼロ絡みだ」

 

千速の目が押村へ向く。

 

「お前、ゼロに関わったのか」

 

押村は頷いた。

 

「古谷と接触した」

 

千速の表情が変わった。

 

「何で黙ってた」

 

押村はすぐに答えられない。

 

千速は一歩近づく。

 

「一人で抱え込まないって言ったよな」

 

「言った」

 

「じゃあ何でだよ」

 

押村は低く言った。

 

「君を巻き込みたくなかった」

 

千速の目が揺れた。

 

怒りと、悲しみが混ざる。

 

「それ、一番聞きたくない言葉だ」

 

押村は言葉を失った。

 

千速は続ける。

 

「守るために黙るな。黙られる方が怖い」

 

横溝は二人を見て、何も言わなかった。

 

押村は静かに頭を下げた。

 

「すまない」

 

千速は拳を握った。

 

「謝るな。話せ」

 

押村は顔を上げ、すべて話した。

 

榊という男。

十年前の事故。

桐生誠の死。

県警内部の尾崎。

そして、千速への脅迫。

 

千速は最後まで黙って聞いた。

 

聞き終えると、低く言った。

 

「私を脅しに使ったのか」

 

「ああ」

 

千速の目に怒りが灯る。

 

「上等だ」

 

押村がすぐに言う。

 

「危険だ。君は――」

 

「黙れ」

 

千速の声が鋭く飛ぶ。

 

「私は守られるだけの人間じゃねぇ」

 

「分かっている」

 

「分かってねぇから黙ってたんだろ」

 

押村は何も言えなかった。

 

千速は一歩近づき、押村の胸倉を軽く掴んだ。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「私を遠ざけるな」

 

押村は千速を見た。

 

その目は、怒っている。

 

でも、それ以上に怖がっている。

 

押村がいなくなることを。

 

また、何も知らされずに失うことを。

 

押村は静かに答えた。

 

「分かった」

 

「本当に?」

 

「本当に」

 

千速は手を離した。

 

「なら、次からは言え」

 

「言う」

 

横溝が低く言う。

 

「俺にもな」

 

押村は横溝を見る。

 

「はい」

 

横溝は眉をひそめる。

 

「信用ならねぇ返事だが、今はそれでいい」

 

その時、遠くでバイクの音がした。

 

三人が同時に振り向く。

 

駐車場の外を、一台の黒いバイクが通り過ぎた。

 

ただの通行車両。

 

そう見えた。

 

だが、そのライダーは一瞬だけこちらを見た。

 

顔はヘルメットで見えない。

 

次の瞬間、バイクは夜の道へ消えた。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「今の」

 

押村も見ていた。

 

「偶然ではなさそうだ」

 

横溝が舌打ちする。

 

「始まったな」

 

そう。

 

この時、すでに始まっていた。

 

押村奏斗がゼロへ近づく道。

 

千速や重悟が、まだ知らない未来。

 

そして数か月後。

 

電車内の紙袋。

廃ビルの爆発。

押村奏斗の死。

 

その偽装工作へ繋がる最初の夜が、この瞬間だった。

 

奏斗は黒いバイクが消えた方向を見つめながら、静かに思った。

 

外から追っていては届かない。

 

この闇を暴くには、もっと深い場所へ行くしかない。

 

その考えが、初めて明確な形を持ち始めていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。