数か月前。
港南中央モータースクールで起きた桐生圭吾事件は、表向きには解決していた。
大型二輪教習中の事故死に見せかけた殺人。
被害者は真島亮。
犯人は桐生圭吾。
動機は、十年前に兄を失ったことへの復讐だった。
瀬戸誠司。
大熊徹。
真島亮。
それぞれの過去と恨みを利用し、桐生は教習所内で殺人を実行した。
押村奏斗は事件を解決した。
だが、桐生圭吾が最後に残した言葉だけが、どうしても引っかかっていた。
警察庁警備局に聞いてみろ。十年前、兄が何を運んでいたのかを。
事件が終わった後も、その言葉は押村の中に残り続けた。
捜査一課の会議室。
事件資料の整理を終えた横溝重悟は、押村の机に紙コップのコーヒーを置いた。
「押村」
「はい」
「まだ桐生の資料見てんのか」
押村は顔を上げた。
「はい」
横溝は椅子に腰を下ろし、顔をしかめる。
「真島殺しは固まった。送致も済んだ。お前が気にすることはもうねぇだろ」
「殺人事件としては終わっています」
「その言い方、嫌な予感しかしねぇな」
押村は資料を一枚めくった。
「十年前の事故について、未解明の点が多すぎます」
横溝の目が鋭くなる。
「警備局絡みの件か」
「はい」
「深入りするなと言ったはずだ」
「覚えています」
「覚えてて見てるのか」
「はい」
横溝は大きく息を吐いた。
「お前は本当に面倒な奴だな」
押村は静かに言った。
「桐生圭吾は兄の死の真相が分からないまま、十年抱え込んだ。その結果、真島を殺しました」
「それは桐生の罪だ」
「はい」
押村は横溝を見る。
「でも、情報が意図的に伏せられたことで、新たな事件が生まれた可能性はあります」
横溝はしばらく黙った。
それは、横溝にも分かっていた。
ただ、分かることと踏み込むことは違う。
警察庁警備局。
通称、ゼロ。
県警の捜査一課が簡単に手を出せる相手ではない。
「押村」
「はい」
「正義感だけで触ると、潰されるぞ」
押村は少しだけ間を置いた。
「正義感だけではありません」
「じゃあ何だ」
「違和感です」
横溝は眉をひそめる。
「違和感?」
押村は十年前の事故資料を机に置いた。
「桐生圭吾の兄、桐生誠は、公安案件に関係する人物だった可能性があります。瀬戸さんは当時、警視庁の白バイ隊員として不審車両を追跡した。しかし、なぜ一介の白バイ隊員が、警備局案件の対象を追うことになったのか」
「たまたま見つけたんじゃねぇのか」
「それにしては、その後の処理が早すぎます。事故直後、現場周辺の防犯カメラ映像が一部欠落している。搬送記録も一部黒塗り。現場にいたはずのもう一人の男の行方も不明です」
横溝は資料を見る。
「逃げた助手席の男か」
「はい」
「そいつが、今も生きてると?」
押村は頷いた。
「可能性があります」
横溝の顔がさらに険しくなる。
「どこからそう思った」
押村は一枚の写真を出した。
防犯カメラの粗い画像。
桐生事件の後、教習所近くで撮られたものだった。
帽子を深く被った男。
顔はほとんど見えない。
だが、歩き方に特徴があった。
「桐生事件の捜査中、教習所周辺に不審な男が映っていました。桐生でも、瀬戸さんでも、大熊さんでもありません」
横溝が目を細める。
「これだけじゃ分からねぇだろ」
「はい。ただ、十年前の事故現場で逃走した助手席の男にも、右足を引きずる特徴があったという未確認証言があります」
横溝は黙った。
「十年前の男が、今になって教習所周辺に現れた可能性があるのか」
「はい」
「何のために」
押村は静かに答えた。
「桐生圭吾を見ていたのだと思います」
「見ていた?」
「桐生が復讐を実行するかどうか。あるいは、十年前の件を掘り返すかどうか」
横溝の表情が変わった。
「お前、それを古谷に話したか」
「まだです」
「話すな」
押村は横溝を見る。
横溝は低く言った。
「それが本当なら、桐生事件はただの復讐事件じゃなくなる。警備局が隠してる十年前の案件が、今も動いてるってことになる」
「はい」
「だから危ねぇんだよ」
押村は黙った。
横溝は苛立ったように頭をかいた。
「千速には言ったのか」
「いいえ」
「言うなよ」
「なぜですか」
「心配するからだ」
押村は少しだけ目を伏せた。
その顔を見て、横溝はさらに深いため息をついた。
「……もう心配させる気満々の顔してんじゃねぇか」
押村は否定しなかった。
その日の夜。
押村は千速と会っていた。
小さな定食屋。
いつもの席。
千速は焼き魚定食を前に、箸を止めて押村を見ていた。
「奏斗」
「何だ」
「何か隠してるだろ」
押村はわずかに動きを止めた。
千速は目を細める。
「今ので確定だな」
「まだ何も言っていない」
「お前は隠し事すると、一瞬だけ箸の動きが止まる」
押村は自分の手元を見た。
「そうなのか」
「そうだよ」
千速は味噌汁を置く。
「桐生の事件か」
押村はすぐには答えなかった。
千速の視線が鋭くなる。
「警備局絡みか」
「……言える範囲なら」
「その言い方がもう嫌だ」
押村は静かに息を吐いた。
「事件は終わりました。ただ、十年前の事故について不明な点があります」
千速は黙って聞く。
「桐生の兄が死亡した事故。その時逃げた男が、今も生きている可能性がある」
「それが警備局の案件だったと」
「はい」
千速は箸を置いた。
「奏斗」
「何だ」
「深入りする気か」
押村は千速を見た。
「まだ分からない」
「嘘だな」
「……」
「お前はもう踏み込む気でいる」
押村は否定できなかった。
千速は小さく息を吐く。
「止めても無駄か」
「危険だと判断すれば、横溝警部に報告します」
「そういう話じゃねぇ」
千速の声が少し低くなる。
「一人で抱え込むなって話だ」
押村は目を伏せた。
「分かっている」
「本当に?」
「努力している」
「そこは言い切れって言っただろ」
押村は少し間を置いた。
「一人で抱え込まない」
千速はしばらく押村を見ていた。
「信じるぞ」
「はい」
「敬語」
「……信じてくれ」
千速はようやく少しだけ笑った。
「よし」
しかし、その夜の千速は、完全には安心していなかった。
押村が何かに引き寄せられている。
それが分かったからだ。
正義感だけではない。
好奇心でもない。
あの男は、見過ごせないものを見つけてしまった時、静かにそこへ向かっていく。
危険だと分かっていても。
誰かが止めなければ、どこまでも。
翌日。
押村は、桐生圭吾の再聴取に立ち会った。
桐生は取調室で、以前よりもやつれた顔をしていた。
横溝は後方に立ち、腕を組んでいる。
押村は正面に座った。
「桐生さん。十年前の事故について確認します」
桐生は小さく笑った。
「やっとそこに興味を持ったんですか」
「兄の誠さんは、事故当時何を運んでいたのですか」
桐生の目が濁る。
「知りません」
「本当に?」
「兄は何も話してくれなかった。ただ、事故の少し前、変なことを言っていました」
「変なこと?」
桐生は遠くを見るように言った。
「“もう抜けたい。でも、抜けたら消される”って」
横溝の目が鋭くなる。
押村は問う。
「何から抜けたいと言っていたのですか」
「知りません。でも兄は、普通の運送業じゃなかった」
「なぜそう思う」
「夜中に呼び出される。知らない車に乗る。帰ってくると手が震えている。なのに金だけは増えていた」
押村はメモを取る。
「事故当日、助手席にいた男については?」
桐生の表情が変わった。
「兄が一度だけ名前を出しました」
「名前?」
「本名かどうかは知りません」
桐生は押村を見る。
「“榊”」
押村の手が止まる。
「榊」
「はい。兄はその男を怖がっていた。榊に逆らったら終わりだ、と」
横溝が問う。
「榊の特徴は」
「右足を少し引きずる。声が低い。兄より年上。顔は見たことがありません」
押村は、防犯カメラの男を思い出した。
右足を引きずる男。
十年前の事故現場から逃げた助手席の男。
そして、桐生事件の頃に教習所付近に現れた不審者。
「桐生さん」
「何ですか」
「あなたは、榊が今も生きていると思っていたのですか」
桐生は笑った。
「思っていましたよ」
「なぜ」
桐生は低く言った。
「事件を起こす前、封筒が届きました」
押村の表情が変わる。
「封筒?」
「ええ。兄の事故資料の一部が入っていた。そこに、榊の名前がありました」
横溝が一歩前に出る。
「その封筒はどこだ」
「燃やしました」
「誰が送った」
「分かりません」
押村は静かに問う。
「あなたは、その封筒を見て真島さんへの復讐を決めた」
桐生は笑った。
「そうです。真島が瀬戸を脅していると知った。瀬戸を壊すには、真島を殺せばいいと思った。大熊も利用できると思った」
「あなたを動かした人間がいる可能性があります」
桐生は押村を見た。
「でしょうね」
「分かっていて動いたのですか」
「関係ない。俺は兄のためにやった」
押村は静かに言った。
「あなたも利用された」
桐生の顔から笑みが消えた。
押村は続けた。
「あなたは真島さんを殺した。その罪は消えません。ただ、あなたに情報を与え、憎しみを誘導した人間がいる」
桐生は拳を握った。
「だったら捕まえてくださいよ」
「そのつもりです」
横溝が押村を見る。
「おい」
押村は視線を逸らさなかった。
桐生は低く笑った。
「無理ですよ。県警の刑事じゃ、そこまでは届かない」
押村は静かに答えた。
「届かせます」
その言葉を聞いた横溝は、嫌な予感を覚えた。
押村奏斗は、こういう時だけ妙に頑固になる。
普段は冷静で、無駄なことはしない。
けれど、誰かの死が意図的に隠され、その隠蔽が次の事件を生んだと分かった時。
押村は止まらない。
その日の午後。
押村のもとに、古谷から連絡が入った。
指定された場所は、警察庁ではなかった。
横浜市内の古い喫茶店。
店内は薄暗く、客は少ない。
奥の席に、古谷が座っていた。
「来ていただけると思っていました」
押村は向かいに座る。
「桐生圭吾に封筒を送ったのは、警備局ですか」
挨拶もなく切り込む。
古谷は少しだけ笑った。
「いきなりですね」
「答えてください」
「違います」
「では、誰ですか」
「我々も探っています」
押村は古谷を見つめた。
「十年前の事故現場から逃走した男、榊。彼が関係していますか」
古谷の表情がわずかに変わった。
それだけで十分だった。
「やはり知っているんですね」
古谷はコーヒーに手を伸ばす。
「榊という名は、本名ではありません」
「何者ですか」
「元協力者です」
押村の目が鋭くなる。
「警備局の?」
古谷は答えない。
押村は続ける。
「桐生誠さんは、榊に利用されていた」
「……近いです」
「十年前、桐生誠さんは何を運んでいたのですか」
古谷はしばらく沈黙した。
店内の時計の音だけが聞こえる。
やがて、古谷は低く言った。
「ある人物の移送に関わる情報です」
「人物?」
「国外組織と接触していた日本人。こちらが内偵していた対象でした」
「桐生誠さんは、その情報を運ばされていた」
「はい」
「そして逃げようとして事故に遭った」
「そう見ています」
押村は眉を寄せる。
「そう見ている?」
古谷は静かに言った。
「十年前の事故は、本当に事故だったのか分かっていません」
押村の表情が変わった。
「どういう意味ですか」
「瀬戸さんの追跡によって起きた事故。それが公式記録です」
「実際は?」
古谷は声を落とした。
「車両に細工があった可能性があります」
押村は言葉を失った。
車両への細工。
桐生事件と同じ。
いや、桐生事件は十年前の再現だったのかもしれない。
「榊が桐生誠さんを消した?」
「可能性があります」
「なぜ公表しなかったのですか」
古谷は目を伏せた。
「確証がなかった。そして、当時追っていた案件が大きすぎた」
押村の声が低くなる。
「人が死んでいます」
「承知しています」
「承知していて、隠した」
古谷は押村を見る。
「隠した結果、桐生圭吾が復讐に走った。それは事実です」
「なら」
「だから、あなたに接触しました」
押村は眉をひそめた。
古谷は続ける。
「榊が神奈川に戻っています」
「目的は」
「分かりません。ただ、桐生事件の裏で情報を流したのが榊なら、彼は県警と警備局の動きを試している」
「なぜ俺に話すのですか」
古谷は少しだけ口元を緩めた。
「あなたが気づいたからです」
「気づいた人間を利用するのですか」
「言い方は悪いですが、その通りです」
押村は冷たい目で古谷を見た。
古谷は表情を変えない。
「榊は、警備局内部の手順を知っています。こちらの人間が正面から動けば、すぐに察知される」
「県警の刑事なら気づかれにくい」
「はい」
「囮にするつもりですか」
「その危険はあります」
押村は立ち上がりかけた。
その時、古谷が一枚の写真を置いた。
写っていたのは、防犯カメラに映った右足を引きずる男。
そして、その後ろにもう一人。
男がいた。
見覚えのある顔だった。
押村は写真を手に取った。
「これは……」
古谷が言う。
「三日前、横浜市内で撮影されました」
写真の中で、右足を引きずる男と接触していた人物。
それは、神奈川県警内部の人間だった。
捜査一課ではない。
だが、県警本部に出入りできる立場の男。
古谷は低く言った。
「榊は、県警内部にも接触しています」
押村の目が変わった。
「名前は」
「まだ確定していません」
「本当に?」
古谷は微笑まなかった。
「ここから先は、押村警部補。あなたが自分で確かめるかどうかです」
押村は写真を見つめた。
県警内部に、榊と通じる人間がいる。
桐生事件は、ただの復讐ではなかった。
十年前に隠されたものが、今も誰かを動かしている。
そして、その線は神奈川県警の中にも伸びていた。
押村は写真を机に戻した。
「俺に何をさせたいのですか」
古谷は静かに答えた。
「見つけてください。県警の中にいる榊の協力者を」
「警備局が動けばいい」
「動けば逃げられます」
「俺が動けば、俺が狙われます」
「はい」
古谷は否定しなかった。
押村はその正直さが嫌だった。
「千速や横溝警部には」
「知らせない方がいい」
「またそれですか」
「知れば、巻き込まれます」
押村の目が鋭くなる。
「もう巻き込んでいます」
古谷は少しだけ沈黙した。
「それでも、守れる範囲があります」
押村は答えなかった。
守る。
その言葉は便利だ。
守るために隠す。
守るために黙る。
守るために遠ざける。
だが、前の事件でも見た。
黙ることが、人を傷つけることがある。
千速にも言われた。
一人で抱え込むな、と。
それでも。
今回ばかりは、話すことが本当に彼女を危険に近づけるかもしれない。
押村はしばらく黙っていた。
古谷は待っていた。
やがて押村は、低く言った。
「協力者を見つけるだけです」
古谷は頷いた。
「十分です」
「俺はゼロになるつもりはありません」
古谷はわずかに笑った。
「今は、それで構いません」
その言葉が、押村には妙に引っかかった。
今は。
まるで、いずれそうなることを見越しているような言い方だった。
その日から、押村の周囲にわずかな変化が生まれた。
県警内部の記録を確認する。
十年前の事故に関わった部署を洗う。
桐生事件の資料閲覧履歴を追う。
榊と思われる男の防犯カメラ映像を集める。
すべて、通常業務の合間に。
横溝はそれに気づいていた。
当然だった。
「押村」
夜の捜査一課。
人が少なくなった部屋で、横溝が押村を呼んだ。
「何を調べてる」
押村は手を止めた。
「十年前の事故です」
「誰に頼まれた」
押村は黙った。
横溝の目が鋭くなる。
「古谷か」
押村は答えなかった。
それが答えだった。
横溝は低く言った。
「俺に黙ってゼロの連中と組む気か」
「組んでいるわけではありません」
「同じだ」
「県警内部に、榊と接触している人物がいる可能性があります」
横溝の表情が変わる。
「何だと」
押村は写真を出そうとして、止めた。
古谷の言葉が頭をよぎる。
知れば、巻き込まれる。
だが、横溝は上司だ。
そして、押村が信頼する人間だ。
押村は写真を机に置いた。
「この人物です」
横溝は写真を見て、目を細めた。
「……こいつは」
「知っていますか」
横溝は低く答えた。
「警務部の尾崎だ。内部監察にも顔が利く」
押村は静かに息を吐いた。
「やはり県警内部の人間ですね」
横溝は写真を握りしめた。
「何でお前がこんなもん持ってる」
「古谷からです」
「押村」
横溝の声が低くなる。
「お前、もう片足突っ込んでるぞ」
「分かっています」
「分かってねぇ」
横溝は机に手をついた。
「ゼロはな、必要なら人を消すぞ。味方でも、協力者でも、都合が悪くなれば表から消す。そういう場所だ」
押村は横溝を見た。
「横溝警部は、ゼロについて詳しいのですか」
横溝は一瞬だけ黙った。
押村はそれを見逃さなかった。
「警部?」
横溝は目を逸らした。
「昔、少し関わっただけだ」
「どういう意味ですか」
「今は関係ねぇ」
「警部」
横溝は強い口調で言った。
「これ以上踏み込むな」
その声には、怒りよりも恐れが混じっていた。
押村は初めて見る横溝の表情に、言葉を止めた。
横溝重悟は荒っぽい男だ。
怒鳴ることはある。
苛立つこともある。
だが、怯えるような目は滅多にしない。
ゼロ。
警察庁警備局。
横溝は、その闇の深さを知っている。
押村は静かに言った。
「それでも、県警内部に協力者がいるなら放置できません」
横溝は苦しそうに顔を歪めた。
「お前は……本当にそういう奴だな」
その時、押村のスマホが震えた。
非通知。
押村と横溝は同時に画面を見た。
押村が応答する。
数秒の沈黙。
そして、低い男の声。
『押村奏斗警部補』
押村の目が鋭くなる。
「誰だ」
『探し物は見つかったか』
横溝の表情が変わる。
電話の向こうの声は続けた。
『尾崎に近づくな。次は、萩原千速が事故に遭う』
押村の呼吸が止まった。
横溝が身を乗り出す。
「押村!」
押村は低く言った。
「お前が榊か」
男は笑った。
『名前など意味はない』
「千速に手を出すな」
『なら、知りすぎるな』
通話は切れた。
押村はスマホを握りしめたまま動かなかった。
横溝が怒鳴る。
「今すぐ千速に連絡しろ!」
押村はすぐに電話をかけた。
数コール。
千速が出る。
『何だ、奏斗』
その声を聞いた瞬間、押村はわずかに息を吐いた。
「今どこにいる」
『第三交機。何だよ、急に』
「一人か」
『いや、新井たちもいる。何かあったのか』
押村は一瞬だけ言葉に詰まった。
言うべきか。
言わないべきか。
千速がすぐに気づく。
『奏斗』
「……今日、帰る時は誰かと一緒に」
『何があった』
「頼む」
千速の声が低くなる。
『また隠してるな』
押村は目を閉じた。
「後で話す」
『本当だな』
「本当だ」
横溝が横で低く言う。
「俺も行く」
押村は頷いた。
「横溝警部も行く」
電話の向こうで、千速が少し息を吐いた。
『分かった。待ってる』
電話が切れた。
押村はスマホを下ろす。
横溝は低い声で言った。
「もう引けねぇぞ」
「はい」
「千速を脅しに使った。あいつらは本気だ」
押村は静かに頷いた。
胸の奥に、冷たいものが沈んでいく。
自分が踏み込んだことで、千速の名前が出た。
それは、押村にとって許せないことだった。
自分が狙われるならいい。
だが、千速を。
彼女を巻き込むなら。
押村は初めて、この闇を外側から追うだけでは足りないと思った。
中に入らなければ届かない。
その考えが、まだ形にならないまま、胸の奥で静かに芽を出した。
その夜。
第三交通機動隊の駐車場。
千速は白バイの横で待っていた。
押村と横溝が到着すると、すぐに歩み寄る。
「説明しろ」
押村は千速を見る。
隠すことは、もうできなかった。
「桐生事件の背後に、十年前の公安案件が関係している可能性がある」
千速の顔が険しくなる。
「公安案件?」
横溝が横から補足する。
「警備局だ。ゼロ絡みだ」
千速の目が押村へ向く。
「お前、ゼロに関わったのか」
押村は頷いた。
「古谷と接触した」
千速の表情が変わった。
「何で黙ってた」
押村はすぐに答えられない。
千速は一歩近づく。
「一人で抱え込まないって言ったよな」
「言った」
「じゃあ何でだよ」
押村は低く言った。
「君を巻き込みたくなかった」
千速の目が揺れた。
怒りと、悲しみが混ざる。
「それ、一番聞きたくない言葉だ」
押村は言葉を失った。
千速は続ける。
「守るために黙るな。黙られる方が怖い」
横溝は二人を見て、何も言わなかった。
押村は静かに頭を下げた。
「すまない」
千速は拳を握った。
「謝るな。話せ」
押村は顔を上げ、すべて話した。
榊という男。
十年前の事故。
桐生誠の死。
県警内部の尾崎。
そして、千速への脅迫。
千速は最後まで黙って聞いた。
聞き終えると、低く言った。
「私を脅しに使ったのか」
「ああ」
千速の目に怒りが灯る。
「上等だ」
押村がすぐに言う。
「危険だ。君は――」
「黙れ」
千速の声が鋭く飛ぶ。
「私は守られるだけの人間じゃねぇ」
「分かっている」
「分かってねぇから黙ってたんだろ」
押村は何も言えなかった。
千速は一歩近づき、押村の胸倉を軽く掴んだ。
「奏斗」
「何だ」
「私を遠ざけるな」
押村は千速を見た。
その目は、怒っている。
でも、それ以上に怖がっている。
押村がいなくなることを。
また、何も知らされずに失うことを。
押村は静かに答えた。
「分かった」
「本当に?」
「本当に」
千速は手を離した。
「なら、次からは言え」
「言う」
横溝が低く言う。
「俺にもな」
押村は横溝を見る。
「はい」
横溝は眉をひそめる。
「信用ならねぇ返事だが、今はそれでいい」
その時、遠くでバイクの音がした。
三人が同時に振り向く。
駐車場の外を、一台の黒いバイクが通り過ぎた。
ただの通行車両。
そう見えた。
だが、そのライダーは一瞬だけこちらを見た。
顔はヘルメットで見えない。
次の瞬間、バイクは夜の道へ消えた。
千速の目が鋭くなる。
「今の」
押村も見ていた。
「偶然ではなさそうだ」
横溝が舌打ちする。
「始まったな」
そう。
この時、すでに始まっていた。
押村奏斗がゼロへ近づく道。
千速や重悟が、まだ知らない未来。
そして数か月後。
電車内の紙袋。
廃ビルの爆発。
押村奏斗の死。
その偽装工作へ繋がる最初の夜が、この瞬間だった。
奏斗は黒いバイクが消えた方向を見つめながら、静かに思った。
外から追っていては届かない。
この闇を暴くには、もっと深い場所へ行くしかない。
その考えが、初めて明確な形を持ち始めていた。