神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第55話 榊の影

黒いバイクが夜道へ消えた後も、三人はしばらく動かなかった。

 

第三交通機動隊の駐車場には、白バイが整然と並んでいる。

 

そこは千速にとって、いつもなら自分の場所だった。

 

だが今夜だけは違った。

 

白い車体の間を、見えない影がすり抜けたような気がした。

 

千速はヘルメットを持ったまま、低く言った。

 

「今のバイク、ただの通行車じゃねぇな」

 

押村奏斗は頷いた。

 

「ああ」

 

横溝重悟はすぐに無線を取った。

 

「第三交機周辺を走った黒いバイクを追え。ナンバー確認、周辺カメラも洗え」

 

無線の向こうで返答がある。

 

だが、横溝の顔は険しいままだった。

 

「押村」

 

「はい」

 

「これで確定だ。お前はもう見られてる」

 

押村は静かに答えた。

 

「はい」

 

千速が押村を見る。

 

「落ち着いてんじゃねぇよ」

 

「落ち着いているわけではない」

 

「なら顔に出せ」

 

押村は一瞬だけ困ったような顔をした。

 

そのわずかな変化に、千速は余計に腹が立った。

 

怒っている。

 

それ以上に、怖かった。

 

さっきの電話で、自分の名前が出た。

 

奏斗を止めるために、自分が脅しに使われた。

 

それはつまり、相手は二人の関係を知っているということだった。

 

千速は歯を食いしばる。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「相手は、私たちのことをどこまで知ってる」

 

押村は少し沈黙した。

 

それから答える。

 

「少なくとも、俺にとって君が重要な存在だと知っている」

 

千速の胸が小さく痛んだ。

 

その言葉自体は嬉しいはずなのに、今は恐怖の材料になっている。

 

横溝が低く言った。

 

「県警内部に協力者がいるなら、情報は漏れてると見た方がいい。押村と千速の関係も、捜査一課と第三交機の誰かが知ってる範囲なら全部だ」

 

千速は舌打ちした。

 

「尾崎とかいう警務部の男か」

 

押村が頷く。

 

「可能性はあります」

 

「そいつを引っ張れないのか」

 

横溝が首を振った。

 

「証拠が足りねぇ。榊と接触してる写真だけじゃ弱い。下手に動けば警備局も県警上層も出てくる」

 

千速が苛立つ。

 

「面倒くせぇな」

 

「面倒なんだよ、こういう連中は」

 

横溝は押村へ視線を向けた。

 

「だから、お前一人で動くな。古谷から連絡が来ても、必ず俺に通せ」

 

押村はすぐには返事をしなかった。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「奏斗」

 

押村は二人を見た。

 

「分かっています」

 

「敬語」

 

千速が即座に言う。

 

押村は言い直した。

 

「分かってる」

 

横溝は頭をかいた。

 

「恋人同士のやり取りを目の前でやるな」

 

「重悟がいるから言ってんだよ」

 

「俺を巻き込むな」

 

そのやり取りで、ほんの少しだけ空気が緩んだ。

 

だが、押村の胸の奥には重いものが沈んでいた。

 

千速が危険に近づいた。

 

自分が知ろうとしたせいで。

 

その事実は、消えなかった。

 

翌日。

 

捜査一課では、尾崎という男について水面下の調査が始まった。

 

尾崎彰。

 

神奈川県警警務部所属。

階級は警部。

内部監察や人事関係に顔が利き、県警本部内の情報に広くアクセスできる立場にあった。

 

表向きは真面目で、物腰も柔らかい。

 

評判は悪くない。

 

むしろ、周囲からは「調整役」として重宝されていた。

 

だからこそ厄介だった。

 

横溝は尾崎の経歴資料を見ながら顔をしかめる。

 

「こういう奴が一番面倒だ」

 

押村は資料を読み込んでいた。

 

「十年前、尾崎は警務部ではなく交通部にいました」

 

横溝の眉が動く。

 

「交通部?」

 

「はい。事故処理関連の部署に在籍しています。桐生誠さんの事故処理記録にも、尾崎の名前がありました」

 

「つまり十年前から関わってる」

 

「その可能性があります」

 

横溝は机を指で叩いた。

 

「榊と尾崎。十年前の事故。警備局。桐生事件。全部繋がってきやがったな」

 

押村は静かに頷いた。

 

「はい」

 

そこへ、古谷から連絡が入った。

 

今度は非通知ではない。

 

押村はスマホを見て、横溝を見る。

 

横溝は低く言った。

 

「出ろ。スピーカーにしろ」

 

押村は頷き、通話をつなぐ。

 

「押村です」

 

『古谷です。昨夜、黒いバイクが現れたそうですね』

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「相変わらず耳が早ぇな、警備局さんよ」

 

電話の向こうで、古谷は少しだけ間を置いた。

 

『横溝警部もご一緒ですか』

 

「悪いか」

 

『いえ。むしろ、その方がいいかもしれません』

 

押村は問う。

 

「古谷さん。尾崎彰について、あなたは何を知っていますか」

 

古谷はすぐには答えなかった。

 

『尾崎警部は、十年前の事故処理に関わった人物です』

 

「それだけですか」

 

『現時点で確定しているのは』

 

横溝が苛立ったように言う。

 

「またそれか。お前らはいつも“現時点で”だな」

 

古谷は静かに返す。

 

『不確定情報を出せば、あなた方を誤った方向へ誘導する可能性があります』

 

「隠してる方がよっぽど誘導してんだよ」

 

押村は言った。

 

「榊は本当に神奈川にいるのですね」

 

古谷の声が低くなる。

 

『はい』

 

押村の表情が変わった。

 

「目的は」

 

『尾崎と接触している理由から考えると、県警内部の何かを探っている可能性があります』

 

「何か、とは」

 

『十年前の記録です』

 

横溝が机に手をつく。

 

「まだ記録が残ってんのか」

 

『完全なものではありません。ただ、当時の事故処理に関わる未整理の資料が県警側に残っている可能性があります』

 

押村はすぐに理解した。

 

「榊は、それを消したい」

 

『あるいは、奪いたい』

 

「なぜ今になって」

 

古谷は沈黙した。

 

押村は声を低くする。

 

「答えてください」

 

『桐生事件で、十年前の事故が再び表に出ました。あなたが掘り返したことで、榊も動かざるを得なくなった』

 

横溝が押村を見る。

 

言外に「だから言っただろ」と言っている顔だった。

 

押村は目を伏せない。

 

「なら、榊は俺を狙っている」

 

『はい。そして、あなたの周囲も』

 

千速の顔が浮かぶ。

 

押村の指がわずかに強くスマホを握った。

 

古谷は続ける。

 

『尾崎に近づくのは危険です。こちらで対応します』

 

横溝が鼻で笑った。

 

「信用しろってか」

 

『信用しなくて結構です。ただ、手順を誤れば死人が出る』

 

押村は静かに言った。

 

「もう出ています」

 

通話の向こうが静かになる。

 

押村は続けた。

 

「桐生誠さん。真島亮さん。桐生圭吾は加害者になった。隠し続けた結果です」

 

『……』

 

「これ以上、隠すことで守れるものはありません」

 

古谷は小さく息を吐いた。

 

『押村警部補。あなたは県警の刑事として正しい』

 

「はい」

 

『ですが、榊を追うなら、その正しさは足枷になります』

 

押村は眉を寄せた。

 

「どういう意味ですか」

 

『いずれ分かります』

 

通話はそこで切れた。

 

横溝は低く吐き捨てた。

 

「気に食わねぇ」

 

押村もスマホを見つめていた。

 

古谷の最後の言葉。

 

正しさは足枷になる。

 

それは警告なのか。

 

それとも、勧誘なのか。

 

押村にはまだ分からなかった。

 

その日の夕方。

 

押村は警務部の廊下で尾崎彰を見かけた。

 

尾崎は淡いグレーのスーツを着て、書類を抱えて歩いていた。

 

穏やかな顔。

 

人当たりの良さそうな笑み。

 

だが、その目の奥には警戒があった。

 

「押村警部補」

 

尾崎の方から声をかけてきた。

 

押村は足を止める。

 

「尾崎警部」

 

「最近、忙しそうですね。教習所の事件、大変だったようで」

 

「はい」

 

尾崎は薄く笑った。

 

「刑事さんが二輪免許を取りに行って事件に遭遇するとは、なかなか珍しい」

 

押村は尾崎を見る。

 

「よくご存じですね」

 

「県警内では噂になっていますよ」

 

「そうですか」

 

廊下には人がいる。

 

だが、二人の間だけ空気が変わっていた。

 

尾崎は少し声を落とした。

 

「押村警部補。あまり古い資料に触らない方がいい」

 

押村の目が動く。

 

「古い資料?」

 

「十年前の事故など、今さら掘り返しても誰も得をしません」

 

押村は静かに問う。

 

「尾崎警部は、十年前の事故について何をご存じですか」

 

尾崎は微笑んだ。

 

「事故は事故です」

 

「本当に?」

 

「記録上は」

 

押村の表情は変わらない。

 

「記録がすべてではありません」

 

尾崎の目が一瞬だけ冷たくなった。

 

「若いですね」

 

「三十一です」

 

「年齢の話ではありません」

 

尾崎は押村に一歩近づく。

 

「正しいことを追えば、正しい結末になる。そう信じているうちは、まだ若い」

 

押村は尾崎を見つめた。

 

「あなたは正しい結末を諦めたのですか」

 

尾崎の笑みが消えた。

 

数秒の沈黙。

 

尾崎は再び笑みを作った。

 

「失礼。余計なことを言いました」

 

押村は言った。

 

「尾崎警部」

 

「はい」

 

「榊という名前に心当たりは」

 

尾崎は一瞬も表情を変えなかった。

 

だが、押村には分かった。

 

この男は知っている。

 

知っていて、反応しない訓練ができている。

 

尾崎は穏やかに答えた。

 

「ありません」

 

「そうですか」

 

「では」

 

尾崎は廊下を去っていった。

 

押村はその背中を見送った。

 

その瞬間、スマホが震える。

 

メッセージ。

 

差出人不明。

 

本文は一行だけだった。

 

今夜、海浜倉庫。尾崎の本性を見たければ来い。

 

押村は画面を見つめた。

 

罠だ。

 

ほぼ間違いない。

 

だが、無視すれば何かを逃す。

 

横溝に報告すべきだ。

 

千速にも、もう黙らないと約束した。

 

押村はスマホを握り直し、横溝へ向かった。

 

以前なら、一人で行っていたかもしれない。

 

だが今は違う。

 

少なくとも、まだ。

 

夜。

 

海浜倉庫街。

 

神奈川の海沿いにある古い倉庫群は、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っていた。

 

押村と横溝は、少人数の捜査員を配置し、指定された倉庫を監視していた。

 

千速も来ていた。

 

本来なら交通部の管轄外だ。

 

だが、榊から脅迫された当事者であり、黒いバイクの件もある。

 

何より、千速は押村が黙って動くことを許さなかった。

 

「来るなと言っても来ただろうな」

 

押村が言うと、千速は即答した。

 

「当たり前だ」

 

「危険だ」

 

「それはお前も同じだ」

 

「はい」

 

「敬語」

 

「……同じだな」

 

千速は少しだけ頷いた。

 

だが、その表情は硬い。

 

横溝が二人へ低く言う。

 

「私語はそこまでだ。尾崎が来た」

 

倉庫街の入口に、一台の黒いセダンが停まった。

 

降りてきたのは尾崎だった。

 

一人。

 

いや、少し遅れて、倉庫の陰から別の男が現れた。

 

右足をわずかに引きずっている。

 

押村の目が鋭くなる。

 

「榊……」

 

千速も低く呟く。

 

「あいつか」

 

距離があるため声は拾えない。

 

だが、二人は何かを話している。

 

尾崎は苛立った様子で、榊に詰め寄っているようだった。

 

横溝が無線で指示を出す。

 

「まだ動くな。会話を拾える位置まで待て」

 

だが、その時だった。

 

倉庫の奥で、何かが光った。

 

押村は瞬時に気づいた。

 

「伏せろ!」

 

次の瞬間、乾いた破裂音が響いた。

 

銃声。

 

尾崎の身体が大きく揺れ、その場に倒れた。

 

榊は反射的に身を翻し、倉庫の奥へ走る。

 

横溝が怒鳴る。

 

「確保!」

 

捜査員たちが動く。

 

押村も走り出した。

 

千速が叫ぶ。

 

「奏斗!」

 

「尾崎を頼む!」

 

押村はそう言って榊の後を追った。

 

千速は一瞬迷ったが、倒れた尾崎へ向かった。

 

尾崎は腹部を押さえてうめいている。

 

「しっかりしろ!」

 

千速は応急処置を始めながら無線で救急を要請した。

 

尾崎は苦しげに目を開ける。

 

「萩原……警部補……」

 

「喋るな」

 

「押村に……言え……」

 

「喋るなって言ってんだろ!」

 

尾崎は血に濡れた手で、内ポケットを探った。

 

千速はその手を押さえようとしたが、尾崎は必死に何かを取り出した。

 

小さな鍵だった。

 

「資料……十年前の……本物……」

 

千速の目が変わる。

 

「どこだ」

 

尾崎は震える声で言った。

 

「県警……地下……保管庫……番号……七……」

 

そこまで言って、尾崎は意識を失った。

 

千速は鍵を握りしめた。

 

「重悟!」

 

横溝が駆け寄る。

 

「尾崎は?」

 

「息はある。救急呼んだ。これを持ってた」

 

千速は鍵を見せる。

 

横溝の表情が変わる。

 

「何だそれ」

 

「十年前の本物の資料だと」

 

横溝は鍵を見て、低く唸った。

 

「尾崎は完全な敵じゃなかったのか……?」

 

千速は押村が走っていった方向を見る。

 

嫌な予感がした。

 

「奏斗は?」

 

横溝の顔が険しくなる。

 

「榊を追った」

 

千速は立ち上がる。

 

「行く」

 

「待て!」

 

「待てるか!」

 

千速は駆け出した。

 

押村は倉庫の奥へ榊を追っていた。

 

榊は右足を引きずっているはずなのに、動きが速い。

 

地形を知っている。

 

逃走経路を事前に把握していた。

 

押村は無線で位置を伝えながら追う。

 

倉庫を抜けた先には、古い埠頭があった。

 

潮の匂い。

 

暗い海。

 

そして、黒いバイク。

 

榊はそこへ向かっていた。

 

押村は叫ぶ。

 

「止まれ!」

 

榊は振り返らない。

 

バイクに跨ろうとした瞬間、押村は距離を詰めた。

 

榊の腕を掴む。

 

二人はもつれ合い、地面に倒れた。

 

榊のヘルメットが外れる。

 

顔が露わになる。

 

五十代前半ほどの男。

 

右頬に古い傷。

 

低い声で笑った。

 

「押村奏斗」

 

押村は男の腕を押さえる。

 

「榊だな」

 

「名前に意味はないと言ったはずだ」

 

「尾崎を撃ったのはお前か」

 

榊は笑う。

 

「違う」

 

押村の目が動く。

 

その瞬間、遠くから再び銃声が響いた。

 

押村の肩口を弾丸がかすめる。

 

痛みが走る。

 

榊はその隙に押村を蹴り飛ばし、バイクへ向かう。

 

押村は倒れながら、銃撃の方向を見た。

 

別の狙撃手がいる。

 

榊を逃がすためか。

 

それとも、榊ごと消すためか。

 

「奏斗!」

 

千速の声がした。

 

押村は振り返る。

 

千速がこちらへ走ってくる。

 

「来るな!」

 

押村が叫んだ直後、榊がバイクを発進させた。

 

黒いバイクが埠頭を駆け抜ける。

 

千速の目が鋭くなる。

 

彼女は近くに停めてあった白バイへ向かって走った。

 

「千速!」

 

横溝の怒号が飛ぶ。

 

「追うな!」

 

だが千速は止まらなかった。

 

ヘルメットを被り、白バイに跨る。

 

エンジンが唸る。

 

白い車体が夜の倉庫街へ飛び出した。

 

押村は肩を押さえながら立ち上がる。

 

「千速……」

 

横溝が駆け寄る。

 

「怪我は!」

 

「かすっただけです」

 

「馬鹿野郎!」

 

「榊を」

 

「分かってる!」

 

無線に千速の声が入る。

 

『黒いバイク、海岸通りを東へ。速度上げてる』

 

横溝が怒鳴る。

 

「千速、無理に詰めるな!」

 

『分かってる』

 

その声は冷静だった。

 

だが押村には分かった。

 

千速は怒っている。

 

自分を脅しに使い、尾崎を撃ち、押村まで傷つけた相手を逃がす気がない。

 

押村は無線を掴んだ。

 

「千速」

 

『何だ』

 

「追い詰めすぎるな」

 

一瞬の沈黙。

 

『それ、私の台詞だろ』

 

押村は言葉に詰まる。

 

千速は続けた。

 

『大丈夫だ。私は止まるために走る』

 

その言葉を残し、無線は追跡報告へ戻った。

 

押村は夜の道路へ視線を向けた。

 

白バイのサイレンが遠くで響いている。

 

榊は逃げる。

 

千速が追う。

 

そして、その背後でさらに別の銃口が動いている。

 

この事件は、もう県警の一殺人事件ではなかった。

 

十年前の闇。

 

県警内部の協力者。

 

警察庁警備局。

 

そして、榊を撃とうとした謎の狙撃手。

 

すべてが同じ夜に動き出した。

 

押村は肩の痛みを感じながら、静かに思った。

 

このままでは、誰かが死ぬ。

 

千速も。

 

横溝も。

 

自分の周囲にいる人間すべてが、榊とゼロの闇に巻き込まれる。

 

その時、彼の中で一つの考えが、はっきりと形を持った。

 

外側から追えば、守れない。

 

中へ入らなければ、止められない。

 

それはまだ決意ではなかった。

 

だが、決意に変わるための最後の一歩が、すぐそこまで近づいていた。

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