神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第56話 白いサイレン

夜の海岸通りを、黒いバイクが疾走していた。

 

その後ろを、白バイが追う。

 

萩原千速は、前方のテールランプを見失わなかった。

 

黒いバイクは速い。

 

だが、速さだけなら怖くない。

 

怖いのは、相手が逃走経路を知っていることだった。

 

港湾道路。

工事中の迂回路。

大型トラックの出入り口。

監視カメラの死角。

 

榊は迷いなくそこを選んで走っている。

 

千速は無線に短く告げた。

 

「黒いバイク、海岸通りから第三埠頭方面へ。速度はかなり出てる。周辺車両を退避させろ」

 

横溝重悟の声が返る。

 

『千速、無理に詰めるな。相手は銃撃犯と繋がってる可能性がある』

 

「分かってる」

 

『本当か』

 

「分かってるって言ってんだろ」

 

千速は歯を食いしばる。

 

分かっている。

 

追い詰めすぎれば、相手は何をするか分からない。

 

自爆するかもしれない。

一般車両を巻き込むかもしれない。

こちらへ発砲してくるかもしれない。

 

それでも、ここで逃がせばまた誰かが狙われる。

 

奏斗が撃たれた。

尾崎が倒れた。

自分の名前も脅しに使われた。

 

怒りはある。

 

だが、千速はその怒りをアクセルに乗せなかった。

 

白バイは、止まるために走る。

 

自分で言った言葉を、今こそ守らなければならない。

 

前方で黒いバイクが急に右へ振れた。

 

大型トラックの陰を使い、視界から消えようとしている。

 

千速は速度を落とした。

 

追いつくためではない。

 

先を読むためだ。

 

「あいつ、直進じゃねぇ」

 

千速は低く呟く。

 

榊は逃げているように見えて、誘導している。

 

千速を、ある場所へ。

 

そう気づいた瞬間、無線が入った。

 

押村奏斗の声だった。

 

『千速、聞こえるか』

 

「奏斗? 怪我は」

 

『かすり傷だ』

 

「あとで説教だ」

 

『分かった』

 

「素直だな」

 

『今は必要なことを言う』

 

千速は前を見たまま答える。

 

「言え」

 

『榊は逃げているだけじゃない。追跡者を決まった場所へ誘導している可能性がある』

 

「同じこと考えてた」

 

『第三埠頭の先に、閉鎖されたコンテナヤードがある。そこは監視カメラが少ない』

 

「罠か」

 

『可能性が高い』

 

千速は小さく笑った。

 

「だったら、行かねぇ方がいいな」

 

押村の声が一瞬止まる。

 

『千速?』

 

「私は白バイ隊員だぞ。誘導されてるって分かって、そのまま突っ込むかよ」

 

千速は進路を変えた。

 

黒いバイクを直接追うのではなく、一本内側の道路へ入る。

 

コンテナヤードへ先回りできる道。

 

ただし、狭い。

 

路面も悪い。

 

普通のパトカーでは入りにくい。

 

だが、白バイなら行ける。

 

横溝の声が飛ぶ。

 

『千速、何をする気だ』

 

「先回りする」

 

『一人で行くな!』

 

「一人じゃねぇよ」

 

千速は短く言った。

 

「奏斗が見てる」

 

無線の向こうで、押村が黙った。

 

それは根拠としては弱い。

 

けれど、千速にとっては十分だった。

 

自分はもう、知らされずに置いていかれる側ではない。

 

同じ情報を持って、同じ敵を見ている。

 

それだけで、今は走れる。

 

一方、押村は肩口に応急処置を受けながら、現場指揮車のモニターを見ていた。

 

横溝が隣で怒鳴る。

 

「お前は病院行け!」

 

「まだ動けます」

 

「そういう問題じゃねぇ!」

 

「千速が榊を追っています」

 

「見りゃ分かる!」

 

横溝は苛立ちながらも、押村を現場から外さなかった。

 

今の押村の頭が必要だと分かっているからだ。

 

モニターには、港湾部の地図が映っている。

 

千速の白バイの位置。

榊の黒いバイクと思われる移動経路。

捜査車両の配置。

 

押村は画面を見つめた。

 

「榊は、第三埠頭のコンテナヤードに誘導したい。そこには誰かが待っている可能性があります」

 

横溝が唸る。

 

「さっきの狙撃手か」

 

「はい。尾崎を撃った人物も、榊を逃がすためだけなら妙です」

 

「榊を消すつもりだった可能性もあるってことか」

 

押村は頷く。

 

「尾崎も榊も、十年前の真相を知りすぎている。どちらも消したい第三者がいる」

 

横溝の顔が険しくなる。

 

「尾崎は敵じゃなかったのか」

 

「完全な敵ではなかったと思います」

 

尾崎は榊と接触していた。

 

だが、撃たれる直前に千速へ鍵を渡した。

 

十年前の本物の資料。

 

それは、尾崎が何かを守ろうとしていた証拠でもある。

 

横溝は低く言った。

 

「尾崎の容体は」

 

「搬送中。意識不明ですが、命はあるとのことです」

 

「吐いてもらわなきゃ困るな」

 

押村はモニターに目を戻した。

 

「横溝警部。コンテナヤード周辺の高所を確認してください。狙撃手がいるなら、見通しのいい場所を選ぶはずです」

 

横溝が無線で指示を飛ばす。

 

「第三埠頭周辺のクレーン、倉庫屋上、非常階段を確認しろ。狙撃手がいる可能性がある!」

 

その時、モニター上で千速の位置が大きく変わった。

 

白バイは榊の進路を斜めに切るように先回りしている。

 

押村は無線を取った。

 

「千速」

 

『何だ』

 

「前方二百メートルで合流する。榊は右へ逃げる可能性が高い」

 

『左じゃなくて?』

 

「左はコンテナが積まれていて死角が多い。誘導したいなら左に見せる。だが逃げるなら右だ」

 

『了解』

 

押村は続けた。

 

「無理はしないでくれ」

 

千速の声が少しだけ柔らかくなる。

 

『お前もな』

 

その直後、白バイのサイレンが遠くで高く響いた。

 

千速は黒いバイクの前方へ出た。

 

榊が明らかに動揺する。

 

黒いバイクは一瞬だけ減速し、それから右へ切った。

 

押村の読み通りだった。

 

「奏斗、当たり」

 

千速は呟き、白バイを倒す。

 

路面は悪い。

 

砂が浮いている。

 

だが、白バイのタイヤは路面を捉えた。

 

榊は右へ逃げた先で、倉庫脇の細い道へ入ろうとする。

 

千速はその手前に白バイを滑り込ませた。

 

黒いバイクの進路が塞がれる。

 

榊は急ブレーキをかけ、車体を横に振った。

 

千速は白バイを止め、ヘルメット越しに榊を睨む。

 

「そこまでだ」

 

榊は黒いヘルメットの奥で笑ったように見えた。

 

次の瞬間。

 

榊は左手で何かを投げた。

 

小さな金属筒。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「閃光弾か!」

 

千速は反射的に顔を背け、白バイを倒し込むように身を低くした。

 

強い光と音が弾ける。

 

一瞬、視界が白く染まった。

 

榊はその隙にバイクを再発進させる。

 

だが、千速は完全には止まっていなかった。

 

耳鳴りの中、目を細め、音と気配だけで進路を読む。

 

「逃がすかよ……!」

 

白バイが再び走り出す。

 

視界はまだ戻りきっていない。

 

それでも千速は、榊のエンジン音を追った。

 

その時、無線に押村の声。

 

『千速、止まれ!』

 

「何だ!」

 

『前方のクレーン上に狙撃手がいる!』

 

千速は即座にブレーキをかけた。

 

その瞬間、前方の路面に火花が散った。

 

銃弾。

 

あと一秒遅ければ、千速か白バイに当たっていた。

 

「っ……!」

 

千速は白バイを横へ逃がし、コンテナの陰へ滑り込む。

 

横溝の怒号が無線に入る。

 

『狙撃手を押さえろ! 千速、そこから動くな!』

 

千速は舌打ちした。

 

榊の黒いバイクは、すでに遠ざかっていく。

 

「逃げられる……!」

 

その時、別方向からパトカーが飛び出した。

 

横溝が配置していた捜査車両だった。

 

黒いバイクは進路を塞がれ、急停止する。

 

榊はバイクを捨て、徒歩で倉庫へ逃げ込んだ。

 

押村の声が無線に入る。

 

『榊は第四倉庫へ入った。包囲を』

 

横溝が即座に命じる。

 

『全員、第四倉庫を囲め。狙撃手の位置にも注意しろ!』

 

千速は白バイを降りた。

 

「奏斗、私は第四倉庫へ行く」

 

『危険だ』

 

「分かってる」

 

『なら待ってくれ』

 

千速は一瞬だけ黙った。

 

以前なら、そのまま走った。

 

だが、今は違う。

 

「……分かった。待つ」

 

無線の向こうで、押村が少し息を吐いたのが分かった。

 

『ありがとう』

 

「礼言うな。早く来い」

 

第四倉庫の包囲は、数分で完了した。

 

榊は中にいる。

 

だが、狙撃手はまだ確保されていない。

 

古谷も現場に現れた。

 

横溝は古谷を見るなり、噛みつくように言った。

 

「おせぇんだよ」

 

古谷は珍しく表情を固くしていた。

 

「狙撃手はこちらの想定外です」

 

横溝が低く唸る。

 

「そっちにも分かってねぇ敵がいるってことか」

 

古谷は否定しなかった。

 

押村は古谷を見た。

 

「榊を生かして確保する必要があります」

 

「同意します」

 

「なら、今度こそ隠さず協力してください」

 

古谷は押村の肩口の血を見た。

 

「その怪我で入るつもりですか」

 

「はい」

 

横溝が怒る。

 

「はいじゃねぇ!」

 

千速も睨む。

 

「お前は下がれ」

 

押村は千速を見る。

 

「榊は俺を名指ししている。俺が入れば話す可能性がある」

 

「撃たれる可能性もある」

 

「分かっている」

 

千速は拳を握った。

 

押村は静かに続ける。

 

「でも、今回は一人では行かない」

 

千速の目が揺れる。

 

押村は横溝を見る。

 

「横溝警部、同行をお願いします」

 

横溝は一瞬黙り、それから鼻を鳴らした。

 

「最初からそう言え」

 

千速は押村を見た。

 

「私は」

 

押村は少し間を置いた。

 

「外を頼む。逃走経路を塞げるのは君だ」

 

千速はその言葉を聞いて、ようやく頷いた。

 

守られるために外にいるのではない。

 

役割があるから、外にいる。

 

それなら納得できる。

 

「分かった。逃がさねぇ」

 

押村は短く頷いた。

 

「頼む」

 

第四倉庫の扉が、ゆっくりと開けられた。

 

押村と横溝は銃を構え、中へ入る。

 

倉庫内は暗い。

 

積まれた木箱と古い機材。

 

潮と錆の匂い。

 

奥から、榊の声が響いた。

 

「来たか、押村奏斗」

 

押村は足を止める。

 

「榊。抵抗はやめろ」

 

榊は暗がりの中で笑った。

 

「お前はまだ分かっていない」

 

「何を」

 

「俺を捕まえれば終わると思っているなら、大間違いだ」

 

横溝が低く言う。

 

「終わるかどうかは、捕まえてから考える」

 

榊は続けた。

 

「十年前、俺は逃げた。桐生誠は死んだ。瀬戸は処分され、尾崎は記録を隠し、警備局は案件を封じた」

 

押村は静かに問う。

 

「お前が桐生誠さんの車に細工したのか」

 

榊は答えない。

 

押村は一歩進む。

 

「桐生圭吾に封筒を送ったのも、お前か」

 

榊は低く笑う。

 

「憎しみは便利だ。少し火をつければ、勝手に燃える」

 

横溝の目が怒りに染まる。

 

「人の人生を弄びやがって」

 

「警察も同じことをしてきた」

 

榊の声が冷たくなる。

 

「都合の悪いものを隠し、必要な人間だけを使い捨てる。ゼロも、県警も、同じだ」

 

押村は言った。

 

「だから人を殺したのか」

 

「殺した?」

 

榊は笑った。

 

「真島を殺したのは桐生圭吾だ。尾崎を撃ったのも俺じゃない」

 

「では誰だ」

 

その瞬間、倉庫の奥で何かが動いた。

 

押村は反応したが、遅かった。

 

榊の背後の窓ガラスが割れた。

 

外からの銃弾。

 

榊の肩を撃ち抜く。

 

榊は倒れた。

 

横溝が怒鳴る。

 

「狙撃だ!」

 

押村は即座に榊のもとへ走る。

 

「榊!」

 

榊は血を流しながら笑っていた。

 

「な……言っただろ……俺を捕まえれば終わると思うな……」

 

押村は傷口を押さえる。

 

「誰が撃った」

 

榊は押村の腕を掴んだ。

 

「……ゼロの中にも……いる……」

 

押村の目が変わる。

 

「何?」

 

榊は苦しげに続けた。

 

「十年前の本当の記録……尾崎の鍵……それを見ろ……」

 

「何が書かれている」

 

榊は笑った。

 

「お前が……中に入らなきゃ……届かないものだ……」

 

その言葉を最後に、榊は意識を失った。

 

死んではいない。

 

だが、重傷だった。

 

横溝が無線で叫ぶ。

 

「救急! 榊が撃たれた! 狙撃手を追え!」

 

外では千速が白バイに跨り、逃走する影を追っていた。

 

だが、狙撃手は港湾部の複雑な導線を使い、闇へ消えた。

 

残されたのは、榊。

 

尾崎の鍵。

 

十年前の本物の資料。

 

そして、榊が言い残した言葉。

 

ゼロの中にも、いる。

 

押村は血に濡れた手を見つめた。

 

事件は終わりに向かうどころか、さらに深い場所へ口を開けていた。

 

だが、この夜、ようやく一つだけはっきりした。

 

敵は榊だけではない。

 

警察庁警備局の中にも、十年前の闇を守ろうとする者がいる。

 

そしてそれを暴くには、県警の刑事のままでは届かない。

 

押村の胸の奥で、決意の輪郭が濃くなっていった。

 

新章・最終話「帰れない場所」

 

翌朝。

 

神奈川県警本部の地下保管庫。

 

横溝重悟、押村奏斗、萩原千速、そして古谷の四人は、尾崎が残した鍵を手に立っていた。

 

保管庫番号七。

 

普段は使われていない、古い事故資料や未整理記録が詰め込まれた場所だった。

 

横溝は古谷を睨む。

 

「本来なら、お前をここに入れたくねぇ」

 

古谷は静かに答えた。

 

「私も、本来ならここへ来るべきではありません」

 

千速が低く言う。

 

「じゃあ帰れ」

 

「そうもいきません」

 

「だろうな」

 

押村は鍵を差し込んだ。

 

重い扉が開く。

 

中には、古い段ボール箱がいくつも並んでいた。

 

埃の匂い。

 

蛍光灯の鈍い光。

 

押村は尾崎が言い残した番号をもとに、一つの箱を取り出した。

 

そこには、十年前の日付と、事故処理番号が記されていた。

 

横溝が封を切る。

 

中にあったのは、公式記録とは違う資料だった。

 

現場写真。

車両鑑定書の草稿。

消されたはずの防犯カメラ画像。

通話記録。

そして、警備局内部のものと思われる報告メモ。

 

押村は一枚ずつ確認していく。

 

「やはり、桐生誠さんの車には細工がありました」

 

千速が表情を険しくする。

 

「ブレーキか」

 

「はい。ただし、桐生事件とは違う。ブレーキではなく、ステアリング系統への細工です」

 

横溝が唸る。

 

「事故は仕組まれてた」

 

古谷は黙って資料を見ていた。

 

押村はさらにページをめくる。

 

そこに、ある名前があった。

 

榊慎吾。

 

十年前、警備局の協力者。

対象組織に潜入。

しかし情報漏洩の疑い。

以後、所在不明。

 

千速が言う。

 

「榊は元協力者か」

 

古谷が静かに頷いた。

 

「はい」

 

押村はさらに読み進めた。

 

桐生誠は、榊に脅されて情報を運ばされていた。

その情報は、警備局が追っていた国外組織の資金ルートに関するもの。

だが、事故の直前、その情報は別の人物へ流れる予定だった。

 

押村の手が止まる。

 

「古谷さん」

 

「はい」

 

「この報告メモを書いた人物は誰ですか」

 

古谷はその名前を見て、表情を変えた。

 

押村も読んだ。

 

警察庁警備局警備企画課 室長補佐 黒瀬隆臣。

 

千速が古谷を見る。

 

「知ってるのか」

 

古谷は低く答えた。

 

「現在も警備局にいる人物です」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「榊が言ってた“ゼロの中にもいる”ってのは、そいつか」

 

古谷は即答しなかった。

 

押村は資料を指で押さえる。

 

「十年前の事故後、本来なら車両細工の可能性が報告されていた。しかし正式記録には残っていない」

 

「黒瀬が握り潰した?」

 

横溝が言う。

 

押村は頷いた。

 

「その可能性があります」

 

古谷は静かに言った。

 

「黒瀬は、現在も警備局内で影響力を持っています」

 

千速が腕を組む。

 

「そいつが榊を消そうとしてるのか」

 

「おそらく」

 

古谷の声は重かった。

 

「尾崎警部も、十年前の処理に関わった後、記録の矛盾に気づいたのでしょう。だから本物の資料を隠していた」

 

横溝が低く言う。

 

「敵かと思ったら、最後に証拠を残してたわけか」

 

押村は資料を見つめた。

 

尾崎は善人ではない。

 

十年前、記録を隠した側にいた。

 

だが、完全に闇へ沈みきれなかった。

 

だから鍵を残した。

 

だから撃たれた。

 

押村は静かに言った。

 

「榊、尾崎、桐生兄弟、真島、瀬戸。全員が十年前の隠蔽に振り回された」

 

千速は押村を見る。

 

「奏斗」

 

押村の声が、いつもより低かった。

 

「黒瀬を止める必要があります」

 

古谷は押村を見た。

 

「県警の捜査としては、ここまでです」

 

横溝が即座に噛みつく。

 

「ふざけんな。証拠が出たんだぞ」

 

古谷は首を横に振る。

 

「この資料は、正式な手続きで扱えば即座に警備局上層へ吸い上げられます。黒瀬に先に処理される」

 

「だったらどうする」

 

古谷は押村を見た。

 

「内部から崩すしかありません」

 

その言葉の意味を、全員が理解した。

 

千速の顔が変わる。

 

「待て」

 

押村は古谷から目を逸らさない。

 

古谷は続けた。

 

「押村警部補。あなたは県警の刑事として優秀です。しかし、この先へ進むには、県警の肩書きが足枷になります」

 

千速が一歩前へ出た。

 

「古谷」

 

その声は低く、怒りを含んでいた。

 

「奏斗を引き込むつもりか」

 

古谷は静かに答える。

 

「選ぶのは押村警部補です」

 

「綺麗に言うな。そういう状況に追い込んでるだけだろ」

 

古谷は否定しなかった。

 

横溝も顔をしかめる。

 

「押村。聞くな」

 

押村は黙っていた。

 

千速が押村の腕を掴む。

 

「奏斗」

 

押村はようやく千速を見る。

 

その目を見た瞬間、千速は嫌な予感を覚えた。

 

もう、押村は考え始めている。

 

届かない場所へ行くことを。

 

帰れない場所へ踏み込むことを。

 

「駄目だ」

 

千速は低く言った。

 

押村は何も言わない。

 

「まだ何も言ってねぇって顔すんな。分かるんだよ」

 

押村は少しだけ目を伏せた。

 

「千速」

 

「駄目だ」

 

「俺は――」

 

「駄目だ!」

 

地下保管庫に、千速の声が響いた。

 

横溝も古谷も黙った。

 

千速は押村の腕を掴んだまま、震える声で言う。

 

「お前、また一人で行く気だろ」

 

「まだ決めていない」

 

「嘘だ」

 

押村は言葉を失った。

 

千速は続ける。

 

「私を守るためとか、重悟を巻き込まないためとか、そういう顔してる」

 

押村は静かに言った。

 

「君たちを危険に晒したくない」

 

千速の目が揺れた。

 

「それが一番嫌だって言っただろ」

 

「分かっている」

 

「分かってねぇ!」

 

千速は押村の胸を拳で叩いた。

 

強くはない。

 

だが、その一撃には怒りよりも悲しみがあった。

 

「守るって言葉で、勝手にいなくなるな」

 

押村は千速を見つめた。

 

何かを言おうとして、言えなかった。

 

横溝が低く言う。

 

「押村。今は決めるな」

 

押村は横溝を見る。

 

「警部」

 

「今ここで決めたら、お前は絶対に間違える。千速の顔を見ろ。俺の顔も見ろ。それでも必要だと思うなら、ちゃんと考えてからにしろ」

 

押村は黙った。

 

古谷もそれ以上は何も言わなかった。

 

この日は、そこで終わった。

 

少なくとも表面上は。

 

数日後。

 

榊慎吾は一命を取り留めたが、意識は戻らなかった。

 

尾崎彰も同じく重体。

 

狙撃手は逃走。

 

黒瀬隆臣という名前は、表の捜査資料には出せなかった。

 

桐生圭吾事件から始まった一連の出来事は、県警内部では「関連調査中」として処理された。

 

だが、押村には分かっていた。

 

このままでは終わらない。

 

黒瀬は警備局内にいる。

 

十年前の隠蔽に関わり、今も資料を消そうとしている。

 

榊や尾崎が撃たれた以上、次に狙われるのは資料を見た者たちだ。

 

横溝。

千速。

古谷。

そして自分。

 

その夜、押村は一人で教習所へ来ていた。

 

事件後も、二輪教習は続けていた。

 

誰もいない夜のコースを、照明が照らしている。

 

瀬戸教官が静かに言った。

 

「今日は顔色が悪いですね」

 

押村はヘルメットを手にしたまま答える。

 

「そうですか」

 

「ええ。刑事の顔です」

 

「普段も刑事です」

 

瀬戸は少し笑った。

 

「そうでした」

 

押村は教習車に跨った。

 

発進。

加速。

減速。

停止。

 

何度も繰り返す。

 

走ることより、止まることを意識する。

 

千速の言葉が頭に残っていた。

 

白バイは、止まるために走る。

 

だが、今の自分は止まれているのか。

 

それとも、止まるべき場所を越えてしまっているのか。

 

急制動の練習。

 

押村は指定速度まで加速し、目標線でブレーキをかけた。

 

車体が沈む。

 

腕に力が入る。

 

タイヤが路面を掴む。

 

バイクは止まった。

 

瀬戸が言った。

 

「上手くなりましたね」

 

押村はヘルメットの中で、静かに息を吐いた。

 

止まることはできる。

 

だが、戻ることはできるのか。

 

その問いに答えは出なかった。

 

教習所を出ると、門の外に千速がいた。

 

淡い色のニットにロングスカート、上から短めのジャケットを羽織っている。

 

仕事帰りではない。

 

わざわざ来たのだ。

 

押村は足を止めた。

 

「千速」

 

「よう」

 

「なぜここに」

 

「嫌な予感がした」

 

押村は黙った。

 

千速は近づく。

 

「当たりか」

 

押村は答えられない。

 

千速は小さく息を吐いた。

 

「今日、何か決める気だっただろ」

 

「まだ決めていない」

 

「まだ、な」

 

押村は目を伏せた。

 

千速は押村の前に立つ。

 

「奏斗。私は、お前を止めたい」

 

「うん」

 

「ゼロに近づくなって言いたい。警備局なんか放っておけって言いたい。危ない橋を渡るなって言いたい」

 

押村は静かに聞いていた。

 

千速は続ける。

 

「でも、お前が止まらない理由も分かる」

 

押村の目が少し揺れた。

 

「千速」

 

「分かりたくねぇけど、分かるんだよ」

 

千速は悔しそうに笑った。

 

「桐生の兄が死んだ。桐生は壊れた。真島が死んだ。尾崎も榊も撃たれた。十年前の嘘が、今も人を殺してる。お前はそれを見過ごせない」

 

押村は小さく頷いた。

 

「ああ」

 

「だったら、せめて言え」

 

千速の声が震えた。

 

「私に黙って消えるな」

 

押村は息を止めた。

 

その言葉が、未来の自分を刺したような気がした。

 

まだこの時、押村は死を偽装する計画を知らない。

 

けれど、千速は本能で何かを感じ取っていた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「約束しろ。どこへ行くにしても、私に何も言わずに消えないって」

 

押村は答えようとして、言葉に詰まった。

 

約束したい。

 

本心では、そう思った。

 

だが、できない気がした。

 

この先、自分が進む道では、その約束を守れないかもしれない。

 

押村の沈黙を見て、千速の表情が少しずつ変わった。

 

「……約束できねぇのか」

 

押村は苦しげに言った。

 

「君を巻き込むことになるかもしれない」

 

千速は目を伏せた。

 

「またそれか」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

千速は押村の手を掴んだ。

 

強く。

 

「じゃあ、今だけでいい」

 

押村が顔を上げる。

 

「今だけ?」

 

「今ここにいる間だけでいい。私の前から勝手に消えないって言え」

 

押村は千速を見た。

 

街灯の下、千速の表情は怒っているようで、泣きそうでもあった。

 

押村はようやく答えた。

 

「今は、消えない」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「今は、か」

 

「すまない」

 

「謝るなって言ってんだろ」

 

千速は押村の手を離さなかった。

 

「帰るぞ」

 

「どこへ」

 

「飯。お前、どうせ食ってねぇだろ」

 

押村は少しだけ目を瞬いた。

 

「食べていない」

 

「やっぱりな」

 

千速は彼の手を引いて歩き出した。

 

押村はその手の温度を覚えようとした。

 

なぜか、そうしなければならない気がした。

 

その数週間後。

 

押村は古谷に呼び出された。

 

場所は、警察庁の窓のない部屋。

 

机の上には、一枚の資料が置かれていた。

 

黒瀬隆臣。

警察庁警備局。

内部協力者疑惑。

榊慎吾射撃事件。

尾崎彰射撃事件。

神奈川県警内部接触記録。

 

古谷は静かに言った。

 

「黒瀬へ近づくには、あなたの現在の身分では不可能です」

 

押村は資料を見つめる。

 

古谷は続けた。

 

「県警刑事としてのあなたは、すでに黒瀬に認識されています。周囲の人間も同じです」

 

「千速や横溝警部も」

 

「はい」

 

押村の指がわずかに動いた。

 

古谷は低く言う。

 

「押村奏斗という存在が表にある限り、あなたの周囲は狙われる」

 

「だから消えろと」

 

「選ぶのはあなたです」

 

押村は古谷を見た。

 

「綺麗な言い方ですね」

 

「そうですね」

 

古谷は否定しなかった。

 

「あなたに、警備局へ入ってもらいたい」

 

押村は黙る。

 

「ただし、通常の異動ではありません。黒瀬に悟られないため、表の押村奏斗は消える必要があります」

 

「死んだことにする」

 

古谷は静かに頷いた。

 

「はい」

 

部屋の空気が重く沈む。

 

押村の脳裏に、千速の声が響いた。

 

私に黙って消えるな。

 

約束できなかった。

 

そして今、その約束できなかった未来が目の前に置かれている。

 

押村は目を閉じた。

 

千速。

横溝。

捜査一課。

第三交機。

白バイの音。

夜道で握った手。

 

全部を捨てる。

 

生きている痕跡を一切残さない。

 

千速にさえ、知らせない。

 

それが最も彼女を傷つけると分かっていて。

 

それでも、彼女を生かすためには必要なのかもしれない。

 

押村はゆっくり目を開けた。

 

「考える時間をください」

 

古谷は頷いた。

 

「もちろんです」

 

だが、押村も古谷も分かっていた。

 

答えはもう、ほとんど出ている。

 

この章の事件は、ここで一旦幕を閉じる。

 

桐生圭吾事件から始まった十年前の闇。

榊の影。

尾崎の鍵。

黒瀬という名。

そして、ゼロの内部に潜む裏切り。

 

すべてが、押村奏斗を一つの選択へ追い込んでいった。

 

数か月後。

 

電車内の紙袋。

スマートフォンの着信。

廃ビルの爆発。

押村奏斗の死。

 

それは突然起きた悲劇ではない。

 

この夜から続いていた、長い偽装の終着点だった。

 

そして押村奏斗は、まだ知らない。

 

自分が選ぶ沈黙が、誰よりも千速を傷つけることを。

 

それでも彼は、歩き始めてしまった。

 

帰れない場所へ。

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