夜の海岸通りを、黒いバイクが疾走していた。
その後ろを、白バイが追う。
萩原千速は、前方のテールランプを見失わなかった。
黒いバイクは速い。
だが、速さだけなら怖くない。
怖いのは、相手が逃走経路を知っていることだった。
港湾道路。
工事中の迂回路。
大型トラックの出入り口。
監視カメラの死角。
榊は迷いなくそこを選んで走っている。
千速は無線に短く告げた。
「黒いバイク、海岸通りから第三埠頭方面へ。速度はかなり出てる。周辺車両を退避させろ」
横溝重悟の声が返る。
『千速、無理に詰めるな。相手は銃撃犯と繋がってる可能性がある』
「分かってる」
『本当か』
「分かってるって言ってんだろ」
千速は歯を食いしばる。
分かっている。
追い詰めすぎれば、相手は何をするか分からない。
自爆するかもしれない。
一般車両を巻き込むかもしれない。
こちらへ発砲してくるかもしれない。
それでも、ここで逃がせばまた誰かが狙われる。
奏斗が撃たれた。
尾崎が倒れた。
自分の名前も脅しに使われた。
怒りはある。
だが、千速はその怒りをアクセルに乗せなかった。
白バイは、止まるために走る。
自分で言った言葉を、今こそ守らなければならない。
前方で黒いバイクが急に右へ振れた。
大型トラックの陰を使い、視界から消えようとしている。
千速は速度を落とした。
追いつくためではない。
先を読むためだ。
「あいつ、直進じゃねぇ」
千速は低く呟く。
榊は逃げているように見えて、誘導している。
千速を、ある場所へ。
そう気づいた瞬間、無線が入った。
押村奏斗の声だった。
『千速、聞こえるか』
「奏斗? 怪我は」
『かすり傷だ』
「あとで説教だ」
『分かった』
「素直だな」
『今は必要なことを言う』
千速は前を見たまま答える。
「言え」
『榊は逃げているだけじゃない。追跡者を決まった場所へ誘導している可能性がある』
「同じこと考えてた」
『第三埠頭の先に、閉鎖されたコンテナヤードがある。そこは監視カメラが少ない』
「罠か」
『可能性が高い』
千速は小さく笑った。
「だったら、行かねぇ方がいいな」
押村の声が一瞬止まる。
『千速?』
「私は白バイ隊員だぞ。誘導されてるって分かって、そのまま突っ込むかよ」
千速は進路を変えた。
黒いバイクを直接追うのではなく、一本内側の道路へ入る。
コンテナヤードへ先回りできる道。
ただし、狭い。
路面も悪い。
普通のパトカーでは入りにくい。
だが、白バイなら行ける。
横溝の声が飛ぶ。
『千速、何をする気だ』
「先回りする」
『一人で行くな!』
「一人じゃねぇよ」
千速は短く言った。
「奏斗が見てる」
無線の向こうで、押村が黙った。
それは根拠としては弱い。
けれど、千速にとっては十分だった。
自分はもう、知らされずに置いていかれる側ではない。
同じ情報を持って、同じ敵を見ている。
それだけで、今は走れる。
一方、押村は肩口に応急処置を受けながら、現場指揮車のモニターを見ていた。
横溝が隣で怒鳴る。
「お前は病院行け!」
「まだ動けます」
「そういう問題じゃねぇ!」
「千速が榊を追っています」
「見りゃ分かる!」
横溝は苛立ちながらも、押村を現場から外さなかった。
今の押村の頭が必要だと分かっているからだ。
モニターには、港湾部の地図が映っている。
千速の白バイの位置。
榊の黒いバイクと思われる移動経路。
捜査車両の配置。
押村は画面を見つめた。
「榊は、第三埠頭のコンテナヤードに誘導したい。そこには誰かが待っている可能性があります」
横溝が唸る。
「さっきの狙撃手か」
「はい。尾崎を撃った人物も、榊を逃がすためだけなら妙です」
「榊を消すつもりだった可能性もあるってことか」
押村は頷く。
「尾崎も榊も、十年前の真相を知りすぎている。どちらも消したい第三者がいる」
横溝の顔が険しくなる。
「尾崎は敵じゃなかったのか」
「完全な敵ではなかったと思います」
尾崎は榊と接触していた。
だが、撃たれる直前に千速へ鍵を渡した。
十年前の本物の資料。
それは、尾崎が何かを守ろうとしていた証拠でもある。
横溝は低く言った。
「尾崎の容体は」
「搬送中。意識不明ですが、命はあるとのことです」
「吐いてもらわなきゃ困るな」
押村はモニターに目を戻した。
「横溝警部。コンテナヤード周辺の高所を確認してください。狙撃手がいるなら、見通しのいい場所を選ぶはずです」
横溝が無線で指示を飛ばす。
「第三埠頭周辺のクレーン、倉庫屋上、非常階段を確認しろ。狙撃手がいる可能性がある!」
その時、モニター上で千速の位置が大きく変わった。
白バイは榊の進路を斜めに切るように先回りしている。
押村は無線を取った。
「千速」
『何だ』
「前方二百メートルで合流する。榊は右へ逃げる可能性が高い」
『左じゃなくて?』
「左はコンテナが積まれていて死角が多い。誘導したいなら左に見せる。だが逃げるなら右だ」
『了解』
押村は続けた。
「無理はしないでくれ」
千速の声が少しだけ柔らかくなる。
『お前もな』
その直後、白バイのサイレンが遠くで高く響いた。
千速は黒いバイクの前方へ出た。
榊が明らかに動揺する。
黒いバイクは一瞬だけ減速し、それから右へ切った。
押村の読み通りだった。
「奏斗、当たり」
千速は呟き、白バイを倒す。
路面は悪い。
砂が浮いている。
だが、白バイのタイヤは路面を捉えた。
榊は右へ逃げた先で、倉庫脇の細い道へ入ろうとする。
千速はその手前に白バイを滑り込ませた。
黒いバイクの進路が塞がれる。
榊は急ブレーキをかけ、車体を横に振った。
千速は白バイを止め、ヘルメット越しに榊を睨む。
「そこまでだ」
榊は黒いヘルメットの奥で笑ったように見えた。
次の瞬間。
榊は左手で何かを投げた。
小さな金属筒。
千速の目が鋭くなる。
「閃光弾か!」
千速は反射的に顔を背け、白バイを倒し込むように身を低くした。
強い光と音が弾ける。
一瞬、視界が白く染まった。
榊はその隙にバイクを再発進させる。
だが、千速は完全には止まっていなかった。
耳鳴りの中、目を細め、音と気配だけで進路を読む。
「逃がすかよ……!」
白バイが再び走り出す。
視界はまだ戻りきっていない。
それでも千速は、榊のエンジン音を追った。
その時、無線に押村の声。
『千速、止まれ!』
「何だ!」
『前方のクレーン上に狙撃手がいる!』
千速は即座にブレーキをかけた。
その瞬間、前方の路面に火花が散った。
銃弾。
あと一秒遅ければ、千速か白バイに当たっていた。
「っ……!」
千速は白バイを横へ逃がし、コンテナの陰へ滑り込む。
横溝の怒号が無線に入る。
『狙撃手を押さえろ! 千速、そこから動くな!』
千速は舌打ちした。
榊の黒いバイクは、すでに遠ざかっていく。
「逃げられる……!」
その時、別方向からパトカーが飛び出した。
横溝が配置していた捜査車両だった。
黒いバイクは進路を塞がれ、急停止する。
榊はバイクを捨て、徒歩で倉庫へ逃げ込んだ。
押村の声が無線に入る。
『榊は第四倉庫へ入った。包囲を』
横溝が即座に命じる。
『全員、第四倉庫を囲め。狙撃手の位置にも注意しろ!』
千速は白バイを降りた。
「奏斗、私は第四倉庫へ行く」
『危険だ』
「分かってる」
『なら待ってくれ』
千速は一瞬だけ黙った。
以前なら、そのまま走った。
だが、今は違う。
「……分かった。待つ」
無線の向こうで、押村が少し息を吐いたのが分かった。
『ありがとう』
「礼言うな。早く来い」
第四倉庫の包囲は、数分で完了した。
榊は中にいる。
だが、狙撃手はまだ確保されていない。
古谷も現場に現れた。
横溝は古谷を見るなり、噛みつくように言った。
「おせぇんだよ」
古谷は珍しく表情を固くしていた。
「狙撃手はこちらの想定外です」
横溝が低く唸る。
「そっちにも分かってねぇ敵がいるってことか」
古谷は否定しなかった。
押村は古谷を見た。
「榊を生かして確保する必要があります」
「同意します」
「なら、今度こそ隠さず協力してください」
古谷は押村の肩口の血を見た。
「その怪我で入るつもりですか」
「はい」
横溝が怒る。
「はいじゃねぇ!」
千速も睨む。
「お前は下がれ」
押村は千速を見る。
「榊は俺を名指ししている。俺が入れば話す可能性がある」
「撃たれる可能性もある」
「分かっている」
千速は拳を握った。
押村は静かに続ける。
「でも、今回は一人では行かない」
千速の目が揺れる。
押村は横溝を見る。
「横溝警部、同行をお願いします」
横溝は一瞬黙り、それから鼻を鳴らした。
「最初からそう言え」
千速は押村を見た。
「私は」
押村は少し間を置いた。
「外を頼む。逃走経路を塞げるのは君だ」
千速はその言葉を聞いて、ようやく頷いた。
守られるために外にいるのではない。
役割があるから、外にいる。
それなら納得できる。
「分かった。逃がさねぇ」
押村は短く頷いた。
「頼む」
第四倉庫の扉が、ゆっくりと開けられた。
押村と横溝は銃を構え、中へ入る。
倉庫内は暗い。
積まれた木箱と古い機材。
潮と錆の匂い。
奥から、榊の声が響いた。
「来たか、押村奏斗」
押村は足を止める。
「榊。抵抗はやめろ」
榊は暗がりの中で笑った。
「お前はまだ分かっていない」
「何を」
「俺を捕まえれば終わると思っているなら、大間違いだ」
横溝が低く言う。
「終わるかどうかは、捕まえてから考える」
榊は続けた。
「十年前、俺は逃げた。桐生誠は死んだ。瀬戸は処分され、尾崎は記録を隠し、警備局は案件を封じた」
押村は静かに問う。
「お前が桐生誠さんの車に細工したのか」
榊は答えない。
押村は一歩進む。
「桐生圭吾に封筒を送ったのも、お前か」
榊は低く笑う。
「憎しみは便利だ。少し火をつければ、勝手に燃える」
横溝の目が怒りに染まる。
「人の人生を弄びやがって」
「警察も同じことをしてきた」
榊の声が冷たくなる。
「都合の悪いものを隠し、必要な人間だけを使い捨てる。ゼロも、県警も、同じだ」
押村は言った。
「だから人を殺したのか」
「殺した?」
榊は笑った。
「真島を殺したのは桐生圭吾だ。尾崎を撃ったのも俺じゃない」
「では誰だ」
その瞬間、倉庫の奥で何かが動いた。
押村は反応したが、遅かった。
榊の背後の窓ガラスが割れた。
外からの銃弾。
榊の肩を撃ち抜く。
榊は倒れた。
横溝が怒鳴る。
「狙撃だ!」
押村は即座に榊のもとへ走る。
「榊!」
榊は血を流しながら笑っていた。
「な……言っただろ……俺を捕まえれば終わると思うな……」
押村は傷口を押さえる。
「誰が撃った」
榊は押村の腕を掴んだ。
「……ゼロの中にも……いる……」
押村の目が変わる。
「何?」
榊は苦しげに続けた。
「十年前の本当の記録……尾崎の鍵……それを見ろ……」
「何が書かれている」
榊は笑った。
「お前が……中に入らなきゃ……届かないものだ……」
その言葉を最後に、榊は意識を失った。
死んではいない。
だが、重傷だった。
横溝が無線で叫ぶ。
「救急! 榊が撃たれた! 狙撃手を追え!」
外では千速が白バイに跨り、逃走する影を追っていた。
だが、狙撃手は港湾部の複雑な導線を使い、闇へ消えた。
残されたのは、榊。
尾崎の鍵。
十年前の本物の資料。
そして、榊が言い残した言葉。
ゼロの中にも、いる。
押村は血に濡れた手を見つめた。
事件は終わりに向かうどころか、さらに深い場所へ口を開けていた。
だが、この夜、ようやく一つだけはっきりした。
敵は榊だけではない。
警察庁警備局の中にも、十年前の闇を守ろうとする者がいる。
そしてそれを暴くには、県警の刑事のままでは届かない。
押村の胸の奥で、決意の輪郭が濃くなっていった。
新章・最終話「帰れない場所」
翌朝。
神奈川県警本部の地下保管庫。
横溝重悟、押村奏斗、萩原千速、そして古谷の四人は、尾崎が残した鍵を手に立っていた。
保管庫番号七。
普段は使われていない、古い事故資料や未整理記録が詰め込まれた場所だった。
横溝は古谷を睨む。
「本来なら、お前をここに入れたくねぇ」
古谷は静かに答えた。
「私も、本来ならここへ来るべきではありません」
千速が低く言う。
「じゃあ帰れ」
「そうもいきません」
「だろうな」
押村は鍵を差し込んだ。
重い扉が開く。
中には、古い段ボール箱がいくつも並んでいた。
埃の匂い。
蛍光灯の鈍い光。
押村は尾崎が言い残した番号をもとに、一つの箱を取り出した。
そこには、十年前の日付と、事故処理番号が記されていた。
横溝が封を切る。
中にあったのは、公式記録とは違う資料だった。
現場写真。
車両鑑定書の草稿。
消されたはずの防犯カメラ画像。
通話記録。
そして、警備局内部のものと思われる報告メモ。
押村は一枚ずつ確認していく。
「やはり、桐生誠さんの車には細工がありました」
千速が表情を険しくする。
「ブレーキか」
「はい。ただし、桐生事件とは違う。ブレーキではなく、ステアリング系統への細工です」
横溝が唸る。
「事故は仕組まれてた」
古谷は黙って資料を見ていた。
押村はさらにページをめくる。
そこに、ある名前があった。
榊慎吾。
十年前、警備局の協力者。
対象組織に潜入。
しかし情報漏洩の疑い。
以後、所在不明。
千速が言う。
「榊は元協力者か」
古谷が静かに頷いた。
「はい」
押村はさらに読み進めた。
桐生誠は、榊に脅されて情報を運ばされていた。
その情報は、警備局が追っていた国外組織の資金ルートに関するもの。
だが、事故の直前、その情報は別の人物へ流れる予定だった。
押村の手が止まる。
「古谷さん」
「はい」
「この報告メモを書いた人物は誰ですか」
古谷はその名前を見て、表情を変えた。
押村も読んだ。
警察庁警備局警備企画課 室長補佐 黒瀬隆臣。
千速が古谷を見る。
「知ってるのか」
古谷は低く答えた。
「現在も警備局にいる人物です」
横溝が顔をしかめる。
「榊が言ってた“ゼロの中にもいる”ってのは、そいつか」
古谷は即答しなかった。
押村は資料を指で押さえる。
「十年前の事故後、本来なら車両細工の可能性が報告されていた。しかし正式記録には残っていない」
「黒瀬が握り潰した?」
横溝が言う。
押村は頷いた。
「その可能性があります」
古谷は静かに言った。
「黒瀬は、現在も警備局内で影響力を持っています」
千速が腕を組む。
「そいつが榊を消そうとしてるのか」
「おそらく」
古谷の声は重かった。
「尾崎警部も、十年前の処理に関わった後、記録の矛盾に気づいたのでしょう。だから本物の資料を隠していた」
横溝が低く言う。
「敵かと思ったら、最後に証拠を残してたわけか」
押村は資料を見つめた。
尾崎は善人ではない。
十年前、記録を隠した側にいた。
だが、完全に闇へ沈みきれなかった。
だから鍵を残した。
だから撃たれた。
押村は静かに言った。
「榊、尾崎、桐生兄弟、真島、瀬戸。全員が十年前の隠蔽に振り回された」
千速は押村を見る。
「奏斗」
押村の声が、いつもより低かった。
「黒瀬を止める必要があります」
古谷は押村を見た。
「県警の捜査としては、ここまでです」
横溝が即座に噛みつく。
「ふざけんな。証拠が出たんだぞ」
古谷は首を横に振る。
「この資料は、正式な手続きで扱えば即座に警備局上層へ吸い上げられます。黒瀬に先に処理される」
「だったらどうする」
古谷は押村を見た。
「内部から崩すしかありません」
その言葉の意味を、全員が理解した。
千速の顔が変わる。
「待て」
押村は古谷から目を逸らさない。
古谷は続けた。
「押村警部補。あなたは県警の刑事として優秀です。しかし、この先へ進むには、県警の肩書きが足枷になります」
千速が一歩前へ出た。
「古谷」
その声は低く、怒りを含んでいた。
「奏斗を引き込むつもりか」
古谷は静かに答える。
「選ぶのは押村警部補です」
「綺麗に言うな。そういう状況に追い込んでるだけだろ」
古谷は否定しなかった。
横溝も顔をしかめる。
「押村。聞くな」
押村は黙っていた。
千速が押村の腕を掴む。
「奏斗」
押村はようやく千速を見る。
その目を見た瞬間、千速は嫌な予感を覚えた。
もう、押村は考え始めている。
届かない場所へ行くことを。
帰れない場所へ踏み込むことを。
「駄目だ」
千速は低く言った。
押村は何も言わない。
「まだ何も言ってねぇって顔すんな。分かるんだよ」
押村は少しだけ目を伏せた。
「千速」
「駄目だ」
「俺は――」
「駄目だ!」
地下保管庫に、千速の声が響いた。
横溝も古谷も黙った。
千速は押村の腕を掴んだまま、震える声で言う。
「お前、また一人で行く気だろ」
「まだ決めていない」
「嘘だ」
押村は言葉を失った。
千速は続ける。
「私を守るためとか、重悟を巻き込まないためとか、そういう顔してる」
押村は静かに言った。
「君たちを危険に晒したくない」
千速の目が揺れた。
「それが一番嫌だって言っただろ」
「分かっている」
「分かってねぇ!」
千速は押村の胸を拳で叩いた。
強くはない。
だが、その一撃には怒りよりも悲しみがあった。
「守るって言葉で、勝手にいなくなるな」
押村は千速を見つめた。
何かを言おうとして、言えなかった。
横溝が低く言う。
「押村。今は決めるな」
押村は横溝を見る。
「警部」
「今ここで決めたら、お前は絶対に間違える。千速の顔を見ろ。俺の顔も見ろ。それでも必要だと思うなら、ちゃんと考えてからにしろ」
押村は黙った。
古谷もそれ以上は何も言わなかった。
この日は、そこで終わった。
少なくとも表面上は。
数日後。
榊慎吾は一命を取り留めたが、意識は戻らなかった。
尾崎彰も同じく重体。
狙撃手は逃走。
黒瀬隆臣という名前は、表の捜査資料には出せなかった。
桐生圭吾事件から始まった一連の出来事は、県警内部では「関連調査中」として処理された。
だが、押村には分かっていた。
このままでは終わらない。
黒瀬は警備局内にいる。
十年前の隠蔽に関わり、今も資料を消そうとしている。
榊や尾崎が撃たれた以上、次に狙われるのは資料を見た者たちだ。
横溝。
千速。
古谷。
そして自分。
その夜、押村は一人で教習所へ来ていた。
事件後も、二輪教習は続けていた。
誰もいない夜のコースを、照明が照らしている。
瀬戸教官が静かに言った。
「今日は顔色が悪いですね」
押村はヘルメットを手にしたまま答える。
「そうですか」
「ええ。刑事の顔です」
「普段も刑事です」
瀬戸は少し笑った。
「そうでした」
押村は教習車に跨った。
発進。
加速。
減速。
停止。
何度も繰り返す。
走ることより、止まることを意識する。
千速の言葉が頭に残っていた。
白バイは、止まるために走る。
だが、今の自分は止まれているのか。
それとも、止まるべき場所を越えてしまっているのか。
急制動の練習。
押村は指定速度まで加速し、目標線でブレーキをかけた。
車体が沈む。
腕に力が入る。
タイヤが路面を掴む。
バイクは止まった。
瀬戸が言った。
「上手くなりましたね」
押村はヘルメットの中で、静かに息を吐いた。
止まることはできる。
だが、戻ることはできるのか。
その問いに答えは出なかった。
教習所を出ると、門の外に千速がいた。
淡い色のニットにロングスカート、上から短めのジャケットを羽織っている。
仕事帰りではない。
わざわざ来たのだ。
押村は足を止めた。
「千速」
「よう」
「なぜここに」
「嫌な予感がした」
押村は黙った。
千速は近づく。
「当たりか」
押村は答えられない。
千速は小さく息を吐いた。
「今日、何か決める気だっただろ」
「まだ決めていない」
「まだ、な」
押村は目を伏せた。
千速は押村の前に立つ。
「奏斗。私は、お前を止めたい」
「うん」
「ゼロに近づくなって言いたい。警備局なんか放っておけって言いたい。危ない橋を渡るなって言いたい」
押村は静かに聞いていた。
千速は続ける。
「でも、お前が止まらない理由も分かる」
押村の目が少し揺れた。
「千速」
「分かりたくねぇけど、分かるんだよ」
千速は悔しそうに笑った。
「桐生の兄が死んだ。桐生は壊れた。真島が死んだ。尾崎も榊も撃たれた。十年前の嘘が、今も人を殺してる。お前はそれを見過ごせない」
押村は小さく頷いた。
「ああ」
「だったら、せめて言え」
千速の声が震えた。
「私に黙って消えるな」
押村は息を止めた。
その言葉が、未来の自分を刺したような気がした。
まだこの時、押村は死を偽装する計画を知らない。
けれど、千速は本能で何かを感じ取っていた。
「奏斗」
「何だ」
「約束しろ。どこへ行くにしても、私に何も言わずに消えないって」
押村は答えようとして、言葉に詰まった。
約束したい。
本心では、そう思った。
だが、できない気がした。
この先、自分が進む道では、その約束を守れないかもしれない。
押村の沈黙を見て、千速の表情が少しずつ変わった。
「……約束できねぇのか」
押村は苦しげに言った。
「君を巻き込むことになるかもしれない」
千速は目を伏せた。
「またそれか」
「すまない」
「謝るな」
千速は押村の手を掴んだ。
強く。
「じゃあ、今だけでいい」
押村が顔を上げる。
「今だけ?」
「今ここにいる間だけでいい。私の前から勝手に消えないって言え」
押村は千速を見た。
街灯の下、千速の表情は怒っているようで、泣きそうでもあった。
押村はようやく答えた。
「今は、消えない」
千速は少しだけ笑った。
「今は、か」
「すまない」
「謝るなって言ってんだろ」
千速は押村の手を離さなかった。
「帰るぞ」
「どこへ」
「飯。お前、どうせ食ってねぇだろ」
押村は少しだけ目を瞬いた。
「食べていない」
「やっぱりな」
千速は彼の手を引いて歩き出した。
押村はその手の温度を覚えようとした。
なぜか、そうしなければならない気がした。
その数週間後。
押村は古谷に呼び出された。
場所は、警察庁の窓のない部屋。
机の上には、一枚の資料が置かれていた。
黒瀬隆臣。
警察庁警備局。
内部協力者疑惑。
榊慎吾射撃事件。
尾崎彰射撃事件。
神奈川県警内部接触記録。
古谷は静かに言った。
「黒瀬へ近づくには、あなたの現在の身分では不可能です」
押村は資料を見つめる。
古谷は続けた。
「県警刑事としてのあなたは、すでに黒瀬に認識されています。周囲の人間も同じです」
「千速や横溝警部も」
「はい」
押村の指がわずかに動いた。
古谷は低く言う。
「押村奏斗という存在が表にある限り、あなたの周囲は狙われる」
「だから消えろと」
「選ぶのはあなたです」
押村は古谷を見た。
「綺麗な言い方ですね」
「そうですね」
古谷は否定しなかった。
「あなたに、警備局へ入ってもらいたい」
押村は黙る。
「ただし、通常の異動ではありません。黒瀬に悟られないため、表の押村奏斗は消える必要があります」
「死んだことにする」
古谷は静かに頷いた。
「はい」
部屋の空気が重く沈む。
押村の脳裏に、千速の声が響いた。
私に黙って消えるな。
約束できなかった。
そして今、その約束できなかった未来が目の前に置かれている。
押村は目を閉じた。
千速。
横溝。
捜査一課。
第三交機。
白バイの音。
夜道で握った手。
全部を捨てる。
生きている痕跡を一切残さない。
千速にさえ、知らせない。
それが最も彼女を傷つけると分かっていて。
それでも、彼女を生かすためには必要なのかもしれない。
押村はゆっくり目を開けた。
「考える時間をください」
古谷は頷いた。
「もちろんです」
だが、押村も古谷も分かっていた。
答えはもう、ほとんど出ている。
この章の事件は、ここで一旦幕を閉じる。
桐生圭吾事件から始まった十年前の闇。
榊の影。
尾崎の鍵。
黒瀬という名。
そして、ゼロの内部に潜む裏切り。
すべてが、押村奏斗を一つの選択へ追い込んでいった。
数か月後。
電車内の紙袋。
スマートフォンの着信。
廃ビルの爆発。
押村奏斗の死。
それは突然起きた悲劇ではない。
この夜から続いていた、長い偽装の終着点だった。
そして押村奏斗は、まだ知らない。
自分が選ぶ沈黙が、誰よりも千速を傷つけることを。
それでも彼は、歩き始めてしまった。
帰れない場所へ。