警察庁の窓のない部屋で、押村奏斗は長い沈黙の中にいた。
机の向こうには古谷が座っている。
その前には、一枚の資料。
警備局への特殊な異動。
表向きの身分抹消。
死亡偽装。
神奈川県警への情報遮断。
関係者への秘匿。
それは、異動という言葉で片付けられるものではなかった。
警察官としての経歴を捨てる。
押村奏斗という名前を、社会から消す。
恋人も、上司も、仲間も、家族も、すべてに「死んだ」と思わせる。
そして、二度と戻れない場所へ行く。
古谷は静かに言った。
「答えを聞かせてください」
奏斗は資料を見つめたまま、しばらく動かなかった。
頭の中に浮かぶのは、事件のことではなかった。
千速の顔だった。
怒った顔。
呆れた顔。
白バイに跨った時の鋭い目。
定食屋で笑った顔。
夜道で手を握った時の温度。
そして、あの言葉。
私に黙って消えるな。
奏斗は目を閉じた。
それが、できない。
この先、自分が選ぶ道は、その約束を最初から裏切るものだ。
千速に話せば、彼女は止める。
横溝に話せば、怒鳴ってでも引き戻す。
それでも話すべきだった。
黙って消えることが、彼女をどれほど傷つけるか分かっている。
分かっているのに。
それでも、奏斗は考えてしまった。
もし黒瀬が動けば、千速が狙われる。
横溝も巻き込まれる。
捜査一課も、第三交機も、警察内部の誰も信用できない場所へ引きずり込まれる。
自分が表にいる限り、相手は周囲を狙う。
なら。
自分が消えれば。
押村奏斗という標的が死ねば。
少なくとも、千速は直接の人質ではなくなる。
奏斗はゆっくり目を開けた。
「承諾します」
古谷は表情を変えなかった。
「本当に、よろしいのですか」
「はい」
「後戻りはできません」
「承知しています」
「萩原警部補にも、横溝警部にも、知らせられません」
奏斗の指がわずかに動いた。
だが、声は揺らさなかった。
「承知しています」
古谷は少しだけ目を伏せた。
「あなたは、彼女に恨まれるかもしれません」
奏斗は静かに答えた。
「恨まれる方がいい」
古谷が顔を上げる。
奏斗は続けた。
「死なれるよりは」
部屋の空気が重くなった。
古谷はしばらく黙ってから、資料を閉じた。
「では、計画に入ります」
「はい」
「まず、周囲には断ったことにしてください」
奏斗の目が動く。
「断ったことに?」
「はい。黒瀬側にも、あなたが警備局の誘いを拒否したと見せる必要があります。そうすれば、彼らは一度油断する」
「千速たちにも」
「そうです」
奏斗は目を伏せた。
嘘をつく。
生きていくためではない。
死んだことにするために。
最初の嘘を、これからつく。
古谷は言った。
「押村警部補」
「はい」
「ここから先、あなたが発する言葉は、あなた自身を少しずつ消していきます」
奏斗は古谷を見た。
「分かっています」
だが、本当はまだ分かっていなかった。
嘘をつく痛みを。
大切な人に安心した顔をさせて、その安心ごと裏切る苦しさを。
この時の奏斗は、まだ知らなかった。
翌日。
神奈川県警捜査一課。
奏斗が刑事部屋に戻ると、横溝重悟がすぐに顔を上げた。
「押村」
「はい」
「古谷に呼ばれてたな」
刑事部屋の空気が一瞬だけ止まる。
三森沙月も、書類を持った手を止めた。
奏斗は自分の机の前で立ち止まった。
「はい」
横溝の目が鋭くなる。
「何の話だった」
奏斗は一拍置いた。
その一拍が、嘘をつくための準備だった。
「警備局への異動の話でした」
横溝の表情が硬くなる。
「それで」
奏斗は静かに答えた。
「断りました」
その言葉を聞いた瞬間、横溝は深く息を吐いた。
「……そうか」
三森も胸を撫で下ろしたように小さく息をつく。
周囲の刑事たちも、露骨には反応しないが、空気が少し緩んだ。
横溝は椅子に座り直し、腕を組む。
「当然だ」
「はい」
「お前がゼロなんぞに行ったら、ろくなことにならねぇ」
「そう判断しました」
その言葉は、嘘だった。
でも半分は本当だった。
ろくなことにならない。
それは間違いない。
横溝はしばらく奏斗を見ていた。
「本当に断ったんだな」
奏斗は横溝の目を見て答えた。
「はい」
横溝は何かを探るように彼を見る。
奏斗は視線を逸らさなかった。
刑事として、嘘を見抜く側にいた男が、今度は嘘をつく側になっている。
それも、自分を誰より知っている上司に。
横溝はやがて、低く言った。
「ならいい」
奏斗は小さく頷いた。
「はい」
その瞬間、胸の奥に何かが沈んだ。
横溝重悟は、部下を信じた。
奏斗は、その信頼を利用した。
昼過ぎ。
奏斗は第三交通機動隊へ向かった。
千速には、直接伝えなければならないと思った。
いや。
直接、嘘をつかなければならなかった。
詰所に着くと、新井が先に気づいた。
「あ、押村警部補」
「萩原警部補は?」
「車庫です」
「ありがとう」
新井はどこか安心した顔で言った。
「小隊長、最近ずっと押村警部補のこと気にしてましたよ」
奏斗は足を止めた。
「そうか」
「はい。あ、でも本人には言わないでください。訓練三倍にされるので」
奏斗は少しだけ表情を緩めた。
「分かった」
車庫へ向かうと、千速は白バイの横にいた。
点検表を手に、隊員たちに指示を出している。
その姿はいつも通り凛としていた。
奏斗はしばらく、その横顔を見ていた。
これから自分は、この人に嘘をつく。
千速がこちらに気づいた。
「奏斗」
隊員たちが少しだけ反応する。
千速は気にせず歩いてくる。
「来るなら連絡しろよ」
「すまない」
「何だ、その顔」
奏斗は一瞬だけ息を止めた。
千速は目ざとい。
本当に、よく見ている。
「話がある」
千速の表情が変わる。
「ゼロの件か」
「はい」
「敬語」
「……ゼロの件だ」
千速は腕を組んだ。
「聞く」
奏斗は周囲を見た。
千速はすぐに察し、車庫の外へ歩き出す。
二人は詰所の裏手に出た。
そこは人目が少なく、遠くで白バイのエンジン音だけが聞こえる。
千速は真正面から奏斗を見る。
「で?」
奏斗は言った。
「断った」
千速はしばらく動かなかった。
「……本当に?」
「ああ」
「古谷に?」
「はい。いや、ああ」
千速は大きく息を吐いた。
その表情から、力が抜ける。
「そうか」
奏斗は頷いた。
「ああ」
千速は片手で顔を覆った。
「よかった……」
その声を聞いた瞬間、奏斗の胸が痛んだ。
千速が安心している。
その安心は、嘘の上にある。
奏斗は、自分が何をしているのか、はっきり分かった。
千速は顔を上げる。
「よかった。本当に」
奏斗は何も言えなかった。
千速は少し照れたように笑う。
「悪い。情けねぇな」
「情けなくない」
「いや、正直怖かった」
千速は目を逸らした。
「お前がどっか遠くに行くんじゃねぇかって。私に何も言わずに、勝手に決めるんじゃねぇかって」
奏斗は視線を落とした。
「千速」
「何だ」
言うべきだった。
今ならまだ戻れる。
嘘だった、と。
本当は承諾した、と。
自分は消えることになる、と。
けれど、奏斗の口から出たのは、別の言葉だった。
「心配をかけた」
千速は少し笑った。
「本当だよ」
奏斗は静かに続ける。
「もう、これ以上は踏み込まない」
それは嘘だった。
これから最も深い場所へ踏み込む。
千速は奏斗を見た。
「本当に?」
奏斗はまた、嘘を重ねた。
「本当に」
千速はじっと奏斗を見つめる。
その目に、わずかな疑いが残っていた。
だが、信じたい気持ちの方が勝ったのだろう。
千速は小さく頷いた。
「分かった」
奏斗は胸の奥で、何かが壊れる音を聞いた気がした。
千速は一歩近づき、奏斗の胸に軽く拳を当てた。
「約束破んなよ」
「……ああ」
「黙って消えるなよ」
奏斗は答えられなかった。
ほんの一瞬だけ。
その沈黙を、千速は見逃さなかった。
「奏斗?」
奏斗はすぐに言った。
「消えない」
千速は少しだけ眉を寄せたが、やがて力を抜いた。
「ならいい」
千速はそう言って、奏斗の手を握った。
車庫の裏。
誰も見ていない場所で。
白バイのエンジン音が遠くに聞こえる中で。
千速は静かに言った。
「よかった。本当に」
奏斗はその手を握り返した。
強く握りすぎないように。
離したくないと思っていることが、伝わりすぎないように。
「千速」
「何だ」
「今度、飯に行こう」
「何だよ急に」
「行きたいと思った」
千速は少し赤くなって、顔を逸らした。
「……いいぞ」
「何が食べたい?」
「お前のカレー」
奏斗は一瞬、言葉を失った。
以前の約束。
同期会の夜、同棲や結婚の話をした時の、小さな約束。
「カレーか」
「そうだ。生活力を確認するって言っただろ」
「覚えている」
「なら作れ」
奏斗は静かに頷いた。
「分かった」
作れるだろうか。
その日が来るのか。
分からなかった。
それでも、奏斗は頷いた。
千速はようやくいつもの顔に戻る。
「よし。約束な」
「約束だ」
その言葉は、本当だった。
でも、守れるかどうか分からない約束だった。
その夜。
奏斗は自宅に戻った。
部屋は静かだった。
テーブルの上には、教習所の資料、事件のメモ、二輪免許の教本が置かれている。
そして、千速と同期会で撮った写真。
同期たちに囲まれて、少し照れたように並ぶ二人。
千速は淡い色のニットにロングスカート。
普段より柔らかい雰囲気なのに、立ち姿はいつものように真っ直ぐだった。
奏斗は写真を手に取った。
この写真も、いずれ処分しなければならない。
生きている痕跡を残さないために。
千速とのつながりを、すべて消すために。
スマートフォンが震えた。
古谷からのメッセージ。
一次偽装準備に入ります。来週、詳細確認。
奏斗はしばらく画面を見ていた。
そして返信する。
了解しました。
たったそれだけ。
その短い文字列で、また一歩、押村奏斗が消えていく。
奏斗はスマートフォンを置き、台所へ向かった。
冷蔵庫を開ける。
中には、玉ねぎ、人参、じゃがいも、肉。
千速に作る約束をしたカレーの材料を、自然と頭の中で思い浮かべていた。
作り方は分かる。
問題は、作る機会が残されているかどうか。
奏斗は冷蔵庫を閉じた。
「千速」
誰もいない部屋で、その名前を呼んだ。
呼べるうちに。
まだ、呼べるうちに。
数日後。
捜査一課では、表向きの平穏が戻っていた。
奏斗は通常業務に戻り、三森の育成も続けていた。
三森は資料を抱えながら言う。
「押村警部補、最近少し疲れていませんか?」
「そう見えるか」
「はい」
「問題ありません」
三森はじっと見る。
「その言い方、問題ある時の言い方です」
奏斗は少しだけ目を瞬いた。
「そうなのか」
「はい。萩原警部補なら、もっとすぐ見抜くと思います」
奏斗は返事に詰まった。
三森は慌てる。
「あ、すみません。余計なことを」
「いや」
奏斗は資料を閉じた。
「見抜かれると思う」
三森は少し不思議そうに首を傾げた。
「何かあったんですか」
「何もない」
三森は納得していない顔だった。
だが、それ以上は聞かなかった。
「押村警部補」
「何ですか」
「ちゃんと休んでくださいね」
奏斗は少しだけ柔らかい表情になった。
「ありがとう」
三森は驚いたように目を開く。
「いえ」
横溝が遠くからその様子を見ていた。
押村は普段通りだ。
普段通りすぎる。
それが逆に気になった。
横溝は押村を呼んだ。
「押村」
「はい」
「今日、飲みに行くぞ」
奏斗は顔を上げる。
「今日ですか」
「ああ」
「仕事が」
「命令だ」
奏斗は少し考えた後、頷いた。
「分かりました」
夜。
横溝が選んだのは、いつもの居酒屋ではなかった。
もっと静かな店だった。
二人はカウンターに並んで座った。
横溝はビールを置き、単刀直入に言った。
「本当にゼロの件、断ったんだな」
奏斗は箸を止めた。
「はい」
横溝は横目で見る。
「古谷は簡単に諦める男じゃねぇぞ」
「分かっています」
「黒瀬の件も残ってる。榊も尾崎も意識不明。狙撃手も捕まってねぇ」
「はい」
「それでも断った」
「はい」
横溝はしばらく黙った。
そして低く言う。
「押村。俺はお前を疑いたくねぇ」
奏斗の胸が重くなる。
横溝は続けた。
「でもな、お前は嘘が下手なようで、必要な時はうまい」
奏斗は何も言えなかった。
「人を守るためなら、自分が傷つく方を選ぶ。そういう奴だ」
「警部」
「だから聞く」
横溝は奏斗を見る。
「お前、何か決めたんじゃねぇだろうな」
奏斗は横溝の目を見た。
上司としてではなく、長く共に現場に立った人間としての目だった。
ここで本当のことを言えば、横溝は止める。
きっと千速にも言う。
計画は崩れる。
黒瀬に気づかれる可能性が高まる。
周囲が危険に晒される。
奏斗は静かに言った。
「決めていません」
嘘だった。
横溝は目を細める。
「そうか」
「はい」
横溝はビールを飲んだ。
「なら、これだけ覚えとけ」
「はい」
「一人で消えようとしたら、俺は地獄まで引きずり戻す」
奏斗は息を止めた。
横溝は前を向いたまま言う。
「千速も同じだ」
「……はい」
「返事だけはいいんだよな、お前」
横溝は苦く笑った。
奏斗はそれ以上、何も言えなかった。
店を出た帰り道。
奏斗は一人で駅へ向かった。
夜風が冷たい。
スマートフォンに千速からメッセージが届く。
重悟と飲んでるって聞いた。ちゃんと帰れよ。
奏斗は短く返信した。
今帰る。
すぐに返事が来る。
今度は私と飯な。カレー忘れんな。
奏斗は画面を見つめた。
そして、返信する。
忘れない。
それだけは本当だった。
忘れない。
たとえ押村奏斗が死ぬ日が来ても。
たとえ二度と千速の前に立てなくなっても。
この約束も、声も、手の温度も。
忘れない。
忘れられるはずがない。
その夜、奏斗は駅のホームで立ち止まり、線路の向こうを見た。
数か月後。
自分は電車の中で紙袋を見つける。
スマートフォンが鳴る。
廃ビルへ向かう。
爆発する。
そして、押村奏斗は死ぬ。
その筋書きは、もう動き始めている。
周囲には断ったことにした。
千速は安心した。
横溝は半分疑いながらも、信じようとしてくれた。
そのすべてを裏切って。
奏斗はゼロへ行く。
電車がホームに入ってきた。
奏斗は乗り込む前に、スマートフォンを握りしめた。
千速に電話をしたいと思った。
声を聞きたいと思った。
だが、やめた。
今、声を聞けば、決意が揺らぐ気がした。
扉が閉まる。
電車が動き出す。
窓に映る自分の顔を、奏斗はじっと見た。
押村奏斗。
神奈川県警捜査一課警部補。
千速の恋人。
横溝の部下。
三森の育成担当。
その全部を、少しずつ殺していく。
まだ生きているのに。
もう死ぬ準備は始まっていた。