神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第57話 嘘の返事

警察庁の窓のない部屋で、押村奏斗は長い沈黙の中にいた。

 

机の向こうには古谷が座っている。

 

その前には、一枚の資料。

 

警備局への特殊な異動。

表向きの身分抹消。

死亡偽装。

神奈川県警への情報遮断。

関係者への秘匿。

 

それは、異動という言葉で片付けられるものではなかった。

 

警察官としての経歴を捨てる。

押村奏斗という名前を、社会から消す。

恋人も、上司も、仲間も、家族も、すべてに「死んだ」と思わせる。

 

そして、二度と戻れない場所へ行く。

 

古谷は静かに言った。

 

「答えを聞かせてください」

 

奏斗は資料を見つめたまま、しばらく動かなかった。

 

頭の中に浮かぶのは、事件のことではなかった。

 

千速の顔だった。

 

怒った顔。

呆れた顔。

白バイに跨った時の鋭い目。

定食屋で笑った顔。

夜道で手を握った時の温度。

 

そして、あの言葉。

 

私に黙って消えるな。

 

奏斗は目を閉じた。

 

それが、できない。

 

この先、自分が選ぶ道は、その約束を最初から裏切るものだ。

 

千速に話せば、彼女は止める。

横溝に話せば、怒鳴ってでも引き戻す。

それでも話すべきだった。

 

黙って消えることが、彼女をどれほど傷つけるか分かっている。

 

分かっているのに。

 

それでも、奏斗は考えてしまった。

 

もし黒瀬が動けば、千速が狙われる。

横溝も巻き込まれる。

捜査一課も、第三交機も、警察内部の誰も信用できない場所へ引きずり込まれる。

 

自分が表にいる限り、相手は周囲を狙う。

 

なら。

 

自分が消えれば。

 

押村奏斗という標的が死ねば。

 

少なくとも、千速は直接の人質ではなくなる。

 

奏斗はゆっくり目を開けた。

 

「承諾します」

 

古谷は表情を変えなかった。

 

「本当に、よろしいのですか」

 

「はい」

 

「後戻りはできません」

 

「承知しています」

 

「萩原警部補にも、横溝警部にも、知らせられません」

 

奏斗の指がわずかに動いた。

 

だが、声は揺らさなかった。

 

「承知しています」

 

古谷は少しだけ目を伏せた。

 

「あなたは、彼女に恨まれるかもしれません」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「恨まれる方がいい」

 

古谷が顔を上げる。

 

奏斗は続けた。

 

「死なれるよりは」

 

部屋の空気が重くなった。

 

古谷はしばらく黙ってから、資料を閉じた。

 

「では、計画に入ります」

 

「はい」

 

「まず、周囲には断ったことにしてください」

 

奏斗の目が動く。

 

「断ったことに?」

 

「はい。黒瀬側にも、あなたが警備局の誘いを拒否したと見せる必要があります。そうすれば、彼らは一度油断する」

 

「千速たちにも」

 

「そうです」

 

奏斗は目を伏せた。

 

嘘をつく。

 

生きていくためではない。

 

死んだことにするために。

 

最初の嘘を、これからつく。

 

古谷は言った。

 

「押村警部補」

 

「はい」

 

「ここから先、あなたが発する言葉は、あなた自身を少しずつ消していきます」

 

奏斗は古谷を見た。

 

「分かっています」

 

だが、本当はまだ分かっていなかった。

 

嘘をつく痛みを。

大切な人に安心した顔をさせて、その安心ごと裏切る苦しさを。

 

この時の奏斗は、まだ知らなかった。

 

翌日。

 

神奈川県警捜査一課。

 

奏斗が刑事部屋に戻ると、横溝重悟がすぐに顔を上げた。

 

「押村」

 

「はい」

 

「古谷に呼ばれてたな」

 

刑事部屋の空気が一瞬だけ止まる。

 

三森沙月も、書類を持った手を止めた。

 

奏斗は自分の机の前で立ち止まった。

 

「はい」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

「何の話だった」

 

奏斗は一拍置いた。

 

その一拍が、嘘をつくための準備だった。

 

「警備局への異動の話でした」

 

横溝の表情が硬くなる。

 

「それで」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「断りました」

 

その言葉を聞いた瞬間、横溝は深く息を吐いた。

 

「……そうか」

 

三森も胸を撫で下ろしたように小さく息をつく。

 

周囲の刑事たちも、露骨には反応しないが、空気が少し緩んだ。

 

横溝は椅子に座り直し、腕を組む。

 

「当然だ」

 

「はい」

 

「お前がゼロなんぞに行ったら、ろくなことにならねぇ」

 

「そう判断しました」

 

その言葉は、嘘だった。

 

でも半分は本当だった。

 

ろくなことにならない。

 

それは間違いない。

 

横溝はしばらく奏斗を見ていた。

 

「本当に断ったんだな」

 

奏斗は横溝の目を見て答えた。

 

「はい」

 

横溝は何かを探るように彼を見る。

 

奏斗は視線を逸らさなかった。

 

刑事として、嘘を見抜く側にいた男が、今度は嘘をつく側になっている。

 

それも、自分を誰より知っている上司に。

 

横溝はやがて、低く言った。

 

「ならいい」

 

奏斗は小さく頷いた。

 

「はい」

 

その瞬間、胸の奥に何かが沈んだ。

 

横溝重悟は、部下を信じた。

 

奏斗は、その信頼を利用した。

 

昼過ぎ。

 

奏斗は第三交通機動隊へ向かった。

 

千速には、直接伝えなければならないと思った。

 

いや。

 

直接、嘘をつかなければならなかった。

 

詰所に着くと、新井が先に気づいた。

 

「あ、押村警部補」

 

「萩原警部補は?」

 

「車庫です」

 

「ありがとう」

 

新井はどこか安心した顔で言った。

 

「小隊長、最近ずっと押村警部補のこと気にしてましたよ」

 

奏斗は足を止めた。

 

「そうか」

 

「はい。あ、でも本人には言わないでください。訓練三倍にされるので」

 

奏斗は少しだけ表情を緩めた。

 

「分かった」

 

車庫へ向かうと、千速は白バイの横にいた。

 

点検表を手に、隊員たちに指示を出している。

 

その姿はいつも通り凛としていた。

 

奏斗はしばらく、その横顔を見ていた。

 

これから自分は、この人に嘘をつく。

 

千速がこちらに気づいた。

 

「奏斗」

 

隊員たちが少しだけ反応する。

 

千速は気にせず歩いてくる。

 

「来るなら連絡しろよ」

 

「すまない」

 

「何だ、その顔」

 

奏斗は一瞬だけ息を止めた。

 

千速は目ざとい。

 

本当に、よく見ている。

 

「話がある」

 

千速の表情が変わる。

 

「ゼロの件か」

 

「はい」

 

「敬語」

 

「……ゼロの件だ」

 

千速は腕を組んだ。

 

「聞く」

 

奏斗は周囲を見た。

 

千速はすぐに察し、車庫の外へ歩き出す。

 

二人は詰所の裏手に出た。

 

そこは人目が少なく、遠くで白バイのエンジン音だけが聞こえる。

 

千速は真正面から奏斗を見る。

 

「で?」

 

奏斗は言った。

 

「断った」

 

千速はしばらく動かなかった。

 

「……本当に?」

 

「ああ」

 

「古谷に?」

 

「はい。いや、ああ」

 

千速は大きく息を吐いた。

 

その表情から、力が抜ける。

 

「そうか」

 

奏斗は頷いた。

 

「ああ」

 

千速は片手で顔を覆った。

 

「よかった……」

 

その声を聞いた瞬間、奏斗の胸が痛んだ。

 

千速が安心している。

 

その安心は、嘘の上にある。

 

奏斗は、自分が何をしているのか、はっきり分かった。

 

千速は顔を上げる。

 

「よかった。本当に」

 

奏斗は何も言えなかった。

 

千速は少し照れたように笑う。

 

「悪い。情けねぇな」

 

「情けなくない」

 

「いや、正直怖かった」

 

千速は目を逸らした。

 

「お前がどっか遠くに行くんじゃねぇかって。私に何も言わずに、勝手に決めるんじゃねぇかって」

 

奏斗は視線を落とした。

 

「千速」

 

「何だ」

 

言うべきだった。

 

今ならまだ戻れる。

 

嘘だった、と。

 

本当は承諾した、と。

 

自分は消えることになる、と。

 

けれど、奏斗の口から出たのは、別の言葉だった。

 

「心配をかけた」

 

千速は少し笑った。

 

「本当だよ」

 

奏斗は静かに続ける。

 

「もう、これ以上は踏み込まない」

 

それは嘘だった。

 

これから最も深い場所へ踏み込む。

 

千速は奏斗を見た。

 

「本当に?」

 

奏斗はまた、嘘を重ねた。

 

「本当に」

 

千速はじっと奏斗を見つめる。

 

その目に、わずかな疑いが残っていた。

 

だが、信じたい気持ちの方が勝ったのだろう。

 

千速は小さく頷いた。

 

「分かった」

 

奏斗は胸の奥で、何かが壊れる音を聞いた気がした。

 

千速は一歩近づき、奏斗の胸に軽く拳を当てた。

 

「約束破んなよ」

 

「……ああ」

 

「黙って消えるなよ」

 

奏斗は答えられなかった。

 

ほんの一瞬だけ。

 

その沈黙を、千速は見逃さなかった。

 

「奏斗?」

 

奏斗はすぐに言った。

 

「消えない」

 

千速は少しだけ眉を寄せたが、やがて力を抜いた。

 

「ならいい」

 

千速はそう言って、奏斗の手を握った。

 

車庫の裏。

 

誰も見ていない場所で。

 

白バイのエンジン音が遠くに聞こえる中で。

 

千速は静かに言った。

 

「よかった。本当に」

 

奏斗はその手を握り返した。

 

強く握りすぎないように。

 

離したくないと思っていることが、伝わりすぎないように。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「今度、飯に行こう」

 

「何だよ急に」

 

「行きたいと思った」

 

千速は少し赤くなって、顔を逸らした。

 

「……いいぞ」

 

「何が食べたい?」

 

「お前のカレー」

 

奏斗は一瞬、言葉を失った。

 

以前の約束。

 

同期会の夜、同棲や結婚の話をした時の、小さな約束。

 

「カレーか」

 

「そうだ。生活力を確認するって言っただろ」

 

「覚えている」

 

「なら作れ」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「分かった」

 

作れるだろうか。

 

その日が来るのか。

 

分からなかった。

 

それでも、奏斗は頷いた。

 

千速はようやくいつもの顔に戻る。

 

「よし。約束な」

 

「約束だ」

 

その言葉は、本当だった。

 

でも、守れるかどうか分からない約束だった。

 

その夜。

 

奏斗は自宅に戻った。

 

部屋は静かだった。

 

テーブルの上には、教習所の資料、事件のメモ、二輪免許の教本が置かれている。

 

そして、千速と同期会で撮った写真。

 

同期たちに囲まれて、少し照れたように並ぶ二人。

 

千速は淡い色のニットにロングスカート。

普段より柔らかい雰囲気なのに、立ち姿はいつものように真っ直ぐだった。

 

奏斗は写真を手に取った。

 

この写真も、いずれ処分しなければならない。

 

生きている痕跡を残さないために。

 

千速とのつながりを、すべて消すために。

 

スマートフォンが震えた。

 

古谷からのメッセージ。

 

一次偽装準備に入ります。来週、詳細確認。

 

奏斗はしばらく画面を見ていた。

 

そして返信する。

 

了解しました。

 

たったそれだけ。

 

その短い文字列で、また一歩、押村奏斗が消えていく。

 

奏斗はスマートフォンを置き、台所へ向かった。

 

冷蔵庫を開ける。

 

中には、玉ねぎ、人参、じゃがいも、肉。

 

千速に作る約束をしたカレーの材料を、自然と頭の中で思い浮かべていた。

 

作り方は分かる。

 

問題は、作る機会が残されているかどうか。

 

奏斗は冷蔵庫を閉じた。

 

「千速」

 

誰もいない部屋で、その名前を呼んだ。

 

呼べるうちに。

 

まだ、呼べるうちに。

 

数日後。

 

捜査一課では、表向きの平穏が戻っていた。

 

奏斗は通常業務に戻り、三森の育成も続けていた。

 

三森は資料を抱えながら言う。

 

「押村警部補、最近少し疲れていませんか?」

 

「そう見えるか」

 

「はい」

 

「問題ありません」

 

三森はじっと見る。

 

「その言い方、問題ある時の言い方です」

 

奏斗は少しだけ目を瞬いた。

 

「そうなのか」

 

「はい。萩原警部補なら、もっとすぐ見抜くと思います」

 

奏斗は返事に詰まった。

 

三森は慌てる。

 

「あ、すみません。余計なことを」

 

「いや」

 

奏斗は資料を閉じた。

 

「見抜かれると思う」

 

三森は少し不思議そうに首を傾げた。

 

「何かあったんですか」

 

「何もない」

 

三森は納得していない顔だった。

 

だが、それ以上は聞かなかった。

 

「押村警部補」

 

「何ですか」

 

「ちゃんと休んでくださいね」

 

奏斗は少しだけ柔らかい表情になった。

 

「ありがとう」

 

三森は驚いたように目を開く。

 

「いえ」

 

横溝が遠くからその様子を見ていた。

 

押村は普段通りだ。

 

普段通りすぎる。

 

それが逆に気になった。

 

横溝は押村を呼んだ。

 

「押村」

 

「はい」

 

「今日、飲みに行くぞ」

 

奏斗は顔を上げる。

 

「今日ですか」

 

「ああ」

 

「仕事が」

 

「命令だ」

 

奏斗は少し考えた後、頷いた。

 

「分かりました」

 

夜。

 

横溝が選んだのは、いつもの居酒屋ではなかった。

 

もっと静かな店だった。

 

二人はカウンターに並んで座った。

 

横溝はビールを置き、単刀直入に言った。

 

「本当にゼロの件、断ったんだな」

 

奏斗は箸を止めた。

 

「はい」

 

横溝は横目で見る。

 

「古谷は簡単に諦める男じゃねぇぞ」

 

「分かっています」

 

「黒瀬の件も残ってる。榊も尾崎も意識不明。狙撃手も捕まってねぇ」

 

「はい」

 

「それでも断った」

 

「はい」

 

横溝はしばらく黙った。

 

そして低く言う。

 

「押村。俺はお前を疑いたくねぇ」

 

奏斗の胸が重くなる。

 

横溝は続けた。

 

「でもな、お前は嘘が下手なようで、必要な時はうまい」

 

奏斗は何も言えなかった。

 

「人を守るためなら、自分が傷つく方を選ぶ。そういう奴だ」

 

「警部」

 

「だから聞く」

 

横溝は奏斗を見る。

 

「お前、何か決めたんじゃねぇだろうな」

 

奏斗は横溝の目を見た。

 

上司としてではなく、長く共に現場に立った人間としての目だった。

 

ここで本当のことを言えば、横溝は止める。

 

きっと千速にも言う。

 

計画は崩れる。

 

黒瀬に気づかれる可能性が高まる。

 

周囲が危険に晒される。

 

奏斗は静かに言った。

 

「決めていません」

 

嘘だった。

 

横溝は目を細める。

 

「そうか」

 

「はい」

 

横溝はビールを飲んだ。

 

「なら、これだけ覚えとけ」

 

「はい」

 

「一人で消えようとしたら、俺は地獄まで引きずり戻す」

 

奏斗は息を止めた。

 

横溝は前を向いたまま言う。

 

「千速も同じだ」

 

「……はい」

 

「返事だけはいいんだよな、お前」

 

横溝は苦く笑った。

 

奏斗はそれ以上、何も言えなかった。

 

店を出た帰り道。

 

奏斗は一人で駅へ向かった。

 

夜風が冷たい。

 

スマートフォンに千速からメッセージが届く。

 

重悟と飲んでるって聞いた。ちゃんと帰れよ。

 

奏斗は短く返信した。

 

今帰る。

 

すぐに返事が来る。

 

今度は私と飯な。カレー忘れんな。

 

奏斗は画面を見つめた。

 

そして、返信する。

 

忘れない。

 

それだけは本当だった。

 

忘れない。

 

たとえ押村奏斗が死ぬ日が来ても。

 

たとえ二度と千速の前に立てなくなっても。

 

この約束も、声も、手の温度も。

 

忘れない。

 

忘れられるはずがない。

 

その夜、奏斗は駅のホームで立ち止まり、線路の向こうを見た。

 

数か月後。

 

自分は電車の中で紙袋を見つける。

 

スマートフォンが鳴る。

 

廃ビルへ向かう。

 

爆発する。

 

そして、押村奏斗は死ぬ。

 

その筋書きは、もう動き始めている。

 

周囲には断ったことにした。

 

千速は安心した。

 

横溝は半分疑いながらも、信じようとしてくれた。

 

そのすべてを裏切って。

 

奏斗はゼロへ行く。

 

電車がホームに入ってきた。

 

奏斗は乗り込む前に、スマートフォンを握りしめた。

 

千速に電話をしたいと思った。

 

声を聞きたいと思った。

 

だが、やめた。

 

今、声を聞けば、決意が揺らぐ気がした。

 

扉が閉まる。

 

電車が動き出す。

 

窓に映る自分の顔を、奏斗はじっと見た。

 

押村奏斗。

 

神奈川県警捜査一課警部補。

 

千速の恋人。

 

横溝の部下。

 

三森の育成担当。

 

その全部を、少しずつ殺していく。

 

まだ生きているのに。

 

もう死ぬ準備は始まっていた。

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