神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第58話 死んだ刑事の任務

押村奏斗が死んだことになってから、三週間が過ぎていた。

 

神奈川県警捜査一課警部補、押村奏斗。

通勤中の電車内で爆発物を発見し、乗客を避難させた後、犯人に誘導され、廃ビルの爆発に巻き込まれて殉職。

 

世間では、そう記録された。

 

捜査一課では、今も彼の机が片付けられないままだった。

 

横溝重悟は何度も片付けようとして、そのたびにやめた。

 

三森沙月は、押村から教わった資料整理の方法を今も守っていた。

 

第三交通機動隊では、萩原千速が以前と変わらず白バイに乗っていた。

 

変わらず指示を出し、変わらず部下を叱り、変わらず先頭に立つ。

 

けれど、誰もが分かっていた。

 

千速の中で、何かが欠けたままだと。

 

そしてその頃。

 

押村奏斗は、別の名前で生きていた。

 

警察庁警備局。

 

通称、ゼロ。

 

窓のない部屋。

身分を示さない書類。

表に出ない指揮系統。

記録に残らない任務。

 

そこで奏斗は、もう押村奏斗とは呼ばれていなかった。

 

与えられた偽名は、葛城怜司。

 

だが、古谷だけは二人きりの時に言った。

 

「押村さん」

 

奏斗は振り返らなかった。

 

「その名前は、もう使わないはずです」

 

古谷は静かに答える。

 

「ここでは、名前は道具です。必要なら使います」

 

「必要ありません」

 

「そうですか」

 

古谷はそれ以上、何も言わなかった。

 

机の上には、黒瀬隆臣の資料が並んでいた。

 

警察庁警備局警備企画課。

室長補佐。

十年前の桐生誠事故処理に関与。

榊慎吾、尾崎彰銃撃事件との関係が疑われる。

国外組織との情報取引疑惑あり。

 

ただし、証拠はない。

 

あるのは断片だけだった。

 

尾崎が残した鍵。

地下保管庫から出てきた本物の資料。

榊の証言未満の言葉。

 

ゼロの中にも、いる。

 

そして、その先に浮かび上がった黒瀬の名前。

 

古谷は言った。

 

「黒瀬は警備局の内部手順を知り尽くしています。正面から調査すれば、証拠は消える」

 

奏斗は資料を見つめた。

 

「だから、俺を死んだことにした」

 

「はい。黒瀬は、押村奏斗が爆発で死んだと信じています」

 

「千速たちも」

 

古谷は答えなかった。

 

奏斗は顔を上げる。

 

「任務は」

 

古谷は一枚の写真を置いた。

 

写っていたのは、港湾部の倉庫だった。

 

「黒瀬が、今夜ある人物と接触します」

 

「相手は」

 

「国外組織の仲介役。十年前、桐生誠さんが運ばされていた情報の受け取り側と繋がる人物です」

 

奏斗は写真を手に取る。

 

「そこで黒瀬を押さえる?」

 

「いいえ」

 

古谷は首を横に振った。

 

「まだ早い。あなたには、接触記録を取ってもらいます。黒瀬が情報を外部へ流している決定的証拠が必要です」

 

「現場には俺一人ですか」

 

「支援は付けます。ただし、黒瀬に近い人間が警備局内部に他にもいる可能性がある。大人数は動かせません」

 

奏斗は頷いた。

 

「了解しました」

 

古谷は奏斗を見た。

 

「神奈川の港湾部です」

 

奏斗の手が止まる。

 

「……そうですか」

 

「第三交通機動隊の管轄付近にも近い」

 

古谷の言葉の意味は明らかだった。

 

千速と接触する可能性。

 

奏斗は静かに言った。

 

「接触しません」

 

「できれば、です」

 

「絶対にしません」

 

古谷はわずかに目を細めた。

 

「その強さは危うい」

 

奏斗は資料を閉じた。

 

「任務に支障は出しません」

 

そう言った声は、確かに冷静だった。

 

だが古谷は、奏斗の指先が一瞬だけ強く資料を握ったことを見逃さなかった。

 

その夜。

 

神奈川の港湾部は、冷たい風が吹いていた。

 

黒いスーツに身を包み、帽子を目深に被った奏斗は、倉庫の屋上から下を見ていた。

 

以前、榊を追った場所に近い。

 

あの夜、千速の白バイが黒いバイクを追った。

 

銃声が響いた。

 

自分の肩を弾がかすめた。

 

その記憶が、夜風に紛れて蘇る。

 

奏斗は息を整えた。

 

今は過去を思い出す時間ではない。

 

無線のイヤホンから、古谷の声が聞こえる。

 

『黒瀬が到着しました』

 

奏斗はカメラを構えた。

 

黒いセダンが倉庫前に停まる。

 

降りてきたのは黒瀬隆臣。

 

五十代前半。

整ったスーツ。

白髪交じりの髪。

無駄のない歩き方。

 

表情は穏やかだが、周囲を見る目が鋭い。

 

間違いなく、警戒している。

 

しばらくして、もう一台の車が現れた。

 

降りてきたのは、外国人風の男。

 

黒瀬と男は短く会話を交わした。

 

奏斗は望遠で映像を記録する。

 

男が小型のケースを渡す。

黒瀬は封筒を渡す。

その封筒の中身は見えない。

 

古谷の声。

 

『音声は拾えますか』

 

奏斗は答える。

 

「風が強い。断片だけです」

 

『無理はしないでください』

 

「了解」

 

その時だった。

 

遠くで白バイのサイレンが聞こえた。

 

奏斗の身体がわずかに固まる。

 

港湾道路の方から、交通取締中と思われる白バイが一台通過する。

 

白い車体。

 

その走り方を、奏斗は知っていた。

 

見間違えるはずがない。

 

萩原千速だった。

 

胸の奥が、一気に冷える。

 

千速は黒瀬たちに気づいていない。

ただの巡回か、交通違反車両への対応だろう。

 

だが、黒瀬の視線がサイレンの方へ動いた。

 

まずい。

 

黒瀬は警戒心が強い。

 

白バイの存在を不審に思えば、接触を中断する。

 

あるいは、千速を邪魔者として排除する可能性もある。

 

奏斗は静かに位置を変えた。

 

古谷の声が耳に入る。

 

『押村さん、動かないでください』

 

「第三交機の白バイが接近しています」

 

『萩原警部補ですか』

 

「おそらく」

 

『接触は禁止です』

 

「分かっています」

 

奏斗は倉庫の屋上から、隣の非常階段へ移った。

 

目的は千速に近づくことではない。

 

黒瀬の視線を逸らすこと。

 

奏斗は小型の発信装置を起動し、別方向で短い電子ノイズを発生させた。

 

黒瀬の護衛らしき男が反応する。

 

「向こうだ」

 

黒瀬たちの注意が白バイから外れる。

 

その隙に、千速の白バイは港湾道路を抜けていった。

 

奏斗は無意識に息を吐いた。

 

その一瞬。

 

千速が振り返った。

 

遠く離れている。

 

暗い。

 

こちらの顔など見えるはずがない。

 

それでも、奏斗は反射的に身を引いた。

 

千速の視線が倉庫の屋上をかすめる。

 

ほんの一秒。

 

それだけだった。

 

白バイはそのまま遠ざかった。

 

古谷の声が低くなる。

 

『危険でした』

 

奏斗は答えない。

 

ただ、拳を握った。

 

近くにいる。

 

生きている。

 

名前を呼べば、届く距離に。

 

それでも、呼べない。

 

奏斗はカメラを構え直した。

 

黒瀬と仲介役の接触は終わり、二台の車が別方向へ走り去る。

 

映像は取れた。

 

証拠としては不十分。

 

だが、第一歩にはなる。

 

任務は成功。

 

けれど、奏斗の中には別の痛みだけが残った。

 

同じ夜。

 

千速は白バイを止め、港湾部の倉庫を振り返っていた。

 

新井から無線が入る。

 

『小隊長、どうしました?』

 

「いや」

 

『何かありましたか』

 

千速は少し黙った。

 

屋上に、人影があった気がした。

 

一瞬だけ。

 

見えたのは横顔とも言えない、黒い影。

 

でも。

 

胸がざわついた。

 

「……何でもない」

 

そう答えながら、千速は無意識にハンドルを握りしめた。

 

その影を見た瞬間、心臓が強く跳ねた。

 

そんなはずはない。

 

奏斗は死んだ。

 

爆発で死んだ。

 

皆がそう言った。

 

葬儀もした。

 

遺影にも花を置いた。

 

それなのに。

 

千速は低く呟いた。

 

「何でだよ……」

 

白バイのエンジン音だけが、夜の港に響いていた。

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