押村奏斗が死んだことになってから、三週間が過ぎていた。
神奈川県警捜査一課警部補、押村奏斗。
通勤中の電車内で爆発物を発見し、乗客を避難させた後、犯人に誘導され、廃ビルの爆発に巻き込まれて殉職。
世間では、そう記録された。
捜査一課では、今も彼の机が片付けられないままだった。
横溝重悟は何度も片付けようとして、そのたびにやめた。
三森沙月は、押村から教わった資料整理の方法を今も守っていた。
第三交通機動隊では、萩原千速が以前と変わらず白バイに乗っていた。
変わらず指示を出し、変わらず部下を叱り、変わらず先頭に立つ。
けれど、誰もが分かっていた。
千速の中で、何かが欠けたままだと。
そしてその頃。
押村奏斗は、別の名前で生きていた。
警察庁警備局。
通称、ゼロ。
窓のない部屋。
身分を示さない書類。
表に出ない指揮系統。
記録に残らない任務。
そこで奏斗は、もう押村奏斗とは呼ばれていなかった。
与えられた偽名は、葛城怜司。
だが、古谷だけは二人きりの時に言った。
「押村さん」
奏斗は振り返らなかった。
「その名前は、もう使わないはずです」
古谷は静かに答える。
「ここでは、名前は道具です。必要なら使います」
「必要ありません」
「そうですか」
古谷はそれ以上、何も言わなかった。
机の上には、黒瀬隆臣の資料が並んでいた。
警察庁警備局警備企画課。
室長補佐。
十年前の桐生誠事故処理に関与。
榊慎吾、尾崎彰銃撃事件との関係が疑われる。
国外組織との情報取引疑惑あり。
ただし、証拠はない。
あるのは断片だけだった。
尾崎が残した鍵。
地下保管庫から出てきた本物の資料。
榊の証言未満の言葉。
ゼロの中にも、いる。
そして、その先に浮かび上がった黒瀬の名前。
古谷は言った。
「黒瀬は警備局の内部手順を知り尽くしています。正面から調査すれば、証拠は消える」
奏斗は資料を見つめた。
「だから、俺を死んだことにした」
「はい。黒瀬は、押村奏斗が爆発で死んだと信じています」
「千速たちも」
古谷は答えなかった。
奏斗は顔を上げる。
「任務は」
古谷は一枚の写真を置いた。
写っていたのは、港湾部の倉庫だった。
「黒瀬が、今夜ある人物と接触します」
「相手は」
「国外組織の仲介役。十年前、桐生誠さんが運ばされていた情報の受け取り側と繋がる人物です」
奏斗は写真を手に取る。
「そこで黒瀬を押さえる?」
「いいえ」
古谷は首を横に振った。
「まだ早い。あなたには、接触記録を取ってもらいます。黒瀬が情報を外部へ流している決定的証拠が必要です」
「現場には俺一人ですか」
「支援は付けます。ただし、黒瀬に近い人間が警備局内部に他にもいる可能性がある。大人数は動かせません」
奏斗は頷いた。
「了解しました」
古谷は奏斗を見た。
「神奈川の港湾部です」
奏斗の手が止まる。
「……そうですか」
「第三交通機動隊の管轄付近にも近い」
古谷の言葉の意味は明らかだった。
千速と接触する可能性。
奏斗は静かに言った。
「接触しません」
「できれば、です」
「絶対にしません」
古谷はわずかに目を細めた。
「その強さは危うい」
奏斗は資料を閉じた。
「任務に支障は出しません」
そう言った声は、確かに冷静だった。
だが古谷は、奏斗の指先が一瞬だけ強く資料を握ったことを見逃さなかった。
その夜。
神奈川の港湾部は、冷たい風が吹いていた。
黒いスーツに身を包み、帽子を目深に被った奏斗は、倉庫の屋上から下を見ていた。
以前、榊を追った場所に近い。
あの夜、千速の白バイが黒いバイクを追った。
銃声が響いた。
自分の肩を弾がかすめた。
その記憶が、夜風に紛れて蘇る。
奏斗は息を整えた。
今は過去を思い出す時間ではない。
無線のイヤホンから、古谷の声が聞こえる。
『黒瀬が到着しました』
奏斗はカメラを構えた。
黒いセダンが倉庫前に停まる。
降りてきたのは黒瀬隆臣。
五十代前半。
整ったスーツ。
白髪交じりの髪。
無駄のない歩き方。
表情は穏やかだが、周囲を見る目が鋭い。
間違いなく、警戒している。
しばらくして、もう一台の車が現れた。
降りてきたのは、外国人風の男。
黒瀬と男は短く会話を交わした。
奏斗は望遠で映像を記録する。
男が小型のケースを渡す。
黒瀬は封筒を渡す。
その封筒の中身は見えない。
古谷の声。
『音声は拾えますか』
奏斗は答える。
「風が強い。断片だけです」
『無理はしないでください』
「了解」
その時だった。
遠くで白バイのサイレンが聞こえた。
奏斗の身体がわずかに固まる。
港湾道路の方から、交通取締中と思われる白バイが一台通過する。
白い車体。
その走り方を、奏斗は知っていた。
見間違えるはずがない。
萩原千速だった。
胸の奥が、一気に冷える。
千速は黒瀬たちに気づいていない。
ただの巡回か、交通違反車両への対応だろう。
だが、黒瀬の視線がサイレンの方へ動いた。
まずい。
黒瀬は警戒心が強い。
白バイの存在を不審に思えば、接触を中断する。
あるいは、千速を邪魔者として排除する可能性もある。
奏斗は静かに位置を変えた。
古谷の声が耳に入る。
『押村さん、動かないでください』
「第三交機の白バイが接近しています」
『萩原警部補ですか』
「おそらく」
『接触は禁止です』
「分かっています」
奏斗は倉庫の屋上から、隣の非常階段へ移った。
目的は千速に近づくことではない。
黒瀬の視線を逸らすこと。
奏斗は小型の発信装置を起動し、別方向で短い電子ノイズを発生させた。
黒瀬の護衛らしき男が反応する。
「向こうだ」
黒瀬たちの注意が白バイから外れる。
その隙に、千速の白バイは港湾道路を抜けていった。
奏斗は無意識に息を吐いた。
その一瞬。
千速が振り返った。
遠く離れている。
暗い。
こちらの顔など見えるはずがない。
それでも、奏斗は反射的に身を引いた。
千速の視線が倉庫の屋上をかすめる。
ほんの一秒。
それだけだった。
白バイはそのまま遠ざかった。
古谷の声が低くなる。
『危険でした』
奏斗は答えない。
ただ、拳を握った。
近くにいる。
生きている。
名前を呼べば、届く距離に。
それでも、呼べない。
奏斗はカメラを構え直した。
黒瀬と仲介役の接触は終わり、二台の車が別方向へ走り去る。
映像は取れた。
証拠としては不十分。
だが、第一歩にはなる。
任務は成功。
けれど、奏斗の中には別の痛みだけが残った。
同じ夜。
千速は白バイを止め、港湾部の倉庫を振り返っていた。
新井から無線が入る。
『小隊長、どうしました?』
「いや」
『何かありましたか』
千速は少し黙った。
屋上に、人影があった気がした。
一瞬だけ。
見えたのは横顔とも言えない、黒い影。
でも。
胸がざわついた。
「……何でもない」
そう答えながら、千速は無意識にハンドルを握りしめた。
その影を見た瞬間、心臓が強く跳ねた。
そんなはずはない。
奏斗は死んだ。
爆発で死んだ。
皆がそう言った。
葬儀もした。
遺影にも花を置いた。
それなのに。
千速は低く呟いた。
「何でだよ……」
白バイのエンジン音だけが、夜の港に響いていた。