神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第59話 黒瀬の網

黒瀬隆臣は、想像以上に用心深かった。

 

港湾部での接触映像は取れた。

 

だが、封筒の中身は不明。

会話の音声も断片的。

仲介役の身元も偽装されていた。

 

警備局内部で正式に動かすには弱い。

 

黒瀬を追い詰めるには、もう一つ必要だった。

 

内部から流出した情報そのもの。

 

つまり、黒瀬が何を売っているのか。

 

古谷は資料を置いた。

 

「黒瀬が次に動くとすれば、このデータです」

 

奏斗は画面を見る。

 

「警備対象者の移動計画」

 

「はい。政府関係者の極秘移動ルート。これが外部へ流れれば、襲撃計画に使われる可能性があります」

 

「黒瀬はそれを売る?」

 

「おそらく」

 

「囮の情報ですか」

 

古谷は頷いた。

 

「本物に近い偽情報を流します。黒瀬がそれを外部へ持ち出せば、経路を追える」

 

奏斗は画面を見つめる。

 

「内部に黒瀬の協力者がいる可能性は」

 

「高いです」

 

「なら、偽情報だと見抜かれる可能性もあります」

 

「そのため、情報は複数経路に分けます。黒瀬だけが触れた情報に特殊な識別子を入れる」

 

奏斗は少し考えた。

 

「黒瀬が自分で持ち出すとは限らない」

 

「はい。だから、彼の周辺人物も追います」

 

古谷は別の写真を出した。

 

若い男だった。

 

「警備局職員、相沢拓真。黒瀬の部下です」

 

「黒瀬の協力者?」

 

「まだ分かりません。ただ、黒瀬と頻繁に接触しています」

 

奏斗は写真を見た。

 

相沢拓真。

 

三十歳前後。

真面目そうな顔立ち。

だが、目に疲れがある。

 

「彼を追えばいいんですね」

 

「はい。ただし、相沢が黒瀬に利用されているだけの可能性もある」

 

奏斗は頷いた。

 

「確認します」

 

古谷は少しだけ沈黙した。

 

「押村さん」

 

奏斗は顔を上げる。

 

「神奈川に近づく任務が続いています。精神的負荷が大きいなら、担当を外します」

 

奏斗は即答した。

 

「不要です」

 

「萩原警部補は、港湾部であなたの存在に気づきかけたかもしれません」

 

奏斗の目が一瞬だけ動く。

 

「顔は見られていません」

 

「顔ではなく、気配です」

 

奏斗は黙った。

 

古谷は続ける。

 

「近しい人間ほど、理屈では説明できない違和感を拾います」

 

「なら、次は痕跡を残しません」

 

「そうしてください」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

だが、胸の奥では別の声がしていた。

 

痕跡を残すな。

 

それが任務。

 

それが生き延びるための条件。

 

それなのに。

 

千速に気づいてほしいと、一瞬だけ思った。

 

そんな自分を、奏斗はすぐに押し殺した。

 

数日後。

 

黒瀬の部下である相沢拓真が動いた。

 

場所は横浜市内のビジネスホテル。

 

相沢は警備局の端末から抜き出したデータを、外部端末に移す予定だった。

 

奏斗はホテルの向かいのビルから監視していた。

 

偽名の身分証。

変えた髪型。

眼鏡。

以前より少し低く作った声。

 

押村奏斗の痕跡はない。

 

相沢は午後七時過ぎにホテルへ入った。

 

その十分後、黒瀬から相沢へ電話が入る。

 

盗聴で拾えたのは、相沢の声だけだった。

 

『分かっています』

 

『でも、これ以上は……』

 

『尾崎さんみたいにはなりたくありません』

 

奏斗の目が鋭くなる。

 

相沢は黒瀬に従っている。

 

だが、怯えている。

 

自発的な協力者ではなく、脅されている可能性が高い。

 

古谷の声が入る。

 

『接触しますか』

 

奏斗は答えた。

 

「相沢がデータを渡す相手を確認してからです」

 

『了解』

 

相沢はホテルの部屋を出た。

 

手には小さな封筒。

 

中身は記録媒体だろう。

 

奏斗は距離を取りながら追尾した。

 

相沢はホテル裏口から出て、細い路地へ入る。

 

その先には、黒い車が待っていた。

 

後部座席の窓が開く。

 

相沢が封筒を差し出そうとした瞬間。

 

奏斗は異変に気づいた。

 

黒い車の運転席。

 

男の手が拳銃へ伸びている。

 

受け取るつもりではない。

 

相沢を消すつもりだ。

 

奏斗は即座に動いた。

 

路地へ飛び込み、相沢の腕を掴む。

 

「伏せろ!」

 

銃声。

 

弾丸が壁を削った。

 

相沢が悲鳴を上げる。

 

黒い車は急発進する。

 

奏斗は車のナンバーを確認しながら、相沢を路地の陰へ押し込んだ。

 

「怪我は」

 

相沢は震えながら奏斗を見る。

 

「あなたは……誰ですか」

 

奏斗は低く答える。

 

「警察だ」

 

「警察って……」

 

「黒瀬に脅されているのか」

 

相沢の顔色が変わった。

 

「何でその名前を」

 

「答えろ」

 

相沢は唇を震わせた。

 

「家族を……」

 

「家族?」

 

「妹がいるんです。黒瀬さんは、俺が従わなければ妹の情報を外へ出すって……それだけじゃない。事故に見せかけることもできるって」

 

奏斗の胸が冷えた。

 

事故に見せかける。

 

十年前も。

桐生事件も。

そして今も。

 

黒瀬は同じ手口で人を縛る。

 

「相沢さん。持っているデータを渡してください」

 

相沢は封筒を握りしめる。

 

「渡したら妹は」

 

「守ります」

 

「本当に?」

 

奏斗は一瞬、言葉に詰まりかけた。

 

守る。

 

その言葉を軽く使いたくなかった。

 

千速に嘘をついた自分が、誰かを守ると言う資格があるのか。

 

それでも、言うしかなかった。

 

「必ず守ります」

 

相沢は封筒を差し出した。

 

その時、遠くからサイレンが聞こえた。

 

奏斗は反射的に顔を上げる。

 

県警のパトカー。

 

現場近くで発砲通報が入ったのだろう。

 

まずい。

 

このままでは、県警と接触する。

 

奏斗は相沢に言った。

 

「この場から動かないでください。すぐに保護が入ります」

 

「あなたは?」

 

「行きます」

 

「名前は」

 

奏斗は答えなかった。

 

路地を抜けようとした時、背後から声がした。

 

「止まれ!」

 

奏斗は足を止めかけた。

 

聞き覚えのある声ではなかった。

 

だが、その直後に別の声が響いた。

 

「待て! そいつを見た!」

 

千速だった。

 

奏斗の身体が固まった。

 

振り返ってはいけない。

 

奏斗は走った。

 

路地を抜け、非常階段を上り、隣のビルへ渡る。

 

後ろから足音。

 

千速ではない。

 

だが、白バイのエンジン音が近づいてくる。

 

奏斗はビルの裏手へ降りた。

 

そこには古谷が手配した車が待っている。

 

乗り込む寸前、奏斗は一度だけ振り返ってしまった。

 

路地の向こう。

 

白バイから降りた千速が、こちらを見ていた。

 

距離はある。

 

暗い。

 

だが、目が合った気がした。

 

千速が一歩踏み出す。

 

「……奏斗?」

 

その声は小さかった。

 

届くはずがない距離だった。

 

それでも、奏斗には聞こえた気がした。

 

彼は車に乗り込んだ。

 

扉が閉まる。

 

車が走り出す。

 

千速の姿が遠ざかっていく。

 

古谷は運転席で何も言わなかった。

 

奏斗は拳を握りしめる。

 

相沢のデータは手に入れた。

 

黒瀬に近づいた。

 

任務は進んでいる。

 

だがその代償に、千速の中に小さな疑いを残した。

 

それは、残してはいけない痕跡だった。

 

その夜。

 

千速は捜査一課へ乗り込んだ。

 

横溝重悟が顔を上げる。

 

「千速?」

 

「重悟」

 

その顔を見て、横溝はただ事ではないと悟った。

 

「何があった」

 

千速は低く言った。

 

「今日、発砲事件の現場で男を見た」

 

「男?」

 

「あいつに似てた」

 

横溝の表情が止まる。

 

「……誰に」

 

千速は言った。

 

「奏斗に」

 

刑事部屋の空気が凍った。

 

三森が手にしていた資料を落とした。

 

横溝はゆっくり立ち上がる。

 

「千速」

 

「分かってる。死んだ。そんなはずない。見間違いかもしれない」

 

「なら」

 

「でも、あの走り方」

 

千速の声が震える。

 

「姿勢も、振り返る癖も、逃げる時の無駄のなさも……似すぎてた」

 

横溝は黙った。

 

千速は一歩近づく。

 

「重悟。奏斗の死に、お前は本当に納得してるのか」

 

横溝の拳が強く握られる。

 

納得などしていない。

 

爆発現場に残された痕跡。

遺体が完全には確認できなかったこと。

不自然なほど整いすぎた状況。

そして何より、押村奏斗という男が、あんな終わり方をすることへの違和感。

 

だが、それを認めれば、千速をさらに苦しめる。

 

横溝は低く言った。

 

「証拠がない」

 

千速は即座に返す。

 

「探す」

 

「千速」

 

「私は、もう一度だけ確かめる」

 

千速の目は、泣いていなかった。

 

だが、確かに燃えていた。

 

死を受け入れた女の目ではない。

 

生きているかもしれない痕跡を見つけた女の目だった。

 

横溝は深く息を吐いた。

 

「……分かった」

 

千速が顔を上げる。

 

横溝は低く言った。

 

「俺も納得してねぇ」

 

その一言で、千速の表情がわずかに揺れた。

 

「重悟」

 

「ただし、暴走するな。相手がゼロなら、下手に動けば潰される」

 

「分かってる」

 

「本当か」

 

「本当だ」

 

横溝はしばらく千速を見て、頷いた。

 

「なら、押村が死んだ日の資料から洗い直す」

 

三森が震える声で言った。

 

「私も、手伝います」

 

横溝は厳しく言う。

 

「これは危ない」

 

三森は唇を噛んだ。

 

「押村警部補に、資料は時間軸に置けと教わりました」

 

横溝が黙る。

 

三森は続けた。

 

「あの日の動き、もう一度時間軸で整理します」

 

千速は三森を見る。

 

そして小さく頷いた。

 

「頼む」

 

その夜。

 

神奈川県警側でも、静かに何かが動き始めた。

 

押村奏斗が死んだという事実。

 

その下に隠された、ほんの小さな違和感を追って。

 

ゼロ編・第3話「黒瀬隆臣」

 

相沢拓真が持ち出した記録媒体には、決定的な証拠が残っていた。

 

黒瀬隆臣が、警備対象者の移動計画を外部に流すための暗号化済みデータ。

 

さらに、十年前の桐生誠事故に関する内部メモ。

 

そこには、黒瀬が当時、事故車両への細工の可能性を認識していたことが記されていた。

 

つまり黒瀬は、事故を隠しただけではない。

 

榊慎吾が桐生誠を消した可能性を知りながら、その情報を封じた。

 

理由は、当時の内偵対象を逃がさないため。

 

そして、その裏で黒瀬自身が国外組織と情報取引を始めていた可能性があった。

 

古谷は資料を見ながら言った。

 

「これで黒瀬を内部調査にかけられます」

 

奏斗は首を横に振る。

 

「足りません」

 

「足りない?」

 

「黒瀬は相沢に罪を被せる。データも相沢が単独で持ち出したと言い張れる」

 

古谷は少し黙った。

 

奏斗は続けた。

 

「黒瀬本人が外部と取引する現場が必要です」

 

「危険です」

 

「分かっています」

 

「黒瀬も、相沢が失敗したことで警戒している」

 

「だから次が最後です」

 

古谷は奏斗を見た。

 

「何をするつもりですか」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「黒瀬に、俺が生きていると知らせます」

 

古谷の表情が初めて大きく変わった。

 

「それは危険すぎます」

 

「黒瀬は、押村奏斗が死んだと信じている。だから油断している。ですが、生きている可能性を知れば、必ず確認しようとする」

 

「あなたを殺しに来る」

 

「はい」

 

「囮になるつもりですか」

 

奏斗は頷いた。

 

古谷は低く言った。

 

「萩原警部補に似たことを言われませんでしたか」

 

奏斗の目がわずかに揺れる。

 

「一人で突っ込むな、と」

 

「その通りです」

 

「今回は一人ではありません。あなたもいる」

 

「私は止めています」

 

「止めても無駄です」

 

古谷は深く息を吐いた。

 

「あなたは、ゼロに向いていない」

 

奏斗は少しだけ眉を動かす。

 

古谷は続けた。

 

「情を切れない。過去を捨てきれない。人を守るために、自分を餌にする」

 

「それは刑事でも同じです」

 

「だから危険なんです」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「黒瀬を止めるために、俺はここに来ました」

 

その声には迷いがなかった。

 

古谷はしばらく黙り、やがて言った。

 

「分かりました。ただし、作戦は私が組みます」

 

「お願いします」

 

「そして、これ以上、神奈川県警側に痕跡を残さないでください」

 

奏斗は答えなかった。

 

古谷は低く言う。

 

「押村さん」

 

「……分かっています」

 

だが、もう遅かった。

 

千速は気づき始めている。

 

横溝も、三森も。

 

死んだはずの押村奏斗の影を、追い始めている。

 

作戦は二日後に決行された。

 

場所は、横浜の旧貿易ビル。

 

現在は一部だけが使われ、夜はほとんど無人になる。

 

黒瀬には、匿名の経路で情報を流した。

 

押村奏斗は生きている。

証拠を持っている。

旧貿易ビルで待つ。

 

黒瀬が動くかどうか。

 

それが勝負だった。

 

夜十一時。

 

奏斗はビルの十二階にいた。

 

部屋には監視カメラと録音装置が仕込まれている。

 

別室には古谷たちが控えている。

 

外部には少数の信頼できる警備局員のみ。

 

黒瀬が内部協力者を使ってくる可能性も考え、情報は極限まで絞られた。

 

やがて、エレベーターが動いた。

 

十二階で止まる。

 

扉が開く。

 

黒瀬隆臣が現れた。

 

一人だった。

 

だが、奏斗は知っている。

 

本当に一人で来る男ではない。

 

黒瀬は部屋に入り、奏斗を見て薄く笑った。

 

「本当に生きていたか」

 

奏斗は黒いスーツ姿で立っていた。

 

顔は隠していない。

 

黒瀬は言う。

 

「押村奏斗。いや、今は別の名か?」

 

奏斗は答えない。

 

黒瀬は部屋の中央まで進む。

 

「見事な死亡偽装だった。警備局も随分と思い切ったものだ」

 

「あなたを追うためです」

 

黒瀬は笑った。

 

「私を?」

 

「十年前、桐生誠さんの事故を隠蔽した。榊を利用し、尾崎を撃たせ、相沢を殺そうとした」

 

黒瀬は穏やかな顔のまま言った。

 

「証拠は?」

 

奏斗は小型端末を取り出した。

 

「あります」

 

黒瀬の目がわずかに動く。

 

「それを渡せば、君は生き延びられる」

 

「必要ありません」

 

「萩原千速も守れる」

 

奏斗の表情が一瞬だけ変わった。

 

黒瀬はそこを逃さなかった。

 

「やはり、そこか」

 

奏斗は低く言う。

 

「彼女の名前を出すな」

 

黒瀬は笑う。

 

「君の弱点は分かりやすい。死んだことにしてまで守りたかった女だ。だが、彼女はもう気づき始めている」

 

奏斗の目が鋭くなる。

 

「何をした」

 

「何も。まだ、な」

 

黒瀬は一歩近づく。

 

「押村君。君は勘違いしている。自分が消えれば周囲を守れると思ったのだろう。だが、消えたことで、彼女は余計に動く」

 

奏斗は黙った。

 

その通りだった。

 

千速は止まらない。

 

死に納得できなければ、必ず探す。

 

黒瀬は続ける。

 

「人は真実を欲しがる。真実など、知らない方が幸せなこともあるのに」

 

「それを決める権利はあなたにはない」

 

「警察はいつもそれを決めている」

 

黒瀬の声が冷たくなる。

 

「十年前もそうだった。桐生誠の死より、国家の安全を優先した。榊の裏切りより、作戦の継続を優先した。私はその判断をしただけだ」

 

奏斗は静かに問う。

 

「その後、情報を売ったのも判断ですか」

 

黒瀬の笑みが消えた。

 

奏斗は続ける。

 

「国家の安全という言葉を使い、自分の犯罪を隠した」

 

黒瀬の目が冷たくなる。

 

「若いな」

 

「尾崎にも似たことを言われました」

 

「尾崎は甘かった。罪悪感など抱くから撃たれる」

 

奏斗の耳に、録音装置の作動音が聞こえている気がした。

 

黒瀬は自分で語っている。

 

だが、まだ足りない。

 

奏斗はさらに踏み込む。

 

「榊を撃たせたのは、あなたですね」

 

黒瀬は沈黙した。

 

「尾崎を撃ったのも」

 

黒瀬は静かに言った。

 

「証明できるかな」

 

その瞬間、窓の外で微かな光が走った。

 

奏斗は反射的に身を沈めた。

 

銃声。

 

ガラスが砕ける。

 

黒瀬は笑った。

 

「証明する前に、君が死ぬ」

 

奏斗は机を倒して身を隠した。

 

別室で古谷たちが動く音がする。

 

だが、黒瀬は最初から建物外に狙撃手を配置していた。

 

奏斗は無線に短く告げる。

 

「狙撃手は向かいのビル屋上」

 

古谷の声。

 

『確認しています。動かないでください』

 

黒瀬はその混乱の中で部屋を出ようとする。

 

奏斗は飛び出し、黒瀬の腕を掴んだ。

 

「逃がさない」

 

黒瀬は低く笑った。

 

「君に撃てるか?」

 

奏斗は黒瀬を床へ押さえつける。

 

「撃つ必要はありません」

 

黒瀬が何かを言おうとした瞬間、部屋の扉が開いた。

 

古谷が銃を構えて入ってくる。

 

「黒瀬隆臣。国家公務員法違反、機密漏洩、および殺人教唆の容疑で身柄を拘束します」

 

黒瀬は床に押さえられたまま、静かに笑った。

 

「古谷。君もこちら側だと思っていたが」

 

古谷は冷たい声で言った。

 

「私は、あなたほど器用ではありません」

 

黒瀬は奏斗を見る。

 

「押村君。君はもう戻れない」

 

奏斗は何も答えなかった。

 

「死者は、生者の前に戻れない。覚えておくといい」

 

黒瀬はその言葉を残し、連行された。

 

向かいのビルにいた狙撃手も、古谷の部下によって確保された。

 

押収された通信機器には、黒瀬との連絡記録が残っていた。

 

港湾部の映像。

相沢の証言。

旧貿易ビルでの録音。

狙撃手の確保。

 

すべてが揃った。

 

黒瀬事件は、表に出ない形で終わった。

 

けれど、奏斗の中には勝利の感覚などなかった。

 

黒瀬の最後の言葉だけが残った。

 

死者は、生者の前に戻れない。

 

同じ頃。

 

神奈川県警では、千速たちが押村の死亡偽装に関する資料を洗い直していた。

 

三森が時系列表を作った。

 

横溝が爆発現場の記録を再確認した。

 

千速は、奏斗が最後に通ったとされる廃ビル周辺の監視カメラを何度も見た。

 

その中に、妙な空白があった。

 

防犯カメラの一つが、爆発の二分前だけ映像を失っている。

 

横溝は低く言った。

 

「偶然にしちゃ出来すぎだな」

 

三森が震える声で言う。

 

「押村警部補が……本当に生きているなら」

 

千速は画面を見つめたまま言った。

 

「なら、何で帰ってこない」

 

誰も答えられなかった。

 

千速は拳を握った。

 

「奏斗……お前、何をしてる」

 

その問いは、誰にも届かなかった。

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