夜の港湾倉庫街に、救急車の赤い光が回っていた。
佐伯慎吾を乗せた担架が、救急隊員によって車内へ運び込まれる。
撃たれた肩口には分厚いガーゼが当てられていたが、血はまだ完全には止まっていない。
押村奏斗は、その姿を黙って見送っていた。
佐伯が意識を失う直前に残した言葉。
「三年前の夜……運転していたのは……警察官じゃない……警察官の息子だ……」
その言葉が、押村の頭の中で何度も反響していた。
萩原千速は白バイのそばに立ち、ヘルメットを片手に握りしめていた。
普段なら強気な笑みを浮かべている彼女も、今は口を閉ざしている。
横溝重悟は、現場の刑事たちに怒鳴るように指示を飛ばしていた。
「倉庫二階の通路を全部洗え! 薬莢、足跡、指紋、何でも拾え! 防犯カメラもだ! 周辺の倉庫会社に連絡して映像を押さえろ!」
「はい!」
刑事たちが一斉に動き出す。
横溝は戻ってくると、押村の前に立った。
「押村」
「はい」
「佐伯が持ってた携帯、解析に回す。ただし通常ルートは使わねぇ」
押村はすぐに頷いた。
「内部に情報が漏れる可能性があります」
「ああ。俺が信用できる技官に直接預ける」
千速が横から口を挟む。
「その信用できる技官、本当に大丈夫なのか?」
横溝は鋭い目で千速を見た。
「俺の同期だ。口は悪いが腕は確かだ」
「重悟の同期なら、口が悪いのは納得だな」
「てめぇに言われたくねぇよ」
いつものような軽口。
だが、三人の間に漂う空気は重かった。
押村は黒いセダンの残骸を見つめた。
本牧で見つかった一台。
そして、今ここで追跡したもう一台。
同じ型。
同じ黒。
同じ左後部の白い擦り傷。
「横溝警部」
「何だ」
「この二台のセダン、同じ人物が用意したものとは限りません」
横溝が眉をひそめる。
「どういう意味だ」
「本牧で見つかった一台は、三年前の事件そのものに関わった可能性が高い。後部座席から被害者のキーホルダーが見つかっています」
「だな」
「ですが、今追跡した車両は、佐伯に接触するため、あるいは佐伯を消すために使われた可能性があります」
千速が目を細める。
「つまり、三年前の車を真似た?」
「はい」
押村は低く続けた。
「犯人側は、こちらが黒いセダンに注目していることを知っている。その上で、あえて同じ特徴の車を使った」
横溝が唸る。
「こっちを混乱させるためか」
「それもあります。ですが、もう一つ」
「何だ」
押村は黒い車体に視線を向けた。
「三年前の事件を知る者だけが分かる合図です」
千速がわずかに息を呑む。
「仲間へのメッセージか」
「可能性があります」
横溝は奥歯を噛みしめた。
「胸糞悪ぃ連中だな」
その時、押村のスマホが震えた。
横溝も千速も、同時に視線を向ける。
差出人は不明。
本文は一行。
『真実を知りたければ、明日の午前零時、港北区旧高架下へ来い。押村奏斗、一人で』
千速が即座に言った。
「却下だ」
押村は画面を見つめたまま黙っている。
「奏斗」
千速の声が強くなる。
「一人で行くとか言い出したら、本気で殴るぞ」
押村は静かに顔を上げた。
「行く価値はある」
「だから一人で行くなって言ってんだよ」
「相手は俺一人を指定している」
「罠に決まってんだろうが」
千速は押村の胸ぐらを掴みかけて、寸前で止めた。
その手は震えていた。
押村はそれに気づいた。
千速が怒っているのではない。
恐れているのだ。
自分がまた、一人で闇の中へ入っていくことを。
横溝が低く言った。
「押村。お前の判断は?」
押村は少しだけ目を伏せた。
以前の自分なら、黙って一人で向かったかもしれない。
誰にも言わず、危険を承知で、真実に近づくためだけに動いたかもしれない。
だが今は違う。
千速がいる。
横溝がいる。
自分一人の事件ではない。
押村はスマホを握りしめ、静かに言った。
「行きます」
千速の表情が険しくなる。
しかし押村はすぐに続けた。
「ただし、一人では行きません」
千速が少しだけ目を見開いた。
横溝は口元をわずかに歪めた。
「やっと学習したじゃねぇか」
押村は千速を見る。
「萩原」
「何だ」
「力を貸してくれ」
千速は一瞬だけ黙った。
それから、いつもの勝気な笑みを浮かべる。
「最初からそのつもりだ、馬鹿」
横溝が短く息を吐く。
「よし。明日の午前零時、港北区旧高架下。押村を囮にして張る」
千速が横溝を睨む。
「囮って言い方すんな、重悟」
「事実だろうが」
「奏斗は餌じゃねぇ」
「じゃあ何だ」
千速は少し言葉に詰まった。
押村が淡々と答える。
「捜査員です」
「お前は黙ってろ」
千速と横溝が同時に言った。
押村は一瞬だけ瞬きをした。
その様子に、張り詰めた空気がわずかに緩んだ。
だが、すぐに横溝の顔が引き締まる。
「問題は、こっちの動きを誰に共有するかだ」
「最小限にしましょう」
押村が言う。
「応援は必要ですが、人数を増やせば情報漏洩の危険も増えます」
「交通部からは私の小隊を使う」
千速が即答した。
「信用できるのか」
横溝が問う。
千速の目が鋭くなる。
「私の部下だ」
それ以上の説明はなかった。
だが、その一言で十分だった。
横溝は頷く。
「分かった。捜査一課からは俺が二人だけ選ぶ。口の堅いやつをな」
押村は旧高架下という場所に引っかかっていた。
「港北区旧高架下……」
千速が気づく。
「三年前の現場に近いのか?」
「近いどころか」
押村は静かに答えた。
「三年前、被害者が倒れていた場所から三百メートルほどです」
横溝の顔が険しくなる。
「相手はわざとそこを指定したってことか」
「はい」
押村はスマホの画面を閉じた。
「三年前の事件をよく知っている人物です」
翌日、午後十一時四十分。
港北区旧高架下。
すでに使われなくなった高架の影は、夜の闇に沈んでいた。
錆びた鉄骨。
ひび割れたコンクリート。
雨水の染みた地面。
周囲は工場と倉庫が並び、人通りはほとんどない。
押村は一人、高架下の中央に立っていた。
もちろん、本当に一人ではない。
少し離れた建物の影には横溝。
反対側の路地には千速と第三交機の隊員。
さらに周辺道路には、最小限の応援が配置されている。
だが、押村の周囲だけは意図的に空けられていた。
相手を誘い出すためだ。
押村は腕時計を見る。
午後十一時五十八分。
無線から、千速の声が聞こえた。
『奏斗、周辺異常なし』
「了解」
『怖くなったら泣いてもいいぞ』
「泣く予定はない」
『可愛げがねぇな』
横溝の声が割り込む。
『無駄口叩くな、千速』
『緊張をほぐしてやってんだよ、重悟』
『お前が一番うるせぇ』
押村は思わず小さく息を吐いた。
緊張していないわけではなかった。
だが、二人の声が聞こえているだけで、不思議と足元が安定する。
午前零時。
高架下の向こうから、足音が聞こえた。
ゆっくりと。
一定のリズムで。
押村は顔を上げる。
闇の中から、一人の若い男が現れた。
年齢は二十代後半。
黒いコート。
細身の体。
整った顔立ちだが、目に落ち着きがない。
押村は相手を観察する。
手には何も持っていないように見える。
男は押村の五メートルほど手前で止まった。
「押村奏斗警部補ですね」
「あなたは?」
男は薄く笑った。
「先に名乗るほど馬鹿じゃありません」
押村は静かに言う。
「なら、何を話しに来たんですか」
男はポケットに手を入れた。
周囲の空気が一気に緊張する。
押村は動かない。
男が取り出したのは、古い写真だった。
地面に放る。
写真は押村の足元まで滑ってきた。
そこには、三年前の夜の現場が写っていた。
倒れた自転車。
散らばった荷物。
そして、遠くに停まる黒いセダン。
押村は写真を見下ろした。
「これは?」
「三年前の真実の一部です」
「あなたが撮ったんですか」
男は答えない。
その代わり、静かに言った。
「あの夜、運転していたのは警察幹部の息子です」
押村の目が細くなる。
「名前は」
男の口元がわずかに動いた。
「相模原方面本部長、久我誠一郎。その息子、久我悠真」
押村はその名前を記憶に刻んだ。
久我誠一郎。
県警上層部の一人。
横溝の声が無線で低く響く。
『押村、落ち着け』
押村は男を見据えた。
「なぜ今それを話す」
男は笑った。
「もう守りきれないからです」
「誰が?」
「久我を守っていた連中が、崩れ始めている」
「あなたもその一人ですか」
男の笑みが消えた。
「俺は違う」
「では、何者ですか」
男は一歩後ろへ下がった。
「三年前、助手席に乗っていた者です」
空気が凍った。
押村の目が鋭くなる。
「あなたが?」
「運転していたのは悠真だ。俺は止めた。でも、あいつは止まらなかった」
男の声が震えた。
「人をはねた。なのに、あいつは笑ったんだ。“親父が何とかする”って」
押村の拳がわずかに握られる。
「なぜ今まで黙っていた」
男の表情が歪む。
「怖かったんだよ!」
声が高架下に響いた。
「久我の親父は県警の幹部だ。逆らったら終わりだって言われた。家族もいる。仕事も失う。俺だって……俺だって、毎日夢に見たんだ!」
押村は黙って聞いていた。
怒りはある。
だが、今ここで怒鳴っても真実には届かない。
「村瀬浩一さんを殺したのは誰ですか」
男の目が揺れた。
「……悠真だ」
「三浦亮介さんを襲ったのも?」
「たぶんそうだ。三浦は整備工場で車を隠す手伝いをさせられてた。でも最近、村瀬に全部話した」
押村は一歩近づいた。
「佐伯慎吾を撃った人物は」
男は首を振る。
「知らない。ただ、悠真には警察内部にまだ協力者がいる」
「誰ですか」
男は口を開きかけた。
その瞬間だった。
遠くからエンジン音が響いた。
千速の声が無線で飛ぶ。
『奏斗! 北側道路から車両接近! 黒いセダン!』
押村の目が鋭くなる。
高架下の入口に、ヘッドライトが現れた。
猛スピードで突っ込んでくる。
狙いは、押村と男。
「伏せろ!」
押村は男に飛びつき、地面へ押し倒した。
黒いセダンが目前をかすめる。
風圧。
タイヤの焦げる匂い。
金属音。
直後、白バイのサイレンが響いた。
千速の声が夜を裂く。
「逃がすかよ!」
白バイが黒いセダンを追って飛び出す。
横溝も無線で叫ぶ。
『各員、対象車両を追え! 押村、生きてるか!』
押村は地面から身を起こした。
「無事です」
その下で、男が震えていた。
「来た……悠真だ……」
押村は男の腕を掴んだ。
「保護します。あなたには証言してもらう」
「無理だ……殺される……」
「殺させません」
押村ははっきり言った。
その声には、迷いがなかった。
「三年前にできなかったことを、今度はやります」
男は押村を見上げた。
その目に、わずかな涙が浮かんだ。
一方、千速は黒いセダンを追っていた。
夜の道路を、二つのライトが切り裂く。
黒いセダンは旧高架下を抜け、港北方面へ向かって逃走している。
運転は荒い。
赤信号も標識も無視。
まるで、周囲の命などどうでもいいと言わんばかりだった。
千速は歯を食いしばった。
「三年前から何も変わってねぇな……!」
無線から押村の声が入る。
『萩原、無理に追い詰めるな。相手は人を巻き込む』
「分かってる!」
『萩原』
「何だよ!」
『無事でいてくれ』
一瞬、千速の呼吸が止まった。
押村がそんな言い方をするのは珍しかった。
千速はヘルメットの中で、少しだけ笑った。
「言われなくても」
そしてアクセルを開ける。
「私は、まだお前に言いたいことが山ほどあるんだよ」
黒いセダンは交差点を強引に右折した。
その先は、工事中で車線が狭くなっている道路。
千速は即座に判断した。
「前方封鎖を要請! 対象は港北大橋方面へ逃走中! 一般車両を止めろ!」
『了解!』
黒いセダンがさらに速度を上げる。
だが、その先にはすでに交通部の車両が配置されていた。
逃げ道が狭まる。
セダンは急ハンドルを切り、脇道へ逃げ込もうとした。
千速はその動きを読んでいた。
白バイを斜めに滑り込ませ、逃走経路を塞ぐ。
セダンの運転手が慌ててブレーキを踏む。
タイヤが悲鳴を上げる。
車体が横滑りし、ガードレールに激突した。
鈍い音が夜に響く。
千速は白バイを停め、拳銃を構えた。
「警察だ! 車から降りろ!」
運転席の扉がゆっくり開いた。
中から現れたのは、二十代後半の男だった。
高価そうなジャケット。
整った顔。
だが、その目は異様に冷たかった。
男は口元を歪めた。
「女の白バイ隊員か」
千速の目が鋭くなる。
「久我悠真だな」
男は笑った。
「だったら?」
「三年前のひき逃げ、村瀬浩一殺害、三浦亮介への殺人未遂。聞きたいことが山ほどある」
久我悠真は肩をすくめた。
「証拠は?」
「これから揃える」
「無駄だよ」
悠真は薄く笑った。
「警察は俺を捕まえられない。三年前もそうだった」
その言葉に、千速の中で何かが切れかけた。
だが、彼女は踏みとどまった。
怒りで動けば、相手の思うつぼだ。
千速は低く言った。
「三年前とは違う」
悠真が眉を上げる。
「何が?」
その時、背後から声が響いた。
「俺たちがいる」
押村だった。
横溝と数名の刑事を連れて、現場に到着していた。
押村は悠真を真っ直ぐ見据えた。
「久我悠真さん。あなたを道路交通法違反、公務執行妨害の容疑で現行犯逮捕します」
悠真は押村を見て、余裕の笑みを浮かべた。
「それだけ?」
押村は静かに言った。
「今は、それだけです」
横溝が低く唸る。
「だがな、ここから全部吐かせる」
悠真は笑った。
「やれるものなら」
千速が一歩前に出た。
「やるんだよ」
悠真の目が千速に向く。
一瞬、その目に苛立ちが走った。
千速はそれを見逃さなかった。
「三年前、あんたが轢いた少年の名前、覚えてるか」
悠真は黙った。
「覚えてねぇんだろ」
千速の声が低くなる。
「でも、こっちは忘れてねぇ。母親に渡すはずだったプレゼントも、壊れた自転車も、道路に残った血の跡も、全部覚えてる」
悠真の笑みが消える。
押村はその横顔を見た。
千速の怒りは、真っ直ぐだった。
乱暴で、荒っぽくて、それでも被害者のために燃えている怒りだった。
悠真は舌打ちした。
「くだらない」
その瞬間、横溝が動いた。
悠真の腕を掴み、後ろ手にねじり上げる。
「黙れ」
低い声だった。
「お前がくだらないで済ませた命を、俺たちは三年追ってんだ」
手錠の音が鳴る。
久我悠真は逮捕された。
だが、押村の表情は晴れなかった。
悠真の背後には、まだ父親である久我誠一郎がいる。
県警内部の協力者も残っている。
佐伯を撃った人物も分からない。
事件は終わっていない。
悠真が連行される直前、押村に顔を近づけた。
「押村警部補」
「何ですか」
悠真は小さく笑った。
「俺を捕まえたつもりか?」
押村は黙って見返す。
悠真は囁くように言った。
「親父は、お前たち三人を潰すぞ」
押村の目がわずかに細くなる。
悠真は笑いながら連行されていった。
千速が押村の隣に立つ。
「奏斗」
「何だ、萩原」
「怖いか?」
押村は少しだけ考えた。
そして正直に答えた。
「怖くないと言えば嘘になる」
千速は小さく笑った。
「そっちの方が人間らしいな」
横溝が二人の背後で言った。
「怖がってる暇はねぇぞ。ここからが本番だ」
押村は頷く。
「はい」
夜の道路に、黒いセダンは動かなくなっていた。
だが、その奥に続く闇はまだ深い。
三年前、警察が守った罪。
幹部の息子。
消された証言。
そして、組織の奥に潜む黒幕。
押村は空を見上げた。
高架の向こうに、夜明け前の暗い空が広がっている。
まだ朝は来ない。
だが、三年前から止まっていた時間は、確かに動き出していた。