神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第60話 白バイが見つけたもの

黒瀬隆臣は拘束された。

 

だが、事件は表沙汰にはならなかった。

 

警備局内の不祥事。

十年前の隠蔽。

機密漏洩。

国外組織との接触。

県警の事件への関与。

 

あまりにも多くのものが絡みすぎていた。

 

処理は内々に進められ、神奈川県警に正式な説明は降りてこなかった。

 

ただ、横溝重悟のもとには、短い通知だけが届いた。

 

桐生圭吾事件に関連する警備局内調査は終了。

県警側の追加対応不要。

 

横溝はその紙を握り潰した。

 

「ふざけやがって」

 

千速は横から低く聞いた。

 

「終わらせる気か」

 

「ああ。向こうは終わったことにするつもりだ」

 

「奏斗のことも?」

 

横溝は答えられなかった。

 

押村奏斗は死んだ。

 

公式には、それがすべてだ。

 

黒瀬が捕まろうと、十年前の闇が暴かれようと、押村奏斗が生きている証拠は出てこない。

 

千速は無言で部屋を出た。

 

横溝は止めなかった。

 

止めても無駄だと分かっていた。

 

その日の夕方。

 

千速は一人で白バイに乗り、奏斗が爆発に巻き込まれた廃ビル跡へ向かった。

 

建物はすでに解体準備が進んでいた。

 

規制線は一部撤去され、現場には重機が入る前の静けさが漂っている。

 

千速は白バイを降り、ヘルメットを外した。

 

風が吹く。

 

焦げた臭いはもうほとんど消えていた。

 

でも、千速にはまだあの日の煙が見える気がした。

 

「奏斗」

 

小さく呼んだ。

 

返事はない。

 

当たり前だ。

 

千速は現場周辺を歩いた。

 

何度も来た場所だった。

 

だが今日は、違う目で見ていた。

 

死を悼むためではない。

 

生きている痕跡を探すために。

 

奏斗なら、どう動くか。

 

爆発の前、どこへ立つか。

どこを避けるか。

誰にも気づかれずに逃げるなら、どの死角を使うか。

 

千速は頭の中で白バイ訓練のコースを読むように、現場を読んだ。

 

そして、ふと足を止めた。

 

廃ビルの裏手。

 

古い排水溝のそば。

 

コンクリートの欠けた場所に、小さな金属片が挟まっていた。

 

千速はしゃがみ込む。

 

それは、ボタンのように見えた。

 

いや、違う。

 

小さな金属製の留め具。

 

スーツの内ポケットに使われるタイプ。

 

爆発で飛んだ破片なら、もっと焦げているはずだった。

 

これは比較的新しい。

 

千速はそれを拾い上げた。

 

裏側に、わずかな刻印がある。

 

K.R.

 

千速は眉を寄せた。

 

K.R.

 

押村奏斗なら、K.O.だ。

 

でも。

 

港湾部で見た男。

横浜の路地で見た男。

黒いスーツ。

違う名前で生きているなら。

 

K.R.は、新しい名前のイニシャルかもしれない。

 

千速の心臓が強く鳴った。

 

その時、背後で足音がした。

 

振り返ると、古谷が立っていた。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「何しに来た」

 

古谷は静かに答える。

 

「ここは危険です」

 

「もう爆発した後だ」

 

「そういう意味ではありません」

 

千速は金属片を握りしめた。

 

「古谷。奏斗は生きてるのか」

 

古谷は答えなかった。

 

千速は一歩近づく。

 

「答えろ」

 

「押村奏斗警部補は、殉職しました」

 

「その言い方、嫌いだ」

 

古谷は黙る。

 

千速は低く言った。

 

「私は今日、ここに死んだ証拠を探しに来たんじゃない。生きてる痕跡を探しに来た」

 

古谷の目がわずかに動いた。

 

「見つかりましたか」

 

千速は握った手を開かない。

 

「さあな」

 

古谷は少しだけ息を吐く。

 

「萩原警部補。仮に、生きている人間がいるとして」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「仮に?」

 

「その人間が戻れない場所にいるなら、探すことは危険です」

 

「誰にとって」

 

「あなたにとっても。その人間にとっても」

 

千速は笑った。

 

冷たい笑みだった。

 

「やっぱり生きてるんだな」

 

古谷は答えない。

 

だが、否定もしなかった。

 

それで十分だった。

 

千速は金属片をポケットに入れた。

 

「伝えろ」

 

「誰に」

 

「お前が知ってる“誰か”にだ」

 

千速は古谷を睨む。

 

「私は諦めてねぇ」

 

古谷は静かに言った。

 

「それは、彼を苦しめるかもしれません」

 

千速の目が揺れる。

 

けれど、すぐに言い返した。

 

「勝手に死んだことにして、勝手に消えて、勝手に苦しんでる奴の都合なんか知るか」

 

古谷は何も言わなかった。

 

「私は、ちゃんと怒る。ちゃんと殴る。ちゃんと理由を聞く」

 

千速の声が震えた。

 

「それまで、死んだなんて認めねぇ」

 

風が吹いた。

 

古谷は深く頭を下げた。

 

「お気をつけて」

 

「逃げるのか」

 

「私は、何も答えられません」

 

「なら二度と私の前に出るな」

 

古谷はそのまま去っていった。

 

千速は一人、廃ビル跡に立ち尽くした。

 

ポケットの中の金属片を握る。

 

K.R.

 

生きている証拠としては弱い。

 

偶然かもしれない。

 

誰か別人のものかもしれない。

 

でも、千速には分かった。

 

あの日、ここで何かが偽装された。

 

奏斗は死んでいない。

 

少なくとも、そう信じる理由ができた。

 

その夜。

 

警備局の地下通路。

 

奏斗は古谷から報告を受けた。

 

「萩原警部補が廃ビル跡で痕跡を見つけました」

 

奏斗の足が止まる。

 

「何を」

 

「あなたの現在の身分で使用しているスーツの留め具です。爆発偽装時に落ちた可能性があります」

 

奏斗は目を閉じた。

 

「回収しなかったのですか」

 

「彼女が先に見つけました」

 

「なぜ見落とした」

 

古谷は静かに答える。

 

「見落としは我々の失態です。ただ……」

 

「ただ?」

 

「あなたが無意識に残した可能性もあります」

 

奏斗の目が鋭くなる。

 

「あり得ません」

 

「本当に?」

 

奏斗は答えなかった。

 

あの日。

 

廃ビルで爆発偽装を行った時。

 

千速のことを考えなかったわけではない。

 

最後に一つだけ、何かを残したいと思わなかったと言えば、嘘になる。

 

だが、実際に残した自覚はない。

 

古谷は言った。

 

「萩原警部補は、あなたが生きていると疑っています」

 

奏斗は壁に手をついた。

 

「……そうですか」

 

「接触しますか」

 

奏斗は即座に首を横に振った。

 

「しません」

 

「彼女は探し続けます」

 

「止めてください」

 

「止められる人ではないでしょう」

 

奏斗は苦しげに笑った。

 

「知っています」

 

古谷は静かに続ける。

 

「黒瀬は拘束されました。しかし、彼の残した外部協力者はまだ完全には消えていません。今、あなたが戻れば、萩原警部補は狙われます」

 

「分かっています」

 

「なら、選択肢はありません」

 

奏斗は小さく頷いた。

 

「はい」

 

だが、胸の奥では別の声がしていた。

 

千速が気づいた。

 

千速が、自分を死んだと認めなかった。

 

その事実が、苦しくて、少しだけ救いだった。

 

奏斗は通路の先を見る。

 

もう戻れない。

 

少なくとも、今は。

 

けれど、完全に断ち切れたわけでもない。

 

千速が見つけた小さな金属片。

 

それは、死者が残したはずのない痕跡だった。

 

数日後。

 

第三交通機動隊の詰所。

 

千速は、机の引き出しの奥に小さな袋をしまった。

 

中には、K.R.の刻印が入った金属片。

 

それを見つめる千速の表情は、以前とは違っていた。

 

悲しみだけではない。

 

怒りだけでもない。

 

そこには、確かな意志があった。

 

新井が恐る恐る声をかける。

 

「小隊長、最近少し顔つきが変わりましたね」

 

千速は引き出しを閉めた。

 

「そうか」

 

「はい。何というか……前より怖いです」

 

「訓練増やすぞ」

 

「すみません」

 

千速は少しだけ笑った。

 

その笑みは久しぶりだった。

 

新井が驚いたように見る。

 

千速は窓の外を見た。

 

白バイが並んでいる。

 

青い空。

 

道路へ続く門。

 

その先のどこかに、奏斗がいるかもしれない。

 

いや。

 

いる。

 

千速はそう思った。

 

「奏斗」

 

誰にも聞こえない声で呟く。

 

「見つけたら、まず殴るからな」

 

その声は少し震えていた。

 

けれど、確かに前を向いていた。

 

押村奏斗は死んだ。

 

世間では、そうなっている。

 

でも萩原千速だけは、もう完全には信じていない。

 

白バイ隊員の直感。

恋人としての違和感。

そして、小さな金属片。

 

それだけを頼りに、千速は静かに決めた。

 

いつか必ず、真実に辿り着く。

 

たとえ相手がゼロでも。

 

たとえ奏斗本人が、自分から逃げ続けても。

 

彼女は追う。

 

白いサイレンを鳴らさずに。

 

けれど、確実に。

 

押村奏斗が残した、たった一つの痕跡を胸にしまって。

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