黒瀬隆臣は拘束された。
だが、事件は表沙汰にはならなかった。
警備局内の不祥事。
十年前の隠蔽。
機密漏洩。
国外組織との接触。
県警の事件への関与。
あまりにも多くのものが絡みすぎていた。
処理は内々に進められ、神奈川県警に正式な説明は降りてこなかった。
ただ、横溝重悟のもとには、短い通知だけが届いた。
桐生圭吾事件に関連する警備局内調査は終了。
県警側の追加対応不要。
横溝はその紙を握り潰した。
「ふざけやがって」
千速は横から低く聞いた。
「終わらせる気か」
「ああ。向こうは終わったことにするつもりだ」
「奏斗のことも?」
横溝は答えられなかった。
押村奏斗は死んだ。
公式には、それがすべてだ。
黒瀬が捕まろうと、十年前の闇が暴かれようと、押村奏斗が生きている証拠は出てこない。
千速は無言で部屋を出た。
横溝は止めなかった。
止めても無駄だと分かっていた。
その日の夕方。
千速は一人で白バイに乗り、奏斗が爆発に巻き込まれた廃ビル跡へ向かった。
建物はすでに解体準備が進んでいた。
規制線は一部撤去され、現場には重機が入る前の静けさが漂っている。
千速は白バイを降り、ヘルメットを外した。
風が吹く。
焦げた臭いはもうほとんど消えていた。
でも、千速にはまだあの日の煙が見える気がした。
「奏斗」
小さく呼んだ。
返事はない。
当たり前だ。
千速は現場周辺を歩いた。
何度も来た場所だった。
だが今日は、違う目で見ていた。
死を悼むためではない。
生きている痕跡を探すために。
奏斗なら、どう動くか。
爆発の前、どこへ立つか。
どこを避けるか。
誰にも気づかれずに逃げるなら、どの死角を使うか。
千速は頭の中で白バイ訓練のコースを読むように、現場を読んだ。
そして、ふと足を止めた。
廃ビルの裏手。
古い排水溝のそば。
コンクリートの欠けた場所に、小さな金属片が挟まっていた。
千速はしゃがみ込む。
それは、ボタンのように見えた。
いや、違う。
小さな金属製の留め具。
スーツの内ポケットに使われるタイプ。
爆発で飛んだ破片なら、もっと焦げているはずだった。
これは比較的新しい。
千速はそれを拾い上げた。
裏側に、わずかな刻印がある。
K.R.
千速は眉を寄せた。
K.R.
押村奏斗なら、K.O.だ。
でも。
港湾部で見た男。
横浜の路地で見た男。
黒いスーツ。
違う名前で生きているなら。
K.R.は、新しい名前のイニシャルかもしれない。
千速の心臓が強く鳴った。
その時、背後で足音がした。
振り返ると、古谷が立っていた。
千速の目が鋭くなる。
「何しに来た」
古谷は静かに答える。
「ここは危険です」
「もう爆発した後だ」
「そういう意味ではありません」
千速は金属片を握りしめた。
「古谷。奏斗は生きてるのか」
古谷は答えなかった。
千速は一歩近づく。
「答えろ」
「押村奏斗警部補は、殉職しました」
「その言い方、嫌いだ」
古谷は黙る。
千速は低く言った。
「私は今日、ここに死んだ証拠を探しに来たんじゃない。生きてる痕跡を探しに来た」
古谷の目がわずかに動いた。
「見つかりましたか」
千速は握った手を開かない。
「さあな」
古谷は少しだけ息を吐く。
「萩原警部補。仮に、生きている人間がいるとして」
千速の目が鋭くなる。
「仮に?」
「その人間が戻れない場所にいるなら、探すことは危険です」
「誰にとって」
「あなたにとっても。その人間にとっても」
千速は笑った。
冷たい笑みだった。
「やっぱり生きてるんだな」
古谷は答えない。
だが、否定もしなかった。
それで十分だった。
千速は金属片をポケットに入れた。
「伝えろ」
「誰に」
「お前が知ってる“誰か”にだ」
千速は古谷を睨む。
「私は諦めてねぇ」
古谷は静かに言った。
「それは、彼を苦しめるかもしれません」
千速の目が揺れる。
けれど、すぐに言い返した。
「勝手に死んだことにして、勝手に消えて、勝手に苦しんでる奴の都合なんか知るか」
古谷は何も言わなかった。
「私は、ちゃんと怒る。ちゃんと殴る。ちゃんと理由を聞く」
千速の声が震えた。
「それまで、死んだなんて認めねぇ」
風が吹いた。
古谷は深く頭を下げた。
「お気をつけて」
「逃げるのか」
「私は、何も答えられません」
「なら二度と私の前に出るな」
古谷はそのまま去っていった。
千速は一人、廃ビル跡に立ち尽くした。
ポケットの中の金属片を握る。
K.R.
生きている証拠としては弱い。
偶然かもしれない。
誰か別人のものかもしれない。
でも、千速には分かった。
あの日、ここで何かが偽装された。
奏斗は死んでいない。
少なくとも、そう信じる理由ができた。
その夜。
警備局の地下通路。
奏斗は古谷から報告を受けた。
「萩原警部補が廃ビル跡で痕跡を見つけました」
奏斗の足が止まる。
「何を」
「あなたの現在の身分で使用しているスーツの留め具です。爆発偽装時に落ちた可能性があります」
奏斗は目を閉じた。
「回収しなかったのですか」
「彼女が先に見つけました」
「なぜ見落とした」
古谷は静かに答える。
「見落としは我々の失態です。ただ……」
「ただ?」
「あなたが無意識に残した可能性もあります」
奏斗の目が鋭くなる。
「あり得ません」
「本当に?」
奏斗は答えなかった。
あの日。
廃ビルで爆発偽装を行った時。
千速のことを考えなかったわけではない。
最後に一つだけ、何かを残したいと思わなかったと言えば、嘘になる。
だが、実際に残した自覚はない。
古谷は言った。
「萩原警部補は、あなたが生きていると疑っています」
奏斗は壁に手をついた。
「……そうですか」
「接触しますか」
奏斗は即座に首を横に振った。
「しません」
「彼女は探し続けます」
「止めてください」
「止められる人ではないでしょう」
奏斗は苦しげに笑った。
「知っています」
古谷は静かに続ける。
「黒瀬は拘束されました。しかし、彼の残した外部協力者はまだ完全には消えていません。今、あなたが戻れば、萩原警部補は狙われます」
「分かっています」
「なら、選択肢はありません」
奏斗は小さく頷いた。
「はい」
だが、胸の奥では別の声がしていた。
千速が気づいた。
千速が、自分を死んだと認めなかった。
その事実が、苦しくて、少しだけ救いだった。
奏斗は通路の先を見る。
もう戻れない。
少なくとも、今は。
けれど、完全に断ち切れたわけでもない。
千速が見つけた小さな金属片。
それは、死者が残したはずのない痕跡だった。
数日後。
第三交通機動隊の詰所。
千速は、机の引き出しの奥に小さな袋をしまった。
中には、K.R.の刻印が入った金属片。
それを見つめる千速の表情は、以前とは違っていた。
悲しみだけではない。
怒りだけでもない。
そこには、確かな意志があった。
新井が恐る恐る声をかける。
「小隊長、最近少し顔つきが変わりましたね」
千速は引き出しを閉めた。
「そうか」
「はい。何というか……前より怖いです」
「訓練増やすぞ」
「すみません」
千速は少しだけ笑った。
その笑みは久しぶりだった。
新井が驚いたように見る。
千速は窓の外を見た。
白バイが並んでいる。
青い空。
道路へ続く門。
その先のどこかに、奏斗がいるかもしれない。
いや。
いる。
千速はそう思った。
「奏斗」
誰にも聞こえない声で呟く。
「見つけたら、まず殴るからな」
その声は少し震えていた。
けれど、確かに前を向いていた。
押村奏斗は死んだ。
世間では、そうなっている。
でも萩原千速だけは、もう完全には信じていない。
白バイ隊員の直感。
恋人としての違和感。
そして、小さな金属片。
それだけを頼りに、千速は静かに決めた。
いつか必ず、真実に辿り着く。
たとえ相手がゼロでも。
たとえ奏斗本人が、自分から逃げ続けても。
彼女は追う。
白いサイレンを鳴らさずに。
けれど、確実に。
押村奏斗が残した、たった一つの痕跡を胸にしまって。