神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第61話 表の席

押村奏斗が、ゼロから公安へ移ることになったのは、黒瀬事件の処理が一段落してから、さらに数か月が過ぎた頃だった。

 

もちろん、正式な異動辞令など存在しない。

 

少なくとも、神奈川県警にいた頃のように、辞令を渡され、所属長に挨拶し、机を移すようなものではなかった。

 

押村奏斗は死んでいる。

 

戸籍上も、警察官としての記録上も、殉職した刑事だった。

 

今の彼には、別の名前がある。

 

葛城怜司。

 

警察庁警備局、通称ゼロの中で与えられた仮の身分。

 

だが、その身分もまた、長く使うものではなかった。

 

ある朝、古谷は奏斗に一枚の資料を渡した。

 

「葛城怜司として、公安に出てもらいます」

 

奏斗は資料を見た。

 

そこには、警視庁公安部の所属名と、会議予定が記されている。

 

「警視庁公安部ですか」

 

「はい。黒瀬の件で、警備局内部はかなり整理されました。ですが、黒瀬と繋がっていた外部協力者の一部は、まだ公安の監視対象と重なっています」

 

「俺を表に出す理由は」

 

古谷は静かに答えた。

 

「あなたが、黒瀬事件の実務を最も近くで見ていたからです」

 

「資料で足りるのでは」

 

「足りません」

 

古谷は奏斗を見た。

 

「それに、あなたをずっとゼロの奥に置いておく方が危険だと判断されました」

 

奏斗は眉をわずかに動かした。

 

「危険?」

 

「あなたは、完全に消えることに向いていない」

 

「……」

 

「押村さん」

 

古谷はあえて、その名で呼んだ。

 

「あなたは痕跡を残さないようにしても、どこかで人と繋がろうとする。萩原警部補があなたの生存に気づき始めたのも、偶然だけではありません」

 

奏斗は何も言わなかった。

 

千速が見つけた金属片。

 

K.R.の刻印。

 

あれは完全なミスだった。

 

そう思っている。

 

けれど、本当にそうだったのか。

 

自分の中に、千速に気づいてほしいという思いがなかったと、言い切れなかった。

 

古谷は続けた。

 

「公安に出る以上、表の人間と接触する機会が増えます」

 

「神奈川県警とも?」

 

「可能性はあります」

 

奏斗の指が止まった。

 

古谷はその反応を見逃さない。

 

「会議には神奈川県警の関係者も出席予定です」

 

奏斗は資料をめくった。

 

出席者一覧。

 

警視庁公安部。

警察庁警備局。

神奈川県警刑事部。

神奈川県警交通部。

 

その中に、見慣れた名前があった。

 

横溝重悟。

萩原千速。

 

奏斗の呼吸が、ほんの一瞬だけ止まった。

 

「なぜ交通部が」

 

「黒瀬の外部協力者の一部が、二輪車を使った尾行・逃走を繰り返しています。港湾部での白バイ追跡データ、交通規制情報、過去の事件資料が必要です」

 

「千速が来る理由は」

 

「第三交通機動隊の小隊長として、現場対応の報告を求められています」

 

奏斗は資料を閉じた。

 

「俺が出る必要はありません」

 

「あります」

 

古谷の声は静かだったが、揺るがなかった。

 

「あなたは、葛城怜司として公安側の担当官に付きます。上司は警視庁公安部の榊原理人警視」

 

「榊原警視」

 

「表向きは、警察庁から出向してきた情報分析官という扱いです。会議では発言を最小限に」

 

「千速や横溝警部に気づかれる可能性があります」

 

「だからこそ、逃げないでください」

 

奏斗は古谷を見る。

 

古谷は珍しく厳しい目をしていた。

 

「あなたが露骨に避ければ、かえって疑われます。会議に出るなら、堂々と座るしかない」

 

奏斗はゆっくり息を吐いた。

 

「分かりました」

 

その声は静かだった。

 

だが、胸の奥は乱れていた。

 

千速に会う。

 

横溝に会う。

 

死んだはずの押村奏斗としてではなく。

 

別人、葛城怜司として。

 

会議当日。

 

警視庁の会議室は、妙に乾いた空気だった。

 

長机が並び、資料が整えられ、壁際には公安部員が数人立っている。

 

奏斗は黒いスーツを着ていた。

 

髪型は以前より少し短く整え、眼鏡をかけている。

 

顔つきも、表情の作り方も変えている。

 

押村奏斗の頃より、感情を見せない。

 

歩幅も、姿勢も、目線も意識して変えた。

 

だが、それでも自分が自分であることまでは消せない。

 

会議室の前方に立つ男が、奏斗の新しい上司だった。

 

榊原理人警視。

 

四十代半ば。

 

柔らかい物腰だが、目は油断なく周囲を見ている。

 

公安の人間らしく、笑っていても本心が読めない男だった。

 

榊原は奏斗に低く言った。

 

「葛城、今日は後ろに控えていろ。必要があれば私が振る」

 

「承知しました」

 

「それと」

 

榊原は資料を整えながら、わずかに口角を上げる。

 

「神奈川県警の二人を見るな」

 

奏斗の目が動く。

 

榊原は続けた。

 

「見ないようにしすぎるな、という意味だ。自然にしろ」

 

「……承知しました」

 

「君の経歴は聞いている。押村奏斗だった頃のこともな」

 

奏斗は黙った。

 

榊原は軽く言った。

 

「責めているわけじゃない。だが、公安で表に出るなら、情を制御できなければ使い物にならない」

 

「分かっています」

 

「ならいい」

 

その時、会議室の扉が開いた。

 

最初に入ってきたのは横溝重悟だった。

 

坊主頭。

鋭い目つき。

相変わらず歩き方に圧がある。

 

奏斗は反射的に視線を下げそうになり、堪えた。

 

横溝は室内を見渡し、公安部員たちへ不機嫌そうな目を向ける。

 

「神奈川県警捜査一課、横溝だ」

 

その声を聞くだけで、胸の奥が痛んだ。

 

続いて、萩原千速が入ってきた。

 

淡いグレーのジャケットに、白のブラウス。

普段の白バイ隊員の制服ではなく、会議用の落ち着いた服装だった。

 

ただし、背筋は変わらない。

 

真っ直ぐで、迷いがない。

 

髪を軽くまとめ、資料を片手に持っている。

 

女性らしい服装なのに、立っているだけで場の空気を締める。

 

奏斗は一瞬だけ、呼吸を忘れた。

 

千速。

 

名前を呼びそうになった。

 

だが、声には出さなかった。

 

千速は室内へ入り、横溝の隣に座ろうとして、ふと視線を上げた。

 

その目が、奏斗の方を向いた。

 

時間が止まったようだった。

 

一秒。

 

二秒。

 

千速の眉がわずかに動く。

 

奏斗は動かなかった。

 

葛城怜司として、ただ静かに立っていた。

 

千速の視線が彼の顔、眼鏡、髪型、そして立ち姿をなぞる。

 

横溝もその反応に気づいた。

 

「千速?」

 

千速はすぐに視線を外した。

 

「いや、何でもない」

 

だが、何でもないわけがなかった。

 

奏斗には分かった。

 

気づいたわけではない。

 

でも、引っかかった。

 

千速の中に残っている違和感が、今、また少し形を持った。

 

榊原が口を開く。

 

「皆さん、お揃いですね。警視庁公安部の榊原です」

 

会議が始まった。

 

議題は、黒瀬事件の外部協力者に関する合同情報整理だった。

 

もちろん、黒瀬隆臣という名前は表向きには出ない。

 

資料上では、ある公安対象者グループの逃走支援ネットワークとして扱われている。

 

榊原が淡々と説明する。

 

「対象は、港湾部および高速道路沿いを移動拠点として利用しています。二輪車を使った監視回避、白バイ追跡を想定した逃走訓練も確認されています」

 

千速が資料に目を落とす。

 

「白バイの追跡を想定してるなら、かなり現場を見てるな」

 

榊原が頷く。

 

「ええ。ですので、第三交通機動隊から意見をいただきたい」

 

千速は資料をめくり、地図を指した。

 

「この逃走経路、机上で組んだ人間のものじゃない。実際に走った奴が選んでる」

 

横溝が腕を組む。

 

「どういう意味だ」

 

「ここだ」

 

千速は港湾道路の一部を指す。

 

「普通なら大通りへ出る。でも二輪ならこっちの側道を使う。見通しは悪いが、車止めの隙間を抜けられる。白バイは追えるが、パトカーは遅れる」

 

榊原は興味深そうに聞く。

 

「なるほど」

 

千速はさらに続ける。

 

「ただし、逃走側がここを使うなら、必ず一度速度を落とす。そこで前を塞げば止められる」

 

奏斗は黙って聞いていた。

 

千速の分析は正確だった。

 

現場を走る人間の視点。

 

白バイ隊員としての感覚。

 

資料の上からでは出てこない答え。

 

榊原がちらりと奏斗を見た。

 

「葛城」

 

奏斗は一歩前に出る。

 

「はい」

 

千速の視線が再び動いた。

 

奏斗は資料を手に取り、声を少し低く作った。

 

「補足します。対象がこの側道を使う場合、追跡車両を港湾道路側へ誘導する目的も考えられます。側道そのものが逃走経路ではなく、待機車両へ乗り換えるための誘導路である可能性があります」

 

横溝の目が鋭くなる。

 

千速も奏斗を見る。

 

その声。

 

わずかに違う。

 

でも、言葉の選び方が似ている。

 

押村奏斗は、いつもこういうふうに話した。

 

無駄がなく、淡々としていて、けれど相手の視点を正確に拾う。

 

千速はゆっくり口を開いた。

 

「葛城……さん、だったか」

 

奏斗の胸が強く鳴った。

 

「はい」

 

「今の分析、現場を見たことがある人間の言い方だな」

 

「資料を確認しました」

 

「資料だけじゃ分からないこともある」

 

千速の目が真っ直ぐ奏斗を見る。

 

「白バイの追い方を知ってるように聞こえた」

 

会議室の空気が少し固まる。

 

榊原が穏やかに割って入った。

 

「葛城は警察庁で交通関連の事案も扱っています。現場映像の解析経験もあります」

 

千速は榊原を見ず、奏斗を見たまま言った。

 

「へぇ」

 

横溝が低く言う。

 

「千速」

 

千速はようやく視線を外した。

 

「悪い。続けてくれ」

 

奏斗は資料を置き、後ろへ下がった。

 

背中に汗が滲んでいた。

 

榊原は表情を変えずに会議を進める。

 

だが、横溝の目もまた奏斗に向いていた。

 

横溝は気づいていない。

 

まだ。

 

だが、疑っている。

 

奏斗はそれが分かった。

 

会議の後半。

 

神奈川県警側から、過去の港湾部事件の資料が提示された。

 

その中に、奏斗が死んだことになった廃ビル爆破事件の位置も含まれていた。

 

千速の指が一瞬止まる。

 

横溝も顔をしかめた。

 

榊原は資料を見て言う。

 

「この廃ビル跡付近は、対象グループが過去に下見していた可能性があります」

 

千速の声が低くなる。

 

「そこは、押村奏斗が死んだ場所だ」

 

会議室が静まる。

 

その名前が出た瞬間、奏斗は全身の血が冷えるのを感じた。

 

押村奏斗。

 

自分の名前。

 

もう使えない名前。

 

千速は資料を見つめたまま続ける。

 

「私は、あの件にも違和感がある」

 

横溝が止めようとする。

 

「千速」

 

「分かってる。今の議題じゃない」

 

千速はそう言いながらも、目を上げた。

 

その視線が、また奏斗を射抜く。

 

「でも、あの日のカメラの死角と、この対象グループの動き方は似てる」

 

榊原が静かに言う。

 

「関連性は調査します」

 

千速は短く答えた。

 

「頼む」

 

その声には、ただの業務連絡ではない響きがあった。

 

調べろ。

 

隠すな。

 

嘘をつくな。

 

そう言っているようだった。

 

奏斗は視線を下げなかった。

 

下げれば、負ける気がした。

 

千速はしばらく彼を見ていたが、やがて資料へ戻った。

 

会議が終わると、参加者たちは順に部屋を出ていった。

 

奏斗は榊原の後ろにつき、資料をまとめる。

 

早く出なければならない。

 

長くいれば、それだけ危険が増す。

 

しかし、扉へ向かう直前、背後から声がした。

 

「葛城さん」

 

奏斗は足を止めた。

 

千速だった。

 

榊原も足を止める。

 

横溝は少し離れた場所で、千速と奏斗を見ている。

 

奏斗は振り返った。

 

「何でしょうか」

 

千速はゆっくり近づく。

 

「前に、どこかで会ったことあるか?」

 

心臓が、強く鳴った。

 

奏斗は表情を変えない。

 

「いいえ」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

千速は目を細める。

 

その目は、白バイで違反車両を追う時の目だった。

 

逃げる相手を見抜く目。

 

「声、似てるんだよ」

 

「誰にでしょうか」

 

千速は一瞬だけ唇を噛んだ。

 

そして言った。

 

「死んだ男に」

 

横溝が低く言う。

 

「千速、やめろ」

 

だが千速は止まらない。

 

「立ち方も、話し方も、視線の外し方も似てる」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「偶然だと思います」

 

「そうか」

 

千速は一歩近づいた。

 

あと少しで、手が届く距離。

 

奏斗は動かなかった。

 

千速は低く言った。

 

「なら、悪かった」

 

「いえ」

 

千速は彼の横を通り過ぎる。

 

その瞬間、ほんの小さな声で言った。

 

「逃げるなよ」

 

奏斗の指が震えた。

 

千速はそのまま会議室を出ていった。

 

横溝は奏斗を一度睨むように見た後、千速を追った。

 

会議室に残った奏斗は、しばらく動けなかった。

 

榊原が静かに言う。

 

「危なかったな」

 

「申し訳ありません」

 

「謝る必要はない。君はよく耐えた」

 

奏斗は何も答えなかった。

 

耐えた。

 

そうだろうか。

 

本当は、今すぐ追いかけたかった。

 

千速の腕を掴んで、すべて話したかった。

 

生きていると。

 

嘘をついたと。

 

死んだふりをしたと。

 

それでも、戻れないと。

 

榊原は扉へ向かいながら言った。

 

「公安に出るというのは、こういうことだ」

 

奏斗は顔を上げる。

 

「表にいる者と向き合いながら、何も言えない。君はこれから、その席に座ることになる」

 

「……はい」

 

榊原は少しだけ振り返った。

 

「葛城。君が本当に公安でやっていくなら、押村奏斗の顔を少しずつ捨てろ」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「努力します」

 

「努力では足りない」

 

その言葉を残し、榊原は会議室を出た。

 

奏斗も後に続く。

 

廊下の先に、千速の後ろ姿が一瞬だけ見えた。

 

横溝と話しながら歩いている。

 

千速は振り返らなかった。

 

だが、奏斗には分かった。

 

彼女はもう、疑いを捨てていない。

 

むしろ、今日の会議で確信に近づいた。

 

死んだはずの押村奏斗。

 

公安の会議に現れた葛城怜司。

 

その二つの線が、千速の中で静かに重なり始めていた。

 

奏斗は拳を握った。

 

戻れない。

 

でも、逃げ切れない。

 

白バイ隊員の目は、一度捕らえたものを簡単には離さない。

 

そして奏斗自身も、本当は分かっていた。

 

千速から完全に逃げることなど、最初からできなかったのだ。

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