千速視点
警視庁の会議室に入った瞬間、萩原千速は嫌な空気を感じた。
公安。
警察庁。
警備局。
そういう連中が集まる場所特有の、湿った沈黙がある。
誰も大声を出さない。
誰も余計なことを言わない。
誰も本心を見せない。
千速はそういう空気が嫌いだった。
道路の上は分かりやすい。
危ない奴は危ない走り方をする。
逃げる奴は逃げる目をする。
迷っている奴は、必ずハンドルに迷いが出る。
だが、こういう場所では違う。
嘘がスーツを着て椅子に座っている。
千速はそう思いながら、横溝重悟の隣に座ろうとした。
その時だった。
視界の端に、ひとりの男が立っているのが見えた。
黒いスーツ。
眼鏡。
短く整えた髪。
公安側の人間らしい無表情。
見知らぬ男のはずだった。
なのに。
千速の足が、一瞬止まった。
「千速?」
重悟の声が隣から聞こえた。
千速はすぐに視線を外した。
「いや、何でもない」
そう答えた。
だが、何でもなくはなかった。
胸の奥が、妙にざわついていた。
あの男を見た瞬間、身体が反応した。
理屈ではない。
顔が似ているわけではない。
髪型も違う。
眼鏡もかけている。
表情も、記憶の中の男よりずっと冷たい。
それなのに。
立ち方。
視線の置き方。
人を見ているようで、見すぎない距離感。
どこかで見たことがある。
いや。
知っている。
千速は自分の指先に力が入るのを感じた。
馬鹿なことを考えるな。
あいつは死んだ。
押村奏斗は、死んだ。
廃ビルの爆発で。
そう聞かされた。
そう処理された。
葬儀もした。
遺影の前に花も置いた。
なのに、まだ自分はどこかで認めきれていない。
だから、似た男を見ただけで反応する。
そう思おうとした。
だが、胸のざわつきは消えなかった。
会議が始まった。
警視庁公安部の榊原という男が、淡々と説明を進める。
黒瀬事件の残り火。
二輪車を使った逃走支援。
港湾部の経路。
白バイ追跡を想定した動き。
千速は資料に目を落とした。
仕事だ。
今は、個人的な違和感など横に置く。
資料の地図には、港湾道路と倉庫街、そして側道の細い線が載っていた。
千速はすぐに分かった。
「この逃走経路、机上で組んだ人間のものじゃない。実際に走った奴が選んでる」
榊原が顔を上げる。
「どういう意味でしょう」
千速は地図を指す。
「普通なら大通りへ出る。でも二輪ならこっちの側道を使う。見通しは悪いが、車止めの隙間を抜けられる。白バイは追えるが、パトカーは遅れる」
重悟が低く言う。
「なるほどな」
千速は続けた。
「ただ、逃走側がここを使うなら、必ず一度速度を落とす。ここで前を塞げば止められる」
説明しながらも、千速は視界の端であの男を見ていた。
葛城怜司。
そう紹介された公安側の情報分析官。
男は黙っていた。
だが、黙り方が気に入らなかった。
何かを言えるのに、あえて言わない人間の黙り方だった。
そして、それもまた、奏斗に似ていた。
榊原がその男へ視線を向ける。
「葛城」
男が一歩前へ出た。
「はい」
その声を聞いた瞬間、千速の背筋が凍った。
違う。
声は違う。
少し低い。
抑揚も違う。
話し方も、意識して作っているように硬い。
なのに。
奥にある響きが、似ていた。
何度も聞いた声。
自分を「千速」と呼んだ声。
食事の帰り道で、少し不器用に謝った声。
「君を乗せるなら、安全に走れるようになってからがいい」と、真顔で言った声。
そして、最後まで自分に何も言わずに消えた男の声。
千速は息を止めた。
葛城は資料を見ながら淡々と言った。
「補足します。対象がこの側道を使う場合、追跡車両を港湾道路側へ誘導する目的も考えられます。側道そのものが逃走経路ではなく、待機車両へ乗り換えるための誘導路である可能性があります」
言葉の選び方。
結論へ持っていく順番。
相手の裏を読む時の、妙な静けさ。
千速の中で、何かが音を立てて引っかかった。
奏斗。
違う。
葛城怜司だ。
でも。
千速は口を開いていた。
「葛城……さん、だったか」
男がこちらを見る。
「はい」
その目を見た瞬間、千速は胸の奥を掴まれたようになった。
目まで変えられるわけがない。
顔つきは変えられる。
髪型も変えられる。
声も少しなら作れる。
でも、人を見る目はそう簡単には変わらない。
葛城の目は、ほんの一瞬だけ揺れた。
千速はそれを見逃さなかった。
「今の分析、現場を見たことがある人間の言い方だな」
「資料を確認しました」
「資料だけじゃ分からないこともある」
千速は男を見据える。
「白バイの追い方を知ってるように聞こえた」
会議室の空気が固まった。
榊原がすぐに割って入る。
「葛城は警察庁で交通関連の事案も扱っています。現場映像の解析経験もあります」
千速は榊原を見なかった。
その説明は、よくできすぎていた。
よくできすぎている説明は、だいたい嘘だ。
「へぇ」
それだけ言って、千速は視線を外した。
今ここで追及しても無駄だ。
公安の会議室で、相手は用意している。
自分だけが感情で踏み込めば、逃げられる。
白バイで追跡する時と同じだ。
焦って詰めれば、相手は無理な逃げ方をする。
追うなら、逃げ道を読んでからだ。
会議の後半。
資料に、あの廃ビルの地図が出た。
奏斗が死んだことになった場所。
千速の指が止まった。
呼吸が浅くなる。
あの日の煙。
爆発音。
重悟の顔。
焼けた臭い。
見つからない身体。
全部が、一瞬で戻ってくる。
千速は唇を噛んだ。
榊原が説明する。
「この廃ビル跡付近は、対象グループが過去に下見していた可能性があります」
千速は低く言った。
「そこは、押村奏斗が死んだ場所だ」
会議室が静まり返る。
重悟が隣で小さく動いた。
止めようとしているのが分かる。
だが、千速は止まらなかった。
「私は、あの件にも違和感がある」
「千速」
重悟の声が低く飛ぶ。
「分かってる。今の議題じゃない」
そう言いながらも、千速は資料から目を上げた。
視線の先にいたのは、葛城だった。
その男は、表情を変えていない。
だが、変えていないことが不自然だった。
普通なら、殉職した刑事の名前が出れば、公安側の人間でも多少は反応する。
まして今回の対象地域と関係しているのなら。
でも葛城は、反応しなかった。
反応しないようにしていた。
それが千速には分かった。
「でも、あの日のカメラの死角と、この対象グループの動き方は似てる」
榊原が答える。
「関連性は調査します」
「頼む」
言葉だけなら、普通の依頼だった。
だが、千速の本心は違った。
調べろ。
隠すな。
あいつの死に何かあるなら、黙って済ませるな。
そして、もし目の前の男が何かを知っているなら。
必ず引きずり出す。
千速はもう一度、葛城を見た。
その男は視線を逸らさなかった。
それもまた、奏斗に似ていた。
逃げるくせに、肝心なところで逃げない。
本当に腹が立つ。
会議が終わった。
公安側の人間たちが資料をまとめ、部屋を出ようとする。
千速は椅子から立ち上がった。
今しかない。
ここで何かを掴めなければ、次に会える保証はない。
「葛城さん」
男の背中が止まった。
ほんの一瞬。
その止まり方が、やはり見覚えのあるものだった。
呼ばれて、逃げるかどうか迷った時の間。
奏斗もそうだった。
嘘をつく前に、ほんの一瞬だけ止まる。
葛城が振り返る。
「何でしょうか」
千速は近づいた。
距離を詰める。
顔を見る。
声を聞く。
匂いまでは分からない。
でも、空気が似ている。
千速は問う。
「前に、どこかで会ったことあるか?」
男は即答した。
「いいえ」
早い。
早すぎる。
千速の中で、疑いが濃くなる。
「本当に?」
「はい」
「声、似てるんだよ」
「誰にでしょうか」
千速は唇を噛んだ。
よく言えるな。
そう思った。
誰に?
そんなことを聞くな。
お前が一番分かってるだろ。
千速は低く言った。
「死んだ男に」
重悟が背後で言う。
「千速、やめろ」
分かっている。
こんな場所で言うことではない。
でも、止まらなかった。
「立ち方も、話し方も、視線の外し方も似てる」
葛城は静かに答えた。
「偶然だと思います」
その声を聞いて、千速は殴りたくなった。
偶然。
便利な言葉だ。
金属片を見つけたのも偶然か。
港湾部で見た影も偶然か。
路地で逃げた男が似ていたのも偶然か。
そして、今ここにいるお前が、こんなに奏斗に似ているのも偶然か。
そんなわけがない。
だが、証拠はない。
千速は深く息を吸った。
ここで感情を出せば、負ける。
「そうか」
そう言って、一歩横を通り過ぎる。
すれ違う瞬間、千速は声を落とした。
「逃げるなよ」
男の指が、わずかに震えた。
本当にわずかだった。
普通なら見逃す。
でも、千速は見逃さなかった。
白バイ隊員は、相手の一瞬の迷いを見る。
その一瞬で、逃げるか止まるかが決まるからだ。
葛城怜司。
いや。
千速は廊下へ出ながら、拳を握った。
奏斗。
お前なのか。
本当に、生きているのか。
廊下に出ると、重悟がすぐに追ってきた。
「千速」
「何だ」
「今のはやりすぎだ」
千速は足を止めずに言った。
「そうか?」
「公安の会議室で、相手を死んだ男扱いする奴があるか」
「似てたんだよ」
「似てるだけだ」
千速は振り返った。
「重悟はそう思うのか」
横溝重悟は答えなかった。
その沈黙で、千速は分かった。
重悟も引っかかっている。
「なあ、重悟」
「何だ」
「お前も見ただろ」
横溝は苦い顔をした。
「……ああ」
「似てたよな」
「似てた」
千速の胸が震えた。
自分だけではない。
見間違いではない。
少なくとも、重悟も同じ違和感を覚えた。
横溝は低く言う。
「だが、決めつけるな。相手が公安なら、迂闊に触ればこっちが潰される」
「分かってる」
「分かってねぇ顔だ」
「分かってる」
重悟はため息をついた。
「千速」
「何だ」
「もし、仮にだ」
横溝は言葉を選ぶように続けた。
「押村が生きていて、ああいう場所にいるなら、戻れない理由がある」
千速は奥歯を噛んだ。
「分かってる」
「それでも追うのか」
千速は即答した。
「追う」
横溝は目を細める。
「殴るためか」
「それもある」
「理由を聞くためか」
「それもある」
「戻ってこいと言うためか」
千速はすぐには答えられなかった。
戻ってこい。
そう言いたい。
でも、もし本当に戻れない理由があるなら。
もし奏斗が、自分たちを守るために消えたのなら。
その言葉は、あいつをさらに苦しめるかもしれない。
千速は低く言った。
「まず、生きてるって言わせる」
横溝は黙った。
千速は続けた。
「その後で、怒る。理由を聞く。殴るかどうかは、その内容次第だ」
「殴るのは確定じゃねぇのか」
「半分確定だ」
横溝は小さく笑った。
だがすぐに表情を引き締める。
「俺も調べる。ただし、勝手に突っ走るな」
千速は横溝を見た。
「奏斗みたいに?」
「そうだ」
「嫌な言い方するな」
「効くだろ」
千速は少しだけ目を伏せた。
確かに効いた。
奏斗が一人で抱え込んだことを、自分は怒っている。
なら、自分も同じことをしてはいけない。
千速は小さく頷いた。
「分かった。重悟には言う」
「俺だけか」
「三森にも必要なら」
「よし」
二人は廊下を歩き出した。
千速は一度だけ振り返った。
会議室の扉はもう閉まっている。
その向こうに、葛城怜司がいる。
いや。
死んだはずの男がいるかもしれない。
胸の奥が痛い。
怒りもある。
悲しみもある。
希望もある。
希望。
それが一番怖かった。
期待して、違った時。
今度こそ本当に、奏斗の死を認めなければならなくなる。
それでも、千速はもう止まれなかった。
白バイで一度捕捉した逃走車両を見失わないように。
小さな違和感を、手放さない。
金属片。
港湾部の影。
路地で見た男。
そして今日、会議室にいた葛城怜司。
点は線になり始めている。
千速は心の中で呟いた。
奏斗。
お前が本当に生きてるなら。
逃げても無駄だ。
私は、必ず追いつく。
サイレンは鳴らさない。
規制線も張らない。
でも、絶対に見失わない。
白バイ隊員の目を、甘く見るなよ。