会議室を出た後も、押村奏斗の指先には、千速の声が残っていた。
――逃げるなよ。
たった五文字。
それだけで、作り上げてきた葛城怜司という仮面が、内側からひび割れそうになった。
警視庁公安部の廊下を、榊原理人警視の後ろについて歩く。
奏斗は顔を上げていた。
視線も乱さない。
歩幅も変えない。
背筋も伸ばしたままだ。
だが、胸の中は静かではなかった。
千速は気づきかけている。
いや、もう半分は気づいている。
顔ではない。
声でもない。
名前でもない。
もっと厄介なものを見抜かれている。
自分の癖。
考え方。
沈黙の仕方。
嘘をつく前の、一瞬の間。
公安に来てから、何度も訓練された。
表情を消せ。
視線を制御しろ。
呼吸を変えろ。
歩き方を変えろ。
相手に記憶される特徴を削れ。
けれど、千速の前では意味がなかった。
彼女は、押村奏斗という人間を見ていた。
外側ではなく、内側を。
榊原が前を向いたまま言った。
「葛城」
「はい」
「随分、危なかったな」
「申し訳ありません」
「謝罪は要らない。事実確認だ」
榊原は角を曲がり、人気のない資料室へ入った。
奏斗も続く。
扉が閉まった瞬間、榊原は振り返った。
「萩原千速は、君を疑っている」
奏斗は答えなかった。
榊原は続ける。
「横溝重悟もだ。あの二人は勘がいい。特に萩原警部補は、理屈より先に身体で違和感を掴むタイプだな」
「……はい」
「君にとっては最悪の相手だ」
その通りだった。
千速は、逃げる相手を追う人間だ。
しかも、白バイ隊員としても、恋人としても。
一度見つけた違和感を手放すような女ではない。
榊原は資料を机に置いた。
「次の任務だ」
奏斗は表情を戻した。
「はい」
「黒瀬の残党が動いた。港湾部の逃走支援ネットワーク。その中核にいる男の名は、鳥羽真司。元暴力団関係者で、現在は輸送会社を隠れ蓑にしている」
「二輪車を使った逃走支援の手配役ですか」
「そうだ。黒瀬が拘束された後も、鳥羽は外部協力者の一部を逃がしている」
榊原は地図を広げた。
「次の取引場所は神奈川だ」
奏斗の胸がわずかに沈む。
「また神奈川ですか」
「不満か」
「いいえ」
「嘘が下手だな」
榊原は淡々と言った。
「鳥羽を押さえれば、黒瀬事件の外部網はほぼ潰せる。公安としてはここで終わらせたい」
奏斗は地図を見る。
港湾道路。
第三埠頭。
倉庫街。
そして、交通機動隊の管轄区域。
嫌な予感がした。
「神奈川県警との合同ですか」
「一部協力を求める」
「第三交通機動隊も?」
「当然だ。対象は二輪で逃走する可能性が高い」
奏斗は目を伏せた。
榊原はそれを見逃さなかった。
「葛城。君を現場から外すこともできる」
「不要です」
「萩原警部補と再接触する可能性がある」
「分かっています」
「なら、覚悟しておけ」
榊原の声が少し低くなる。
「表に出た以上、逃げ切ることはできない。隠すなら、隠し通せ。中途半端に揺れるな」
奏斗は静かに頷いた。
「承知しました」
だが、胸の奥では千速の声がまだ響いていた。
――逃げるなよ。
逃げている。
自分はずっと逃げている。
千速から。
横溝から。
押村奏斗だった自分から。
葛城怜司として生きるたびに、押村奏斗が遠ざかる。
そう思っていた。
だが、今日の会議で分かった。
遠ざかってなどいない。
千速の目の前に立った瞬間、自分はあまりにも簡単に押村奏斗へ戻りかけた。
その夜、奏斗は公安の仮眠室で一人、資料を確認していた。
鳥羽真司。
逃走支援ネットワークの中心人物。
黒瀬と直接連絡を取っていた形跡あり。
榊や尾崎を狙った狙撃手の手配にも関与した疑い。
現在、港湾部から国外へ逃げる準備中。
奏斗は資料をめくる手を止めた。
鳥羽の逃走予定ルート。
その一部が、千速が会議で指摘した側道と重なっていた。
あの時、千速は言った。
――実際に走った奴が選んでる。
その通りだった。
鳥羽の部下には、元バイク便ライダーや暴走族上がりの者が多い。
二輪の機動力を知っている連中だ。
パトカーでは追いにくい。
人混みに紛れる。
港湾部の隙間を抜ける。
白バイの追跡を逆手に取る。
奏斗は資料にメモを入れた。
その筆跡を見て、手が止まる。
押村奏斗の字だった。
公安に来てから、筆跡も変えるように言われていた。
それなのに、考え込むと昔の癖が出る。
奏斗はペンを置いた。
「……まだ消えていないな」
小さく呟いた。
押村奏斗は死んだ。
そう記録された。
けれど、自分の中では、まだ死にきれていない。
千速が気づいたのは、そのせいかもしれない。
スマートフォンが震えた。
榊原からだった。
明日、神奈川県警で事前協議。萩原警部補も出席予定。
奏斗は画面を見つめた。
また会う。
今度は、もっと近い場所で。
葛城怜司として。
奏斗は返信した。
承知しました。
短い文字を打つだけで、胸が痛んだ。