神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第63話 白い追跡者

会議室を出た後も、押村奏斗の指先には、千速の声が残っていた。

 

――逃げるなよ。

 

たった五文字。

 

それだけで、作り上げてきた葛城怜司という仮面が、内側からひび割れそうになった。

 

警視庁公安部の廊下を、榊原理人警視の後ろについて歩く。

 

奏斗は顔を上げていた。

 

視線も乱さない。

 

歩幅も変えない。

 

背筋も伸ばしたままだ。

 

だが、胸の中は静かではなかった。

 

千速は気づきかけている。

 

いや、もう半分は気づいている。

 

顔ではない。

声でもない。

名前でもない。

 

もっと厄介なものを見抜かれている。

 

自分の癖。

考え方。

沈黙の仕方。

嘘をつく前の、一瞬の間。

 

公安に来てから、何度も訓練された。

 

表情を消せ。

視線を制御しろ。

呼吸を変えろ。

歩き方を変えろ。

相手に記憶される特徴を削れ。

 

けれど、千速の前では意味がなかった。

 

彼女は、押村奏斗という人間を見ていた。

 

外側ではなく、内側を。

 

榊原が前を向いたまま言った。

 

「葛城」

 

「はい」

 

「随分、危なかったな」

 

「申し訳ありません」

 

「謝罪は要らない。事実確認だ」

 

榊原は角を曲がり、人気のない資料室へ入った。

 

奏斗も続く。

 

扉が閉まった瞬間、榊原は振り返った。

 

「萩原千速は、君を疑っている」

 

奏斗は答えなかった。

 

榊原は続ける。

 

「横溝重悟もだ。あの二人は勘がいい。特に萩原警部補は、理屈より先に身体で違和感を掴むタイプだな」

 

「……はい」

 

「君にとっては最悪の相手だ」

 

その通りだった。

 

千速は、逃げる相手を追う人間だ。

 

しかも、白バイ隊員としても、恋人としても。

 

一度見つけた違和感を手放すような女ではない。

 

榊原は資料を机に置いた。

 

「次の任務だ」

 

奏斗は表情を戻した。

 

「はい」

 

「黒瀬の残党が動いた。港湾部の逃走支援ネットワーク。その中核にいる男の名は、鳥羽真司。元暴力団関係者で、現在は輸送会社を隠れ蓑にしている」

 

「二輪車を使った逃走支援の手配役ですか」

 

「そうだ。黒瀬が拘束された後も、鳥羽は外部協力者の一部を逃がしている」

 

榊原は地図を広げた。

 

「次の取引場所は神奈川だ」

 

奏斗の胸がわずかに沈む。

 

「また神奈川ですか」

 

「不満か」

 

「いいえ」

 

「嘘が下手だな」

 

榊原は淡々と言った。

 

「鳥羽を押さえれば、黒瀬事件の外部網はほぼ潰せる。公安としてはここで終わらせたい」

 

奏斗は地図を見る。

 

港湾道路。

第三埠頭。

倉庫街。

そして、交通機動隊の管轄区域。

 

嫌な予感がした。

 

「神奈川県警との合同ですか」

 

「一部協力を求める」

 

「第三交通機動隊も?」

 

「当然だ。対象は二輪で逃走する可能性が高い」

 

奏斗は目を伏せた。

 

榊原はそれを見逃さなかった。

 

「葛城。君を現場から外すこともできる」

 

「不要です」

 

「萩原警部補と再接触する可能性がある」

 

「分かっています」

 

「なら、覚悟しておけ」

 

榊原の声が少し低くなる。

 

「表に出た以上、逃げ切ることはできない。隠すなら、隠し通せ。中途半端に揺れるな」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「承知しました」

 

だが、胸の奥では千速の声がまだ響いていた。

 

――逃げるなよ。

 

逃げている。

 

自分はずっと逃げている。

 

千速から。

横溝から。

押村奏斗だった自分から。

 

葛城怜司として生きるたびに、押村奏斗が遠ざかる。

 

そう思っていた。

 

だが、今日の会議で分かった。

 

遠ざかってなどいない。

 

千速の目の前に立った瞬間、自分はあまりにも簡単に押村奏斗へ戻りかけた。

 

その夜、奏斗は公安の仮眠室で一人、資料を確認していた。

 

鳥羽真司。

 

逃走支援ネットワークの中心人物。

黒瀬と直接連絡を取っていた形跡あり。

榊や尾崎を狙った狙撃手の手配にも関与した疑い。

現在、港湾部から国外へ逃げる準備中。

 

奏斗は資料をめくる手を止めた。

 

鳥羽の逃走予定ルート。

 

その一部が、千速が会議で指摘した側道と重なっていた。

 

あの時、千速は言った。

 

――実際に走った奴が選んでる。

 

その通りだった。

 

鳥羽の部下には、元バイク便ライダーや暴走族上がりの者が多い。

 

二輪の機動力を知っている連中だ。

 

パトカーでは追いにくい。

人混みに紛れる。

港湾部の隙間を抜ける。

白バイの追跡を逆手に取る。

 

奏斗は資料にメモを入れた。

 

その筆跡を見て、手が止まる。

 

押村奏斗の字だった。

 

公安に来てから、筆跡も変えるように言われていた。

 

それなのに、考え込むと昔の癖が出る。

 

奏斗はペンを置いた。

 

「……まだ消えていないな」

 

小さく呟いた。

 

押村奏斗は死んだ。

 

そう記録された。

 

けれど、自分の中では、まだ死にきれていない。

 

千速が気づいたのは、そのせいかもしれない。

 

スマートフォンが震えた。

 

榊原からだった。

 

明日、神奈川県警で事前協議。萩原警部補も出席予定。

 

奏斗は画面を見つめた。

 

また会う。

 

今度は、もっと近い場所で。

 

葛城怜司として。

 

奏斗は返信した。

 

承知しました。

 

短い文字を打つだけで、胸が痛んだ。

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