神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第64話 白バイ隊員の目

神奈川県警本部に足を踏み入れるのは、死んだことになってから初めてだった。

 

奏斗は榊原の後ろに立ち、エントランスを通った。

 

見慣れた床。

見慣れた案内板。

見慣れた空気。

 

すべてが懐かしく、すべてが遠かった。

 

押村奏斗としてなら、ここを何度も歩いた。

 

横溝に呼ばれ、資料を抱え、事件のことで頭をいっぱいにしながら。

 

今は違う。

 

葛城怜司として、公安の人間として、よそ者の顔で歩く。

 

エレベーターに乗る直前、捜査一課の若い刑事とすれ違った。

 

見覚えがある。

 

以前、事件で一度だけ一緒になった刑事だ。

 

相手は奏斗を見ても、何も反応しなかった。

 

当然だ。

 

髪型も眼鏡も服装も違う。

 

何より、押村奏斗は死んでいる。

 

死んだ人間を、廊下で見かけるはずがない。

 

そう思うから、人は見落とす。

 

だが。

 

会議室に入ると、千速だけは違った。

 

彼女はすでに座っていた。

 

第三交通機動隊の制服ではなく、濃紺のジャケットに淡い色のブラウス。

 

前回よりもさらに落ち着いた服装だった。

 

柔らかい印象のはずなのに、目は鋭い。

 

奏斗が入った瞬間、その目がまっすぐこちらを捕らえた。

 

逃げられない。

 

そう感じた。

 

横溝も隣にいた。

 

腕を組み、明らかに不機嫌な顔をしている。

 

奏斗は榊原の後ろに控えた。

 

千速の視線が刺さる。

 

榊原が挨拶を済ませ、鳥羽の逃走支援ネットワークについて説明を始めた。

 

奏斗は必要な資料を配布する。

 

千速の前にも一部置く。

 

その瞬間、指先が近づいた。

 

千速が資料を受け取る手を、わざと少し遅らせた。

 

奏斗は顔を上げない。

 

だが、彼女の視線を感じた。

 

「ありがとうございます、葛城さん」

 

千速が言った。

 

声は平静だった。

 

だが、わずかに試す響きがある。

 

奏斗は答えた。

 

「いえ」

 

短く。

 

必要最低限に。

 

千速は資料を開きながら言う。

 

「葛城さんは、神奈川の道に詳しいんだな」

 

奏斗の背中に緊張が走る。

 

「資料で確認しています」

 

「前も同じこと言ってたな」

 

「事実です」

 

千速は小さく笑った。

 

「便利な事実だ」

 

横溝が低く咳払いをした。

 

「千速」

 

「分かってる。仕事の話をする」

 

千速は地図を指した。

 

「鳥羽が逃げるなら、このルートは使わない」

 

榊原が問う。

 

「理由は?」

 

「分かりやすすぎる。いかにも二輪が逃げやすい道だ。警察に読まれることも分かってるはずだ」

 

奏斗は地図を見た。

 

確かに。

 

自分も同じ違和感を持っていた。

 

千速は続ける。

 

「本命はこっちだ」

 

別の細い道を指す。

 

「市場裏の搬入路。夜なら人が少ない。大型車の陰も使える。白バイなら追えるが、途中で鉄柵がある。普通のバイクなら横の隙間を抜けられる」

 

榊原が奏斗を見る。

 

「葛城」

 

奏斗は地図を確認し、頷いた。

 

「萩原警部補の指摘通りです。鳥羽の部下が過去に使った逃走経路とも一致します」

 

千速の目が動いた。

 

「やけに素直に認めるんだな」

 

奏斗は淡々と答える。

 

「正しい分析です」

 

「へぇ」

 

その声が、また危ない。

 

千速は資料を閉じた。

 

「なら、当日は私がその搬入路を押さえる」

 

奏斗は思わず言いかけた。

 

危険だ、と。

 

だが、飲み込んだ。

 

言えば、押村奏斗になる。

 

葛城怜司なら、こう言うべきだ。

 

「対象が武装している可能性があります。交通部単独での接近は避けるべきです」

 

千速の目が細くなる。

 

「心配してるのか?」

 

奏斗は表情を変えない。

 

「作戦上のリスクを述べています」

 

「そうか」

 

千速は一度視線を外し、また戻した。

 

「その言い方も似てる」

 

会議室が静かになる。

 

榊原が口を開こうとしたが、奏斗はその前に答えた。

 

「どなたに似ているかは存じませんが、任務に不要な話です」

 

千速の目がわずかに揺れた。

 

横溝が眉を寄せる。

 

奏斗は自分の声が少し冷たくなりすぎたことに気づいた。

 

だが、戻せない。

 

千速は静かに言った。

 

「そうだな。不要だ」

 

その声に、痛みがあった。

 

奏斗は視線を下げそうになり、堪えた。

 

会議後、奏斗は廊下で榊原に追いつこうとした。

 

だが、背後から声がした。

 

「葛城さん」

 

また千速だった。

 

奏斗は足を止める。

 

振り返ると、千速が一人で立っていた。

 

横溝はいない。

 

おそらく、わざと離れた。

 

奏斗は言った。

 

「何でしょうか」

 

千速は近づいてくる。

 

前回よりも近い。

 

「ひとつ聞きたい」

 

「作戦に関することでしたら」

 

「カレー、作れるか?」

 

奏斗の呼吸が止まりかけた。

 

それは反則だった。

 

千速が何を試しているのか、すぐに分かった。

 

あの日の約束。

 

ゼロへの異動を断ったと嘘をついた日。

 

千速は言った。

 

――お前のカレー。

 

――生活力を確認するって言っただろ。

 

奏斗は一瞬だけ、答えを失った。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「どうした?」

 

奏斗は声を整えた。

 

「突然の質問で、意図が分かりません」

 

「答えればいい。作れるのか、作れないのか」

 

「一般的な料理なら」

 

「カレーは?」

 

奏斗はゆっくり答えた。

 

「作れます」

 

千速の表情が変わる。

 

ほんのわずかに。

 

痛みと怒りと希望が混ざった顔。

 

「そうか」

 

「それが何か?」

 

千速は首を横に振った。

 

「いや。知り合いに、作るって約束したまま逃げた男がいてな」

 

奏斗の胸が軋む。

 

「そうですか」

 

「そいつ、約束破るような奴じゃなかった」

 

「……」

 

「でも、破った」

 

千速の声は低かった。

 

「死んだから仕方ないって、何度も思おうとした。でも最近、そうじゃないかもしれないと思ってる」

 

奏斗は何も言えなかった。

 

千速は一歩近づいた。

 

「葛城さん」

 

「はい」

 

「お前は、約束破る奴か?」

 

奏斗は彼女を見た。

 

その目を見てしまった。

 

もう逃げられなかった。

 

だが、言えない。

 

「任務に必要な約束であれば、守ります」

 

千速は笑った。

 

悲しそうな笑いだった。

 

「公安らしい答えだな」

 

「……」

 

「悪かった。変なことを聞いた」

 

千速は背を向けた。

 

その背中を見た瞬間、奏斗は呼び止めそうになった。

 

千速。

 

そう呼びたかった。

 

だが、声は出せなかった。

 

千速は振り返らずに言った。

 

「当日、搬入路で待ってる。逃げる奴は止める」

 

そして歩き去った。

 

奏斗はその場に立ち尽くした。

 

約束を破る奴か。

 

違うと言いたかった。

 

でも、破った。

 

千速との約束を、何度も。

 

黙って消えないという約束も。

カレーを作るという約束も。

隣にいるという、言葉にしなかった約束も。

 

全部、破った。

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