神奈川県警本部に足を踏み入れるのは、死んだことになってから初めてだった。
奏斗は榊原の後ろに立ち、エントランスを通った。
見慣れた床。
見慣れた案内板。
見慣れた空気。
すべてが懐かしく、すべてが遠かった。
押村奏斗としてなら、ここを何度も歩いた。
横溝に呼ばれ、資料を抱え、事件のことで頭をいっぱいにしながら。
今は違う。
葛城怜司として、公安の人間として、よそ者の顔で歩く。
エレベーターに乗る直前、捜査一課の若い刑事とすれ違った。
見覚えがある。
以前、事件で一度だけ一緒になった刑事だ。
相手は奏斗を見ても、何も反応しなかった。
当然だ。
髪型も眼鏡も服装も違う。
何より、押村奏斗は死んでいる。
死んだ人間を、廊下で見かけるはずがない。
そう思うから、人は見落とす。
だが。
会議室に入ると、千速だけは違った。
彼女はすでに座っていた。
第三交通機動隊の制服ではなく、濃紺のジャケットに淡い色のブラウス。
前回よりもさらに落ち着いた服装だった。
柔らかい印象のはずなのに、目は鋭い。
奏斗が入った瞬間、その目がまっすぐこちらを捕らえた。
逃げられない。
そう感じた。
横溝も隣にいた。
腕を組み、明らかに不機嫌な顔をしている。
奏斗は榊原の後ろに控えた。
千速の視線が刺さる。
榊原が挨拶を済ませ、鳥羽の逃走支援ネットワークについて説明を始めた。
奏斗は必要な資料を配布する。
千速の前にも一部置く。
その瞬間、指先が近づいた。
千速が資料を受け取る手を、わざと少し遅らせた。
奏斗は顔を上げない。
だが、彼女の視線を感じた。
「ありがとうございます、葛城さん」
千速が言った。
声は平静だった。
だが、わずかに試す響きがある。
奏斗は答えた。
「いえ」
短く。
必要最低限に。
千速は資料を開きながら言う。
「葛城さんは、神奈川の道に詳しいんだな」
奏斗の背中に緊張が走る。
「資料で確認しています」
「前も同じこと言ってたな」
「事実です」
千速は小さく笑った。
「便利な事実だ」
横溝が低く咳払いをした。
「千速」
「分かってる。仕事の話をする」
千速は地図を指した。
「鳥羽が逃げるなら、このルートは使わない」
榊原が問う。
「理由は?」
「分かりやすすぎる。いかにも二輪が逃げやすい道だ。警察に読まれることも分かってるはずだ」
奏斗は地図を見た。
確かに。
自分も同じ違和感を持っていた。
千速は続ける。
「本命はこっちだ」
別の細い道を指す。
「市場裏の搬入路。夜なら人が少ない。大型車の陰も使える。白バイなら追えるが、途中で鉄柵がある。普通のバイクなら横の隙間を抜けられる」
榊原が奏斗を見る。
「葛城」
奏斗は地図を確認し、頷いた。
「萩原警部補の指摘通りです。鳥羽の部下が過去に使った逃走経路とも一致します」
千速の目が動いた。
「やけに素直に認めるんだな」
奏斗は淡々と答える。
「正しい分析です」
「へぇ」
その声が、また危ない。
千速は資料を閉じた。
「なら、当日は私がその搬入路を押さえる」
奏斗は思わず言いかけた。
危険だ、と。
だが、飲み込んだ。
言えば、押村奏斗になる。
葛城怜司なら、こう言うべきだ。
「対象が武装している可能性があります。交通部単独での接近は避けるべきです」
千速の目が細くなる。
「心配してるのか?」
奏斗は表情を変えない。
「作戦上のリスクを述べています」
「そうか」
千速は一度視線を外し、また戻した。
「その言い方も似てる」
会議室が静かになる。
榊原が口を開こうとしたが、奏斗はその前に答えた。
「どなたに似ているかは存じませんが、任務に不要な話です」
千速の目がわずかに揺れた。
横溝が眉を寄せる。
奏斗は自分の声が少し冷たくなりすぎたことに気づいた。
だが、戻せない。
千速は静かに言った。
「そうだな。不要だ」
その声に、痛みがあった。
奏斗は視線を下げそうになり、堪えた。
会議後、奏斗は廊下で榊原に追いつこうとした。
だが、背後から声がした。
「葛城さん」
また千速だった。
奏斗は足を止める。
振り返ると、千速が一人で立っていた。
横溝はいない。
おそらく、わざと離れた。
奏斗は言った。
「何でしょうか」
千速は近づいてくる。
前回よりも近い。
「ひとつ聞きたい」
「作戦に関することでしたら」
「カレー、作れるか?」
奏斗の呼吸が止まりかけた。
それは反則だった。
千速が何を試しているのか、すぐに分かった。
あの日の約束。
ゼロへの異動を断ったと嘘をついた日。
千速は言った。
――お前のカレー。
――生活力を確認するって言っただろ。
奏斗は一瞬だけ、答えを失った。
千速の目が鋭くなる。
「どうした?」
奏斗は声を整えた。
「突然の質問で、意図が分かりません」
「答えればいい。作れるのか、作れないのか」
「一般的な料理なら」
「カレーは?」
奏斗はゆっくり答えた。
「作れます」
千速の表情が変わる。
ほんのわずかに。
痛みと怒りと希望が混ざった顔。
「そうか」
「それが何か?」
千速は首を横に振った。
「いや。知り合いに、作るって約束したまま逃げた男がいてな」
奏斗の胸が軋む。
「そうですか」
「そいつ、約束破るような奴じゃなかった」
「……」
「でも、破った」
千速の声は低かった。
「死んだから仕方ないって、何度も思おうとした。でも最近、そうじゃないかもしれないと思ってる」
奏斗は何も言えなかった。
千速は一歩近づいた。
「葛城さん」
「はい」
「お前は、約束破る奴か?」
奏斗は彼女を見た。
その目を見てしまった。
もう逃げられなかった。
だが、言えない。
「任務に必要な約束であれば、守ります」
千速は笑った。
悲しそうな笑いだった。
「公安らしい答えだな」
「……」
「悪かった。変なことを聞いた」
千速は背を向けた。
その背中を見た瞬間、奏斗は呼び止めそうになった。
千速。
そう呼びたかった。
だが、声は出せなかった。
千速は振り返らずに言った。
「当日、搬入路で待ってる。逃げる奴は止める」
そして歩き去った。
奏斗はその場に立ち尽くした。
約束を破る奴か。
違うと言いたかった。
でも、破った。
千速との約束を、何度も。
黙って消えないという約束も。
カレーを作るという約束も。
隣にいるという、言葉にしなかった約束も。
全部、破った。