作戦当日。
港湾部には、冷たい雨が降っていた。
鳥羽真司は、深夜一時に市場裏の搬入路を通る。
公安が掴んだ情報では、鳥羽は黒瀬事件の外部協力者リストを持って逃げる予定だった。
それが手に入れば、黒瀬の網は完全に潰せる。
奏斗は公安側の覆面車両の中で待機していた。
榊原は通信を確認しながら言う。
「葛城、対象が搬入路に入ったら、君は後方支援だ」
「了解」
「萩原警部補の動きに気を取られるな」
「分かっています」
「分かっている人間の返事ではないな」
奏斗は答えなかった。
通信に千速の声が入る。
『第三交機、配置完了。市場裏搬入路、異常なし』
その声を聞くだけで、胸が痛む。
だが同時に、妙な安心感もあった。
千速は現場にいる。
あの声で、あの目で、道路を見ている。
なら、逃走経路は簡単には抜かれない。
横溝の声も入った。
『捜査一課、東側封鎖完了。公安さんよ、今度は情報を隠すなよ』
榊原が淡々と返す。
「必要な情報は共有しています」
『その“必要”を決めるのがそっちってのが気に入らねぇ』
「ご意見として受け取ります」
奏斗は少しだけ懐かしさを感じた。
横溝の口の悪さ。
それを聞いているだけで、神奈川県警にいた頃の空気が戻る。
だが、戻ってはいけない。
数分後、対象車両が現れた。
黒いワゴン車。
その後ろに、二台の大型バイク。
鳥羽の逃走支援部隊だ。
榊原が指示を出す。
「対象確認。全班、待機」
ワゴン車は予定通り市場裏へ向かった。
だが、搬入路の手前で急に停車する。
奏斗の眉が動く。
「止まった」
榊原が低く言う。
「気づかれたか」
次の瞬間、ワゴン車の後部ドアが開いた。
中から出てきたのは、鳥羽ではなかった。
囮。
奏斗はすぐに理解した。
「本命は別ルートです」
同時に、通信に千速の声が入る。
『待て。西側の高架下にバイク音。二台じゃない、三台いる』
奏斗は地図を見る。
西側高架下。
そこは、千速が本命と読んだ搬入路のさらに裏。
地図にもほとんど載らない抜け道だった。
鳥羽は、千速の読みをさらに読んでいた。
榊原が指示する。
「西側へ回れ」
奏斗は車を降りた。
「俺が行きます」
榊原が止める。
「葛城、後方支援だ」
「間に合いません」
「萩原警部補がいる」
「だからです」
言ってしまってから、奏斗は自分の失言に気づいた。
榊原の目が鋭くなる。
だが、止めなかった。
「三分だけだ。接触は最小限にしろ」
奏斗は走った。
雨の中、高架下へ向かう。
遠くで白バイのサイレンが鳴った。
千速が追跡に入った。
奏斗は無線を切り替える。
「萩原警部補、対象は高架下から北へ抜ける可能性があります」
一瞬、通信が静まった。
千速の声が返る。
『葛城か』
「はい」
『見えてるのか』
「音とルートからの推測です」
『奏斗みたいなこと言うな』
奏斗は息を詰める。
だが、走りながら答えた。
「今は対象確保を優先してください」
千速は少し黙り、低く言った。
『了解』
白バイが雨の路面を切り裂く音が響いた。
奏斗は高架下へ出た。
そこに黒いバイクが一台、横転していた。
囮の一台だ。
その奥で、別のバイクが千速の進路を塞ごうとしている。
危ない。
奏斗は近くにあった金属柵を蹴り倒し、バイクの前へ投げ出した。
逃走バイクが急ブレーキをかけ、バランスを崩す。
千速の白バイがその横を滑るように抜けた。
見事だった。
雨の路面。
狭い高架下。
視界不良。
それでも千速は、白バイを完全に支配していた。
奏斗は思わず見入ってしまった。
次の瞬間、背後から男が襲いかかってきた。
奏斗は反射的に身をかわし、腕を取って投げる。
刑事時代から染みついた動き。
男を地面に押さえ込んだ時、千速の白バイがすぐ近くで止まった。
千速がヘルメット越しにこちらを見る。
奏斗は顔を上げないようにした。
だが、遅かった。
千速は今の動きを見ていた。
「……その取り押さえ方」
奏斗は男を拘束しながら言う。
「対象一名確保」
千速は白バイを降り、近づく。
「葛城」
「萩原警部補、鳥羽を追ってください」
「お前」
「鳥羽が逃げます」
その言葉で千速は一瞬だけ迷った。
任務か。
疑惑か。
千速は歯を食いしばった。
「あとで話す」
そう言って、再び白バイに跨った。
奏斗は雨の中、その背中を見送った。
あとで話す。
その言葉は、逃げ道を塞ぐための宣告に聞こえた。