鳥羽真司の端末解析により、黒瀬事件の外部協力者は一斉に摘発された。
公安、警視庁、神奈川県警。
それぞれが表に出せる範囲で動き、黒瀬の残した網はようやく断ち切られた。
新章の事件は、ここで終わった。
だが、奏斗にとって本当の終わりは別の場所にあった。
数日後。
奏斗は榊原に呼ばれた。
「葛城。神奈川県警への報告書提出に同行しろ」
「俺が行く必要は」
「ある」
榊原は短く言った。
「逃げるな」
奏斗は何も言えなくなった。
その言葉を、公安の上司から聞くとは思わなかった。
榊原は静かに続ける。
「萩原警部補は、もう確信に近いところまで来ている。横溝警部もだ」
「なら、なおさら俺は行くべきではありません」
「違う」
榊原は奏斗を見た。
「君が行かなければ、彼女はさらに追う。今度はもっと危険な方法でな」
奏斗は目を伏せた。
千速なら、そうする。
きっと一人でも調べ続ける。
それがどれほど危険でも。
「接触は制限する。だが、向き合え」
榊原は言った。
「公安は逃げる場所ではない」
その言葉は、重かった。
神奈川県警本部。
報告は短時間で終わった。
鳥羽の摘発結果。
港湾部の逃走支援ネットワークの解体。
今後の警戒体制。
横溝は最後まで不機嫌だったが、仕事として必要な話はした。
千速は黙っていた。
あまりにも静かだった。
それがかえって怖かった。
報告後、榊原は横溝と別室で話すと言い、奏斗を廊下に残した。
明らかに作られた状況だった。
奏斗は気づいていた。
そして、千速も気づいていた。
廊下には二人だけ。
千速が口を開く。
「葛城」
「はい」
「少し歩け」
命令だった。
奏斗は拒めなかった。
二人は神奈川県警本部の裏手にある駐車場へ出た。
そこには、千速の白バイが停められていた。
白い車体。
磨かれたミラー。
整えられた装備。
千速は白バイの横に立った。
「ここなら、変な盗聴は少ないだろ」
「話とは」
「最後の確認だ」
千速は奏斗を見る。
「私は、お前が押村奏斗だと思ってる」
奏斗は沈黙した。
千速は続ける。
「証拠は弱い。金属片、癖、声、動き、反応。どれも決定打にはならない」
「なら」
「でも、私には十分だ」
奏斗の胸が苦しくなる。
千速は一歩近づいた。
「お前、私が危ない時だけ顔が変わる」
奏斗は目を伏せそうになった。
「葛城怜司なら、そんな顔をする理由がない」
「……」
「押村奏斗なら、ある」
雨は降っていなかった。
空は曇っている。
風が少し冷たい。
千速は静かに言った。
「なあ、奏斗」
名前を呼ばれた。
胸の奥が、砕けそうになった。
奏斗はそれでも答えなかった。
千速はさらに言う。
「返事しろとは言わねぇ」
「……」
「でも、聞け」
千速の声がわずかに震えた。
「私は、お前が死んだと思って葬儀に出た。遺影の前に花を置いた。馬鹿野郎って言った。何回も、何回も、死んだんだって自分に言い聞かせた」
奏斗は拳を握った。
「それでも納得できなかった。お前が一人で死ぬのが、どうしても納得できなかった」
千速の目に涙はなかった。
だが、声は痛かった。
「だから探した。見つけた。お前が残した痕跡を」
奏斗はようやく口を開いた。
「危険です」
千速の目が鋭くなる。
「今、何て言った」
奏斗はしまったと思った。
葛城怜司なら言わない。
押村奏斗だから、言った。
千速はゆっくり近づく。
「私が危険だって?」
「……」
「また守るために黙るのか」
奏斗は答えられなかった。
千速は彼の胸倉を掴んだ。
強くはない。
だが、逃がさない力だった。
「だったら、もう確定だ」
奏斗は目を閉じた。
千速の手。
懐かしい体温。
もう触れる資格はないと思っていたものが、今、自分を掴んでいる。
千速は低く言った。
「葛城怜司は、私を守ろうとして黙らない」
奏斗は目を開ける。
千速の顔が近い。
怒っている。
泣きそうでもある。
それでも真っ直ぐだった。
「奏斗なら、やる」
奏斗の唇がかすかに震えた。
否定しなければならない。
任務のために。
千速を守るために。
公安の立場を守るために。
だが、もう言えなかった。
千速は声を落とす。
「一回だけでいい」
「……」
「私の名前を呼べ」
奏斗の呼吸が止まった。
千速の手が、胸倉を掴んだまま震えている。
それは命令ではなかった。
願いだった。
奏斗は長い沈黙の後、目を伏せた。
そして、ほんの小さな声で言った。
「……千速」
その瞬間、千速の表情が崩れた。
怒りも、疑いも、必死に堪えていたものも。
全部が一瞬で揺れた。
「……やっぱり」
奏斗はすぐに言った。
「今のは」
「もう遅い」
千速は胸倉を掴んだ手に力を込めた。
「聞いた」
奏斗は何も言えなかった。
千速は涙を落とさなかった。
それでも、泣いているような顔だった。
「生きてたんだな」
奏斗は答えない。
答えられない。
だが、否定もしなかった。
それが答えだった。
千速は歯を食いしばる。
そして次の瞬間、奏斗の胸を拳で叩いた。
強く。
痛かった。
でも、殴られて当然だった。
「馬鹿野郎」
千速の声が震える。
「本当に……馬鹿野郎」
奏斗は静かに言った。
「すまない」
千速は顔を上げる。
「謝るな」
懐かしい言葉だった。
奏斗は胸が詰まった。
千速はもう一度、低く言った。
「謝るくらいなら、帰ってこい」
奏斗は目を伏せる。
「今は、戻れない」
千速は目を閉じた。
その言葉を予想していた顔だった。
「……だろうな」
「千速」
「呼ぶな」
千速はそう言った。
だが、胸倉を掴む手は離さなかった。
「今呼ばれたら、許しそうになる」
奏斗は黙った。
千速は深く息を吸う。
「事情はあるんだろ。公安だのゼロだの、戻れない理由もあるんだろ」
「……ああ」
「でも、私は許してない」
「分かっている」
「勝手に死んだことにしたことも、嘘ついたことも、私に葬儀で花を置かせたことも」
奏斗は静かに頷いた。
「分かっている」
千速はようやく手を離した。
「なら覚えとけ」
奏斗は顔を上げる。
千速は白バイの横に立ち、真っ直ぐ彼を見た。
「私は、お前が生きてるって気づいた」
「……」
「もう二度と、完全には逃がさねぇ」
奏斗は何も言えなかった。
千速は踵を返し、白バイに跨った。
ヘルメットを被る前に、最後に一度だけ振り返る。
「奏斗」
今度は、はっきり名前を呼んだ。
奏斗は顔を上げる。
千速は言った。
「次に会ったら、ちゃんと理由を聞く。逃げたら追う」
白バイのエンジンがかかる。
低い振動が駐車場に響いた。
千速はヘルメットを被り、白バイを発進させる。
サイレンは鳴らない。
けれど、奏斗には分かった。
追跡はもう始まっている。
公安としての任務は終わった。
黒瀬の残した網も、鳥羽の逃走支援も潰えた。
だが、押村奏斗としての罪は、まだ終わっていない。
千速は気づいた。
自分が生きていることに。
そして、彼女はもう止まらない。
奏斗は白バイが遠ざかるのを見つめながら、小さく呟いた。
「……千速」
その名を呼べる場所に戻るには、まだ遠い。
けれど、完全に死んだままではいられなくなった。
白い追跡者は、もう彼を捕らえている。