神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第67話 千速

鳥羽真司の端末解析により、黒瀬事件の外部協力者は一斉に摘発された。

 

公安、警視庁、神奈川県警。

 

それぞれが表に出せる範囲で動き、黒瀬の残した網はようやく断ち切られた。

 

新章の事件は、ここで終わった。

 

だが、奏斗にとって本当の終わりは別の場所にあった。

 

数日後。

 

奏斗は榊原に呼ばれた。

 

「葛城。神奈川県警への報告書提出に同行しろ」

 

「俺が行く必要は」

 

「ある」

 

榊原は短く言った。

 

「逃げるな」

 

奏斗は何も言えなくなった。

 

その言葉を、公安の上司から聞くとは思わなかった。

 

榊原は静かに続ける。

 

「萩原警部補は、もう確信に近いところまで来ている。横溝警部もだ」

 

「なら、なおさら俺は行くべきではありません」

 

「違う」

 

榊原は奏斗を見た。

 

「君が行かなければ、彼女はさらに追う。今度はもっと危険な方法でな」

 

奏斗は目を伏せた。

 

千速なら、そうする。

 

きっと一人でも調べ続ける。

 

それがどれほど危険でも。

 

「接触は制限する。だが、向き合え」

 

榊原は言った。

 

「公安は逃げる場所ではない」

 

その言葉は、重かった。

 

神奈川県警本部。

 

報告は短時間で終わった。

 

鳥羽の摘発結果。

港湾部の逃走支援ネットワークの解体。

今後の警戒体制。

 

横溝は最後まで不機嫌だったが、仕事として必要な話はした。

 

千速は黙っていた。

 

あまりにも静かだった。

 

それがかえって怖かった。

 

報告後、榊原は横溝と別室で話すと言い、奏斗を廊下に残した。

 

明らかに作られた状況だった。

 

奏斗は気づいていた。

 

そして、千速も気づいていた。

 

廊下には二人だけ。

 

千速が口を開く。

 

「葛城」

 

「はい」

 

「少し歩け」

 

命令だった。

 

奏斗は拒めなかった。

 

二人は神奈川県警本部の裏手にある駐車場へ出た。

 

そこには、千速の白バイが停められていた。

 

白い車体。

 

磨かれたミラー。

 

整えられた装備。

 

千速は白バイの横に立った。

 

「ここなら、変な盗聴は少ないだろ」

 

「話とは」

 

「最後の確認だ」

 

千速は奏斗を見る。

 

「私は、お前が押村奏斗だと思ってる」

 

奏斗は沈黙した。

 

千速は続ける。

 

「証拠は弱い。金属片、癖、声、動き、反応。どれも決定打にはならない」

 

「なら」

 

「でも、私には十分だ」

 

奏斗の胸が苦しくなる。

 

千速は一歩近づいた。

 

「お前、私が危ない時だけ顔が変わる」

 

奏斗は目を伏せそうになった。

 

「葛城怜司なら、そんな顔をする理由がない」

 

「……」

 

「押村奏斗なら、ある」

 

雨は降っていなかった。

 

空は曇っている。

 

風が少し冷たい。

 

千速は静かに言った。

 

「なあ、奏斗」

 

名前を呼ばれた。

 

胸の奥が、砕けそうになった。

 

奏斗はそれでも答えなかった。

 

千速はさらに言う。

 

「返事しろとは言わねぇ」

 

「……」

 

「でも、聞け」

 

千速の声がわずかに震えた。

 

「私は、お前が死んだと思って葬儀に出た。遺影の前に花を置いた。馬鹿野郎って言った。何回も、何回も、死んだんだって自分に言い聞かせた」

 

奏斗は拳を握った。

 

「それでも納得できなかった。お前が一人で死ぬのが、どうしても納得できなかった」

 

千速の目に涙はなかった。

 

だが、声は痛かった。

 

「だから探した。見つけた。お前が残した痕跡を」

 

奏斗はようやく口を開いた。

 

「危険です」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「今、何て言った」

 

奏斗はしまったと思った。

 

葛城怜司なら言わない。

 

押村奏斗だから、言った。

 

千速はゆっくり近づく。

 

「私が危険だって?」

 

「……」

 

「また守るために黙るのか」

 

奏斗は答えられなかった。

 

千速は彼の胸倉を掴んだ。

 

強くはない。

 

だが、逃がさない力だった。

 

「だったら、もう確定だ」

 

奏斗は目を閉じた。

 

千速の手。

 

懐かしい体温。

 

もう触れる資格はないと思っていたものが、今、自分を掴んでいる。

 

千速は低く言った。

 

「葛城怜司は、私を守ろうとして黙らない」

 

奏斗は目を開ける。

 

千速の顔が近い。

 

怒っている。

 

泣きそうでもある。

 

それでも真っ直ぐだった。

 

「奏斗なら、やる」

 

奏斗の唇がかすかに震えた。

 

否定しなければならない。

 

任務のために。

千速を守るために。

公安の立場を守るために。

 

だが、もう言えなかった。

 

千速は声を落とす。

 

「一回だけでいい」

 

「……」

 

「私の名前を呼べ」

 

奏斗の呼吸が止まった。

 

千速の手が、胸倉を掴んだまま震えている。

 

それは命令ではなかった。

 

願いだった。

 

奏斗は長い沈黙の後、目を伏せた。

 

そして、ほんの小さな声で言った。

 

「……千速」

 

その瞬間、千速の表情が崩れた。

 

怒りも、疑いも、必死に堪えていたものも。

 

全部が一瞬で揺れた。

 

「……やっぱり」

 

奏斗はすぐに言った。

 

「今のは」

 

「もう遅い」

 

千速は胸倉を掴んだ手に力を込めた。

 

「聞いた」

 

奏斗は何も言えなかった。

 

千速は涙を落とさなかった。

 

それでも、泣いているような顔だった。

 

「生きてたんだな」

 

奏斗は答えない。

 

答えられない。

 

だが、否定もしなかった。

 

それが答えだった。

 

千速は歯を食いしばる。

 

そして次の瞬間、奏斗の胸を拳で叩いた。

 

強く。

 

痛かった。

 

でも、殴られて当然だった。

 

「馬鹿野郎」

 

千速の声が震える。

 

「本当に……馬鹿野郎」

 

奏斗は静かに言った。

 

「すまない」

 

千速は顔を上げる。

 

「謝るな」

 

懐かしい言葉だった。

 

奏斗は胸が詰まった。

 

千速はもう一度、低く言った。

 

「謝るくらいなら、帰ってこい」

 

奏斗は目を伏せる。

 

「今は、戻れない」

 

千速は目を閉じた。

 

その言葉を予想していた顔だった。

 

「……だろうな」

 

「千速」

 

「呼ぶな」

 

千速はそう言った。

 

だが、胸倉を掴む手は離さなかった。

 

「今呼ばれたら、許しそうになる」

 

奏斗は黙った。

 

千速は深く息を吸う。

 

「事情はあるんだろ。公安だのゼロだの、戻れない理由もあるんだろ」

 

「……ああ」

 

「でも、私は許してない」

 

「分かっている」

 

「勝手に死んだことにしたことも、嘘ついたことも、私に葬儀で花を置かせたことも」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「分かっている」

 

千速はようやく手を離した。

 

「なら覚えとけ」

 

奏斗は顔を上げる。

 

千速は白バイの横に立ち、真っ直ぐ彼を見た。

 

「私は、お前が生きてるって気づいた」

 

「……」

 

「もう二度と、完全には逃がさねぇ」

 

奏斗は何も言えなかった。

 

千速は踵を返し、白バイに跨った。

 

ヘルメットを被る前に、最後に一度だけ振り返る。

 

「奏斗」

 

今度は、はっきり名前を呼んだ。

 

奏斗は顔を上げる。

 

千速は言った。

 

「次に会ったら、ちゃんと理由を聞く。逃げたら追う」

 

白バイのエンジンがかかる。

 

低い振動が駐車場に響いた。

 

千速はヘルメットを被り、白バイを発進させる。

 

サイレンは鳴らない。

 

けれど、奏斗には分かった。

 

追跡はもう始まっている。

 

公安としての任務は終わった。

 

黒瀬の残した網も、鳥羽の逃走支援も潰えた。

 

だが、押村奏斗としての罪は、まだ終わっていない。

 

千速は気づいた。

 

自分が生きていることに。

 

そして、彼女はもう止まらない。

 

奏斗は白バイが遠ざかるのを見つめながら、小さく呟いた。

 

「……千速」

 

その名を呼べる場所に戻るには、まだ遠い。

 

けれど、完全に死んだままではいられなくなった。

 

白い追跡者は、もう彼を捕らえている。

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