押村奏斗――今は葛城怜司と呼ばれる男が、警視庁公安部で表の任務に就くようになってから、一か月が経った。
黒瀬事件の後処理は終わった。
鳥羽真司の逃走支援網も潰した。
表向きには、公安部の情報分析官・葛城怜司は、冷静で優秀な人間として扱われ始めていた。
だが、それはあくまで表向きだった。
彼の本当の名前を知る者は限られている。
そして、その名前を知ってしまった者がもう一人いる。
萩原千速。
神奈川県警交通部・第三交通機動隊小隊長。
彼女は、葛城怜司が押村奏斗であることに気づいている。
だが、表では何も言わなかった。
会議でも、現場でも、千速は彼を「葛城さん」と呼んだ。
視線を向ける時も、あくまで公安の担当官を見る目をした。
怒りも、悲しみも、再会の衝撃も、すべて胸の奥に押し込めて。
ただ、二人きりになる時だけは違った。
そして、その機会は意外にも早く訪れた。
⸻
一か月後。
神奈川県内で、奇妙な事件が起きた。
港湾部から都内へ向かう幹線道路で、民間警備会社の輸送車が襲撃された。
奪われたのは現金ではない。
輸送車に積まれていたのは、ある企業の研究データが入った暗号化端末。
その企業は、防衛関連の通信技術を扱っていた。
さらに、襲撃犯は逃走時にバイクを使用していた。
大型二輪二台。
一台は輸送車の進路を妨害。
もう一台は後方から接近し、発煙筒で視界を奪った。
その隙に端末だけを奪い、港湾道路から高速へ逃げた。
手口が、黒瀬事件で使われた逃走支援網に似ていた。
公安部、神奈川県警捜査一課、交通機動隊、さらに企業側を管轄する生活安全系の部署まで絡む合同捜査となった。
奏斗は榊原理人警視の部下として、会議に出席することになった。
会議室に入る前、榊原は低く言った。
「葛城」
「はい」
「萩原警部補が来る」
「承知しています」
「彼女は君の正体に気づいているんだろう」
奏斗は答えなかった。
榊原は続けた。
「公の場で崩れるな。彼女にも崩させるな」
「分かっています」
「分かっているだけでは足りない」
榊原は奏斗を見た。
「公安は、情を持つなとは言わない。だが、情を管理できない者は使えない」
「……はい」
「これは警告だ」
奏斗は静かに頷いた。
その言葉の重さは分かっていた。
千速と接触すれば、危険が増す。
自分だけではない。
千速にも及ぶ。
それでも、彼女が何も言わずにいてくれることに、奏斗は救われていた。
そして、その救い自体がすでに危ういものだと分かっていた。
⸻
会議室には、すでに横溝重悟がいた。
腕を組み、いつものように不機嫌そうな顔をしている。
「公安さんは遅ぇな」
榊原が軽く頭を下げる。
「お待たせしました」
横溝の目が奏斗へ向いた。
一瞬だけ。
だが、その目はもう葛城怜司を見ていなかった。
押村奏斗を見ている。
横溝も、ほぼ気づいている。
だが、千速と同じように、表では何も言わない。
それがかえって奏斗の胸を締めつけた。
そして、千速が入ってきた。
白バイ隊員の制服ではない。
濃いベージュのジャケットに、白のブラウス。黒に近い落ち着いたスカート。
女性らしい服装なのに、歩き方はまっすぐで、目は鋭い。
会議室に入った千速は、奏斗を見た。
ほんの一瞬だけ。
そして、何事もなかったように席に着いた。
「第三交機、萩原です」
声も表情も平静だった。
奏斗も、ただ資料を置いた。
「公安部、葛城です」
千速の眉がわずかに動いた。
だが、それだけだった。
会議は始まった。
横溝が襲撃状況を説明し、千速が逃走ルートの分析を担当した。
「襲撃犯は、白バイの追跡をかなり研究してる」
千速は地図を指した。
「逃走開始から三分以内に、必ず白バイが合流する前提でルートを組んでる。普通の犯罪者の走り方じゃない」
榊原が問う。
「元白バイ隊員、あるいは交通部経験者の可能性は?」
千速は首を横に振った。
「そこまでは言えない。ただ、追われる側として白バイを何度も観察してる奴だ」
奏斗は資料を確認しながら言った。
「黒瀬事件で押収した鳥羽の端末に、白バイ追跡回避の映像データがありました。その未回収コピーが流出している可能性があります」
千速が奏斗を見る。
「つまり、鳥羽の残党か」
「可能性はあります」
「なら、港湾部の倉庫じゃなくて、市街地側に拠点を移してるな」
奏斗はすぐに答えた。
「同意します。港湾部は前回の摘発後、監視が強化されています。逃走訓練には使いにくい」
千速が少しだけ目を細めた。
その視線に、奏斗は懐かしいものを感じた。
事件の話をしている時、二人の思考はよく噛み合った。
捜査一課と交通部。
立場は違っても、現場を見る目は重なる。
だが今は、その噛み合いすら危険だった。
「葛城さん」
千速があえてそう呼んだ。
「市街地で二輪を隠すなら、どこを見る?」
奏斗は一瞬迷った。
答えはすぐ出ていた。
だが、その答え方が押村奏斗になりすぎないように、言葉を選ぶ。
「廃業したバイクショップ、地下駐車場、夜間無人になる配送センターです。特に配送センターなら、車両出入りの記録が多く、バイクの出入りを隠しやすい」
千速は頷いた。
「私も同じだ」
横溝が低く言う。
「気が合うな」
千速は横溝を睨んだ。
「仕事の話だ」
「へいへい」
奏斗は視線を資料へ落とした。
重悟はわざとだ。
場を崩さないように冗談めかしている。
それでも、その言葉には別の意味があった。
気が合う。
当たり前だ。
かつて、同じ事件を何度も一緒に追った。
恋人としても、刑事と白バイ隊員としても。
⸻
会議が終わった後、奏斗は資料をまとめていた。
千速は何も言わずに会議室を出た。
だが、廊下の角を曲がる時、ほんの一瞬だけ奏斗へ視線を投げた。
来い。
そう言っている目だった。
奏斗は動かなかった。
動いてはいけない。
榊原が隣で言う。
「行くな」
奏斗は息を止めた。
「分かっています」
「なら、そのまま戻れ」
「はい」
だが、廊下の向こうから千速の声がした。
「葛城さん」
奏斗は振り返る。
千速は人目のある廊下で、仕事の顔をして立っていた。
「逃走ルートの件で確認したいことがある。裏の駐車場まで来てくれ」
榊原の目が細くなる。
千速は続けた。
「白バイの配置に関わる話だ。ここじゃ地図を広げにくい」
完全に業務上の理由だった。
断れば、不自然になる。
榊原は小さく息を吐いた。
「五分だ」
奏斗は頷いた。
「はい」
千速は先に歩き出した。
奏斗は、その後を追った。
一か月ぶりの、二人きりだった。