神奈川県警本部の裏手にある駐車場は、表玄関側よりも人通りが少ない。
捜査車両や白バイが並び、建物の陰になっているため、短い話をするには都合がよかった。
千速は白バイの横で足を止めた。
奏斗は少し離れて立つ。
「確認とは」
そう言った瞬間、千速が振り返った。
表情が変わっていた。
会議室での萩原警部補ではない。
押村奏斗を知る、萩原千速の顔だった。
「五分しかないらしいな」
奏斗は黙った。
「榊原警視に見張られてるのか」
「そういうわけでは」
「そういうわけだろ」
千速は腕を組んだ。
「公安ってのは面倒だな」
奏斗は低く言った。
「ここで話すのは危険です」
「知ってる」
「なら」
「でも話す」
千速の声は揺るがなかった。
奏斗は息を吐く。
「千速」
その名前を呼んだ瞬間、千速の目が少しだけ揺れた。
表では呼べない名前。
裏でしか呼べない名前。
千速は唇を噛んだ。
「呼ぶなって言っただろ」
「すまない」
「謝るな」
懐かしいやり取りだった。
だが、懐かしいだけでは済まされない。
千速は一歩近づいた。
「事件の話をする。今はそれでいい」
「分かった」
「鳥羽の残党が動いてるなら、前回の黒瀬事件と繋がってる。お前が公安で追ってるものも、まだ全部終わってねぇんだろ」
奏斗は頷いた。
「外部網の一部が残っている可能性がある」
「今回の襲撃犯は、その残りか」
「可能性は高い。ただ、目的が少し違う」
「研究データか」
「ああ」
千速は白バイのミラーに手を置いた。
「防衛関連の通信技術。普通の窃盗じゃないな」
「公安案件だ」
「また隠すのか」
奏斗は言葉に詰まった。
千速は鋭く見る。
「奏斗」
「すべては話せない」
「だろうな」
千速は怒鳴らなかった。
それが逆に苦しかった。
「でも、現場で必要な情報は出せ」
「出す」
「私を守るために黙るな」
「……分かっている」
千速は目を細める。
「本当か?」
「努力する」
「そこは言い切れ」
奏斗は小さく息を吐いた。
「黙らない」
千速はようやく少しだけ表情を緩めた。
「よし」
ほんの一瞬、以前の二人に戻ったようだった。
だが、すぐに千速は顔を引き締めた。
「それと、もう一つ」
「何だ」
「お前、公安で大丈夫なのか」
奏斗は答えに迷った。
「大丈夫とは」
「顔が死んでる」
「死んだことになっているからか」
千速の目が怖くなる。
「そういう冗談、二度と言うな」
奏斗はすぐに頭を下げた。
「悪い」
千速は低く言った。
「私は笑えない」
「ああ」
「葬儀に出たんだぞ」
「分かっている」
「分かってねぇよ」
千速の声が少しだけ震えた。
「分かってたら、そんなこと言えねぇ」
奏斗は何も返せなかった。
千速は一度目を伏せ、呼吸を整えた。
「……悪い。今は事件だな」
「いや」
「次の襲撃があるとしたら?」
奏斗は意識を切り替えた。
「奪われた端末の暗号解除には時間がかかる。犯人側は解析設備を持っている場所へ移すはずだ」
「どこだ」
「市街地側の配送センターか、廃工場」
「バイクが出入りしても怪しまれにくい場所だな」
「ああ」
千速は少し考えた。
「市内に、夜間だけ無人になる旧物流倉庫がある。以前、違法改造バイクの摘発で名前が出た」
奏斗はすぐに反応した。
「場所は」
千速はスマホを取り出そうとして、止めた。
「ここで送るのは危ないか」
「公安の端末へ正式に共有してくれ」
「分かった」
二人の間に沈黙が落ちた。
話すべきことは終わった。
だが、離れがたかった。
千速もそれを感じているのか、白バイのミラーから手を離さない。
「奏斗」
「何だ」
「次に裏に呼んだら、来るか」
奏斗は苦しげに答えた。
「状況による」
千速は小さく笑った。
「公安の答えだな」
「すまない」
「謝るなって」
千速はそう言いながら、少しだけ近づいた。
「でも、来い」
奏斗は彼女を見る。
「千速」
「私は、お前が生きてることを表に出さない。今はな」
「……ありがとう」
「礼を言うな」
千速の目が鋭くなる。
「その代わり、私から逃げるな」
奏斗は静かに頷いた。
「分かった」
「本当だな」
「ああ」
その時、遠くで扉の開く音がした。
奏斗は反射的に距離を取る。
千速も即座に表情を戻した。
裏の空気が、一瞬で仕事の空気へ変わる。
駐車場へ現れたのは榊原だった。
彼は二人を見た。
何も言わずに、わずかに目を細める。
「五分だと言ったはずだ」
奏斗は頭を下げる。
「申し訳ありません」
千速は平然と言った。
「白バイ配置の確認をしていました」
榊原は千速を見る。
「そうですか」
「ええ」
二人の間に、静かな探り合いが流れた。
榊原はやがて奏斗へ言った。
「戻るぞ、葛城」
「はい」
奏斗は千速を見なかった。
見ると、何かが崩れる気がした。
背中に千速の視線を感じながら、奏斗は榊原の後を追った。
⸻
その夜。
公安部の執務室で、榊原は奏斗を呼び止めた。
「葛城」
「はい」
「萩原警部補とは、必要以上に接触するな」
奏斗は静かに答える。
「業務上の確認です」
「そういう建前は公安では通じない」
「……」
榊原は資料を机に置いた。
「君たちの関係は、すでに危うい」
奏斗は黙る。
「彼女は君を押村奏斗として見ている。君も彼女を萩原警部補として見ていない」
「任務には影響させません」
「もう影響している」
榊原の声は厳しかった。
「君は今日、彼女から呼ばれて断れなかった」
奏斗は返せない。
事実だった。
榊原は続ける。
「次に同じことがあれば、上に報告する」
「上とは」
「公安部長だ」
奏斗の表情が少し変わった。
警視庁公安部長。
公安のトップ。
そこに知られれば、葛城怜司としての立場は終わる。
いや、もっと悪ければ、千速にも処分が及ぶ。
奏斗は低く言った。
「分かりました」
榊原は少しだけ息を吐いた。
「私は君を潰したくない」
「……」
「だが、公安は君の恋人を守るための場所ではない」
奏斗は目を伏せた。
その言葉は、鋭く刺さった。
千速を守るためにゼロへ入った。
黒瀬を追うために死を偽装した。
そして今、公安にいる。
だが、いつの間にか自分は、公安という場所を千速と繋がるための言い訳に使い始めているのかもしれない。
奏斗は静かに言った。
「以後、注意します」
榊原は頷いた。
「そうしろ」
だが、その警告は守られなかった。
事件は、さらに深く動き始めていた。