神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第7話 守られた罪

県警本部の取調室は、夜が明けても冷たかった。

 

白い壁。

古い机。

天井の蛍光灯。

 

その下で、久我悠真は椅子に座っていた。

 

手錠は外されている。

だが、両脇には刑事が控えていた。

 

悠真は疲れた様子も、怯えた様子も見せなかった。

むしろ、どこか退屈そうに机の上を指で叩いている。

 

押村奏斗はその正面に座っていた。

 

隣には横溝重悟。

記録係として、若い刑事が一人。

 

本来なら、ここに萩原千速はいない。

 

彼女は交通部の人間であり、正式な取調べに同席する立場ではない。

だが、千速はマジックミラーの向こう側で、その様子を見つめていた。

 

腕を組み、壁にもたれ、黙って。

 

いつもの男勝りな軽口はない。

 

ただ、押村の背中を見ていた。

 

取調室の中で、押村が静かに口を開く。

 

「久我悠真さん。あなたは昨夜、黒いセダンで逃走し、萩原警部補の停止命令を無視しました」

 

悠真は薄く笑った。

 

「急いでいただけです」

 

横溝の眉が動く。

 

「急いでたから警察官を轢き殺そうとしたのか」

 

「轢いてませんよ」

 

「減らず口叩いてんじゃねぇぞ」

 

横溝の声が低くなる。

 

だが、悠真はまったく動じなかった。

 

「怖いですね、横溝警部。今のは威圧的な取調べとして記録されますか?」

 

記録係の手が止まりかける。

 

押村が淡々と言った。

 

「記録してください」

 

悠真の指の動きが止まった。

 

押村は続ける。

 

「久我さんは、こちらの発言を威圧的と受け取った。その旨も含めて記録してください」

 

横溝が押村を横目で見る。

 

悠真は少しだけ目を細めた。

 

「ずいぶん慎重ですね」

 

「必要なことです」

 

「僕の父が誰か知っていますか」

 

「久我誠一郎。相模原方面本部長です」

 

「なら分かるでしょう。あなたたちが何をしているのか」

 

押村は表情を変えなかった。

 

「あなたの父親が誰であっても、昨夜の現行犯逮捕の事実は変わりません」

 

悠真は笑った。

 

「現行犯逮捕、ね」

 

彼は椅子の背もたれに体を預けた。

 

「道路交通法違反、公務執行妨害。それで何日持ちますか? 三年前のことまで引っ張る証拠はあるんですか?」

 

横溝の拳が机の下で握られる。

 

押村は動かない。

 

「証拠は集めます」

 

「無理ですよ」

 

悠真は穏やかな声で言った。

 

「三年前も無理だった。今回も無理です」

 

マジックミラーの向こう側で、千速の奥歯が鳴った。

 

その言葉だけで、彼女の怒りは燃え上がる。

 

三年前も無理だった。

 

あの少年の命を、こいつは「無理だった」の一言で片づける。

 

千速は拳を握りしめた。

 

その時、取調室の扉がノックされた。

 

若い刑事が入ってきて、横溝に耳打ちする。

 

横溝の顔色が変わった。

 

「何だと?」

 

押村も視線を向ける。

 

若い刑事は気まずそうに言った。

 

「本部長室から連絡です。久我悠真の身柄について、至急説明に来いと」

 

悠真が小さく笑った。

 

「ほら」

 

横溝が立ち上がりかける。

 

押村は静かに言った。

 

「横溝警部」

 

「何だ」

 

「ここは私が続けます」

 

「押村」

 

「行ってください。止められる前に、少しでも時間を稼ぎます」

 

横溝はしばらく押村を睨むように見た。

 

そして、低く言う。

 

「一人で抱え込むなよ」

 

「はい」

 

横溝は取調室を出ていった。

 

悠真は押村を見て、口元を歪めた。

 

「上司に見捨てられましたね」

 

「違います」

 

「どう違うんですか」

 

「信頼されています」

 

その答えに、悠真は少しだけ不快そうな顔をした。

 

押村は資料を一枚、机の上に置いた。

 

「三浦亮介さんを知っていますね」

 

悠真は黙った。

 

「三年前、整備工場に勤めていた男性です。最近、本牧ふ頭で黒いセダンの中から意識不明で発見された」

 

「知りません」

 

「村瀬浩一さんは?」

 

「知りません」

 

「佐伯慎吾さんは?」

 

悠真の目が、ほんの一瞬だけ動いた。

 

押村は見逃さなかった。

 

「佐伯さんは昨夜、撃たれました」

 

「そうですか」

 

「驚かないんですね」

 

「知らない人ですから」

 

「でも、名前には反応した」

 

悠真は押村を睨んだ。

 

「刑事さんの思い込みでしょう」

 

「かもしれません」

 

押村は淡々と認めた。

 

「だから確認しています」

 

悠真は苛立ったように息を吐いた。

 

「あなた、面倒くさい人ですね」

 

「よく言われます」

 

「萩原千速にも?」

 

押村の動きがわずかに止まった。

 

悠真はそれを見て、笑みを深める。

 

「昨日の白バイ隊員。彼女、あなたの大事な人ですか?」

 

マジックミラーの向こうで、千速が眉をひそめる。

 

押村は無表情のまま答えた。

 

「捜査協力者です」

 

「それだけ?」

 

「同期です」

 

「それだけ?」

 

押村は黙った。

 

悠真は楽しそうに身を乗り出す。

 

「脅迫メール、読みましたか? “次は萩原千速が死ぬ”ってやつ」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「あなたが送ったんですか」

 

「さあ」

 

「なぜ、その文面を知っている」

 

悠真の笑みが一瞬だけ消えた。

 

押村は続ける。

 

「あのメールの内容は、限られた人間しか知りません。あなたは今、自分が脅迫に関与している可能性を示しました」

 

悠真は押し黙った。

 

押村は机の上に、別の資料を置く。

 

「昨夜押収した黒いセダンから、スマートフォンが見つかりました。現在解析中です」

 

これは半分だけ事実だった。

 

車内から端末は見つかっている。

だが、まだ解析は完了していない。

 

悠真の顔に、初めて小さな焦りが浮かんだ。

 

「令状は?」

 

「必要な手続きは取ります」

 

「違法捜査だ」

 

「まだ内容を確認したとは言っていません」

 

悠真の唇がわずかに歪む。

 

押村はその反応を見て、静かに確信した。

 

この男は知っている。

三年前だけでなく、今回の脅迫にも、村瀬殺害にも、何らかの形で関わっている。

 

だが、足りない。

 

決定的なものがない。

 

その時、取調室の外が騒がしくなった。

 

扉が乱暴に開く。

 

入ってきたのは、制服ではなくスーツ姿の男だった。

 

年齢は五十代半ば。

整えられた髪。

冷たい目。

隙のない立ち居振る舞い。

 

その後ろには、県警幹部らしき男が二人ついていた。

 

悠真が椅子の上で笑った。

 

「遅いよ、親父」

 

押村は立ち上がった。

 

「久我誠一郎本部長」

 

久我誠一郎は押村を一瞥した。

 

「君が押村警部補か」

 

「はい」

 

「息子の取調べを中止しなさい」

 

押村は静かに答える。

 

「現在、適法な手続きに基づいて取調べを行っています」

 

「中止しなさい」

 

同じ言葉だった。

 

だが、その声には命令に慣れた者の圧があった。

 

「この件は上で預かる」

 

押村は久我を見返した。

 

「上とは、どちらでしょうか」

 

後ろの幹部が険しい顔をする。

 

「押村警部補、言葉に気をつけろ」

 

「確認しているだけです」

 

押村の声は揺れなかった。

 

「久我悠真さんは、公務執行妨害の現行犯で逮捕されています。捜査を中止するには、相応の理由が必要です」

 

久我誠一郎の目が細くなる。

 

「若いな」

 

「三十一です」

 

「そういう意味ではない」

 

「承知しています」

 

一瞬、部屋の空気が凍った。

 

マジックミラーの向こうで、千速は息を呑んだ。

 

押村が、真正面から県警幹部にぶつかっている。

 

無茶だ。

危険だ。

けれど、逃げていない。

 

そこへ、廊下から怒鳴り声が響いた。

 

「勝手に取調室へ入ってんじゃねぇ!」

 

横溝だった。

 

彼は久我の後ろの幹部たちを押しのけるようにして入ってきた。

 

「久我本部長。ここは捜査一課の管理下です。いくらあんたでも、手続きをすっ飛ばして身柄を持ってくなんざ認められねぇ」

 

久我は横溝を見た。

 

「横溝警部。口の利き方には気をつけたまえ」

 

「気をつけてこれです」

 

横溝は一歩も引かなかった。

 

「三年前の事件にも、あんたの名前が出てきてる」

 

部屋が静まり返った。

 

久我の表情がわずかに硬くなる。

 

悠真も、ほんの一瞬だけ父親を見た。

 

押村はその反応を見た。

 

親子の間に、何かある。

 

ただの親子ではない。

罪を共有する者同士の緊張。

 

久我は低い声で言った。

 

「証拠もなく、県警幹部を侮辱するのか」

 

横溝が笑った。

 

「証拠なら集めてる最中だ」

 

「その捜査を続けられると思うな」

 

その言葉は、脅しに近かった。

 

すると、取調室の外から別の声がした。

 

「続けますよ」

 

千速だった。

 

彼女はマジックミラー側の部屋から出てきて、取調室の入口に立っていた。

 

本来なら入るべきではない。

だが、千速は迷わなかった。

 

「久我本部長。三年前、あなたの息子が轢き殺した少年のこと、覚えてますか」

 

幹部の一人が怒鳴る。

 

「萩原警部補! 発言を慎みなさい!」

 

千速はその男を睨んだ。

 

「慎んだ結果、三年も犯人が逃げたんだろうが」

 

押村が小さく言った。

 

「萩原」

 

千速は押村を見た。

 

「悪い。黙ってられねぇ」

 

久我誠一郎は千速を冷たく見た。

 

「君が萩原千速か」

 

「そうです」

 

「白バイ隊員が、捜査一課の取調室で何をしている」

 

「三年前、あんたの息子が逃げた道を走って探してました」

 

千速の声は震えていなかった。

 

「今回も、あんたの息子が逃げた道を追いました」

 

悠真が笑う。

 

「女のくせに、よく吠えるね」

 

その瞬間、横溝の目が殺気立った。

 

だが、先に動いたのは押村だった。

 

彼は机に手を置き、静かに言った。

 

「久我さん」

 

悠真を見る目は、今までで一番冷たかった。

 

「萩原警部補への侮辱は、事件とは関係ありません。ですが、あなたの人格を判断する材料にはなります」

 

「何だよ、それ」

 

「あなたは三年前も、被害者を人として見ていなかったのではないですか」

 

悠真の顔が歪む。

 

「黙れ」

 

初めて、感情が表に出た。

 

押村は畳みかけない。

むしろ静かに待つ。

 

悠真が自分で崩れるのを。

 

久我誠一郎が低く言った。

 

「悠真。黙っていろ」

 

その一言で、悠真は口を閉じた。

 

押村は父親を見る。

 

「よく効く命令ですね」

 

久我の目が押村を射抜く。

 

その時、横溝のスマホが鳴った。

 

横溝は画面を見て、表情を変えた。

 

短く通話する。

 

「……分かった。すぐ確認する」

 

通話を切ると、横溝は押村を見た。

 

「佐伯の携帯、解析が一部終わった」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「内容は」

 

横溝は久我誠一郎を睨みつけた。

 

「三年前の録音が残ってた」

 

部屋の空気が変わった。

 

悠真の顔から余裕が消える。

 

久我誠一郎の目も、わずかに揺れた。

 

横溝はスマホを操作し、音声を再生した。

 

古い録音。

ノイズ混じりの声。

 

まず、若い男の声が聞こえた。

 

『人を……人を轢いた……どうすれば……』

 

次に、低い男の声。

 

『落ち着け、悠真。車は処分する。お前は何もしていない』

 

そして、別の男の声。

 

『本部長、本当に隠せるんですか』

 

低い声が答える。

 

『隠すんじゃない。事故などなかったことにするんだ』

 

録音が止まった。

 

取調室は、完全な沈黙に包まれた。

 

千速の拳が震えていた。

 

横溝の目は怒りで燃えていた。

 

押村は久我誠一郎を見た。

 

「今の声は、あなたですね」

 

久我は答えなかった。

 

悠真も黙っている。

 

押村は静かに告げた。

 

「久我誠一郎本部長。三年前のひき逃げ事件に関する証拠隠滅、犯人隠避の疑いで、事情をお聞きします」

 

久我は押村を見据えた。

 

「君は、自分が何をしているか分かっているのか」

 

「分かっています」

 

「警察人生を失うぞ」

 

押村は一瞬だけ黙った。

 

その言葉は重かった。

 

だが、押村の背後には横溝がいた。

横には千速がいた。

 

そして、三年前に命を奪われた少年がいた。

 

押村は静かに言った。

 

「失って困る警察人生なら、最初から必要ありません」

 

千速が押村を見る。

 

その横顔に、ほんの少しだけ胸が熱くなる。

 

横溝が荒々しく笑った。

 

「よく言った、押村」

 

久我誠一郎は初めて、明確な怒りを表に出した。

 

「この件は終わらない」

 

押村は頷いた。

 

「はい。終わらせません」

 

その時、取調室の外で再び騒ぎが起きた。

 

若い刑事が駆け込んでくる。

 

「横溝警部!」

 

「何だ!」

 

「村瀬浩一殺害事件の凶器と思われるナイフが発見されました!」

 

押村の目が変わる。

 

「場所は」

 

「久我悠真の自宅ガレージです。血痕が付着しています」

 

悠真が立ち上がりかけた。

 

「違う! 俺じゃない!」

 

横溝が即座に押さえ込む。

 

「座ってろ」

 

若い刑事は続けた。

 

「それと、もう一つ……」

 

「何だ」

 

刑事の顔が青ざめていた。

 

「凶器を発見した捜査員が、何者かに襲撃されました」

 

千速が息を呑む。

 

「また口封じか」

 

「いえ……襲撃者はその場で確保されました」

 

押村は静かに尋ねる。

 

「誰ですか」

 

若い刑事は震える声で答えた。

 

「神奈川県警、警務部監察官室所属――宮永怜司警視です」

 

横溝の表情が凍る。

 

「宮永……?」

 

千速が横溝を見る。

 

「知ってるのか、重悟」

 

横溝は低く言った。

 

「警察内部の不正を調べる監察官だ」

 

押村の目が細くなる。

 

警察の不正を調べるはずの監察官。

その男が、凶器発見の現場で捜査員を襲った。

 

つまり、内通者は捜査一課だけではない。

県警の監察側にまで入り込んでいる。

 

久我誠一郎が、初めて小さく笑った。

 

「だから言っただろう」

 

押村が振り向く。

 

久我は静かに言った。

 

「この件は、君たちが思っているより深い」

 

悠真もまた、歪んだ笑みを浮かべていた。

 

千速が低く呟く。

 

「どこまで腐ってんだよ……」

 

横溝は拳を握りしめる。

 

押村は、取調室の机に置かれた録音データを見つめた。

 

三年前の真実は、ようやく姿を現した。

 

だが、それを守っていた闇は、まだ終わっていない。

 

警察官の息子。

県警幹部。

車両照会を止めた捜査員。

そして、監察官室の内通者。

 

守られた罪は、一人のものではなかった。

 

組織そのものが、罪を守っていた。

 

押村はゆっくりと顔を上げた。

 

「横溝警部」

 

「何だ」

 

「宮永警視を押さえましょう」

 

「当然だ」

 

「萩原」

 

千速が押村を見る。

 

「何だ、奏斗」

 

「ここから先、さらに危険になります」

 

「今さらだろ」

 

千速は笑った。

 

鋭く、強く、迷いのない笑みだった。

 

「最後まで付き合う」

 

押村は小さく頷いた。

 

「頼む」

 

取調室の外では、夜明けの光が少しずつ差し始めていた。

 

だが、県警本部の中に広がる闇は、まだ深い。

 

三年前から隠され続けた罪。

その扉は開いた。

 

次に待っているのは、警察の中で最も触れてはならない場所。

 

監察官室だった。

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