県警本部の取調室は、夜が明けても冷たかった。
白い壁。
古い机。
天井の蛍光灯。
その下で、久我悠真は椅子に座っていた。
手錠は外されている。
だが、両脇には刑事が控えていた。
悠真は疲れた様子も、怯えた様子も見せなかった。
むしろ、どこか退屈そうに机の上を指で叩いている。
押村奏斗はその正面に座っていた。
隣には横溝重悟。
記録係として、若い刑事が一人。
本来なら、ここに萩原千速はいない。
彼女は交通部の人間であり、正式な取調べに同席する立場ではない。
だが、千速はマジックミラーの向こう側で、その様子を見つめていた。
腕を組み、壁にもたれ、黙って。
いつもの男勝りな軽口はない。
ただ、押村の背中を見ていた。
取調室の中で、押村が静かに口を開く。
「久我悠真さん。あなたは昨夜、黒いセダンで逃走し、萩原警部補の停止命令を無視しました」
悠真は薄く笑った。
「急いでいただけです」
横溝の眉が動く。
「急いでたから警察官を轢き殺そうとしたのか」
「轢いてませんよ」
「減らず口叩いてんじゃねぇぞ」
横溝の声が低くなる。
だが、悠真はまったく動じなかった。
「怖いですね、横溝警部。今のは威圧的な取調べとして記録されますか?」
記録係の手が止まりかける。
押村が淡々と言った。
「記録してください」
悠真の指の動きが止まった。
押村は続ける。
「久我さんは、こちらの発言を威圧的と受け取った。その旨も含めて記録してください」
横溝が押村を横目で見る。
悠真は少しだけ目を細めた。
「ずいぶん慎重ですね」
「必要なことです」
「僕の父が誰か知っていますか」
「久我誠一郎。相模原方面本部長です」
「なら分かるでしょう。あなたたちが何をしているのか」
押村は表情を変えなかった。
「あなたの父親が誰であっても、昨夜の現行犯逮捕の事実は変わりません」
悠真は笑った。
「現行犯逮捕、ね」
彼は椅子の背もたれに体を預けた。
「道路交通法違反、公務執行妨害。それで何日持ちますか? 三年前のことまで引っ張る証拠はあるんですか?」
横溝の拳が机の下で握られる。
押村は動かない。
「証拠は集めます」
「無理ですよ」
悠真は穏やかな声で言った。
「三年前も無理だった。今回も無理です」
マジックミラーの向こう側で、千速の奥歯が鳴った。
その言葉だけで、彼女の怒りは燃え上がる。
三年前も無理だった。
あの少年の命を、こいつは「無理だった」の一言で片づける。
千速は拳を握りしめた。
その時、取調室の扉がノックされた。
若い刑事が入ってきて、横溝に耳打ちする。
横溝の顔色が変わった。
「何だと?」
押村も視線を向ける。
若い刑事は気まずそうに言った。
「本部長室から連絡です。久我悠真の身柄について、至急説明に来いと」
悠真が小さく笑った。
「ほら」
横溝が立ち上がりかける。
押村は静かに言った。
「横溝警部」
「何だ」
「ここは私が続けます」
「押村」
「行ってください。止められる前に、少しでも時間を稼ぎます」
横溝はしばらく押村を睨むように見た。
そして、低く言う。
「一人で抱え込むなよ」
「はい」
横溝は取調室を出ていった。
悠真は押村を見て、口元を歪めた。
「上司に見捨てられましたね」
「違います」
「どう違うんですか」
「信頼されています」
その答えに、悠真は少しだけ不快そうな顔をした。
押村は資料を一枚、机の上に置いた。
「三浦亮介さんを知っていますね」
悠真は黙った。
「三年前、整備工場に勤めていた男性です。最近、本牧ふ頭で黒いセダンの中から意識不明で発見された」
「知りません」
「村瀬浩一さんは?」
「知りません」
「佐伯慎吾さんは?」
悠真の目が、ほんの一瞬だけ動いた。
押村は見逃さなかった。
「佐伯さんは昨夜、撃たれました」
「そうですか」
「驚かないんですね」
「知らない人ですから」
「でも、名前には反応した」
悠真は押村を睨んだ。
「刑事さんの思い込みでしょう」
「かもしれません」
押村は淡々と認めた。
「だから確認しています」
悠真は苛立ったように息を吐いた。
「あなた、面倒くさい人ですね」
「よく言われます」
「萩原千速にも?」
押村の動きがわずかに止まった。
悠真はそれを見て、笑みを深める。
「昨日の白バイ隊員。彼女、あなたの大事な人ですか?」
マジックミラーの向こうで、千速が眉をひそめる。
押村は無表情のまま答えた。
「捜査協力者です」
「それだけ?」
「同期です」
「それだけ?」
押村は黙った。
悠真は楽しそうに身を乗り出す。
「脅迫メール、読みましたか? “次は萩原千速が死ぬ”ってやつ」
押村の目が鋭くなる。
「あなたが送ったんですか」
「さあ」
「なぜ、その文面を知っている」
悠真の笑みが一瞬だけ消えた。
押村は続ける。
「あのメールの内容は、限られた人間しか知りません。あなたは今、自分が脅迫に関与している可能性を示しました」
悠真は押し黙った。
押村は机の上に、別の資料を置く。
「昨夜押収した黒いセダンから、スマートフォンが見つかりました。現在解析中です」
これは半分だけ事実だった。
車内から端末は見つかっている。
だが、まだ解析は完了していない。
悠真の顔に、初めて小さな焦りが浮かんだ。
「令状は?」
「必要な手続きは取ります」
「違法捜査だ」
「まだ内容を確認したとは言っていません」
悠真の唇がわずかに歪む。
押村はその反応を見て、静かに確信した。
この男は知っている。
三年前だけでなく、今回の脅迫にも、村瀬殺害にも、何らかの形で関わっている。
だが、足りない。
決定的なものがない。
その時、取調室の外が騒がしくなった。
扉が乱暴に開く。
入ってきたのは、制服ではなくスーツ姿の男だった。
年齢は五十代半ば。
整えられた髪。
冷たい目。
隙のない立ち居振る舞い。
その後ろには、県警幹部らしき男が二人ついていた。
悠真が椅子の上で笑った。
「遅いよ、親父」
押村は立ち上がった。
「久我誠一郎本部長」
久我誠一郎は押村を一瞥した。
「君が押村警部補か」
「はい」
「息子の取調べを中止しなさい」
押村は静かに答える。
「現在、適法な手続きに基づいて取調べを行っています」
「中止しなさい」
同じ言葉だった。
だが、その声には命令に慣れた者の圧があった。
「この件は上で預かる」
押村は久我を見返した。
「上とは、どちらでしょうか」
後ろの幹部が険しい顔をする。
「押村警部補、言葉に気をつけろ」
「確認しているだけです」
押村の声は揺れなかった。
「久我悠真さんは、公務執行妨害の現行犯で逮捕されています。捜査を中止するには、相応の理由が必要です」
久我誠一郎の目が細くなる。
「若いな」
「三十一です」
「そういう意味ではない」
「承知しています」
一瞬、部屋の空気が凍った。
マジックミラーの向こうで、千速は息を呑んだ。
押村が、真正面から県警幹部にぶつかっている。
無茶だ。
危険だ。
けれど、逃げていない。
そこへ、廊下から怒鳴り声が響いた。
「勝手に取調室へ入ってんじゃねぇ!」
横溝だった。
彼は久我の後ろの幹部たちを押しのけるようにして入ってきた。
「久我本部長。ここは捜査一課の管理下です。いくらあんたでも、手続きをすっ飛ばして身柄を持ってくなんざ認められねぇ」
久我は横溝を見た。
「横溝警部。口の利き方には気をつけたまえ」
「気をつけてこれです」
横溝は一歩も引かなかった。
「三年前の事件にも、あんたの名前が出てきてる」
部屋が静まり返った。
久我の表情がわずかに硬くなる。
悠真も、ほんの一瞬だけ父親を見た。
押村はその反応を見た。
親子の間に、何かある。
ただの親子ではない。
罪を共有する者同士の緊張。
久我は低い声で言った。
「証拠もなく、県警幹部を侮辱するのか」
横溝が笑った。
「証拠なら集めてる最中だ」
「その捜査を続けられると思うな」
その言葉は、脅しに近かった。
すると、取調室の外から別の声がした。
「続けますよ」
千速だった。
彼女はマジックミラー側の部屋から出てきて、取調室の入口に立っていた。
本来なら入るべきではない。
だが、千速は迷わなかった。
「久我本部長。三年前、あなたの息子が轢き殺した少年のこと、覚えてますか」
幹部の一人が怒鳴る。
「萩原警部補! 発言を慎みなさい!」
千速はその男を睨んだ。
「慎んだ結果、三年も犯人が逃げたんだろうが」
押村が小さく言った。
「萩原」
千速は押村を見た。
「悪い。黙ってられねぇ」
久我誠一郎は千速を冷たく見た。
「君が萩原千速か」
「そうです」
「白バイ隊員が、捜査一課の取調室で何をしている」
「三年前、あんたの息子が逃げた道を走って探してました」
千速の声は震えていなかった。
「今回も、あんたの息子が逃げた道を追いました」
悠真が笑う。
「女のくせに、よく吠えるね」
その瞬間、横溝の目が殺気立った。
だが、先に動いたのは押村だった。
彼は机に手を置き、静かに言った。
「久我さん」
悠真を見る目は、今までで一番冷たかった。
「萩原警部補への侮辱は、事件とは関係ありません。ですが、あなたの人格を判断する材料にはなります」
「何だよ、それ」
「あなたは三年前も、被害者を人として見ていなかったのではないですか」
悠真の顔が歪む。
「黙れ」
初めて、感情が表に出た。
押村は畳みかけない。
むしろ静かに待つ。
悠真が自分で崩れるのを。
久我誠一郎が低く言った。
「悠真。黙っていろ」
その一言で、悠真は口を閉じた。
押村は父親を見る。
「よく効く命令ですね」
久我の目が押村を射抜く。
その時、横溝のスマホが鳴った。
横溝は画面を見て、表情を変えた。
短く通話する。
「……分かった。すぐ確認する」
通話を切ると、横溝は押村を見た。
「佐伯の携帯、解析が一部終わった」
押村の目が鋭くなる。
「内容は」
横溝は久我誠一郎を睨みつけた。
「三年前の録音が残ってた」
部屋の空気が変わった。
悠真の顔から余裕が消える。
久我誠一郎の目も、わずかに揺れた。
横溝はスマホを操作し、音声を再生した。
古い録音。
ノイズ混じりの声。
まず、若い男の声が聞こえた。
『人を……人を轢いた……どうすれば……』
次に、低い男の声。
『落ち着け、悠真。車は処分する。お前は何もしていない』
そして、別の男の声。
『本部長、本当に隠せるんですか』
低い声が答える。
『隠すんじゃない。事故などなかったことにするんだ』
録音が止まった。
取調室は、完全な沈黙に包まれた。
千速の拳が震えていた。
横溝の目は怒りで燃えていた。
押村は久我誠一郎を見た。
「今の声は、あなたですね」
久我は答えなかった。
悠真も黙っている。
押村は静かに告げた。
「久我誠一郎本部長。三年前のひき逃げ事件に関する証拠隠滅、犯人隠避の疑いで、事情をお聞きします」
久我は押村を見据えた。
「君は、自分が何をしているか分かっているのか」
「分かっています」
「警察人生を失うぞ」
押村は一瞬だけ黙った。
その言葉は重かった。
だが、押村の背後には横溝がいた。
横には千速がいた。
そして、三年前に命を奪われた少年がいた。
押村は静かに言った。
「失って困る警察人生なら、最初から必要ありません」
千速が押村を見る。
その横顔に、ほんの少しだけ胸が熱くなる。
横溝が荒々しく笑った。
「よく言った、押村」
久我誠一郎は初めて、明確な怒りを表に出した。
「この件は終わらない」
押村は頷いた。
「はい。終わらせません」
その時、取調室の外で再び騒ぎが起きた。
若い刑事が駆け込んでくる。
「横溝警部!」
「何だ!」
「村瀬浩一殺害事件の凶器と思われるナイフが発見されました!」
押村の目が変わる。
「場所は」
「久我悠真の自宅ガレージです。血痕が付着しています」
悠真が立ち上がりかけた。
「違う! 俺じゃない!」
横溝が即座に押さえ込む。
「座ってろ」
若い刑事は続けた。
「それと、もう一つ……」
「何だ」
刑事の顔が青ざめていた。
「凶器を発見した捜査員が、何者かに襲撃されました」
千速が息を呑む。
「また口封じか」
「いえ……襲撃者はその場で確保されました」
押村は静かに尋ねる。
「誰ですか」
若い刑事は震える声で答えた。
「神奈川県警、警務部監察官室所属――宮永怜司警視です」
横溝の表情が凍る。
「宮永……?」
千速が横溝を見る。
「知ってるのか、重悟」
横溝は低く言った。
「警察内部の不正を調べる監察官だ」
押村の目が細くなる。
警察の不正を調べるはずの監察官。
その男が、凶器発見の現場で捜査員を襲った。
つまり、内通者は捜査一課だけではない。
県警の監察側にまで入り込んでいる。
久我誠一郎が、初めて小さく笑った。
「だから言っただろう」
押村が振り向く。
久我は静かに言った。
「この件は、君たちが思っているより深い」
悠真もまた、歪んだ笑みを浮かべていた。
千速が低く呟く。
「どこまで腐ってんだよ……」
横溝は拳を握りしめる。
押村は、取調室の机に置かれた録音データを見つめた。
三年前の真実は、ようやく姿を現した。
だが、それを守っていた闇は、まだ終わっていない。
警察官の息子。
県警幹部。
車両照会を止めた捜査員。
そして、監察官室の内通者。
守られた罪は、一人のものではなかった。
組織そのものが、罪を守っていた。
押村はゆっくりと顔を上げた。
「横溝警部」
「何だ」
「宮永警視を押さえましょう」
「当然だ」
「萩原」
千速が押村を見る。
「何だ、奏斗」
「ここから先、さらに危険になります」
「今さらだろ」
千速は笑った。
鋭く、強く、迷いのない笑みだった。
「最後まで付き合う」
押村は小さく頷いた。
「頼む」
取調室の外では、夜明けの光が少しずつ差し始めていた。
だが、県警本部の中に広がる闇は、まだ深い。
三年前から隠され続けた罪。
その扉は開いた。
次に待っているのは、警察の中で最も触れてはならない場所。
監察官室だった。