神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第71話 公安を追われる日

翌朝。

 

奏斗は警視庁公安部長室の前に立っていた。

 

榊原が隣にいる。

 

いつものような皮肉も、助言もなかった。

 

ただ、短く言った。

 

「入れ」

 

部屋に入ると、公安部長・久我誠一郎が机の奥に座っていた。

 

五十代半ば。

 

穏やかな顔をしているが、目には温度がない。

 

この男が、警視庁公安部のトップ。

 

奏斗は姿勢を正した。

 

「葛城怜司です」

 

久我は資料から目を上げる。

 

「いや」

 

その一言で、部屋の空気が変わった。

 

「君は、押村奏斗だ」

 

奏斗は沈黙した。

 

久我は淡々と続ける。

 

「死んだことになっている元神奈川県警捜査一課警部補。黒瀬事件のため、警備局に取り込まれ、葛城怜司の身分を与えられた」

 

榊原は何も言わない。

 

久我は資料をめくる。

 

「事情は把握している。君の能力も評価している。黒瀬、鳥羽、今回の端末奪還。実績だけ見れば有能だ」

 

奏斗は静かに聞いていた。

 

「だが、公安には置けない」

 

榊原の表情がわずかに動いた。

 

奏斗は低く問う。

 

「理由を伺っても」

 

久我は冷たい声で答えた。

 

「萩原千速警部補だ」

 

予想していた。

 

それでも、その名を出されると胸が痛んだ。

 

久我は続ける。

 

「君は彼女に対し、公安の担当官として必要な距離を保てていない。彼女もまた、君を葛城怜司として扱っていない」

 

「彼女は任務上必要な協力をしただけです」

 

「庇うな」

 

久我の声が少し鋭くなる。

 

「昨日の通信記録。君は彼女を二度、千速と呼んだ。公務上の関係ではない」

 

奏斗は黙る。

 

「さらに、君は命令を無視して現場へ出た。結果として被疑者は確保されたが、判断理由が任務ではなく彼女の安全に偏っていた」

 

奏斗は否定できなかった。

 

久我は机に資料を置く。

 

「公安は、個人の感情を完全に捨てろとは言わない。だが、感情で動く者を中枢には置けない」

 

「……」

 

「君は優秀だ。だが、萩原千速が関わる限り、必ず判断を誤る」

 

奏斗は顔を上げた。

 

「彼女は関係ありません。責任は俺にあります」

 

「だから問題なのだ」

 

久我は冷たく言った。

 

「君は今も、彼女を守るために自分を差し出そうとしている」

 

奏斗は言葉を失った。

 

久我は続ける。

 

「そういう人間は公安には向かない」

 

榊原が低く言った。

 

「部長」

 

久我は榊原を見た。

 

「榊原。君も監督責任を問われる」

 

「承知しています」

 

「だが今回、判断を誤ったのは葛城本人だ」

 

奏斗は静かに問う。

 

「処分は」

 

久我は答えた。

 

「公安部から外す」

 

短い言葉だった。

 

だが、それは実質的なクビだった。

 

公安での葛城怜司は終わる。

 

久我はさらに言った。

 

「警備局へ戻すか、別の身分で処理するかは上と調整する。ただし、今後、神奈川県警案件への関与は認めない」

 

奏斗の胸が冷える。

 

「それは」

 

「萩原千速との接触を断つためだ」

 

久我は容赦なく言った。

 

「彼女にも、これ以上君を追わせるな。必要であれば、彼女側にも圧力をかける」

 

奏斗の目が鋭くなった。

 

「彼女に手を出す必要はありません」

 

久我は静かに見る。

 

「なら、君が消えろ」

 

その言葉は、かつて古谷に言われたものに似ていた。

 

表から消えろ。

 

痕跡を残すな。

 

周囲を守るために、自分を切り離せ。

 

同じことを、また求められている。

 

奏斗は拳を握った。

 

「了解しました」

 

榊原が奏斗を見る。

 

久我は最後に言った。

 

「君の公安部での任務は、本日をもって終了だ」

 

奏斗は深く頭を下げた。

 

「お世話になりました」

 

それは葛城怜司としての終わりの挨拶だった。

 

 

部屋を出ると、榊原はしばらく無言だった。

 

廊下の途中で、ようやく言った。

 

「悪かった」

 

奏斗は驚いて顔を上げる。

 

「榊原警視が謝ることではありません」

 

「止めきれなかった」

 

「俺の責任です」

 

榊原は苦く笑った。

 

「そう言うと思った」

 

二人は窓のない廊下を歩く。

 

榊原は低く続けた。

 

「君は公安には向かなかった」

 

「はい」

 

「だが、警察官として間違っていたとは思わない」

 

奏斗は言葉に詰まった。

 

榊原は足を止める。

 

「萩原警部補には連絡するな」

 

「分かっています」

 

「分かっていても、するな」

 

「……はい」

 

榊原は一枚の封筒を差し出した。

 

「次の指示が来るまで待機だ」

 

奏斗は受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

「礼は要らない」

 

榊原は少しだけ表情を緩めた。

 

「葛城怜司は今日で終わりだ。次に君が何になるかは知らない。だが、押村奏斗を完全に殺せないなら、せめて誰を守りたいのか見失うな」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「はい」

 

その日の夕方、奏斗は公安部を出た。

 

身分証を返却し、机に残した資料を片付け、葛城怜司として使っていた端末も回収された。

 

何も残らない。

 

いつものことだった。

 

それでも今回は、妙に空虚だった。

 

ゼロから公安へ出て、少しだけ表に戻れた気がしていた。

 

千速と同じ会議室に座り、同じ事件を追い、同じ現場で動いた。

 

それがどれほど危ういものでも、確かに生きている実感があった。

 

だが、それも終わった。

 

 

同じ頃。

 

神奈川県警第三交通機動隊。

 

千速は、横溝から短い連絡を受けた。

 

『押村が公安を外された』

 

千速はスマホを握りしめた。

 

「理由は」

 

『昨日の件だろうな。お前を名前で呼んだ通信記録。それと命令違反』

 

千速は歯を食いしばった。

 

「私のせいか」

 

横溝は即座に言った。

 

『違ぇ。あいつのせいだ』

 

「でも」

 

『お前のせいじゃねぇ。あいつが勝手にお前を守ろうとして、勝手に動いた。いつもの押村だ』

 

千速は黙った。

 

胸の奥が痛い。

 

怒りもある。

 

悔しさもある。

 

それ以上に、また奏斗が遠くへ行く感覚があった。

 

「重悟」

 

『何だ』

 

「奏斗は、また消えるのか」

 

横溝はすぐには答えなかった。

 

『分からん』

 

「そうか」

 

『千速、動くなよ』

 

「分かってる」

 

『分かってねぇ声だ』

 

千速は窓の外を見た。

 

白バイが並んでいる。

 

道路は続いている。

 

どこまでも。

 

「重悟」

 

『何だ』

 

「私はもう、死んだって言われても信じない」

 

横溝は低く答えた。

 

『俺もだ』

 

通話が切れた。

 

千速はスマホを下ろす。

 

奏斗が公安をクビになった。

 

それは、彼が表にいられなくなるということかもしれない。

 

また、別の名前で消えるのかもしれない。

 

けれど、もう完全には逃がさない。

 

千速は机の引き出しを開けた。

 

そこには、K.R.の刻印が入った金属片が入っている。

 

小さな痕跡。

 

死んだはずの男が残した、生きている証。

 

千速はそれを見つめ、低く呟いた。

 

「奏斗」

 

今度は、悲しみだけではなかった。

 

怒り。

 

覚悟。

 

そして、追う意志。

 

「公安をクビになったくらいで、また黙って消えられると思うなよ」

 

白バイ隊員の目は、もう彼を捉えている。

 

奏斗がどこへ行こうと。

 

どんな名前になろうと。

 

千速は追う。

 

表では何も知らない顔をして。

 

裏では、確実に距離を詰めながら。

 

二人の関係は、もう恋人に戻れない。

 

まだ戻れない。

 

けれど、完全に終わってもいない。

 

公安を追われた奏斗。

 

生きていることを知りながら、表に出さない千速。

 

そして、彼らを引き裂こうとする組織の論理。

 

次に二人が会う時。

 

それはもう、任務の裏口では済まないかもしれなかった。

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