翌朝。
奏斗は警視庁公安部長室の前に立っていた。
榊原が隣にいる。
いつものような皮肉も、助言もなかった。
ただ、短く言った。
「入れ」
部屋に入ると、公安部長・久我誠一郎が机の奥に座っていた。
五十代半ば。
穏やかな顔をしているが、目には温度がない。
この男が、警視庁公安部のトップ。
奏斗は姿勢を正した。
「葛城怜司です」
久我は資料から目を上げる。
「いや」
その一言で、部屋の空気が変わった。
「君は、押村奏斗だ」
奏斗は沈黙した。
久我は淡々と続ける。
「死んだことになっている元神奈川県警捜査一課警部補。黒瀬事件のため、警備局に取り込まれ、葛城怜司の身分を与えられた」
榊原は何も言わない。
久我は資料をめくる。
「事情は把握している。君の能力も評価している。黒瀬、鳥羽、今回の端末奪還。実績だけ見れば有能だ」
奏斗は静かに聞いていた。
「だが、公安には置けない」
榊原の表情がわずかに動いた。
奏斗は低く問う。
「理由を伺っても」
久我は冷たい声で答えた。
「萩原千速警部補だ」
予想していた。
それでも、その名を出されると胸が痛んだ。
久我は続ける。
「君は彼女に対し、公安の担当官として必要な距離を保てていない。彼女もまた、君を葛城怜司として扱っていない」
「彼女は任務上必要な協力をしただけです」
「庇うな」
久我の声が少し鋭くなる。
「昨日の通信記録。君は彼女を二度、千速と呼んだ。公務上の関係ではない」
奏斗は黙る。
「さらに、君は命令を無視して現場へ出た。結果として被疑者は確保されたが、判断理由が任務ではなく彼女の安全に偏っていた」
奏斗は否定できなかった。
久我は机に資料を置く。
「公安は、個人の感情を完全に捨てろとは言わない。だが、感情で動く者を中枢には置けない」
「……」
「君は優秀だ。だが、萩原千速が関わる限り、必ず判断を誤る」
奏斗は顔を上げた。
「彼女は関係ありません。責任は俺にあります」
「だから問題なのだ」
久我は冷たく言った。
「君は今も、彼女を守るために自分を差し出そうとしている」
奏斗は言葉を失った。
久我は続ける。
「そういう人間は公安には向かない」
榊原が低く言った。
「部長」
久我は榊原を見た。
「榊原。君も監督責任を問われる」
「承知しています」
「だが今回、判断を誤ったのは葛城本人だ」
奏斗は静かに問う。
「処分は」
久我は答えた。
「公安部から外す」
短い言葉だった。
だが、それは実質的なクビだった。
公安での葛城怜司は終わる。
久我はさらに言った。
「警備局へ戻すか、別の身分で処理するかは上と調整する。ただし、今後、神奈川県警案件への関与は認めない」
奏斗の胸が冷える。
「それは」
「萩原千速との接触を断つためだ」
久我は容赦なく言った。
「彼女にも、これ以上君を追わせるな。必要であれば、彼女側にも圧力をかける」
奏斗の目が鋭くなった。
「彼女に手を出す必要はありません」
久我は静かに見る。
「なら、君が消えろ」
その言葉は、かつて古谷に言われたものに似ていた。
表から消えろ。
痕跡を残すな。
周囲を守るために、自分を切り離せ。
同じことを、また求められている。
奏斗は拳を握った。
「了解しました」
榊原が奏斗を見る。
久我は最後に言った。
「君の公安部での任務は、本日をもって終了だ」
奏斗は深く頭を下げた。
「お世話になりました」
それは葛城怜司としての終わりの挨拶だった。
⸻
部屋を出ると、榊原はしばらく無言だった。
廊下の途中で、ようやく言った。
「悪かった」
奏斗は驚いて顔を上げる。
「榊原警視が謝ることではありません」
「止めきれなかった」
「俺の責任です」
榊原は苦く笑った。
「そう言うと思った」
二人は窓のない廊下を歩く。
榊原は低く続けた。
「君は公安には向かなかった」
「はい」
「だが、警察官として間違っていたとは思わない」
奏斗は言葉に詰まった。
榊原は足を止める。
「萩原警部補には連絡するな」
「分かっています」
「分かっていても、するな」
「……はい」
榊原は一枚の封筒を差し出した。
「次の指示が来るまで待機だ」
奏斗は受け取った。
「ありがとうございます」
「礼は要らない」
榊原は少しだけ表情を緩めた。
「葛城怜司は今日で終わりだ。次に君が何になるかは知らない。だが、押村奏斗を完全に殺せないなら、せめて誰を守りたいのか見失うな」
奏斗は静かに頷いた。
「はい」
その日の夕方、奏斗は公安部を出た。
身分証を返却し、机に残した資料を片付け、葛城怜司として使っていた端末も回収された。
何も残らない。
いつものことだった。
それでも今回は、妙に空虚だった。
ゼロから公安へ出て、少しだけ表に戻れた気がしていた。
千速と同じ会議室に座り、同じ事件を追い、同じ現場で動いた。
それがどれほど危ういものでも、確かに生きている実感があった。
だが、それも終わった。
⸻
同じ頃。
神奈川県警第三交通機動隊。
千速は、横溝から短い連絡を受けた。
『押村が公安を外された』
千速はスマホを握りしめた。
「理由は」
『昨日の件だろうな。お前を名前で呼んだ通信記録。それと命令違反』
千速は歯を食いしばった。
「私のせいか」
横溝は即座に言った。
『違ぇ。あいつのせいだ』
「でも」
『お前のせいじゃねぇ。あいつが勝手にお前を守ろうとして、勝手に動いた。いつもの押村だ』
千速は黙った。
胸の奥が痛い。
怒りもある。
悔しさもある。
それ以上に、また奏斗が遠くへ行く感覚があった。
「重悟」
『何だ』
「奏斗は、また消えるのか」
横溝はすぐには答えなかった。
『分からん』
「そうか」
『千速、動くなよ』
「分かってる」
『分かってねぇ声だ』
千速は窓の外を見た。
白バイが並んでいる。
道路は続いている。
どこまでも。
「重悟」
『何だ』
「私はもう、死んだって言われても信じない」
横溝は低く答えた。
『俺もだ』
通話が切れた。
千速はスマホを下ろす。
奏斗が公安をクビになった。
それは、彼が表にいられなくなるということかもしれない。
また、別の名前で消えるのかもしれない。
けれど、もう完全には逃がさない。
千速は机の引き出しを開けた。
そこには、K.R.の刻印が入った金属片が入っている。
小さな痕跡。
死んだはずの男が残した、生きている証。
千速はそれを見つめ、低く呟いた。
「奏斗」
今度は、悲しみだけではなかった。
怒り。
覚悟。
そして、追う意志。
「公安をクビになったくらいで、また黙って消えられると思うなよ」
白バイ隊員の目は、もう彼を捉えている。
奏斗がどこへ行こうと。
どんな名前になろうと。
千速は追う。
表では何も知らない顔をして。
裏では、確実に距離を詰めながら。
二人の関係は、もう恋人に戻れない。
まだ戻れない。
けれど、完全に終わってもいない。
公安を追われた奏斗。
生きていることを知りながら、表に出さない千速。
そして、彼らを引き裂こうとする組織の論理。
次に二人が会う時。
それはもう、任務の裏口では済まないかもしれなかった。