神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第72話 死亡取消

公安を外された翌日、押村奏斗は警察庁の小さな会議室に呼ばれた。

 

窓のない部屋だった。

 

ゼロに入ると決めた日も、同じような部屋だった。

 

あの時、押村奏斗は死ぬことを選んだ。

 

表向きの死。

廃ビルの爆発。

殉職扱い。

葬儀。

遺影。

千速の涙のない顔。

横溝の握りしめた拳。

 

全部が、必要な偽装だと言われた。

 

それを承諾したのは自分だ。

 

だから、責任は自分にある。

 

会議室には、古谷と榊原理人がいた。

 

そしてもう一人、見慣れない男が座っている。

 

五十代後半ほどの、警察庁幹部と思われる男だった。

 

男は資料を閉じ、押村を見た。

 

「押村奏斗警部補」

 

その名前で呼ばれた瞬間、奏斗はわずかに息を止めた。

 

葛城怜司ではない。

 

押村奏斗。

 

もう死んだはずの名前。

 

男は淡々と続けた。

 

「君の死亡扱いを取り消す方向で調整する」

 

奏斗はすぐには言葉が出なかった。

 

古谷も榊原も黙っている。

 

奏斗はようやく口を開いた。

 

「取り消す、とは」

 

男は資料を机に置いた。

 

「殉職として処理された廃ビル爆破事件について、君は重傷を負い、警察庁主導の保護下に置かれていた。任務の性質上、公表が遅れた。そういう形にする」

 

奏斗は表情を変えなかった。

 

だが、胸の奥では何かが大きく揺れた。

 

「それで通るのですか」

 

榊原が静かに答える。

 

「無理はある。だが、通す」

 

古谷も言った。

 

「黒瀬事件、鳥羽事件、今回の端末奪還。あなたの身分をこのまま宙に浮かせておく方が危険になりました」

 

奏斗は古谷を見る。

 

「千速が気づいたからですか」

 

古谷は否定しなかった。

 

「それもあります」

 

榊原が少し皮肉っぽく言う。

 

「萩原警部補だけではない。横溝警部も、神奈川県警側も疑い始めている。これ以上隠せば、逆に余計な火種になる」

 

幹部の男が続けた。

 

「君を公安に置くことはできない。ゼロに戻すことも得策ではない。ならば、元の所属に戻す」

 

奏斗の目が動く。

 

「捜査一課に、ですか」

 

「神奈川県警捜査一課へ復帰。階級は警部補のまま。ただし、一定期間は監察と警察庁の管理下に置かれる」

 

奏斗は思わず言った。

 

「横溝警部や萩原警部補には」

 

男は短く答えた。

 

「これから説明する」

 

「自分から説明させてください」

 

即座に口にしていた。

 

会議室の空気が止まる。

 

榊原が奏斗を見る。

 

古谷も表情を動かした。

 

幹部の男は目を細める。

 

「君にその権限はない」

 

「承知しています」

 

「なら」

 

「それでも、自分の口で言わせてください」

 

奏斗は深く頭を下げた。

 

「自分が嘘をつきました。死を偽装したことも、周囲に断ったと伝えたことも、すべて自分の意思で行いました。組織上の事情があったとしても、傷つけた相手には、自分で説明すべきです」

 

古谷が静かに言った。

 

「押村さん」

 

奏斗は頭を上げない。

 

「お願いします」

 

長い沈黙の後、榊原がため息をついた。

 

「どうせ止めても、どこかでやる顔だな」

 

古谷も小さく頷く。

 

幹部の男はしばらく奏斗を見ていたが、やがて資料を閉じた。

 

「横溝警部への説明には同席を許可する。萩原警部補への個別接触は、その後だ」

 

奏斗は深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

男は冷たく言った。

 

「礼を言う前に覚えておけ。君の復帰は、温情ではない。公安にもゼロにも置きにくくなった人材を、最も管理しやすい場所へ戻すだけだ」

 

「承知しています」

 

「そして、神奈川県警側が君を受け入れるかは別問題だ」

 

その言葉が、一番重かった。

 

捜査一課に戻る。

 

それは、昔の場所へ帰るという意味ではない。

 

自分はそこを一度捨てた。

 

死んだふりをして。

 

仲間を騙して。

 

上司を裏切って。

 

恋人に葬儀をさせて。

 

それでも戻る。

 

戻らなければならない。

 

いや。

 

戻りたいと思っている。

 

その身勝手さが、奏斗には痛かった。

 

 

翌日。

 

神奈川県警本部。

 

横溝重悟は、会議室に呼ばれた時点で嫌な予感がしていた。

 

部屋に入ると、警察庁の人間が並んでいた。

 

古谷。

榊原。

知らない幹部。

 

そして。

 

その端に、押村奏斗が立っていた。

 

横溝は一瞬、何も言わなかった。

 

次の瞬間、机を蹴り飛ばしそうな勢いで歩み寄った。

 

「押村」

 

奏斗は姿勢を正した。

 

「横溝警部」

 

その声を聞いた瞬間、横溝の顔が歪んだ。

 

怒りなのか、安堵なのか、どちらともつかない表情だった。

 

「てめぇ……」

 

「申し訳ありません」

 

「謝るな!」

 

怒号が会議室に響いた。

 

警察庁の幹部が何か言おうとしたが、榊原が視線だけで止めた。

 

横溝は奏斗の胸倉を掴んだ。

 

「生きてんなら、何で言わなかった」

 

奏斗は抵抗しなかった。

 

「任務上、言えませんでした」

 

「任務だぁ?」

 

横溝の手に力が入る。

 

「千速がどんな顔してたか知ってんのか。三森がどんだけ泣いたか知ってんのか。捜査一課の連中が、お前の机を片付けられなかったのを知ってんのか」

 

奏斗は目を伏せた。

 

「知りません」

 

「だろうな!」

 

横溝は怒鳴った。

 

「お前は知らねぇ。死んだ側に回った奴は、残された側の顔を見ねぇで済むからな!」

 

その言葉は、奏斗の胸に深く刺さった。

 

「はい」

 

「はいじゃねぇ!」

 

横溝は胸倉を離し、拳を握った。

 

殴る寸前だった。

 

だが、殴らなかった。

 

代わりに、低く言った。

 

「……生きててよかった」

 

奏斗の目が揺れた。

 

横溝は顔を背ける。

 

「それとこれは別だ。俺はお前を許してねぇ」

 

「はい」

 

「でも、生きててよかった」

 

奏斗は何も言えなかった。

 

横溝は乱暴に椅子へ座った。

 

「で? 何だ。今度は何を押しつけに来た」

 

警察庁の幹部が説明を始めた。

 

押村奏斗の死亡取消。

重傷保護扱いへの記録修正。

神奈川県警捜査一課への復帰。

一定期間の監察対象。

外部への説明は最小限。

 

横溝は黙って聞いていた。

 

最後まで聞いた後、低く言った。

 

「勝手に殺して、勝手に戻すのか」

 

幹部は表情を変えない。

 

「必要な措置でした」

 

「ふざけるな」

 

横溝の声は低かった。

 

「必要かどうかを決めるのは、いつもそっちか。残された人間のことは書類の欄外か」

 

古谷が目を伏せた。

 

榊原も黙っている。

 

横溝は奏斗を見る。

 

「押村」

 

「はい」

 

「戻りたいのか」

 

その問いは、まっすぐだった。

 

奏斗はすぐには答えられなかった。

 

戻りたい。

 

だが、戻る資格があるのか。

 

答えに迷う。

 

横溝は苛立ったように言う。

 

「資格の話じゃねぇ。戻りたいのかって聞いてんだ」

 

奏斗はようやく顔を上げた。

 

「戻りたいです」

 

横溝はじっと奏斗を見た。

 

「なら、勝手に消えた分、働け」

 

奏斗の目がわずかに開く。

 

横溝は続けた。

 

「俺はお前を許してねぇ。千速も許さねぇ。三森もたぶん泣きながら怒る。でもな」

 

横溝は机に拳を置いた。

 

「生きてるなら、償う場所はある」

 

奏斗は深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

「礼じゃねぇ。地獄の始まりだ」

 

横溝は鼻を鳴らす。

 

「あと、千速には自分で言え」

 

奏斗の身体が固まる。

 

横溝は低く言った。

 

「あいつには、全部自分で言え。組織の説明じゃねぇ。お前の言葉でだ」

 

「はい」

 

「殴られても止めねぇからな」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「分かっています」

 

横溝は少しだけ口元を歪めた。

 

「いや、たぶん分かってねぇ」

 

 

その日の夕方。

 

第三交通機動隊。

 

萩原千速は、白バイの点検をしていた。

 

新井が近づいてくる。

 

「小隊長、横溝警部から連絡です」

 

「重悟から?」

 

「はい。至急、本部の裏駐車場まで来てほしいと」

 

千速は手を止めた。

 

嫌な予感がした。

 

それも、とびきり大きいものだ。

 

「分かった」

 

千速はジャケットを羽織り、歩き出した。

 

本部の裏駐車場。

 

そこは、以前、葛城怜司が押村奏斗だと確信した場所だった。

 

白バイの横で、名前を呼ばせた場所。

 

あの時、彼は小さく「千速」と言った。

 

それで十分だった。

 

だが、十分ではなかった。

 

理由を聞いていない。

怒りをぶつけきれていない。

謝罪も受け取っていない。

何より、彼がどこへ行くのか分からないままだった。

 

裏駐車場に着くと、横溝がいた。

 

そして、その隣に。

 

押村奏斗が立っていた。

 

葛城怜司ではない。

 

眼鏡はない。

髪型も少し戻っている。

スーツは公安のものではない。

 

立っているのは、確かに押村奏斗だった。

 

千速は足を止めた。

 

横溝は一度だけ奏斗を見てから、千速へ言った。

 

「説明はこいつがする」

 

千速は横溝を見ない。

 

奏斗だけを見ていた。

 

横溝は低く続ける。

 

「俺は少し外す。殴るなら利き手じゃない方にしろ。仕事に支障が出る」

 

「重悟」

 

千速の声は低かった。

 

「何だ」

 

「止めるなよ」

 

横溝は小さく鼻で笑った。

 

「止めねぇって言ったろ」

 

そう言って、横溝は離れていった。

 

駐車場に、二人だけが残る。

 

沈黙。

 

千速は奏斗を見る。

 

奏斗も逃げずに見返した。

 

先に口を開いたのは奏斗だった。

 

「千速」

 

千速は一歩近づいた。

 

次の瞬間、乾いた音が響いた。

 

千速の平手が、奏斗の頬を打った。

 

奏斗は避けなかった。

 

顔が横へ向く。

 

千速は震える声で言った。

 

「これは、葬儀の分だ」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「はい」

 

もう一度、音が響いた。

 

今度は胸を拳で殴った。

 

「これは、嘘ついた分」

 

「はい」

 

さらにもう一度。

 

「これは、私に黙って消えた分」

 

奏斗は胸を押さえず、ただ受けた。

 

「はい」

 

千速は拳を握ったまま、肩で息をしている。

 

「まだ足りねぇ」

 

「分かっている」

 

「分かってねぇよ」

 

千速は顔を上げる。

 

目に涙はなかった。

 

でも、泣いているより痛い顔をしていた。

 

「お前、死亡をなかったことにするって本当か」

 

奏斗は頷いた。

 

「本当だ」

 

「捜査一課に戻るのか」

 

「ああ」

 

「何だそれ」

 

千速は笑った。

 

怒りで笑っていた。

 

「死にました。やっぱり生きてました。戻ります。そんなの通ると思ってんのか」

 

「通らないと思っている」

 

「じゃあ何で戻る」

 

奏斗は一度目を伏せた。

 

そして、まっすぐ答えた。

 

「戻りたいからだ」

 

千速の表情が止まる。

 

奏斗は続けた。

 

「資格があるとは思っていない。許されるとも思っていない。でも、もう一度、捜査一課で働きたい。横溝警部の下で、事件を追いたい」

 

千速は黙って聞いていた。

 

奏斗は声を落とす。

 

「そして、君に嘘をつかない場所に戻りたい」

 

千速の目が揺れた。

 

「今さらかよ」

 

「ああ。今さらだ」

 

「遅ぇんだよ」

 

「分かっている」

 

「分かってるって言うな!」

 

千速の声が初めて大きくなった。

 

「お前はいつも分かってるって言う。分かってて嘘つく。分かってて黙る。分かってて消える」

 

奏斗は何も言えなかった。

 

千速は続ける。

 

「私がどれだけ探したか分かるか。死んだって言われても、納得できなくて、でも信じたらまた傷つくから怖くて、それでも追うしかなくて」

 

声が震えていた。

 

「お前を見つけた時、嬉しかったんだぞ」

 

奏斗の胸が締めつけられる。

 

千速は苦しそうに笑う。

 

「腹立つだろ。あんなに嘘つかれて、葬儀までさせられて、それでも生きてて嬉しかったんだ」

 

「千速」

 

「呼ぶな」

 

千速は即座に言った。

 

だが、少し間を置いて、低く続けた。

 

「……いや、呼べ」

 

奏斗は息を止める。

 

千速は彼を睨む。

 

「逃げずに、ちゃんと呼べ」

 

奏斗は静かに言った。

 

「千速」

 

その声を聞いた瞬間、千速の表情が歪んだ。

 

「本当に、帰ってきたんだな」

 

「まだ、正式には」

 

「そういう話じゃねぇ」

 

千速は一歩近づき、奏斗の胸倉を掴んだ。

 

「押村奏斗として、帰ってきたんだな」

 

奏斗はゆっくり頷いた。

 

「ああ」

 

千速の手に力が入る。

 

「私は許してない」

 

「分かっている」

 

「たぶん、しばらく許さない」

 

「ああ」

 

「でも」

 

千速は目を伏せた。

 

「死んだままよりは、ずっといい」

 

奏斗は何も言えなかった。

 

千速は胸倉を離し、少し距離を取った。

 

「戻るなら、ちゃんと戻れ」

 

「ちゃんと?」

 

「捜査一課にも、三森にも、みんなにも、逃げずに頭下げろ。何を言われても受けろ」

 

「ああ」

 

「私にも、これから何度でも説明しろ」

 

「分かった」

 

「分かったじゃなくて、言い切れ」

 

奏斗は千速を見る。

 

「説明する。逃げない」

 

千速はしばらく彼を見ていた。

 

そして、ようやく小さく頷いた。

 

「よし」

 

それは許しではない。

 

ただ、最初の一歩を認めただけだった。

 

 

翌週。

 

神奈川県警捜査一課。

 

朝礼の前、刑事部屋は妙にざわついていた。

 

すでに噂は流れている。

 

押村奏斗が生きていた。

殉職は取り消される。

警察庁の保護下にいた。

捜査一課へ戻る。

 

誰もどう反応すればいいのか分からなかった。

 

三森沙月は、押村の机の前に立っていた。

 

ずっと片付けられなかった机。

 

書類も、ペン立ても、古いメモも、最低限だけ残されていた。

 

横溝が部屋に入る。

 

後ろに、押村奏斗がいた。

 

刑事部屋が静まり返った。

 

三森の目が大きく開く。

 

奏斗は一歩前に出て、深く頭を下げた。

 

「押村奏斗です」

 

誰も声を出さない。

 

奏斗は続けた。

 

「自分の死亡扱いについて、皆さんに多大なご迷惑とご心配をおかけしました。任務上の事情があったとはいえ、説明できなかったこと、嘘をついたことは事実です。本当に申し訳ありませんでした」

 

沈黙。

 

その中で、三森が震える声で言った。

 

「押村警部補」

 

奏斗は顔を上げた。

 

三森は泣いていた。

 

「生きてるんですか」

 

「はい」

 

「本当に?」

 

「はい」

 

三森は口元を押さえた。

 

次の瞬間、泣きながら怒った。

 

「最低です」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「はい」

 

「本当に最低です。私、資料整理しながら何回も泣いたんですよ」

 

「すみません」

 

「謝らないでください。余計腹が立ちます」

 

奏斗は言葉に詰まった。

 

横溝が横でぼそっと言う。

 

「言われて当然だ」

 

「はい」

 

三森は涙を拭った。

 

「でも……生きててよかったです」

 

奏斗は深く頭を下げた。

 

「ありがとうございます」

 

他の刑事たちも、少しずつ声を上げた。

 

「本当に幽霊じゃないんだな」

 

「机、片付けなくてよかったな」

 

「いや、戻って早々仕事山積みだからな」

 

ぎこちない冗談。

 

戸惑い。

 

怒り。

 

安堵。

 

その全部が混ざった空気だった。

 

横溝が机を叩いた。

 

「感動の再会はここまでだ。押村」

 

「はい」

 

「お前の席はそこだ」

 

横溝が指したのは、以前と同じ机だった。

 

奏斗は一瞬、動けなかった。

 

横溝は苛立ったように言う。

 

「何だ。座り方を忘れたか」

 

奏斗は小さく首を横に振った。

 

「いえ」

 

彼はゆっくり自分の机へ向かった。

 

椅子を引く。

 

座る。

 

懐かしい感触だった。

 

死んだはずの男が、同じ机に戻る。

 

普通ならありえない。

 

だが今、確かに戻ってきた。

 

横溝が書類の束を机に置いた。

 

「復帰祝いだ」

 

奏斗は書類を見る。

 

「これは」

 

「未処理案件だ。死んでた分、働け」

 

三森が涙を拭きながら言う。

 

「資料整理もお願いします。押村警部補のやり方で」

 

奏斗は少しだけ目元を緩めた。

 

「分かりました」

 

横溝が鋭く言う。

 

「敬語が硬ぇ」

 

奏斗は一瞬困った顔をした。

 

「……分かった」

 

その返事に、刑事部屋の空気がほんの少しだけ緩んだ。

 

 

その日の夕方。

 

奏斗は本部の外へ出た。

 

裏口には、千速が立っていた。

 

白バイ隊員の制服姿だった。

 

ヘルメットを脇に抱え、いつものように真っ直ぐ立っている。

 

奏斗は歩み寄った。

 

「千速」

 

「よう、幽霊」

 

「幽霊ではない」

 

「知ってる」

 

千速は少しだけ笑った。

 

だがすぐに真顔になる。

 

「捜査一課は?」

 

「戻った」

 

「三森は泣いたか」

 

「ああ」

 

「怒られたか」

 

「怒られた」

 

「重悟は?」

 

「書類を山積みにされた」

 

千速は鼻で笑った。

 

「当然だな」

 

奏斗も小さく頷いた。

 

「そう思う」

 

しばらく沈黙が落ちた。

 

以前なら、すぐに並んで歩けた。

 

今はまだ、その距離が分からない。

 

千速は白バイを見た。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「戻ってきたからって、元通りじゃねぇからな」

 

「分かっている」

 

「私はまだ怒ってる」

 

「ああ」

 

「でも、ちゃんと戻ってきたことは……少しだけ、認める」

 

奏斗は静かに言った。

 

「ありがとう」

 

千速は眉を寄せる。

 

「礼じゃねぇ」

 

「そうだったな」

 

「それと」

 

千速は奏斗を指さした。

 

「約束」

 

奏斗は一瞬考えた。

 

「カレーか」

 

「そうだ」

 

千速の目が少しだけ柔らかくなる。

 

「生きてるなら作れるだろ」

 

奏斗は胸の奥が温かくなるのを感じた。

 

「作る」

 

「いつ」

 

「君の都合がいい日に」

 

「また敬語混じってる」

 

「……千速の都合がいい日に」

 

千速は満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

だが、その後で少しだけ声を落とした。

 

「でも、カレー食ったくらいで許すと思うなよ」

 

「思っていない」

 

「ならいい」

 

千速はヘルメットを被った。

 

白バイに跨る前に、もう一度だけ振り返る。

 

「おかえり、奏斗」

 

その一言で、奏斗の胸が詰まった。

 

ずっと欲しかった言葉だった。

 

でも、自分にはまだ早いと思っていた。

 

それでも、千速は言った。

 

奏斗は静かに答えた。

 

「ただいま、千速」

 

千速は何も言わず、白バイに跨った。

 

エンジンがかかる。

 

白い車体が夕方の道路へ滑り出していく。

 

サイレンは鳴らない。

 

追跡でもない。

 

けれど、奏斗には分かった。

 

彼女はもう、自分を見失わない。

 

そして自分も、もう逃げない。

 

押村奏斗の死亡は、なかったことになった。

 

書類上は。

 

だが、残された傷は消えない。

 

嘘も、喪失も、裏切りも、簡単には消えない。

 

それでも。

 

捜査一課の机。

横溝の怒鳴り声。

三森の涙。

千速の白バイ。

そして、夕暮れの中で聞いた「おかえり」。

 

それらは確かに、押村奏斗をもう一度この場所へ繋ぎ止めた。

 

死者ではなく。

 

公安の偽名でもなく。

 

神奈川県警捜査一課警部補、押村奏斗として。

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