押村奏斗が捜査一課に戻って、三日が経った。
戻った、と言っても、すべてが元通りになったわけではない。
死亡扱いの取消。
警察庁主導の保護下にあったという説明。
一定期間の監察。
公安とゼロに関わる記録の大部分は非開示。
書類上は整えられても、人の感情までは整えられない。
捜査一課の空気も、最初はぎこちなかった。
「押村警部補」と呼んでいいのか。
「おかえり」と言っていいのか。
何を聞いていいのか。
何を聞いてはいけないのか。
刑事たちは、それぞれ戸惑っていた。
だが、横溝重悟だけは初日から容赦がなかった。
「押村、これ片付けろ」
「押村、報告書を見直せ」
「押村、三森の資料確認しろ」
「押村、死んでた分の遅れを取り戻せ」
そして極めつけに、三森沙月が泣きながら怒った翌日。
横溝は突然、刑事部屋の真ん中で言った。
「よし。押村の復帰祝いをやる」
奏斗は書類から顔を上げた。
「必要ありません」
横溝は即座に睨んだ。
「お前に決定権はねぇ」
「しかし」
「死んだと思われた部下が生きて戻ったんだ。飲む理由としては十分だろ」
三森が少し赤い目で頷く。
「私も賛成です」
奏斗は困ったように三森を見る。
「三森さんまで」
「押村警部補には怒っています。でも、復帰祝いはします」
「怒っているのに?」
「怒っているからです」
奏斗は理解できず、少し黙った。
横溝が鼻で笑う。
「諦めろ。今夜だ」
「今夜ですか」
「ああ。千速にも声をかけてある」
奏斗の手が止まった。
「千速にも?」
「当然だろ。あいつが来なきゃ始まらねぇ」
三森が横から小さく言う。
「萩原警部補、すごく怖い顔で『行く』って言ってました」
奏斗は静かに息を吐いた。
復帰祝い。
その言葉の響きは温かい。
だが、今の自分にはまだ、祝いを受け取る資格があるのか分からなかった。
それでも、横溝も三森も、千速も。
怒りながら、受け入れようとしてくれている。
奏斗は小さく頷いた。
「分かりました」
横溝は満足げに言う。
「よし。じゃあ今日は定時で切り上げろ」
「それは難しいのでは」
「俺がいいって言ってんだ」
「はい」
「敬語が硬ぇ」
「……分かった」
三森が少しだけ笑った。
その笑顔を見て、奏斗は胸の奥が痛んだ。
泣かせた。
怒らせた。
傷つけた。
それでも、こうして笑ってくれる。
だからこそ、戻ってきたからには逃げられないと思った。
⸻
夜。
復帰祝いの店は、以前から捜査一課がよく使っていた居酒屋だった。
ただし、今回は小さめの個室が取られていた。
騒ぎすぎないように。
それでも、扉を開けた瞬間、奏斗は少し圧倒された。
横溝。
三森。
捜査一課の面々。
数人の交通部の隊員。
そして、萩原千速。
千速は奥の席に座っていた。
仕事帰りなのか、白バイ隊員の制服ではなく、淡い色のニットに長めのスカート、上から黒のジャケットを羽織っている。
以前より少し柔らかい服装。
だが、目だけは鋭い。
奏斗が入ると、千速は静かに言った。
「遅い」
奏斗は時計を見る。
「集合時刻の三分前だ」
「私より遅い」
「そういう基準か」
「そういう基準だ」
横溝が大きな声で割って入った。
「始めるぞ。主役が来た」
奏斗はすぐに言った。
「主役ではありません」
「今日は主役だ。黙って座れ」
「はい」
「だから硬ぇ」
千速が呆れたように笑った。
「重悟、今日はそれ何回言う気だ」
「押村が硬い返事するたびに言う」
「一晩中になるぞ」
三森が小さく吹き出した。
場が少し和む。
奏斗は千速の隣ではなく、斜め向かいに座らされた。
その配置にも横溝の意図を感じた。
近すぎず、遠すぎず。
千速が怒りすぎたら止められる距離。
奏斗が逃げようとしたら捕まえられる距離。
乾杯のグラスが配られる。
横溝が立ち上がった。
「えー、押村」
「はい」
「お前には言いたいことが山ほどある」
「はい」
「勝手に死んだことになりやがって、勝手に公安に行って、勝手に戻ってきやがった。正直、腹は立ってる」
個室の空気が少し静かになる。
横溝は続けた。
「だが、生きて戻った。それだけは、まあ……よかった」
奏斗は何も言えなかった。
横溝は照れ隠しのように咳払いをする。
「だから今日は復帰祝いだ。明日からまた死ぬほど働け」
三森がすかさず言う。
「死ぬほどは駄目です」
横溝が顔をしかめる。
「言い方だ」
千速が低く言う。
「冗談でも死ぬって言うな」
一瞬、横溝が黙った。
「……悪い」
千速は頷く。
奏斗はそのやり取りを見て、胸が痛くなった。
自分のしたことは、こういう何気ない言葉にも影を落としている。
乾杯が始まった。
「押村の復帰に」
横溝がグラスを掲げる。
全員が続く。
「乾杯」
グラスが重なる音がした。
奏斗はグラスを持ったまま、小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
三森がすぐ言う。
「今日はちゃんと食べてください。押村警部補、放っておくと食べないので」
千速が即座に反応した。
「やっぱりか」
「はい。昼も資料見ながらおにぎり一個でした」
千速の目が奏斗へ向く。
「奏斗」
「何だ」
「食え」
「食べている」
「足りねぇ」
「まだ始まったばかりだ」
「言い訳するな」
横溝が笑う。
「いいぞ千速。押村の監視係はお前に任せる」
千速は箸を取り、奏斗の取り皿に唐揚げを二つ置いた。
「食え」
奏斗はそれを見る。
「二つも?」
「五つ置かれたいか」
「二つ食べる」
三森がまた笑った。
その笑い声が、少しずつ場を温かくしていった。
⸻
飲み会が進むにつれ、刑事たちは少しずついつもの調子を取り戻していった。
「押村さん、幽霊扱いされてた時、何してたんですか?」
若い刑事の一人が酔いに任せて聞きかけた瞬間、横溝が無言で睨んだ。
刑事はすぐに姿勢を正す。
「すみません」
奏斗は静かに言った。
「話せないことが多い」
場がまた少し重くなる。
だが、奏斗は続けた。
「ただ、皆さんを騙していたことは事実です。すみませんでした」
誰もすぐには返せなかった。
その時、三森がぽつりと言った。
「押村警部補」
「はい」
「また、資料の見方を教えてください」
奏斗は三森を見る。
三森はまだ少し目を赤くしていたが、まっすぐだった。
「私、押村警部補がいなくなってから、教わったことをずっと続けてました。でも、分からないところもたくさんありました」
「……はい」
「だから、また教えてください」
奏斗は深く頷いた。
「もちろん」
三森は少しだけ笑った。
横溝がビールを飲みながら言う。
「よかったな、押村。仕事が増えたぞ」
「はい」
「嬉しそうに返事すんな」
千速が斜め向かいから奏斗を見る。
その表情は柔らかかった。
だが、許した顔ではない。
それでも、以前のように完全に距離を置いているわけでもなかった。
怒りながら近くにいる。
それが、今の二人の距離だった。
⸻
飲み会の終盤。
横溝がふと思い出したように言った。
「そういや押村」
「はい」
「お前、今どこ住んでる」
その一言で、奏斗の箸が止まった。
千速も目を向ける。
「どこって……」
奏斗は少し言葉を選んだ。
「一時的に警察庁側が用意した宿泊施設にいます」
千速の目が細くなる。
「家は?」
「解約されています」
「は?」
横溝も顔をしかめた。
「そりゃそうか。死んだ扱いだったもんな」
「はい」
三森が驚く。
「じゃあ、荷物は?」
「大部分は処分されています。残っているものは一部保管されています」
千速の顔から表情が消えた。
「大部分、処分?」
奏斗は頷く。
「必要な措置だった」
「誰にとって必要だったんだよ」
声が低い。
場の空気が一瞬で張り詰めた。
奏斗は静かに答える。
「任務上、生きている痕跡を残せなかった」
千速は箸を置いた。
「つまり、お前の家も、服も、生活も、全部消されたってことか」
「すべてではない」
「似たようなもんだろ」
横溝が頭をかく。
「宿泊施設って、いつまでいられるんだ」
「長くはありません」
「新しい部屋は」
「これから探します」
千速が即座に言った。
「うちに来い」
奏斗は千速を見る。
「……千速?」
個室の全員が固まった。
三森が目を丸くする。
横溝がビールを置く。
「千速、お前」
千速は周囲を見回しもせず、奏斗だけを見ていた。
「家がないんだろ」
「一時的な宿泊場所はある」
「長くはいられないんだろ」
「部屋を探す」
「その間どうすんだ」
「ホテルでも」
「無駄だ」
奏斗は困ったように言う。
「しかし、君に迷惑がかかる」
千速の目が鋭くなる。
「またそれか」
「いや、今回は現実的に」
「現実的に言ってる」
千速ははっきりと言った。
「私の部屋に来い。空き部屋はないけど、寝る場所くらい何とかなる」
横溝が咳き込んだ。
三森が小声で「えっ」と言った。
奏斗は真面目な顔で返す。
「それは同棲ということになるのでは」
「なるな」
「いいのか」
「何が」
「君はまだ俺を許していない」
「許してない」
「なら」
「許してない相手を監視するには、同じ家が一番だろ」
横溝が思わず笑った。
「理由が怖ぇな」
千速は横溝を睨む。
「何だ」
「いや、何でもねぇ」
千速は再び奏斗を見る。
「奏斗」
「何だ」
「私はまだ怒ってる。でも、お前がまたどこかに消える方が嫌だ」
奏斗は言葉を失った。
千速は続ける。
「家がないなら来い。部屋を探すなら、そこから探せ。逃げるなって言っただろ」
その声は強かった。
でも、その奥に不安があった。
また消えるかもしれない。
また組織に連れて行かれるかもしれない。
また何も言わずにいなくなるかもしれない。
千速は、それを恐れている。
奏斗は静かに言った。
「千速」
「何だ」
「本当にいいのか」
「何回聞くんだ」
「迷惑をかける」
「もう十分かけてる」
「……それはそうだ」
「だから今さらだ」
横溝が腕を組んで頷いた。
「いいんじゃねぇか」
奏斗が横溝を見る。
「警部」
「宿泊施設なんぞに置いとくより、千速の監視下に置いた方が安心だ」
「監視前提ですか」
「当たり前だ」
三森もおずおずと言う。
「私も、その方がいいと思います」
奏斗は驚く。
「三森さんまで」
「押村警部補、一人にするとまた何か抱え込みそうなので」
奏斗は何も言えなかった。
千速が少しだけ得意げに言う。
「満場一致だな」
「俺の意思は」
「あるのか?」
「……」
「ないな」
横溝が笑う。
「決まりだ。押村、今日から千速の家な」
奏斗は少しだけ困ったように眉を寄せた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
むしろ、胸の奥が熱くなる。
帰る場所。
その言葉を、久しぶりに思い出した。
奏斗は千速を見た。
「世話になる」
千速は少しだけ目を逸らした。
「おう」
そして、すぐに付け加える。
「ただし、条件がある」
「条件?」
「勝手に出ていかない」
「分かった」
「帰りが遅くなる時は連絡する」
「分かった」
「公安とかゼロとか、怪しい奴から連絡が来たら隠さず言う」
奏斗は少し黙った。
千速の目が鋭くなる。
「奏斗」
奏斗は頷いた。
「言う」
「よし」
「他には」
千速は少し考えた。
「カレーを作る」
横溝が吹き出した。
三森も笑った。
奏斗は真面目に頷く。
「それは約束していた」
「そうだ。ようやく回収だ」
千速はようやく少し笑った。
「復帰祝いの次は、同棲祝いだな」
横溝が言うと、千速は睨んだ。
「重悟、余計なこと言うな」
「事実だろ」
「監視だ」
「はいはい、監視同棲な」
「殴るぞ」
「今日は押村の復帰祝いだから勘弁してくれ」
奏斗はそのやり取りを見ながら、少しだけ笑った。
本当に少しだけ。
それを千速が見逃さなかった。
「何笑ってんだ」
「いや」
「何だ」
「戻ってきた気がした」
千速は一瞬黙った。
それから、少しだけ表情を柔らかくした。
「まだ途中だ」
「ああ」
「でも、戻ってきたなら、もう逃がさねぇ」
奏斗は静かに頷いた。
「逃げない」
今度は、ちゃんと言い切った。
千速は満足そうにグラスを持ち上げた。
「ならよし」
⸻
飲み会が終わる頃には、復帰祝いなのか、説教会なのか、同棲決定会なのか分からなくなっていた。
店の外に出ると、夜風が冷たかった。
横溝はタクシーを呼びながら言った。
「押村、荷物は?」
「宿泊施設に少しだけあります」
千速が即答する。
「取りに行く」
「今からか」
「今からだ」
「明日でも」
「逃げ道を残すな」
奏斗は苦笑した。
「逃げないと言った」
「信用回復期間中だ」
「それは長いのか」
「未定」
横溝が笑う。
「一生かもな」
千速は否定しなかった。
「態度次第だ」
三森が少し心配そうに近づく。
「押村警部補」
「はい」
「ちゃんと、幸せになってください」
奏斗は言葉を失った。
三森は慌てる。
「あ、すみません。変なことを」
「いや」
奏斗は静かに首を振る。
「ありがとう」
三森は小さく頷いた。
千速が隣で言う。
「まずはカレーからだな」
「幸せの第一歩がカレーか」
「文句あるか」
「ない」
横溝がタクシーに乗り込む前に、奏斗の肩を叩いた。
「押村」
「はい」
「今度は、帰る場所を間違えるな」
奏斗は横溝を見る。
その言葉の重さを、理解していた。
「はい」
横溝は眉を寄せる。
「硬ぇ」
奏斗は少しだけ言い直した。
「……分かった」
「よし」
横溝は満足そうにタクシーに乗った。
⸻
その後、奏斗と千速は警察庁側の宿泊施設へ向かった。
荷物は本当に少なかった。
スーツが数着。
最低限の私物。
ノート。
身分関係の書類。
そして、小さな箱。
千速はその箱を見る。
「何だ、それ」
奏斗は少し迷ってから開けた。
中には、処分されずに残っていた数少ない私物が入っていた。
警察学校時代の写真。
捜査一課で使っていた古いペン。
千速と同期会で撮った写真。
そして、カレーの材料を書いたメモ。
千速はメモを見て、目を細めた。
「何だこれ」
「君に作る約束をした時に、材料を考えていた」
千速は一瞬固まった。
「……そんなの残してたのか」
「処分するつもりだった」
「しなかった」
「できなかった」
千速はメモを手に取り、しばらく見つめた。
そして、静かに箱へ戻した。
「持ってけ」
「いいのか」
「当然だろ」
千速は少しだけ声を低くする。
「そういうのまで消すな」
奏斗は頷いた。
「ああ」
荷物をまとめると、小さなバッグ一つに収まった。
それを見て、千速は苦い顔をした。
「本当にこれだけか」
「ああ」
「少なすぎる」
「問題ない」
「問題ある」
千速はバッグを奪うように持った。
奏斗が手を伸ばす。
「俺が持つ」
「いい。私が持つ」
「重い」
「白バイ隊員なめんな」
「そういう問題では」
千速は奏斗を睨んだ。
「今日は私が持つ」
奏斗はその意味を理解した。
荷物を持つ。
それはただの手伝いではない。
消された奏斗の生活を、自分の部屋へ連れて帰るという意思だった。
奏斗は小さく頷いた。
「頼む」
千速はバッグを肩にかけた。
「よし。帰るぞ」
その言葉に、奏斗は胸を突かれた。
帰る。
どこへ。
千速の家へ。
これから、自分の帰る場所になるかもしれない場所へ。
⸻
千速の部屋は、思っていたよりも整っていた。
必要なものがきちんと置かれ、余計なものは少ない。
白バイ隊員らしく、ヘルメットや手袋の手入れ道具が一角にまとめられている。
リビングには小さなソファとテーブル。
棚の上には、研二と松田の写真が置かれていた。
奏斗はその前で足を止めた。
千速が言う。
「ただいま」
それから奏斗を見る。
「言え」
奏斗は少し戸惑う。
「何を」
「ただいま」
奏斗は写真を見てから、千速を見る。
ゆっくりと言った。
「ただいま」
千速は小さく頷いた。
「おかえり」
その言葉は、店の前で聞いた時よりも、深く胸に響いた。
部屋の中で聞く「おかえり」は、重さが違った。
千速はバッグを置き、手を腰に当てる。
「ルールを決める」
「はい」
「硬い」
「……分かった」
「まず、勝手にいなくならない」
「分かった」
「帰宅時間が遅れる時は連絡」
「分かった」
「食事を抜かない」
「努力する」
「言い切れ」
「抜かない」
「よし」
千速は少し考える。
「寝る場所は、今日はソファでいいか」
「もちろん」
「布団、明日買いに行く」
「俺が買う」
「一緒に行く」
「分かった」
千速はキッチンを見る。
「それと、カレー」
奏斗は頷く。
「今から作るか」
千速は目を丸くした。
「今から?」
「材料を買えば作れる」
「復帰祝いで食ったばかりだろ」
「約束だから」
千速は少し黙った後、ふっと笑った。
「真面目か」
「真面目だ」
「知ってる」
千速はジャケットを脱ぎ、袖をまくった。
「じゃあ、明日だ。今日は味噌汁くらいでいい」
「作る」
「一緒に作る」
奏斗は少し驚いた。
千速は何でもないように言う。
「同棲なんだろ」
「監視では?」
「監視同棲だ」
奏斗は小さく笑った。
千速も少しだけ笑った。
まだぎこちない。
傷は残っている。
信頼も完全には戻っていない。
それでも、二人は同じキッチンに立った。
奏斗が味噌汁を作り、千速が冷蔵庫から余りものを出す。
鍋から湯気が上がる。
味噌の香りが部屋に広がる。
ただそれだけのことが、奏斗には信じられないほど温かかった。
千速が横から言う。
「味、薄くないか」
「まだ調整中だ」
「私、濃いめがいい」
「覚えておく」
「これから毎回作るならな」
奏斗は手を止めた。
千速は視線を逸らしながら言う。
「何だよ」
「いや」
「言え」
「これから、という言葉が嬉しかった」
千速は少し赤くなった。
「うるさい」
「すまない」
「謝るな」
二人は顔を見合わせた。
また、同じやり取り。
でも、今度は少しだけ笑えた。
⸻
その夜。
簡単な食事を終えた後、奏斗はソファに座っていた。
千速は棚の前に立ち、研二と松田の写真を見ていた。
「研二、陣平」
千速が小さく言う。
「奏斗、帰ってきた」
奏斗は顔を上げた。
千速は写真に向かって続ける。
「まだ許してねぇけどな」
奏斗は静かに頭を下げた。
「すみません」
千速が振り返る。
「二人に謝るのはいい。でも私には謝るな」
「難しいな」
「慣れろ」
千速はソファの横に座った。
距離は少し空いている。
以前ならもっと近かったかもしれない。
でも今は、この距離でいい。
千速は言った。
「奏斗」
「何だ」
「今日からここが、お前の帰る場所だ」
奏斗は言葉を失った。
千速は真っ直ぐ前を見たまま続ける。
「ただし、仮免だ」
「仮免?」
「信用の仮免」
奏斗は少しだけ笑った。
「厳しいな」
「当然だろ」
千速は横目で見る。
「本免になるまで、ちゃんと走れ」
奏斗はゆっくり頷いた。
「安全運転で」
千速は少し笑った。
「よし」
沈黙が落ちる。
だが、苦しい沈黙ではなかった。
同じ部屋にいる。
同じ湯気の残る食卓がある。
明日の朝がある。
それだけで十分だった。
奏斗は静かに言った。
「千速」
「何だ」
「ただいま」
千速は少しだけ目を伏せた。
そして、今度は柔らかく答えた。
「おかえり、奏斗」
その夜、押村奏斗は久しぶりに、帰る場所で眠った。
まだ許されてはいない。
まだ償いは始まったばかり。
でも、もう一人で消える場所ではない。
白バイ隊員の監視付きで。
怒りっぽくて、優しくて、絶対に逃がしてくれない恋人のいる部屋で。
奏斗の新しい生活が、静かに始まった。