朝の第三交通機動隊は、いつも通り騒がしかった。
白バイのエンジン音。
整備工具の金属音。
隊員たちの短い返事。
無線機の確認音。
それらが重なって、独特の空気を作っている。
萩原千速は、車庫の前で腕を組みながら、並んだ白バイを見ていた。
まだ出動前だというのに、すでに目つきは鋭い。
「新井」
「はい!」
呼ばれた若い隊員が、慌てて駆け寄ってくる。
「二号車、昨日よりブレーキの戻りが鈍い。点検したか?」
「え、あ、はい。昨日の終業時に確認はしました」
「確認しただけか」
「……すみません。もう一度見ます」
「走ってから気づいたら遅い。白バイは飾りじゃない。自分の命も他人の命も乗せてる」
「はい!」
新井が慌てて整備担当のもとへ向かう。
その背中を見送りながら、千速は小さく息を吐いた。
部下は育っている。
だが、油断は一瞬で事故になる。
特に白バイはそうだ。
車体を操る技術だけでは足りない。
道路を読む目。
車の流れを読む感覚。
相手が次に何をするかを読む勘。
全部が揃って、ようやく現場に立てる。
その時、背後から声がした。
「萩原小隊長」
振り返ると、隊長が一人の女性隊員を連れて歩いてきた。
「今日付けで配属だ」
女性隊員は背筋を伸ばし、千速の前で敬礼した。
「朝倉玲奈巡査長です。本日付で第三交通機動隊に着任しました。よろしくお願いいたします」
声は落ち着いていた。
年齢は二十代半ばほど。
髪はきちんとまとめられ、制服の着方にも乱れがない。
緊張はしているようだが、目は泳いでいない。
千速は玲奈を上から下まで見る。
「萩原千速。小隊長だ」
「はい」
「うちは楽じゃない」
「承知しています」
「女だからって特別扱いはしない」
「はい」
「男より甘く見る気もない。逆に、女だからって肩に力を入れすぎるのも許さない」
玲奈は一瞬だけ目を瞬いた。
千速は続ける。
「白バイに乗る以上、必要なのは性別じゃない。走れるか、止まれるか、判断できるかだ」
玲奈は真っ直ぐ千速を見た。
「はい。覚悟しています」
その返事は悪くなかった。
よくある新人のように、勢いだけで大声を出すわけでもない。
過度に怯えているわけでもない。
千速は少しだけ目を細めた。
「覚悟は走りに出る。口だけならすぐ分かるぞ」
「はい」
「じゃあ、まず車体確認。新井」
呼ばれた新井がブレーキ周りを見ながら振り向く。
「はい!」
「朝倉に一通り案内しろ」
「了解です」
玲奈が千速にもう一度頭を下げる。
「よろしくお願いします、小隊長」
千速は短く頷いた。
「ついてこい」
「はい」
玲奈は新井の後について車庫へ向かった。
その後ろ姿を見ながら、千速は少しだけ腕を組み直した。
姿勢がいい。
歩幅も安定している。
緊張している新人にしては、身体の使い方に無駄が少ない。
白バイ経験者という資料は見ている。
それなりに訓練も積んできたはずだ。
だが、それにしても落ち着いている。
「悪くないな」
千速が呟くと、隣にいた隊長が笑った。
「珍しいな。初日で褒めるとは」
「褒めてません」
「顔がそう言ってる」
「気のせいです」
「まあ、頼む。最近、若手が足りん」
「分かっています」
「特に女の白バイ隊員は、萩原の背中を見たがる奴が多い」
千速は少し嫌そうな顔をした。
「背中なんて見てたら置いていきますよ」
「だからお前は怖いんだ」
隊長は笑いながら去っていった。
千速はもう一度、玲奈の方を見る。
新井が白バイの基本点検を説明している。
玲奈は一つ一つ頷きながら、質問を挟んでいた。
「この車体、フロントの沈み込みが少し硬めですか?」
新井が驚いた顔をする。
「え、分かるの?」
「跨った時に少しだけ」
「すごいな。俺、最初全然分からなかった」
「いえ、前の所属で少し似た車体に乗っていたので」
千速はその会話を聞きながら、わずかに眉を上げた。
感覚は悪くない。
少なくとも、ただ憧れだけで来た新人ではなさそうだ。
午前の訓練は、慣熟走行ではなく基本確認に留めた。
配属初日から無理をさせる気はない。
ただし、見るべきところは見る。
千速は車庫の脇で、玲奈が白バイを押して移動させる様子を見ていた。
新井が横から指示を出す。
「そこ、少し右に切って」
「はい」
「重いから気をつけて」
「大丈夫です」
玲奈は白バイを丁寧に押した。
力任せではない。
車体の重心を理解している。
新井が感心したように言う。
「朝倉さん、上手いですね」
「ありがとうございます」
「俺、最初倒しかけて小隊長にめちゃくちゃ怒られました」
千速が即座に言う。
「倒しかけたんじゃない。倒したんだ」
新井がびくっとする。
「すみません!」
玲奈が思わず笑った。
「新井さん、倒したんですか?」
「いや、その、ちょっとだけです」
「白バイにちょっとだけ倒すなんてない」
千速が言うと、新井は肩を落とした。
「はい……」
玲奈は笑いをこらえながらも、白バイをきちんと所定位置へ戻した。
千速は近づく。
「朝倉」
「はい」
「今の取り回しは悪くなかった」
「ありがとうございます」
「だが、丁寧すぎる」
玲奈が少し驚いた顔をする。
「丁寧すぎる、ですか」
「現場では、丁寧にやる時間がない時もある。乱暴にしろって意味じゃない。迷わず動かせるようにしろ」
「はい」
「それと、車体を信用しすぎるな。上手い奴ほど、自分なら倒さないと思い込む」
玲奈は真剣な顔で聞いていた。
「分かりました」
「分かったかどうかは次で見る」
「はい」
千速が背を向けようとすると、玲奈が少しだけ声をかけた。
「あの、小隊長」
「何だ」
「私、萩原小隊長みたいな白バイ隊員になりたいと思っていました」
周囲の隊員たちが一瞬静かになる。
新井が「おお」と小さく声を漏らした。
千速は振り返る。
「私みたいに?」
「はい」
玲奈はまっすぐ答えた。
「現場で先頭に立てる隊員になりたいです。技術だけじゃなく、判断できる隊員に」
千速はしばらく玲奈を見た。
その目に嘘は見えない。
少なくとも、表面上は。
「やめとけ」
玲奈が目を瞬く。
「え?」
「私みたいになる必要はない。お前はお前の走り方を覚えろ」
「……はい」
「憧れで乗ると、いつか事故る」
千速は少しだけ声を低くした。
「白バイは格好つけるためのもんじゃない。誰かを止めるために乗る。誰かを守るために走る。そのために、自分が生きて帰る。そこを間違えるな」
玲奈は表情を引き締めた。
「はい。肝に銘じます」
千速は短く頷く。
「ならいい」
その場の空気が少し緩んだところで、新井が余計なことを言った。
「朝倉さん、小隊長に憧れてるって言うの、勇気ありますね」
千速が新井を見る。
「新井」
「はい」
「お前、午後の訓練倍な」
「何でですか!」
「口が軽いからだ」
玲奈がまた少し笑った。
千速はその笑顔を見て、少しだけ思った。
悪くない。
この隊に馴染めるかもしれない。
昼過ぎ、千速は休憩室で簡単な昼食を取っていた。
コンビニのおにぎりと、味噌汁。
向かいの席では新井がカップ麺をすすっている。
玲奈は少し離れた席に座っていたが、新井が手招きした。
「朝倉さん、こっち座れば?」
玲奈は少し遠慮したように千速を見る。
千速はおにぎりの包装を開けながら言った。
「好きにしろ」
「では、失礼します」
玲奈は丁寧に頭を下げ、二人の近くへ座った。
新井が嬉しそうに話しかける。
「朝倉さん、前はどこだったんですか?」
「県央の方です。交通課にいました」
「白バイ志望だったんですか?」
「はい。ずっと」
「へぇ。じゃあ小隊長のことも前から知ってたんですね」
玲奈は千速を見る。
「有名でしたから」
千速は味噌汁を飲みながら、少し眉を寄せる。
「何が有名なんだ」
新井が即答する。
「男より速い美人白バイ隊員って」
千速が睨む。
「誰が言ってる」
新井は急にカップ麺に集中し始めた。
「さあ……噂って怖いですね」
玲奈は小さく笑った。
「でも、実際お綺麗ですし」
千速は玲奈を見る。
「そういうのは現場では役に立たない」
「はい。でも、女性として憧れる部分もあります」
千速は少しだけ言葉に詰まった。
こういう真っ直ぐな言葉は苦手だった。
褒められるより、走りが悪いと言われた方がまだ返しやすい。
「……飯食え。午後もある」
「はい」
玲奈は素直に箸を取る。
しばらく、休憩室には昼食の音だけが響いた。
やがて玲奈が、何気ない口調で聞いた。
「小隊長は、お仕事以外ではどんなふうに過ごされるんですか?」
千速はおにぎりを飲み込みながら答える。
「普通だ」
新井が横から言う。
「小隊長の普通って、たぶん普通じゃないですよ」
「新井、午後三倍な」
「すみません!」
玲奈は笑ってから、少しだけ興味深そうに続けた。
「お休みの日は、やっぱりバイクに乗られるんですか?」
「乗る時もある」
「恋人さんと出かけたりは?」
千速の手が一瞬止まった。
新井も「あ」と小さく声を漏らす。
隊内ではもう、千速と奏斗のことはある程度知られている。
捜査一課に押村奏斗が復帰したことで、その話はさらに広まった。
とはいえ、本人に直接聞くには少し踏み込んだ話だ。
玲奈はすぐに頭を下げた。
「すみません。失礼でした」
千速は少しだけ息を吐いた。
「別に」
新井が恐る恐る聞く。
「小隊長、怒ってます?」
「怒ってない」
「その声は少し怒ってます」
「午後四倍」
「すみません!」
玲奈は申し訳なさそうに言う。
「本当にすみません。隊内で少し話を聞いていたので、つい」
千速は玲奈を見る。
悪気があるようには見えない。
新人が先輩の私生活に興味を持つことは珍しくない。
まして、相手が捜査一課の刑事となれば、話題にもなる。
「押村のことか」
玲奈は頷く。
「はい。捜査一課の警部補だと伺いました」
「そうだ」
「すごいですね。捜査一課の刑事さんと、第三交機の小隊長なんて」
千速は少し顔を逸らした。
「別にすごくはない」
新井が小声で言う。
「いや、普通にすごいですよ」
千速が無言で睨む。
新井はまたカップ麺に逃げた。
玲奈は穏やかに笑っていた。
「押村警部補も、きっと小隊長みたいに真面目な方なんでしょうね」
千速は少し考えてから言った。
「真面目すぎて面倒な男だ」
玲奈の目がわずかに細くなる。
「面倒、ですか」
「何でも一人で抱え込む。自分でどうにかしようとする。そういうところが面倒だ」
言ってから、千速は少しだけ口を閉じた。
言いすぎたかもしれない。
けれど玲奈は、普通の後輩らしく微笑んだ。
「でも、小隊長はそういうところも含めて大切にされているんですね」
千速は味噌汁を飲むふりをした。
「午後の集合、遅れるなよ」
話を切った。
新井はにやにやしかけたが、千速に睨まれて即座に表情を戻した。
玲奈は静かに「はい」と答えた。
その様子は、どこにでもいる真面目な新人に見えた。
その夜。
奏斗が千速の部屋へ帰ると、台所から包丁の音が聞こえていた。
「ただいま」
「おかえり」
千速の声が返ってくる。
奏斗は靴を揃え、リビングに入った。
千速はエプロンをつけて、野菜を切っていた。
髪は下ろしている。
仕事中の鋭さが少しだけ抜けて、部屋の明かりの下で柔らかく見える。
「今日は早かったな」
千速が言う。
「横溝警部が早く帰れと」
「重悟が?」
「ああ。『同棲早々、仕事場に住み着くな』と言われた」
千速が少し笑う。
「珍しく正しい」
「そうだな」
奏斗は上着を脱ぎながら、キッチンの横へ立った。
「手伝う」
「じゃあ味噌汁」
「分かった」
二人で台所に立つのも、少しずつ自然になってきた。
まだ千速は奏斗を完全には許していない。
ふとした時に、目が鋭くなることがある。
奏斗が連絡を少し遅らせると、声が一段低くなる。
夜にスマホを見て黙り込むと、必ず聞かれる。
「また何か抱え込んでないだろうな」
それでも、同じ部屋で過ごす時間は増えていた。
奏斗は鍋に水を入れながら聞いた。
「今日はどうだった?」
千速は野菜を切りながら答える。
「新しい隊員が来た」
「新任?」
「ああ。朝倉玲奈。女の白バイ隊員だ」
奏斗の手が、ほんのわずかに止まった。
千速は気づかなかった。
「真面目そうな奴だ。取り回しも悪くない。初日にしては落ち着いてる」
奏斗は水を火にかけながら、静かに聞いた。
「朝倉玲奈」
「知ってるのか?」
千速が振り返る。
奏斗は少し考えた。
「いや。どこかで聞いた気がしただけだ」
「仕事関係か?」
「まだ分からない」
「まだ、ね」
千速は包丁を止める。
「その言い方、引っかかってる時のやつだな」
奏斗は苦笑に近い表情をした。
「顔に出ていたか」
「出てる。私にはな」
奏斗は少し沈黙した。
朝倉玲奈。
名前そのものに記憶はない。
しかし、何かが引っかかった。
公安時代に見た資料。
黒瀬事件の外部協力者リスト。
鳥羽の逃走支援網。
あるいは、それとは別のどこか。
記憶の端に薄く残っている名前に似ている。
だが、確証はない。
「気のせいかもしれない」
奏斗は言った。
千速はじっと見る。
「お前の気のせいは、だいたい気のせいじゃない」
「それは言い過ぎだ」
「当たるだろ」
「外れることもある」
「外れた話を聞いたことがない」
奏斗は少し困ったように眉を寄せた。
千速はその顔を見て、ふっと笑った。
「まあ、いい。今のところ悪い奴には見えない。むしろ、かなり真面目だ」
「君に憧れていると言っていた?」
千速の手が止まる。
「何で分かった」
「そういう新人は多いと聞いた」
「やめてくれ。背中を見られても困る」
「君は見る側より、追われる側だな」
「どういう意味だ」
「目標にされる人間という意味だ」
千速は少しだけ視線を逸らした。
「そういうの、さらっと言うな」
「事実だ」
「うるさい」
奏斗は味噌を取り出しながら、少しだけ表情を緩めた。
千速は照れると口が悪くなる。
その癖も、変わらない。
「それで、朝倉はどんな隊員だ」
奏斗が聞くと、千速は考えながら答えた。
「礼儀正しい。走りの基礎はできてる。取り回しも安定してる。新井より初日はずっとマシだ」
「新井さんが聞いたら落ち込む」
「事実だ」
「厳しいな」
「白バイだからな」
千速は切った野菜を鍋に入れながら続けた。
「ただ、少し落ち着きすぎてる気もする」
奏斗の目がわずかに動く。
「落ち着きすぎている?」
「ああ。新人なら、もう少し浮つくか、逆に固くなる。でも朝倉はその中間というか……自分を見せすぎない」
「君から見て、違和感か?」
千速は少し考えてから首を横に振った。
「違和感ってほどじゃない。優秀な新人にも見える。前の所属で鍛えられたのかもしれない」
「そうか」
「でも、奏斗が引っかかるなら覚えておく」
奏斗は千速を見る。
「疑ってほしいわけではない」
「分かってる」
千速はまっすぐ言った。
「私は部下として見る。お前は刑事として気になるなら見ろ。それでいいだろ」
奏斗は静かに頷いた。
「ああ」
その言葉に、奏斗は少し救われた。
千速は感情的に部下を庇うだけの人間ではない。
だが、根拠なく疑うこともしない。
だから信頼できる。
千速はふと思い出したように言う。
「そういえば、朝倉がお前のことを聞いてきた」
奏斗の手が止まる。
「俺のこと?」
「捜査一課の刑事なんですよね、って。隊内で聞いたんだろうな」
「それだけか」
「恋人さんと出かけたりするんですか、みたいなことも言ってた」
奏斗は少し眉を寄せた。
「随分踏み込むな」
「新人だからな。距離感を測ってるんだろ」
「君は話したのか」
「大したことは話してない。真面目すぎて面倒な男だって言った」
奏斗は無言になる。
千速が横目で見る。
「何だ。不満か」
「否定はできない」
「だろ」
「ただ、面倒な男と言われたのは少し複雑だ」
「褒めてる」
「そうなのか?」
「私の中ではな」
奏斗は納得しきれない顔をした。
千速は笑った。
「安心しろ。悪くは言ってない」
「それならいい」
「ただ」
「ただ?」
千速は少しだけ真顔になる。
「朝倉が、お前に興味を持ってる感じはあった」
奏斗は静かに聞いた。
「どういう意味で」
「まだ分からない。単純に、私の恋人だから興味があるのか、捜査一課の刑事だからなのか」
「公安の話は?」
「してない」
奏斗は頷いた。
「今後も話さないでくれ」
千速の目が少し鋭くなる。
「やっぱり何かあるのか」
「まだ何もない」
「奏斗」
「本当に、まだ何もない。ただ、俺の公安時代の話は余計な火種になる」
千速はしばらく奏斗を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かった。話さない」
「ありがとう」
「礼はいらない」
「……そうだったな」
二人は並んで調理を続けた。
鍋から湯気が上がり、部屋の中に味噌の香りが広がる。
千速はふと、奏斗を見た。
「なあ」
「何だ」
「また何か気づいたら、一人で抱え込むなよ」
奏斗はすぐに答えた。
「抱え込まない」
千速は目を細める。
「早い返事は怪しい」
「本心だ」
「ならいい」
少しの沈黙。
千速は野菜炒めを皿に盛りながら、少しだけ声を柔らかくした。
「私も、朝倉のことはちゃんと見る。部下としてな」
「ああ」
「だから、お前も何かあれば言え。証拠がなくても、違和感くらいなら聞く」
奏斗は千速を見る。
「千速」
「何だ」
「助かる」
千速はふっと笑った。
「同棲相手だからな」
「監視では?」
「監視同棲だ。忘れるな」
奏斗は小さく笑った。
だが、胸の奥には、まだ薄い引っかかりが残っていた。
朝倉玲奈。
真面目な新人。
千速に憧れる女性白バイ隊員。
落ち着きすぎた態度。
そして、自分への興味。
まだ疑う段階ではない。
千速や横溝に言えば、考えすぎだと言われるかもしれない。
実際、そうかもしれない。
それでも、奏斗の中の刑事としての感覚が、静かに警鐘を鳴らしていた。
ほんの小さく。
まだ音にもならないほど、かすかに。
同じ頃。
第三交通機動隊の更衣室。
朝倉玲奈は一人、ロッカーの前に立っていた。
今日支給された装備を丁寧に整理し、ヘルメットを棚に置く。
その動きに乱れはない。
新人らしい疲れも、浮つきも、表情には出ていなかった。
スマートフォンが短く震える。
玲奈は画面を見る。
差出人名は表示されていない。
本文は、短い一文だけだった。
対象との距離を確認しろ。
玲奈は数秒、画面を見つめた。
それから、何事もなかったようにメッセージを削除する。
ロッカーの扉を閉めた時には、もう表情はいつもの新人隊員のものに戻っていた。
「萩原小隊長……」
小さく呟く。
その声には、ほんの少しだけ迷いが混じっていた。
だが、すぐに消える。
玲奈は背筋を伸ばし、誰もいない更衣室を出た。
廊下の向こうから、新井の声が聞こえる。
「朝倉さん、帰ります?」
玲奈は柔らかく笑った。
「はい。お疲れさまです」
その笑顔は、どこから見ても真面目で礼儀正しい新任隊員のものだった。
まだ誰も知らない。
千速も。
重悟も。
そして奏斗でさえ、まだ確信は持っていない。
朝倉玲奈という女が、白線のこちら側に立っているのか。
それとも、向こう側から来たのか。
その答えは、まだ闇の中にあった。