神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第74話 新任隊員

朝の第三交通機動隊は、いつも通り騒がしかった。

 

白バイのエンジン音。

整備工具の金属音。

隊員たちの短い返事。

無線機の確認音。

 

それらが重なって、独特の空気を作っている。

 

萩原千速は、車庫の前で腕を組みながら、並んだ白バイを見ていた。

 

まだ出動前だというのに、すでに目つきは鋭い。

 

「新井」

 

「はい!」

 

呼ばれた若い隊員が、慌てて駆け寄ってくる。

 

「二号車、昨日よりブレーキの戻りが鈍い。点検したか?」

 

「え、あ、はい。昨日の終業時に確認はしました」

 

「確認しただけか」

 

「……すみません。もう一度見ます」

 

「走ってから気づいたら遅い。白バイは飾りじゃない。自分の命も他人の命も乗せてる」

 

「はい!」

 

新井が慌てて整備担当のもとへ向かう。

 

その背中を見送りながら、千速は小さく息を吐いた。

 

部下は育っている。

 

だが、油断は一瞬で事故になる。

 

特に白バイはそうだ。

 

車体を操る技術だけでは足りない。

道路を読む目。

車の流れを読む感覚。

相手が次に何をするかを読む勘。

 

全部が揃って、ようやく現場に立てる。

 

その時、背後から声がした。

 

「萩原小隊長」

 

振り返ると、隊長が一人の女性隊員を連れて歩いてきた。

 

「今日付けで配属だ」

 

女性隊員は背筋を伸ばし、千速の前で敬礼した。

 

「朝倉玲奈巡査長です。本日付で第三交通機動隊に着任しました。よろしくお願いいたします」

 

声は落ち着いていた。

 

年齢は二十代半ばほど。

 

髪はきちんとまとめられ、制服の着方にも乱れがない。

緊張はしているようだが、目は泳いでいない。

 

千速は玲奈を上から下まで見る。

 

「萩原千速。小隊長だ」

 

「はい」

 

「うちは楽じゃない」

 

「承知しています」

 

「女だからって特別扱いはしない」

 

「はい」

 

「男より甘く見る気もない。逆に、女だからって肩に力を入れすぎるのも許さない」

 

玲奈は一瞬だけ目を瞬いた。

 

千速は続ける。

 

「白バイに乗る以上、必要なのは性別じゃない。走れるか、止まれるか、判断できるかだ」

 

玲奈は真っ直ぐ千速を見た。

 

「はい。覚悟しています」

 

その返事は悪くなかった。

 

よくある新人のように、勢いだけで大声を出すわけでもない。

過度に怯えているわけでもない。

 

千速は少しだけ目を細めた。

 

「覚悟は走りに出る。口だけならすぐ分かるぞ」

 

「はい」

 

「じゃあ、まず車体確認。新井」

 

呼ばれた新井がブレーキ周りを見ながら振り向く。

 

「はい!」

 

「朝倉に一通り案内しろ」

 

「了解です」

 

玲奈が千速にもう一度頭を下げる。

 

「よろしくお願いします、小隊長」

 

千速は短く頷いた。

 

「ついてこい」

 

「はい」

 

玲奈は新井の後について車庫へ向かった。

 

その後ろ姿を見ながら、千速は少しだけ腕を組み直した。

 

姿勢がいい。

 

歩幅も安定している。

 

緊張している新人にしては、身体の使い方に無駄が少ない。

 

白バイ経験者という資料は見ている。

それなりに訓練も積んできたはずだ。

 

だが、それにしても落ち着いている。

 

「悪くないな」

 

千速が呟くと、隣にいた隊長が笑った。

 

「珍しいな。初日で褒めるとは」

 

「褒めてません」

 

「顔がそう言ってる」

 

「気のせいです」

 

「まあ、頼む。最近、若手が足りん」

 

「分かっています」

 

「特に女の白バイ隊員は、萩原の背中を見たがる奴が多い」

 

千速は少し嫌そうな顔をした。

 

「背中なんて見てたら置いていきますよ」

 

「だからお前は怖いんだ」

 

隊長は笑いながら去っていった。

 

千速はもう一度、玲奈の方を見る。

 

新井が白バイの基本点検を説明している。

 

玲奈は一つ一つ頷きながら、質問を挟んでいた。

 

「この車体、フロントの沈み込みが少し硬めですか?」

 

新井が驚いた顔をする。

 

「え、分かるの?」

 

「跨った時に少しだけ」

 

「すごいな。俺、最初全然分からなかった」

 

「いえ、前の所属で少し似た車体に乗っていたので」

 

千速はその会話を聞きながら、わずかに眉を上げた。

 

感覚は悪くない。

 

少なくとも、ただ憧れだけで来た新人ではなさそうだ。

 

午前の訓練は、慣熟走行ではなく基本確認に留めた。

 

配属初日から無理をさせる気はない。

 

ただし、見るべきところは見る。

 

千速は車庫の脇で、玲奈が白バイを押して移動させる様子を見ていた。

 

新井が横から指示を出す。

 

「そこ、少し右に切って」

 

「はい」

 

「重いから気をつけて」

 

「大丈夫です」

 

玲奈は白バイを丁寧に押した。

 

力任せではない。

車体の重心を理解している。

 

新井が感心したように言う。

 

「朝倉さん、上手いですね」

 

「ありがとうございます」

 

「俺、最初倒しかけて小隊長にめちゃくちゃ怒られました」

 

千速が即座に言う。

 

「倒しかけたんじゃない。倒したんだ」

 

新井がびくっとする。

 

「すみません!」

 

玲奈が思わず笑った。

 

「新井さん、倒したんですか?」

 

「いや、その、ちょっとだけです」

 

「白バイにちょっとだけ倒すなんてない」

 

千速が言うと、新井は肩を落とした。

 

「はい……」

 

玲奈は笑いをこらえながらも、白バイをきちんと所定位置へ戻した。

 

千速は近づく。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「今の取り回しは悪くなかった」

 

「ありがとうございます」

 

「だが、丁寧すぎる」

 

玲奈が少し驚いた顔をする。

 

「丁寧すぎる、ですか」

 

「現場では、丁寧にやる時間がない時もある。乱暴にしろって意味じゃない。迷わず動かせるようにしろ」

 

「はい」

 

「それと、車体を信用しすぎるな。上手い奴ほど、自分なら倒さないと思い込む」

 

玲奈は真剣な顔で聞いていた。

 

「分かりました」

 

「分かったかどうかは次で見る」

 

「はい」

 

千速が背を向けようとすると、玲奈が少しだけ声をかけた。

 

「あの、小隊長」

 

「何だ」

 

「私、萩原小隊長みたいな白バイ隊員になりたいと思っていました」

 

周囲の隊員たちが一瞬静かになる。

 

新井が「おお」と小さく声を漏らした。

 

千速は振り返る。

 

「私みたいに?」

 

「はい」

 

玲奈はまっすぐ答えた。

 

「現場で先頭に立てる隊員になりたいです。技術だけじゃなく、判断できる隊員に」

 

千速はしばらく玲奈を見た。

 

その目に嘘は見えない。

 

少なくとも、表面上は。

 

「やめとけ」

 

玲奈が目を瞬く。

 

「え?」

 

「私みたいになる必要はない。お前はお前の走り方を覚えろ」

 

「……はい」

 

「憧れで乗ると、いつか事故る」

 

千速は少しだけ声を低くした。

 

「白バイは格好つけるためのもんじゃない。誰かを止めるために乗る。誰かを守るために走る。そのために、自分が生きて帰る。そこを間違えるな」

 

玲奈は表情を引き締めた。

 

「はい。肝に銘じます」

 

千速は短く頷く。

 

「ならいい」

 

その場の空気が少し緩んだところで、新井が余計なことを言った。

 

「朝倉さん、小隊長に憧れてるって言うの、勇気ありますね」

 

千速が新井を見る。

 

「新井」

 

「はい」

 

「お前、午後の訓練倍な」

 

「何でですか!」

 

「口が軽いからだ」

 

玲奈がまた少し笑った。

 

千速はその笑顔を見て、少しだけ思った。

 

悪くない。

 

この隊に馴染めるかもしれない。

 

昼過ぎ、千速は休憩室で簡単な昼食を取っていた。

 

コンビニのおにぎりと、味噌汁。

 

向かいの席では新井がカップ麺をすすっている。

 

玲奈は少し離れた席に座っていたが、新井が手招きした。

 

「朝倉さん、こっち座れば?」

 

玲奈は少し遠慮したように千速を見る。

 

千速はおにぎりの包装を開けながら言った。

 

「好きにしろ」

 

「では、失礼します」

 

玲奈は丁寧に頭を下げ、二人の近くへ座った。

 

新井が嬉しそうに話しかける。

 

「朝倉さん、前はどこだったんですか?」

 

「県央の方です。交通課にいました」

 

「白バイ志望だったんですか?」

 

「はい。ずっと」

 

「へぇ。じゃあ小隊長のことも前から知ってたんですね」

 

玲奈は千速を見る。

 

「有名でしたから」

 

千速は味噌汁を飲みながら、少し眉を寄せる。

 

「何が有名なんだ」

 

新井が即答する。

 

「男より速い美人白バイ隊員って」

 

千速が睨む。

 

「誰が言ってる」

 

新井は急にカップ麺に集中し始めた。

 

「さあ……噂って怖いですね」

 

玲奈は小さく笑った。

 

「でも、実際お綺麗ですし」

 

千速は玲奈を見る。

 

「そういうのは現場では役に立たない」

 

「はい。でも、女性として憧れる部分もあります」

 

千速は少しだけ言葉に詰まった。

 

こういう真っ直ぐな言葉は苦手だった。

 

褒められるより、走りが悪いと言われた方がまだ返しやすい。

 

「……飯食え。午後もある」

 

「はい」

 

玲奈は素直に箸を取る。

 

しばらく、休憩室には昼食の音だけが響いた。

 

やがて玲奈が、何気ない口調で聞いた。

 

「小隊長は、お仕事以外ではどんなふうに過ごされるんですか?」

 

千速はおにぎりを飲み込みながら答える。

 

「普通だ」

 

新井が横から言う。

 

「小隊長の普通って、たぶん普通じゃないですよ」

 

「新井、午後三倍な」

 

「すみません!」

 

玲奈は笑ってから、少しだけ興味深そうに続けた。

 

「お休みの日は、やっぱりバイクに乗られるんですか?」

 

「乗る時もある」

 

「恋人さんと出かけたりは?」

 

千速の手が一瞬止まった。

 

新井も「あ」と小さく声を漏らす。

 

隊内ではもう、千速と奏斗のことはある程度知られている。

 

捜査一課に押村奏斗が復帰したことで、その話はさらに広まった。

 

とはいえ、本人に直接聞くには少し踏み込んだ話だ。

 

玲奈はすぐに頭を下げた。

 

「すみません。失礼でした」

 

千速は少しだけ息を吐いた。

 

「別に」

 

新井が恐る恐る聞く。

 

「小隊長、怒ってます?」

 

「怒ってない」

 

「その声は少し怒ってます」

 

「午後四倍」

 

「すみません!」

 

玲奈は申し訳なさそうに言う。

 

「本当にすみません。隊内で少し話を聞いていたので、つい」

 

千速は玲奈を見る。

 

悪気があるようには見えない。

 

新人が先輩の私生活に興味を持つことは珍しくない。

 

まして、相手が捜査一課の刑事となれば、話題にもなる。

 

「押村のことか」

 

玲奈は頷く。

 

「はい。捜査一課の警部補だと伺いました」

 

「そうだ」

 

「すごいですね。捜査一課の刑事さんと、第三交機の小隊長なんて」

 

千速は少し顔を逸らした。

 

「別にすごくはない」

 

新井が小声で言う。

 

「いや、普通にすごいですよ」

 

千速が無言で睨む。

 

新井はまたカップ麺に逃げた。

 

玲奈は穏やかに笑っていた。

 

「押村警部補も、きっと小隊長みたいに真面目な方なんでしょうね」

 

千速は少し考えてから言った。

 

「真面目すぎて面倒な男だ」

 

玲奈の目がわずかに細くなる。

 

「面倒、ですか」

 

「何でも一人で抱え込む。自分でどうにかしようとする。そういうところが面倒だ」

 

言ってから、千速は少しだけ口を閉じた。

 

言いすぎたかもしれない。

 

けれど玲奈は、普通の後輩らしく微笑んだ。

 

「でも、小隊長はそういうところも含めて大切にされているんですね」

 

千速は味噌汁を飲むふりをした。

 

「午後の集合、遅れるなよ」

 

話を切った。

 

新井はにやにやしかけたが、千速に睨まれて即座に表情を戻した。

 

玲奈は静かに「はい」と答えた。

 

その様子は、どこにでもいる真面目な新人に見えた。

 

その夜。

 

奏斗が千速の部屋へ帰ると、台所から包丁の音が聞こえていた。

 

「ただいま」

 

「おかえり」

 

千速の声が返ってくる。

 

奏斗は靴を揃え、リビングに入った。

 

千速はエプロンをつけて、野菜を切っていた。

 

髪は下ろしている。

 

仕事中の鋭さが少しだけ抜けて、部屋の明かりの下で柔らかく見える。

 

「今日は早かったな」

 

千速が言う。

 

「横溝警部が早く帰れと」

 

「重悟が?」

 

「ああ。『同棲早々、仕事場に住み着くな』と言われた」

 

千速が少し笑う。

 

「珍しく正しい」

 

「そうだな」

 

奏斗は上着を脱ぎながら、キッチンの横へ立った。

 

「手伝う」

 

「じゃあ味噌汁」

 

「分かった」

 

二人で台所に立つのも、少しずつ自然になってきた。

 

まだ千速は奏斗を完全には許していない。

 

ふとした時に、目が鋭くなることがある。

 

奏斗が連絡を少し遅らせると、声が一段低くなる。

 

夜にスマホを見て黙り込むと、必ず聞かれる。

 

「また何か抱え込んでないだろうな」

 

それでも、同じ部屋で過ごす時間は増えていた。

 

奏斗は鍋に水を入れながら聞いた。

 

「今日はどうだった?」

 

千速は野菜を切りながら答える。

 

「新しい隊員が来た」

 

「新任?」

 

「ああ。朝倉玲奈。女の白バイ隊員だ」

 

奏斗の手が、ほんのわずかに止まった。

 

千速は気づかなかった。

 

「真面目そうな奴だ。取り回しも悪くない。初日にしては落ち着いてる」

 

奏斗は水を火にかけながら、静かに聞いた。

 

「朝倉玲奈」

 

「知ってるのか?」

 

千速が振り返る。

 

奏斗は少し考えた。

 

「いや。どこかで聞いた気がしただけだ」

 

「仕事関係か?」

 

「まだ分からない」

 

「まだ、ね」

 

千速は包丁を止める。

 

「その言い方、引っかかってる時のやつだな」

 

奏斗は苦笑に近い表情をした。

 

「顔に出ていたか」

 

「出てる。私にはな」

 

奏斗は少し沈黙した。

 

朝倉玲奈。

 

名前そのものに記憶はない。

 

しかし、何かが引っかかった。

 

公安時代に見た資料。

黒瀬事件の外部協力者リスト。

鳥羽の逃走支援網。

あるいは、それとは別のどこか。

 

記憶の端に薄く残っている名前に似ている。

 

だが、確証はない。

 

「気のせいかもしれない」

 

奏斗は言った。

 

千速はじっと見る。

 

「お前の気のせいは、だいたい気のせいじゃない」

 

「それは言い過ぎだ」

 

「当たるだろ」

 

「外れることもある」

 

「外れた話を聞いたことがない」

 

奏斗は少し困ったように眉を寄せた。

 

千速はその顔を見て、ふっと笑った。

 

「まあ、いい。今のところ悪い奴には見えない。むしろ、かなり真面目だ」

 

「君に憧れていると言っていた?」

 

千速の手が止まる。

 

「何で分かった」

 

「そういう新人は多いと聞いた」

 

「やめてくれ。背中を見られても困る」

 

「君は見る側より、追われる側だな」

 

「どういう意味だ」

 

「目標にされる人間という意味だ」

 

千速は少しだけ視線を逸らした。

 

「そういうの、さらっと言うな」

 

「事実だ」

 

「うるさい」

 

奏斗は味噌を取り出しながら、少しだけ表情を緩めた。

 

千速は照れると口が悪くなる。

 

その癖も、変わらない。

 

「それで、朝倉はどんな隊員だ」

 

奏斗が聞くと、千速は考えながら答えた。

 

「礼儀正しい。走りの基礎はできてる。取り回しも安定してる。新井より初日はずっとマシだ」

 

「新井さんが聞いたら落ち込む」

 

「事実だ」

 

「厳しいな」

 

「白バイだからな」

 

千速は切った野菜を鍋に入れながら続けた。

 

「ただ、少し落ち着きすぎてる気もする」

 

奏斗の目がわずかに動く。

 

「落ち着きすぎている?」

 

「ああ。新人なら、もう少し浮つくか、逆に固くなる。でも朝倉はその中間というか……自分を見せすぎない」

 

「君から見て、違和感か?」

 

千速は少し考えてから首を横に振った。

 

「違和感ってほどじゃない。優秀な新人にも見える。前の所属で鍛えられたのかもしれない」

 

「そうか」

 

「でも、奏斗が引っかかるなら覚えておく」

 

奏斗は千速を見る。

 

「疑ってほしいわけではない」

 

「分かってる」

 

千速はまっすぐ言った。

 

「私は部下として見る。お前は刑事として気になるなら見ろ。それでいいだろ」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「ああ」

 

その言葉に、奏斗は少し救われた。

 

千速は感情的に部下を庇うだけの人間ではない。

だが、根拠なく疑うこともしない。

 

だから信頼できる。

 

千速はふと思い出したように言う。

 

「そういえば、朝倉がお前のことを聞いてきた」

 

奏斗の手が止まる。

 

「俺のこと?」

 

「捜査一課の刑事なんですよね、って。隊内で聞いたんだろうな」

 

「それだけか」

 

「恋人さんと出かけたりするんですか、みたいなことも言ってた」

 

奏斗は少し眉を寄せた。

 

「随分踏み込むな」

 

「新人だからな。距離感を測ってるんだろ」

 

「君は話したのか」

 

「大したことは話してない。真面目すぎて面倒な男だって言った」

 

奏斗は無言になる。

 

千速が横目で見る。

 

「何だ。不満か」

 

「否定はできない」

 

「だろ」

 

「ただ、面倒な男と言われたのは少し複雑だ」

 

「褒めてる」

 

「そうなのか?」

 

「私の中ではな」

 

奏斗は納得しきれない顔をした。

 

千速は笑った。

 

「安心しろ。悪くは言ってない」

 

「それならいい」

 

「ただ」

 

「ただ?」

 

千速は少しだけ真顔になる。

 

「朝倉が、お前に興味を持ってる感じはあった」

 

奏斗は静かに聞いた。

 

「どういう意味で」

 

「まだ分からない。単純に、私の恋人だから興味があるのか、捜査一課の刑事だからなのか」

 

「公安の話は?」

 

「してない」

 

奏斗は頷いた。

 

「今後も話さないでくれ」

 

千速の目が少し鋭くなる。

 

「やっぱり何かあるのか」

 

「まだ何もない」

 

「奏斗」

 

「本当に、まだ何もない。ただ、俺の公安時代の話は余計な火種になる」

 

千速はしばらく奏斗を見ていた。

 

やがて、小さく息を吐く。

 

「分かった。話さない」

 

「ありがとう」

 

「礼はいらない」

 

「……そうだったな」

 

二人は並んで調理を続けた。

 

鍋から湯気が上がり、部屋の中に味噌の香りが広がる。

 

千速はふと、奏斗を見た。

 

「なあ」

 

「何だ」

 

「また何か気づいたら、一人で抱え込むなよ」

 

奏斗はすぐに答えた。

 

「抱え込まない」

 

千速は目を細める。

 

「早い返事は怪しい」

 

「本心だ」

 

「ならいい」

 

少しの沈黙。

 

千速は野菜炒めを皿に盛りながら、少しだけ声を柔らかくした。

 

「私も、朝倉のことはちゃんと見る。部下としてな」

 

「ああ」

 

「だから、お前も何かあれば言え。証拠がなくても、違和感くらいなら聞く」

 

奏斗は千速を見る。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「助かる」

 

千速はふっと笑った。

 

「同棲相手だからな」

 

「監視では?」

 

「監視同棲だ。忘れるな」

 

奏斗は小さく笑った。

 

だが、胸の奥には、まだ薄い引っかかりが残っていた。

 

朝倉玲奈。

 

真面目な新人。

千速に憧れる女性白バイ隊員。

落ち着きすぎた態度。

そして、自分への興味。

 

まだ疑う段階ではない。

 

千速や横溝に言えば、考えすぎだと言われるかもしれない。

 

実際、そうかもしれない。

 

それでも、奏斗の中の刑事としての感覚が、静かに警鐘を鳴らしていた。

 

ほんの小さく。

 

まだ音にもならないほど、かすかに。

 

同じ頃。

 

第三交通機動隊の更衣室。

 

朝倉玲奈は一人、ロッカーの前に立っていた。

 

今日支給された装備を丁寧に整理し、ヘルメットを棚に置く。

 

その動きに乱れはない。

 

新人らしい疲れも、浮つきも、表情には出ていなかった。

 

スマートフォンが短く震える。

 

玲奈は画面を見る。

 

差出人名は表示されていない。

 

本文は、短い一文だけだった。

 

対象との距離を確認しろ。

 

玲奈は数秒、画面を見つめた。

 

それから、何事もなかったようにメッセージを削除する。

 

ロッカーの扉を閉めた時には、もう表情はいつもの新人隊員のものに戻っていた。

 

「萩原小隊長……」

 

小さく呟く。

 

その声には、ほんの少しだけ迷いが混じっていた。

 

だが、すぐに消える。

 

玲奈は背筋を伸ばし、誰もいない更衣室を出た。

 

廊下の向こうから、新井の声が聞こえる。

 

「朝倉さん、帰ります?」

 

玲奈は柔らかく笑った。

 

「はい。お疲れさまです」

 

その笑顔は、どこから見ても真面目で礼儀正しい新任隊員のものだった。

 

まだ誰も知らない。

 

千速も。

重悟も。

そして奏斗でさえ、まだ確信は持っていない。

 

朝倉玲奈という女が、白線のこちら側に立っているのか。

 

それとも、向こう側から来たのか。

 

その答えは、まだ闇の中にあった。

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