神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第75話 慣熟走行

翌朝、第三交通機動隊の訓練場には、薄い雲が広がっていた。

 

雨は降っていない。

 

だが、路面には前夜の湿気がわずかに残っている。

 

白バイのタイヤが温まるまでは、油断すれば滑る。

 

萩原千速は訓練場の端に立ち、路面を見ていた。

 

「……今日はちょうどいいな」

 

隣にいた新井が首を傾げる。

 

「ちょうどいい、ですか?」

 

「路面が少し湿ってる。新人に自分の腕を過信させないにはいい」

 

「小隊長、朝から怖いですね」

 

「怖いくらいでちょうどいい」

 

千速は短く答えた。

 

訓練場には、パイロンが等間隔で並べられている。

 

低速バランス。

スラローム。

急制動。

回避走行。

狭路旋回。

 

どれも基本だ。

 

だが、基本ほど怖い。

 

派手な追跡技術よりも、こういう動きの中に、隊員の癖が出る。

 

千速はそれを見たかった。

 

朝倉玲奈。

 

昨日着任したばかりの新任女性白バイ隊員。

 

資料上の評価は悪くない。

本人の態度も真面目。

白バイへの感覚もある。

 

だが、千速はまだ玲奈を信用していない。

 

嫌っているわけではない。

 

むしろ、素質はあると思っている。

 

だからこそ、早めに限界と癖を見ておきたかった。

 

白バイは、上手く乗るだけでは足りない。

 

追う時に無理をする人間か。

危険を感じた時に止まれる人間か。

仲間の指示を聞ける人間か。

自分の中の恐怖を認められる人間か。

 

それを見誤ると、いつか取り返しがつかなくなる。

 

「朝倉」

 

千速が呼ぶと、車庫側から玲奈が駆けてきた。

 

「はい!」

 

今日の玲奈は、昨日より少し表情が硬い。

 

だが、必要以上に緊張しているわけではない。

 

白バイに向かう目は落ち着いている。

 

千速は腕を組んだまま言った。

 

「今日は慣熟走行をやる」

 

「はい」

 

「見栄を張るな。速さもいらない。綺麗に走ろうともしなくていい」

 

玲奈が少しだけ意外そうな顔をする。

 

「綺麗に、も駄目ですか?」

 

「駄目とは言ってない。優先順位の話だ」

 

千速は訓練コースを指した。

 

「まず止まれること。次に曲がれること。その次に周りを見られること。綺麗さはその後だ」

 

「はい」

 

「お前の今日の課題は、自分の怖いところを知ることだ」

 

玲奈は一瞬、表情を止めた。

 

「怖いところ、ですか」

 

「そうだ」

 

千速は淡々と言う。

 

「どの速度で怖くなるか。どの角度で不安が出るか。どの操作で力むか。それを知らない奴は、現場で自分を殺す」

 

玲奈は静かに頷いた。

 

「分かりました」

 

新井が横から小声で言う。

 

「小隊長、昨日よりさらに怖い……」

 

千速は新井を見た。

 

「お前も走るか?」

 

「見学します!」

 

「なら黙って見てろ」

 

「はい!」

 

玲奈が少し笑う。

 

千速はその笑顔を見てから、白バイへ顎を向けた。

 

「準備しろ」

 

「はい」

 

玲奈は敬礼して、白バイへ向かった。

 

その動きはやはり落ち着いていた。

 

ヘルメットを被る手順。

グローブの締め方。

ミラー確認。

跨る時の体重移動。

 

ひとつひとつが丁寧だ。

 

だが、昨日と同じで、丁寧すぎる。

 

千速はそれを覚えておく。

 

丁寧なのは悪くない。

 

ただ、現場では丁寧にやる時間がない。

 

最初は低速バランスだった。

 

玲奈はゆっくりと白バイを進める。

 

半クラッチ。

リアブレーキ。

視線。

上体の使い方。

 

千速はじっと見ていた。

 

悪くない。

 

というより、かなり良い。

 

新人にありがちな上半身の硬さが少ない。

車体の重さに身体が負けていない。

視線も近すぎない。

 

玲奈はパイロンの間を滑るように抜け、終点で停止した。

 

新井が思わず手を叩きかける。

 

千速が睨む。

 

新井は慌てて手を下ろした。

 

玲奈が戻ってくる。

 

「どうでしたか」

 

千速はすぐには答えなかった。

 

わざと少し間を置く。

 

新人は、褒められるか叱られるかを待つ時に、本音が出る。

 

玲奈は焦らなかった。

 

じっと千速の言葉を待っている。

 

「悪くない」

 

千速が言うと、玲奈は少しだけ表情を緩めた。

 

「ありがとうございます」

 

「だが、肩に力が入ってる」

 

玲奈は意外そうに自分の肩を見る。

 

「入っていましたか?」

 

「二つ目のパイロンを抜ける時だ。車体じゃなくて腕で押さえようとした」

 

玲奈は少し考え込む。

 

「自覚がありませんでした」

 

「自覚がないなら、余計に直せ」

 

「はい」

 

「もう一回」

 

「はい」

 

玲奈は再び走り出した。

 

今度は、最初より肩の動きが自然になった。

 

修正が早い。

 

千速は心の中で評価を上げる。

 

新井が小声で言う。

 

「朝倉さん、すごいですね」

 

「すごいかどうかは現場で決まる」

 

「でも、俺の初日より絶対上手いですよね」

 

「比べる相手が低すぎる」

 

「小隊長、ひどいです」

 

「事実だ」

 

新井は肩を落とした。

 

だが、千速の目は玲奈から離れなかった。

 

二回目の低速走行も安定している。

 

ただ、妙な癖がある。

 

曲がる前に、ほんのわずかだが視線を先へ置くのが早い。

 

普通なら良いことだ。

 

先を見るのは白バイの基本だ。

 

だが玲奈の場合、先を見るというより、もうそこに何があるかを知っているように見える。

 

訓練コースだから当然といえば当然だ。

 

それでも、千速の中に小さな引っかかりが残った。

 

次はスラロームだった。

 

千速は玲奈を呼び止めた。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「次はスラローム。タイムはいらない。車体を倒すことより、起こすタイミングを意識しろ」

 

「はい」

 

「あと、速度を上げたくなっても抑えろ」

 

玲奈が小さく頷く。

 

「分かりました」

 

「本当に分かってるか?」

 

「……はい」

 

千速は目を細めた。

 

「今、少し返事が遅れたな」

 

玲奈が一瞬だけ目を伏せる。

 

「すみません」

 

「謝れとは言ってない。何を考えた」

 

玲奈は少し迷った後、正直に答えた。

 

「速度を抑える方が難しいと思いました」

 

千速の口元がわずかに動いた。

 

「いい答えだ」

 

玲奈が顔を上げる。

 

「え?」

 

「速く走るより、抑えて走る方が難しい。そこを分かってるならいい」

 

千速はパイロンへ視線を向ける。

 

「ただし、難しいからこそやれ。現場では速く走れる奴より、速く走らない判断ができる奴が生き残る」

 

「はい」

 

玲奈は白バイを発進させた。

 

スラロームに入る。

 

車体が滑らかに左右へ振れる。

 

無駄なアクセルワークが少ない。

 

タイヤの接地感を逃していない。

 

新井が完全に見入っている。

 

「うわ……上手い」

 

千速も内心では同じことを思っていた。

 

本当に新人か、と。

 

だが、表情には出さない。

 

玲奈は最後のパイロンを抜け、停止位置へ戻った。

 

「どうでしょうか」

 

千速は少し間を置いてから言った。

 

「上手い」

 

玲奈の顔がぱっと明るくなる。

 

だが、千速はすぐ続けた。

 

「だから危ない」

 

玲奈の表情が止まる。

 

「危ない、ですか」

 

「ああ」

 

千速は玲奈の白バイの横に立ち、パイロンを指した。

 

「三本目から五本目。お前、気持ちよく走っただろ」

 

玲奈は少し黙った。

 

「……はい」

 

「自覚はあるな」

 

「ありました」

 

「気持ちよく走れる時ほど、現場では罠がある」

 

千速は自分の白バイを軽く叩いた。

 

「白バイが思った通りに動くと、自分が何でもできる気になる。だが、道路は訓練場じゃない。横から車が出る。歩行者が止まる。逃げる奴は無茶をする。そこにお前の気持ちよさなんて何の価値もない」

 

玲奈は真剣な顔で聞いていた。

 

「はい」

 

「今の走りは綺麗だった。だが、少し酔ってた」

 

「酔っていた……」

 

「自分の走りにな」

 

玲奈はその言葉を噛みしめるように、少し俯いた。

 

新井が横から小声で言う。

 

「でも小隊長、それ俺にもよく言いますよね」

 

「お前は酔う以前に溺れてる」

 

「そんなにですか!?」

 

玲奈が思わず笑ってしまった。

 

千速も少しだけ口元を緩める。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「笑ってる場合じゃない。もう一本」

 

「はい」

 

玲奈は再び走り出した。

 

今度は、明らかに速度を抑えている。

 

綺麗さは少し落ちた。

 

だが、周囲を見る余裕が増えている。

 

千速はそれを見て、短く頷いた。

 

修正できる。

 

それは大きい。

 

昼前、訓練は急制動に入った。

 

湿気の残る路面では、ここが一番分かりやすい。

 

千速は玲奈の前に立った。

 

「次は急制動。指定位置で止まれ」

 

「はい」

 

「ただし、一回目は私が合図する」

 

玲奈が目を上げる。

 

「合図?」

 

「どこで止まるか分かっている急制動なんて、半分は芝居だ」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「現場では、止まりたい時に止まるんじゃない。止まらなきゃいけない時に止まる」

 

玲奈は表情を引き締める。

 

「分かりました」

 

新井が小声で言う。

 

「これ、俺も初日にやられて本当に怖かった……」

 

千速は聞こえているのに無視した。

 

玲奈は白バイを発進させる。

 

直線。

 

速度は控えめ。

 

千速は玲奈の姿勢を見た。

 

まだ余裕がある。

 

なら。

 

千速は予定より少し早く手を上げた。

 

「今!」

 

玲奈が反応する。

 

ブレーキ。

 

前輪が一瞬沈む。

 

後輪がわずかに浮きかける。

 

だが、すぐに制御した。

 

白バイは指定位置より少し手前で止まる。

 

悪くない。

 

だが。

 

千速は眉を寄せた。

 

玲奈は止まった瞬間、わずかに右後方を見た。

 

それは安全確認としては正しい。

 

だが、タイミングが早すぎる。

 

止まる前から、後方の状況を読んでいた。

 

まるで、そこに何もいないと知っていたように。

 

千速はそれを違和感とは呼ばなかった。

 

優秀な隊員なら、周囲を読む。

 

それだけの話だ。

 

玲奈が白バイを戻す。

 

「どうでしたか」

 

千速は腕を組んだ。

 

「制動は悪くない。ただ、ブレーキの入りが少し強い」

 

「はい」

 

「前輪に頼りすぎるな。路面がもっと濡れてたら滑る」

 

「はい」

 

「後方確認はいい。ただ、止まる前に意識を後ろへやりすぎるな」

 

玲奈の目がわずかに動いた。

 

「……はい」

 

千速はその反応を見る。

 

「何か言いたいことがあるか」

 

玲奈は少し迷ってから言った。

 

「後方の確認を早めにした方がいいと思っていました」

 

「間違ってはいない」

 

「はい」

 

「だが、優先順位を間違えるな。止まる前に後ろへ意識が抜ければ、前の危険を見落とす」

 

「分かりました」

 

玲奈は素直に頷いた。

 

千速はそれ以上言わなかった。

 

新井が横で小さく呟く。

 

「朝倉さん、本当に優秀だな……俺、立場ない」

 

「元からない」

 

「小隊長!」

 

玲奈がまた笑った。

 

千速はその様子を見ながら、少しだけ息を吐いた。

 

隊の空気には馴染み始めている。

 

これは良いことだ。

 

良いことのはずだった。

 

訓練後、千速は玲奈を休憩所の外に呼んだ。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「今日の感想は」

 

玲奈は少し考えてから答えた。

 

「自分が思っていたより、速度を抑えるのが苦手だと分かりました」

 

「他には」

 

「止まる時、前より後ろを気にしすぎていました」

 

千速は頷いた。

 

「自分で言えるならいい」

 

玲奈は少し安心したような顔をした。

 

「ありがとうございます」

 

「まだ褒めてない」

 

「はい」

 

「だが、見込みはある」

 

玲奈の表情が明るくなる。

 

千速はすぐに付け加えた。

 

「調子に乗るなよ」

 

「はい」

 

「お前は基礎ができてる。だから、余計に危ない。中途半端に上手い奴は、現場で一番無茶をする」

 

玲奈は真剣な顔で聞く。

 

「小隊長も、そうだったんですか」

 

千速は一瞬だけ黙った。

 

「私か?」

 

「はい」

 

「私は……」

 

千速は少し遠くを見る。

 

若い頃。

 

一般白バイ隊員だった頃。

 

無茶な追跡をして、上司に怒鳴られ、謝罪に回らされた日々。

 

そして、研二が殉職した日も、千速はその謝罪の途中だった。

 

胸の奥が一瞬だけ冷える。

 

だが、表情には出さない。

 

「私は、かなり無茶した」

 

玲奈は意外そうに目を開く。

 

「小隊長が?」

 

「今のお前たちより、よほど聞き分けがなかった」

 

新井が遠くで聞き耳を立てていたらしく、思わず声を上げた。

 

「えっ、小隊長がですか!?」

 

千速が振り向く。

 

「新井」

 

「すみません!」

 

「お前、午後五倍」

 

「増えてる!」

 

玲奈が笑う。

 

千速は少し呆れながら、玲奈に向き直った。

 

「だから、お前には同じ失敗をさせたくない」

 

玲奈の笑顔が、ほんの少しだけ消えた。

 

「……はい」

 

その声には、なぜか重さがあった。

 

千速は少し気になった。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「何かあったか」

 

玲奈はすぐに顔を上げた。

 

「いえ。小隊長の言葉が、ありがたかったので」

 

「そうか」

 

「はい」

 

千速はそれ以上踏み込まなかった。

 

初日二日目の新人に、必要以上に踏み込むべきではない。

 

部下との距離は、近すぎても遠すぎても駄目だ。

 

特に玲奈のように真面目なタイプは、距離を詰めすぎると無理をする。

 

「今日はここまでだ。午後は座学にする」

 

玲奈が少し驚く。

 

「座学ですか」

 

「不満か?」

 

「いえ、走行訓練が続くと思っていました」

 

「走れば上手くなると思ってるうちは、まだまだだ」

 

千速は資料室の方へ顎を向けた。

 

「事故映像を見る。白バイが何を見落としたか、全部言え」

 

玲奈は背筋を伸ばした。

 

「はい」

 

その日の夕方。

 

奏斗は捜査一課で資料を整理していた。

 

横溝重悟が後ろから声をかける。

 

「押村」

 

「はい」

 

「それ、まだ見てんのか」

 

奏斗が見ていたのは、以前の黒瀬事件関連の残務資料だった。

 

公安から戻った際、閲覧できる範囲はかなり制限されている。

 

それでも、捜査一課として必要な部分は手元に残っていた。

 

奏斗は資料から目を離さず答える。

 

「朝倉玲奈という名前に覚えがある気がして」

 

横溝の眉が動く。

 

「千速のとこの新人か」

 

「はい」

 

「もう調べてんのか」

 

「調べているというほどではありません」

 

「お前のそれは調べてるって言うんだよ」

 

奏斗は黙った。

 

横溝は奏斗の机の横に立つ。

 

「千速から何か聞いたのか」

 

「真面目な新人だと」

 

「ならいいじゃねぇか」

 

「そうですね」

 

「納得してない返事だな」

 

奏斗は資料を閉じた。

 

「名前が引っかかるだけです。記憶違いかもしれません」

 

横溝は腕を組む。

 

「公安絡みか」

 

奏斗はすぐには答えなかった。

 

横溝が低く言う。

 

「押村」

 

「……分かりません」

 

「分からないことを分からないって言えるようになったのは進歩だな」

 

奏斗は少し眉を寄せる。

 

「褒めていますか」

 

「半分な」

 

横溝は椅子に乱暴に座った。

 

「で、千速には言ったのか」

 

「はい。公安時代の話は朝倉にしないでほしいと」

 

「千速は?」

 

「分かった、と」

 

横溝は小さく鼻を鳴らした。

 

「なら一旦それでいい。証拠もねぇのに新人を疑えば、隊の空気が悪くなる」

 

「分かっています」

 

「ただし」

 

横溝は奏斗を見る。

 

「お前が引っかかるなら、俺にも共有しろ。一人で勝手に追うな」

 

奏斗は少しだけ目を伏せた。

 

「はい」

 

「硬ぇ」

 

「……分かった」

 

「よし」

 

横溝は立ち上がりかけて、ふと思い出したように言った。

 

「そういや、お前今日早く帰れよ」

 

「昨日も言われました」

 

「今日も言う。千速に同棲開始早々見捨てられたら面倒だ」

 

「見捨てられはしないと思います」

 

「自信あんのか」

 

奏斗は少し考えた。

 

「……分かりません」

 

横溝が笑った。

 

「そこは分からねぇのかよ」

 

「千速はまだ怒っていますから」

 

「当たり前だ」

 

横溝は少しだけ表情を緩める。

 

「でも、お前を家に入れてる。そこは大事にしろ」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「分かっています」

 

「また硬い」

 

「……分かった」

 

「よし。帰れ」

 

奏斗は資料を片付けた。

 

だが、朝倉玲奈という名前は、まだ頭の片隅に残っていた。

 

夜。

 

千速の部屋。

 

夕食後、千速はソファに座り、訓練記録を見直していた。

 

奏斗は台所で洗い物をしている。

 

「朝倉はどうだった?」

 

奏斗が聞くと、千速は資料を見ながら答えた。

 

「上手い」

 

「そうか」

 

「かなりな」

 

奏斗は洗い物の手を止めずに聞く。

 

「珍しく素直に褒めるな」

 

「本人にはあまり言ってない」

 

「なぜ」

 

「調子に乗ると困る」

 

「君らしい」

 

千速はペンを回しながら言った。

 

「低速もスラロームも悪くない。急制動も反応が早い。修正もできる。新井の初日とは比べものにならない」

 

「新井さんが聞いたら落ち込む」

 

「もう落ち込んでた」

 

奏斗は少し笑った。

 

千速は記録を見ながら、続けた。

 

「ただ、少し気になるところはある」

 

奏斗の表情が変わる。

 

「何が」

 

千速は顔を上げた。

 

「そんなに反応するな」

 

「すまない」

 

「気になるって言っても、悪い意味とは限らない」

 

「具体的には」

 

千速は記録用紙を見た。

 

「視線が早い。周囲確認も早い。反応も早い」

 

「優秀ということでは」

 

「そう。普通なら優秀で終わる」

 

「普通なら?」

 

千速はソファの背にもたれた。

 

「でも、たまに早すぎる。そこに何があるか、もう知っているみたいに見える時がある」

 

奏斗は無言になった。

 

千速はその顔を見て、眉を寄せる。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「やっぱり気になるのか」

 

奏斗は皿を拭きながら答えた。

 

「君の見立てなら、覚えておく価値はある」

 

「まだ疑うなよ」

 

「疑ってはいない」

 

「本当か?」

 

「警戒しているだけだ」

 

「似たようなもんだ」

 

「違う」

 

千速は少し笑った。

 

「刑事の言い訳だな」

 

奏斗は洗い物を終え、手を拭いてからリビングへ来た。

 

「朝倉は君に懐いているのか」

 

「懐いてる、というほどではない。だが、憧れているとは言っていた」

 

「君に憧れる新人は多いのか」

 

「知らん」

 

「多そうだ」

 

「やめろ」

 

千速は少し照れたように視線を逸らした。

 

奏斗はその横に、少し距離を空けて座る。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「朝倉が俺のことをまた聞いてきたら、内容を教えてほしい」

 

千速は奏斗をじっと見た。

 

「やっぱりそこか」

 

「ああ」

 

「公安の話だけじゃなく?」

 

「できれば」

 

千速は少し考えた。

 

「分かった。ただし、私も部下を変な目で見たくない」

 

「分かっている」

 

「だから、お前も証拠なしに朝倉を追い詰めるな」

 

「しない」

 

「絶対だな」

 

「ああ」

 

千速は頷いた。

 

「ならいい」

 

少しの沈黙。

 

千速は訓練記録を閉じた。

 

「朝倉は、伸びると思う」

 

奏斗は千速を見る。

 

「そうか」

 

「ああ。だから、ちゃんと育てたい」

 

その声には、小隊長としての責任があった。

 

奏斗は静かに言った。

 

「君なら育てられる」

 

千速は一瞬黙り、少しだけ顔を赤くした。

 

「そういうの、急に言うな」

 

「事実だ」

 

「うるさい」

 

千速は資料をテーブルに置き、立ち上がった。

 

「明日も早い。寝る」

 

「分かった」

 

「奏斗も早く寝ろ」

 

「まだ少し資料を」

 

千速が振り返る。

 

「寝ろ」

 

「……分かった」

 

「よし」

 

寝室へ向かう千速の背中を見送りながら、奏斗はソファに残った。

 

テーブルの上には、千速の訓練記録。

 

その端に、朝倉玲奈の名前が書かれている。

 

丁寧な字で。

 

反応速度、良好。視線の先行、要観察。

 

奏斗はその一文を見つめた。

 

要観察。

 

千速も気づいている。

 

ただし、それは小隊長としての視点だ。

 

奏斗の中にある違和感とは、まだ重なっていない。

 

それでいい。

 

今はまだ。

 

朝倉玲奈は、真面目な新人に見える。

 

千速に憧れ、白バイに真剣で、隊に馴染もうとしている。

 

だが、奏斗は知っている。

 

人は、見せたい顔を作れる。

 

公安で嫌というほど学んだ。

 

そして、作られた顔ほど、完璧に見える。

 

奏斗は小さく息を吐いた。

 

「朝倉玲奈……」

 

名前を呟いても、記憶はまだはっきりしない。

 

だが、どこかで見た。

 

どこかで聞いた。

 

その感覚だけが消えなかった。

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