最初の事故は、朝の通勤時間帯に起きた。
場所は、横浜市内の片側二車線道路。
駅へ向かう車と、幹線道路へ抜ける車が重なる、流れの悪い交差点だった。
信号が青に変わり、歩行者が渡り終える。
その直後、左折しようとした軽自動車の横を、黒いバイクがすり抜けた。
排気音が短く吠える。
軽自動車は慌ててブレーキを踏み、後続車がクラクションを鳴らした。
その混乱の中、横断歩道を渡り始めていた高齢男性が転倒した。
バイクは止まらなかった。
一瞬だけ車体を傾け、信号待ちの車列の隙間を縫うように抜け、次の交差点を左へ消えた。
幸い、男性の怪我は軽かった。
だが、バイクの動きは明らかに危険運転だった。
そして、現場近くで交通整理に出ていた朝倉玲奈が、その黒いバイクを目撃していた。
「黒の大型二輪。フルカウルタイプ。ナンバーは泥か何かで一部隠れていました」
玲奈は、現場に到着した千速へ落ち着いて報告した。
千速は事故現場の交差点を見渡しながら聞く。
「一部って、どこまで見えた」
「横浜、ひらがなは不明。数字は……下二桁が三七、もしくは八七に見えました」
「曖昧だな」
「すみません。距離がありました」
「いや、それでいい。曖昧なものを断定するな」
千速は短く言った。
玲奈は少しだけ肩の力を抜いた。
現場にはすでに救急車が来ていた。
転倒した高齢男性は、救急隊員に処置を受けている。
大きな出血はない。
意識もはっきりしている。
千速は被害者の様子を確認してから、玲奈に向き直った。
「速度は」
「おそらく六十から七十。制限速度は四十です」
「音で判断したか」
「はい。あと、車列を抜ける時の距離感です」
「逃走方向は」
「この先の交差点を左折。その後、裏道に入った可能性が高いです」
千速は周囲の道路を頭の中で組み立てる。
「左折後、二本目を右に入れば、商店街の裏へ抜けられる。朝の時間帯なら車は少ない」
「はい。そこを使ったと思います」
玲奈の返答が早かった。
千速は少しだけ玲奈を見る。
「知ってる道か」
「昨日、帰宅前に管内図を見ていました」
「熱心だな」
「覚えておかないと、現場で動けないと思いました」
玲奈はそう答えた。
自然な返事だった。
千速は頷く。
「いい心がけだ」
玲奈の表情が少し明るくなる。
「ありがとうございます」
そこへ新井が駆け寄ってきた。
「小隊長、防犯カメラですが、交差点のコンビニと向かいの薬局にあります」
「押さえろ。映像は捜査一課にも回す」
「はい」
「あと、目撃者を分けて聞け。バイクの色、音、乗っていた人間の体格。曖昧なら曖昧なままでいい。誘導するな」
「了解です」
新井がすぐに動く。
玲奈も続こうとしたが、千速が呼び止めた。
「朝倉」
「はい」
「お前は私と一緒に現場を見る」
「はい」
千速は交差点の路面へ視線を落とした。
ブレーキ痕。
転倒した男性の位置。
軽自動車の停止位置。
バイクが抜けたと思われる車列の隙間。
「何が見える」
千速が聞くと、玲奈は少し緊張した顔で答えた。
「バイクは、軽自動車が左折に入るタイミングを狙ってすり抜けています」
「続けろ」
「普通なら、左折車の内側へ入るのは危険です。でも犯人は、軽自動車が歩行者を確認して一度速度を落とすと読んでいた。だから、その隙を使って抜けた」
千速は黙って聞いている。
玲奈は路面を見ながら続けた。
「それと、転倒した男性を直接はねたわけではありません。接触はしていないと思います」
「根拠は」
「転倒位置と、バイクの通過ラインが少し離れています。男性は、排気音か車の急ブレーキに驚いて足をもつれさせたように見えます」
「見ていたのか」
「はい」
玲奈の返答には迷いがなかった。
千速は少しだけ目を細めた。
「よく見てるな」
「偶然、視界に入りました」
「偶然でそこまで見えたか」
玲奈の表情が一瞬だけ固まる。
だが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「……すみません。緊張していたので、周囲をかなり見ていました」
千速はその答えを聞いて、軽く頷いた。
「悪いことじゃない。ただ、見たものと推測したものを混ぜるな」
「はい」
「今、お前が言った中で、見たものはどこまでだ」
玲奈は少し考えた。
「バイクが軽自動車の内側を抜けたこと。高齢男性と接触していないこと。男性が転倒したこと。バイクが左折して逃走したこと」
「推測は」
「犯人が軽自動車の減速を狙ったこと。男性が音に驚いて転倒した可能性。逃走後に裏道へ入った可能性」
千速は満足げに頷いた。
「よし」
玲奈はほっとしたように息を吐く。
「ありがとうございます」
「礼はいらない。今の区別は忘れるな。現場で一番危ないのは、自分の推測を事実だと思い込むことだ」
「はい」
千速はもう一度、交差点を見る。
黒いバイク。
危険なすり抜け。
偶然の事故に見える。
だが、走り方が少し妙だった。
逃げるために無茶をしたというより、誰かに見せるために走ったような。
「朝倉」
「はい」
「犯人、何を急いでたと思う」
玲奈は少し考えた。
「逃走……でしょうか」
「何から?」
「それは……」
玲奈が言葉を止める。
千速は静かに言った。
「ひき逃げなら、事故の後で逃げる。だがこいつは、事故が起きる前から逃げる走りをしてる」
玲奈の目が少し大きくなる。
「最初から、危険運転をするつもりだった?」
「かもしれない」
千速は周囲のカメラを見た。
「あるいは、撮られることを分かってやったか」
「撮られることを?」
「コンビニ、薬局、駅前のカメラ。ここは映像が残りやすい」
玲奈は交差点を見渡した。
「では、犯人は目立つために?」
「まだ分からん」
千速は短く答えた。
「分からない時は、分からないまま持ち帰る」
「はい」
玲奈は頷いた。
その横顔は真剣だった。
千速はそれを見て、改めて思う。
優秀だ。
少なくとも、この現場を見る目は悪くない。
ただ、その優秀さが時々、新人の枠から少しだけはみ出る。
千速はその小さな引っかかりを、まだ疑いとは呼ばなかった。
午後。
事故の件は、捜査一課へ共有された。
軽傷事故ではあるが、危険運転によるひき逃げの可能性があり、さらに逃走車両の動きが異常に計算されていたためだった。
横溝重悟は資料を片手に、捜査一課の刑事部屋へ戻ってきた。
「押村」
「はい」
「交通部から上がってきた。黒い大型二輪の危険運転。被害者は軽傷だが、逃げ方が気になる」
奏斗は資料を受け取った。
「千速の案件ですか」
「第三交機が現場対応。第一発見というか、目撃したのは例の新人だ」
奏斗の手が止まる。
「朝倉玲奈」
「そうだ」
横溝は奏斗の顔を見て、眉を寄せた。
「その反応、やっぱり気にしてんな」
「資料を確認します」
「逃げるな。質問に答えろ」
奏斗は少しだけ目を伏せた。
「気にはなっています」
「理由は」
「まだ説明できるほどではありません」
「またそれか」
横溝は不機嫌そうに椅子へ座った。
「いいか、押村。前にも言ったが、一人で抱えるな」
「分かっています」
「なら、今抱えてるものを出せ」
奏斗は資料を開きながら言った。
「朝倉は、新人にしては観察が正確すぎると千速が言っていました」
「今回の証言もか」
「はい」
奏斗は玲奈の証言メモを読む。
車種。
色。
ナンバーの一部。
速度推定。
逃走方向。
接触の有無。
被害者の転倒原因についての切り分け。
確かに優秀な目撃証言だった。
だが、奏斗の目はある一点で止まった。
「……逃走後、商店街裏へ向かった可能性」
横溝が見る。
「それがどうした」
「現場から犯人が左折した後、商店街裏へ抜けるには、二本目を右折する必要があります」
「地図を見れば分かるだろ」
「はい。ただ、朝倉は現場で即座にそこまで言っている」
「管内図を見てたんじゃねぇのか」
「そう証言しています」
「お前はそれが嘘だと思うのか」
奏斗は首を横に振った。
「嘘とまでは。ただ、現場初日の新人が、事故直後に逃走ルートをそこまで組み立てるのは早い」
横溝は腕を組む。
「千速でもやるだろ」
「千速ならやります」
「じゃあ優秀な新人ってだけじゃねぇのか」
「その可能性もあります」
横溝は少し苛立ったように言う。
「お前のそういうところは面倒だな。疑ってるのか疑ってねぇのかはっきりしろ」
奏斗は静かに答えた。
「疑ってはいません。記録しています」
「もっと面倒だ」
奏斗は資料の端に小さくメモを書いた。
朝倉玲奈。観察精度が高い。逃走方向の推定が早い。
横溝はそのメモを覗き込む。
「お前、そういうの本人に見せるなよ」
「見せません」
「千速には?」
「まだ話す段階ではありません」
「それも怪しい」
奏斗は顔を上げた。
「千速は朝倉を部下として見ています。根拠のない違和感で余計な負担をかけたくない」
横溝がじっと奏斗を見る。
「今のは、守るために黙るってやつじゃねぇだろうな」
奏斗は一瞬、言葉に詰まった。
横溝は低く言う。
「押村」
「違います」
「本当か」
「はい。必要になれば話します」
「その必要をお前一人で決めるな」
奏斗は少し黙り、頷いた。
「分かりました」
横溝はようやく息を吐く。
「よし。なら、まず映像を見るぞ」
防犯カメラの映像は、思ったより鮮明だった。
コンビニのカメラに、黒いバイクが交差点へ入る瞬間が映っている。
横溝、奏斗、三森沙月の三人がモニターを見つめていた。
三森が映像を止める。
「ここですね」
黒い大型二輪。
ライダーは黒いフルフェイス。
ジャケットも黒。
体格は中肉中背。
車体の形は、スポーツタイプに近い。
奏斗は目を細める。
「ナンバーに泥が付いていますね」
三森が拡大する。
「意図的でしょうか」
横溝が唸る。
「たまたまって言うには、隠れてる場所が都合よすぎるな」
映像が進む。
バイクは軽自動車の左側へ入り込み、ぎりぎりの距離で抜ける。
軽自動車が急ブレーキ。
その直後、高齢男性が転倒する。
三森が小さく息を飲む。
「危ない……」
奏斗は映像を巻き戻す。
もう一度見る。
さらに戻す。
三回目で、奏斗が言った。
「横溝警部」
「何だ」
「犯人は、被害者を見ています」
横溝が眉を寄せる。
「どこで分かる」
奏斗は映像を止めた。
「ここです。交差点進入前、ヘルメットが一瞬だけ横断歩道側へ向いています」
三森が拡大する。
確かに、ライダーの頭がわずかに左へ向いている。
「歩行者を確認してるってことですか」
奏斗は頷く。
「はい。軽自動車の動きだけではなく、歩行者も見た上で抜けている」
横溝の目つきが鋭くなる。
「偶然の事故じゃねぇな」
「少なくとも、危険を認識していた可能性は高いです」
三森が別の映像を出す。
薬局側のカメラだ。
別角度から、バイクの逃走方向が映っている。
奏斗は無言で見ていたが、途中で止めた。
「ここ」
「何ですか?」
三森が聞く。
奏斗は画面の端を指す。
「朝倉さんです」
映像の隅に、交通整理をしていた玲奈が映っていた。
バイクが通過した瞬間、玲奈はすぐにそちらへ視線を向けている。
そして、転倒した高齢男性へ駆け寄る前に、ほんの一瞬だけ逃走方向を目で追っている。
横溝が言う。
「普通じゃねぇか。逃げたバイクを見るだろ」
「はい。普通です」
奏斗は映像を戻す。
「ただ、彼女は被害者へ向かう前に、犯人の逃走方向をかなり正確に確認しています」
三森が首を傾げる。
「優秀だからでは?」
「そうです」
横溝が苦い顔をする。
「お前、そればっかりだな」
奏斗は映像から目を離さない。
「優秀だから、で片付くことが多いんです」
「なら片付けろ」
「でも、少しずつ積み重なると、別の意味になります」
横溝は面倒そうに頭をかいた。
「今のところは?」
「まだ優秀な新人です」
「じゃあ、そう扱え」
「はい」
奏斗はそう答えた。
だが、視線は画面の中の玲奈から離れなかった。
その日の夕方。
千速は第三交機の車庫で、玲奈に声をかけた。
「朝倉」
「はい」
「今日の件、報告書は出したな」
「はい。先ほど提出しました」
「見た。悪くない」
玲奈は少し嬉しそうにした。
「ありがとうございます」
「ただ、文章が硬い」
玲奈が瞬きをする。
「硬い、ですか」
「自分が見たことを正確に書こうとしてるのは分かる。だが、事実と推測を分けたうえで、読んだ相手に伝わらないと意味がない」
「すみません」
「謝るな。直せばいい」
「はい」
千速は玲奈の報告書を返した。
赤ペンでいくつか線が入っている。
玲奈はそれを受け取り、真剣に見た。
「小隊長は、報告書もきっちり見てくださるんですね」
「当たり前だ。現場を走るだけが仕事じゃない」
「はい」
「報告書が雑な奴は、現場でも大事なものを落とす」
玲奈は小さく頷いた。
「覚えておきます」
千速は玲奈の顔を見た。
少し疲れている。
配属二日目で事故対応。
気を張って当然だ。
「朝倉」
「はい」
「今日は早めに帰れ」
玲奈が少し驚く。
「でも、報告書の修正が」
「明日でいい」
「しかし」
「命令だ」
玲奈はすぐに姿勢を正す。
「はい」
千速は少しだけ声を緩めた。
「初日から張り切りすぎると、すぐ潰れる。休むのも仕事だ」
玲奈はその言葉を聞いて、ふと表情を柔らかくした。
「小隊長も、休まれるんですか」
千速は一瞬黙った。
「……私はいい」
「それ、駄目な返答では」
千速が目を細める。
「新人に言われるとはな」
玲奈は慌てて頭を下げた。
「すみません」
「いや」
千速は少しだけ笑った。
「正しい。今のは私が悪い」
玲奈が驚いた顔をする。
「小隊長でも、そう言うんですね」
「何だと思ってる」
「もっと、全部完璧にされる方かと」
「完璧な奴なんていない。いたら怪しい」
千速は何気なくそう言った。
玲奈の指が、報告書の端をわずかに握った。
本当にわずかな動きだった。
千速は気づかなかった。
「とにかく帰れ。明日また走るぞ」
「はい。お疲れさまでした」
玲奈は丁寧に頭を下げた。
その姿は、素直で真面目な新人そのものだった。
その夜。
千速の部屋では、奏斗がカレーを温めていた。
先日、ようやく約束のカレーを作ってから、千速は妙に気に入ったらしい。
「多めに作った方がいい」と言われ、二日続けて夕食がカレーになっている。
千速は帰ってくるなり、靴を脱ぎながら言った。
「ただいま」
「おかえり」
「カレー?」
「ああ」
「よし」
千速は明らかに機嫌が少し良くなった。
奏斗はそれを見て、少しだけ笑う。
「そんなに好きだったのか」
「悪くない」
「それは褒めている?」
「かなり褒めてる」
「分かった」
千速は上着を脱ぎ、手を洗ってから食卓についた。
奏斗が皿を置く。
千速は一口食べて、満足そうに頷いた。
「昨日より少し辛い」
「気づいたか」
「気づく」
「少し調整した」
「こっちの方がいい」
「覚えておく」
千速は黙々と食べる。
しばらくして、奏斗が言った。
「今日の事故、映像を見た」
千速の手が止まる。
「早いな」
「横溝警部が共有を受けました」
「どう見た」
奏斗は向かいに座る。
「偶然の事故ではない可能性が高い。犯人は被害者を確認したうえで危険なすり抜けをしている」
千速は頷いた。
「私もそう思う」
「朝倉さんの証言も正確だった」
「優秀だろ」
「ああ」
千速はじっと奏斗を見る。
「その言い方、何か含んでるな」
奏斗は少し間を置いた。
「優秀すぎる、とは思った」
千速はスプーンを置いた。
「具体的には」
「逃走方向の推測が早い。車両の情報も正確。被害者と接触していないとすぐに切り分けている」
「私も現場で確認した。事実と推測の区別もできていた」
「なら、優秀な新人だ」
「お前はそう思ってない顔だ」
奏斗は小さく息を吐いた。
千速はそういうところを見逃さない。
「疑っているわけではない」
「それは昨日も聞いた」
「ただ、記録はしている」
千速は眉を寄せた。
「記録?」
「違和感を」
「刑事だな」
「そうだな」
千速は少し黙った。
怒るかと思ったが、そうではなかった。
「私も、今日少しだけ気になった」
奏斗が顔を上げる。
「何が」
「報告書を返した時に言ったんだ。完璧な奴なんていない。いたら怪しいって」
「それで?」
「朝倉が少し固まった」
奏斗の表情が変わる。
「どの程度」
「本当に少しだ。私の気のせいかもしれない」
「そうか」
「でも、お前が言ってたから覚えてた」
奏斗は静かに頷いた。
「ありがとう」
「礼はいらない」
「そうだった」
千速はカレーをもう一口食べる。
それから、少しだけ低い声で言った。
「ただし、奏斗」
「何だ」
「朝倉は私の部下だ。証拠がないうちは、変な扱いはしない」
「分かっている」
「私も、守るべき部下として見る」
「ああ」
「でも、目は離さない」
奏斗は千速を見る。
「十分だ」
千速は小さく頷いた。
「それと」
「何だ」
「カレー、おかわり」
奏斗は少しだけ表情を緩めた。
「分かった」
千速はスプーンを持ったまま言う。
「話が重くなった時は、飯を食え。昔、重悟にも言われた」
「横溝警部が?」
「ああ。あいつ、口は悪いけど妙にそういうところは雑に優しい」
「確かに」
千速はおかわりの皿を受け取りながら、少しだけ笑った。
「それに、お前は考え込みすぎる。事件も、朝倉のことも、私のことも」
奏斗は言葉に詰まる。
「顔に出ている?」
「出てる。私にはな」
奏斗は降参したように小さく頷いた。
「気をつける」
「気をつけるんじゃなくて、話せ」
千速はまっすぐ言った。
「一人で抱え込むなって、何回も言わせるな」
奏斗は静かに答えた。
「話す」
千速は満足したように頷く。
「よし」
その頃。
朝倉玲奈は、人気のないコインパーキングにいた。
仕事帰りの私服姿。
白いシャツに黒のジャケット。
手には、コンビニで買ったペットボトル。
どこにでもいる若い女性にしか見えない。
一台の黒い車が、ライトを落として入ってきた。
玲奈は顔を上げない。
車は少し離れた場所に停まる。
運転席の窓がわずかに開いた。
中の人物の顔は暗くて見えない。
低い声だけがした。
「事故は」
玲奈は視線を動かさずに答えた。
「・・・・・です」
「警察の反応は」
「第三交機は危険運転として追っています。捜査一課も映像を確認しました」
「やつは?」
玲奈は少しだけ間を置いた。
「映像を見ています」
「こちらに気づいたか」
「まだです」
車内の男が小さく笑う。
「まだ、か」
玲奈は唇を結んだ。
「接触は慎重に進めます」
「急ぐ必要はない。疑われずに近づけ」
玲奈は小さく頷いた。
「分かっています」
「もう一人は使えるか」
その名が出た瞬間、玲奈の目が少しだけ揺れた。
「下手に使えば気づかれます」
「情が移ったか?」
玲奈はすぐに答えた。
「違います」
「ならいい」
車内の男は冷たく言った。
「白バイ隊員ごっこに熱中するなよ。お前の役目は、やつに近づくことだ」
玲奈は無言だった。
男は続ける。
「次は、接触しろ。偶然でいい。自然でいい」
「はい」
「やつは警戒心が強い。だからこそ、もう一人を通せ」
玲奈は視線を落とした。
頭の中に、今日の千速の声が残っていた。
――休むのも仕事だ。
――現場で一番危ないのは、自分の推測を事実だと思い込むことだ。
――お前は見込みがある。
玲奈は拳を軽く握る。
車内の男が最後に言った。
「白線のこちら側に戻るなよ」
車の窓が閉まる。
黒い車は静かに走り去った。
玲奈はしばらくその場に立っていた。
夜風が髪を揺らす。
遠くで、バイクの排気音が聞こえた。
玲奈は目を閉じる。
「戻るも何も……」
小さく呟いた。
「私は、最初から向こう側だ」
そう言い聞かせるように。
けれど、その声は少しだけ弱かった。
玲奈はスマートフォンを取り出す。
画面には、千速から届いた業務連絡が残っていた。
明日は午前から訓練。今日の報告書はよく見直してこい。
その短い文面を、玲奈はしばらく見つめた。
そして返信する。
承知しました。ご指導ありがとうございます。
送信。
すぐに既読はつかない。
玲奈はスマートフォンをしまい、歩き出した。
真面目な新人白バイ隊員として。
黒の組織の協力者として。
そして、その二つの顔の間で、まだ自分でも気づかないほど小さく揺れながら。