神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第76話 最初の事故

最初の事故は、朝の通勤時間帯に起きた。

 

場所は、横浜市内の片側二車線道路。

 

駅へ向かう車と、幹線道路へ抜ける車が重なる、流れの悪い交差点だった。

 

信号が青に変わり、歩行者が渡り終える。

 

その直後、左折しようとした軽自動車の横を、黒いバイクがすり抜けた。

 

排気音が短く吠える。

 

軽自動車は慌ててブレーキを踏み、後続車がクラクションを鳴らした。

 

その混乱の中、横断歩道を渡り始めていた高齢男性が転倒した。

 

バイクは止まらなかった。

 

一瞬だけ車体を傾け、信号待ちの車列の隙間を縫うように抜け、次の交差点を左へ消えた。

 

幸い、男性の怪我は軽かった。

 

だが、バイクの動きは明らかに危険運転だった。

 

そして、現場近くで交通整理に出ていた朝倉玲奈が、その黒いバイクを目撃していた。

 

「黒の大型二輪。フルカウルタイプ。ナンバーは泥か何かで一部隠れていました」

 

玲奈は、現場に到着した千速へ落ち着いて報告した。

 

千速は事故現場の交差点を見渡しながら聞く。

 

「一部って、どこまで見えた」

 

「横浜、ひらがなは不明。数字は……下二桁が三七、もしくは八七に見えました」

 

「曖昧だな」

 

「すみません。距離がありました」

 

「いや、それでいい。曖昧なものを断定するな」

 

千速は短く言った。

 

玲奈は少しだけ肩の力を抜いた。

 

現場にはすでに救急車が来ていた。

 

転倒した高齢男性は、救急隊員に処置を受けている。

 

大きな出血はない。

 

意識もはっきりしている。

 

千速は被害者の様子を確認してから、玲奈に向き直った。

 

「速度は」

 

「おそらく六十から七十。制限速度は四十です」

 

「音で判断したか」

 

「はい。あと、車列を抜ける時の距離感です」

 

「逃走方向は」

 

「この先の交差点を左折。その後、裏道に入った可能性が高いです」

 

千速は周囲の道路を頭の中で組み立てる。

 

「左折後、二本目を右に入れば、商店街の裏へ抜けられる。朝の時間帯なら車は少ない」

 

「はい。そこを使ったと思います」

 

玲奈の返答が早かった。

 

千速は少しだけ玲奈を見る。

 

「知ってる道か」

 

「昨日、帰宅前に管内図を見ていました」

 

「熱心だな」

 

「覚えておかないと、現場で動けないと思いました」

 

玲奈はそう答えた。

 

自然な返事だった。

 

千速は頷く。

 

「いい心がけだ」

 

玲奈の表情が少し明るくなる。

 

「ありがとうございます」

 

そこへ新井が駆け寄ってきた。

 

「小隊長、防犯カメラですが、交差点のコンビニと向かいの薬局にあります」

 

「押さえろ。映像は捜査一課にも回す」

 

「はい」

 

「あと、目撃者を分けて聞け。バイクの色、音、乗っていた人間の体格。曖昧なら曖昧なままでいい。誘導するな」

 

「了解です」

 

新井がすぐに動く。

 

玲奈も続こうとしたが、千速が呼び止めた。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「お前は私と一緒に現場を見る」

 

「はい」

 

千速は交差点の路面へ視線を落とした。

 

ブレーキ痕。

 

転倒した男性の位置。

 

軽自動車の停止位置。

 

バイクが抜けたと思われる車列の隙間。

 

「何が見える」

 

千速が聞くと、玲奈は少し緊張した顔で答えた。

 

「バイクは、軽自動車が左折に入るタイミングを狙ってすり抜けています」

 

「続けろ」

 

「普通なら、左折車の内側へ入るのは危険です。でも犯人は、軽自動車が歩行者を確認して一度速度を落とすと読んでいた。だから、その隙を使って抜けた」

 

千速は黙って聞いている。

 

玲奈は路面を見ながら続けた。

 

「それと、転倒した男性を直接はねたわけではありません。接触はしていないと思います」

 

「根拠は」

 

「転倒位置と、バイクの通過ラインが少し離れています。男性は、排気音か車の急ブレーキに驚いて足をもつれさせたように見えます」

 

「見ていたのか」

 

「はい」

 

玲奈の返答には迷いがなかった。

 

千速は少しだけ目を細めた。

 

「よく見てるな」

 

「偶然、視界に入りました」

 

「偶然でそこまで見えたか」

 

玲奈の表情が一瞬だけ固まる。

 

だが、すぐに真面目な顔へ戻った。

 

「……すみません。緊張していたので、周囲をかなり見ていました」

 

千速はその答えを聞いて、軽く頷いた。

 

「悪いことじゃない。ただ、見たものと推測したものを混ぜるな」

 

「はい」

 

「今、お前が言った中で、見たものはどこまでだ」

 

玲奈は少し考えた。

 

「バイクが軽自動車の内側を抜けたこと。高齢男性と接触していないこと。男性が転倒したこと。バイクが左折して逃走したこと」

 

「推測は」

 

「犯人が軽自動車の減速を狙ったこと。男性が音に驚いて転倒した可能性。逃走後に裏道へ入った可能性」

 

千速は満足げに頷いた。

 

「よし」

 

玲奈はほっとしたように息を吐く。

 

「ありがとうございます」

 

「礼はいらない。今の区別は忘れるな。現場で一番危ないのは、自分の推測を事実だと思い込むことだ」

 

「はい」

 

千速はもう一度、交差点を見る。

 

黒いバイク。

 

危険なすり抜け。

 

偶然の事故に見える。

 

だが、走り方が少し妙だった。

 

逃げるために無茶をしたというより、誰かに見せるために走ったような。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「犯人、何を急いでたと思う」

 

玲奈は少し考えた。

 

「逃走……でしょうか」

 

「何から?」

 

「それは……」

 

玲奈が言葉を止める。

 

千速は静かに言った。

 

「ひき逃げなら、事故の後で逃げる。だがこいつは、事故が起きる前から逃げる走りをしてる」

 

玲奈の目が少し大きくなる。

 

「最初から、危険運転をするつもりだった?」

 

「かもしれない」

 

千速は周囲のカメラを見た。

 

「あるいは、撮られることを分かってやったか」

 

「撮られることを?」

 

「コンビニ、薬局、駅前のカメラ。ここは映像が残りやすい」

 

玲奈は交差点を見渡した。

 

「では、犯人は目立つために?」

 

「まだ分からん」

 

千速は短く答えた。

 

「分からない時は、分からないまま持ち帰る」

 

「はい」

 

玲奈は頷いた。

 

その横顔は真剣だった。

 

千速はそれを見て、改めて思う。

 

優秀だ。

 

少なくとも、この現場を見る目は悪くない。

 

ただ、その優秀さが時々、新人の枠から少しだけはみ出る。

 

千速はその小さな引っかかりを、まだ疑いとは呼ばなかった。

 

午後。

 

事故の件は、捜査一課へ共有された。

 

軽傷事故ではあるが、危険運転によるひき逃げの可能性があり、さらに逃走車両の動きが異常に計算されていたためだった。

 

横溝重悟は資料を片手に、捜査一課の刑事部屋へ戻ってきた。

 

「押村」

 

「はい」

 

「交通部から上がってきた。黒い大型二輪の危険運転。被害者は軽傷だが、逃げ方が気になる」

 

奏斗は資料を受け取った。

 

「千速の案件ですか」

 

「第三交機が現場対応。第一発見というか、目撃したのは例の新人だ」

 

奏斗の手が止まる。

 

「朝倉玲奈」

 

「そうだ」

 

横溝は奏斗の顔を見て、眉を寄せた。

 

「その反応、やっぱり気にしてんな」

 

「資料を確認します」

 

「逃げるな。質問に答えろ」

 

奏斗は少しだけ目を伏せた。

 

「気にはなっています」

 

「理由は」

 

「まだ説明できるほどではありません」

 

「またそれか」

 

横溝は不機嫌そうに椅子へ座った。

 

「いいか、押村。前にも言ったが、一人で抱えるな」

 

「分かっています」

 

「なら、今抱えてるものを出せ」

 

奏斗は資料を開きながら言った。

 

「朝倉は、新人にしては観察が正確すぎると千速が言っていました」

 

「今回の証言もか」

 

「はい」

 

奏斗は玲奈の証言メモを読む。

 

車種。

色。

ナンバーの一部。

速度推定。

逃走方向。

接触の有無。

被害者の転倒原因についての切り分け。

 

確かに優秀な目撃証言だった。

 

だが、奏斗の目はある一点で止まった。

 

「……逃走後、商店街裏へ向かった可能性」

 

横溝が見る。

 

「それがどうした」

 

「現場から犯人が左折した後、商店街裏へ抜けるには、二本目を右折する必要があります」

 

「地図を見れば分かるだろ」

 

「はい。ただ、朝倉は現場で即座にそこまで言っている」

 

「管内図を見てたんじゃねぇのか」

 

「そう証言しています」

 

「お前はそれが嘘だと思うのか」

 

奏斗は首を横に振った。

 

「嘘とまでは。ただ、現場初日の新人が、事故直後に逃走ルートをそこまで組み立てるのは早い」

 

横溝は腕を組む。

 

「千速でもやるだろ」

 

「千速ならやります」

 

「じゃあ優秀な新人ってだけじゃねぇのか」

 

「その可能性もあります」

 

横溝は少し苛立ったように言う。

 

「お前のそういうところは面倒だな。疑ってるのか疑ってねぇのかはっきりしろ」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「疑ってはいません。記録しています」

 

「もっと面倒だ」

 

奏斗は資料の端に小さくメモを書いた。

 

朝倉玲奈。観察精度が高い。逃走方向の推定が早い。

 

横溝はそのメモを覗き込む。

 

「お前、そういうの本人に見せるなよ」

 

「見せません」

 

「千速には?」

 

「まだ話す段階ではありません」

 

「それも怪しい」

 

奏斗は顔を上げた。

 

「千速は朝倉を部下として見ています。根拠のない違和感で余計な負担をかけたくない」

 

横溝がじっと奏斗を見る。

 

「今のは、守るために黙るってやつじゃねぇだろうな」

 

奏斗は一瞬、言葉に詰まった。

 

横溝は低く言う。

 

「押村」

 

「違います」

 

「本当か」

 

「はい。必要になれば話します」

 

「その必要をお前一人で決めるな」

 

奏斗は少し黙り、頷いた。

 

「分かりました」

 

横溝はようやく息を吐く。

 

「よし。なら、まず映像を見るぞ」

 

防犯カメラの映像は、思ったより鮮明だった。

 

コンビニのカメラに、黒いバイクが交差点へ入る瞬間が映っている。

 

横溝、奏斗、三森沙月の三人がモニターを見つめていた。

 

三森が映像を止める。

 

「ここですね」

 

黒い大型二輪。

 

ライダーは黒いフルフェイス。

ジャケットも黒。

体格は中肉中背。

 

車体の形は、スポーツタイプに近い。

 

奏斗は目を細める。

 

「ナンバーに泥が付いていますね」

 

三森が拡大する。

 

「意図的でしょうか」

 

横溝が唸る。

 

「たまたまって言うには、隠れてる場所が都合よすぎるな」

 

映像が進む。

 

バイクは軽自動車の左側へ入り込み、ぎりぎりの距離で抜ける。

 

軽自動車が急ブレーキ。

 

その直後、高齢男性が転倒する。

 

三森が小さく息を飲む。

 

「危ない……」

 

奏斗は映像を巻き戻す。

 

もう一度見る。

 

さらに戻す。

 

三回目で、奏斗が言った。

 

「横溝警部」

 

「何だ」

 

「犯人は、被害者を見ています」

 

横溝が眉を寄せる。

 

「どこで分かる」

 

奏斗は映像を止めた。

 

「ここです。交差点進入前、ヘルメットが一瞬だけ横断歩道側へ向いています」

 

三森が拡大する。

 

確かに、ライダーの頭がわずかに左へ向いている。

 

「歩行者を確認してるってことですか」

 

奏斗は頷く。

 

「はい。軽自動車の動きだけではなく、歩行者も見た上で抜けている」

 

横溝の目つきが鋭くなる。

 

「偶然の事故じゃねぇな」

 

「少なくとも、危険を認識していた可能性は高いです」

 

三森が別の映像を出す。

 

薬局側のカメラだ。

 

別角度から、バイクの逃走方向が映っている。

 

奏斗は無言で見ていたが、途中で止めた。

 

「ここ」

 

「何ですか?」

 

三森が聞く。

 

奏斗は画面の端を指す。

 

「朝倉さんです」

 

映像の隅に、交通整理をしていた玲奈が映っていた。

 

バイクが通過した瞬間、玲奈はすぐにそちらへ視線を向けている。

 

そして、転倒した高齢男性へ駆け寄る前に、ほんの一瞬だけ逃走方向を目で追っている。

 

横溝が言う。

 

「普通じゃねぇか。逃げたバイクを見るだろ」

 

「はい。普通です」

 

奏斗は映像を戻す。

 

「ただ、彼女は被害者へ向かう前に、犯人の逃走方向をかなり正確に確認しています」

 

三森が首を傾げる。

 

「優秀だからでは?」

 

「そうです」

 

横溝が苦い顔をする。

 

「お前、そればっかりだな」

 

奏斗は映像から目を離さない。

 

「優秀だから、で片付くことが多いんです」

 

「なら片付けろ」

 

「でも、少しずつ積み重なると、別の意味になります」

 

横溝は面倒そうに頭をかいた。

 

「今のところは?」

 

「まだ優秀な新人です」

 

「じゃあ、そう扱え」

 

「はい」

 

奏斗はそう答えた。

 

だが、視線は画面の中の玲奈から離れなかった。

 

その日の夕方。

 

千速は第三交機の車庫で、玲奈に声をかけた。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「今日の件、報告書は出したな」

 

「はい。先ほど提出しました」

 

「見た。悪くない」

 

玲奈は少し嬉しそうにした。

 

「ありがとうございます」

 

「ただ、文章が硬い」

 

玲奈が瞬きをする。

 

「硬い、ですか」

 

「自分が見たことを正確に書こうとしてるのは分かる。だが、事実と推測を分けたうえで、読んだ相手に伝わらないと意味がない」

 

「すみません」

 

「謝るな。直せばいい」

 

「はい」

 

千速は玲奈の報告書を返した。

 

赤ペンでいくつか線が入っている。

 

玲奈はそれを受け取り、真剣に見た。

 

「小隊長は、報告書もきっちり見てくださるんですね」

 

「当たり前だ。現場を走るだけが仕事じゃない」

 

「はい」

 

「報告書が雑な奴は、現場でも大事なものを落とす」

 

玲奈は小さく頷いた。

 

「覚えておきます」

 

千速は玲奈の顔を見た。

 

少し疲れている。

 

配属二日目で事故対応。

 

気を張って当然だ。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「今日は早めに帰れ」

 

玲奈が少し驚く。

 

「でも、報告書の修正が」

 

「明日でいい」

 

「しかし」

 

「命令だ」

 

玲奈はすぐに姿勢を正す。

 

「はい」

 

千速は少しだけ声を緩めた。

 

「初日から張り切りすぎると、すぐ潰れる。休むのも仕事だ」

 

玲奈はその言葉を聞いて、ふと表情を柔らかくした。

 

「小隊長も、休まれるんですか」

 

千速は一瞬黙った。

 

「……私はいい」

 

「それ、駄目な返答では」

 

千速が目を細める。

 

「新人に言われるとはな」

 

玲奈は慌てて頭を下げた。

 

「すみません」

 

「いや」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「正しい。今のは私が悪い」

 

玲奈が驚いた顔をする。

 

「小隊長でも、そう言うんですね」

 

「何だと思ってる」

 

「もっと、全部完璧にされる方かと」

 

「完璧な奴なんていない。いたら怪しい」

 

千速は何気なくそう言った。

 

玲奈の指が、報告書の端をわずかに握った。

 

本当にわずかな動きだった。

 

千速は気づかなかった。

 

「とにかく帰れ。明日また走るぞ」

 

「はい。お疲れさまでした」

 

玲奈は丁寧に頭を下げた。

 

その姿は、素直で真面目な新人そのものだった。

 

その夜。

 

千速の部屋では、奏斗がカレーを温めていた。

 

先日、ようやく約束のカレーを作ってから、千速は妙に気に入ったらしい。

 

「多めに作った方がいい」と言われ、二日続けて夕食がカレーになっている。

 

千速は帰ってくるなり、靴を脱ぎながら言った。

 

「ただいま」

 

「おかえり」

 

「カレー?」

 

「ああ」

 

「よし」

 

千速は明らかに機嫌が少し良くなった。

 

奏斗はそれを見て、少しだけ笑う。

 

「そんなに好きだったのか」

 

「悪くない」

 

「それは褒めている?」

 

「かなり褒めてる」

 

「分かった」

 

千速は上着を脱ぎ、手を洗ってから食卓についた。

 

奏斗が皿を置く。

 

千速は一口食べて、満足そうに頷いた。

 

「昨日より少し辛い」

 

「気づいたか」

 

「気づく」

 

「少し調整した」

 

「こっちの方がいい」

 

「覚えておく」

 

千速は黙々と食べる。

 

しばらくして、奏斗が言った。

 

「今日の事故、映像を見た」

 

千速の手が止まる。

 

「早いな」

 

「横溝警部が共有を受けました」

 

「どう見た」

 

奏斗は向かいに座る。

 

「偶然の事故ではない可能性が高い。犯人は被害者を確認したうえで危険なすり抜けをしている」

 

千速は頷いた。

 

「私もそう思う」

 

「朝倉さんの証言も正確だった」

 

「優秀だろ」

 

「ああ」

 

千速はじっと奏斗を見る。

 

「その言い方、何か含んでるな」

 

奏斗は少し間を置いた。

 

「優秀すぎる、とは思った」

 

千速はスプーンを置いた。

 

「具体的には」

 

「逃走方向の推測が早い。車両の情報も正確。被害者と接触していないとすぐに切り分けている」

 

「私も現場で確認した。事実と推測の区別もできていた」

 

「なら、優秀な新人だ」

 

「お前はそう思ってない顔だ」

 

奏斗は小さく息を吐いた。

 

千速はそういうところを見逃さない。

 

「疑っているわけではない」

 

「それは昨日も聞いた」

 

「ただ、記録はしている」

 

千速は眉を寄せた。

 

「記録?」

 

「違和感を」

 

「刑事だな」

 

「そうだな」

 

千速は少し黙った。

 

怒るかと思ったが、そうではなかった。

 

「私も、今日少しだけ気になった」

 

奏斗が顔を上げる。

 

「何が」

 

「報告書を返した時に言ったんだ。完璧な奴なんていない。いたら怪しいって」

 

「それで?」

 

「朝倉が少し固まった」

 

奏斗の表情が変わる。

 

「どの程度」

 

「本当に少しだ。私の気のせいかもしれない」

 

「そうか」

 

「でも、お前が言ってたから覚えてた」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「ありがとう」

 

「礼はいらない」

 

「そうだった」

 

千速はカレーをもう一口食べる。

 

それから、少しだけ低い声で言った。

 

「ただし、奏斗」

 

「何だ」

 

「朝倉は私の部下だ。証拠がないうちは、変な扱いはしない」

 

「分かっている」

 

「私も、守るべき部下として見る」

 

「ああ」

 

「でも、目は離さない」

 

奏斗は千速を見る。

 

「十分だ」

 

千速は小さく頷いた。

 

「それと」

 

「何だ」

 

「カレー、おかわり」

 

奏斗は少しだけ表情を緩めた。

 

「分かった」

 

千速はスプーンを持ったまま言う。

 

「話が重くなった時は、飯を食え。昔、重悟にも言われた」

 

「横溝警部が?」

 

「ああ。あいつ、口は悪いけど妙にそういうところは雑に優しい」

 

「確かに」

 

千速はおかわりの皿を受け取りながら、少しだけ笑った。

 

「それに、お前は考え込みすぎる。事件も、朝倉のことも、私のことも」

 

奏斗は言葉に詰まる。

 

「顔に出ている?」

 

「出てる。私にはな」

 

奏斗は降参したように小さく頷いた。

 

「気をつける」

 

「気をつけるんじゃなくて、話せ」

 

千速はまっすぐ言った。

 

「一人で抱え込むなって、何回も言わせるな」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「話す」

 

千速は満足したように頷く。

 

「よし」

 

その頃。

 

朝倉玲奈は、人気のないコインパーキングにいた。

 

仕事帰りの私服姿。

 

白いシャツに黒のジャケット。

 

手には、コンビニで買ったペットボトル。

 

どこにでもいる若い女性にしか見えない。

 

一台の黒い車が、ライトを落として入ってきた。

 

玲奈は顔を上げない。

 

車は少し離れた場所に停まる。

 

運転席の窓がわずかに開いた。

 

中の人物の顔は暗くて見えない。

 

低い声だけがした。

 

「事故は」

 

玲奈は視線を動かさずに答えた。

 

「・・・・・です」

 

「警察の反応は」

 

「第三交機は危険運転として追っています。捜査一課も映像を確認しました」

 

「やつは?」

 

玲奈は少しだけ間を置いた。

 

「映像を見ています」

 

「こちらに気づいたか」

 

「まだです」

 

車内の男が小さく笑う。

 

「まだ、か」

 

玲奈は唇を結んだ。

 

「接触は慎重に進めます」

 

「急ぐ必要はない。疑われずに近づけ」

 

玲奈は小さく頷いた。

 

「分かっています」

 

「もう一人は使えるか」

 

その名が出た瞬間、玲奈の目が少しだけ揺れた。

 

「下手に使えば気づかれます」

 

「情が移ったか?」

 

玲奈はすぐに答えた。

 

「違います」

 

「ならいい」

 

車内の男は冷たく言った。

 

「白バイ隊員ごっこに熱中するなよ。お前の役目は、やつに近づくことだ」

 

玲奈は無言だった。

 

男は続ける。

 

「次は、接触しろ。偶然でいい。自然でいい」

 

「はい」

 

「やつは警戒心が強い。だからこそ、もう一人を通せ」

 

玲奈は視線を落とした。

 

頭の中に、今日の千速の声が残っていた。

 

――休むのも仕事だ。

――現場で一番危ないのは、自分の推測を事実だと思い込むことだ。

――お前は見込みがある。

 

玲奈は拳を軽く握る。

 

車内の男が最後に言った。

 

「白線のこちら側に戻るなよ」

 

車の窓が閉まる。

 

黒い車は静かに走り去った。

 

玲奈はしばらくその場に立っていた。

 

夜風が髪を揺らす。

 

遠くで、バイクの排気音が聞こえた。

 

玲奈は目を閉じる。

 

「戻るも何も……」

 

小さく呟いた。

 

「私は、最初から向こう側だ」

 

そう言い聞かせるように。

 

けれど、その声は少しだけ弱かった。

 

玲奈はスマートフォンを取り出す。

 

画面には、千速から届いた業務連絡が残っていた。

 

明日は午前から訓練。今日の報告書はよく見直してこい。

 

その短い文面を、玲奈はしばらく見つめた。

 

そして返信する。

 

承知しました。ご指導ありがとうございます。

 

送信。

 

すぐに既読はつかない。

 

玲奈はスマートフォンをしまい、歩き出した。

 

真面目な新人白バイ隊員として。

 

黒の組織の協力者として。

 

そして、その二つの顔の間で、まだ自分でも気づかないほど小さく揺れながら。

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