神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第77話 接触

翌朝、神奈川県警本部の捜査一課は、いつも通り慌ただしかった。

 

電話の音。

プリンターの音。

資料をめくる音。

横溝重悟の荒い声。

 

「三森、その防犯カメラの時刻、交差点側と三秒ズレてる。補正かけろ」

 

「はい!」

 

「押村」

 

「はい」

 

「黒いバイクの所有者リスト、出たか」

 

「該当しそうな車種は二十七台です。ナンバー下二桁が三七、八七の可能性があるものに絞ると九台になります」

 

「九台か」

 

横溝は腕を組み、資料を覗き込んだ。

 

「泥でナンバー隠してやがる時点で、まともな登録車両か怪しいな」

 

「盗難車、もしくは偽造ナンバーの可能性もあります」

 

「だろうな」

 

奏斗は映像資料を確認しながら答えた。

 

防犯カメラに映った黒い大型二輪。

 

運転技術は高い。

道を知っている。

危険運転で目立ちながらも、逃走は冷静。

 

ただの無謀なライダーではない。

 

何かを見せつけるために走っているようにも見えた。

 

「押村警部補」

 

三森沙月が近づいてきた。

 

「薬局側の映像、追加で来ました」

 

「ありがとう」

 

「あと、交通部から報告書の修正版も届いてます。朝倉玲奈巡査長の分です」

 

その名前に、奏斗の目がわずかに動いた。

 

横溝がすぐに気づく。

 

「また顔に出てんぞ」

 

奏斗は資料を受け取りながら答える。

 

「出ていますか」

 

「俺でも分かるくらいにはな」

 

「気をつけます」

 

「気をつけるんじゃねぇ。考えてることを言え」

 

奏斗は報告書に目を落とした。

 

朝倉玲奈の文章は、昨日より整理されていた。

 

千速が赤を入れたのだろう。

 

見た事実。

推測。

自分の位置。

逃走車両との距離。

被害者の状態。

 

それぞれが分けて書かれている。

 

新人としては十分すぎるほど正確だった。

 

「報告書はよく修正されています」

 

「千速が見たんだろ」

 

「はい」

 

「で?」

 

奏斗は一枚目をめくった。

 

「やはり、観察が細かいです」

 

横溝は眉を寄せる。

 

「優秀って意味か?」

 

「はい」

 

「またそれか」

 

「優秀です。ただ……」

 

「ただ?」

 

奏斗は少し間を置いた。

 

「目撃者としての報告より、現場担当者としての報告に近い」

 

横溝が腕を組む。

 

「警察官なんだから当然だろ」

 

「もちろんです。ただ、配属二日目の隊員としては、事故そのものより、犯人の逃走効率に目が向きすぎている」

 

三森が横から報告書を覗いた。

 

「逃走効率、ですか」

 

「はい。例えばここです」

 

奏斗は文章の一文を指した。

 

「犯人車両は左折直後、信号制御の少ない生活道路へ進入した可能性が高く、追尾車両を減速させる目的があったと考えられる」

 

三森が感心したように言う。

 

「すごく詳しいですね」

 

横溝も低く唸る。

 

「新人にしては確かに書きすぎだな」

 

「普通なら、逃走方向と目撃情報が中心になります。でも朝倉さんは、逃げる側の意図をかなり具体的に読んでいる」

 

「犯人の気持ちが分かるってか」

 

奏斗は静かに首を横に振った。

 

「白バイとして追う側の視点と、逃げる側の視点が混ざっています」

 

横溝の目が少し鋭くなった。

 

「お前、本格的に疑ってんのか」

 

奏斗はすぐには答えなかった。

 

疑っている。

 

そう言い切るには、まだ弱い。

 

だが、気になる。

 

その程度の違和感は、確かに積み重なり始めている。

 

「疑いではありません」

 

「じゃあ何だ」

 

「注意対象です」

 

横溝は大きく息を吐いた。

 

「公安帰りの言い方だな」

 

三森が少し心配そうに二人を見る。

 

「押村警部補、萩原警部補には?」

 

「まだ言いません」

 

横溝が即座に睨む。

 

「おい」

 

奏斗は顔を上げた。

 

「ただし、共有しないという意味ではありません。今日、千速には報告書について聞きます」

 

横溝はじっと奏斗を見る。

 

「隠すなよ」

 

「はい」

 

「名前が引っかかるって件もか」

 

「それはまだ記憶が曖昧です」

 

「曖昧でも言え」

 

奏斗は一瞬黙った。

 

その沈黙だけで、横溝の顔が険しくなる。

 

「押村」

 

「分かりました。話します」

 

「最初からそうしろ」

 

横溝は乱暴に椅子へ座り直した。

 

「お前は戻ってきたばっかなんだ。信用回復期間だってこと忘れんな」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「忘れていません」

 

「ならいい」

 

そこへ、捜査一課の入口から声がした。

 

「失礼します」

 

女性の声だった。

 

奏斗は顔を上げた。

 

入口に立っていたのは、朝倉玲奈だった。

 

第三交通機動隊の制服姿。

 

手には封筒を持っている。

 

背筋を伸ばし、礼儀正しく頭を下げた。

 

「第三交通機動隊の朝倉です。萩原小隊長から、追加資料を捜査一課へ届けるように言われました」

 

その場にいた数人の刑事が彼女を見る。

 

新任の女性白バイ隊員。

 

まだ見慣れない顔だ。

 

三森がすぐに応対した。

 

「ありがとうございます。こちらで受け取ります」

 

「お願いします」

 

玲奈は封筒を差し出した。

 

その視線が、ほんの一瞬だけ奏斗へ向いた。

 

本当に一瞬。

 

だが奏斗は気づいた。

 

視線が合う。

 

玲奈はすぐに柔らかく微笑んだ。

 

「押村警部補、ですよね」

 

奏斗は立ち上がる。

 

「はい。押村です」

 

玲奈は丁寧に敬礼した。

 

「朝倉玲奈です。萩原小隊長の下で勉強させていただいています」

 

「話は聞いています」

 

「小隊長からですか?」

 

「ええ」

 

玲奈は少し嬉しそうに笑った。

 

「怒られてばかりですけど」

 

横溝が横から口を挟む。

 

「千速に怒られてるなら見込みあるってことだ」

 

玲奈が横溝へ向き直る。

 

「横溝警部ですね。初めまして」

 

「おう。横溝だ」

 

「萩原小隊長から、お名前は伺っています」

 

横溝は少し嫌そうな顔をした。

 

「どうせ悪口だろ」

 

玲奈は慌てたように首を振った。

 

「いえ。口は悪いけど頼れる方だと」

 

三森が小さく笑いそうになる。

 

横溝は鼻を鳴らした。

 

「あいつ、余計なこと言いやがって」

 

奏斗はそのやり取りを静かに見ていた。

 

玲奈は自然だった。

 

緊張している新人らしさもある。

相手を立てる礼儀もある。

会話の入り方も不自然ではない。

 

ただ。

 

奏斗へ向ける視線だけが、少し違った。

 

興味。

 

観察。

 

そして、確認。

 

まるで、本人を資料と照合しているような目だった。

 

「押村警部補」

 

玲奈が声をかける。

 

「はい」

 

「事故の件、報告書に不備があればご指摘ください。まだ現場対応に慣れていなくて」

 

奏斗は報告書を軽く持ち上げた。

 

「整理されていて分かりやすいです」

 

「ありがとうございます」

 

「ただ、逃走ルートの推測がかなり具体的でした」

 

玲奈の表情は変わらない。

 

「管内図を確認していたので」

 

「昨日も同じ説明でしたね」

 

「はい。小隊長に、管内を覚えておかないと現場では動けないと言われました」

 

奏斗は静かに頷く。

 

「良い指導です」

 

玲奈は少しだけ笑った。

 

「はい。小隊長は厳しいですが、言葉がすごく具体的で……勉強になります」

 

その声には、自然な尊敬があった。

 

少なくとも、演技には見えない。

 

玲奈は続けた。

 

「押村警部補も、萩原小隊長とは長いんですよね」

 

三森が少し目を丸くする。

 

横溝も、奏斗を見る。

 

奏斗は表情を変えずに答えた。

 

「警察学校の同期です」

 

「同期なんですね」

 

「はい」

 

「小隊長、押村警部補のことを話す時、少し表情が柔らかくなるので」

 

奏斗は一瞬だけ返答に困った。

 

三森が小さく微笑む。

 

横溝は面白そうに口元を歪めた。

 

「へぇ、千速がな」

 

玲奈は慌てたように言った。

 

「あ、すみません。余計なことを言いました」

 

奏斗は静かに首を振る。

 

「いえ」

 

玲奈は少しほっとしたように笑った。

 

その後、何気ない調子で言った。

 

「押村警部補は、公安にもいらしたんですよね?」

 

空気が止まった。

 

ほんの一瞬。

 

けれど、確かに止まった。

 

三森の表情が固まる。

 

横溝の目が鋭くなる。

 

奏斗は、玲奈を見たまま動かなかった。

 

玲奈はすぐに自分の発言に気づいたように、慌てて頭を下げた。

 

「すみません。噂で聞いただけです。無神経でした」

 

奏斗は数秒置いてから答えた。

 

「噂ですか」

 

「はい。押村警部補が戻られた時、色々な話が出ていたので……」

 

「公安にいた、という噂も?」

 

玲奈の指が、封筒を持っていた手の辺りでわずかに動いた。

 

「はい。ただ、本当かどうかは知りません」

 

「そうですか」

 

奏斗の声は静かだった。

 

冷たくはない。

 

だが、温度は低い。

 

横溝が割って入った。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「そういう話は、本人に軽く聞くもんじゃねぇ」

 

玲奈は深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

横溝はそれ以上責めなかった。

 

「分かりゃいい」

 

玲奈は顔を上げる。

 

「失礼しました。資料はお渡ししましたので、私は戻ります」

 

「ご苦労さん」

 

玲奈はもう一度頭を下げ、捜査一課を出ていった。

 

扉が閉まる。

 

しばらく誰も話さなかった。

 

最初に口を開いたのは横溝だった。

 

「押村」

 

「はい」

 

「今のは?」

 

奏斗は入口の扉を見つめたまま答えた。

 

「偶然の質問にしては踏み込みすぎています」

 

三森が不安そうに言う。

 

「でも、噂はありますよね。押村警部補の復帰の時、いろいろ……」

 

「あります」

 

奏斗は頷いた。

 

「だから、聞くこと自体は不自然ではありません」

 

横溝が低く言う。

 

「じゃあ何が引っかかる」

 

「聞き方です」

 

「聞き方?」

 

「彼女は、公安にいたかどうかを聞いたのではなく、公安にもいらしたんですよね、と言いました」

 

三森が少し考え込む。

 

「確認する聞き方、ですね」

 

「はい」

 

横溝は舌打ちした。

 

「知ってて聞いたってことか」

 

「可能性はあります」

 

「また可能性か」

 

奏斗は机に置いた報告書を見る。

 

「まだ断定はできません」

 

横溝は苛立ったように頭をかいた。

 

「千速には言え」

 

「はい」

 

「今すぐだ」

 

奏斗は少しだけ横溝を見る。

 

横溝の目は真剣だった。

 

「押村。ここで黙ったら、また同じだぞ」

 

その言葉に、奏斗は返す言葉を失った。

 

また同じ。

 

守るために黙る。

一人で抱える。

勝手に消える。

そして、残された者を傷つける。

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「連絡します」

 

横溝はようやく少しだけ表情を緩めた。

 

「そうしろ」

 

その日の昼過ぎ。

 

千速は第三交機の詰所で、午後の配置表を確認していた。

 

そこへ、奏斗からメッセージが届く。

 

朝倉さんについて話がある。時間がある時に連絡を。

 

千速は画面を見て、眉を寄せた。

 

隣にいた新井が気づく。

 

「小隊長、何かありました?」

 

「いや」

 

「怖い顔してます」

 

「元からだ」

 

「それは否定しづらいです」

 

千速が睨む。

 

「新井」

 

「すみません!」

 

その少し離れた場所で、玲奈が書類をまとめていた。

 

千速は一瞬だけ玲奈を見る。

 

朝倉玲奈。

 

真面目で、よく気がつく新人。

 

今日も午前の巡回で大きなミスはなかった。

 

ただ、奏斗から連絡が来た。

 

朝倉について話がある。

 

奏斗がわざわざそう言う時は、軽い話ではない。

 

千速はスマホを持って、廊下へ出た。

 

人気の少ない場所で電話をかける。

 

数コールで奏斗が出た。

 

『千速』

 

「どうした」

 

『今日、朝倉さんが捜査一課に資料を届けに来た』

 

「私が頼んだ。事故の追加資料だ」

 

『それは分かっている』

 

「何かあったのか」

 

少しの沈黙。

 

奏斗は言った。

 

『俺に、公安にもいたのかと聞いた』

 

千速の目が細くなった。

 

「……あいつが?」

 

『ああ』

 

「直接か」

 

『直接だ。ただし、噂で聞いたと言っていた』

 

千速は壁にもたれた。

 

「噂としてはあり得るな」

 

『そうだ』

 

「でも、お前は引っかかった」

 

『ああ』

 

千速は目を閉じる。

 

奏斗の声は落ち着いている。

 

だが、その落ち着き方が逆に怪しい。

 

何かを抑えている時の声だった。

 

「聞き方か」

 

『そうだ』

 

「公安にいたんですか、じゃなくて、公安にもいたんですよね、だった?」

 

電話の向こうで、奏斗がわずかに沈黙した。

 

『その通りだ』

 

千速は小さく息を吐く。

 

「確認の聞き方だな」

 

『ああ』

 

「分かった。朝倉には、私からそれとなく聞く」

 

『いや』

 

「何だ」

 

『直接問い詰めないでくれ』

 

千速の眉が動く。

 

「分かってる。そんな雑なことはしない」

 

『すまない』

 

「謝るな」

 

いつものやり取り。

 

だが、声の温度は少し重かった。

 

千速は続ける。

 

「奏斗」

 

『何だ』

 

「お前、今どの程度疑ってる」

 

電話の向こうで、少し沈黙があった。

 

やがて、奏斗は言った。

 

『疑いというより、警戒している』

 

「その言い方は公安っぽい」

 

『横溝警部にも言われた』

 

千速は少しだけ笑った。

 

「だろうな」

 

すぐに表情を戻す。

 

「朝倉は、私の部下だ」

 

『分かっている』

 

「だから私は、部下として見る。守る必要があるなら守る。叱る必要があるなら叱る。疑うなら、ちゃんと理由を持って疑う」

 

『ああ』

 

「でも、お前の違和感は無視しない」

 

電話の向こうで、奏斗の呼吸が少しだけ緩んだ気がした。

 

『助かる』

 

「礼はいらない」

 

『分かっている』

 

「あと」

 

『何だ』

 

「一人で追うな」

 

今度は奏斗が黙った。

 

千速は低く言う。

 

「そこが一番大事だ」

 

『……分かった』

 

「今の間は何だ」

 

『肝に銘じていた』

 

「便利な言い訳だな」

 

『本当だ』

 

千速は少しだけ口元を緩めた。

 

「帰ったら、もう一回話す。今日は遅くなるなよ」

 

『努力する』

 

「言い切れ」

 

『遅くならない』

 

「よし」

 

通話を切る。

 

千速はしばらくスマホを見つめた。

 

朝倉玲奈。

 

奏斗が警戒し始めた。

 

では、自分はどう見るべきか。

 

部下として信じる。

 

だが、何も見ないわけではない。

 

千速は小さく息を吐き、詰所へ戻った。

 

詰所に戻ると、玲奈がちょうど立ち上がるところだった。

 

「小隊長、追加資料は捜査一課へ提出しました」

 

「聞いた」

 

千速はいつも通りの声で答えた。

 

「押村警部補にもお会いしました」

 

玲奈が少しだけ笑う。

 

「落ち着いた方ですね」

 

千速は表情を変えずに言う。

 

「落ち着きすぎて面倒だ」

 

「昨日もそう言っていましたね」

 

「事実だからな」

 

玲奈は微笑んだ。

 

「でも、小隊長が信頼されているのが分かりました」

 

「何でそうなる」

 

「押村警部補、小隊長の話をする時だけ、少し雰囲気が変わったので」

 

千速は一瞬だけ言葉に詰まる。

 

「余計なところを見てるな」

 

「すみません」

 

「謝るほどじゃない」

 

千速は書類を机に置きながら、何気ない口調で聞いた。

 

「何か聞いたのか、押村に」

 

玲奈の表情は変わらない。

 

「事故の報告書について少し」

 

「他には」

 

「公安にいらしたのかと聞いてしまいました」

 

玲奈は自分から言った。

 

千速は内心で少しだけ目を細める。

 

隠さない。

 

それは賢い。

 

「何でそんなこと聞いた」

 

玲奈は申し訳なさそうに眉を下げた。

 

「噂で聞いていて……軽率でした」

 

「軽率だな」

 

「はい。横溝警部にも注意されました」

 

「だろうな」

 

千速は玲奈を見る。

 

玲奈は本当に反省しているように見える。

 

少なくとも、表面上は。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「警察官には、聞いていいことと悪いことがある」

 

「はい」

 

「興味だけで踏み込むな。相手が上司でも、他部署でも、私の知り合いでも同じだ」

 

玲奈は深く頭を下げた。

 

「申し訳ありませんでした」

 

「次から気をつけろ」

 

「はい」

 

千速はそれ以上言わなかった。

 

責めすぎる場面ではない。

 

奏斗の警戒は理解した。

 

だが、今の玲奈を見ている限り、ただの好奇心だった可能性も十分にある。

 

ただし。

 

玲奈が自分から報告したこと。

 

それが逆に、少しだけ気になった。

 

隠さないことで、疑われないようにする。

 

そういう動きにも見える。

 

千速は胸の奥に、小さな印をつけた。

 

夕方。

 

玲奈は勤務を終えると、いつものように丁寧に装備を片付けた。

 

新井が隣で言う。

 

「朝倉さん、今日捜査一課行ったんですよね。どうでした?」

 

「緊張しました」

 

「横溝警部、怖かったでしょ」

 

「少し」

 

「少しで済むんだ……」

 

玲奈は笑った。

 

「でも、萩原小隊長に比べれば」

 

新井が慌てて周囲を見る。

 

「それ、小隊長に聞かれたら俺たち二人とも終わります」

 

「冗談です」

 

「朝倉さん、意外と冗談言うんですね」

 

玲奈はロッカーを閉めながら言った。

 

「緊張しっぱなしだと、続かないので」

 

「それ、小隊長に言ってあげてください」

 

「新井さんからどうぞ」

 

「絶対無理です」

 

二人は軽く笑った。

 

どこにでもある、先輩と新人の会話。

 

その後、玲奈は更衣室を出た。

 

廊下を歩きながら、スマートフォンを取り出す。

 

画面には、差出人不明のメッセージが届いていた。

 

その文字が、なぜか重く見えた。

 

指が動かない。

 

数秒後、玲奈は返信せずに画面を消した。

 

「……分かってる」

 

小さく呟く。

 

誰に言ったのか、自分でも分からなかった。

 

その時、背後から声がした。

 

「朝倉」

 

玲奈は素早く表情を戻して振り返る。

 

千速が廊下に立っていた。

 

「はい、小隊長」

 

「明日、午前は巡回。午後はもう一度慣熟走行を見る」

 

「承知しました」

 

「あと、報告書の修正、忘れるなよ」

 

「はい」

 

千速は少しだけ玲奈を見た。

 

「疲れてるか」

 

玲奈は一瞬、答えに迷った。

 

「少しだけ」

 

「なら今日は早く寝ろ」

 

「はい」

 

「無理して笑うな。見てる方が疲れる」

 

玲奈の表情が止まった。

 

千速はそれだけ言うと、踵を返した。

 

「お疲れ」

 

玲奈は小さく頭を下げる。

 

「お疲れさまでした」

 

千速の背中が廊下の向こうへ消える。

 

玲奈はしばらくその場に立っていた。

 

無理して笑うな。

 

その言葉が、胸の奥に残った。

 

玲奈はスマートフォンをもう一度見る。

 

返信していないメッセージがある。

 

次はもう一人を使え。

 

玲奈は画面を閉じた。

 

そして、小さな声で呟いた。

 

「……使えるわけないじゃないですか」

 

言ってから、自分で驚いた。

 

そんなことを思う資格など、自分にはない。

 

任務は任務だ。

 

自分は白線の向こう側から来た人間だ。

 

それでも、千速の声が耳に残る。

 

――無理して笑うな。

 

玲奈は深く息を吸い、歩き出した。

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