翌朝、神奈川県警本部の捜査一課は、いつも通り慌ただしかった。
電話の音。
プリンターの音。
資料をめくる音。
横溝重悟の荒い声。
「三森、その防犯カメラの時刻、交差点側と三秒ズレてる。補正かけろ」
「はい!」
「押村」
「はい」
「黒いバイクの所有者リスト、出たか」
「該当しそうな車種は二十七台です。ナンバー下二桁が三七、八七の可能性があるものに絞ると九台になります」
「九台か」
横溝は腕を組み、資料を覗き込んだ。
「泥でナンバー隠してやがる時点で、まともな登録車両か怪しいな」
「盗難車、もしくは偽造ナンバーの可能性もあります」
「だろうな」
奏斗は映像資料を確認しながら答えた。
防犯カメラに映った黒い大型二輪。
運転技術は高い。
道を知っている。
危険運転で目立ちながらも、逃走は冷静。
ただの無謀なライダーではない。
何かを見せつけるために走っているようにも見えた。
「押村警部補」
三森沙月が近づいてきた。
「薬局側の映像、追加で来ました」
「ありがとう」
「あと、交通部から報告書の修正版も届いてます。朝倉玲奈巡査長の分です」
その名前に、奏斗の目がわずかに動いた。
横溝がすぐに気づく。
「また顔に出てんぞ」
奏斗は資料を受け取りながら答える。
「出ていますか」
「俺でも分かるくらいにはな」
「気をつけます」
「気をつけるんじゃねぇ。考えてることを言え」
奏斗は報告書に目を落とした。
朝倉玲奈の文章は、昨日より整理されていた。
千速が赤を入れたのだろう。
見た事実。
推測。
自分の位置。
逃走車両との距離。
被害者の状態。
それぞれが分けて書かれている。
新人としては十分すぎるほど正確だった。
「報告書はよく修正されています」
「千速が見たんだろ」
「はい」
「で?」
奏斗は一枚目をめくった。
「やはり、観察が細かいです」
横溝は眉を寄せる。
「優秀って意味か?」
「はい」
「またそれか」
「優秀です。ただ……」
「ただ?」
奏斗は少し間を置いた。
「目撃者としての報告より、現場担当者としての報告に近い」
横溝が腕を組む。
「警察官なんだから当然だろ」
「もちろんです。ただ、配属二日目の隊員としては、事故そのものより、犯人の逃走効率に目が向きすぎている」
三森が横から報告書を覗いた。
「逃走効率、ですか」
「はい。例えばここです」
奏斗は文章の一文を指した。
「犯人車両は左折直後、信号制御の少ない生活道路へ進入した可能性が高く、追尾車両を減速させる目的があったと考えられる」
三森が感心したように言う。
「すごく詳しいですね」
横溝も低く唸る。
「新人にしては確かに書きすぎだな」
「普通なら、逃走方向と目撃情報が中心になります。でも朝倉さんは、逃げる側の意図をかなり具体的に読んでいる」
「犯人の気持ちが分かるってか」
奏斗は静かに首を横に振った。
「白バイとして追う側の視点と、逃げる側の視点が混ざっています」
横溝の目が少し鋭くなった。
「お前、本格的に疑ってんのか」
奏斗はすぐには答えなかった。
疑っている。
そう言い切るには、まだ弱い。
だが、気になる。
その程度の違和感は、確かに積み重なり始めている。
「疑いではありません」
「じゃあ何だ」
「注意対象です」
横溝は大きく息を吐いた。
「公安帰りの言い方だな」
三森が少し心配そうに二人を見る。
「押村警部補、萩原警部補には?」
「まだ言いません」
横溝が即座に睨む。
「おい」
奏斗は顔を上げた。
「ただし、共有しないという意味ではありません。今日、千速には報告書について聞きます」
横溝はじっと奏斗を見る。
「隠すなよ」
「はい」
「名前が引っかかるって件もか」
「それはまだ記憶が曖昧です」
「曖昧でも言え」
奏斗は一瞬黙った。
その沈黙だけで、横溝の顔が険しくなる。
「押村」
「分かりました。話します」
「最初からそうしろ」
横溝は乱暴に椅子へ座り直した。
「お前は戻ってきたばっかなんだ。信用回復期間だってこと忘れんな」
奏斗は静かに頷いた。
「忘れていません」
「ならいい」
そこへ、捜査一課の入口から声がした。
「失礼します」
女性の声だった。
奏斗は顔を上げた。
入口に立っていたのは、朝倉玲奈だった。
第三交通機動隊の制服姿。
手には封筒を持っている。
背筋を伸ばし、礼儀正しく頭を下げた。
「第三交通機動隊の朝倉です。萩原小隊長から、追加資料を捜査一課へ届けるように言われました」
その場にいた数人の刑事が彼女を見る。
新任の女性白バイ隊員。
まだ見慣れない顔だ。
三森がすぐに応対した。
「ありがとうございます。こちらで受け取ります」
「お願いします」
玲奈は封筒を差し出した。
その視線が、ほんの一瞬だけ奏斗へ向いた。
本当に一瞬。
だが奏斗は気づいた。
視線が合う。
玲奈はすぐに柔らかく微笑んだ。
「押村警部補、ですよね」
奏斗は立ち上がる。
「はい。押村です」
玲奈は丁寧に敬礼した。
「朝倉玲奈です。萩原小隊長の下で勉強させていただいています」
「話は聞いています」
「小隊長からですか?」
「ええ」
玲奈は少し嬉しそうに笑った。
「怒られてばかりですけど」
横溝が横から口を挟む。
「千速に怒られてるなら見込みあるってことだ」
玲奈が横溝へ向き直る。
「横溝警部ですね。初めまして」
「おう。横溝だ」
「萩原小隊長から、お名前は伺っています」
横溝は少し嫌そうな顔をした。
「どうせ悪口だろ」
玲奈は慌てたように首を振った。
「いえ。口は悪いけど頼れる方だと」
三森が小さく笑いそうになる。
横溝は鼻を鳴らした。
「あいつ、余計なこと言いやがって」
奏斗はそのやり取りを静かに見ていた。
玲奈は自然だった。
緊張している新人らしさもある。
相手を立てる礼儀もある。
会話の入り方も不自然ではない。
ただ。
奏斗へ向ける視線だけが、少し違った。
興味。
観察。
そして、確認。
まるで、本人を資料と照合しているような目だった。
「押村警部補」
玲奈が声をかける。
「はい」
「事故の件、報告書に不備があればご指摘ください。まだ現場対応に慣れていなくて」
奏斗は報告書を軽く持ち上げた。
「整理されていて分かりやすいです」
「ありがとうございます」
「ただ、逃走ルートの推測がかなり具体的でした」
玲奈の表情は変わらない。
「管内図を確認していたので」
「昨日も同じ説明でしたね」
「はい。小隊長に、管内を覚えておかないと現場では動けないと言われました」
奏斗は静かに頷く。
「良い指導です」
玲奈は少しだけ笑った。
「はい。小隊長は厳しいですが、言葉がすごく具体的で……勉強になります」
その声には、自然な尊敬があった。
少なくとも、演技には見えない。
玲奈は続けた。
「押村警部補も、萩原小隊長とは長いんですよね」
三森が少し目を丸くする。
横溝も、奏斗を見る。
奏斗は表情を変えずに答えた。
「警察学校の同期です」
「同期なんですね」
「はい」
「小隊長、押村警部補のことを話す時、少し表情が柔らかくなるので」
奏斗は一瞬だけ返答に困った。
三森が小さく微笑む。
横溝は面白そうに口元を歪めた。
「へぇ、千速がな」
玲奈は慌てたように言った。
「あ、すみません。余計なことを言いました」
奏斗は静かに首を振る。
「いえ」
玲奈は少しほっとしたように笑った。
その後、何気ない調子で言った。
「押村警部補は、公安にもいらしたんですよね?」
空気が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、確かに止まった。
三森の表情が固まる。
横溝の目が鋭くなる。
奏斗は、玲奈を見たまま動かなかった。
玲奈はすぐに自分の発言に気づいたように、慌てて頭を下げた。
「すみません。噂で聞いただけです。無神経でした」
奏斗は数秒置いてから答えた。
「噂ですか」
「はい。押村警部補が戻られた時、色々な話が出ていたので……」
「公安にいた、という噂も?」
玲奈の指が、封筒を持っていた手の辺りでわずかに動いた。
「はい。ただ、本当かどうかは知りません」
「そうですか」
奏斗の声は静かだった。
冷たくはない。
だが、温度は低い。
横溝が割って入った。
「朝倉」
「はい」
「そういう話は、本人に軽く聞くもんじゃねぇ」
玲奈は深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
横溝はそれ以上責めなかった。
「分かりゃいい」
玲奈は顔を上げる。
「失礼しました。資料はお渡ししましたので、私は戻ります」
「ご苦労さん」
玲奈はもう一度頭を下げ、捜査一課を出ていった。
扉が閉まる。
しばらく誰も話さなかった。
最初に口を開いたのは横溝だった。
「押村」
「はい」
「今のは?」
奏斗は入口の扉を見つめたまま答えた。
「偶然の質問にしては踏み込みすぎています」
三森が不安そうに言う。
「でも、噂はありますよね。押村警部補の復帰の時、いろいろ……」
「あります」
奏斗は頷いた。
「だから、聞くこと自体は不自然ではありません」
横溝が低く言う。
「じゃあ何が引っかかる」
「聞き方です」
「聞き方?」
「彼女は、公安にいたかどうかを聞いたのではなく、公安にもいらしたんですよね、と言いました」
三森が少し考え込む。
「確認する聞き方、ですね」
「はい」
横溝は舌打ちした。
「知ってて聞いたってことか」
「可能性はあります」
「また可能性か」
奏斗は机に置いた報告書を見る。
「まだ断定はできません」
横溝は苛立ったように頭をかいた。
「千速には言え」
「はい」
「今すぐだ」
奏斗は少しだけ横溝を見る。
横溝の目は真剣だった。
「押村。ここで黙ったら、また同じだぞ」
その言葉に、奏斗は返す言葉を失った。
また同じ。
守るために黙る。
一人で抱える。
勝手に消える。
そして、残された者を傷つける。
奏斗は静かに頷いた。
「連絡します」
横溝はようやく少しだけ表情を緩めた。
「そうしろ」
その日の昼過ぎ。
千速は第三交機の詰所で、午後の配置表を確認していた。
そこへ、奏斗からメッセージが届く。
朝倉さんについて話がある。時間がある時に連絡を。
千速は画面を見て、眉を寄せた。
隣にいた新井が気づく。
「小隊長、何かありました?」
「いや」
「怖い顔してます」
「元からだ」
「それは否定しづらいです」
千速が睨む。
「新井」
「すみません!」
その少し離れた場所で、玲奈が書類をまとめていた。
千速は一瞬だけ玲奈を見る。
朝倉玲奈。
真面目で、よく気がつく新人。
今日も午前の巡回で大きなミスはなかった。
ただ、奏斗から連絡が来た。
朝倉について話がある。
奏斗がわざわざそう言う時は、軽い話ではない。
千速はスマホを持って、廊下へ出た。
人気の少ない場所で電話をかける。
数コールで奏斗が出た。
『千速』
「どうした」
『今日、朝倉さんが捜査一課に資料を届けに来た』
「私が頼んだ。事故の追加資料だ」
『それは分かっている』
「何かあったのか」
少しの沈黙。
奏斗は言った。
『俺に、公安にもいたのかと聞いた』
千速の目が細くなった。
「……あいつが?」
『ああ』
「直接か」
『直接だ。ただし、噂で聞いたと言っていた』
千速は壁にもたれた。
「噂としてはあり得るな」
『そうだ』
「でも、お前は引っかかった」
『ああ』
千速は目を閉じる。
奏斗の声は落ち着いている。
だが、その落ち着き方が逆に怪しい。
何かを抑えている時の声だった。
「聞き方か」
『そうだ』
「公安にいたんですか、じゃなくて、公安にもいたんですよね、だった?」
電話の向こうで、奏斗がわずかに沈黙した。
『その通りだ』
千速は小さく息を吐く。
「確認の聞き方だな」
『ああ』
「分かった。朝倉には、私からそれとなく聞く」
『いや』
「何だ」
『直接問い詰めないでくれ』
千速の眉が動く。
「分かってる。そんな雑なことはしない」
『すまない』
「謝るな」
いつものやり取り。
だが、声の温度は少し重かった。
千速は続ける。
「奏斗」
『何だ』
「お前、今どの程度疑ってる」
電話の向こうで、少し沈黙があった。
やがて、奏斗は言った。
『疑いというより、警戒している』
「その言い方は公安っぽい」
『横溝警部にも言われた』
千速は少しだけ笑った。
「だろうな」
すぐに表情を戻す。
「朝倉は、私の部下だ」
『分かっている』
「だから私は、部下として見る。守る必要があるなら守る。叱る必要があるなら叱る。疑うなら、ちゃんと理由を持って疑う」
『ああ』
「でも、お前の違和感は無視しない」
電話の向こうで、奏斗の呼吸が少しだけ緩んだ気がした。
『助かる』
「礼はいらない」
『分かっている』
「あと」
『何だ』
「一人で追うな」
今度は奏斗が黙った。
千速は低く言う。
「そこが一番大事だ」
『……分かった』
「今の間は何だ」
『肝に銘じていた』
「便利な言い訳だな」
『本当だ』
千速は少しだけ口元を緩めた。
「帰ったら、もう一回話す。今日は遅くなるなよ」
『努力する』
「言い切れ」
『遅くならない』
「よし」
通話を切る。
千速はしばらくスマホを見つめた。
朝倉玲奈。
奏斗が警戒し始めた。
では、自分はどう見るべきか。
部下として信じる。
だが、何も見ないわけではない。
千速は小さく息を吐き、詰所へ戻った。
詰所に戻ると、玲奈がちょうど立ち上がるところだった。
「小隊長、追加資料は捜査一課へ提出しました」
「聞いた」
千速はいつも通りの声で答えた。
「押村警部補にもお会いしました」
玲奈が少しだけ笑う。
「落ち着いた方ですね」
千速は表情を変えずに言う。
「落ち着きすぎて面倒だ」
「昨日もそう言っていましたね」
「事実だからな」
玲奈は微笑んだ。
「でも、小隊長が信頼されているのが分かりました」
「何でそうなる」
「押村警部補、小隊長の話をする時だけ、少し雰囲気が変わったので」
千速は一瞬だけ言葉に詰まる。
「余計なところを見てるな」
「すみません」
「謝るほどじゃない」
千速は書類を机に置きながら、何気ない口調で聞いた。
「何か聞いたのか、押村に」
玲奈の表情は変わらない。
「事故の報告書について少し」
「他には」
「公安にいらしたのかと聞いてしまいました」
玲奈は自分から言った。
千速は内心で少しだけ目を細める。
隠さない。
それは賢い。
「何でそんなこと聞いた」
玲奈は申し訳なさそうに眉を下げた。
「噂で聞いていて……軽率でした」
「軽率だな」
「はい。横溝警部にも注意されました」
「だろうな」
千速は玲奈を見る。
玲奈は本当に反省しているように見える。
少なくとも、表面上は。
「朝倉」
「はい」
「警察官には、聞いていいことと悪いことがある」
「はい」
「興味だけで踏み込むな。相手が上司でも、他部署でも、私の知り合いでも同じだ」
玲奈は深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「次から気をつけろ」
「はい」
千速はそれ以上言わなかった。
責めすぎる場面ではない。
奏斗の警戒は理解した。
だが、今の玲奈を見ている限り、ただの好奇心だった可能性も十分にある。
ただし。
玲奈が自分から報告したこと。
それが逆に、少しだけ気になった。
隠さないことで、疑われないようにする。
そういう動きにも見える。
千速は胸の奥に、小さな印をつけた。
夕方。
玲奈は勤務を終えると、いつものように丁寧に装備を片付けた。
新井が隣で言う。
「朝倉さん、今日捜査一課行ったんですよね。どうでした?」
「緊張しました」
「横溝警部、怖かったでしょ」
「少し」
「少しで済むんだ……」
玲奈は笑った。
「でも、萩原小隊長に比べれば」
新井が慌てて周囲を見る。
「それ、小隊長に聞かれたら俺たち二人とも終わります」
「冗談です」
「朝倉さん、意外と冗談言うんですね」
玲奈はロッカーを閉めながら言った。
「緊張しっぱなしだと、続かないので」
「それ、小隊長に言ってあげてください」
「新井さんからどうぞ」
「絶対無理です」
二人は軽く笑った。
どこにでもある、先輩と新人の会話。
その後、玲奈は更衣室を出た。
廊下を歩きながら、スマートフォンを取り出す。
画面には、差出人不明のメッセージが届いていた。
その文字が、なぜか重く見えた。
指が動かない。
数秒後、玲奈は返信せずに画面を消した。
「……分かってる」
小さく呟く。
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
その時、背後から声がした。
「朝倉」
玲奈は素早く表情を戻して振り返る。
千速が廊下に立っていた。
「はい、小隊長」
「明日、午前は巡回。午後はもう一度慣熟走行を見る」
「承知しました」
「あと、報告書の修正、忘れるなよ」
「はい」
千速は少しだけ玲奈を見た。
「疲れてるか」
玲奈は一瞬、答えに迷った。
「少しだけ」
「なら今日は早く寝ろ」
「はい」
「無理して笑うな。見てる方が疲れる」
玲奈の表情が止まった。
千速はそれだけ言うと、踵を返した。
「お疲れ」
玲奈は小さく頭を下げる。
「お疲れさまでした」
千速の背中が廊下の向こうへ消える。
玲奈はしばらくその場に立っていた。
無理して笑うな。
その言葉が、胸の奥に残った。
玲奈はスマートフォンをもう一度見る。
返信していないメッセージがある。
次はもう一人を使え。
玲奈は画面を閉じた。
そして、小さな声で呟いた。
「……使えるわけないじゃないですか」
言ってから、自分で驚いた。
そんなことを思う資格など、自分にはない。
任務は任務だ。
自分は白線の向こう側から来た人間だ。
それでも、千速の声が耳に残る。
――無理して笑うな。
玲奈は深く息を吸い、歩き出した。