神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第78話 黒いヘルメット

黒いバイクは、三日後に再び現れた。

 

その日は朝から空が重かった。

 

雨が降るほどではない。

 

だが、雲が低く、道路の上に湿った空気がまとわりついていた。

 

第三交通機動隊の車庫では、白バイ隊員たちが出動前の点検をしている。

 

千速は白バイの横にしゃがみ込み、タイヤを確認していた。

 

「新井」

 

「はい!」

 

「今日の路面、乾いてるように見えて滑るぞ」

 

「分かってます」

 

「分かってる奴ほど滑る」

 

「えぇ……」

 

新井は困った顔をした。

 

近くで点検していた朝倉玲奈が小さく笑う。

 

千速はそれに気づき、視線を向けた。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「お前もだ。湿気のある日は、白線とマンホールを見るな。見るだけで寄っていく」

 

玲奈は真面目に頷いた。

 

「はい。視線を置きすぎないようにします」

 

「そうだ。怖いところを見るな。行きたいところを見ろ」

 

新井が横でぼそっと言う。

 

「小隊長、たまに格好いいこと言いますよね」

 

千速が振り返る。

 

「たまに?」

 

「あ、いえ、いつもです」

 

「今日の午後、追加訓練」

 

「何でですか!」

 

玲奈がまた少し笑った。

 

その笑顔は自然に見えた。

 

少なくとも、千速にはそう見えた。

 

配属から数日。

 

玲奈は隊に馴染みつつあった。

 

新井とも会話するようになり、他の隊員からも「真面目な新人」として受け入れられている。

 

千速も、玲奈の走りを認め始めていた。

 

ただし、完全に信用したわけではない。

 

奏斗の言葉が残っている。

 

――朝倉さんが俺に、公安にもいたのかと聞いた。

 

あれから千速は、玲奈を少し注意して見るようにしていた。

 

だが、目立った不審な動きはない。

 

むしろ、玲奈は真面目すぎるほど真面目だった。

 

報告書の修正も早い。

訓練の復習もしている。

千速の指導を聞き流さない。

 

だからこそ、千速は余計に難しいと思っていた。

 

疑う理由が弱い。

 

だが、完全に見過ごすには、奏斗の違和感が気になる。

 

「小隊長?」

 

玲奈に声をかけられ、千速は顔を上げた。

 

「何だ」

 

「出動前ブリーフィング、始まります」

 

「ああ」

 

千速は立ち上がり、白バイのタンクを軽く叩いた。

 

「行くぞ」

 

「はい」

 

午前九時過ぎ。

 

第三交機は市内の幹線道路で巡回と交通指導に入った。

 

千速、新井、玲奈の三名は、それぞれ少し距離を置いて配置についていた。

 

前回の危険運転事件を受け、黒い大型二輪に関する警戒も続いている。

 

玲奈は無線を確認しながら、周囲の車の流れを見ていた。

 

速度の出し過ぎ。

車線変更。

歩行者の動き。

路駐車両の影。

 

そのすべてを、表情を変えずに追う。

 

新井は少し離れた位置から玲奈の様子を見て、無線で千速に言った。

 

『小隊長、朝倉さん、落ち着いてますね』

 

千速は短く返す。

 

「余計なことを言うな。自分の周りを見ろ」

 

『はい……』

 

玲奈が少し笑いそうになった時だった。

 

遠くから、低い排気音が聞こえた。

 

玲奈の顔が変わる。

 

それは普通のバイクの音ではない。

 

抑え込まれたような、しかし一気に吹け上がる音。

 

前回の事故現場で聞いた音と似ていた。

 

玲奈は無線に手をかける。

 

その瞬間、黒い大型二輪が交差点の向こうから現れた。

 

黒い車体。

 

黒いジャケット。

 

黒いフルフェイスヘルメット。

 

ナンバーはまた泥で汚れている。

 

バイクは車列の間を縫うように抜け、赤に変わりかけた信号へ突っ込んだ。

 

「黒い大型二輪、発見」

 

千速の声が無線に飛ぶ。

 

「全員、深追いするな。状況報告優先」

 

玲奈はすぐに答えた。

 

「朝倉、視認しました。対象は港北方面へ進行中」

 

新井も続く。

 

『新井、後方から確認。速度上昇中です!』

 

黒いバイクは、明らかに白バイを意識していた。

 

速度を上げすぎず、捕まりそうで捕まらない距離を保つ。

 

まるで誘っている。

 

千速はそれを見抜いた。

 

「挑発に乗るな。新井、前に出すぎるな」

 

『了解!』

 

「朝倉、右側車線の一般車に注意。対象は次の交差点で切る可能性がある」

 

「了解」

 

玲奈は即座に右側車線へ視線を向けた。

 

黒いバイクは次の交差点に近づく。

 

右折か。

 

直進か。

 

左折か。

 

通常なら、信号と車の流れを見て判断する。

 

だが、その瞬間。

 

玲奈は無意識に、左側の細い道路へ目を向けた。

 

黒いバイクがまだ動きを見せる前に。

 

次の瞬間、黒いバイクは急激に左へ倒れ込み、細い道路へ飛び込んだ。

 

「対象、左折!」

 

玲奈の報告は早かった。

 

早すぎるほどだった。

 

千速もすぐに反応する。

 

「朝倉、距離を保て。新井、先回りできるか」

 

『一本先の通りに出ます!』

 

黒いバイクは狭い生活道路へ入った。

 

両側に住宅。

歩行者もいる。

速度を出せば危険だ。

 

千速は歯を食いしばる。

 

「対象、住宅街へ進入。追跡速度を落とす。歩行者優先」

 

玲奈は千速の後方についた。

 

「了解」

 

黒いバイクは、住宅街の道を迷いなく進む。

 

右。

左。

さらに右。

 

そのラインは、単に逃げているものではない。

 

白バイが追いづらい角度を選び、車止めや一方通行の手前で速度を落とさせる。

 

道を知っている。

 

かなり詳しく。

 

千速は無線で言う。

 

「対象は土地勘あり。無理に詰めるな」

 

玲奈はその後ろで、黒いバイクの動きを見つめていた。

 

曲がるタイミング。

ブレーキの入り方。

視線の向き。

 

どこかで見た癖。

 

そんな気がした。

 

だが、それを考える余裕はない。

 

黒いバイクは、急に歩道寄りへ寄った。

 

前方には宅配トラックが停まっている。

 

右側から抜けるか。

左側の狭い隙間を行くか。

 

千速は瞬時に判断する。

 

「右から来る」

 

だが、黒いバイクは左のわずかな隙間へ車体を滑り込ませた。

 

歩道との距離はぎりぎり。

 

白バイでは追えない。

 

千速は即座に制動する。

 

「追跡一時中断。歩道側危険」

 

玲奈も止まった。

 

だが、その瞬間。

 

黒いバイクは振り返るように少しだけ速度を落とした。

 

まるで、白バイが止まるのを確認したようだった。

 

新井の声が無線に入る。

 

『対象、一本先へ出ました! こちらから確認!』

 

千速がすぐに返す。

 

「追うな、位置だけ送れ」

 

『了解!』

 

黒いバイクはその後、幹線道路へ戻った。

 

だが数分後、工事中の高架下へ入り、防犯カメラの死角で姿を消した。

 

追跡は打ち切りになった。

 

事故は起きなかった。

 

けれど、犯人は確実に白バイを挑発した。

 

そして、白バイの追跡限界を試していた。

 

午後。

 

捜査一課では、黒いバイクの再出現により、横溝の機嫌が悪くなっていた。

 

「同じ奴だな」

 

モニターを見ながら、横溝が低く言う。

 

奏斗は映像を確認していた。

 

今回は白バイのドライブレコーダー映像もある。

 

千速の白バイ。

玲奈の白バイ。

新井の白バイ。

 

それぞれの視点から、黒いバイクの動きを追える。

 

三森が映像を並べて表示した。

 

「こちらが萩原警部補、こちらが朝倉巡査長、こちらが新井巡査部長の映像です」

 

横溝が腕を組む。

 

「犯人、相当走れるな」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「白バイがどこまで追ってくるかを知っています」

 

「元白バイか?」

 

「可能性はあります。ただ、白バイ隊員というより、追われ慣れている印象です」

 

三森が映像を止めた。

 

「ここです。朝倉巡査長の報告、かなり早いです」

 

画面には、黒いバイクが交差点へ近づく場面が映っている。

 

まだ車体は直進の姿勢だ。

 

しかし玲奈の白バイのカメラは、左側の細い道路へわずかに向いている。

 

その直後、黒いバイクが左折する。

 

三森が首を傾げる。

 

「朝倉巡査長、曲がる前に左を見ていますね」

 

横溝が奏斗を見る。

 

「お前が言ってたやつか」

 

奏斗は答えないまま映像を戻した。

 

もう一度見る。

 

さらにもう一度。

 

「予測としてはあり得ます」

 

奏斗は言った。

 

横溝が低く返す。

 

「あり得る、か」

 

「はい。対象の速度、車線位置、前方の車列を見ると、左へ逃げる可能性は高い」

 

「お前なら予測するか」

 

「します」

 

「千速なら」

 

「するでしょう」

 

横溝は少し苛立つ。

 

「じゃあ問題ねぇじゃねぇか」

 

奏斗は画面から目を離さない。

 

「ただ、朝倉さんは新人です」

 

「そこか」

 

「ええ」

 

三森が映像をさらに進める。

 

今度は住宅街の場面。

 

黒いバイクが宅配トラックの左側へ滑り込む。

 

千速は追跡を止める。

 

玲奈も止まる。

 

横溝が言う。

 

「千速の判断は妥当だな」

 

「はい。歩道側に入った時点で白バイは追えません」

 

「犯人はそれを知ってる」

 

「おそらく」

 

奏斗は映像の端を見ていた。

 

玲奈の白バイは、千速よりほんの少し早く減速に入っている。

 

まるで、黒いバイクが左の隙間へ入ると分かっていたように。

 

いや。

 

それも予測の範囲だ。

 

優秀ならできる。

 

できてしまう。

 

だからこそ、厄介だった。

 

横溝が低く聞く。

 

「押村」

 

「はい」

 

「朝倉は、犯人の動きを知ってたと思うか」

 

奏斗は長く沈黙した。

 

簡単には答えられない。

 

答えれば、それは玲奈を疑うことになる。

 

しかも、千速の部下を。

 

「まだ分かりません」

 

「そうか」

 

横溝はそれ以上責めなかった。

 

代わりに、モニターを見ながら言った。

 

「だが、俺も少し気になった」

 

奏斗が横溝を見る。

 

「警部もですか」

 

「お前のせいでな」

 

横溝は苦々しく言った。

 

「最初から怪しい目で見たくはねぇ。千速の部下だしな。だが、あの新人、反応が良すぎる」

 

三森が小さく言う。

 

「本当に優秀なだけかもしれません」

 

横溝は頷く。

 

「ああ。だから表立っては何もしねぇ」

 

奏斗は静かに言った。

 

「千速に共有します」

 

横溝はすぐに頷いた。

 

「そうしろ。今度は黙るなよ」

 

「はい」

 

「硬ぇ」

 

「……分かった」

 

三森が少しだけ笑った。

 

そのわずかな空気の緩みの中でも、奏斗の目は映像から離れなかった。

 

黒いバイク。

 

黒いヘルメット。

 

そして、その動きを先読みするような朝倉玲奈。

 

まだ線にはならない。

 

だが点は、少しずつ増えていた。

 

夕方。

 

第三交機の訓練後、千速は玲奈を車庫の外へ呼んだ。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

玲奈はヘルメットを抱えたまま、千速の前に立つ。

 

今日の追跡の緊張がまだ抜けていないのか、少し顔色が硬い。

 

千速はその顔を見てから言った。

 

「午前の追跡、どう思った」

 

玲奈はすぐには答えなかった。

 

「……相手は、白バイの動きを分かっていました」

 

「そうだな」

 

「追われる道を選んでいました。逃げたいというより、試しているように見えました」

 

「私も同じだ」

 

千速は白バイに軽く寄りかかる。

 

「お前自身の動きは?」

 

玲奈は少し考えた。

 

「小隊長の指示には従いました。距離も詰めすぎていません」

 

「それはできてた」

 

「ですが……」

 

「続けろ」

 

玲奈は目を伏せた。

 

「曲がる方向を予測して、少し先に見すぎました」

 

千速は表情を変えなかった。

 

「自覚はあるんだな」

 

「はい」

 

「なぜ左だと思った」

 

「前方の車列と信号、それから対象の車体の位置です」

 

「それだけか」

 

玲奈は一瞬だけ黙った。

 

本当に一瞬。

 

だが、千速は見逃さなかった。

 

「朝倉」

 

「……すみません」

 

「謝るな。答えろ」

 

玲奈はゆっくり息を吸った。

 

「前回の逃走と似ていたので」

 

千速の目が細くなる。

 

「前回?」

 

「最初の事故の時です。あの時も、対象は左へ逃げました。今回も同じように、白バイが追いにくい細い道を選ぶと思いました」

 

千速は黙って玲奈を見た。

 

筋は通っている。

 

不自然ではない。

 

むしろ、現場をよく見ている証拠だ。

 

「なるほどな」

 

玲奈は少しだけ肩の力を抜いた。

 

「勝手な判断でした」

 

「勝手ではない。予測は必要だ」

 

千速は続ける。

 

「ただし、予測に身体が先に引っ張られるな。違った時に戻れなくなる」

 

「はい」

 

「お前は反応が早い。それは武器だ。でも、早すぎる反応は、時々ミスに見える。あるいは、別のものに見える」

 

玲奈の顔がわずかに強張った。

 

千速は淡々と続けた。

 

「周りから見た時の話だ。覚えておけ」

 

「……はい」

 

「今日はよくやった。だが、よくやったで終わらせるな。報告書には、自分が何を予測してどう動いたかも書け」

 

「分かりました」

 

千速は少しだけ表情を緩めた。

 

「怖かったか」

 

玲奈は意外そうに顔を上げる。

 

「え?」

 

「黒いバイクを追った時だ」

 

玲奈は少し迷ってから、正直に言った。

 

「怖かったです」

 

「何が」

 

「相手が、こちらの限界を知っているように走っていたことです」

 

千速は頷いた。

 

「いい怖がり方だ」

 

「いい、ですか」

 

「怖いものを正しく怖がれる奴は、無茶しない」

 

玲奈は千速を見る。

 

その言葉は、玲奈の中に深く落ちた。

 

自分は本当に怖かったのか。

 

それとも、怖がるふりをしただけなのか。

 

分からなかった。

 

千速は続けた。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「相手が何を知ってようが、こっちはこっちのルールで走る。相手の土俵に乗るな」

 

「はい」

 

「お前は私の後ろを走れ。勝手に前へ出るな」

 

「承知しました」

 

玲奈は深く頭を下げた。

 

千速はその姿を見て、短く言った。

 

「よし。今日は上がれ」

 

「はい。お疲れさまでした」

 

玲奈が去った後、千速は白バイのミラーに映る自分の顔を見た。

 

険しい顔をしている。

 

「……奏斗のこと、言えねぇな」

 

考え込みすぎている。

 

そう思った。

 

その夜。

 

千速が帰宅すると、奏斗はすでに部屋にいた。

 

キッチンから湯気が上がっている。

 

「ただいま」

 

「おかえり」

 

「今日は早いな」

 

「横溝警部に追い出された」

 

「よくやった、重悟」

 

奏斗は少しだけ困った顔をした。

 

「俺ではなく、横溝警部を褒めるのか」

 

「お前は放っておくと帰らないからな」

 

千速は上着を脱ぎ、手を洗ってから食卓についた。

 

今日は焼き魚と味噌汁だった。

 

「お、魚」

 

「肉が続いたから」

 

「いいな」

 

千速は箸を取りながら、すぐに本題に入った。

 

「黒いバイクの映像、見たか」

 

「ああ」

 

「朝倉の動きも?」

 

「見た」

 

千速は奏斗を見る。

 

「どう思った」

 

奏斗はすぐには答えなかった。

 

千速は箸を置く。

 

「言え。黙るなって言っただろ」

 

奏斗は静かに頷く。

 

「朝倉さんは、対象の左折をかなり早く予測していた」

 

「本人も自覚してた」

 

「そうか」

 

「前回の逃走と似ていたから予測したと言っていた。筋は通ってる」

 

「通っている」

 

「でも、お前はまだ引っかかってる」

 

「引っかかっている」

 

千速は少しだけ息を吐いた。

 

「正直でよろしい」

 

奏斗は味噌汁を置きながら言った。

 

「ただ、今日の動きだけなら説明はつく。優秀な隊員なら予測できる範囲だ」

 

「じゃあ問題なし?」

 

「問題なしとは言えない」

 

「面倒な答えだな」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

いつものやり取り。

 

だが、今夜は少し空気が重い。

 

千速は魚を一口食べた。

 

「朝倉は、相手が白バイの限界を知ってるのが怖かったと言っていた」

 

奏斗は黙って聞く。

 

「私は、それをいい怖がり方だと言った。怖いものを正しく怖がれる奴は無茶しないって」

 

「君らしい指導だ」

 

千速は少しだけ口元を緩めた。

 

「だろ」

 

それから、すぐに真顔になる。

 

「でもな、奏斗」

 

「何だ」

 

「朝倉の反応が早すぎる時があるのは、私も分かってる」

 

奏斗の目が動く。

 

千速は続ける。

 

「だから見てる。部下として。小隊長として。お前の違和感も込みで」

 

「ありがとう」

 

「礼はいらない」

 

「分かっている」

 

千速は箸を持ったまま、少し迷うように視線を落とした。

 

「ただ、あいつが本当に真面目に白バイやろうとしてるのも分かるんだ」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「そうか」

 

「そこが難しい」

 

「人は一つの顔だけではない」

 

千速は奏斗を見た。

 

「公安っぽいな」

 

「そうかもしれない」

 

「でも、今のは少し分かる」

 

千速は味噌汁を飲んだ。

 

「朝倉が何か隠してるとしても、それが全部嘘とは限らない。小隊長としては、そこを間違えたくない」

 

奏斗は言葉を選ぶように、少し間を置いた。

 

「君は、正しく見ようとしている」

 

「できてるかは分からない」

 

「できている」

 

千速は顔を逸らした。

 

「だから、そういうのを急に言うな」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

奏斗は少しだけ笑った。

 

千速もつられて少し笑った。

 

それだけで、部屋の空気が少し緩んだ。

 

だが、問題が消えたわけではない。

 

黒いバイク。

 

朝倉玲奈。

 

そして、まだ見えない背後。

 

千速は食事を再開しながら言った。

 

「次に黒いバイクが出たら、たぶんもっと派手に来る」

 

奏斗は頷いた。

 

「ああ。今回は白バイの反応を見ただけに見える」

 

「挑発か」

 

「あるいは下見」

 

千速の目が鋭くなる。

 

「次が本番か」

 

「その可能性がある」

 

「なら、こっちも準備する」

 

「無茶はするな」

 

千速はじろりと奏斗を見た。

 

「それ、お前にだけは言われたくない」

 

奏斗は黙った。

 

千速は少しだけ笑う。

 

「でも、言われたことは覚えとく」

 

「助かる」

 

「礼は」

 

「いらない」

 

「よし」

 

同じ夜。

 

朝倉玲奈は、自宅の机で報告書を書いていた。

 

今日の追跡。

対象の挙動。

自分の予測。

千速から言われた注意。

 

ペンが止まる。

 

早すぎる反応は、別のものに見える。

 

玲奈はその言葉を書きかけて、やめた。

 

スマートフォンが震える。

 

差出人名はない。

 

やつの反応は。

 

玲奈は少し迷ってから入力する。

 

警戒は強まっている可能性あり。直接接触は控えるべき。

 

返信はすぐに来た。

 

控えるな。次は会話を作れ。糸口を探せ。

 

玲奈は画面を見つめる。

 

会話を作れ。

 

簡単に言う。

 

だが、あの男は簡単な相手ではない。

 

こちらの言葉の端を拾う。

 

視線も、間も、言い換えも。

 

それに。

 

玲奈は、机の上に置かれた訓練ノートを見た。

 

千速の言葉が並んでいる。

 

相手の土俵に乗るな。

お前は私の後ろを走れ。

怖いものを正しく怖がれ。

 

玲奈は小さく息を吐いた。

 

「小隊長の後ろ、か」

 

その場所は、少しだけ温かかった。

 

千速の後ろを走っている時だけ、玲奈は本当に白バイ隊員でいられる気がした。

 

スマートフォンが再び震える。

 

朝倉。返答しろ。

 

玲奈は目を伏せ、短く打った。

 

了解。機会を作ります。

 

送信。

 

画面を消す。

 

部屋は静かだった。

 

玲奈は訓練ノートを閉じ、明日の勤務表を見る。

 

午前、巡回。

午後、捜査一課との合同確認。

 

「次は、会話を作る」

 

そう呟いた声は、任務を確認するためのものだった。

 

けれど、その奥にある迷いは、昨日より少しだけ濃くなっていた。

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