翌日の午後、神奈川県警本部の会議室には、捜査一課と第三交通機動隊の関係者が集まっていた。
黒い大型二輪による危険運転事件。
最初は軽傷事故として扱われたものが、二度目の出現によって明らかに性質を変えた。
ただの無謀運転ではない。
白バイを挑発し、追跡限界を試し、なおかつ防犯カメラの死角を利用して逃げる。
犯人は道路を知っている。
そして、警察の動きもある程度読んでいる。
横溝重悟は会議室の前方に立ち、映像資料を見ながら低い声で言った。
「現時点で、黒いバイクの登録は特定できていない。ナンバーは意図的に汚されている可能性が高い。車種は候補を絞っているが、盗難車両か偽造ナンバーなら時間がかかる」
千速は腕を組み、壁際に立って聞いていた。
隣には新井。
その少し後ろに、朝倉玲奈がいる。
玲奈は真剣な顔で資料を見ていた。
だが、時々、視線が会議室の反対側へ向く。
接触しろ。
会話を作れ。
糸口を探せ。
昨日届いた命令が、頭の中で何度も繰り返される。
だが、あの男は簡単に近づける相手ではない。
正面から聞けば警戒される。
偶然を装っても見抜かれる。
ならば、どうするか。
玲奈は視線を戻した。
もう一人を使え。
あの言葉も、同時に浮かぶ。
だが、玲奈はそれをすぐに打ち消した。
使えるわけがない。
そう思ってしまった時点で、自分は任務に向いていないのかもしれない。
「朝倉」
千速の声で、玲奈は我に返った。
「はい」
「聞いてたか」
「はい。対象は白バイの動きを理解しており、次回以降は誘導の可能性がある、という話です」
千速は少しだけ目を細めた。
「ならいい」
横溝が二人の方を見る。
「交通部側から何かあるか」
千速が一歩前に出た。
「犯人は、単に逃げ足が速いだけじゃありません。白バイが追える道、追えない道を分かって走ってます。特に住宅街で歩道側の隙間に入った動きは、こちらが止まると読んでいました」
横溝は頷く。
「元白バイの線は?」
「否定できません。ただ、白バイ経験者なら、もっとこちらの無線や配置を読もうとするはずです。今のところは、白バイの走行限界だけを知っている印象です」
奏斗が静かに口を開いた。
「追われた経験が多い人物、もしくは白バイの訓練映像や追跡事例をかなり研究している人物かもしれません」
千速は奏斗を見る。
「机の上で研究しただけで、あの走りはできない」
「もちろん。実際に走れる技術がある」
「相当な腕だ」
千速は映像を見る。
「ただ、少し気になる」
横溝が顎を上げる。
「何だ」
「犯人は、速さで振り切ろうとしていない。むしろ、こっちに見せている」
奏斗が頷く。
「同感です」
玲奈は二人のやり取りを聞きながら、息を潜めた。
千速と奏斗。
二人は違う場所に立っているのに、同じ方向を見ている。
千速は道路を見る。
奏斗は人を見る。
その視線が重なると、事件の輪郭が少しずつ浮かび上がっていく。
玲奈はそれを見て、ほんの少しだけ羨ましいと思った。
横溝は資料を閉じた。
「次に出たら、追うより囲め。無理に詰めるな。交通部は現場での安全確保を最優先。捜査一課は逃走経路の先読みと映像確保だ」
千速は短く答える。
「了解だ」
奏斗も頷いた。
「分かりました」
会議はそこで一度区切られた。
会議後、刑事や白バイ隊員たちはそれぞれ資料を片付け始めた。
玲奈は配布資料を揃えていたが、手元の一枚が床に落ちた。
それが奏斗の足元まで滑っていく。
奏斗は資料を拾い上げる。
「落ちましたよ」
玲奈はすぐに頭を下げた。
「すみません。ありがとうございます」
奏斗は資料を渡す。
そのまま離れようとした。
玲奈は一歩だけ踏み込んだ。
「押村警部補」
奏斗は足を止める。
「何でしょう」
「先ほどのご指摘、勉強になりました」
「追われた経験が多い人物、という話ですか」
「はい。私はどうしても、走り方ばかりを見てしまうので」
奏斗は玲奈を見る。
「白バイ隊員なら自然です」
「でも、押村警部補は、人の意図を見ているように感じました」
「刑事ですから」
「小隊長も、同じようなことを言います」
「千速が?」
玲奈は少し柔らかく笑った。
「相手の車体だけ見るな。運転している人間を見ろ、と」
奏斗の表情がほんの少しだけ緩んだ。
「千速らしいですね」
その変化を、玲奈は見逃さなかった。
奏斗は千速の話題になると、わずかに警戒を緩める。
「萩原小隊長は、すごい方ですね」
玲奈は言った。
それは半分は本心だった。
「厳しいですけど、言葉に嘘がないというか……ちゃんと見てくださるので」
奏斗は静かに頷いた。
「ええ。千速はそういう人です」
「押村警部補は、警察学校の頃から小隊長をご存じなんですよね」
「はい」
「昔から、ああいう方だったんですか?」
奏斗は少し考える。
「今ほどではありませんが、真っ直ぐでした」
「今ほどではない?」
「警察学校の頃は、もっと普通でした。勉強も運動も、特別目立つ方ではなかった」
玲奈は少し驚いた顔をした。
「意外です」
「努力する人でした。自分が決めたことを、少しずつ積み上げる。そういうところは今も変わりません」
玲奈は黙って聞いていた。
奏斗の声は、普段より少し柔らかい。
千速の話をする時だけ、少し変わる。
玲奈はそれを感じながら、次の言葉を探した。
「小隊長は、押村警部補のこともよく見ているんですね」
奏斗の目が少し動く。
「そうでしょうか」
「はい。小隊長、押村警部補の話になると、少し心配そうな顔をされます」
奏斗は黙った。
玲奈は慌てたように続ける。
「あ、すみません。余計なことを」
「いえ」
奏斗の声は静かだった。
「千速には、心配をかけています」
その言葉には、重さがあった。
玲奈は踏み込むべきか迷った。
玲奈が口を開く前に、奏斗の方が言った。
「朝倉さん」
「はい」
「あなたは、千速をどう見ていますか」
質問が返ってきた。
玲奈は少し驚いた。
「どう、とは」
「憧れていると言っていたそうですね」
玲奈は一瞬だけ千速を見る。
「はい。憧れています」
「なぜですか」
奏斗の声は穏やかだった。
だが、その奥に鋭さがある。
玲奈は答えを選ぶ。
「強いからです」
「強い」
「はい。走りも、判断も、言葉も。小隊長は、迷わずに前へ出る方に見えます」
奏斗は少しだけ目を細めた。
「千速は、迷わない人に見えますか」
玲奈は言葉に詰まった。
そう聞かれると、違う気がした。
千速は迷わないのではない。
迷った上で、前に出る人だ。
その違いを、玲奈はこの数日で少しだけ感じ始めていた。
「……迷っていないわけでは、ないと思います」
奏斗は黙って聞いている。
玲奈は続けた。
「でも、迷っても止まらない方だと思います。自分が怖いと思うことも、ちゃんと言葉にしてくれる。だから、部下はついて行けるんだと思います」
奏斗の表情がわずかに変わった。
それは警戒ではなかった。
意外そうな、けれど少し納得したような表情。
「よく見ていますね」
玲奈は目を伏せた。
「小隊長が、見てくださるので」
その言葉は、任務のための台詞ではなかった。
自分でもそう分かって、玲奈は少し怖くなった。
奏斗は彼女を見ていた。
「朝倉さん」
「はい」
「千速を利用しないでください」
一瞬、空気が凍った。
玲奈の指先が冷える。
しかし奏斗の声は、怒ってはいなかった。
静かだった。
だからこそ怖い。
「……どういう意味でしょうか」
玲奈は、何とか表情を保った。
奏斗はゆっくり言った。
「あなたが千速に憧れているなら、その気持ちは大事にした方がいい」
「……はい」
「ただ、千速との距離を使って、俺に何かを聞こうとしているなら、やめてください」
玲奈は微笑もうとした。
だが、上手くいかなかった。
「押村警部補は、私を疑っているんですか」
奏斗はすぐには答えない。
「まだ、疑ってはいません」
「まだ、ですか」
「ええ」
玲奈は小さく息を吸った。
「私は、小隊長から学びたいだけです」
「それは本当だと思います」
玲奈の胸が、妙に痛んだ。
本当だと思います。
その言葉は、玲奈の嘘を全部見抜いたうえで、わずかに残った本心だけを掬い上げるようだった。
奏斗は続けた。
「だからこそ、気をつけてください」
「何に、ですか」
「自分で自分を誤魔化すことに」
玲奈は何も言えなかった。
そこへ、千速の声が飛んだ。
「朝倉」
玲奈は反射的に振り返る。
千速がこちらを見ていた。
「戻るぞ」
「はい」
玲奈は資料を抱え直し、奏斗へ頭を下げた。
「失礼します」
奏斗も軽く頷いた。
「お疲れさまです」
玲奈は千速のもとへ向かった。
足取りは乱れていない。
だが、胸の奥はざわついていた。
千速が玲奈の顔を見て、少し眉を寄せる。
「何か言われたか」
玲奈は首を横に振った。
「いえ。小隊長の警察学校時代の話を少し伺いました」
「余計なこと聞いてないだろうな」
「大丈夫です」
「そうか」
千速は奏斗の方を一度見た。
奏斗は横溝と話し始めている。
千速は少しだけ目を細めたが、それ以上は何も言わなかった。
第三交機へ戻る車中、新井が運転席で浮かれたように言った。
「いやー、捜査一課って緊張しますね」
千速は助手席で書類を見ながら答える。
「お前は緊張感が足りない」
「え、今日かなり静かにしてましたよ」
「静かにしている自分を褒めてほしそうな顔をするな」
「そこまで見ます?」
玲奈は後部座席で少し笑った。
新井がバックミラー越しに言う。
「朝倉さん、押村警部補と話してましたよね。どうでした?」
玲奈は一瞬、返答に迷った。
「落ち着いている方でした」
千速が書類から顔を上げずに言う。
「面倒なくらいにな」
新井が笑う。
「小隊長、それ好きですよね」
「何が」
「押村警部補のこと、面倒って言うの」
千速がゆっくり顔を上げる。
「新井」
「はいすみませんでした」
玲奈はまた笑った。
だが、その笑いは少しだけ遅れた。
千速がそれに気づく。
「朝倉」
「はい」
「疲れたか」
「少しだけ」
「戻ったら今日は事務作業だけでいい」
「いえ、訓練も」
「命令だ」
玲奈はすぐに頷いた。
「はい」
新井が感心したように言う。
「朝倉さん、聞き分けいいですよね。俺だったら、もう一回食い下がって怒られます」
千速が即座に言う。
「分かってるなら直せ」
「はい……」
玲奈は窓の外を見た。
道路の白線が、車の流れに沿って後ろへ消えていく。
白線。
こちら側と向こう側を分ける線。
自分はどちらにいるのか。
そんなことを考えている自分が、すでに危ういのだと玲奈は思った。
夕方。
千速は第三交機の詰所で、玲奈の訓練記録を確認していた。
玲奈は少し離れた席で報告書を書いている。
新井は別の隊員に捕まり、交通整理の資料を作らされていた。
詰所には穏やかな空気が流れている。
千速はペンを止め、玲奈を見た。
真面目な新人。
本当にそう見える。
だが、今日の奏斗との会話の後、玲奈の表情が一瞬だけ崩れていた。
奏斗が何か言ったのだろう。
あの男は余計なことを言う時がある。
ただし、無意味に人を傷つけることはしない。
千速はスマホを取り出した。
奏斗へ短く送る。
朝倉に何を言った?
しばらくして返信が来た。
千速を利用しないでほしい、と言った。
千速は思わず眉を寄せた。
「……直球すぎるだろ」
小さく呟く。
すぐに次の返信。
言い方は選んだ。
千速はさらに眉を寄せる。
選んでそれか。
すぐに返ってきた。
すまない。
千速は画面を見ながら、少しだけ笑いそうになった。
そして、短く打った。
謝るな。帰ったら話す。遅くなるなよ。
返信。
遅くならない。
千速は満足してスマホを置いた。
その様子を、玲奈がほんの少し見ていた。
「小隊長」
「何だ」
「押村警部補ですか?」
千速は顔を上げる。
「そうだ」
「仲がいいんですね」
千速は少し嫌そうにする。
「そう見えるか」
「はい」
「なら、お前の目はまだまだだ」
玲奈は小さく笑った。
「そうでしょうか」
「私と奏斗は、まだ色々途中だ」
玲奈はペンを止めた。
「途中、ですか」
「ああ」
千速は椅子にもたれた。
「長く一緒にいても、全部分かるわけじゃない。むしろ、分かったつもりになる方が危ない」
玲奈は静かに聞いていた。
千速は続ける。
「あいつは何でも一人で抱え込む。私はそれが嫌いだ。でも、そういう奴だって分かってるから、見張る」
「見張るんですか」
「監視同棲だからな」
玲奈は一瞬きょとんとし、それから少し笑った。
「監視同棲……」
「笑うな。本気だ」
「すみません」
千速も少しだけ口元を緩めた。
「でも、そうやって見張ってても、全部は分からない。だから話すしかない」
玲奈の表情が少し変わった。
「話す……」
「そうだ。黙ってたら何も分からない。言いにくいことほど、言わないと駄目になる」
玲奈は目を伏せた。
その言葉は、あまりにもまっすぐだった。
玲奈には刺さりすぎるほど。
千速はそれに気づかず、机の資料をまとめた。
「朝倉」
「はい」
「お前も何かあれば言え。走りのことでも、人間関係でも、何でもいい。抱え込んで事故られる方が困る」
玲奈はすぐには返事ができなかった。
言えるわけがない。
自分が何者か。
何のためにここへ来たか。
言えるはずがない。
「……はい」
かろうじて返事をする。
千速は少し怪訝そうに見る。
「声が小さい」
玲奈は顔を上げた。
「はい。ありがとうございます、小隊長」
今度はしっかり答えた。
千速は頷く。
「ならいい」
玲奈は再び報告書へ目を落とした。
だが、文字が少し滲んで見えた。
泣いているわけではない。
そんなつもりはない。
けれど、胸の奥が苦しかった。
その夜。
奏斗が千速の部屋へ帰ると、千速はすでにリビングにいた。
部屋着に着替え、テーブルの上に資料を広げている。
髪は下ろしている。
口紅はつけていない。
それでも、以前より少しだけ柔らかい雰囲気があった。
「ただいま」
「おかえり」
千速は顔を上げる。
「遅くなかったな」
「言われたから」
「よし」
奏斗は上着を脱ぎながら言った。
「朝倉さんのことだが」
「飯の後」
千速が即座に止めた。
「でも」
「飯の後だ」
奏斗は少し黙る。
「分かった」
「お前は事件が絡むと食事を後回しにする。だから先に食う」
「監視が厳しいな」
「監視同棲だからな」
食卓には、千速が作った野菜炒めと味噌汁が並んでいた。
味噌汁は少し濃い。
千速の好みに寄せた味だった。
二人は食事を終えてから、ようやく向かい合った。
千速が先に言う。
「で、朝倉に千速を利用するなって言ったんだな」
奏斗は素直に頷いた。
「ああ」
「直球すぎる」
「言い方は選んだ」
「選んでそれか」
「君からもそう言われた」
千速はため息をついた。
「まあ、あいつは少し動揺してた」
「そうか」
「でも怒ってはいなかった。むしろ、刺さってた感じだ」
奏斗は少し考え込む。
「彼女は、千速への憧れ自体は本物かもしれない」
千速の表情が変わる。
「お前もそう思ったか」
「ああ」
「じゃあ、余計に厄介だな」
「そうだな」
千速はソファに背を預けた。
「朝倉が何か隠してるとしても、白バイをやりたい気持ちまで嘘とは思えない」
奏斗は頷く。
「俺も同じ印象だ」
「でも、お前に近づこうとしてる」
「ああ」
「目的は公安か」
奏斗は少し沈黙した。
「可能性はある」
「黒瀬事件絡みか?」
「分からない」
千速は奏斗を見る。
「分からないことを分からないって言うようになったな」
奏斗は少しだけ苦い顔をする。
「横溝警部にも言われた」
「いい傾向だ」
「そうか」
「そうだ」
千速は少し表情を緩めたが、すぐに真顔に戻る。
「私は朝倉を部下として見る。でも、何も見ないわけじゃない」
「分かっている」
「奏斗も、あいつを敵だと決めつけるな」
「決めつけてはいない」
「ならいい」
千速は少し間を置いてから言った。
「もし、朝倉が本当に何かに巻き込まれてるなら」
奏斗は千速を見る。
「なら?」
「部下として、引き戻したい」
その言葉は強かった。
迷いはある。
だが、逃げる気はない声だった。
奏斗は静かに言った。
「君ならそう言うと思った」
「止めないのか」
「止めない。ただし、無茶はするな」
千速は少し笑った。
「だから、それをお前に言われる筋合いはない」
「分かっている」
「分かってるならよし」
少しだけ空気が緩む。
その時、千速のスマホが震えた。
画面を見る。
朝倉玲奈からだった。
明日の巡回ルートについて確認したい点があります。お時間ある時に教えていただけますか。
千速は画面を奏斗に見せた。
「朝倉から」
奏斗は文面を見る。
「自然な業務連絡だな」
「そうだな」
「返信するのか」
「する。部下だからな」
千速は短く返した。
明日の朝でいい。今日は休め。
すぐに既読がつき、返信が来た。
承知しました。ありがとうございます。お疲れさまでした。
千速はスマホを置いた。
「真面目だろ」
「真面目だ」
「だから難しい」
奏斗は静かに頷いた。
「そうだな」
その頃。
玲奈は自宅の机に向かっていた。
千速からの返信を見つめている。
今日は休め。
ただの業務連絡。
けれど、その短い言葉に、玲奈はどうしようもなく胸を掴まれていた。
スマートフォンが震える。
別の通知。
差出人名はない。
玲奈は画面を見たまま動けなかった。
千速からの言葉。
組織からの命令。
同じスマホの中に並んでいる。
それが、今の自分の立っている場所だった。
玲奈はゆっくり返信を打つ。
了解。
たった二文字。
それを送るだけなのに、指が重かった。
送信してから、玲奈は千速とのトーク画面を開いた。
今日は休め。
その文字をもう一度見る。
玲奈は目を閉じた。
押村奏斗の声が蘇る。
――千速を利用しないでください。
――あなたが千速に憧れているなら、その気持ちは大事にした方がいい。
――自分で自分を誤魔化すことに気をつけてください。
「分かってますよ……」
玲奈は小さく呟いた。
分かっている。
自分が何をしているのか。
何をしようとしているのか。
誰を裏切ろうとしているのか。
分かっているのに、止まれない。
玲奈は訓練ノートを開いた。
今日のページに、千速の言葉を書き足す。
言いにくいことほど、言わないと駄目になる。
その文字を書いた瞬間、玲奈の手が止まった。
言えるわけがない。
でも、言わなければ駄目になる。
すでにもう、駄目になり始めているのかもしれない。
玲奈はペンを置き、深く息を吐いた。
窓の外では、夜の道路を車が走っている。
ヘッドライトが白線を照らし、すぐに通り過ぎていく。
玲奈はその光を見つめた。
こちら側と向こう側。
その境目は、思っていたよりずっと細い。
そして一度踏み越えたら、戻れないと思っていた線は、今も足元にあるような気がした。
ただ、自分にはまだ、戻る勇気がないだけで。