翌朝、第三交通機動隊の詰所には、いつもより張り詰めた空気があった。
黒い大型二輪が二度も現れた。
一度目は危険運転による軽傷事故。
二度目は白バイへの挑発。
そして、どちらも犯人は捕まっていない。
千速はホワイトボードの前に立ち、隊員たちを見渡した。
「今日から巡回ルートを一部変更する」
新井が手元の資料を見ながら顔を上げる。
「黒いバイク対策ですか」
「ああ。ただし、黒いバイクだけを見るな」
千速は地図を指した。
「こいつは、こっちが警戒していることを前提に動いている。つまり、見つけてほしい場所に出てくる可能性がある」
玲奈はその言葉に、静かに目を伏せた。
見つけてほしい場所。
誘導。
千速は続ける。
「白バイが釣られて動けば、一般車両や歩行者を巻き込む。だから、追うなとは言わない。だが、追う前に考えろ。こいつは何をさせたいのか」
隊員たちが頷く。
千速の声は低いが、よく通った。
「新井」
「はい」
「お前は東側の幹線道路。速度違反の取り締まりも兼ねる。黒いバイクを見つけても、単独で詰めるな」
「了解です」
「朝倉」
「はい」
玲奈が姿勢を正す。
「お前は私と動く」
玲奈は一瞬だけ目を開いた。
「小隊長と、ですか」
「不満か」
「いえ。ありません」
「昨日、巡回ルートについて聞きたいと言っていたな」
「はい」
「走りながら教える。ただし、余計なことを考えるな。まずは周囲を見ろ」
「承知しました」
千速は最後に全員へ言った。
「相手はこっちの限界を見ている。なら、こっちはこっちの判断を見せる。無理な追跡はしない。事故を起こさせない。以上」
「はい!」
隊員たちの声が揃った。
千速はヘルメットを手に取った。
「行くぞ」
玲奈はその背中を追う。
白バイ車庫へ向かう廊下。
千速の歩幅は迷いがない。
玲奈はその背中を見ながら、昨夜の命令を思い出していた。
できる。
理屈ではできる。
でも。
「朝倉」
千速が振り返った。
「はい」
「顔が硬い」
玲奈は慌てて表情を整える。
「すみません」
「謝るな。緊張してるなら緊張してると言え」
「……少し、緊張しています」
「よし」
玲奈は意外そうに目を上げた。
千速は白バイの横で、ヘルメットを抱えながら言った。
「緊張しない奴よりはマシだ。だが、緊張で視野を狭くするな」
「はい」
「怖いなら、怖い場所を見るんじゃなくて、逃げ道を見ろ」
玲奈はその言葉を噛みしめるように頷いた。
「分かりました」
千速は白バイに跨った。
「朝倉」
「はい」
「今日は私の後ろを走れ。前に出るな」
玲奈は一瞬だけ息を止める。
「はい」
千速の後ろ。
その場所にいられることが、嬉しいと思ってしまった。
任務のために近づいたはずなのに。
自分にはそんなふうに思う資格はないのに。
玲奈はヘルメットを被り、白バイに跨った。
エンジン音が、朝の空気を震わせる。
千速の白バイが先に動き出す。
玲奈は、その後ろに続いた。
午前十時過ぎ。
巡回は静かに始まった。
交通量は多いが、大きな混乱はない。
千速は先頭を走りながら、無線で時々指示を出した。
「この先、左の路地から自転車が出ることが多い。速度を落とせ」
「はい」
「ここの信号は、黄色で突っ込む車が多い。青でも一拍置け」
「はい」
「右側のコンビニ前、配送車がよく停まる。見通しが悪くなる」
「はい」
玲奈は一つ一つ返事をしながら、千速の走りを見る。
無理がない。
速くはない。
だが、迷いがない。
道路の流れの中で、どこに立つべきかを知っている。
周囲に警戒を与えすぎず、それでいて存在感を消さない。
白バイがそこにいるだけで、道路全体の空気が少し整う。
玲奈は改めて思った。
この人は、本当に白バイ隊員なのだ、と。
千速は、本物だ。
「朝倉」
無線越しに声が飛ぶ。
「はい」
「前の軽、左ウインカーを出しているが、右に寄ってる。どう見る」
玲奈は前方を見る。
「左折前に膨らんでいる可能性があります。後続車が詰めると危険です」
「他には」
「運転者が道に迷っているかもしれません」
「じゃあどうする」
「距離を取ります」
「そうだ」
千速の声は短い。
だが、ほんの少しだけ満足そうだった。
玲奈の胸が温かくなる。
それを感じて、玲奈は自分を叱った。
喜ぶな。
その時だった。
無線に新井の声が入った。
『小隊長、東側幹線で黒い大型二輪らしき車両を視認! 対象、南方向へ進行中!』
千速の目が変わった。
「新井、距離を保て。追跡するな。現在位置を送れ」
『了解! 対象、速度は制限プラス二十程度。今のところ危険運転はなし』
「無理に寄るな。こちらも向かう」
千速は玲奈へ無線を飛ばす。
「朝倉、行くぞ。だが詰めない」
「了解」
千速の白バイが進路を変える。
玲奈は後ろに続く。
心拍が少し上がる。
黒いバイク。
また現れた。
しかし、今日は何かが違う。
玲奈の中に、嫌な予感が走った。
黒いバイクが現れる場所。
時間。
千速が巡回ルートを変えた直後。
そして、自分が千速と一緒にいる日。
偶然か。
それとも。
「朝倉、遅れるな」
「はい」
千速の声で、玲奈は考えを切った。
今は走る。
それだけだ。
黒いバイクは、前回よりもゆっくり走っていた。
追跡を誘うような急加速はない。
ただ、一定の距離を保ち、白バイが見える位置を走っている。
新井は千速の指示通り、無理に詰めず、距離を置いて追っていた。
「小隊長、対象は前方二百。進路変えません」
「了解。新井、そのまま後方確認だけ続けろ」
千速は黒いバイクを視認した。
黒いフルフェイス。
黒いジャケット。
黒い車体。
ナンバーはやはり汚れている。
千速は舌打ちした。
「見せに来てるな」
玲奈が後方で言う。
「対象、こちらを確認しています」
「ああ。挑発には乗るな」
黒いバイクは次の交差点を左折した。
その先は、比較的交通量の少ない道路。
工場と倉庫が並ぶ区域へつながっている。
千速の目が鋭くなる。
「そっちは逃げ場が少ない」
新井が無線で返す。
『追い込みますか?』
「違う。誘われてる可能性がある」
黒いバイクは、倉庫街へ入っていった。
道幅は広い。
だが、昼間でも人通りが少なく、見通しの悪い角が多い。
防犯カメラも限られる。
千速は速度を落とした。
「全車、速度落とせ。対象が見えても詰めるな」
玲奈は千速の後ろで、周囲を見渡す。
倉庫。
フェンス。
停車中のトラック。
古い歩道橋。
工事用のカラーコーン。
その中で、ひとつだけ気になるものがあった。
右手の倉庫前に停まった白いワンボックス車。
運転席に人影はない。
だが、車体の位置が妙だった。
道を塞ぐほどではない。
けれど、白バイが通るラインを狭めている。
玲奈は無線に手をかけた。
「小隊長、右前方の白いワンボックス、不自然です」
千速はすぐに反応した。
「確認した。朝倉、よく見た」
玲奈の胸が一瞬だけ跳ねる。
次の瞬間。
黒いバイクが急加速した。
そして、白いワンボックスの前をかすめるように通過する。
ワンボックスの陰から、突然、作業着姿の男が飛び出した。
いや、飛び出したのではない。
押されたように、道路へ倒れ込んだ。
「人!」
千速が叫ぶ。
ブレーキ。
白バイのタイヤが短く鳴る。
千速は即座に車体を制御し、転倒した男の手前で止まった。
玲奈も後方で停止する。
黒いバイクはそのまま走り去る。
新井が追おうとする。
千速が怒鳴った。
「追うな! 人命優先!」
『了解!』
千速は白バイから降り、倒れた男へ駆け寄った。
「大丈夫か! 聞こえるか!」
男は意識があった。
だが、足を押さえて苦しんでいる。
「足が……」
玲奈もすぐに駆け寄った。
「救急要請します」
「頼む。新井、周囲確保!」
『了解!』
千速は男の状態を確認しながら、周囲へ目を走らせる。
黒いバイクは消えた。
だが、それ以上に気になる。
男の倒れ方。
ワンボックスの位置。
黒いバイクの通過タイミング。
これは、偶然じゃない。
「朝倉」
「はい」
「男は、バイクに接触してない」
玲奈は現場を見て頷く。
「はい。バイク通過の直前に道路へ出ています」
「出たんじゃない。出された」
千速の声は低かった。
玲奈はワンボックスを見る。
「誰かが、車の陰から押した……?」
「可能性がある」
玲奈は息を飲んだ。
その瞬間、捜査一課案件になったと分かった。
これはただの危険運転ではない。
人を使って白バイを止めた。
黒いバイクは逃げるためではなく、現場を作るために走った。
玲奈は、心臓が冷えるのを感じた。
誘導された現場。
千速が朝に言っていた言葉が、そのまま現実になった。
捜査一課が到着したのは、それから二十分後だった。
横溝重悟が先に車から降り、現場を一目見て顔をしかめた。
「派手にやりやがったな」
奏斗も続いて降りる。
千速は救急搬送された男性の位置を指しながら説明した。
「被害者は倉庫作業員。足を負傷して搬送。命に別状はなさそうだ」
奏斗は路面を見る。
「黒いバイクとの接触は?」
「なし」
「では、倒れた原因は」
千速は白いワンボックスを見る。
「車の陰から押された可能性がある」
横溝が険しい顔になる。
「押した奴は?」
「消えた。黒いバイクが通過した直後に混乱が起きた。その隙だ」
奏斗はワンボックスの周囲を確認した。
ドアは施錠されていない。
車内は空。
ナンバーはついているが、確認したところ盗難届が出ている車両だった。
「盗難車ですね」
三森が端末を確認しながら言った。
横溝は舌打ちする。
「準備してやがったか」
奏斗は倉庫街を見渡す。
「犯人は、白バイがここで止まるように誘導した」
千速が頷く。
「黒いバイクは餌だ」
「人を道路へ出して、追跡を止めさせた」
「白バイは、目の前に人が倒れたら絶対に止まる」
千速の声には怒りがにじんでいた。
「それを分かってやってる」
奏斗は千速を見る。
「千速」
「何だ」
「無茶に追わなくてよかった」
千速は少し睨む。
「当たり前だ」
「分かっている」
「分かってるなら、そんな顔するな」
奏斗は少し黙った。
千速はその顔を見て、ほんの少しだけ声を落とした。
「私は大丈夫だ。部下も止めた」
「ああ」
その会話を、少し離れた場所で玲奈が聞いていた。
奏斗が千速を心配している。
千速がそれを乱暴に受け止めながらも、ちゃんと返している。
二人の間には、他人が入り込めない距離がある。
「朝倉さん」
奏斗の声がして、玲奈は我に返った。
「はい」
奏斗が近づいてくる。
「あなたがワンボックスに気づいたそうですね」
「はい」
「なぜ不自然だと思いましたか」
玲奈は背筋を伸ばす。
「停車位置です。道を塞ぐほどではありませんが、白バイの走行ラインを狭める位置でした。それに、運転席に人影がありませんでした」
「それだけですか」
玲奈は一瞬だけ沈黙した。
奏斗の目は静かだった。
だが、逃がさない。
「……倉庫の搬入口から少し離れていたのも気になりました。荷下ろしには不自然な位置でした」
「なるほど」
奏斗はメモを取る。
「それをすぐに千速へ伝えた」
「はい」
「良い判断でした」
玲奈は少しだけ目を見開いた。
奏斗に褒められるとは思っていなかった。
「ありがとうございます」
「ただ」
玲奈の身体がわずかに固まる。
奏斗は続けた。
「黒いバイクがこの道へ入る前、あなたは倉庫街に視線を向けていました」
玲奈の喉が詰まる。
「……周辺警戒です」
「まだ黒いバイクが左折する前でした」
「対象の進路から、倉庫街へ誘導される可能性があると思いました」
「なぜ?」
玲奈は奏斗を見る。
「小隊長が朝、言っていました」
「千速が?」
「はい。犯人はこちらが警戒していることを前提に動いている。見つけてほしい場所に出てくる可能性がある、と」
奏斗は少しだけ目を伏せた。
筋は通る。
千速の指示を聞いていたなら、誘導を疑うのは不自然ではない。
むしろ、よく考えて動いたと言える。
「そうですか」
「はい」
玲奈は静かに答えた。
奏斗はそれ以上追及しなかった。
「ありがとうございました」
玲奈は頭を下げた。
だが、その胸の中では、冷たい汗が流れていた。
その後、現場検証が進んだ。
被害者の倉庫作業員は、休憩のため外に出ようとしたところ、ワンボックスの陰から誰かに強く押されたと証言した。
相手の顔は見ていない。
黒い服だったことだけは覚えている。
黒いバイクのライダーとは別人の可能性が高い。
つまり、単独犯ではない。
横溝は険しい顔で言った。
「組んでやがるな」
奏斗は頷く。
「少なくとも二人。黒いバイクの運転者と、被害者を押した人物」
三森が資料を見ながら言う。
「ワンボックスは昨日夜に盗まれています。防犯カメラには、黒いフードの人物が映っていますが顔は不明です」
千速は腕を組んだ。
「黒づくめばっかりだな」
横溝が低く唸る。
「黒いバイク、黒いヘルメット、黒い服。わざと印象を統一してんのか」
奏斗は現場の写真を見ながら言った。
「あるいは、誰がどの役割をしたか分からなくするためです」
千速が眉を寄せる。
「黒い服なら全部同じに見える」
「はい」
「でも、目的が分からない」
千速の声には苛立ちがあった。
「白バイを挑発して、事故現場を作って、何がしたい」
奏斗はしばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「白バイの対応を記録しているのかもしれない」
「記録?」
「最初の事故、二度目の挑発、今回の誘導。すべて白バイの動きを見るためにも見える」
横溝が顔をしかめる。
「誰が見る」
奏斗は答えた。
「これから何かを起こす人物です」
会話が止まった。
千速の目が鋭くなる。
「下見か」
「その可能性があります」
「じゃあ、今日は本番じゃない」
「ええ。まだ準備段階かもしれません」
横溝が舌打ちした。
「面倒くせぇな」
奏斗は現場を見渡した。
そして、一瞬だけ玲奈へ視線を向ける。
玲奈は救急隊が去った方向を見つめていた。
顔色が少し悪い。
怖がっているようにも見える。
罪悪感を抱いているようにも見える。
あるいは、ただの疲れかもしれない。
奏斗にはまだ分からなかった。
その夜。
千速の部屋。
夕食後、千速はソファに座り込み、深く息を吐いた。
「疲れた」
奏斗は湯呑みを置く。
「今日は無理もない」
「黒いバイクの相手は嫌だな」
「珍しいな。君が嫌だと言うのは」
千速は苦い顔をする。
「速い奴ならいい。無茶な奴でも、まだ読める。でも、こいつは人を使う」
奏斗は向かいに座る。
「白バイが止まる理由を作った」
「ああ」
千速は拳を握る。
「交通事故を利用する奴は嫌いだ」
「分かる」
「人が倒れたら止まる。当たり前だ。そこを使われると腹が立つ」
奏斗は静かに聞いていた。
千速は少し間を置いてから言う。
「朝倉は、よく見てた」
「ああ」
「ワンボックスに先に気づいた。あれがなければ、私の反応は少し遅れたかもしれない」
「良い判断だった」
「だろ」
千速は少しだけ誇らしそうに言った。
だが、すぐに表情を曇らせる。
「でも、お前はまだ気になってる」
奏斗は嘘をつかなかった。
「気になっている」
「どこが」
「彼女の視線の置き方。判断の早さ。そして、今日の現場に誘導される可能性をかなり早く意識していたこと」
「私が朝に言ったからだ」
「そう聞いた」
「じゃあ説明はつく」
「つく」
千速はじっと見る。
「それでも気になる」
「そうだ」
千速は少しだけ笑った。
「厄介だな、お前の違和感は」
「すまない」
「謝るな。今のは責めてない」
千速は湯呑みを手に取った。
「私も、朝倉を信じたいだけじゃ駄目だと思ってる」
奏斗は千速を見る。
「部下だからか」
「ああ」
千速は静かに頷いた。
「部下だから、疑わないんじゃない。部下だから、ちゃんと見る。間違った方向に行きそうなら止める。それが小隊長だろ」
奏斗は少しだけ表情を緩めた。
「君らしい」
「また急に褒めるな」
「事実だ」
千速は顔を逸らす。
「うるさい」
少しだけ沈黙が落ちる。
それから千速は低く言った。
「もし朝倉が何か隠してるなら、できれば早く言ってほしい」
奏斗は答えなかった。
千速は続ける。
「嘘ってさ、長引くほど戻れなくなるだろ」
その言葉に、奏斗の胸が痛んだ。
自分のことだ。
死を偽装し、戻れなくなるところまで行った自分のこと。
「そうだな」
奏斗は静かに言った。
千速は彼を見た。
「今、お前のことも言った」
「分かっている」
「怒ってるわけじゃない」
「それも分かっている」
「ならいい」
千速は湯呑みを置いた。
「奏斗」
「何だ」
「朝倉のこと、もし危なくなったら私に言え。私が止める」
「分かった」
「今度こそ、一人でやるなよ」
奏斗はまっすぐ千速を見た。
「一人ではやらない」
千速はしばらく彼を見て、ようやく頷いた。
「よし」
同じ頃。
玲奈は自室で、今日の現場写真を見ていた。
正式な資料ではない。
自分の記憶を整理するために描いた簡単な見取り図だ。
黒いバイク。
白いワンボックス。
押された作業員。
千速の停止位置。
自分の停止位置。
全部があまりにも綺麗に配置されていた。
誘導された現場。
そして玲奈は、別のことを見抜いていた。
今日の現場は、組織側のテストだった。
白バイがどこで止まるか。
もう一人がどう判断するか。
あの男がどこまで読むか。
そして、自分がどこまで動けるか。
玲奈は唇を噛んだ。
スマートフォンが震える。
差出人名はない。
今日の動きは悪くなかった。
玲奈は画面を見つめた。
次で踏み込め。
何を聞く。
どう近づく。
誰を利用する。
答えは分かっている。
でも。
玲奈は千速から届いていた別のメッセージを開いた。
今日はよく見ていた。だが疲れを残すな。明日は無理するなよ。
短い文。
ただの上司から部下への言葉。
でも、玲奈には重かった。
「小隊長……」
玲奈はスマートフォンを握りしめた。
そして、差出人不明のメッセージ画面に戻る。
返信欄に指を置く。
了解。
いつもの二文字。
けれど、今日は送信するまでに時間がかかった。
ようやく送信した後、玲奈は椅子にもたれた。
目を閉じる。
千速の声が浮かぶ。
――お前は私の後ろを走れ。
――勝手に前へ出るな。
――怖いものを正しく怖がれ。
奏斗の声も浮かぶ。
――千速を利用しないでください。
――自分で自分を誤魔化すことに気をつけてください。
玲奈は小さく呟いた。
「もう、誤魔化せてないですよ」
自分の声が、思ったより震えていた。
白線のこちら側に戻るな。
組織の男はそう言った。
けれど玲奈は、今日初めて思ってしまった。
戻る場所が、もし本当にあるなら。
その時、自分はどちらへ走るのだろう。
答えはまだ出ない。
でも、迷いは確実に大きくなっていた。