神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第80話 誘導された現場

翌朝、第三交通機動隊の詰所には、いつもより張り詰めた空気があった。

 

黒い大型二輪が二度も現れた。

 

一度目は危険運転による軽傷事故。

二度目は白バイへの挑発。

 

そして、どちらも犯人は捕まっていない。

 

千速はホワイトボードの前に立ち、隊員たちを見渡した。

 

「今日から巡回ルートを一部変更する」

 

新井が手元の資料を見ながら顔を上げる。

 

「黒いバイク対策ですか」

 

「ああ。ただし、黒いバイクだけを見るな」

 

千速は地図を指した。

 

「こいつは、こっちが警戒していることを前提に動いている。つまり、見つけてほしい場所に出てくる可能性がある」

 

玲奈はその言葉に、静かに目を伏せた。

 

見つけてほしい場所。

 

誘導。

 

千速は続ける。

 

「白バイが釣られて動けば、一般車両や歩行者を巻き込む。だから、追うなとは言わない。だが、追う前に考えろ。こいつは何をさせたいのか」

 

隊員たちが頷く。

 

千速の声は低いが、よく通った。

 

「新井」

 

「はい」

 

「お前は東側の幹線道路。速度違反の取り締まりも兼ねる。黒いバイクを見つけても、単独で詰めるな」

 

「了解です」

 

「朝倉」

 

「はい」

 

玲奈が姿勢を正す。

 

「お前は私と動く」

 

玲奈は一瞬だけ目を開いた。

 

「小隊長と、ですか」

 

「不満か」

 

「いえ。ありません」

 

「昨日、巡回ルートについて聞きたいと言っていたな」

 

「はい」

 

「走りながら教える。ただし、余計なことを考えるな。まずは周囲を見ろ」

 

「承知しました」

 

千速は最後に全員へ言った。

 

「相手はこっちの限界を見ている。なら、こっちはこっちの判断を見せる。無理な追跡はしない。事故を起こさせない。以上」

 

「はい!」

 

隊員たちの声が揃った。

 

千速はヘルメットを手に取った。

 

「行くぞ」

 

玲奈はその背中を追う。

 

白バイ車庫へ向かう廊下。

 

千速の歩幅は迷いがない。

 

玲奈はその背中を見ながら、昨夜の命令を思い出していた。

 

できる。

 

理屈ではできる。

 

でも。

 

「朝倉」

 

千速が振り返った。

 

「はい」

 

「顔が硬い」

 

玲奈は慌てて表情を整える。

 

「すみません」

 

「謝るな。緊張してるなら緊張してると言え」

 

「……少し、緊張しています」

 

「よし」

 

玲奈は意外そうに目を上げた。

 

千速は白バイの横で、ヘルメットを抱えながら言った。

 

「緊張しない奴よりはマシだ。だが、緊張で視野を狭くするな」

 

「はい」

 

「怖いなら、怖い場所を見るんじゃなくて、逃げ道を見ろ」

 

玲奈はその言葉を噛みしめるように頷いた。

 

「分かりました」

 

千速は白バイに跨った。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「今日は私の後ろを走れ。前に出るな」

 

玲奈は一瞬だけ息を止める。

 

「はい」

 

千速の後ろ。

 

その場所にいられることが、嬉しいと思ってしまった。

 

任務のために近づいたはずなのに。

 

自分にはそんなふうに思う資格はないのに。

 

玲奈はヘルメットを被り、白バイに跨った。

 

エンジン音が、朝の空気を震わせる。

 

千速の白バイが先に動き出す。

 

玲奈は、その後ろに続いた。

 

午前十時過ぎ。

 

巡回は静かに始まった。

 

交通量は多いが、大きな混乱はない。

 

千速は先頭を走りながら、無線で時々指示を出した。

 

「この先、左の路地から自転車が出ることが多い。速度を落とせ」

 

「はい」

 

「ここの信号は、黄色で突っ込む車が多い。青でも一拍置け」

 

「はい」

 

「右側のコンビニ前、配送車がよく停まる。見通しが悪くなる」

 

「はい」

 

玲奈は一つ一つ返事をしながら、千速の走りを見る。

 

無理がない。

 

速くはない。

 

だが、迷いがない。

 

道路の流れの中で、どこに立つべきかを知っている。

 

周囲に警戒を与えすぎず、それでいて存在感を消さない。

 

白バイがそこにいるだけで、道路全体の空気が少し整う。

 

玲奈は改めて思った。

 

この人は、本当に白バイ隊員なのだ、と。

 

千速は、本物だ。

 

「朝倉」

 

無線越しに声が飛ぶ。

 

「はい」

 

「前の軽、左ウインカーを出しているが、右に寄ってる。どう見る」

 

玲奈は前方を見る。

 

「左折前に膨らんでいる可能性があります。後続車が詰めると危険です」

 

「他には」

 

「運転者が道に迷っているかもしれません」

 

「じゃあどうする」

 

「距離を取ります」

 

「そうだ」

 

千速の声は短い。

 

だが、ほんの少しだけ満足そうだった。

 

玲奈の胸が温かくなる。

 

それを感じて、玲奈は自分を叱った。

 

喜ぶな。

 

その時だった。

 

無線に新井の声が入った。

 

『小隊長、東側幹線で黒い大型二輪らしき車両を視認! 対象、南方向へ進行中!』

 

千速の目が変わった。

 

「新井、距離を保て。追跡するな。現在位置を送れ」

 

『了解! 対象、速度は制限プラス二十程度。今のところ危険運転はなし』

 

「無理に寄るな。こちらも向かう」

 

千速は玲奈へ無線を飛ばす。

 

「朝倉、行くぞ。だが詰めない」

 

「了解」

 

千速の白バイが進路を変える。

 

玲奈は後ろに続く。

 

心拍が少し上がる。

 

黒いバイク。

 

また現れた。

 

しかし、今日は何かが違う。

 

玲奈の中に、嫌な予感が走った。

 

黒いバイクが現れる場所。

時間。

千速が巡回ルートを変えた直後。

そして、自分が千速と一緒にいる日。

 

偶然か。

 

それとも。

 

「朝倉、遅れるな」

 

「はい」

 

千速の声で、玲奈は考えを切った。

 

今は走る。

 

それだけだ。

 

黒いバイクは、前回よりもゆっくり走っていた。

 

追跡を誘うような急加速はない。

 

ただ、一定の距離を保ち、白バイが見える位置を走っている。

 

新井は千速の指示通り、無理に詰めず、距離を置いて追っていた。

 

「小隊長、対象は前方二百。進路変えません」

 

「了解。新井、そのまま後方確認だけ続けろ」

 

千速は黒いバイクを視認した。

 

黒いフルフェイス。

黒いジャケット。

黒い車体。

 

ナンバーはやはり汚れている。

 

千速は舌打ちした。

 

「見せに来てるな」

 

玲奈が後方で言う。

 

「対象、こちらを確認しています」

 

「ああ。挑発には乗るな」

 

黒いバイクは次の交差点を左折した。

 

その先は、比較的交通量の少ない道路。

 

工場と倉庫が並ぶ区域へつながっている。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「そっちは逃げ場が少ない」

 

新井が無線で返す。

 

『追い込みますか?』

 

「違う。誘われてる可能性がある」

 

黒いバイクは、倉庫街へ入っていった。

 

道幅は広い。

 

だが、昼間でも人通りが少なく、見通しの悪い角が多い。

 

防犯カメラも限られる。

 

千速は速度を落とした。

 

「全車、速度落とせ。対象が見えても詰めるな」

 

玲奈は千速の後ろで、周囲を見渡す。

 

倉庫。

フェンス。

停車中のトラック。

古い歩道橋。

工事用のカラーコーン。

 

その中で、ひとつだけ気になるものがあった。

 

右手の倉庫前に停まった白いワンボックス車。

 

運転席に人影はない。

 

だが、車体の位置が妙だった。

 

道を塞ぐほどではない。

 

けれど、白バイが通るラインを狭めている。

 

玲奈は無線に手をかけた。

 

「小隊長、右前方の白いワンボックス、不自然です」

 

千速はすぐに反応した。

 

「確認した。朝倉、よく見た」

 

玲奈の胸が一瞬だけ跳ねる。

 

次の瞬間。

 

黒いバイクが急加速した。

 

そして、白いワンボックスの前をかすめるように通過する。

 

ワンボックスの陰から、突然、作業着姿の男が飛び出した。

 

いや、飛び出したのではない。

 

押されたように、道路へ倒れ込んだ。

 

「人!」

 

千速が叫ぶ。

 

ブレーキ。

 

白バイのタイヤが短く鳴る。

 

千速は即座に車体を制御し、転倒した男の手前で止まった。

 

玲奈も後方で停止する。

 

黒いバイクはそのまま走り去る。

 

新井が追おうとする。

 

千速が怒鳴った。

 

「追うな! 人命優先!」

 

『了解!』

 

千速は白バイから降り、倒れた男へ駆け寄った。

 

「大丈夫か! 聞こえるか!」

 

男は意識があった。

 

だが、足を押さえて苦しんでいる。

 

「足が……」

 

玲奈もすぐに駆け寄った。

 

「救急要請します」

 

「頼む。新井、周囲確保!」

 

『了解!』

 

千速は男の状態を確認しながら、周囲へ目を走らせる。

 

黒いバイクは消えた。

 

だが、それ以上に気になる。

 

男の倒れ方。

 

ワンボックスの位置。

 

黒いバイクの通過タイミング。

 

これは、偶然じゃない。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「男は、バイクに接触してない」

 

玲奈は現場を見て頷く。

 

「はい。バイク通過の直前に道路へ出ています」

 

「出たんじゃない。出された」

 

千速の声は低かった。

 

玲奈はワンボックスを見る。

 

「誰かが、車の陰から押した……?」

 

「可能性がある」

 

玲奈は息を飲んだ。

 

その瞬間、捜査一課案件になったと分かった。

 

これはただの危険運転ではない。

 

人を使って白バイを止めた。

 

黒いバイクは逃げるためではなく、現場を作るために走った。

 

玲奈は、心臓が冷えるのを感じた。

 

誘導された現場。

 

千速が朝に言っていた言葉が、そのまま現実になった。

 

捜査一課が到着したのは、それから二十分後だった。

 

横溝重悟が先に車から降り、現場を一目見て顔をしかめた。

 

「派手にやりやがったな」

 

奏斗も続いて降りる。

 

千速は救急搬送された男性の位置を指しながら説明した。

 

「被害者は倉庫作業員。足を負傷して搬送。命に別状はなさそうだ」

 

奏斗は路面を見る。

 

「黒いバイクとの接触は?」

 

「なし」

 

「では、倒れた原因は」

 

千速は白いワンボックスを見る。

 

「車の陰から押された可能性がある」

 

横溝が険しい顔になる。

 

「押した奴は?」

 

「消えた。黒いバイクが通過した直後に混乱が起きた。その隙だ」

 

奏斗はワンボックスの周囲を確認した。

 

ドアは施錠されていない。

 

車内は空。

 

ナンバーはついているが、確認したところ盗難届が出ている車両だった。

 

「盗難車ですね」

 

三森が端末を確認しながら言った。

 

横溝は舌打ちする。

 

「準備してやがったか」

 

奏斗は倉庫街を見渡す。

 

「犯人は、白バイがここで止まるように誘導した」

 

千速が頷く。

 

「黒いバイクは餌だ」

 

「人を道路へ出して、追跡を止めさせた」

 

「白バイは、目の前に人が倒れたら絶対に止まる」

 

千速の声には怒りがにじんでいた。

 

「それを分かってやってる」

 

奏斗は千速を見る。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「無茶に追わなくてよかった」

 

千速は少し睨む。

 

「当たり前だ」

 

「分かっている」

 

「分かってるなら、そんな顔するな」

 

奏斗は少し黙った。

 

千速はその顔を見て、ほんの少しだけ声を落とした。

 

「私は大丈夫だ。部下も止めた」

 

「ああ」

 

その会話を、少し離れた場所で玲奈が聞いていた。

 

奏斗が千速を心配している。

 

千速がそれを乱暴に受け止めながらも、ちゃんと返している。

 

二人の間には、他人が入り込めない距離がある。

 

「朝倉さん」

 

奏斗の声がして、玲奈は我に返った。

 

「はい」

 

奏斗が近づいてくる。

 

「あなたがワンボックスに気づいたそうですね」

 

「はい」

 

「なぜ不自然だと思いましたか」

 

玲奈は背筋を伸ばす。

 

「停車位置です。道を塞ぐほどではありませんが、白バイの走行ラインを狭める位置でした。それに、運転席に人影がありませんでした」

 

「それだけですか」

 

玲奈は一瞬だけ沈黙した。

 

奏斗の目は静かだった。

 

だが、逃がさない。

 

「……倉庫の搬入口から少し離れていたのも気になりました。荷下ろしには不自然な位置でした」

 

「なるほど」

 

奏斗はメモを取る。

 

「それをすぐに千速へ伝えた」

 

「はい」

 

「良い判断でした」

 

玲奈は少しだけ目を見開いた。

 

奏斗に褒められるとは思っていなかった。

 

「ありがとうございます」

 

「ただ」

 

玲奈の身体がわずかに固まる。

 

奏斗は続けた。

 

「黒いバイクがこの道へ入る前、あなたは倉庫街に視線を向けていました」

 

玲奈の喉が詰まる。

 

「……周辺警戒です」

 

「まだ黒いバイクが左折する前でした」

 

「対象の進路から、倉庫街へ誘導される可能性があると思いました」

 

「なぜ?」

 

玲奈は奏斗を見る。

 

「小隊長が朝、言っていました」

 

「千速が?」

 

「はい。犯人はこちらが警戒していることを前提に動いている。見つけてほしい場所に出てくる可能性がある、と」

 

奏斗は少しだけ目を伏せた。

 

筋は通る。

 

千速の指示を聞いていたなら、誘導を疑うのは不自然ではない。

 

むしろ、よく考えて動いたと言える。

 

「そうですか」

 

「はい」

 

玲奈は静かに答えた。

 

奏斗はそれ以上追及しなかった。

 

「ありがとうございました」

 

玲奈は頭を下げた。

 

だが、その胸の中では、冷たい汗が流れていた。

 

その後、現場検証が進んだ。

 

被害者の倉庫作業員は、休憩のため外に出ようとしたところ、ワンボックスの陰から誰かに強く押されたと証言した。

 

相手の顔は見ていない。

 

黒い服だったことだけは覚えている。

 

黒いバイクのライダーとは別人の可能性が高い。

 

つまり、単独犯ではない。

 

横溝は険しい顔で言った。

 

「組んでやがるな」

 

奏斗は頷く。

 

「少なくとも二人。黒いバイクの運転者と、被害者を押した人物」

 

三森が資料を見ながら言う。

 

「ワンボックスは昨日夜に盗まれています。防犯カメラには、黒いフードの人物が映っていますが顔は不明です」

 

千速は腕を組んだ。

 

「黒づくめばっかりだな」

 

横溝が低く唸る。

 

「黒いバイク、黒いヘルメット、黒い服。わざと印象を統一してんのか」

 

奏斗は現場の写真を見ながら言った。

 

「あるいは、誰がどの役割をしたか分からなくするためです」

 

千速が眉を寄せる。

 

「黒い服なら全部同じに見える」

 

「はい」

 

「でも、目的が分からない」

 

千速の声には苛立ちがあった。

 

「白バイを挑発して、事故現場を作って、何がしたい」

 

奏斗はしばらく黙っていた。

 

やがて、低く言う。

 

「白バイの対応を記録しているのかもしれない」

 

「記録?」

 

「最初の事故、二度目の挑発、今回の誘導。すべて白バイの動きを見るためにも見える」

 

横溝が顔をしかめる。

 

「誰が見る」

 

奏斗は答えた。

 

「これから何かを起こす人物です」

 

会話が止まった。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「下見か」

 

「その可能性があります」

 

「じゃあ、今日は本番じゃない」

 

「ええ。まだ準備段階かもしれません」

 

横溝が舌打ちした。

 

「面倒くせぇな」

 

奏斗は現場を見渡した。

 

そして、一瞬だけ玲奈へ視線を向ける。

 

玲奈は救急隊が去った方向を見つめていた。

 

顔色が少し悪い。

 

怖がっているようにも見える。

 

罪悪感を抱いているようにも見える。

 

あるいは、ただの疲れかもしれない。

 

奏斗にはまだ分からなかった。

 

その夜。

 

千速の部屋。

 

夕食後、千速はソファに座り込み、深く息を吐いた。

 

「疲れた」

 

奏斗は湯呑みを置く。

 

「今日は無理もない」

 

「黒いバイクの相手は嫌だな」

 

「珍しいな。君が嫌だと言うのは」

 

千速は苦い顔をする。

 

「速い奴ならいい。無茶な奴でも、まだ読める。でも、こいつは人を使う」

 

奏斗は向かいに座る。

 

「白バイが止まる理由を作った」

 

「ああ」

 

千速は拳を握る。

 

「交通事故を利用する奴は嫌いだ」

 

「分かる」

 

「人が倒れたら止まる。当たり前だ。そこを使われると腹が立つ」

 

奏斗は静かに聞いていた。

 

千速は少し間を置いてから言う。

 

「朝倉は、よく見てた」

 

「ああ」

 

「ワンボックスに先に気づいた。あれがなければ、私の反応は少し遅れたかもしれない」

 

「良い判断だった」

 

「だろ」

 

千速は少しだけ誇らしそうに言った。

 

だが、すぐに表情を曇らせる。

 

「でも、お前はまだ気になってる」

 

奏斗は嘘をつかなかった。

 

「気になっている」

 

「どこが」

 

「彼女の視線の置き方。判断の早さ。そして、今日の現場に誘導される可能性をかなり早く意識していたこと」

 

「私が朝に言ったからだ」

 

「そう聞いた」

 

「じゃあ説明はつく」

 

「つく」

 

千速はじっと見る。

 

「それでも気になる」

 

「そうだ」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「厄介だな、お前の違和感は」

 

「すまない」

 

「謝るな。今のは責めてない」

 

千速は湯呑みを手に取った。

 

「私も、朝倉を信じたいだけじゃ駄目だと思ってる」

 

奏斗は千速を見る。

 

「部下だからか」

 

「ああ」

 

千速は静かに頷いた。

 

「部下だから、疑わないんじゃない。部下だから、ちゃんと見る。間違った方向に行きそうなら止める。それが小隊長だろ」

 

奏斗は少しだけ表情を緩めた。

 

「君らしい」

 

「また急に褒めるな」

 

「事実だ」

 

千速は顔を逸らす。

 

「うるさい」

 

少しだけ沈黙が落ちる。

 

それから千速は低く言った。

 

「もし朝倉が何か隠してるなら、できれば早く言ってほしい」

 

奏斗は答えなかった。

 

千速は続ける。

 

「嘘ってさ、長引くほど戻れなくなるだろ」

 

その言葉に、奏斗の胸が痛んだ。

 

自分のことだ。

 

死を偽装し、戻れなくなるところまで行った自分のこと。

 

「そうだな」

 

奏斗は静かに言った。

 

千速は彼を見た。

 

「今、お前のことも言った」

 

「分かっている」

 

「怒ってるわけじゃない」

 

「それも分かっている」

 

「ならいい」

 

千速は湯呑みを置いた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「朝倉のこと、もし危なくなったら私に言え。私が止める」

 

「分かった」

 

「今度こそ、一人でやるなよ」

 

奏斗はまっすぐ千速を見た。

 

「一人ではやらない」

 

千速はしばらく彼を見て、ようやく頷いた。

 

「よし」

 

同じ頃。

 

玲奈は自室で、今日の現場写真を見ていた。

 

正式な資料ではない。

 

自分の記憶を整理するために描いた簡単な見取り図だ。

 

黒いバイク。

白いワンボックス。

押された作業員。

千速の停止位置。

自分の停止位置。

 

全部があまりにも綺麗に配置されていた。

 

誘導された現場。

 

そして玲奈は、別のことを見抜いていた。

 

今日の現場は、組織側のテストだった。

 

白バイがどこで止まるか。

もう一人がどう判断するか。

あの男がどこまで読むか。

そして、自分がどこまで動けるか。

 

玲奈は唇を噛んだ。

 

スマートフォンが震える。

 

差出人名はない。

 

今日の動きは悪くなかった。

 

玲奈は画面を見つめた。

 

次で踏み込め。

 

何を聞く。

どう近づく。

誰を利用する。

 

答えは分かっている。

 

でも。

 

玲奈は千速から届いていた別のメッセージを開いた。

 

今日はよく見ていた。だが疲れを残すな。明日は無理するなよ。

 

短い文。

 

ただの上司から部下への言葉。

 

でも、玲奈には重かった。

 

「小隊長……」

 

玲奈はスマートフォンを握りしめた。

 

そして、差出人不明のメッセージ画面に戻る。

 

返信欄に指を置く。

 

了解。

 

いつもの二文字。

 

けれど、今日は送信するまでに時間がかかった。

 

ようやく送信した後、玲奈は椅子にもたれた。

 

目を閉じる。

 

千速の声が浮かぶ。

 

――お前は私の後ろを走れ。

――勝手に前へ出るな。

――怖いものを正しく怖がれ。

 

奏斗の声も浮かぶ。

 

――千速を利用しないでください。

――自分で自分を誤魔化すことに気をつけてください。

 

玲奈は小さく呟いた。

 

「もう、誤魔化せてないですよ」

 

自分の声が、思ったより震えていた。

 

白線のこちら側に戻るな。

 

組織の男はそう言った。

 

けれど玲奈は、今日初めて思ってしまった。

 

戻る場所が、もし本当にあるなら。

 

その時、自分はどちらへ走るのだろう。

 

答えはまだ出ない。

 

でも、迷いは確実に大きくなっていた。

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