翌日の朝、朝倉玲奈はいつもより早く第三交通機動隊に着いていた。
車庫はまだ静かだった。
白バイが整然と並び、冷えた空気の中で眠っているように見える。
玲奈は自分の担当車両の前に立ち、しばらく動かなかった。
昨日の現場が、頭から離れない。
あの現場は、偶然ではない。
誰かが作った。
そして玲奈は、その「誰か」の側にいる。
「……何やってるんだろ、私」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。
いや、届かなかったはずだった。
「朝から暗いな」
背後から声がして、玲奈は振り返った。
萩原千速が、ヘルメットを片手に立っていた。
いつも通りの鋭い目。
けれど、その声は思ったより柔らかかった。
「おはようございます、小隊長」
「おう」
千速は玲奈の隣に立ち、白バイを見た。
「昨日の現場、引きずってるか」
玲奈は一瞬、返答に迷った。
「……少し」
「嘘じゃないな」
「はい」
千速は白バイのハンドルに手を置いた。
「引きずるな、とは言わない」
玲奈が顔を上げる。
千速は前を見たまま続けた。
「現場で見たものを全部忘れる奴は、同じことを繰り返す。かといって、抱えすぎる奴は次で動けなくなる」
「はい」
「だから、整理しろ。怖かったなら怖かった。腹が立ったなら腹が立った。分からなかったなら分からなかった。まずそこを認めろ」
玲奈は静かに千速を見つめた。
この人は、どうしてこんなに真っ直ぐ言葉を置けるのだろう。
こちらが隠しているものに気づいていないのか。
それとも、気づいていても、部下として扱おうとしてくれているのか。
分からない。
分からないから、余計に苦しい。
「私は……腹が立ちました」
玲奈は、ゆっくり言った。
千速が横目で見る。
「何に」
「人を使ったことにです」
言った瞬間、胸が痛んだ。
どの口でこんなことを言うのか。
千速は玲奈の内側までは知らない。
ただ、玲奈の言葉だけを受け止めた。
「いい怒りだ」
「いい、ですか」
「人を駒みたいに扱う奴に腹が立つなら、お前はまだ現場に立てる」
玲奈は唇を噛んだ。
まだ。
その言葉が刺さった。
自分は本当に、まだ戻れるのだろうか。
千速は白バイから手を離す。
「今日は午前中、昨日の現場周辺の聞き込みに同行しろ。午後は通常巡回だ」
「はい」
「それと」
「はい」
「昨日の件で押村から追加で聞かれるかもしれない。答えられることは答えろ。分からないことは分からないと言え」
玲奈の心臓が跳ねた。
「押村警部補から、ですか」
「捜査一課の担当だからな」
千速は玲奈を見る。
「変に構えるなよ。あいつは目つきが静かだから怖く見えるが、別に食ったりしない」
玲奈は小さく笑おうとした。
うまく笑えなかった。
「はい」
千速はそれに気づいたのか、少し目を細めた。
「朝倉」
「はい」
「何かあるなら、先に言え」
玲奈は息を止めた。
言える。
今なら、言えるかもしれない。
自分が何者か。
何を命じられているか。
その全部を。
だが、口は動かなかった。
「……大丈夫です」
出てきたのは、嘘だった。
千速はしばらく玲奈を見た。
「そうか」
それだけだった。
責めない。
問い詰めない。
信じたのか、泳がせたのか、玲奈には分からなかった。
ただ、その沈黙が苦しかった。
午前中、昨日の倉庫街で聞き込みが行われた。
横溝、奏斗、三森。
そして交通部から千速と玲奈が同行した。
新井は別ルートの警戒に回されたため、現場にはいなかった。
倉庫街は、昨日の緊張が嘘のように平静を取り戻していた。
トラックが出入りし、作業員たちが荷物を運ぶ。
だが、道路脇には昨日の騒ぎの跡がまだ残っていた。
チョークの印。
タイヤ痕。
立入規制のテープが貼られていた痕。
横溝は現場を見て、低く言った。
「防犯カメラが少ねぇな」
三森が端末を見ながら答える。
「倉庫入口に二台、道路側に一台。ただし、ワンボックスの停車位置は死角です」
「最初から死角を選んだか」
奏斗はワンボックスが停まっていた位置を見つめていた。
「その可能性が高いです」
千速が腕を組む。
「黒いバイクも、その死角の前で速度を落としてる。白バイが止まるタイミングを合わせた」
横溝が舌打ちする。
「二人以上、連携あり。単なる逆恨みじゃねぇな」
玲奈は少し離れて、周囲を見ていた。
奏斗の視線が、その様子を捉える。
「朝倉さん」
「はい」
玲奈はすぐに姿勢を正した。
「昨日、ワンボックスに気づいた時、他に何か見えましたか」
「他に、ですか」
「人影、車両、音。些細なことで構いません」
玲奈は昨日の光景を思い出す。
黒いバイクの排気音。
千速の無線。
新井の声。
ワンボックス。
道路へ倒れた男。
そして、もうひとつ。
「……金属音がしました」
奏斗の目が動く。
「金属音?」
「はい。ワンボックスの陰から男性が倒れる少し前です。車のドアを閉める音とは違って、何か軽い金属が当たったような音でした」
横溝が聞く。
「何で昨日言わなかった」
玲奈は少し顔を伏せた。
「すみません。現場では、救護と周囲警戒に意識が向いていて……今思い出しました」
千速が横から言った。
「責めてるんじゃない。今思い出したなら、それでいい」
玲奈は小さく頷く。
「はい」
奏斗は周囲を見渡した。
「金属音が出るもの……」
三森が言う。
「工具、倉庫のシャッター、フェンス、作業用台車などでしょうか」
奏斗はワンボックスが停まっていた付近へ歩く。
そこには、古い排水溝の蓋があった。
金属製。
車が乗れば音がする。
だが、昨日ワンボックスはその上には乗っていない。
奏斗はしゃがみ込んで蓋を見る。
「これではないかもしれません」
千速が近づく。
「何か引っかかるのか」
「音がしたタイミングです」
「男が押される前」
「はい。もし犯人が逃げる時に金属音を立てたなら、倒れた後のはずです」
横溝が眉を寄せる。
「押す前に音がしたってことは、何か準備してた?」
奏斗は頷く。
「あるいは、合図です」
玲奈の胸が、また少し冷えた。
合図。
奏斗はそこまで見る。
千速もすぐに反応する。
「黒いバイクと、押した奴のタイミング合わせか」
「可能性があります」
横溝は周囲を見回す。
「金属音で合図なんてアナログだな」
奏斗は静かに言った。
「無線やスマホを使えば記録が残る。音なら残りにくい」
千速が目を細める。
「それを聞いた朝倉は、よく覚えてたな」
玲奈は顔を上げる。
「音に違和感がありました。でも、確信がなくて」
奏斗は玲奈を見た。
「確信がないことでも、言ってください」
「はい」
「現場では、確信のない違和感が後で重要になることがあります」
その言葉に、玲奈は胸を突かれた。
違和感。
奏斗は、自分にも違和感を持っている。
確信がなくても、記録している。
そして今も、おそらく。
「分かりました」
玲奈は答えた。
声が少し乾いていた。
千速が横から見ている。
その視線に気づき、玲奈は慌てて表情を整えた。
聞き込みは昼過ぎまで続いた。
被害者を押した人物について、新しい証言がひとつ出た。
倉庫の作業員が、事件直前に黒いキャップを被った人物がワンボックスの近くに立っていたのを見ていた。
性別は不明。
身長は百七十センチ前後。
細身。
黒っぽい服。
それだけだった。
横溝は証言メモを見て、苛立ったように頭をかいた。
「また黒か」
三森が困ったように言う。
「印象を統一しているのは間違いなさそうですね」
奏斗は頷く。
「黒いバイク、黒いヘルメット、黒い服。目撃者の記憶をぼかすためでしょう」
千速は低く言う。
「ふざけてるな」
「ええ」
奏斗は短く返した。
その時、玲奈のスマートフォンが震えた。
一瞬だけ、手が止まる。
画面は見ていない。
だが、玲奈には分かっていた。
今見るべきではない。
ここで見れば、気づかれる。
玲奈はスマホをそのままにした。
奏斗の視線が、ほんの一瞬だけ玲奈のポケットへ向いた。
玲奈は気づいた。
気づかれている。
横溝が現場の資料をまとめながら言う。
「一旦戻るぞ。映像と証言を洗い直す」
千速は頷いた。
「交通部も午後の巡回に戻る。だが、この辺りは重点的に見る」
奏斗は千速を見る。
「無理に黒いバイクを追わないでくれ」
千速は少し眉を上げる。
「またそれか」
「まただ」
「分かってる」
「ならいい」
横溝が二人を見て、呆れたように言う。
「現場で夫婦漫才すんな」
千速が即座に睨む。
「重悟」
「何だ」
「殴るぞ」
「やれるもんならやってみろ」
三森が慌てて間に入る。
「あの、現場なので……」
玲奈はそのやり取りを見て、少しだけ笑ってしまった。
千速がそれに気づく。
「朝倉、笑うな」
「すみません」
だが、千速の声はそこまで厳しくなかった。
その空気の中で、玲奈は一瞬だけ忘れそうになった。
自分が何のためにここにいるのか。
何をしなければならないのか。
しかし、ポケットの中のスマホが、もう一度震えた。
玲奈の笑みが消えた。
午後の巡回後、玲奈は千速に頼まれて、捜査一課へ追加の現場メモを届けることになった。
理由は自然だった。
朝の聞き込みで玲奈が思い出した金属音について、本人の補足メモを提出するため。
千速は玲奈に言った。
「押村か三森に渡せばいい」
「はい」
「余計な話はするなよ」
玲奈は思わず顔を上げる。
千速はいつも通りの顔で続けた。
「お前、緊張すると話が丁寧になりすぎる。逆に怪しい」
玲奈は少し笑った。
「気をつけます」
「それと」
「はい」
「何か聞かれて、分からないことは分からないと言え。推測で埋めるな」
「はい」
千速は玲奈をじっと見た。
「朝倉」
「はい」
「無理するなよ」
玲奈の胸が苦しくなる。
「……はい」
その返事は、自分でも弱いと思った。
千速は何か言いたげだったが、結局それ以上は言わなかった。
「行ってこい」
「はい」
捜査一課へ向かう廊下で、玲奈はスマートフォンを確認した。
未読のメッセージが二件。
どちらも差出人名はない。
今日、必ず接触しろ。
玲奈は画面を消した。
指先が冷えている。
「……分かってる」
小さく呟く。
捜査一課の扉の前で、玲奈は深く息を吸った。
そして扉を開ける。
「失礼します」
中には、三森と数名の刑事がいた。
横溝の姿はない。
奏斗は自席で資料を読んでいた。
三森が気づいて近づく。
「朝倉さん、お疲れさまです」
「お疲れさまです。萩原小隊長から、補足メモを届けるように言われました」
「ありがとうございます」
三森が受け取ろうとした時、奏斗が顔を上げた。
「朝倉さん」
「はい」
「その件、少し確認してもいいですか」
来た。
玲奈は背筋を伸ばした。
「はい」
三森が気を利かせるように言った。
「では、会議スペースを使ってください」
玲奈は小さく頭を下げた。
奏斗は資料を持ち、会議スペースへ向かった。
二人きりではない。
捜査一課の中にある、仕切りのあるスペース。
周囲の声は聞こえる。
だが、少しだけ距離がある。
奏斗は向かいに座り、補足メモを開いた。
「金属音について、もう一度教えてください」
玲奈は答えた。
「黒いバイクがワンボックスの前を通過する直前です。高い音ではなく、軽い金属が当たるような音でした」
「方向は」
「ワンボックスの左側、倉庫のフェンス寄りです」
「音は一回だけ?」
「はい。一回です」
奏斗はメモを取る。
「ありがとうございます」
玲奈は少しだけ迷ってから言った。
「押村警部補」
「はい」
「昨日の現場は、やはり下見だと思われますか」
奏斗の手が止まる。
「なぜそれを?」
「小隊長とお話しされているのを聞いていました。白バイの対応を記録しているのでは、と」
「ええ。その可能性はあります」
「だとしたら、次は何を狙うのでしょうか」
「まだ分かりません」
玲奈は奏斗を見る。
「押村警部補でも、分からないことがあるんですね」
奏斗は少しだけ眉を上げた。
「当然あります」
「すみません。変な意味ではなくて、小隊長も横溝警部も、押村警部補の違和感は当たるとおっしゃるので」
「外れることもあります」
「そうでしょうか」
玲奈は少しだけ微笑んだ。
「小隊長は、そうは思っていないようでした」
奏斗は静かに彼女を見た。
千速の話題。
玲奈は、やはりそこから入ってくる。
奏斗はそのことを理解した上で、あえて答えた。
「千速は、俺を過大評価することがあります」
玲奈は首を横に振る。
「過大評価ではないと思います」
「なぜ」
「信頼しているからです」
奏斗は黙った。
玲奈は続ける。
「小隊長は、誰かを簡単に信じる方ではないと思います。でも、一度信じた人のことは、ちゃんと見続ける方です」
その言葉は、また本心だった。
玲奈は自分でも気づいていた。
任務のために話しているのに、千速の話になると、嘘ではない言葉が出てしまう。
奏斗は静かに言った。
「よく見ていますね」
「小隊長を、ですか」
「ええ」
玲奈は目を伏せた。
「見ていたいと思ってしまうんです」
言ってから、玲奈は失敗したと思った。
思ってしまう。
その言い方は、あまりにも本音に近かった。
奏斗の目が少し鋭くなる。
「思ってしまう?」
玲奈はすぐに言い換える。
「いえ、尊敬しているので。少しでも近づきたいという意味です」
「そうですか」
奏斗はそれ以上追及しない。
だが、記録された。
玲奈には分かった。
この人は、言葉の綻びを逃さない。
なら、もう少し踏み込むしかない。
玲奈は息を吸った。
「押村警部補」
「はい」
「小隊長は、押村警部補が公安にいた時のことを、今でも心配されています」
空気が変わった。
奏斗の表情は動かない。
だが、目の奥が冷えた。
「千速が、そう言いましたか」
「直接ではありません。ただ、そう感じました」
「感じた」
「はい」
「それで、あなたは何を聞きたいんですか」
玲奈は言葉を失いかけた。
奏斗は静かに続ける。
「公安のことですか。黒瀬事件のことですか。それとも、俺が何を知っているかですか」
玲奈は必死に表情を保つ。
「……私は、ただ小隊長が心配で」
「千速を理由にしないでください」
声は荒くなかった。
だが、はっきりしていた。
「前にも言いました。千速を利用しないでください」
玲奈は唇を結んだ。
「利用なんて」
「していないと言い切れますか」
その問いに、玲奈は答えられなかった。
沈黙。
捜査一課の外の電話音だけが、遠く聞こえる。
奏斗は玲奈を見ていた。
責めるでもなく、追い詰めるでもなく。
ただ、逃げ道を塞ぐように。
玲奈は小さく息を吐いた。
「押村警部補は、怖い方ですね」
「よく言われます」
「小隊長は、面倒な方だと言っていました」
「それもよく言われます」
玲奈は少し笑った。
今度の笑みは、弱かった。
「私は……小隊長を利用したくはありません」
奏斗は黙って聞いている。
玲奈は続ける。
「でも、そう見えるなら、私の距離の取り方が間違っているんだと思います」
「距離の取り方」
「はい」
「誰との?」
玲奈は言葉を止めた。
「……小隊長との、です」
玲奈はそう答えた。
奏斗はそれを見ていた。
嘘ではない。
だが、全部でもない。
そういう答えだった。
「朝倉さん」
「はい」
「あなたが何を抱えているかは分かりません」
玲奈の指が震えそうになる。
奏斗は静かに続けた。
「ただ、千速は部下を見捨てる人ではありません。あなたが本当に困っているなら、話してください」
「押村警部補に、ですか」
「千速にです」
玲奈は顔を上げた。
奏斗の声は、わずかに柔らかくなっていた。
「俺ではなく、千速に」
それは警告ではなかった。
救いのようにも聞こえた。
玲奈は喉の奥が詰まるのを感じた。
言えるはずがない。
でも、言いたいと思ってしまった。
その時、三森が会議スペースの外から声をかけた。
「押村警部補、横溝警部から電話です」
奏斗は視線を外す。
「分かりました」
そして玲奈へ向き直った。
「今日はここまでで大丈夫です。補足メモ、助かりました」
玲奈はゆっくり頭を下げた。
「失礼します」
立ち上がった時、足元が少し不安定だった。
それでも、玲奈は姿勢を崩さず、捜査一課を出た。
廊下に出ると、玲奈は壁に手をついた。
息が浅い。
玲奈はスマートフォンを取り出す。
メッセージが届いていた。
玲奈はしばらく画面を見つめた。
玲奈は目を閉じた。
まただ。
何度も、何度も。
玲奈は返信欄に指を置いた。
だが、打てなかった。
代わりに、千速とのトーク画面を開いた。
そこには、昨日のメッセージが残っている。
今日は無理するなよ。
玲奈はその文字を見つめた。
そして、自分でも気づかないうちに、千速へメッセージを打っていた。
小隊長、今日少しお時間をいただけますか。
送信してから、玲奈は息を呑んだ。
何をしているのか。
何を言うつもりなのか。
自分でも分からない。
すぐに既読がついた。
返信。
勤務後ならいい。詰所で待ってろ。
玲奈はスマートフォンを握りしめた。
もうひとつのメッセージ画面には、まだ返信していない。
玲奈は、その画面を閉じた。
夕方。
第三交機の詰所には、ほとんど人が残っていなかった。
新井は別件で出ている。
他の隊員も引き上げた。
千速は机に資料を置き、玲奈へ視線を向けた。
「で、話って何だ」
玲奈は椅子に座ったまま、両手を膝の上で握っていた。
「小隊長」
「何だ」
「私……」
言葉が出ない。
千速は急かさなかった。
腕を組み、ただ待っている。
その沈黙が、逆に玲奈を追い詰めた。
「私、小隊長に憧れていると言いました」
「ああ」
「それは嘘じゃありません」
「分かってる」
玲奈は顔を上げた。
「分かるんですか」
千速は少しだけ目を細める。
「嘘だけで、あんな走りはできない。お前は白バイに乗る時、ちゃんと前を見てる」
玲奈の胸が詰まった。
「でも……」
「でも?」
玲奈は唇を噛む。
言いたい。
言えない。
言えば終わる。
言わなくても、いつか終わる。
千速は低く言った。
「朝倉」
「はい」
「今言えないことなら、無理に言わなくていい」
玲奈は目を見開いた。
千速は続ける。
「ただし、黙って誰かを傷つけるな。自分も含めてだ」
玲奈の視界が揺れた。
「……はい」
それしか言えなかった。
千速は少しだけ息を吐く。
「押村と何を話した」
玲奈は一瞬固まる。
千速はすぐに言った。
「怒ってるわけじゃない。あいつがまた直球を投げたんだろ」
玲奈は少しだけ笑いそうになった。
でも、うまく笑えなかった。
「千速を利用しないでください、と言われました」
「また言ったのか、あいつ」
千速は額に手を当てた。
「本当に言い方ってもんが……」
玲奈は小さく言う。
「でも、間違っていないと思いました」
千速の手が止まる。
「朝倉」
玲奈は顔を伏せた。
「私は、小隊長との距離を間違えているのかもしれません」
千速は少し黙った。
それから椅子を引き、玲奈の正面に座った。
「距離なんて、最初から正しく測れる奴はいない」
「でも」
「近すぎたら下がればいい。遠すぎたら近づけばいい。間違えたら直せばいい」
玲奈は千速を見る。
千速は真っ直ぐだった。
怖いほどに。
「ただし、相手を踏み台にするな。それだけだ」
玲奈は喉の奥が震えるのを感じた。
踏み台。
まさに自分がしようとしていることだった。
「……はい」
千速はそれ以上聞かなかった。
玲奈は、その優しさが苦しかった。
その夜。
玲奈が帰宅すると、部屋の前に小さな封筒が挟まっていた。
差出人はない。
玲奈は周囲を確認し、部屋に入ってから封を開けた。
中には、写真が数枚。
玲奈の自宅前。
第三交機の車庫。
千速と話す玲奈。
捜査一課の廊下を歩く玲奈。
そして最後に、千速の部屋が遠くから撮られた写真。
玲奈の血の気が引いた。
写真の裏には、短い文字。
迷うな。
玲奈は写真を握りしめた。
それが誰を意味するのか、考えるまでもなかった。
玲奈は椅子に崩れるように座った。
「やめて……」
声が震えた。
スマートフォンが鳴る。
差出人名はない。
次で失敗するな。
玲奈は画面を見つめたまま、動けなかった。
白線のこちら側に戻るな。
そう言われていた。
でも今、玲奈には分かった。
自分はもう、向こう側にも居場所がない。
ただ、白線の上に立たされている。
右へ行っても、左へ行っても、誰かを傷つける場所に。
玲奈は、千速からもらった言葉を思い出した。
――黙って誰かを傷つけるな。自分も含めてだ。
「小隊長……」
玲奈は写真を握りしめたまま、涙をこぼさなかった。
泣く資格などないと思った。
ただ、初めて本気で思った。
このままでは、千速を傷つける。
そして、それだけは。
それだけは、もう嫌だった。