翌朝、朝倉玲奈はほとんど眠れないまま出勤した。
目元には薄く疲労が残っていたが、制服を着て、髪を整え、鏡の前に立つと、表情はいつものものに戻った。
真面目な新人白バイ隊員。
千速に憧れる後輩。
余計なことを言わず、指示を聞き、報告を怠らない隊員。
鏡に映る自分は、そう見えた。
けれど、鞄の奥には昨夜届いた写真が入っている。
千速を遠くから撮った写真。
奏斗と千速が暮らす部屋の近くを撮った写真。
そして、裏に書かれた短い脅し。
拒めば、標的を変える。
玲奈はその文字を思い出し、唇を強く結んだ。
「……大丈夫」
自分に言い聞かせるように呟く。
何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。
千速を傷つけたくない。
組織の命令を無視すれば、千速か奏斗が狙われる。
進む道がない。
止まる場所もない。
白線の上に立ったまま、前にも後ろにも動けない。
玲奈は深く息を吸い、第三交通機動隊の車庫へ入った。
そこには、すでに千速がいた。
白バイの前で腕を組み、タイヤを見ている。
「おはようございます、小隊長」
玲奈が声をかけると、千速は振り返った。
「おう」
短い返事。
いつも通りだった。
しかし次の瞬間、千速の目が少し細くなる。
「朝倉」
「はい」
「寝てないな」
玲奈の背筋がわずかに強張る。
「いえ、大丈夫です」
「大丈夫かどうかは聞いてない。寝てないなと言った」
玲奈は言葉に詰まった。
千速は一歩近づく。
「昨日の話、引きずってるのか」
「……少し」
「少しじゃない顔だ」
「すみません」
「謝るな」
千速はいつものように言った。
その言い方が、逆に玲奈の胸を締めつける。
「今日は無理するな。走りに出る」
「でも、勤務は」
「勤務はする。ただし、限界を誤魔化すな」
玲奈は顔を上げた。
「小隊長」
「何だ」
「私が、もし……」
そこまで言って、言葉が止まった。
言え。
今言え。
昨夜の写真のことを。
脅されていることを。
でも、言った瞬間、組織は動くかもしれない。
千速が危険になるかもしれない。
奏斗が狙われるかもしれない。
玲奈は唇を噛み、言葉を飲み込んだ。
「……いえ。何でもありません」
千速はしばらく玲奈を見ていた。
「そうか」
その声は静かだった。
信じたわけではない。
玲奈にも分かった。
それでも、千速は無理に聞き出さなかった。
「朝倉」
「はい」
「言える時に言え。今じゃなくてもいい」
玲奈の目が揺れた。
「……はい」
「ただし、手遅れになる前にな」
その言葉は、重かった。
玲奈は答えられず、ただ頭を下げた。
その日の午前、第三交通機動隊と捜査一課は合同で配置についた。
黒いバイクは、前回までの三件で明らかに警察の動きを試している。
次に現れるなら、より大きな動きになる。
そう見た奏斗と横溝は、逃走経路の予測を複数作り、交通部と共有した。
千速は詰所のホワイトボードに地図を貼り、隊員たちへ説明する。
「今日、黒いバイクが出た場合、追跡より包囲を優先する」
新井が手を上げた。
「包囲ですか」
「そうだ。相手は追わせたい。なら、追わない」
千速は地図の赤線を指した。
「主要幹線、倉庫街、住宅街。この三つは前回までに使われた。次に使うなら、こっちが読みやすいルートをあえて選ぶ可能性がある」
玲奈は地図を見つめる。
その中に、ひとつ気になる地点があった。
県警の輸送車が通る予定のルート。
今日は押収物の移送がある。
表向きには目立たないが、関係者なら知っている予定だった。
玲奈はそれを知っている。
組織から昨夜送られた写真と一緒に、短い指示があった。
明日、移送車両が狙われる。押村に近づく機会を作れ。
移送車両。
黒いバイク。
白バイ包囲。
全部が、ひとつの場所へ向かっている。
玲奈は胸の奥が冷たくなった。
千速が続ける。
「新井は北側。朝倉は私と南側へ入る」
玲奈は顔を上げる。
「はい」
「朝倉」
「はい」
「今日は前に出るな。私の指示があるまで、絶対に単独判断で進路を変えるな」
玲奈の心臓が跳ねる。
千速は気づいているのか。
それとも、昨日の疲れを考えての指示か。
分からない。
「承知しました」
「返事はいい。守れ」
「はい」
千速の目は鋭かった。
玲奈はその視線から逃げなかった。
逃げたら、全部終わる気がした。
同じ頃、捜査一課では奏斗が移送ルートの資料を確認していた。
横溝が後ろから覗き込む。
「押村」
「はい」
「顔が暗ぇ」
「元からです」
「そういう返しをする元気はあるんだな」
奏斗は資料から目を離さなかった。
「今日、黒いバイクは来ると思います」
横溝の表情が変わる。
「理由は」
「前回までで、犯人は白バイの反応を確認しました。次は、その結果を使うはずです」
「今日の移送を狙うってか」
「可能性があります」
三森が横から言う。
「でも、移送ルートは限られた関係者しか知りません」
奏斗は頷いた。
「だから、内側に情報源がいるか、あるいは警察の動きそのものを読んでいる」
横溝が低く言う。
「朝倉か」
奏斗はすぐには答えなかった。
「まだ断定できません」
「お前がそう言う時は、かなり疑ってる時だ」
「疑っています」
横溝が少し驚いたように奏斗を見る。
奏斗は続けた。
「ただ、彼女が主犯だとは思っていません」
「なぜだ」
「昨日の会話で、迷いが見えました」
三森が不安そうに言う。
「迷い、ですか」
「はい。千速を利用することに抵抗しているように見えた」
横溝は腕を組む。
「つまり、誰かに動かされてる?」
「可能性があります」
「また可能性か」
「でも、今回は高い」
横溝はしばらく黙った後、短く言った。
「千速には」
「共有しています。ただし、朝倉さんを追い詰めないようにと」
「当然だな。追い詰めりゃ、背後が逃げる」
奏斗は静かに頷く。
「それに、千速は彼女を助けたいと思っています」
横溝は少しだけ表情を緩めた。
「千速らしいな」
「ええ」
「お前はどうなんだ」
奏斗は一瞬、答えに詰まった。
横溝は逃がさない。
「朝倉を疑うだけか。それとも助けたいのか」
奏斗はゆっくり息を吐いた。
「千速が助けたいと思うなら、俺もその方向で動きます」
横溝は鼻を鳴らした。
「自分の意思はどこだ」
奏斗は少し目を伏せた。
「……俺も、彼女は戻れるなら戻した方がいいと思っています」
「最初からそう言え」
「すみません」
「謝るな。千速に似てきたな」
奏斗は困ったように黙った。
横溝は地図を叩く。
「じゃあ今日は、黒いバイクを止める。朝倉を見失わない。背後を逃がさない。三つだ」
「はい」
「押村」
「はい」
「今度は一人で突っ込むなよ」
奏斗は横溝を見た。
「分かっています」
「硬ぇな」
「……分かった」
「よし」
午後一時過ぎ。
移送車両が県警本部を出た。
目立たない白いワゴン。
前後には覆面車両がつく。
第三交機は周辺道路に散り、直接護衛ではなく通常の交通警戒を装った。
千速と玲奈は、南側の交差点付近に配置されていた。
無線は静かだった。
車の流れも普段と変わらない。
それが逆に不気味だった。
玲奈は白バイに跨ったまま、周囲を見ていた。
右のビル。
左の路地。
前方の信号。
後方の配送トラック。
どこから来る。
黒いバイクは。
組織は何をさせるつもりなのか。
その時、スマートフォンが震えた。
勤務中は私物のスマホを見るべきではない。
だが、震え方で分かった。
組織からだ。
玲奈の手が一瞬だけ動く。
千速の声が無線で飛んだ。
「朝倉」
玲奈はびくりとした。
「はい」
「前を見ろ」
「……はい」
千速は近くにいない。
少し離れた位置にいる。
それでも見られていた。
玲奈は唇を噛み、スマホを見なかった。
直後。
北側から新井の声が入った。
『黒い大型二輪、確認! 対象、移送ルート方向へ進行中!』
千速の声が鋭くなる。
「全車、配置維持。追うな。進行方向だけ報告」
新井が続ける。
『対象、速度上昇! 覆面車両の後方へ接近!』
捜査一課の無線に、横溝の声が入る。
『押村、来たぞ』
奏斗の声は落ち着いていた。
『移送車両は予定通り進行。第二ルートへの変更準備』
黒いバイクは、まるで最初からその車両を知っていたかのように近づいてきた。
玲奈の呼吸が浅くなる。
やはり狙いは移送車両だ。
だが、それだけではない。
組織の本当の目的は、おそらく混乱を作ること。
その中で、自分に何かをさせる。
玲奈のスマホがまた震えた。
今度は短く二回。
合図。
玲奈は背筋が冷えた。
見てはいない。
だが、内容は想像できた。
動け。
黒いバイクが交差点へ近づく。
移送車両はその先。
千速が無線で言う。
「朝倉、動くな。私の後ろにつけ」
玲奈は答えた。
「了解」
その声は震えていなかった。
しかし胸の中では、別の声が響いていた。
動け。
玲奈はハンドルを握りしめた。
動けば、千速を裏切る。
動かなければ、千速が狙われるかもしれない。
一瞬の迷い。
その間に、黒いバイクが急加速した。
移送車両の横をすり抜けようとする。
千速が即座に動く。
「新井、北側を塞げ! 朝倉、南側の逃げ道を見るだけでいい、前に出るな!」
「はい!」
玲奈は南側の逃げ道へ視線を向ける。
そこに、黒い軽ワゴンが一台停まっていた。
不自然な位置。
前回の白いワンボックスと同じ。
まただ。
玲奈は叫んだ。
「小隊長、南側に黒い軽ワゴン! 配置が不自然です!」
千速はすぐに反応した。
「確認した! 全車、南側進入注意!」
横溝の声が飛ぶ。
『三森、軽ワゴン照会!』
『はい!』
黒いバイクは移送車両を抜くと見せかけ、急に進路を変えた。
南側へ逃げる。
軽ワゴンの前を通る。
前回と同じなら、ここで何かが起きる。
人が出るか。
車が動くか。
爆発物か。
千速は追わない。
速度を落とす。
「朝倉、止まれ!」
玲奈はブレーキを握った。
その瞬間、軽ワゴンの後部ドアが開いた。
中から、黒いバッグが道路へ投げ出される。
「不審物!」
玲奈が叫ぶ。
千速が即座に無線を飛ばす。
「全車停止! 不審物あり! 周辺車両を離せ!」
黒いバイクはその隙に逃げる。
新井が悔しそうに叫ぶ。
『対象、逃走! 追いますか!』
千速が怒鳴る。
「追うな! 爆発物の可能性がある!」
その判断は正しかった。
黒いバッグから白い煙が上がり始める。
爆発はしなかった。
だが、周囲は一気に混乱した。
車が止まり、歩行者が逃げる。
移送車両は予定より早く第二ルートへ切り替えた。
奏斗と横溝の覆面車両が現場へ近づく。
奏斗は車を降りるなり、玲奈の方を見た。
玲奈は白バイを降り、周囲の避難誘導に入っていた。
「こちらへ下がってください! 道路から離れて!」
声はしっかりしている。
動きも速い。
だが、顔色は悪い。
奏斗はそれを見た。
黒いバッグ。
黒い軽ワゴン。
黒いバイク。
全て黒。
そして、玲奈のスマホが何度も震えていたことを、千速から無線で聞いていた。
点がつながりかけている。
だが、まだ証拠はない。
不審物は、爆発物ではなかった。
煙幕を発生させる簡易装置だった。
バッグの中には発煙筒とタイマー、そして安価な金属部品が入っていた。
狙いは爆破ではない。
混乱。
道路封鎖。
移送ルート変更。
そして、警察の反応確認。
横溝は現場脇で低く唸った。
「またテストか」
奏斗はバッグを見つめる。
「いえ。今回は、もう一つ目的があります」
「何だ」
「移送車両を第二ルートへ誘導したことです」
千速が近づく。
「第二ルートに何かあるってことか」
「可能性があります」
横溝が無線を取る。
「移送車両に連絡。第二ルート上で不審車両、人物に注意。必要なら第三ルートへ変更」
三森からすぐに返答が入る。
『了解です!』
玲奈は少し離れた場所でそれを聞いていた。
第二ルート。
組織の狙いは、そこか。
自分は知らされていない。
利用されたのは自分も同じ。
玲奈はスマートフォンを確認したい衝動を抑えた。
千速が近づいてくる。
「朝倉」
「はい」
「さっき、よく軽ワゴンに気づいた」
「……はい」
「だが、動きが一瞬遅れた」
玲奈は顔を伏せる。
「すみません」
「謝るな。理由を言え」
玲奈は言えなかった。
スマホが震えて、命令が来ていると思ったから。
千速を裏切るかどうか迷ったから。
そんなこと、言えるはずがない。
「判断が、遅れました」
「それは見れば分かる。なぜ遅れた」
玲奈は唇を噛む。
その時、奏斗が二人の方へ歩いてきた。
「千速」
「何だ」
「今は避難誘導を優先しよう。朝倉さんへの確認は後でいい」
千速は奏斗を見た。
奏斗の目が、ほんの少しだけ合図する。
今は追い詰めるな。
千速はそれを読み取った。
「……分かった」
玲奈は二人のやり取りを見ていた。
助けられた。
奏斗に。
疑われている相手に。
玲奈は胸の奥が苦しくなった。
「朝倉」
千速が言う。
「後で話す」
その声は冷たくなかった。
だが、逃がさない声だった。
「はい」
玲奈は答えた。
数十分後、移送車両は第三ルートへ変更され、無事に目的地へ到着した。
黒いバイクは逃走。
黒い軽ワゴンも盗難車で、運転者は現場から逃げていた。
事件そのものは未解決。
だが、最悪の事態は避けられた。
夕方、捜査一課では映像解析が進められていた。
三森がモニターを見ながら言う。
「軽ワゴンのドアが開く直前、黒いバイクがクラクションを一回鳴らしています」
横溝が言う。
「合図か」
「はい。前回の金属音と同じ役割かもしれません」
奏斗は別の映像を見ていた。
玲奈の白バイカメラ。
軽ワゴンに気づく直前、玲奈の左手がわずかに動いている。
スマホへ向かいかけたようにも見える。
しかし勤務中、実際にスマホを取り出してはいない。
映像だけでは何も言えない。
横溝が低く聞く。
「朝倉、黒か」
奏斗はしばらく黙った。
「何かを知っている可能性は高いです」
「組織の手先か」
「あるいは脅されている」
「根拠は」
「今日、彼女は黒い軽ワゴンに気づいています。組織側なら、黙って見逃すこともできた」
横溝は腕を組んだ。
「でも言った」
「はい。千速を守るためか、現場を守るためかは分かりません」
三森が不安そうに言う。
「朝倉さん、助けを求めているんでしょうか」
奏斗は映像の中の玲奈を見た。
迷い。
恐怖。
罪悪感。
それらが、一瞬の動きに出ている。
「その可能性があります」
横溝は深く息を吐いた。
「なら、次が勝負だな」
「はい」
「朝倉を泳がせるか」
奏斗は首を横に振った。
「泳がせるだけでは危険です。千速を狙われる可能性があります」
「じゃあどうする」
奏斗は静かに言った。
「千速に任せます」
横溝が少し意外そうに見る。
「お前がそう言うとはな」
「朝倉さんが話すなら、俺ではなく千速にだと思います」
横溝は小さく笑った。
「少しは分かってきたじゃねぇか」
奏斗は何も言わなかった。
ただ、画面の中の玲奈を見つめていた。
その夜、第三交機の詰所には千速と玲奈だけが残っていた。
新井たちは先に帰された。
千速は机に腰をかけ、腕を組んでいた。
玲奈はその前に立っている。
空気は重い。
だが、千速は怒鳴らなかった。
「朝倉」
「はい」
「今日、何があった」
玲奈は唇を噛んだ。
「判断が遅れました」
「それは聞いた」
「すみません」
「謝るな」
千速の声が少し強くなる。
玲奈は肩を震わせた。
千速は一度息を吐き、声を抑えた。
「お前が軽ワゴンに気づいたのは事実だ。あれで助かった」
「……はい」
「だが、その前に一瞬止まった。何かを迷った」
玲奈は黙る。
千速は続けた。
「朝倉。お前、何に脅えてる」
玲奈の目が揺れた。
核心だった。
千速は静かに言う。
「黒いバイクか。犯人か。それとも、別の何かか」
玲奈は答えられない。
言わなければ、もっと危険になる。
分かっている。
分かっているのに。
「小隊長……」
声が震えた。
千速は机から降り、玲奈の前に立った。
「私は、お前を責めたいんじゃない」
玲奈は顔を上げる。
千速の目は鋭い。
でも、そこにあるのは怒りだけではなかった。
「お前が何か隠してるのは分かる」
玲奈の喉が詰まる。
「……」
「押村も気づいてる。重悟もたぶん気づいてる」
玲奈は目を閉じた。
もう、隠せていない。
「でもな、朝倉」
千速の声が少しだけ柔らかくなる。
「お前が今日、軽ワゴンを見逃さなかったのも私は見てる」
玲奈の目から、涙が落ちそうになった。
必死でこらえた。
千速は言った。
「お前はまだ、こっち側を見てる」
その言葉で、玲奈の中の何かが崩れた。
白線のこちら側。
向こう側。
ずっと、その間で立ち尽くしていた。
千速はそれを、まるで見透かしたように言った。
「小隊長……」
「言えることだけでいい。今すぐ全部じゃなくていい」
千速は真っ直ぐ玲奈を見る。
「でも、これ以上一人で抱えるな。事故るぞ」
玲奈は両手を握りしめた。
鞄の中には写真がある。
脅しの写真。
それを出せば、もう戻れない。
でも。
戻れないのは、黙っていても同じだ。
玲奈は震える手で鞄を開けた。
封筒を取り出す。
千速の表情が変わる。
玲奈はそれを差し出した。
「昨日、部屋の前にありました」
千速は黙って受け取り、中を見た。
写真。
千速。
奏斗。
二人の暮らす部屋。
そして裏の文字。
拒めば、標的を変える。
千速の目が、静かに怒りを帯びた。
「……誰からだ」
玲奈は震える声で答えた。
「分かりません」
嘘だった。
半分だけ。
誰かは分かっている。
でも、名前は知らない。
組織の中の誰なのかも知らない。
「ただ……」
玲奈は顔を上げた。
もう逃げられない。
逃げたくもなかった。
「私は、押村警部補に近づけと言われています」
千速は動かなかった。
「公安の情報を聞き出せと」
詰所の空気が止まる。
玲奈は続けた。
「小隊長を使えと、何度も言われました」
千速の拳がわずかに握られる。
玲奈は深く頭を下げた。
「申し訳ありません」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて、千速が低く言った。
「顔を上げろ」
玲奈は上げられなかった。
「朝倉」
「……はい」
「顔を上げろ」
玲奈はゆっくり顔を上げた。
千速は怒っていた。
当然だ。
しかし、その怒りは玲奈だけに向いているものではなかった。
「お前、いつからだ」
「配属前からです」
「黒いバイクの件も知っていたのか」
玲奈は首を横に振った。
「全部は知りません。ただ、私が利用されていることは分かっていました。今日の移送車両の件も、昨夜……」
言葉が詰まる。
「でも、私は……」
「言い訳はいらない」
千速の声が鋭くなった。
玲奈は震えた。
千速は続ける。
「事実だけ言え。後悔も謝罪も後だ」
玲奈は涙をこらえながら頷いた。
「はい」
「相手は誰だ」
「名前は分かりません。連絡は差出人不明のメッセージです。直接会ったのは、黒い車の男だけです。顔は見えませんでした」
「黒い組織か」
玲奈は息を呑んだ。
千速がその名前を出したことに驚いた。
千速は低く言う。
「押村から少し聞いてる。詳しくは知らんがな」
玲奈は小さく頷いた。
「おそらく、そうです」
千速はスマホを取り出した。
玲奈が怯えたように言う。
「小隊長、連絡したら、標的が」
「黙ってろ」
千速は短く言い、奏斗へ電話をかけた。
数コールで繋がる。
『千速?』
「奏斗」
声は低かった。
「朝倉が話した」
電話の向こうで、わずかな沈黙。
『分かった。今どこだ』
「第三交機の詰所」
『すぐ行く。横溝警部にも連絡する』
「頼む」
電話を切る。
千速は玲奈を見た。
「お前を今すぐ許すとは言わない」
玲奈は唇を噛む。
「はい」
「だが、お前が今話したことは間違ってない」
玲奈の目が揺れる。
千速は続けた。
「ここから先は、勝手に一人で動くな。私の指示を聞け」
玲奈は涙をこらえながら、震える声で答えた。
「はい……」
千速は封筒を握りしめた。
その目には、白バイ隊員としての怒りと、小隊長としての決意があった。
「朝倉」
「はい」
「お前を利用した奴らを引きずり出す」
玲奈は何も言えなかった。
ただ、初めてほんの少しだけ、足元の白線がこちら側へ続いているような気がした。