神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第82話 白バイ包囲網

翌朝、朝倉玲奈はほとんど眠れないまま出勤した。

 

目元には薄く疲労が残っていたが、制服を着て、髪を整え、鏡の前に立つと、表情はいつものものに戻った。

 

真面目な新人白バイ隊員。

 

千速に憧れる後輩。

 

余計なことを言わず、指示を聞き、報告を怠らない隊員。

 

鏡に映る自分は、そう見えた。

 

けれど、鞄の奥には昨夜届いた写真が入っている。

 

千速を遠くから撮った写真。

 

奏斗と千速が暮らす部屋の近くを撮った写真。

 

そして、裏に書かれた短い脅し。

 

拒めば、標的を変える。

 

玲奈はその文字を思い出し、唇を強く結んだ。

 

「……大丈夫」

 

自分に言い聞かせるように呟く。

 

何が大丈夫なのか、自分でも分からなかった。

 

千速を傷つけたくない。

 

組織の命令を無視すれば、千速か奏斗が狙われる。

 

進む道がない。

 

止まる場所もない。

 

白線の上に立ったまま、前にも後ろにも動けない。

 

玲奈は深く息を吸い、第三交通機動隊の車庫へ入った。

 

そこには、すでに千速がいた。

 

白バイの前で腕を組み、タイヤを見ている。

 

「おはようございます、小隊長」

 

玲奈が声をかけると、千速は振り返った。

 

「おう」

 

短い返事。

 

いつも通りだった。

 

しかし次の瞬間、千速の目が少し細くなる。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「寝てないな」

 

玲奈の背筋がわずかに強張る。

 

「いえ、大丈夫です」

 

「大丈夫かどうかは聞いてない。寝てないなと言った」

 

玲奈は言葉に詰まった。

 

千速は一歩近づく。

 

「昨日の話、引きずってるのか」

 

「……少し」

 

「少しじゃない顔だ」

 

「すみません」

 

「謝るな」

 

千速はいつものように言った。

 

その言い方が、逆に玲奈の胸を締めつける。

 

「今日は無理するな。走りに出る」

 

「でも、勤務は」

 

「勤務はする。ただし、限界を誤魔化すな」

 

玲奈は顔を上げた。

 

「小隊長」

 

「何だ」

 

「私が、もし……」

 

そこまで言って、言葉が止まった。

 

言え。

 

今言え。

 

昨夜の写真のことを。

 

脅されていることを。

 

でも、言った瞬間、組織は動くかもしれない。

 

千速が危険になるかもしれない。

 

奏斗が狙われるかもしれない。

 

玲奈は唇を噛み、言葉を飲み込んだ。

 

「……いえ。何でもありません」

 

千速はしばらく玲奈を見ていた。

 

「そうか」

 

その声は静かだった。

 

信じたわけではない。

 

玲奈にも分かった。

 

それでも、千速は無理に聞き出さなかった。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「言える時に言え。今じゃなくてもいい」

 

玲奈の目が揺れた。

 

「……はい」

 

「ただし、手遅れになる前にな」

 

その言葉は、重かった。

 

玲奈は答えられず、ただ頭を下げた。

 

その日の午前、第三交通機動隊と捜査一課は合同で配置についた。

 

黒いバイクは、前回までの三件で明らかに警察の動きを試している。

 

次に現れるなら、より大きな動きになる。

 

そう見た奏斗と横溝は、逃走経路の予測を複数作り、交通部と共有した。

 

千速は詰所のホワイトボードに地図を貼り、隊員たちへ説明する。

 

「今日、黒いバイクが出た場合、追跡より包囲を優先する」

 

新井が手を上げた。

 

「包囲ですか」

 

「そうだ。相手は追わせたい。なら、追わない」

 

千速は地図の赤線を指した。

 

「主要幹線、倉庫街、住宅街。この三つは前回までに使われた。次に使うなら、こっちが読みやすいルートをあえて選ぶ可能性がある」

 

玲奈は地図を見つめる。

 

その中に、ひとつ気になる地点があった。

 

県警の輸送車が通る予定のルート。

 

今日は押収物の移送がある。

 

表向きには目立たないが、関係者なら知っている予定だった。

 

玲奈はそれを知っている。

 

組織から昨夜送られた写真と一緒に、短い指示があった。

 

明日、移送車両が狙われる。押村に近づく機会を作れ。

 

移送車両。

 

黒いバイク。

 

白バイ包囲。

 

全部が、ひとつの場所へ向かっている。

 

玲奈は胸の奥が冷たくなった。

 

千速が続ける。

 

「新井は北側。朝倉は私と南側へ入る」

 

玲奈は顔を上げる。

 

「はい」

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「今日は前に出るな。私の指示があるまで、絶対に単独判断で進路を変えるな」

 

玲奈の心臓が跳ねる。

 

千速は気づいているのか。

 

それとも、昨日の疲れを考えての指示か。

 

分からない。

 

「承知しました」

 

「返事はいい。守れ」

 

「はい」

 

千速の目は鋭かった。

 

玲奈はその視線から逃げなかった。

 

逃げたら、全部終わる気がした。

 

同じ頃、捜査一課では奏斗が移送ルートの資料を確認していた。

 

横溝が後ろから覗き込む。

 

「押村」

 

「はい」

 

「顔が暗ぇ」

 

「元からです」

 

「そういう返しをする元気はあるんだな」

 

奏斗は資料から目を離さなかった。

 

「今日、黒いバイクは来ると思います」

 

横溝の表情が変わる。

 

「理由は」

 

「前回までで、犯人は白バイの反応を確認しました。次は、その結果を使うはずです」

 

「今日の移送を狙うってか」

 

「可能性があります」

 

三森が横から言う。

 

「でも、移送ルートは限られた関係者しか知りません」

 

奏斗は頷いた。

 

「だから、内側に情報源がいるか、あるいは警察の動きそのものを読んでいる」

 

横溝が低く言う。

 

「朝倉か」

 

奏斗はすぐには答えなかった。

 

「まだ断定できません」

 

「お前がそう言う時は、かなり疑ってる時だ」

 

「疑っています」

 

横溝が少し驚いたように奏斗を見る。

 

奏斗は続けた。

 

「ただ、彼女が主犯だとは思っていません」

 

「なぜだ」

 

「昨日の会話で、迷いが見えました」

 

三森が不安そうに言う。

 

「迷い、ですか」

 

「はい。千速を利用することに抵抗しているように見えた」

 

横溝は腕を組む。

 

「つまり、誰かに動かされてる?」

 

「可能性があります」

 

「また可能性か」

 

「でも、今回は高い」

 

横溝はしばらく黙った後、短く言った。

 

「千速には」

 

「共有しています。ただし、朝倉さんを追い詰めないようにと」

 

「当然だな。追い詰めりゃ、背後が逃げる」

 

奏斗は静かに頷く。

 

「それに、千速は彼女を助けたいと思っています」

 

横溝は少しだけ表情を緩めた。

 

「千速らしいな」

 

「ええ」

 

「お前はどうなんだ」

 

奏斗は一瞬、答えに詰まった。

 

横溝は逃がさない。

 

「朝倉を疑うだけか。それとも助けたいのか」

 

奏斗はゆっくり息を吐いた。

 

「千速が助けたいと思うなら、俺もその方向で動きます」

 

横溝は鼻を鳴らした。

 

「自分の意思はどこだ」

 

奏斗は少し目を伏せた。

 

「……俺も、彼女は戻れるなら戻した方がいいと思っています」

 

「最初からそう言え」

 

「すみません」

 

「謝るな。千速に似てきたな」

 

奏斗は困ったように黙った。

 

横溝は地図を叩く。

 

「じゃあ今日は、黒いバイクを止める。朝倉を見失わない。背後を逃がさない。三つだ」

 

「はい」

 

「押村」

 

「はい」

 

「今度は一人で突っ込むなよ」

 

奏斗は横溝を見た。

 

「分かっています」

 

「硬ぇな」

 

「……分かった」

 

「よし」

 

午後一時過ぎ。

 

移送車両が県警本部を出た。

 

目立たない白いワゴン。

 

前後には覆面車両がつく。

 

第三交機は周辺道路に散り、直接護衛ではなく通常の交通警戒を装った。

 

千速と玲奈は、南側の交差点付近に配置されていた。

 

無線は静かだった。

 

車の流れも普段と変わらない。

 

それが逆に不気味だった。

 

玲奈は白バイに跨ったまま、周囲を見ていた。

 

右のビル。

 

左の路地。

 

前方の信号。

 

後方の配送トラック。

 

どこから来る。

 

黒いバイクは。

 

組織は何をさせるつもりなのか。

 

その時、スマートフォンが震えた。

 

勤務中は私物のスマホを見るべきではない。

 

だが、震え方で分かった。

 

組織からだ。

 

玲奈の手が一瞬だけ動く。

 

千速の声が無線で飛んだ。

 

「朝倉」

 

玲奈はびくりとした。

 

「はい」

 

「前を見ろ」

 

「……はい」

 

千速は近くにいない。

 

少し離れた位置にいる。

 

それでも見られていた。

 

玲奈は唇を噛み、スマホを見なかった。

 

直後。

 

北側から新井の声が入った。

 

『黒い大型二輪、確認! 対象、移送ルート方向へ進行中!』

 

千速の声が鋭くなる。

 

「全車、配置維持。追うな。進行方向だけ報告」

 

新井が続ける。

 

『対象、速度上昇! 覆面車両の後方へ接近!』

 

捜査一課の無線に、横溝の声が入る。

 

『押村、来たぞ』

 

奏斗の声は落ち着いていた。

 

『移送車両は予定通り進行。第二ルートへの変更準備』

 

黒いバイクは、まるで最初からその車両を知っていたかのように近づいてきた。

 

玲奈の呼吸が浅くなる。

 

やはり狙いは移送車両だ。

 

だが、それだけではない。

 

組織の本当の目的は、おそらく混乱を作ること。

 

その中で、自分に何かをさせる。

 

玲奈のスマホがまた震えた。

 

今度は短く二回。

 

合図。

 

玲奈は背筋が冷えた。

 

見てはいない。

 

だが、内容は想像できた。

 

動け。

 

黒いバイクが交差点へ近づく。

 

移送車両はその先。

 

千速が無線で言う。

 

「朝倉、動くな。私の後ろにつけ」

 

玲奈は答えた。

 

「了解」

 

その声は震えていなかった。

 

しかし胸の中では、別の声が響いていた。

 

動け。

 

玲奈はハンドルを握りしめた。

 

動けば、千速を裏切る。

 

動かなければ、千速が狙われるかもしれない。

 

一瞬の迷い。

 

その間に、黒いバイクが急加速した。

 

移送車両の横をすり抜けようとする。

 

千速が即座に動く。

 

「新井、北側を塞げ! 朝倉、南側の逃げ道を見るだけでいい、前に出るな!」

 

「はい!」

 

玲奈は南側の逃げ道へ視線を向ける。

 

そこに、黒い軽ワゴンが一台停まっていた。

 

不自然な位置。

 

前回の白いワンボックスと同じ。

 

まただ。

 

玲奈は叫んだ。

 

「小隊長、南側に黒い軽ワゴン! 配置が不自然です!」

 

千速はすぐに反応した。

 

「確認した! 全車、南側進入注意!」

 

横溝の声が飛ぶ。

 

『三森、軽ワゴン照会!』

 

『はい!』

 

黒いバイクは移送車両を抜くと見せかけ、急に進路を変えた。

 

南側へ逃げる。

 

軽ワゴンの前を通る。

 

前回と同じなら、ここで何かが起きる。

 

人が出るか。

 

車が動くか。

 

爆発物か。

 

千速は追わない。

 

速度を落とす。

 

「朝倉、止まれ!」

 

玲奈はブレーキを握った。

 

その瞬間、軽ワゴンの後部ドアが開いた。

 

中から、黒いバッグが道路へ投げ出される。

 

「不審物!」

 

玲奈が叫ぶ。

 

千速が即座に無線を飛ばす。

 

「全車停止! 不審物あり! 周辺車両を離せ!」

 

黒いバイクはその隙に逃げる。

 

新井が悔しそうに叫ぶ。

 

『対象、逃走! 追いますか!』

 

千速が怒鳴る。

 

「追うな! 爆発物の可能性がある!」

 

その判断は正しかった。

 

黒いバッグから白い煙が上がり始める。

 

爆発はしなかった。

 

だが、周囲は一気に混乱した。

 

車が止まり、歩行者が逃げる。

 

移送車両は予定より早く第二ルートへ切り替えた。

 

奏斗と横溝の覆面車両が現場へ近づく。

 

奏斗は車を降りるなり、玲奈の方を見た。

 

玲奈は白バイを降り、周囲の避難誘導に入っていた。

 

「こちらへ下がってください! 道路から離れて!」

 

声はしっかりしている。

 

動きも速い。

 

だが、顔色は悪い。

 

奏斗はそれを見た。

 

黒いバッグ。

 

黒い軽ワゴン。

 

黒いバイク。

 

全て黒。

 

そして、玲奈のスマホが何度も震えていたことを、千速から無線で聞いていた。

 

点がつながりかけている。

 

だが、まだ証拠はない。

 

不審物は、爆発物ではなかった。

 

煙幕を発生させる簡易装置だった。

 

バッグの中には発煙筒とタイマー、そして安価な金属部品が入っていた。

 

狙いは爆破ではない。

 

混乱。

 

道路封鎖。

 

移送ルート変更。

 

そして、警察の反応確認。

 

横溝は現場脇で低く唸った。

 

「またテストか」

 

奏斗はバッグを見つめる。

 

「いえ。今回は、もう一つ目的があります」

 

「何だ」

 

「移送車両を第二ルートへ誘導したことです」

 

千速が近づく。

 

「第二ルートに何かあるってことか」

 

「可能性があります」

 

横溝が無線を取る。

 

「移送車両に連絡。第二ルート上で不審車両、人物に注意。必要なら第三ルートへ変更」

 

三森からすぐに返答が入る。

 

『了解です!』

 

玲奈は少し離れた場所でそれを聞いていた。

 

第二ルート。

 

組織の狙いは、そこか。

 

自分は知らされていない。

 

利用されたのは自分も同じ。

 

玲奈はスマートフォンを確認したい衝動を抑えた。

 

千速が近づいてくる。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「さっき、よく軽ワゴンに気づいた」

 

「……はい」

 

「だが、動きが一瞬遅れた」

 

玲奈は顔を伏せる。

 

「すみません」

 

「謝るな。理由を言え」

 

玲奈は言えなかった。

 

スマホが震えて、命令が来ていると思ったから。

 

千速を裏切るかどうか迷ったから。

 

そんなこと、言えるはずがない。

 

「判断が、遅れました」

 

「それは見れば分かる。なぜ遅れた」

 

玲奈は唇を噛む。

 

その時、奏斗が二人の方へ歩いてきた。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「今は避難誘導を優先しよう。朝倉さんへの確認は後でいい」

 

千速は奏斗を見た。

 

奏斗の目が、ほんの少しだけ合図する。

 

今は追い詰めるな。

 

千速はそれを読み取った。

 

「……分かった」

 

玲奈は二人のやり取りを見ていた。

 

助けられた。

 

奏斗に。

 

疑われている相手に。

 

玲奈は胸の奥が苦しくなった。

 

「朝倉」

 

千速が言う。

 

「後で話す」

 

その声は冷たくなかった。

 

だが、逃がさない声だった。

 

「はい」

 

玲奈は答えた。

 

数十分後、移送車両は第三ルートへ変更され、無事に目的地へ到着した。

 

黒いバイクは逃走。

 

黒い軽ワゴンも盗難車で、運転者は現場から逃げていた。

 

事件そのものは未解決。

 

だが、最悪の事態は避けられた。

 

夕方、捜査一課では映像解析が進められていた。

 

三森がモニターを見ながら言う。

 

「軽ワゴンのドアが開く直前、黒いバイクがクラクションを一回鳴らしています」

 

横溝が言う。

 

「合図か」

 

「はい。前回の金属音と同じ役割かもしれません」

 

奏斗は別の映像を見ていた。

 

玲奈の白バイカメラ。

 

軽ワゴンに気づく直前、玲奈の左手がわずかに動いている。

 

スマホへ向かいかけたようにも見える。

 

しかし勤務中、実際にスマホを取り出してはいない。

 

映像だけでは何も言えない。

 

横溝が低く聞く。

 

「朝倉、黒か」

 

奏斗はしばらく黙った。

 

「何かを知っている可能性は高いです」

 

「組織の手先か」

 

「あるいは脅されている」

 

「根拠は」

 

「今日、彼女は黒い軽ワゴンに気づいています。組織側なら、黙って見逃すこともできた」

 

横溝は腕を組んだ。

 

「でも言った」

 

「はい。千速を守るためか、現場を守るためかは分かりません」

 

三森が不安そうに言う。

 

「朝倉さん、助けを求めているんでしょうか」

 

奏斗は映像の中の玲奈を見た。

 

迷い。

 

恐怖。

 

罪悪感。

 

それらが、一瞬の動きに出ている。

 

「その可能性があります」

 

横溝は深く息を吐いた。

 

「なら、次が勝負だな」

 

「はい」

 

「朝倉を泳がせるか」

 

奏斗は首を横に振った。

 

「泳がせるだけでは危険です。千速を狙われる可能性があります」

 

「じゃあどうする」

 

奏斗は静かに言った。

 

「千速に任せます」

 

横溝が少し意外そうに見る。

 

「お前がそう言うとはな」

 

「朝倉さんが話すなら、俺ではなく千速にだと思います」

 

横溝は小さく笑った。

 

「少しは分かってきたじゃねぇか」

 

奏斗は何も言わなかった。

 

ただ、画面の中の玲奈を見つめていた。

 

その夜、第三交機の詰所には千速と玲奈だけが残っていた。

 

新井たちは先に帰された。

 

千速は机に腰をかけ、腕を組んでいた。

 

玲奈はその前に立っている。

 

空気は重い。

 

だが、千速は怒鳴らなかった。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「今日、何があった」

 

玲奈は唇を噛んだ。

 

「判断が遅れました」

 

「それは聞いた」

 

「すみません」

 

「謝るな」

 

千速の声が少し強くなる。

 

玲奈は肩を震わせた。

 

千速は一度息を吐き、声を抑えた。

 

「お前が軽ワゴンに気づいたのは事実だ。あれで助かった」

 

「……はい」

 

「だが、その前に一瞬止まった。何かを迷った」

 

玲奈は黙る。

 

千速は続けた。

 

「朝倉。お前、何に脅えてる」

 

玲奈の目が揺れた。

 

核心だった。

 

千速は静かに言う。

 

「黒いバイクか。犯人か。それとも、別の何かか」

 

玲奈は答えられない。

 

言わなければ、もっと危険になる。

 

分かっている。

 

分かっているのに。

 

「小隊長……」

 

声が震えた。

 

千速は机から降り、玲奈の前に立った。

 

「私は、お前を責めたいんじゃない」

 

玲奈は顔を上げる。

 

千速の目は鋭い。

 

でも、そこにあるのは怒りだけではなかった。

 

「お前が何か隠してるのは分かる」

 

玲奈の喉が詰まる。

 

「……」

 

「押村も気づいてる。重悟もたぶん気づいてる」

 

玲奈は目を閉じた。

 

もう、隠せていない。

 

「でもな、朝倉」

 

千速の声が少しだけ柔らかくなる。

 

「お前が今日、軽ワゴンを見逃さなかったのも私は見てる」

 

玲奈の目から、涙が落ちそうになった。

 

必死でこらえた。

 

千速は言った。

 

「お前はまだ、こっち側を見てる」

 

その言葉で、玲奈の中の何かが崩れた。

 

白線のこちら側。

 

向こう側。

 

ずっと、その間で立ち尽くしていた。

 

千速はそれを、まるで見透かしたように言った。

 

「小隊長……」

 

「言えることだけでいい。今すぐ全部じゃなくていい」

 

千速は真っ直ぐ玲奈を見る。

 

「でも、これ以上一人で抱えるな。事故るぞ」

 

玲奈は両手を握りしめた。

 

鞄の中には写真がある。

 

脅しの写真。

 

それを出せば、もう戻れない。

 

でも。

 

戻れないのは、黙っていても同じだ。

 

玲奈は震える手で鞄を開けた。

 

封筒を取り出す。

 

千速の表情が変わる。

 

玲奈はそれを差し出した。

 

「昨日、部屋の前にありました」

 

千速は黙って受け取り、中を見た。

 

写真。

 

千速。

 

奏斗。

 

二人の暮らす部屋。

 

そして裏の文字。

 

拒めば、標的を変える。

 

千速の目が、静かに怒りを帯びた。

 

「……誰からだ」

 

玲奈は震える声で答えた。

 

「分かりません」

 

嘘だった。

 

半分だけ。

 

誰かは分かっている。

 

でも、名前は知らない。

 

組織の中の誰なのかも知らない。

 

「ただ……」

 

玲奈は顔を上げた。

 

もう逃げられない。

 

逃げたくもなかった。

 

「私は、押村警部補に近づけと言われています」

 

千速は動かなかった。

 

「公安の情報を聞き出せと」

 

詰所の空気が止まる。

 

玲奈は続けた。

 

「小隊長を使えと、何度も言われました」

 

千速の拳がわずかに握られる。

 

玲奈は深く頭を下げた。

 

「申し訳ありません」

 

沈黙。

 

長い沈黙だった。

 

やがて、千速が低く言った。

 

「顔を上げろ」

 

玲奈は上げられなかった。

 

「朝倉」

 

「……はい」

 

「顔を上げろ」

 

玲奈はゆっくり顔を上げた。

 

千速は怒っていた。

 

当然だ。

 

しかし、その怒りは玲奈だけに向いているものではなかった。

 

「お前、いつからだ」

 

「配属前からです」

 

「黒いバイクの件も知っていたのか」

 

玲奈は首を横に振った。

 

「全部は知りません。ただ、私が利用されていることは分かっていました。今日の移送車両の件も、昨夜……」

 

言葉が詰まる。

 

「でも、私は……」

 

「言い訳はいらない」

 

千速の声が鋭くなった。

 

玲奈は震えた。

 

千速は続ける。

 

「事実だけ言え。後悔も謝罪も後だ」

 

玲奈は涙をこらえながら頷いた。

 

「はい」

 

「相手は誰だ」

 

「名前は分かりません。連絡は差出人不明のメッセージです。直接会ったのは、黒い車の男だけです。顔は見えませんでした」

 

「黒い組織か」

 

玲奈は息を呑んだ。

 

千速がその名前を出したことに驚いた。

 

千速は低く言う。

 

「押村から少し聞いてる。詳しくは知らんがな」

 

玲奈は小さく頷いた。

 

「おそらく、そうです」

 

千速はスマホを取り出した。

 

玲奈が怯えたように言う。

 

「小隊長、連絡したら、標的が」

 

「黙ってろ」

 

千速は短く言い、奏斗へ電話をかけた。

 

数コールで繋がる。

 

『千速?』

 

「奏斗」

 

声は低かった。

 

「朝倉が話した」

 

電話の向こうで、わずかな沈黙。

 

『分かった。今どこだ』

 

「第三交機の詰所」

 

『すぐ行く。横溝警部にも連絡する』

 

「頼む」

 

電話を切る。

 

千速は玲奈を見た。

 

「お前を今すぐ許すとは言わない」

 

玲奈は唇を噛む。

 

「はい」

 

「だが、お前が今話したことは間違ってない」

 

玲奈の目が揺れる。

 

千速は続けた。

 

「ここから先は、勝手に一人で動くな。私の指示を聞け」

 

玲奈は涙をこらえながら、震える声で答えた。

 

「はい……」

 

千速は封筒を握りしめた。

 

その目には、白バイ隊員としての怒りと、小隊長としての決意があった。

 

「朝倉」

 

「はい」

 

「お前を利用した奴らを引きずり出す」

 

玲奈は何も言えなかった。

 

ただ、初めてほんの少しだけ、足元の白線がこちら側へ続いているような気がした。

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