奏斗と横溝が第三交通機動隊の詰所に到着したのは、それから十五分後だった。
廊下を歩く足音が近づく。
扉が開く。
先に入ってきたのは横溝重悟だった。
鋭い目で詰所の中を見渡し、千速と玲奈の前で足を止める。
その後ろから奏斗が入ってきた。
奏斗はまず千速を見た。
怪我はないか。
無理をしていないか。
怒りで先走っていないか。
その全部を確認するような視線だった。
千速はすぐに言う。
「私は大丈夫だ」
奏斗は小さく頷いた。
「分かった」
横溝が低く言う。
「で、朝倉」
玲奈は立ち上がり、深く頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
横溝の目がさらに鋭くなる。
「謝罪は後だ。千速から聞いた。お前、押村に近づけって言われてたんだな」
「はい」
「公安の情報を聞き出せ、と」
「はい」
「黒いバイクの件はどこまで知ってた」
玲奈は顔を上げた。
目は赤くなっていたが、逃げてはいなかった。
「最初から計画の全体は知らされていません。ただ、私が第三交機に配属される前から、押村警部補に接触するよう指示されていました」
奏斗は静かに聞いていた。
玲奈は続ける。
「黒いバイクが現れることは、最初の事故の前には知りませんでした。でも二度目以降は、私の反応も見られていると分かりました」
横溝が眉を寄せる。
「今日の移送車両は」
「昨夜、狙われる可能性があるとだけ連絡がありました。具体的な手口は知りませんでした」
千速が封筒を机に置く。
「これが脅しの写真だ」
奏斗は写真を一枚ずつ見た。
第三交機の車庫。
捜査一課の廊下。
玲奈の自宅前。
千速の部屋の外観。
最後の一枚を見た時、奏斗の表情が消えた。
千速が横から言う。
「その顔やめろ」
「どの顔だ」
「今から一人で消えそうな顔だ」
奏斗は写真から目を離し、千速を見る。
「消えない」
「本当だな」
「ああ」
横溝が不機嫌そうに割って入る。
「いちゃつくな。今は事件中だ」
千速が睨む。
「いちゃついてない」
「どう見てもそうだろうが」
「重悟、黙れ」
「お前が黙れ」
玲奈はそのやり取りを見て、ほんの一瞬だけ表情を緩めた。
けれど、すぐに顔を伏せた。
自分には笑う資格などない。
そう思ったのが、千速には分かった。
「朝倉」
「はい」
「今は下を向くな。話すことを話せ」
「……はい」
奏斗は椅子に座らず、玲奈の正面に立った。
「朝倉さん。連絡手段は」
玲奈はスマートフォンを取り出した。
「差出人不明のメッセージです。履歴は残っています。ただ、いくつかは消しています」
「復元できる可能性はあります」
「はい」
「直接会った黒い車の男について、覚えていることは」
玲奈は目を伏せ、記憶を探った。
「顔は見えません。声は低め。年齢は四十代以上に聞こえました。車は黒いセダン。ナンバーは……見えませんでした」
「場所は」
「港北のコインパーキングです。夜でした」
横溝がすぐに言う。
「三森に周辺カメラを洗わせる」
奏斗は頷いた。
「お願いします」
玲奈は拳を握りしめた。
「私のせいで、小隊長や押村警部補が狙われるかもしれません」
千速は即座に返した。
「もう狙われてる。お前が黙ってても変わらない」
玲奈の顔が歪む。
千速は続ける。
「だから、ここから先は黙るな」
玲奈は震える声で答えた。
「はい」
奏斗はスマートフォンを受け取らずに、玲奈へ言った。
「このスマートフォンは、まだ相手と繋がっています。こちらで保全しつつ、次の連絡を待ちます」
玲奈が顔を上げる。
「待つんですか」
「はい。相手は、あなたがまだ従うと思っている」
横溝が口元を歪めた。
「そこを使う」
玲奈は息を呑んだ。
「囮に、なるんですね」
千速の目が鋭くなる。
「朝倉を一人にはしない」
奏斗はすぐに答えた。
「もちろんだ」
「もちろん、で済ませるな」
「君と第三交機、捜査一課で監視をつける。朝倉さんには単独行動させない」
「ならいい」
横溝が玲奈を見る。
「朝倉。お前、怖いか」
玲奈は少し黙った。
そして、正直に答えた。
「怖いです」
「ならいい」
玲奈は驚いたように横溝を見る。
横溝は腕を組んだまま言った。
「怖いって言える奴はまだ使える。怖くない顔して勝手に動く奴が一番危ねぇ」
千速が横からぽつりと言う。
「重悟にしてはいいこと言うな」
「おい」
奏斗が小さく言った。
「横溝警部らしいです」
「押村、お前も後で殴る」
わずかに空気が緩んだ。
それでも、事件は終わっていない。
むしろ、ここからが本番だった。
その夜、玲奈のスマートフォンに新しいメッセージが届いた。
詰所ではなく、捜査一課の一室。
室内には奏斗、横溝、千速、三森。
そして玲奈がいた。
スマートフォンは机の中央に置かれている。
画面が光る。
差出人名はない。
明日午前十時。大黒ふ頭第三倉庫。押村を連れてこい。萩原には知らせるな。
玲奈の顔色が変わった。
千速の目が怒りで冷える。
「私には知らせるな、ね」
横溝が低く唸る。
「分かりやすく罠だな」
奏斗は画面を見つめる。
「相手は、朝倉さんがこちらに話したことをまだ知らない可能性が高い」
三森が端末を操作しながら言う。
「送信元は追跡困難です。使い捨ての回線を経由しています」
横溝が机を指で叩く。
「大黒ふ頭第三倉庫。黒いバイクが動くには都合がいい。逃走路も多い」
千速は地図を見る。
「倉庫街なら白バイも使える。ただし、また不審物や人を使う可能性がある」
奏斗は頷く。
「だから、追跡ではなく封鎖です」
玲奈が震える声で言う。
「私が押村警部補を連れていくふりをすればいいんですね」
千速がすぐに言う。
「お前だけで動くな」
「はい」
玲奈はもう逆らわなかった。
千速は奏斗を見る。
「奏斗」
「何だ」
「無茶するな」
「しない」
「即答は怪しい」
「しない」
「もう一回言っても怪しい」
横溝が呆れたように言う。
「お前ら、緊張感どこ行った」
千速は横溝を見ずに言った。
「無茶する前科がある奴には何度でも言う」
奏斗は何も言えなかった。
玲奈はそのやり取りを見て、胸が痛くなる。
自分のせいで、この二人をまた危険に巻き込む。
だが、もう黙ってはいない。
玲奈は顔を上げた。
「小隊長」
「何だ」
「私、逃げません」
千速は玲奈を見る。
「逃げるなとは言ってない」
玲奈が目を瞬く。
千速は続ける。
「本当に危なければ逃げろ。だが、黙って一人で行くな」
玲奈の目が揺れる。
「……はい」
「それでいい」
奏斗は静かに玲奈へ言った。
「朝倉さん。明日、あなたには相手に返信してもらいます」
「はい」
「内容は短く。余計なことは書かない」
玲奈は頷く。
そして、震える指で入力した。
了解。
送信。
その二文字は、今まで何度も打ってきたものだった。
だが、初めて意味が違った。
従うためではない。
終わらせるための二文字だった。
翌朝。
大黒ふ頭は、海風が強かった。
倉庫群の間を風が抜け、鉄骨がわずかに軋む音を立てている。
午前十時の少し前。
玲奈は指定された第三倉庫の前に立っていた。
隣には奏斗。
表向きには、玲奈が奏斗を連れてきた形になっている。
少し離れた位置には、千速が白バイで待機していた。
さらに外周には第三交機の隊員たち。
横溝と三森は捜査一課の車両で別方向を押さえている。
玲奈は小さく息を吐いた。
「押村警部補」
「はい」
「私、まだ怖いです」
奏斗は前を見たまま答えた。
「怖くて当然です」
「でも、今日は逃げません」
「逃げるべき時は逃げてください」
玲奈は少しだけ笑った。
「小隊長と同じことを言うんですね」
「千速の方が正しいことが多い」
「そうですね」
その時、倉庫の中から音がした。
金属がぶつかるような軽い音。
玲奈の顔が強張る。
「この音です。前回の現場で聞いた音と似ています」
奏斗は小さく頷いた。
「合図ですね」
直後、倉庫のシャッターが少しだけ開いた。
中から黒い服の男が一人出てくる。
顔にはマスク。
帽子を深く被っている。
その背後で、エンジン音が響いた。
黒い大型二輪。
倉庫の中に隠されていた。
男が低い声で言う。
「スマホを出せ。録音機器もだ」
奏斗は静かに言った。
「あなたが連絡役ですか」
男は笑った。
「質問する立場だと思ってるのか?」
玲奈は拳を握った。
その声。
黒い車の男と同じだった。
「この人です」
玲奈が言った。
男の目が玲奈へ向く。
「裏切ったか、朝倉」
玲奈は震えながらも、逃げなかった。
「もう従いません」
男の目が細くなる。
「白バイ隊員ごっこに情が移ったか」
その言葉に、玲奈は唇を噛んだ。
だが、次の瞬間、はっきり言った。
「ごっこじゃありません」
男が動いた。
手元から何かを取り出す。
小型の発煙筒。
奏斗が反応するより早く、玲奈が叫んだ。
「煙幕!」
同時に男が発煙筒を投げた。
白い煙が一気に広がる。
倉庫内の黒いバイクがエンジンを吹かす。
だが、その瞬間。
外から白バイのサイレンが鳴った。
千速の声が無線に響く。
『全車、封鎖! 対象を外へ出すな!』
黒いバイクが倉庫から飛び出そうとする。
しかし、出口正面にはすでに千速の白バイが回り込んでいた。
千速は車体を横に向け、逃走ラインを塞ぐ。
「逃がすかよ」
黒いバイクは急旋回し、側道へ抜けようとする。
そこへ新井が入る。
「こっちも塞いでます!」
黒いバイクはさらに進路を変える。
倉庫裏へ。
だが裏手には横溝の車両が待っていた。
「終わりだ、降りろ!」
ライダーは止まらない。
狭い隙間へ強引に入ろうとする。
白バイでは追いにくい角度。
これまで何度も使った手だ。
だが、千速はもう読んでいた。
「朝倉!」
千速の声が飛ぶ。
玲奈は反射的に動いた。
白バイに跨り、千速の後方から倉庫脇へ回る。
「前に出るな」と言われ続けてきた。
でも今は、千速の指示がある。
玲奈は逃げ道の出口へ白バイを入れた。
無理に詰めない。
追わない。
ただ、逃げ道を消す。
黒いバイクが玲奈の前で急停止した。
ライダーが舌打ちし、バイクを捨てて走り出す。
その瞬間、奏斗が煙の中から飛び出した。
ライダーの腕を取り、地面へ押さえ込む。
「確保!」
横溝も連絡役の男を取り押さえていた。
「こっちも確保だ!」
煙が風に流されていく。
倉庫前に、静けさが戻ってきた。
玲奈は白バイに跨ったまま、息を荒くしていた。
千速が近づいてくる。
「朝倉」
玲奈は振り返る。
「はい」
「よく止めた」
その一言で、玲奈の中に張り詰めていたものが切れそうになった。
「……はい」
泣かなかった。
泣く代わりに、ヘルメットの中で何度も息を整えた。
逮捕された男たちは、黒い組織の末端協力者だった。
上層部へ直接繋がる証拠は少なかった。
それでも、使用された端末、車両、資金の流れから、公安が追っていた別件との接点が見つかった。
奏斗の公安時代の情報を探ろうとしていた理由も、黒瀬事件の残務資料に絡むものだった。
ただし、事件の全貌はまだ遠い。
黒い組織は、尻尾を切るのが早い。
今回捕まったのは、あくまで手足の一部に過ぎなかった。
それでも。
白線の向こう側から伸びていた手を、一本断ち切ることはできた。
数日後。
第三交通機動隊の車庫。
玲奈は千速の前に立っていた。
処分は免れない。
彼女が組織に関与していた事実は消えない。
ただし、脅迫を受けていたこと、途中から捜査に協力したこと、現場で犯人確保に貢献したことは考慮されることになった。
当面は職務から外れ、事情聴取と監察の判断を待つ。
玲奈は制服姿で、深く頭を下げた。
「萩原小隊長。本当に申し訳ありませんでした」
千速は腕を組み、黙って見ていた。
「謝罪は聞いた」
「はい」
「私はお前をすぐ許せるほど、できた人間じゃない」
「分かっています」
「部下として信じようとした。その信頼を利用されかけた。そこは腹が立ってる」
玲奈は唇を噛んだ。
「はい」
千速は一歩近づく。
「でも、お前が最後にこっち側を選んだのも見た」
玲奈の目が揺れる。
千速は続けた。
「それも消さない」
「……はい」
「これからどうなるかは、私が決めることじゃない。お前が警察官でいられるかどうかも分からない」
「はい」
「でも、もし戻れるなら」
玲奈は顔を上げた。
千速は真っ直ぐに言った。
「次は、自分の足で立て。誰かに命令されてじゃなく、自分で白バイに乗れ」
玲奈は今度こそ、涙をこらえきれなかった。
一筋だけ、頬を伝う。
「はい……」
千速は少し困った顔をした。
「泣くな。こっちがやりにくい」
「すみません」
「謝るな」
その言葉に、玲奈は泣きながら少し笑った。
「はい」
新井が少し離れた場所で鼻をすすっていた。
千速が睨む。
「新井」
「はい!」
「お前が泣くな」
「すみません!」
車庫の空気が少しだけ緩んだ。
玲奈はもう一度、深く頭を下げた。
「ありがとうございました、小隊長」
千速は短く答えた。
「まだ終わってない。勝手に別れの挨拶にするな」
玲奈は顔を上げた。
千速は白バイに手を置く。
「戻ってこられるなら、戻ってこい。その時は、最初から鍛え直す」
玲奈は涙を拭い、しっかり頷いた。
「はい」
その夜。
千速の部屋。
奏斗は夕食の準備をしていた。
千速はソファに座り、少し疲れた顔で天井を見ている。
「疲れた」
「無理もない」
奏斗は味噌汁を運びながら答えた。
千速は身体を起こす。
「朝倉、泣いた」
「そうか」
「新井も泣いてた」
「新井さんらしい」
「怒っておいた」
「君らしい」
千速は少しだけ笑った。
それから、奏斗を見る。
「今回、お前は一人で突っ走らなかったな」
奏斗は味噌汁を置きながら言った。
「約束したから」
「約束を守る男だったか」
「守るよう努力している」
「よし」
千速は満足そうに頷く。
奏斗は向かいに座った。
「君も、朝倉さんを一人で抱え込まなかった」
「お前と重悟がいたからな」
「そうか」
「そうだ」
少しの沈黙。
千速は味噌汁を一口飲み、ぽつりと言った。
「人を引き戻すのは難しいな」
奏斗は静かに聞く。
「戻りたいと思ってても、戻れない奴もいる。戻れる場所があるって分かってても、怖くて足が動かない奴もいる」
「そうだな」
「でも、誰かがこっちだって言ってやらないと、たぶん戻れない」
奏斗は千速を見た。
「君は言った」
「言えただけだ。戻るのは朝倉自身だ」
「それでも、必要な言葉だった」
千速は顔を逸らす。
「また急に褒める」
「事実だ」
「うるさい」
奏斗は少しだけ笑った。
千速も、つられて笑う。
部屋の中は静かだった。
事件は終わった。
少なくとも、この章は。
だが、黒い組織の影はまだ遠くにある。
奏斗の公安時代の傷も、完全には消えていない。
千速の中にも、玲奈を信じきれなかった悔しさと、最後に選んでくれた安堵が残っている。
それでも今は、二人で同じ食卓にいる。
それだけで十分だった。
千速は箸を持ちながら言った。
「奏斗」
「何だ」
「次に何かあったら、最初から話せ」
「分かった」
「即答は怪しい」
「……最初から話す」
「よし」
奏斗は少し困ったように笑った。
千速はその顔を見て、ふっと表情を柔らかくする。
「監視同棲、継続だな」
「終わる予定があったのか」
「ない」
奏斗は小さく頷いた。
「なら、よかった」
千速は一瞬だけ目を丸くし、それから照れたように味噌汁を飲んだ。
「そういうの、さらっと言うな」
「すまない」
「謝るな」
いつものやり取り。
けれど、その声は少しだけ穏やかだった。
窓の外では、夜の道路を車のライトが流れていく。
白線の上を照らしては、すぐに過ぎ去る。
その白線のこちら側に、今は確かに二人がいた。
そしていつか、朝倉玲奈も。
自分の足で、こちら側へ戻ってくる日が来るかもしれない。
千速はそう願いながら、静かに夕食を続けた。