警察庁警備局の一室には、窓がなかった。
正確には、窓らしきものはある。
だが、外の景色は見えない。
磨りガラスの向こうには、薄い光だけが滲んでいる。
時間の感覚を曖昧にするための部屋だった。
そこに集まっていたのは、四人。
警備局の幹部。
公安部の管理官。
情報分析官。
そして、押村奏斗を公安へ引き抜いた男。
名前は表に出ない。
会議資料にも、正式な肩書きは残らない。
ただ、庁内では一部の人間だけが彼をこう呼んでいた。
榊原。
榊原は、机の上に置かれた資料を静かにめくっていた。
そこには、つい数日前まで神奈川県内で発生していた一連の事件がまとめられている。
黒い大型二輪。
第三交通機動隊への挑発。
移送車両の誘導。
朝倉玲奈の関与。
黒い組織末端協力者の確保。
そして、その中心に近い場所には、二人の名前がある。
押村奏斗。
萩原千速。
公安部の管理官が低い声で言った。
「結局、連中は動きましたね」
榊原は資料から目を離さず答えた。
「予想通りだ」
「押村を表に戻した効果はあった、ということですか」
「効果はあった。だが、釣れたのは小魚だ」
榊原は淡々と言った。
感情はない。
少なくとも、表には出さない。
情報分析官がモニターを操作する。
画面に、黒いセダンの映像が映った。
港北のコインパーキング。
夜。
朝倉玲奈と接触した車両。
顔は映っていない。
ナンバーも偽造。
車両もすでに焼却処分されていた。
「接触役は逃走。逮捕された二名は、やはり末端でした。組織名も上位者の顔も知らされていません」
公安部の管理官が苛立ったように言う。
「切り捨てが早い」
榊原は短く返した。
「だから組織だ」
モニターには次に、朝倉玲奈の異動関係資料が映し出された。
第三交通機動隊への配属。
一見、通常の人事異動。
推薦理由も整っている。
成績、適性、女性白バイ隊員増員方針、現場経験の拡充。
どれも筋が通っていた。
だが、榊原はその中に不自然な点を見つけていた。
資料の右下。
承認経路。
表向きは交通部内で完結している。
しかし、その前段階に、非公式な「照会」が挟まっていた。
警察庁側から神奈川県警人事部門へ。
しかも、通常の照会ルートではない。
榊原はその行を指で叩いた。
「問題はここだ」
管理官がモニターを見る。
「警察庁内部からの照会」
「そうだ」
「朝倉玲奈を第三交機へ動かしたのは、神奈川県警の単独判断ではない」
榊原は頷いた。
「誰かが、事前に道を作った」
部屋の空気が重くなる。
情報分析官が別資料を表示した。
「照会元は、警備局内の共用端末を経由しています。ログは一部削除済み。ただし、削除前のアクセス痕が残っていました」
公安部の管理官が眉を寄せる。
「内部犯か」
「少なくとも、内部協力者はいる」
榊原の声は冷たかった。
「黒い組織は、警察の外から朝倉を送り込んだわけではない。警察の中の仕組みを使って、正規の人事異動として彼女を押し込んだ」
別の幹部が低く言う。
「それを押村や萩原には?」
榊原は即座に答えた。
「伝えない」
迷いはなかった。
公安部の管理官が顔を上げる。
「押村は感づくのでは?」
「感づくだろう」
「なら、先に共有した方が」
「駄目だ」
榊原は資料を閉じた。
「押村奏斗は、優秀だ。だが、萩原千速が絡むと判断が変わる」
公安部の管理官は黙った。
それは誰も否定できなかった。
榊原は続ける。
「彼はすでに一度、死を偽装してまで公安に入った。その代償を知っている。今度は、萩原千速を危険に近づけまいとして、独自に動く可能性が高い」
「また抱え込むと?」
「そうだ」
榊原は押村奏斗の資料を開く。
捜査一課復帰後の行動記録。
黒いバイク事件における判断。
朝倉玲奈への対応。
萩原千速との情報共有。
横溝重悟の介入。
そこには、奏斗が以前より周囲と連携するようになったことも記されていた。
だが、それでも榊原は信用しきっていなかった。
「押村は変わりつつある。だが、完全には変わっていない」
情報分析官が言う。
「萩原警部補にはどうでしょう。彼女は朝倉の件で、内部に黒幕がいると知れば黙っていない可能性があります」
榊原は静かに頷いた。
「だから伝えない」
「彼女は交通部です。捜査権限も限られます」
「権限の問題ではない」
榊原はモニターに映る千速の写真を見た。
白バイ隊員としての記録。
過去の追跡歴。
研二と松田の件。
押村奏斗との関係。
朝倉玲奈への対応。
「萩原千速は、理屈より先に現場へ行く。部下を使われたと知れば、必ず動く」
管理官が小さく息を吐いた。
「面倒な組み合わせですね」
榊原は否定しなかった。
「だが、だからこそ連中は食いついた」
部屋が静まり返る。
榊原は、初めからそれを狙っていた。
押村奏斗を表へ戻す。
死亡扱いを解き、捜査一課へ復帰させる。
公安から完全に離れたように見せる。
黒い組織に、こう思わせるためだった。
押村奏斗は、公安の中で何かを見た。
だが今は表に戻り、接触できる位置にいる。
萩原千速という弱点もある。
その餌に、連中は食いついた。
朝倉玲奈を送り込んだ。
黒いバイクを走らせた。
公安時代の情報を探ろうとした。
つまり、押村奏斗は今もなお、黒い組織にとって価値がある。
榊原はそれを確認したかった。
「押村を戻したのは、彼を守るためではない」
誰かが、ぼそりと言った。
榊原は静かに答えた。
「守るだけなら、公安に置いた方がいい」
「では、餌として戻した」
「そうだ」
その言葉には、残酷なほどの正確さがあった。
押村奏斗本人には伝えていない。
萩原千速にも伝えていない。
横溝重悟にも、もちろん伝えていない。
彼らは、自分たちの意思で事件に向き合っていると思っている。
実際、それは間違いではない。
だが、その舞台の一部は、公安が用意したものだった。
公安部の管理官が低く言う。
「押村が知れば、反発しますね」
「当然だ」
「萩原も黙っていない」
「だろうな」
「では、このまま隠すと?」
榊原は資料を閉じた。
「必要がある限りは」
会議は次の段階へ進んだ。
黒い組織の内部協力者。
警察庁内、あるいは県警上層部にいる可能性。
朝倉玲奈の異動に関与した人物。
共用端末を使った照会。
削除されたログ。
そして、削除前に残っていたひとつの識別情報。
情報分析官が画面に小さなコードを表示する。
「このアクセス権限を持つ人間は限られます」
公安部の管理官が問う。
「何人だ」
「現時点で、該当候補は十一名」
「多いな」
「ただし、そのうち神奈川県警人事に接触可能だった人物は四名です」
榊原はその四名のリストを見る。
警察庁警備局。
警察庁交通局。
神奈川県警本部。
そして、警視庁公安部との連絡調整役。
どの名前も、表向きは清潔だった。
経歴に傷はない。
評価も高い。
過去の不審な資金移動も、現時点では見つかっていない。
だからこそ危険だった。
本当に組織と繋がっている者は、簡単に汚れを見せない。
榊原は一人の名前で視線を止めた。
「……こいつか」
管理官が聞く。
「心当たりが?」
「まだない」
榊原はすぐに答えた。
「心当たりで動くな。証拠で動く」
その言葉は、押村奏斗がよく使う言い回しに似ていた。
いや、逆かもしれない。
公安で叩き込まれた考えが、奏斗の中に残っているだけだ。
情報分析官が言った。
「朝倉玲奈には、今後どう接触しますか」
「直接接触はしない」
「監察経由ですか」
「表向きはそうする。だが、彼女はまだ使える」
管理官が眉を寄せる。
「また餌に?」
榊原は無表情のまま答えた。
「本人の安全を確保した上でだ」
「押村と萩原が知れば怒りますよ」
「怒らせておけ」
「伝えないのでは?」
「伝えない。だが、いずれ知る」
榊原は椅子にもたれた。
「その時に怒るかどうかは、彼らの自由だ」
その場の誰も笑わなかった。
公安の仕事とは、そういうものだった。
誰かに感謝されるためではない。
誰かに理解されるためでもない。
時には味方を騙し、味方を怒らせ、味方の人生を利用する。
それでも止められないものがある。
表の警察だけでは届かない闇。
法の隙間ではなく、国家の隙間を歩く相手。
黒い組織は、まさにそういう存在だった。
会議後、榊原は一人で資料室に残った。
机の上には、押村奏斗の復帰承認書類が置かれている。
正式には、彼の死亡扱いを取り消し、捜査一課へ戻すための処理。
そこには表向きの理由が並んでいた。
内部調査の完了。
身分整理。
捜査一課への復帰要請。
本人の希望。
神奈川県警との調整。
どれも嘘ではない。
だが、真実でもない。
本当の理由は、ただひとつ。
黒い組織を動かすため。
榊原は書類を見ながら、静かに呟いた。
「悪く思うな、押村」
もちろん、悪く思うだろう。
もし奏斗が真実を知れば、冷静な顔で怒る。
千速が知れば、もっと分かりやすく怒る。
横溝重悟なら、掴みかかってくるかもしれない。
それでも、榊原は選んだ。
押村奏斗を戻すことを。
萩原千速の近くに置くことを。
その関係性ごと、黒い組織への餌にすることを。
人として正しいかは分からない。
だが、公安としては正しい。
その矛盾を飲み込めない者から、公安を去っていく。
榊原はもう、飲み込むことに慣れていた。
その時、内線が鳴った。
榊原は受話器を取る。
「榊原」
短い報告が入る。
声の主は、情報分析官だった。
『例の共用端末の件、追加で分かりました』
「言え」
『朝倉玲奈の異動照会が行われた同じ日に、別の照会が一件あります』
榊原の目が細くなる。
「対象は」
電話の向こうで、一瞬だけ間があった。
『押村奏斗の復帰後の配属情報です』
榊原は黙った。
『照会者は同一経路。削除ログも同じ処理です』
「つまり、朝倉の異動と押村の復帰情報は、同じ内部協力者が見ていた可能性が高い」
『はい』
榊原は静かに受話器を握り直した。
「候補者リストを更新しろ。神奈川県警側も含めて洗い直す」
『了解しました』
「それと」
榊原は少しだけ声を低くした。
「押村奏斗と萩原千速への監視を強めろ。ただし、気づかれるな」
『押村に気づかれないように、ですか』
「難しいのは分かっている」
『萩原警部補も勘が鋭いです』
「だから距離を取れ」
『了解しました』
通話が切れる。
榊原はしばらく受話器を置いたまま、動かなかった。
朝倉玲奈の異動。
押村奏斗の復帰情報。
どちらも同じ経路で抜かれている。
つまり、黒い組織は偶然動いたわけではない。
公安が仕掛けた餌に食いついた。
だが同時に、公安の仕掛け自体も読まれていた可能性がある。
榊原は低く呟いた。
「……こちらも見られている、か」
部屋の空気が一段冷えた。
その夜、神奈川県警本部の外に、一台の車が停まっていた。
ごく普通の国産車。
目立たない色。
運転席の男は、県警本部の出入口を眺めている。
やがて、押村奏斗が建物から出てきた。
少し遅れて、萩原千速が白バイ隊員の上着を片手に歩いてくる。
二人は短く言葉を交わし、並んで歩き出した。
距離は近い。
だが、周囲を警戒する癖は抜けていない。
奏斗は一度、背後を見た。
車の中の男は、視線を落とす。
千速も、何かを感じたように一瞬だけ足を止めた。
「どうした」
奏斗が聞く。
千速は周囲を見たあと、首を振る。
「いや。何でもない」
二人は再び歩き出す。
車の中の男は、小さく息を吐いた。
「気づかれるなって、無茶言うなよ……」
彼は公安の監視員だった。
敵ではない。
だが、味方だと名乗ることもできない。
奏斗と千速は何も知らない。
自分たちが再び、黒い組織と公安の双方から見られる位置に置かれていることを。
車の男は無線を入れた。
「対象二名、県警本部を退出。異常なし」
少しのノイズのあと、返答が来る。
『監視継続。ただし接触するな』
「了解」
男は車を発進させた。
遠く、奏斗と千速の背中が夜の街へ消えていく。
彼らにはまだ伝えない。
押村奏斗を捜査一課へ戻した本当の理由も。
朝倉玲奈を異動させた黒幕が、警察内部にいることも。
そして、その黒幕が今もまだ、どこかで次の手を準備していることも。
公安は、沈黙したまま動く。
表の警察が白線のこちら側を守るなら。
公安は、その白線の下に伸びる影を追う。
誰にも知られず。
時に、味方すら騙しながら。