神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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4話ほど恋愛パロディを書きます


第85話 張り込み対象は恋人

事件が一段落してから、数日が経った。

 

黒いバイクの件も、朝倉玲奈の件も、完全に終わったわけではない。

 

公安はまだ裏で動いている。

黒い組織の影も、完全には消えていない。

朝倉の処遇も、まだ決まっていない。

 

それでも、神奈川県警の日常は戻ってくる。

 

書類。

報告。

現場。

会議。

また書類。

 

その繰り返しの中で、押村奏斗は珍しく定時に近い時間で仕事を切り上げようとしていた。

 

捜査一課の刑事部屋で、奏斗が机の上を片付けていると、横溝重悟が眉を寄せた。

 

「押村」

 

「はい」

 

「お前、帰るのか」

 

奏斗は書類を鞄に入れながら答えた。

 

「はい」

 

横溝はさらに眉間の皺を深くする。

 

「熱でもあんのか」

 

「ありません」

 

「じゃあ、何で帰る」

 

「勤務が終わったからです」

 

「お前がそんな理由で帰るわけねぇだろ」

 

周囲にいた刑事たちが、ちらちらと奏斗を見る。

 

三森沙月も書類整理の手を止め、少し驚いた顔をしていた。

 

奏斗は真面目な顔で言った。

 

「今日は予定があります」

 

その一言で、刑事部屋の空気がわずかに変わった。

 

横溝が目を細める。

 

「予定?」

 

「はい」

 

「誰と」

 

「萩原とです」

 

数秒、沈黙が落ちた。

 

その後、若手刑事の一人が小さく咳き込んだ。

 

三森は目を丸くした。

 

横溝は腕を組み、じっと奏斗を見る。

 

「……お前、今、普通に言ったな」

 

「何をですか」

 

「千速と予定があるって」

 

「事実です」

 

「前なら絶対ぼかしてただろ」

 

奏斗は少し考えた。

 

「そうかもしれません」

 

「変わったな」

 

「そうでしょうか」

 

「変わった。気持ち悪いくらいにな」

 

奏斗は少し困った顔をした。

 

「そこまでですか」

 

横溝は鼻を鳴らす。

 

「まあいい。行け」

 

「ありがとうございます」

 

奏斗が立ち上がると、横溝は低い声で付け加えた。

 

「ただし、明日の朝までに必要な資料は置いていけ」

 

「机の右側にまとめてあります」

 

「抜かりねぇな」

 

「確認済みです」

 

「可愛げがねぇ」

 

奏斗は軽く頭を下げ、刑事部屋を出ていった。

 

扉が閉まる。

 

その瞬間、刑事部屋の空気が一気に緩んだ。

 

若手刑事の一人が、三森に小声で言う。

 

「今の、デートですよね」

 

三森は困ったように微笑んだ。

 

「たぶん、そうですね」

 

「押村警部補のデート……」

 

別の刑事が神妙な顔で呟いた。

 

「想像できない」

 

「相手、萩原警部補ですよね。白バイの」

 

「強そう」

 

「押村警部補、ちゃんと会話できるんですかね」

 

三森が慌てて言った。

 

「あの、皆さん、余計なお世話では」

 

だが、その時にはもう遅かった。

 

横溝がじろりと若手たちを見る。

 

「お前ら」

 

全員が背筋を伸ばす。

 

「はい!」

 

横溝は低い声で言った。

 

「暇なのか」

 

「いえ!」

 

「暇じゃありません!」

 

「資料整理があります!」

 

横溝はしばらく黙っていた。

 

そして、ぼそっと言った。

 

「……どこで会うんだろうな」

 

三森が思わず横溝を見る。

 

「横溝警部?」

 

横溝は咳払いをした。

 

「いや、捜査上の確認だ」

 

「何の捜査ですか」

 

「押村が人並みにデートできるかどうかの捜査だ」

 

三森は額に手を当てた。

 

「それ、完全に私用です」

 

若手刑事たちの目が輝いた。

 

「横溝警部、張り込みですか」

 

「馬鹿言え。そんなことするわけねぇだろ」

 

横溝は即座に否定した。

 

だが、その五分後。

 

横溝は上着を掴み、刑事部屋を出ようとしていた。

 

三森が呆れたように言う。

 

「横溝警部」

 

「何だ」

 

「どちらへ?」

 

「外回りだ」

 

「外回り、ですか」

 

「そうだ」

 

「押村警部補の行き先、確認しに行くわけではなく?」

 

横溝は目を逸らした。

 

「……ついでだ」

 

若手刑事たちも、なぜか鞄を持って立ち上がっている。

 

三森はため息をついた。

 

「皆さん、本当にやるんですか」

 

若手の一人が真剣な顔で言う。

 

「三森さん、これは重要です」

 

「何がですか」

 

「押村警部補が恋人の前でどんな顔をするのか」

 

「重要ではありません」

 

「重要です。職場ではほぼ無表情ですから」

 

別の刑事も頷く。

 

「もし笑ったら、歴史的瞬間です」

 

三森は横溝を見た。

 

「止めないんですか」

 

横溝は短く答えた。

 

「……遠くから見るだけだ」

 

「見るんですね」

 

「安全確認だ」

 

「誰の安全ですか」

 

「千速の」

 

「萩原警部補が一番強いと思います」

 

横溝は何も言い返せなかった。

 

---

 

一方、その頃。

 

奏斗は県警本部の正面玄関前で、千速を待っていた。

 

少し冷たい風が吹いている。

 

街灯が灯り始め、帰宅する職員たちが行き交っていた。

 

千速は少し遅れて出てきた。

 

いつもの白バイ隊員の雰囲気とは少し違う。

 

髪は茶色のロングを下ろしたまま。

服装は女性らしいが動きやすそうな、柔らかい色のニットに、きれいめのロングスカート。

靴は歩きやすいものを選んでいる。

 

派手ではない。

 

だが、普段の制服姿やパンツスタイルとは違う雰囲気があった。

 

奏斗は一瞬、言葉を失った。

 

千速はそれに気づき、少し眉を上げる。

 

「何だ」

 

奏斗は数秒置いてから言った。

 

「似合っている」

 

千速の表情がわずかに止まった。

 

「……急に言うな」

 

「言わない方がよかったか」

 

「そうじゃない」

 

千速は少し顔を逸らした。

 

「もう少し自然に言え」

 

「今のは不自然だったか」

 

「真顔すぎる」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

いつものやり取り。

 

だが、千速の耳が少し赤い。

 

奏斗はそれを見て、ほんの少しだけ表情を緩めた。

 

千速はそれを見逃さない。

 

「笑ったな」

 

「少し」

 

「何で」

 

「嬉しかったから」

 

千速は完全に言葉に詰まった。

 

「……お前、最近そういうの増えたな」

 

「何がだ」

 

「急に真っ直ぐ言うやつ」

 

「駄目か」

 

「駄目じゃないが、こっちの反応が追いつかない」

 

奏斗は少し考えてから言った。

 

「では、少し控える」

 

「いや、控えなくていい」

 

「どっちだ」

 

千速は歩き出しながら言った。

 

「私にも分からん」

 

奏斗はその隣に並ぶ。

 

「今日はどこへ?」

 

「お前が決めろ」

 

「俺が?」

 

「たまにはな」

 

奏斗は少し考えた。

 

「定食屋でいいか」

 

千速は横目で見る。

 

「初手が定食屋か」

 

「嫌なら変える」

 

「嫌じゃない。むしろ好きだ」

 

「ならよかった」

 

「ただ、デートっぽさは低いな」

 

奏斗は真面目な顔で言った。

 

「では、デートっぽい定食屋を探す」

 

千速は吹き出しそうになった。

 

「何だそれ」

 

「照明が少し暗い店とか」

 

「それは定食屋なのか」

 

「分からない」

 

千速は肩を震わせて笑った。

 

奏斗はその横顔を見て、少し安心したような表情になった。

 

---

 

その二人の後方、約三十メートル。

 

電柱の陰に、横溝たちがいた。

 

若手刑事が小声で報告する。

 

「対象二名、県警本部前で合流」

 

別の刑事がメモを取る。

 

「萩原警部補、私服です」

 

「押村警部補、数秒固まりました」

 

「褒めたようです」

 

「萩原警部補、照れた可能性あり」

 

三森が小声で言う。

 

「皆さん、もう帰りませんか」

 

横溝は腕を組んだまま、二人の背中を見ている。

 

「押村が笑った」

 

若手がざわつく。

 

「やっぱり笑いましたよね」

 

「記録しました」

 

「時刻は?」

 

「十八時十七分です」

 

三森は本気で頭が痛くなってきた。

 

「本当に何をしているんですか……」

 

横溝は低く言う。

 

「静かにしろ。気づかれる」

 

三森は即座に返した。

 

「気づかれたら困ることをしている自覚はあるんですね」

 

横溝は咳払いをした。

 

「これはだな、部下の生活状況の確認で」

 

「完全に覗き見です」

 

「言い方が悪い」

 

「行為が悪いんです」

 

その間にも、若手刑事たちは楽しそうに二人を追っていた。

 

「対象、商店街方面へ移動」

 

「距離を維持します」

 

「尾行班、前へ」

 

三森が慌てる。

 

「尾行班って何ですか」

 

若手の一人が真剣に答える。

 

「今、自然に買い物客を装っています」

 

「全然自然じゃありません」

 

その若手は、なぜか新聞を顔の前に広げながら歩いていた。

 

横溝が低く叱る。

 

「馬鹿、新聞は逆さだ」

 

「えっ」

 

「余計目立つだろうが」

 

三森は諦めかけていた。

 

---

 

奏斗と千速は、商店街の中を並んで歩いていた。

 

仕事帰りの人々や、買い物客でほどよく賑わっている。

 

千速はふと、後ろを振り返らずに言った。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「つけられてるな」

 

奏斗は前を向いたまま答えた。

 

「ああ」

 

「いつから気づいてた」

 

「県警本部を出てすぐ」

 

「何で言わない」

 

「害はなさそうだったから」

 

千速は呆れたように息を吐く。

 

「害しかないだろ。気分的に」

 

「横溝警部たちだ」

 

「分かってる」

 

「気づいていたのか」

 

「重悟の気配はうるさい」

 

奏斗は少しだけ笑った。

 

千速は横目で見る。

 

「また笑った」

 

「すまない」

 

「謝るな。今日は許す」

 

「今日は?」

 

「デート中だからな」

 

その言葉を言ったあと、千速が少しだけ気まずそうに顔を逸らした。

 

奏斗はその横顔を見て、静かに言った。

 

「そうだな」

 

千速は眉を寄せる。

 

「何だ、その優しい声は」

 

「普通に返事をしたつもりだ」

 

「最近、普通がずるいんだよ」

 

「難しいな」

 

「お前ほどじゃない」

 

二人は定食屋の前で立ち止まった。

 

店先には手書きのメニューが出ている。

 

焼き魚定食。

生姜焼き定食。

唐揚げ定食。

肉じゃが定食。

 

千速は腕を組む。

 

「ここ、前から気になってた」

 

「ではここにしよう」

 

「いいのか。デートっぽい定食屋じゃないぞ」

 

奏斗は店内を見た。

 

木のテーブル。

少し古い照明。

カウンター席。

奥には小さな座敷。

 

「十分だと思う」

 

「何が」

 

「君と食事をするなら、場所はそこまで重要ではない」

 

千速はまた一瞬黙った。

 

「……だから、そういうのを急に言うな」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

千速は店の暖簾をくぐった。

 

奏斗も続く。

 

その後方で、横溝たちは慌てて立ち止まった。

 

若手刑事が小声で言う。

 

「対象、定食屋に入りました」

 

「我々も入りますか」

 

三森が即座に言う。

 

「入りません」

 

横溝は店を見る。

 

「中の様子が見えねぇな」

 

三森は横溝を睨んだ。

 

「横溝警部」

 

「……分かってる。入らねぇよ」

 

若手の一人が言う。

 

「では、向かいの喫茶店から監視を」

 

三森は目を閉じた。

 

「監視じゃなくて、もうそれは覗きです」

 

横溝はしばらく考えた。

 

「向かいの喫茶店、窓際が空いてるな」

 

「横溝警部!」

 

「安全確認だ」

 

「違います」

 

結局、横溝たちは向かいの喫茶店に入った。

 

三森は最後まで抵抗したが、若手たちに押し切られた。

 

---

 

定食屋の奥の席で、奏斗と千速は向かい合って座っていた。

 

千速は生姜焼き定食。

奏斗は焼き魚定食。

 

注文を終えると、千速は水を飲みながら言った。

 

「外、まだ見てるぞ」

 

奏斗は窓の方を見ずに答えた。

 

「喫茶店に入りましたね」

 

「見てないのに分かるのか」

 

「ガラスに少し映っている」

 

千速は呆れた。

 

「お前、デート中もそういうところ刑事だな」

 

「すまない」

 

「謝るな。まあ、私も気づいてるから人のこと言えないが」

 

奏斗は少し微笑んだ。

 

千速は頬杖をつく。

 

「しかし、重悟も暇だな」

 

「心配しているのかもしれない」

 

「誰を」

 

「俺を」

 

千速は少し考えて、納得したように頷いた。

 

「まあ、お前は心配される側だな」

 

「否定できない」

 

「否定しないのは偉い」

 

「学習した」

 

「よし」

 

料理が運ばれてくる。

 

湯気の立つ味噌汁。

焼きたての生姜焼き。

香ばしい焼き魚。

 

千速は箸を取ると、嬉しそうに目を細めた。

 

「うまそう」

 

「本当に好きなんだな」

 

「こういう飯が一番いい」

 

「覚えておく」

 

「もう覚えてるだろ」

 

「確認した」

 

千速は生姜焼きを一口食べた。

 

「うまい」

 

奏斗も焼き魚を食べる。

 

「美味しいな」

 

少しの間、二人は静かに食事をした。

 

事件の話をしない。

公安の話もしない。

朝倉の話もしない。

 

ただ、仕事帰りに定食を食べる。

 

それだけの時間だった。

 

千速は味噌汁を飲んでから、ふと口を開いた。

 

「なあ、奏斗」

 

「何だ」

 

「お前、またどっか行くつもりじゃないよな」

 

箸の動きが止まった。

 

奏斗はすぐには答えなかった。

 

千速も急かさなかった。

 

店内には、他の客の話し声と、厨房の音が響いている。

 

やがて奏斗は、静かに言った。

 

「行かない」

 

千速は彼を見る。

 

奏斗は続けた。

 

「少なくとも、黙ってはいなくならない」

 

千速の表情が少し変わった。

 

「少なくとも、って何だ」

 

「絶対に何も起きないとは言えない。警察官だから」

 

「それは分かってる」

 

「でも、前みたいにはしない」

 

千速は箸を置いた。

 

「前みたいに、死んだことにして消えたり?」

 

奏斗は逃げずに頷いた。

 

「ああ」

 

「私に何も言わずに?」

 

「ああ」

 

「重悟にも言わずに?」

 

「はい」

 

「敬語」

 

「……うん」

 

千速は少しだけ目を伏せた。

 

「まだ、たまに思うんだよ」

 

奏斗は黙って聞いた。

 

「お前が帰ってこない夜に、またどこかで勝手に決めてるんじゃないかって」

 

奏斗の胸が痛んだ。

 

千速は続ける。

 

「頭では分かってる。今のお前は前より話すようになった。私にも、重悟にも。だけど、急に不安になる時がある」

 

「当然だ」

 

奏斗は静かに言った。

 

「俺がそうさせた」

 

千速は少しだけ息を吐いた。

 

「そこで綺麗に反省するな。こっちが怒りづらい」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

いつもの言葉。

 

だが、千速の声は少し柔らかかった。

 

奏斗は千速を見た。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「不安になったら、言ってほしい」

 

「言ったらどうする」

 

「帰る」

 

「仕事中でも?」

 

「可能な限り」

 

「不可能なら」

 

「連絡する。黙らない」

 

千速はじっと奏斗を見た。

 

「本当だな」

 

「本当だ」

 

「破ったら?」

 

奏斗は少し考えた。

 

「夕食を一週間作る」

 

千速は眉を寄せる。

 

「軽いな」

 

「では一ヶ月」

 

「それは私が得するだけだろ」

 

「では、何がいい」

 

千速は少し考えてから言った。

 

「破ったら、私が怒る」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「分かった」

 

「本気で怒る」

 

「分かっている」

 

「泣かないけど、怒る」

 

「うん」

 

千速はそれで少しだけ満足したように箸を持ち直した。

 

「ならいい」

 

奏斗は小さく息を吐いた。

 

千速はそれを見て、少しだけ笑う。

 

「お前も不安になるのか」

 

「なる」

 

「何に」

 

奏斗は答えを探した。

 

「君が、俺を信じきれなくなることに」

 

千速の箸が止まった。

 

奏斗は続けた。

 

「それは、俺が招いたことだ。だから、信じろとは簡単に言えない。でも、信じてもらえるようにはしたい」

 

千速はしばらく何も言わなかった。

 

やがて、少し照れたように顔を逸らす。

 

「……そういう話を定食屋でするな」

 

「場所が悪かったか」

 

「悪くない。悪くないけど、味噌汁が冷める」

 

奏斗は少しだけ笑った。

 

「食べよう」

 

「ああ」

 

二人は再び食事を始めた。

 

外では、向かいの喫茶店から数人の刑事が必死にこちらを見ないふりをしていた。

 

---

 

喫茶店の窓際。

 

横溝たちは、完全に不自然だった。

 

若手刑事がコーヒーを飲みながら小声で言う。

 

「対象二名、かなり真面目な話をしている様子」

 

「押村警部補、表情が柔らかいです」

 

「萩原警部補、少し照れているようにも見えます」

 

三森は疲れた顔で紅茶を飲んでいる。

 

「皆さん、もうやめませんか」

 

横溝は定食屋の方を見ながら言った。

 

「千速が箸を置いた」

 

若手がざわつく。

 

「何かありましたか」

 

「喧嘩でしょうか」

 

「いや、押村警部補が何か真剣に話してます」

 

横溝は低く呟く。

 

「……ちゃんと話してんな」

 

三森は横溝を見た。

 

その声は、さっきまでの野次馬のものとは少し違っていた。

 

横溝は腕を組んだまま、定食屋の中を見ている。

 

「押村は、一人で抱える癖が抜けねぇ。千速は強がる癖がある。面倒な二人だ」

 

三森は少しだけ表情を緩めた。

 

「心配なんですね」

 

横溝はすぐに顔をしかめる。

 

「違う」

 

「違うんですか」

 

「監督責任だ」

 

「そういうことにしておきます」

 

若手刑事が小声で言った。

 

「横溝警部、優しいですね」

 

横溝は即座に睨んだ。

 

「聞こえてるぞ」

 

「すみません!」

 

「あとで報告書二倍な」

 

「何でですか!」

 

三森は小さく笑った。

 

---

 

食事を終えた奏斗と千速は、店を出た。

 

会計は奏斗が払った。

 

千速は店の外で腕を組む。

 

「奢りか」

 

「今日は誘ったのが俺だから」

 

「誘ったのは私じゃないか?」

 

「でも、店を決めたのは俺だ」

 

「変な理屈だな」

 

「嫌だったか」

 

「嫌じゃない」

 

千速は少しだけ口元を緩める。

 

「ごちそうさま」

 

奏斗は穏やかに答えた。

 

「どういたしまして」

 

その時、千速は向かいの喫茶店へ目を向けた。

 

ガラス越しに、明らかに慌てる横溝たちの姿が見える。

 

千速は無言で歩き出した。

 

奏斗も続く。

 

「行くのか」

 

「ああ」

 

「怒る?」

 

「少しな」

 

奏斗は止めなかった。

 

喫茶店の扉が開く。

 

カラン、とベルが鳴った。

 

横溝たちは一斉に固まった。

 

千速はゆっくり歩いていき、横溝の前に立つ。

 

「重悟」

 

横溝は咳払いをした。

 

「よう、千速。偶然だな」

 

千速は無表情で言った。

 

「下手すぎる」

 

若手刑事たちが一斉に目を逸らす。

 

三森が申し訳なさそうに頭を下げた。

 

「すみません、止めきれませんでした」

 

千速は三森を見て、少しだけ声を緩める。

 

「三森は悪くない」

 

「ありがとうございます」

 

「悪いのはこいつだ」

 

千速は横溝を指す。

 

横溝が顔をしかめる。

 

「何で俺だけだ」

 

「一番年上だからだ」

 

「理不尽だろ」

 

「張り込みの指揮官だろ」

 

「張り込みじゃねぇ」

 

奏斗が静かに言った。

 

「では、何ですか」

 

横溝は一瞬詰まった。

 

「……安全確認だ」

 

千速は呆れた。

 

「私たちのか?」

 

「そうだ」

 

「私と奏斗相手に?」

 

「ああ」

 

「必要あるか?」

 

横溝は少し考えた。

 

「……ないな」

 

若手刑事たちが吹き出しそうになった。

 

千速は椅子を一つ引いた。

 

「重悟」

 

「何だ」

 

「奢れ」

 

「何でだ」

 

「迷惑料」

 

「お前な」

 

「あと、こいつらの分も」

 

若手たちが一斉に顔を上げる。

 

「えっ、いいんですか?」

 

横溝が怒鳴る。

 

「よくねぇ!」

 

千速は涼しい顔で言う。

 

「張り込みには経費が必要だろ」

 

奏斗が横から真面目に言った。

 

「私的な張り込みに経費は出ません」

 

千速が奏斗を見る。

 

「そこは乗れ」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

横溝は頭を抱えた。

 

「お前ら、本当に面倒くせぇな」

 

結局、横溝は全員分の飲み物代を払うことになった。

 

若手刑事たちは妙に楽しそうで、三森は申し訳なさそうにしながらも少し笑っていた。

 

---

 

その後、なぜか全員で軽く二軒目へ行く流れになった。

 

千速が「奢りなら行く」と言ったためである。

 

横溝は最後まで不満そうだったが、結局店を探していた。

 

小さな居酒屋の座敷席。

 

捜査一課の刑事たちと、千速と奏斗。

 

妙な組み合わせだった。

 

若手刑事が遠慮がちに奏斗へ聞いた。

 

「押村警部補」

 

「何ですか」

 

「デートって、緊張するんですか」

 

横溝が即座に言う。

 

「馬鹿、本人に聞くな」

 

奏斗は少し考えてから答えた。

 

「緊張します」

 

全員が静かになった。

 

千速も少し驚いたように奏斗を見る。

 

若手刑事がさらに聞く。

 

「押村警部補でもですか」

 

「はい」

 

「どの辺が?」

 

奏斗は千速を見た。

 

「何を言えば喜ぶのか、まだ分からないので」

 

千速が固まる。

 

三森が小さく息を飲んだ。

 

若手刑事たちは内心で叫んでいた。

 

横溝は額に手を当てた。

 

「押村、お前な……」

 

千速は少し赤くなりながら、低い声で言う。

 

「そういうのを人前で言うな」

 

奏斗は真面目に返した。

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

「でも、事実だ」

 

「事実でも言うな」

 

「難しい」

 

「難しくない」

 

若手刑事たちは必死に笑いをこらえていた。

 

三森は微笑ましそうに見ている。

 

横溝は呆れたように酒を飲んだ。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「お前、苦労するぞ」

 

千速は横溝を見る。

 

「もうしてる」

 

奏斗が少し申し訳なさそうにする。

 

千速はそれに気づき、すぐに言った。

 

「でも、嫌とは言ってない」

 

奏斗の表情が少しだけ和らいだ。

 

「そうか」

 

「そうだ」

 

横溝がぼそっと言う。

 

「目の前でやるな」

 

千速が睨む。

 

「お前らが勝手についてきたんだろ」

 

「それはそうだが」

 

「なら黙って飲め」

 

「お前、本当に昔から変わらねぇな」

 

千速は鼻で笑った。

 

「重悟もな」

 

そのやり取りを見ながら、奏斗は静かに水を飲んでいた。

 

ふと、千速がこちらを見る。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「疲れたか」

 

「少し」

 

「帰るか」

 

奏斗は周囲を見た。

 

横溝、三森、若手刑事たち。

 

全員がなんだかんだ楽しそうだった。

 

「もう少しだけ」

 

千速は少し意外そうにする。

 

「いいのか」

 

「うん」

 

「珍しいな」

 

「こういうのも、悪くないと思った」

 

千速は少しだけ表情を柔らかくした。

 

「そうか」

 

奏斗は頷いた。

 

「ただ、次は二人だけがいい」

 

千速はまた言葉に詰まる。

 

横溝が即座に言った。

 

「聞こえてるぞ」

 

奏斗は静かに返す。

 

「聞こえるように言いました」

 

横溝は目を丸くした。

 

千速も驚いた顔で奏斗を見る。

 

若手刑事たちは、もう完全に騒ぎ出した。

 

「押村警部補が攻めた!」

 

「記録しろ!」

 

「十八時ではなく、二十一時四十二分!」

 

三森が慌てる。

 

「記録しなくていいです!」

 

千速は片手で顔を覆った。

 

「お前、今日は本当にどうした」

 

奏斗は少しだけ考えて言った。

 

「デート中だから、かもしれない」

 

千速は耳まで赤くなった。

 

「もう終わってるだろ」

 

「まだ帰っていない」

 

「理屈で押すな」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

横溝は酒を飲み干し、低く言った。

 

「……押村」

 

「はい」

 

「お前、やっぱり変わったな」

 

奏斗は少し黙った。

 

それから、静かに答えた。

 

「戻ってきたので」

 

その言葉に、場の空気が少しだけ落ち着いた。

 

横溝は何も言わず、ただ頷いた。

 

千速も、奏斗を見た。

 

戻ってきた。

 

その言葉の重さを、一番知っているのは千速だった。

 

だから千速は、何も言わなかった。

 

代わりに、奏斗の前にあった小皿を少し寄せる。

 

「食え。お前、全然食ってない」

 

奏斗は小さく頷いた。

 

「ありがとう」

 

「礼はいらない」

 

「分かった」

 

そのやり取りを見て、三森が少し微笑む。

 

横溝は照れ隠しのように若手刑事へ怒鳴った。

 

「おい、お前ら。明日遅刻したら全員報告書三倍だからな」

 

「横溝警部、それパワハラです!」

 

「うるせぇ。張り込み報告書でも書いとけ」

 

千速が即座に言う。

 

「題名は?」

 

若手刑事が勢いよく答えた。

 

「恋愛捜査線、異常あり、です!」

 

千速は吹き出した。

 

奏斗も少し笑った。

 

横溝は頭を抱えた。

 

三森はとうとう声を出して笑った。

 

事件の後の、ほんの短い休息。

 

誰かを疑う必要もなく。

誰かを追い詰める必要もなく。

誰かを失う怖さに押し潰されることもなく。

 

ただ、くだらないことで笑える夜。

 

奏斗はその空気の中で、隣にいる千速を見た。

 

千速は笑っていた。

 

男勝りで、強くて、口が悪くて、優しくて、時々照れ屋で。

 

奏斗が戻ってきた場所に、彼女がいる。

 

それが、何より確かなことだった。

 

帰り道。

 

店を出たあと、横溝たちと別れ、奏斗と千速は二人で歩いた。

 

夜風が少し冷たい。

 

千速は隣を歩きながら言った。

 

「今日は散々だったな」

 

奏斗は静かに答えた。

 

「楽しかった」

 

千速は意外そうに見る。

 

「本気で言ってるか」

 

「うん」

 

「張り込みされたのに?」

 

「君が笑っていたから」

 

千速は足を止めた。

 

奏斗も止まる。

 

千速はしばらく黙り、それから小さく言った。

 

「……そういうの、本当にずるい」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

千速は少しだけ手を伸ばした。

 

奏斗はその動きに気づき、自然に手を取る。

 

千速は少し照れたように顔を逸らした。

 

「次は二人だけだからな」

 

奏斗は頷いた。

 

「約束する」

 

「破ったら?」

 

「横溝警部たちに奢ってもらう」

 

千速は笑った。

 

「それ、罰になってないだろ」

 

「では、俺が一ヶ月夕食を作る」

 

「それは採用」

 

「罰になっているのか」

 

「私が得する」

 

奏斗は少し笑った。

 

千速も笑った

 

二人は手を繋いだまま、夜の道を歩いた。

 

遠くで車のライトが白線を照らしている。

 

今日は、その白線の向こう側に何かが潜んでいる気配はなかった。

 

ただ、同じ帰り道を歩く二人の影が、街灯の下でゆっくり重なっていた。

 

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