神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第87話 同棲ルール会議、開廷

事件でもないのに、空気が重い夜だった。

 

場所は、千速の部屋。

 

正確には、今では奏斗も暮らしている部屋。

 

夕食を終え、食器も片付き、普段なら少し落ち着く時間のはずだった。

 

だが、その日のリビングには、明らかに妙な緊張感があった。

 

ローテーブルの上には、一枚の紙。

黒いボールペン。

そして、なぜか千速が持ってきた小さな木製のしゃもじ。

 

奏斗はソファに座り、そのしゃもじを見ていた。

 

「千速」

 

「何だ」

 

「それは何だ」

 

千速はローテーブルの向こう側に座り、腕を組んだ。

 

「木槌の代わりだ」

 

「木槌?」

 

「裁判で使うだろ」

 

「日本の裁判では基本的に使わないと思う」

 

「細かいことはいい」

 

千速はしゃもじでテーブルを軽く叩いた。

 

こん、と乾いた音がした。

 

「本日、同棲ルール改定会議を開廷する」

 

奏斗は少し黙った。

 

「開廷」

 

「ああ」

 

「会議ではなく?」

 

「裁判形式だ」

 

「なぜ」

 

「その方が、お前に罪の重さが伝わる」

 

奏斗は静かに背筋を伸ばした。

 

「俺は被告人なのか」

 

「そうだ」

 

「弁護人は」

 

「いない」

 

「不利すぎる」

 

「被告人に黙秘権は認める」

 

「弁護人なしで黙秘したら、俺の主張が何も残らない」

 

千速は少し考えた。

 

「じゃあ、自己弁護は認める」

 

「ありがとう」

 

「ただし、異議は基本的に却下する」

 

「かなり不利だ」

 

「そこは日頃の行いだ」

 

奏斗はリビングを見回した。

 

確かに、日頃の行いと言われると、反論しづらい部分はある。

 

ローテーブルの端には、奏斗の仕事用資料が数冊積まれている。

 

ソファの横にも捜査資料を入れたファイル。

本棚の前にも、まだ読みかけの専門書。

 

ただし、リビングの反対側には、千速の白バイ用グローブが置きっぱなしになっている。

 

ソファの背もたれには、千速の上着。

玄関近くには、整備用の小物が入ったポーチ。

 

奏斗はそれを見てから、千速へ視線を戻した。

 

「公平な裁判になるのか」

 

千速はしゃもじを軽く掲げた。

 

「私が裁判官だからな」

 

「つまり公平ではない可能性が高い」

 

「異議は却下」

 

「まだ言っていない」

 

「顔が言ってた」

 

奏斗は小さく息を吐いた。

 

「分かった。進めてくれ」

 

千速は満足そうに頷き、紙を一枚持ち上げた。

 

「では、被告人押村奏斗に対する第一の罪」

 

「はい」

 

「仕事資料をリビングに放置した罪」

 

奏斗はすぐに答えた。

 

「それについては認める」

 

千速は少し拍子抜けした顔をした。

 

「早いな」

 

「事実だから」

 

「反論しないのか」

 

「しない」

 

「つまらん」

 

「裁判で面白さを求めないでほしい」

 

千速はしゃもじでテーブルを叩く。

 

「では有罪」

 

「量刑は」

 

「明日までに片付けること」

 

「妥当だ」

 

「ただし、今後は仕事資料をリビングに置く場合、二十四時間以内に撤去」

 

奏斗は頷いた。

 

「分かった」

 

千速は紙に書き込む。

 

**第1条:仕事資料は二十四時間以内に片付ける。**

 

奏斗はその文字を見ながら言った。

 

「ただし、例外規定が必要だ」

 

千速は目を細める。

 

「また細かいことを言う」

 

「事件直後など、継続して確認が必要な資料がある場合は、事前申告で延長可」

 

千速は少し考える。

 

「事前申告ならいい」

 

「ありがとう」

 

「ただし、申告先は私だ」

 

「もちろん」

 

「口頭でいい」

 

「分かった」

 

千速は満足そうに頷いた。

 

「では第二の罪」

 

奏斗は姿勢を正す。

 

千速は少し険しい顔になる。

 

「無言で考え込み、夕飯を冷ました罪」

 

奏斗は目を伏せた。

 

「ああ」

 

「認めるか」

 

「認める」

 

「また早いな」

 

「それも事実だ」

 

千速は腕を組む。

 

「お前、飯の前で固まることあるだろ」

 

「ある」

 

「箸持ったまま止まる」

 

「考え事をしている」

 

「それは見れば分かる」

 

「すまない」

 

「謝るな。いや、この場合は謝っていい」

 

奏斗は少し迷ってから言った。

 

「すまない」

 

千速は頷く。

 

「よし」

 

奏斗は少しだけ苦笑した。

 

千速は続ける。

 

「私はな、飯は温かいうちに食いたい」

 

「そうだな」

 

「作った側としても、冷めると少し腹が立つ」

 

「うん」

 

「しかもお前の場合、考え込んでる理由がだいたい仕事か、公安か、黒い組織か、過去の反省会だ」

 

「否定できない」

 

「食卓で一人反省会をするな」

 

「分かった」

 

「あと、眉間に皺寄せて味噌汁を見るな」

 

「そんなことをしているのか」

 

「してる。味噌汁が取り調べ対象みたいになってる」

 

奏斗は少し困った顔をした。

 

「それは自覚がなかった」

 

「味噌汁は悪くない」

 

「分かった」

 

千速は紙に書いた。

 

**第2条:夕飯は温かいうちに食べる。食卓で一人反省会をしない。**

 

奏斗はその文字を見て、少しだけ表情を緩めた。

 

「分かりやすい」

 

「だろ」

 

「では、考え事がある時はどうすればいい」

 

「言え」

 

「内容を?」

 

「言える範囲でいい。『ちょっと考えてる』でもいい」

 

「それだけでいいのか」

 

「黙って固まられるよりはいい」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「分かった」

 

千速はしゃもじを軽く叩く。

 

「第二の罪、有罪。量刑は、今後ちゃんと飯を食うこと」

 

「従う」

 

「よし」

 

そこで、奏斗が静かに手を上げた。

 

「裁判官」

 

千速は眉を上げる。

 

「何だ、被告人」

 

「反訴したい」

 

「反訴?」

 

「こちらからも訴えたいことがある」

 

千速は一瞬、動きを止めた。

 

「……私にか」

 

「うん」

 

「いい度胸だな」

 

「公平な裁判なら、認められるべきだ」

 

「公平じゃないと言っただろ」

 

「だからこそ、ここで認めると評価が上がる」

 

千速は少し唸った。

 

「何か腹立つ言い方だな」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

千速はしゃもじを置き、腕を組んだ。

 

「いいだろう。言ってみろ」

 

奏斗はリビングの反対側を見た。

 

「原告押村奏斗から、被告萩原千速に対する第一の罪」

 

千速は目を細める。

 

「被告になった覚えはない」

 

「白バイ用グローブをソファに置きっぱなしにした罪」

 

千速の視線が、ゆっくりソファの端へ向いた。

 

そこには、黒いグローブが堂々と置かれていた。

 

千速は少し沈黙した。

 

「……それは」

 

「三日前から同じ場所にある」

 

「見てたなら片付けろ」

 

「それは違うと思う」

 

「何でだ」

 

「君のものだから」

 

「お前の資料も似たようなものだろ」

 

「だから俺は有罪になった」

 

千速は言葉に詰まった。

 

奏斗は淡々と続ける。

 

「第二の罪。上着を椅子にかけたまま、翌朝探す罪」

 

「それはたまにだ」

 

「週三回」

 

「数えるな」

 

「探す時に『ない』と言うが、だいたい椅子にある」

 

「覚えてない」

 

「俺は覚えている」

 

「刑事の記憶力をそういうところで使うな」

 

奏斗は少しだけ表情を緩めた。

 

「第三の罪」

 

千速は警戒した。

 

「まだあるのか」

 

「怒っているのに『怒ってない』と言う罪」

 

千速は完全に黙った。

 

奏斗は続ける。

 

「これはかなり重い」

 

「お前に言われたくない」

 

「俺も黙る癖がある。だから改める」

 

「急に正論で返すな」

 

「君も改めてほしい」

 

千速は顔を逸らす。

 

「……怒ってない時もある」

 

「その時は分かる」

 

「何でだ」

 

「本当に怒っていない時は、声が普通だから」

 

「じゃあ怒ってる時は」

 

「声が低い」

 

「今は?」

 

「少し低い」

 

千速はしゃもじを掴んだ。

 

奏斗は静かに言う。

 

「裁判官、暴力は法廷侮辱にあたる」

 

「誰のせいだ」

 

「俺かもしれない」

 

「分かってるならいい」

 

奏斗はさらに続けた。

 

「第四の罪」

 

千速は目を見開く。

 

「まだあるのか」

 

「可愛いと言うと睨む罪」

 

千速の顔が一気に赤くなった。

 

「それは罪じゃない」

 

「俺にとっては問題だ」

 

「問題なのか」

 

「うん」

 

「何でだ」

 

奏斗は真面目な顔で言った。

 

「可愛いと思った時に言うと、睨まれる」

 

千速は顔を逸らす。

 

「言わなきゃいいだろ」

 

「言わない方がいいのか」

 

千速は黙った。

 

奏斗はそれ以上追い詰めず、静かに待った。

 

千速はしゃもじを持ったまま、ぼそりと言った。

 

「……場所による」

 

「場所」

 

「人前で言うな」

 

「二人の時は?」

 

千速はさらに小さくなる。

 

「……まあ、別に」

 

奏斗は頷いた。

 

「分かった。二人の時だけにする」

 

「そういうところだけ素直だな」

 

「必要な情報だから」

 

「取り調べか」

 

「同棲ルール会議だ」

 

千速は悔しそうに奏斗を見る。

 

「お前、裁判形式に順応するの早いな」

 

「仕事柄」

 

「腹立つ」

 

奏斗は紙を手元に寄せた。

 

「では追加していいか」

 

「何を」

 

奏斗は丁寧な字で書いた。

 

**第3条:白バイ用品と上着は所定の場所に戻す。**

 

千速はそれを見て、渋々頷いた。

 

「まあ、それはいい」

 

奏斗は続けて書こうとする。

 

千速が警戒する。

 

「待て。何を書く」

 

奏斗は真面目に答えた。

 

「第4条:怒っている時は、なるべく怒っていると言う」

 

千速は少し黙った。

 

「……それは、お前もだぞ」

 

「うん」

 

「お前の場合、怒ってるというより、黙って考え込む」

 

「そうだな」

 

「だから、第4条は二人ともだ」

 

奏斗は頷き、書き直した。

 

**第4条:怒っている時、不安な時、考え込んでいる時は、なるべく言葉にする。**

 

千速はそれを見て、少しだけ表情を柔らかくした。

 

「なるべく、がついてるのはいいな」

 

「完璧には難しい」

 

「そうだな」

 

「でも、努力する」

 

千速はじろりと見る。

 

「努力する、は怪しい」

 

奏斗は前回と同じ失敗に気づき、言い直した。

 

「言う」

 

「よし」

 

そこで、テーブルの上の奏斗のスマートフォンが鳴った。

 

表示は横溝重悟。

 

千速が眉を上げる。

 

「重悟だ」

 

奏斗は電話に出た。

 

「押村です」

 

『おう、押村。明日の資料の件だが――』

 

横溝の声が聞こえた瞬間、千速が目を細めた。

 

奏斗は簡単に仕事の確認をする。

 

「はい。分かりました。朝一番で提出します」

 

『悪いな。今、大丈夫だったか』

 

奏斗が答えようとした瞬間、千速が横から言った。

 

「大丈夫じゃない。裁判中だ」

 

電話の向こうが沈黙した。

 

『……は?』

 

奏斗は静かに説明した。

 

「同棲ルール改定会議中です」

 

横溝はさらに沈黙した。

 

『お前ら、何してんだ』

 

千速は奏斗からスマートフォンを奪うように受け取った。

 

「重悟」

 

『千速か』

 

「ちょうどいい。証人として参加しろ」

 

『嫌だ』

 

「却下」

 

『何でだよ』

 

「被告人押村奏斗について証言を求める」

 

『何の裁判だ』

 

「仕事資料をリビングに放置した罪と、夕飯を冷ます罪」

 

電話の向こうで、横溝が深く息を吐く音がした。

 

『有罪』

 

奏斗は静かに言った。

 

「早すぎます」

 

横溝は即答する。

 

『お前はだいたい有罪だ』

 

「根拠が雑です」

 

『根拠なら山ほどある。黙って抱え込む、勝手に消える、変なところで頑固、あと無駄に真面目』

 

千速は頷いた。

 

「だろ」

 

奏斗は小さく息を吐いた。

 

「横溝警部、こちらからも証言を求めます」

 

『何だ』

 

「被告人萩原千速についてです」

 

千速が奏斗を見る。

 

「おい」

 

横溝の声が少し楽しそうになる。

 

『ほう』

 

奏斗は淡々と言った。

 

「怒っているのに怒っていないと言う罪」

 

『有罪』

 

千速が叫ぶ。

 

「重悟!」

 

『それは昔からだ』

 

「昔の話を持ち出すな」

 

『あと、強がりすぎる罪』

 

奏斗が静かに頷く。

 

「追加します」

 

千速が奏斗の腕を叩いた。

 

「追加するな」

 

横溝は続ける。

 

『それから、照れると睨む罪』

 

奏斗が少しだけ目を開く。

 

「証人の証言と一致しました」

 

「一致させるな!」

 

電話の向こうで横溝が笑った。

 

『何だ、お前ら。楽しそうだな』

 

千速は顔を赤くしたまま言う。

 

「楽しくない」

 

奏斗は横から静かに言った。

 

「俺は少し楽しいです」

 

千速が奏斗を見る。

 

「お前は黙ってろ」

 

横溝が呆れたように言う。

 

『押村』

 

「はい」

 

『千速のこと、あんまり怒らせんなよ』

 

「はい」

 

『千速』

 

「何だ」

 

『押村を甘やかしすぎるなよ』

 

「甘やかしてない」

 

『甘やかしてる』

 

「どこがだ」

 

『家に置いてる時点で十分だ』

 

千速は言葉に詰まった。

 

奏斗も少し黙った。

 

横溝は少しだけ声を落とした。

 

『まあ、いい。二人とも、ほどほどにな』

 

千速は小さく息を吐く。

 

「ああ」

 

奏斗も答える。

 

「分かりました」

 

電話が切れた。

 

リビングに静けさが戻る。

 

千速はスマートフォンを奏斗へ返しながら言った。

 

「重悟まで巻き込んだら、変な裁判になったな」

 

「最初から変だった」

 

「お前、今さら言うな」

 

奏斗は紙を見た。

 

「でも、必要な話はできていると思う」

 

千速は黙った。

 

その通りだった。

 

ふざけた裁判形式。

 

しゃもじの木槌。

 

横溝の証言。

 

くだらないやり取りの中に、言わなければ流してしまうことが混ざっていた。

 

仕事資料のこと。

食卓で黙ること。

怒っているのにごまかすこと。

家の中に二人分の生活があること。

 

千速は少しだけ目を伏せた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「第三の罪、まだ言ってなかったな」

 

奏斗の表情が少しだけ硬くなった。

 

「俺の?」

 

「ああ」

 

千速は紙を見ずに言った。

 

「過去に黙って死んだことにした罪」

 

リビングの空気が変わった。

 

さっきまでのふざけた空気が、少しだけ遠ざかる。

 

奏斗は黙った。

 

千速も、冗談の顔ではなかった。

 

「これはな」

 

「うん」

 

「一番重い」

 

奏斗は静かに頷く。

 

「分かっている」

 

「たぶん、私はこれをずっと有罪にする」

 

「うん」

 

「許してないわけじゃない。戻ってきたことは、よかったと思ってる。今ここにいることも、ちゃんと嬉しい」

 

奏斗は千速を見る。

 

千速は言葉を探しながら続けた。

 

「でも、あの日から残ってるものはある。夜にふと思い出すこともある。お前が帰らない時間が少し長いだけで、嫌な想像をすることもある」

 

奏斗は何も言わなかった。

 

言い訳しなかった。

 

反論もしなかった。

 

ただ、受け止めていた。

 

千速はしゃもじを置いた。

 

「だから、第5条」

 

奏斗は紙を見る。

 

千速はペンを取り、ゆっくり書いた。

 

**第5条:一人で消えないこと。**

 

奏斗の胸に、その短い言葉が落ちた。

 

紙の上の文字は、少し力が入っている。

 

千速らしい、迷いのない字だった。

 

奏斗はしばらくそれを見つめていた。

 

そして、静かに言った。

 

「分かった」

 

千速は彼を見る。

 

「本当だな」

 

「本当だ」

 

「公安だろうが、黒い組織だろうが、何だろうがだ」

 

「うん」

 

「言えることが限られる時はあるだろう。でも、全部黙って消えるな」

 

「分かった」

 

「約束しろ」

 

奏斗は少しだけ身を乗り出した。

 

「約束する」

 

千速はその目を見ていた。

 

嘘ではない。

 

それでも、完全に不安が消えるわけではない。

 

だが、こうして言葉にしたことに意味がある。

 

千速はペンを置いた。

 

「よし」

 

奏斗は紙に手を伸ばした。

 

「俺からも、第6条を提案したい」

 

千速は少し警戒する。

 

「何だ」

 

奏斗はペンを取り、丁寧に書いた。

 

**第6条:帰る場所を守ること。**

 

千速はその文字を見た。

 

「帰る場所?」

 

「この部屋のことでもあるし、君のことでもある」

 

千速の表情が止まった。

 

奏斗は続けた。

 

「俺だけの話ではない。君も危ない時は、一人で突っ込まないでほしい」

 

千速は目を逸らした。

 

「私は白バイ隊員だ」

 

「知っている」

 

「現場に出るのが仕事だ」

 

「うん」

 

「危ない時に動かないわけにはいかない」

 

「それも分かっている」

 

奏斗は静かに言った。

 

「でも、帰ってきてほしい」

 

千速は黙った。

 

その一言は、真っ直ぐだった。

 

千速がいつも奏斗に向けている願いと、同じものだった。

 

帰ってきてほしい。

 

ただそれだけ。

 

千速は小さく息を吐いた。

 

「……お前に言われると、重いな」

 

「すまない」

 

「謝るな」

 

「うん」

 

千速は第6条の文字を指でなぞるように見た。

 

「分かった。私も、一人で無茶はしない」

 

奏斗は少しだけ表情を和らげた。

 

「ありがとう」

 

「礼はいらん」

 

「分かった」

 

二人は紙を見下ろした。

 

そこには、生活感と約束が混ざったルールが並んでいた。

 

**第1条:仕事資料は二十四時間以内に片付ける。**

**第2条:夕飯は温かいうちに食べる。食卓で一人反省会をしない。**

**第3条:白バイ用品と上着は所定の場所に戻す。**

**第4条:怒っている時、不安な時、考え込んでいる時は、なるべく言葉にする。**

**第5条:一人で消えないこと。**

**第6条:帰る場所を守ること。**

 

千速は腕を組む。

 

「なかなかいいな」

 

奏斗は頷いた。

 

「実用的だ」

 

「いや、後半は実用というより重い」

 

「そうだな」

 

「同棲ルールにしては重すぎる」

 

「でも必要だ」

 

千速は少し笑った。

 

「まあな」

 

奏斗は紙を見ながら言った。

 

「第7条はどうする」

 

「まだ増やすのか」

 

「必要なら」

 

千速は少し考える。

 

そして、にやりと笑った。

 

「第7条。可愛いと言われても殴らない」

 

奏斗は千速を見る。

 

「採用していいのか」

 

「人前で言わないならな」

 

奏斗はペンを取った。

 

千速は慌てる。

 

「待て。本当に書くのか」

 

「君が言った」

 

「冗談だ」

 

「だが、重要なルールかもしれない」

 

「重要じゃない」

 

奏斗は真面目な顔で書いた。

 

**第7条:可愛いと言われても、原則として殴らない。**

 

千速は頭を抱えた。

 

「原則って何だ」

 

「例外が必要かと思って」

 

「どんな例外だ」

 

「人前で言った場合」

 

千速は黙った。

 

「……そこは分かってるんだな」

 

「うん」

 

千速は少しだけ笑った。

 

「じゃあ、第8条」

 

奏斗はペンを構える。

 

「何だ」

 

千速はわざと真面目な顔を作った。

 

「押村奏斗は、たまに柔らかい敬語とため口を混ぜること」

 

奏斗は瞬きをした。

 

「それはルールなのか」

 

「お前、油断すると硬くなるからな」

 

「そうか」

 

「家では、少し柔らかくていい」

 

奏斗は千速を見た。

 

「努力する」

 

千速が睨む。

 

奏斗はすぐに言い直す。

 

「……そうする」

 

「よし」

 

奏斗は紙に書いた。

 

**第8条:家では、必要以上に硬くならない。**

 

千速は満足そうに頷く。

 

「いいな」

 

「同棲ルールらしくなってきた」

 

「いや、最初から同棲ルールだ」

 

「裁判だった」

 

「それもそうだ」

 

二人は少し笑った。

 

その時、千速がふと思いついたようにしゃもじを取った。

 

「では、判決」

 

奏斗は姿勢を正した。

 

千速はしゃもじでテーブルを軽く叩いた。

 

「被告人押村奏斗」

 

「はい」

 

「仕事資料放置罪、夕飯冷却罪、黙って消えた罪について、有罪」

 

奏斗は静かに頷いた。

 

「はい」

 

「ただし、現在は反省の意思が見られるため、執行猶予つき」

 

「ありがとうございます」

 

「執行猶予期間は」

 

千速は少し考えた。

 

「一生」

 

奏斗は小さく笑った。

 

「長いな」

 

「当然だ」

 

「分かった」

 

千速は続ける。

 

「被告人萩原千速」

 

「自分で言うのか」

 

「白バイ用品放置罪、怒ってない詐称罪、照れ隠し睨み罪について、有罪」

 

奏斗は静かに言った。

 

「量刑は」

 

千速は顔を逸らしながら言った。

 

「……今後、なるべく言葉にする」

 

奏斗は頷いた。

 

「妥当だと思う」

 

「うるさい」

 

「それは怒っている?」

 

千速は少し黙った。

 

「照れてる」

 

奏斗の表情が止まった。

 

千速はすぐに顔を赤くする。

 

「……今のは忘れろ」

 

奏斗は静かに首を振った。

 

「忘れない」

 

「忘れろ」

 

「大事な証言だ」

 

「裁判はもう終わった!」

 

奏斗は少しだけ笑った。

 

千速はしゃもじを置き、ソファに背を預けた。

 

「疲れた」

 

「裁判官も大変だな」

 

「お前のせいだ」

 

「半分はそうかもしれない」

 

「半分どころじゃない」

 

奏斗は立ち上がり、ローテーブルの上の紙を丁寧に持った。

 

「これは貼る?」

 

「貼るのか?」

 

「忘れないように」

 

千速は少し考えた。

 

「冷蔵庫は嫌だ。目立ちすぎる」

 

「では、引き出しに入れておく」

 

「それだと忘れる」

 

「なら、寝室の棚」

 

「それも妙だろ」

 

結局、二人はリビングの本棚の内側に紙を貼ることにした。

 

普段は見えない。

 

でも、扉を開ければすぐに見える。

 

千速は貼られた紙を見て、少しだけ照れくさそうに言った。

 

「本当に書いたな」

 

「うん」

 

「変な家だな」

 

「悪くない」

 

千速は奏斗を見た。

 

「そうか?」

 

「うん」

 

「じゃあ、まあいいか」

 

奏斗は千速の隣に立った。

 

二人で本棚の内側に貼られたルールを見る。

 

ふざけて作ったはずなのに、そこには二人の生活そのものがあった。

 

小さな不満。

笑える欠点。

まだ痛む過去。

これから守りたい約束。

 

千速は小さく呟いた。

 

「奏斗」

 

「何だ」

 

「帰る場所って、こういうことか」

 

奏斗は少し間を置いて頷いた。

 

「たぶん」

 

「たぶんか」

 

「まだ慣れていない」

 

「私もだ」

 

千速は本棚を閉じた。

 

「でも、悪くないな」

 

奏斗は彼女を見る。

 

「うん」

 

千速は照れ隠しのようにソファへ戻る。

 

「さて、被告人」

 

「まだ続くのか」

 

「第2条を守るために、温かい茶でも淹れろ」

 

奏斗は少し笑った。

 

「分かった」

 

「敬語」

 

「……分かったよ」

 

千速は満足そうに頷いた。

 

「よし」

 

奏斗はキッチンへ向かう。

 

千速はその背中を見ながら、少しだけ口元を緩めた。

 

家の中に、誰かの背中がある。

 

帰ってきて、湯を沸かして、茶を淹れる背中。

 

それは以前、失ったと思ったものだった。

 

もう二度と戻らないと思っていたものだった。

 

だからこそ、千速は言葉にした。

 

「奏斗」

 

キッチンから声が返る。

 

「何だ」

 

千速は少しだけ迷ってから言った。

 

「今日は、ちゃんと帰ってきたな」

 

湯を沸かす音が少しだけ響く。

 

奏斗は振り返らずに答えた。

 

「うん。ただいま」

 

千速は目を伏せ、静かに笑った。

 

「おかえり」

 

裁判は閉廷した。

 

判決は、二人とも有罪。

 

ただし、執行猶予は一生。

 

そして、その執行猶予を守るための帰る場所は、今夜もちゃんと、この部屋にあった。

 

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