事件でもないのに、空気が重い夜だった。
場所は、千速の部屋。
正確には、今では奏斗も暮らしている部屋。
夕食を終え、食器も片付き、普段なら少し落ち着く時間のはずだった。
だが、その日のリビングには、明らかに妙な緊張感があった。
ローテーブルの上には、一枚の紙。
黒いボールペン。
そして、なぜか千速が持ってきた小さな木製のしゃもじ。
奏斗はソファに座り、そのしゃもじを見ていた。
「千速」
「何だ」
「それは何だ」
千速はローテーブルの向こう側に座り、腕を組んだ。
「木槌の代わりだ」
「木槌?」
「裁判で使うだろ」
「日本の裁判では基本的に使わないと思う」
「細かいことはいい」
千速はしゃもじでテーブルを軽く叩いた。
こん、と乾いた音がした。
「本日、同棲ルール改定会議を開廷する」
奏斗は少し黙った。
「開廷」
「ああ」
「会議ではなく?」
「裁判形式だ」
「なぜ」
「その方が、お前に罪の重さが伝わる」
奏斗は静かに背筋を伸ばした。
「俺は被告人なのか」
「そうだ」
「弁護人は」
「いない」
「不利すぎる」
「被告人に黙秘権は認める」
「弁護人なしで黙秘したら、俺の主張が何も残らない」
千速は少し考えた。
「じゃあ、自己弁護は認める」
「ありがとう」
「ただし、異議は基本的に却下する」
「かなり不利だ」
「そこは日頃の行いだ」
奏斗はリビングを見回した。
確かに、日頃の行いと言われると、反論しづらい部分はある。
ローテーブルの端には、奏斗の仕事用資料が数冊積まれている。
ソファの横にも捜査資料を入れたファイル。
本棚の前にも、まだ読みかけの専門書。
ただし、リビングの反対側には、千速の白バイ用グローブが置きっぱなしになっている。
ソファの背もたれには、千速の上着。
玄関近くには、整備用の小物が入ったポーチ。
奏斗はそれを見てから、千速へ視線を戻した。
「公平な裁判になるのか」
千速はしゃもじを軽く掲げた。
「私が裁判官だからな」
「つまり公平ではない可能性が高い」
「異議は却下」
「まだ言っていない」
「顔が言ってた」
奏斗は小さく息を吐いた。
「分かった。進めてくれ」
千速は満足そうに頷き、紙を一枚持ち上げた。
「では、被告人押村奏斗に対する第一の罪」
「はい」
「仕事資料をリビングに放置した罪」
奏斗はすぐに答えた。
「それについては認める」
千速は少し拍子抜けした顔をした。
「早いな」
「事実だから」
「反論しないのか」
「しない」
「つまらん」
「裁判で面白さを求めないでほしい」
千速はしゃもじでテーブルを叩く。
「では有罪」
「量刑は」
「明日までに片付けること」
「妥当だ」
「ただし、今後は仕事資料をリビングに置く場合、二十四時間以内に撤去」
奏斗は頷いた。
「分かった」
千速は紙に書き込む。
**第1条:仕事資料は二十四時間以内に片付ける。**
奏斗はその文字を見ながら言った。
「ただし、例外規定が必要だ」
千速は目を細める。
「また細かいことを言う」
「事件直後など、継続して確認が必要な資料がある場合は、事前申告で延長可」
千速は少し考える。
「事前申告ならいい」
「ありがとう」
「ただし、申告先は私だ」
「もちろん」
「口頭でいい」
「分かった」
千速は満足そうに頷いた。
「では第二の罪」
奏斗は姿勢を正す。
千速は少し険しい顔になる。
「無言で考え込み、夕飯を冷ました罪」
奏斗は目を伏せた。
「ああ」
「認めるか」
「認める」
「また早いな」
「それも事実だ」
千速は腕を組む。
「お前、飯の前で固まることあるだろ」
「ある」
「箸持ったまま止まる」
「考え事をしている」
「それは見れば分かる」
「すまない」
「謝るな。いや、この場合は謝っていい」
奏斗は少し迷ってから言った。
「すまない」
千速は頷く。
「よし」
奏斗は少しだけ苦笑した。
千速は続ける。
「私はな、飯は温かいうちに食いたい」
「そうだな」
「作った側としても、冷めると少し腹が立つ」
「うん」
「しかもお前の場合、考え込んでる理由がだいたい仕事か、公安か、黒い組織か、過去の反省会だ」
「否定できない」
「食卓で一人反省会をするな」
「分かった」
「あと、眉間に皺寄せて味噌汁を見るな」
「そんなことをしているのか」
「してる。味噌汁が取り調べ対象みたいになってる」
奏斗は少し困った顔をした。
「それは自覚がなかった」
「味噌汁は悪くない」
「分かった」
千速は紙に書いた。
**第2条:夕飯は温かいうちに食べる。食卓で一人反省会をしない。**
奏斗はその文字を見て、少しだけ表情を緩めた。
「分かりやすい」
「だろ」
「では、考え事がある時はどうすればいい」
「言え」
「内容を?」
「言える範囲でいい。『ちょっと考えてる』でもいい」
「それだけでいいのか」
「黙って固まられるよりはいい」
奏斗は静かに頷いた。
「分かった」
千速はしゃもじを軽く叩く。
「第二の罪、有罪。量刑は、今後ちゃんと飯を食うこと」
「従う」
「よし」
そこで、奏斗が静かに手を上げた。
「裁判官」
千速は眉を上げる。
「何だ、被告人」
「反訴したい」
「反訴?」
「こちらからも訴えたいことがある」
千速は一瞬、動きを止めた。
「……私にか」
「うん」
「いい度胸だな」
「公平な裁判なら、認められるべきだ」
「公平じゃないと言っただろ」
「だからこそ、ここで認めると評価が上がる」
千速は少し唸った。
「何か腹立つ言い方だな」
「すまない」
「謝るな」
千速はしゃもじを置き、腕を組んだ。
「いいだろう。言ってみろ」
奏斗はリビングの反対側を見た。
「原告押村奏斗から、被告萩原千速に対する第一の罪」
千速は目を細める。
「被告になった覚えはない」
「白バイ用グローブをソファに置きっぱなしにした罪」
千速の視線が、ゆっくりソファの端へ向いた。
そこには、黒いグローブが堂々と置かれていた。
千速は少し沈黙した。
「……それは」
「三日前から同じ場所にある」
「見てたなら片付けろ」
「それは違うと思う」
「何でだ」
「君のものだから」
「お前の資料も似たようなものだろ」
「だから俺は有罪になった」
千速は言葉に詰まった。
奏斗は淡々と続ける。
「第二の罪。上着を椅子にかけたまま、翌朝探す罪」
「それはたまにだ」
「週三回」
「数えるな」
「探す時に『ない』と言うが、だいたい椅子にある」
「覚えてない」
「俺は覚えている」
「刑事の記憶力をそういうところで使うな」
奏斗は少しだけ表情を緩めた。
「第三の罪」
千速は警戒した。
「まだあるのか」
「怒っているのに『怒ってない』と言う罪」
千速は完全に黙った。
奏斗は続ける。
「これはかなり重い」
「お前に言われたくない」
「俺も黙る癖がある。だから改める」
「急に正論で返すな」
「君も改めてほしい」
千速は顔を逸らす。
「……怒ってない時もある」
「その時は分かる」
「何でだ」
「本当に怒っていない時は、声が普通だから」
「じゃあ怒ってる時は」
「声が低い」
「今は?」
「少し低い」
千速はしゃもじを掴んだ。
奏斗は静かに言う。
「裁判官、暴力は法廷侮辱にあたる」
「誰のせいだ」
「俺かもしれない」
「分かってるならいい」
奏斗はさらに続けた。
「第四の罪」
千速は目を見開く。
「まだあるのか」
「可愛いと言うと睨む罪」
千速の顔が一気に赤くなった。
「それは罪じゃない」
「俺にとっては問題だ」
「問題なのか」
「うん」
「何でだ」
奏斗は真面目な顔で言った。
「可愛いと思った時に言うと、睨まれる」
千速は顔を逸らす。
「言わなきゃいいだろ」
「言わない方がいいのか」
千速は黙った。
奏斗はそれ以上追い詰めず、静かに待った。
千速はしゃもじを持ったまま、ぼそりと言った。
「……場所による」
「場所」
「人前で言うな」
「二人の時は?」
千速はさらに小さくなる。
「……まあ、別に」
奏斗は頷いた。
「分かった。二人の時だけにする」
「そういうところだけ素直だな」
「必要な情報だから」
「取り調べか」
「同棲ルール会議だ」
千速は悔しそうに奏斗を見る。
「お前、裁判形式に順応するの早いな」
「仕事柄」
「腹立つ」
奏斗は紙を手元に寄せた。
「では追加していいか」
「何を」
奏斗は丁寧な字で書いた。
**第3条:白バイ用品と上着は所定の場所に戻す。**
千速はそれを見て、渋々頷いた。
「まあ、それはいい」
奏斗は続けて書こうとする。
千速が警戒する。
「待て。何を書く」
奏斗は真面目に答えた。
「第4条:怒っている時は、なるべく怒っていると言う」
千速は少し黙った。
「……それは、お前もだぞ」
「うん」
「お前の場合、怒ってるというより、黙って考え込む」
「そうだな」
「だから、第4条は二人ともだ」
奏斗は頷き、書き直した。
**第4条:怒っている時、不安な時、考え込んでいる時は、なるべく言葉にする。**
千速はそれを見て、少しだけ表情を柔らかくした。
「なるべく、がついてるのはいいな」
「完璧には難しい」
「そうだな」
「でも、努力する」
千速はじろりと見る。
「努力する、は怪しい」
奏斗は前回と同じ失敗に気づき、言い直した。
「言う」
「よし」
そこで、テーブルの上の奏斗のスマートフォンが鳴った。
表示は横溝重悟。
千速が眉を上げる。
「重悟だ」
奏斗は電話に出た。
「押村です」
『おう、押村。明日の資料の件だが――』
横溝の声が聞こえた瞬間、千速が目を細めた。
奏斗は簡単に仕事の確認をする。
「はい。分かりました。朝一番で提出します」
『悪いな。今、大丈夫だったか』
奏斗が答えようとした瞬間、千速が横から言った。
「大丈夫じゃない。裁判中だ」
電話の向こうが沈黙した。
『……は?』
奏斗は静かに説明した。
「同棲ルール改定会議中です」
横溝はさらに沈黙した。
『お前ら、何してんだ』
千速は奏斗からスマートフォンを奪うように受け取った。
「重悟」
『千速か』
「ちょうどいい。証人として参加しろ」
『嫌だ』
「却下」
『何でだよ』
「被告人押村奏斗について証言を求める」
『何の裁判だ』
「仕事資料をリビングに放置した罪と、夕飯を冷ます罪」
電話の向こうで、横溝が深く息を吐く音がした。
『有罪』
奏斗は静かに言った。
「早すぎます」
横溝は即答する。
『お前はだいたい有罪だ』
「根拠が雑です」
『根拠なら山ほどある。黙って抱え込む、勝手に消える、変なところで頑固、あと無駄に真面目』
千速は頷いた。
「だろ」
奏斗は小さく息を吐いた。
「横溝警部、こちらからも証言を求めます」
『何だ』
「被告人萩原千速についてです」
千速が奏斗を見る。
「おい」
横溝の声が少し楽しそうになる。
『ほう』
奏斗は淡々と言った。
「怒っているのに怒っていないと言う罪」
『有罪』
千速が叫ぶ。
「重悟!」
『それは昔からだ』
「昔の話を持ち出すな」
『あと、強がりすぎる罪』
奏斗が静かに頷く。
「追加します」
千速が奏斗の腕を叩いた。
「追加するな」
横溝は続ける。
『それから、照れると睨む罪』
奏斗が少しだけ目を開く。
「証人の証言と一致しました」
「一致させるな!」
電話の向こうで横溝が笑った。
『何だ、お前ら。楽しそうだな』
千速は顔を赤くしたまま言う。
「楽しくない」
奏斗は横から静かに言った。
「俺は少し楽しいです」
千速が奏斗を見る。
「お前は黙ってろ」
横溝が呆れたように言う。
『押村』
「はい」
『千速のこと、あんまり怒らせんなよ』
「はい」
『千速』
「何だ」
『押村を甘やかしすぎるなよ』
「甘やかしてない」
『甘やかしてる』
「どこがだ」
『家に置いてる時点で十分だ』
千速は言葉に詰まった。
奏斗も少し黙った。
横溝は少しだけ声を落とした。
『まあ、いい。二人とも、ほどほどにな』
千速は小さく息を吐く。
「ああ」
奏斗も答える。
「分かりました」
電話が切れた。
リビングに静けさが戻る。
千速はスマートフォンを奏斗へ返しながら言った。
「重悟まで巻き込んだら、変な裁判になったな」
「最初から変だった」
「お前、今さら言うな」
奏斗は紙を見た。
「でも、必要な話はできていると思う」
千速は黙った。
その通りだった。
ふざけた裁判形式。
しゃもじの木槌。
横溝の証言。
くだらないやり取りの中に、言わなければ流してしまうことが混ざっていた。
仕事資料のこと。
食卓で黙ること。
怒っているのにごまかすこと。
家の中に二人分の生活があること。
千速は少しだけ目を伏せた。
「奏斗」
「何だ」
「第三の罪、まだ言ってなかったな」
奏斗の表情が少しだけ硬くなった。
「俺の?」
「ああ」
千速は紙を見ずに言った。
「過去に黙って死んだことにした罪」
リビングの空気が変わった。
さっきまでのふざけた空気が、少しだけ遠ざかる。
奏斗は黙った。
千速も、冗談の顔ではなかった。
「これはな」
「うん」
「一番重い」
奏斗は静かに頷く。
「分かっている」
「たぶん、私はこれをずっと有罪にする」
「うん」
「許してないわけじゃない。戻ってきたことは、よかったと思ってる。今ここにいることも、ちゃんと嬉しい」
奏斗は千速を見る。
千速は言葉を探しながら続けた。
「でも、あの日から残ってるものはある。夜にふと思い出すこともある。お前が帰らない時間が少し長いだけで、嫌な想像をすることもある」
奏斗は何も言わなかった。
言い訳しなかった。
反論もしなかった。
ただ、受け止めていた。
千速はしゃもじを置いた。
「だから、第5条」
奏斗は紙を見る。
千速はペンを取り、ゆっくり書いた。
**第5条:一人で消えないこと。**
奏斗の胸に、その短い言葉が落ちた。
紙の上の文字は、少し力が入っている。
千速らしい、迷いのない字だった。
奏斗はしばらくそれを見つめていた。
そして、静かに言った。
「分かった」
千速は彼を見る。
「本当だな」
「本当だ」
「公安だろうが、黒い組織だろうが、何だろうがだ」
「うん」
「言えることが限られる時はあるだろう。でも、全部黙って消えるな」
「分かった」
「約束しろ」
奏斗は少しだけ身を乗り出した。
「約束する」
千速はその目を見ていた。
嘘ではない。
それでも、完全に不安が消えるわけではない。
だが、こうして言葉にしたことに意味がある。
千速はペンを置いた。
「よし」
奏斗は紙に手を伸ばした。
「俺からも、第6条を提案したい」
千速は少し警戒する。
「何だ」
奏斗はペンを取り、丁寧に書いた。
**第6条:帰る場所を守ること。**
千速はその文字を見た。
「帰る場所?」
「この部屋のことでもあるし、君のことでもある」
千速の表情が止まった。
奏斗は続けた。
「俺だけの話ではない。君も危ない時は、一人で突っ込まないでほしい」
千速は目を逸らした。
「私は白バイ隊員だ」
「知っている」
「現場に出るのが仕事だ」
「うん」
「危ない時に動かないわけにはいかない」
「それも分かっている」
奏斗は静かに言った。
「でも、帰ってきてほしい」
千速は黙った。
その一言は、真っ直ぐだった。
千速がいつも奏斗に向けている願いと、同じものだった。
帰ってきてほしい。
ただそれだけ。
千速は小さく息を吐いた。
「……お前に言われると、重いな」
「すまない」
「謝るな」
「うん」
千速は第6条の文字を指でなぞるように見た。
「分かった。私も、一人で無茶はしない」
奏斗は少しだけ表情を和らげた。
「ありがとう」
「礼はいらん」
「分かった」
二人は紙を見下ろした。
そこには、生活感と約束が混ざったルールが並んでいた。
**第1条:仕事資料は二十四時間以内に片付ける。**
**第2条:夕飯は温かいうちに食べる。食卓で一人反省会をしない。**
**第3条:白バイ用品と上着は所定の場所に戻す。**
**第4条:怒っている時、不安な時、考え込んでいる時は、なるべく言葉にする。**
**第5条:一人で消えないこと。**
**第6条:帰る場所を守ること。**
千速は腕を組む。
「なかなかいいな」
奏斗は頷いた。
「実用的だ」
「いや、後半は実用というより重い」
「そうだな」
「同棲ルールにしては重すぎる」
「でも必要だ」
千速は少し笑った。
「まあな」
奏斗は紙を見ながら言った。
「第7条はどうする」
「まだ増やすのか」
「必要なら」
千速は少し考える。
そして、にやりと笑った。
「第7条。可愛いと言われても殴らない」
奏斗は千速を見る。
「採用していいのか」
「人前で言わないならな」
奏斗はペンを取った。
千速は慌てる。
「待て。本当に書くのか」
「君が言った」
「冗談だ」
「だが、重要なルールかもしれない」
「重要じゃない」
奏斗は真面目な顔で書いた。
**第7条:可愛いと言われても、原則として殴らない。**
千速は頭を抱えた。
「原則って何だ」
「例外が必要かと思って」
「どんな例外だ」
「人前で言った場合」
千速は黙った。
「……そこは分かってるんだな」
「うん」
千速は少しだけ笑った。
「じゃあ、第8条」
奏斗はペンを構える。
「何だ」
千速はわざと真面目な顔を作った。
「押村奏斗は、たまに柔らかい敬語とため口を混ぜること」
奏斗は瞬きをした。
「それはルールなのか」
「お前、油断すると硬くなるからな」
「そうか」
「家では、少し柔らかくていい」
奏斗は千速を見た。
「努力する」
千速が睨む。
奏斗はすぐに言い直す。
「……そうする」
「よし」
奏斗は紙に書いた。
**第8条:家では、必要以上に硬くならない。**
千速は満足そうに頷く。
「いいな」
「同棲ルールらしくなってきた」
「いや、最初から同棲ルールだ」
「裁判だった」
「それもそうだ」
二人は少し笑った。
その時、千速がふと思いついたようにしゃもじを取った。
「では、判決」
奏斗は姿勢を正した。
千速はしゃもじでテーブルを軽く叩いた。
「被告人押村奏斗」
「はい」
「仕事資料放置罪、夕飯冷却罪、黙って消えた罪について、有罪」
奏斗は静かに頷いた。
「はい」
「ただし、現在は反省の意思が見られるため、執行猶予つき」
「ありがとうございます」
「執行猶予期間は」
千速は少し考えた。
「一生」
奏斗は小さく笑った。
「長いな」
「当然だ」
「分かった」
千速は続ける。
「被告人萩原千速」
「自分で言うのか」
「白バイ用品放置罪、怒ってない詐称罪、照れ隠し睨み罪について、有罪」
奏斗は静かに言った。
「量刑は」
千速は顔を逸らしながら言った。
「……今後、なるべく言葉にする」
奏斗は頷いた。
「妥当だと思う」
「うるさい」
「それは怒っている?」
千速は少し黙った。
「照れてる」
奏斗の表情が止まった。
千速はすぐに顔を赤くする。
「……今のは忘れろ」
奏斗は静かに首を振った。
「忘れない」
「忘れろ」
「大事な証言だ」
「裁判はもう終わった!」
奏斗は少しだけ笑った。
千速はしゃもじを置き、ソファに背を預けた。
「疲れた」
「裁判官も大変だな」
「お前のせいだ」
「半分はそうかもしれない」
「半分どころじゃない」
奏斗は立ち上がり、ローテーブルの上の紙を丁寧に持った。
「これは貼る?」
「貼るのか?」
「忘れないように」
千速は少し考えた。
「冷蔵庫は嫌だ。目立ちすぎる」
「では、引き出しに入れておく」
「それだと忘れる」
「なら、寝室の棚」
「それも妙だろ」
結局、二人はリビングの本棚の内側に紙を貼ることにした。
普段は見えない。
でも、扉を開ければすぐに見える。
千速は貼られた紙を見て、少しだけ照れくさそうに言った。
「本当に書いたな」
「うん」
「変な家だな」
「悪くない」
千速は奏斗を見た。
「そうか?」
「うん」
「じゃあ、まあいいか」
奏斗は千速の隣に立った。
二人で本棚の内側に貼られたルールを見る。
ふざけて作ったはずなのに、そこには二人の生活そのものがあった。
小さな不満。
笑える欠点。
まだ痛む過去。
これから守りたい約束。
千速は小さく呟いた。
「奏斗」
「何だ」
「帰る場所って、こういうことか」
奏斗は少し間を置いて頷いた。
「たぶん」
「たぶんか」
「まだ慣れていない」
「私もだ」
千速は本棚を閉じた。
「でも、悪くないな」
奏斗は彼女を見る。
「うん」
千速は照れ隠しのようにソファへ戻る。
「さて、被告人」
「まだ続くのか」
「第2条を守るために、温かい茶でも淹れろ」
奏斗は少し笑った。
「分かった」
「敬語」
「……分かったよ」
千速は満足そうに頷いた。
「よし」
奏斗はキッチンへ向かう。
千速はその背中を見ながら、少しだけ口元を緩めた。
家の中に、誰かの背中がある。
帰ってきて、湯を沸かして、茶を淹れる背中。
それは以前、失ったと思ったものだった。
もう二度と戻らないと思っていたものだった。
だからこそ、千速は言葉にした。
「奏斗」
キッチンから声が返る。
「何だ」
千速は少しだけ迷ってから言った。
「今日は、ちゃんと帰ってきたな」
湯を沸かす音が少しだけ響く。
奏斗は振り返らずに答えた。
「うん。ただいま」
千速は目を伏せ、静かに笑った。
「おかえり」
裁判は閉廷した。
判決は、二人とも有罪。
ただし、執行猶予は一生。
そして、その執行猶予を守るための帰る場所は、今夜もちゃんと、この部屋にあった。