神奈川県警の女神様   作:かなっち館長

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第9話 地下保管庫

県警本部の廊下は、朝の光に照らされていた。

 

だが、押村奏斗たちが向かう先に明るさはなかった。

 

監察官室。

 

警察官を監視し、内部不正を調べるための部署。

本来なら、組織の中で最も公正であるべき場所。

 

その奥に、三年前の真実を隠した地下保管庫がある。

 

押村は歩きながら、宮永怜司の言葉を思い返していた。

 

「三年前の事件で守られたのは、久我の息子だけではありません」

 

久我悠真。

久我誠一郎。

佐伯慎吾。

宮永怜司。

 

事件に関わる者の輪郭は、少しずつ見えてきた。

だが、まだ中心が見えない。

 

誰が本当に、この事件を動かしていたのか。

 

押村の隣を、萩原千速が歩いていた。

 

白バイ隊員としての制服ではなく、交通部の上着を羽織っている。

だが、目の鋭さは道路の上にいる時と変わらなかった。

 

そのさらに前を、横溝重悟が歩く。

 

坊主頭。

鋭い目つき。

大股で進む背中は、まるで怒りそのもののようだった。

 

「重悟」

 

千速が声をかけた。

 

横溝は振り返らずに答える。

 

「何だ」

 

「脅迫メール、気にしてねぇのか」

 

横溝は鼻で笑った。

 

「気にしてたら刑事なんざやってねぇ」

 

「そういうことじゃねぇ」

 

千速の声が少し低くなる。

 

「次は横溝重悟が消える、だぞ。あいつら、本気でやってくる」

 

横溝は足を止めた。

 

振り返ると、いつもの荒っぽい顔で千速を見た。

 

「千速」

 

「何だよ」

 

「お前、自分が脅された時は“上等だ”って言ってたよな」

 

千速は一瞬黙った。

 

「……それはそれだ」

 

「同じだろうが」

 

「違う」

 

「何が違う」

 

「私が狙われるのと、お前が狙われるのは違う」

 

横溝が眉をひそめる。

 

「意味分かんねぇな」

 

千速は少し言いづらそうに視線を逸らした。

 

「お前までいなくなったら、奏斗がまた一人で抱え込むだろうが」

 

押村の足が止まった。

 

横溝も一瞬だけ黙った。

 

千速はすぐに照れ隠しのように言い足す。

 

「もちろん、重悟が死んでいいって意味じゃねぇぞ。そういう意味じゃなくてだな」

 

横溝はじっと千速を見たあと、ふっと笑った。

 

「分かってるよ」

 

千速が眉を上げる。

 

「何だよ、その顔」

 

「いや。お前も押村の心配ばっかだなと思ってな」

 

「違ぇよ」

 

「違わねぇだろ」

 

「うるさい」

 

横溝は押村を見る。

 

「押村」

 

「はい」

 

「お前は幸せ者だな」

 

押村は少し考えた。

 

そして、真面目に答える。

 

「そうかもしれません」

 

千速の顔が一瞬で赤くなった。

 

「そこで真面目に返すな!」

 

横溝が声を上げて笑った。

 

緊張に満ちた廊下に、わずかな笑いが落ちる。

 

だが、それは一瞬だった。

 

監察官室の扉が見えてくる。

 

磨かれたプレート。

整然とした受付。

外から見れば、ただの部署にすぎない。

 

だが、その内側にどれほどの闇が隠れているのか。

 

押村は表情を引き締めた。

 

「行きましょう」

 

横溝が頷き、扉を開けた。

 

監察官室の中は、異様なほど静かだった。

 

早朝とはいえ、人の気配がなさすぎる。

 

机は並んでいる。

書類も置かれている。

コーヒーの紙コップもある。

 

だが、職員の姿が少ない。

 

横溝が低く呟いた。

 

「妙だな」

 

千速も周囲を見回す。

 

「人払いされてるみたいだ」

 

押村はすぐに受付の職員へ近づいた。

 

「神奈川県警捜査一課、押村警部補です。監察官室の地下保管庫を確認したい」

 

受付の男性職員は、明らかに動揺した。

 

「地下保管庫ですか」

 

「はい」

 

「申し訳ありませんが、許可がなければ――」

 

横溝が一歩前に出る。

 

「許可なら今から取る。緊急の捜査だ」

 

職員は顔を強張らせる。

 

「ですが、規則上……」

 

千速が腕を組んだ。

 

「規則を盾にする時って、大体ろくでもないもん隠してるよな」

 

「萩原」

 

押村がたしなめる。

 

「何だよ。本当のことだろ」

 

受付の職員はさらに顔色を悪くした。

 

その時、奥の部屋から一人の男が現れた。

 

五十代ほどの、細身の男。

髪はきっちり整えられ、眼鏡の奥の目は冷たい。

 

「何の騒ぎですか」

 

押村は手帳を示した。

 

「捜査一課の押村です」

 

男は押村を見る。

 

「監察官室次席の戸倉です」

 

横溝の目が細くなる。

 

「戸倉警視正か」

 

戸倉は横溝に視線を移した。

 

「横溝警部。あなたがここに来るとは珍しい」

 

「来たくて来たわけじゃねぇ」

 

「でしょうね」

 

戸倉は薄く笑った。

 

「それで、何用ですか」

 

押村が答える。

 

「地下保管庫にある三年前の監察記録を確認します」

 

戸倉の表情は変わらなかった。

 

だが、空気が一瞬だけ硬くなった。

 

「三年前の監察記録?」

 

「はい」

 

「どの案件でしょう」

 

「港北区ひき逃げ死亡事件に関連する内部照会記録です」

 

戸倉はゆっくりと眼鏡を押し上げた。

 

「そのような記録が監察官室に保管されているという根拠は?」

 

「宮永怜司警視の供述です」

 

戸倉の目がわずかに細くなる。

 

「宮永警視は現在、混乱している可能性がある。彼の発言を根拠に、監察官室の保管資料を開示することはできません」

 

横溝が前に出た。

 

「じゃあ、令状を取る」

 

「どうぞ」

 

戸倉は淡々と答えた。

 

「ただし、その間に必要な手続きは行われます」

 

押村は静かに聞いた。

 

「必要な手続きとは?」

 

「保存期間を過ぎた資料の整理です」

 

千速が眉をひそめる。

 

「証拠隠滅するって宣言か?」

 

「失礼な言い方ですね、萩原警部補」

 

戸倉は初めて千速の名前を呼んだ。

 

千速の目が鋭くなる。

 

「私のこと、知ってるのか」

 

「あなたは目立ちますから」

 

「白バイ隊員として?」

 

「それもあります」

 

戸倉の視線が、押村へわずかに動いた。

 

「押村警部補と行動を共にしている点でも」

 

押村はその視線を見逃さなかった。

 

「戸倉警視正。私たちの動向を把握していたのですか」

 

「監察官室ですから」

 

「監察対象として?」

 

「必要に応じて」

 

横溝が低く言った。

 

「おい、戸倉。てめぇ、何を監察してる」

 

戸倉は横溝を見た。

 

「警察組織の秩序です」

 

その言葉に、押村の中で何かが引っかかった。

 

秩序。

 

正義でも、公正でもない。

戸倉は、今、秩序と言った。

 

押村は静かに口を開いた。

 

「秩序を守るためなら、真実は隠していいと?」

 

戸倉は表情を変えない。

 

「真実は、常に組織にとって有益とは限りません」

 

千速が低く呟いた。

 

「言いやがったな」

 

横溝の目が怒りで燃える。

 

「三年前もそうやって隠したのか」

 

戸倉は答えなかった。

 

押村は一歩前に出た。

 

「地下保管庫を確認します」

 

「許可できません」

 

「では、監察官室による証拠隠滅の恐れがあるとして、緊急保全を要請します」

 

戸倉は薄く笑った。

 

「誰に?」

 

押村は黙る。

 

戸倉は続けた。

 

「警務部ですか。刑事部ですか。それとも本部長室ですか」

 

その声には、静かな嘲りがあった。

 

「あなた方が頼るべき組織の中に、どれだけこちら側の人間がいると思いますか」

 

千速の拳が握られる。

 

横溝が低く唸る。

 

「てめぇが本丸か」

 

戸倉は答えない。

 

だが、その沈黙は肯定に近かった。

 

その時だった。

 

監察官室の奥で、非常ベルが鳴り響いた。

 

赤い警告灯が点滅する。

 

職員たちがざわつき始める。

 

押村の目が鋭くなった。

 

「何が起きた」

 

受付の職員が慌てて端末を見る。

 

「地下区画で火災警報です!」

 

千速が叫ぶ。

 

「地下保管庫か!」

 

戸倉の表情が初めて動いた。

 

ほんの少しだけ、焦りが見えた。

 

横溝が怒鳴る。

 

「押村! 千速! 行くぞ!」

 

三人は奥の階段へ走った。

 

戸倉が背後で叫ぶ。

 

「待ちなさい! 許可なく地下へ入ることは――」

 

横溝が振り返りもせず怒鳴る。

 

「うるせぇ! 火事だろうが!」

 

千速が押村の横を走る。

 

「奏斗、これ絶対に証拠消しだ!」

 

「はい」

 

押村の声は低かった。

 

「急ぎましょう」

 

地下へ続く階段は薄暗かった。

 

非常灯だけが赤く光り、壁に三人の影を映している。

 

下へ降りるほど、焦げた匂いが強くなった。

 

横溝が先頭を走り、押村が続く。

千速は最後尾で背後を警戒していた。

 

「重悟、足元!」

 

階段の途中に、黒い液体が撒かれていた。

 

横溝が寸前で足を止める。

 

「油か」

 

押村がしゃがみ込み、匂いを確認する。

 

「可燃性の液体です。火災警報は偶然ではありません」

 

千速が背後を見る。

 

「誰かが燃やしに来た」

 

その瞬間、地下から物音が聞こえた。

 

金属製の扉が閉まる音。

 

横溝が舌打ちする。

 

「まだいるぞ」

 

三人はさらに階段を降りた。

 

地下区画の廊下には、煙が薄く広がっていた。

 

壁には「保管資料室」「地下保管庫」「廃棄待機室」と書かれた案内板。

 

そのうち、地下保管庫の方向から煙が出ている。

 

押村はハンカチで口元を覆った。

 

「横溝警部、消防を」

 

「もう要請させてる!」

 

千速が低く言う。

 

「でも消防が来る前に燃やされる」

 

三人は地下保管庫の前にたどり着いた。

 

扉は半開きだった。

 

中から煙が漏れている。

 

横溝が拳銃を構えた。

 

「警察だ! 中にいる者は出てこい!」

 

返答はない。

 

押村が扉の隙間から中を確認する。

 

棚が並んでいる。

古いファイル。

段ボール。

金属ロッカー。

 

その一角で、炎が上がっていた。

 

「火元は奥です!」

 

千速が近くにあった消火器を掴む。

 

「下がれ!」

 

彼女は迷わず中に飛び込み、消火器を噴射した。

 

白い粉が炎を包む。

横溝も別の消火器を掴み、奥へ入る。

 

押村は煙の中、棚に貼られた分類ラベルを見た。

 

「平成二十三年度監察記録」

「平成二十四年度内部照会」

「非公開資料」

「特別管理」

 

探すべきは三年前の記録。

 

押村は棚を辿る。

 

「三年前……港北区……交通部照会……」

 

煙で目が痛む。

 

喉が焼けるようだった。

 

千速が叫ぶ。

 

「奏斗! 奥の棚が燃えてる!」

 

押村は火元を見る。

 

そこには「特別管理」と書かれた棚があった。

 

炎に包まれかけている。

 

押村は迷わず走った。

 

「押村!」

 

横溝が叫ぶ。

 

押村は棚の中から、焦げかけた段ボールを引きずり出した。

 

熱い。

手袋越しでも熱が伝わる。

 

千速が駆け寄り、消火器を噴射する。

 

「無茶すんなって言ってんだろ!」

 

「まだ燃えていません」

 

「そういう問題じゃねぇ!」

 

押村は段ボールのラベルを見た。

 

「港北区交通死亡事故関連 内部確認資料」

 

押村の目が鋭くなる。

 

「これです」

 

横溝が寄ってくる。

 

「中身は」

 

押村は箱を開けた。

 

中には数冊のファイルと、古い記録媒体が入っていた。

 

だが、その一番上に、一枚の封筒があった。

 

封筒には手書きでこう書かれていた。

 

「久我案件 本当の同乗者」

 

千速が息を呑む。

 

「本当の同乗者?」

 

押村は封筒を開けた。

 

中には写真が数枚。

 

三年前の夜。

黒いセダン。

運転席に久我悠真。

助手席には、別の若い男。

 

だが、後部座席にも人影があった。

 

押村は写真を凝視した。

 

「三人乗っていた……?」

 

横溝が低く言う。

 

「おい、押村。この後部座席の男……」

 

押村は写真の裏を見た。

 

そこには名前が書かれていた。

 

戸倉圭吾

 

千速が目を見開く。

 

「戸倉……?」

 

押村の声が低くなる。

 

「監察官室次席、戸倉警視正の息子です」

 

横溝の拳が震えた。

 

「そういうことか……」

 

久我悠真だけではなかった。

 

三年前の黒いセダンには、もう一人、警察幹部の息子が乗っていた。

 

守られた罪。

 

それは久我家だけの罪ではない。

 

戸倉もまた、自分の息子を守るために、事件を隠した。

 

宮永が言った言葉の意味が、ようやく繋がる。

 

「三年前の事件で守られたのは、久我の息子だけではありません」

 

押村は写真を握りしめた。

 

その時、背後で金属音が響いた。

 

地下保管庫の扉が閉まる音。

 

千速が振り返る。

 

「まずい!」

 

外から鍵がかけられた。

 

横溝が扉に体当たりする。

 

「開けろ!」

 

返答はない。

 

煙が濃くなっていく。

 

火は完全には消えていない。

奥の棚の一部が再び燃え始めている。

 

押村はすぐに周囲を確認した。

 

「換気が止められています」

 

千速が扉を叩く。

 

「くそっ、閉じ込めやがった!」

 

横溝が無線を取る。

 

「横溝だ! 地下保管庫に閉じ込められた! 至急開錠しろ!」

 

だが、無線には雑音しか返ってこない。

 

押村が言う。

 

「地下で電波が遮断されています」

 

横溝が舌打ちする。

 

「戸倉の野郎……!」

 

千速が押村を見る。

 

「奏斗、別の出口は?」

 

押村は部屋の案内図を探した。

 

壁に古い避難経路図がある。

 

「奥に非常口があります。ただし、火元の向こう側です」

 

千速は消火器を確認する。

 

「残り少ないな」

 

横溝が拳銃を構える。

 

「扉の鍵を撃つか」

 

押村が止める。

 

「跳弾の危険があります。煙の中では危険です」

 

「じゃあどうする!」

 

押村は一瞬考えた。

 

火。

煙。

閉鎖された地下保管庫。

証拠資料。

三人。

 

以前の自分なら、資料を守ることを最優先にしたかもしれない。

自分一人で非常口まで走り、道を開こうとしたかもしれない。

 

だが、今は違う。

 

押村は資料の箱を横溝に渡した。

 

「横溝警部、資料を持ってください」

 

「お前は?」

 

「萩原、消火器を。私が前を確認します」

 

千速がすぐに睨む。

 

「一人で行くな」

 

「一人では行きません」

 

押村はまっすぐ千速を見た。

 

「三人で行きます」

 

千速は一瞬だけ黙った。

 

そして、にやりと笑った。

 

「よし。分かってんじゃねぇか」

 

横溝も箱を抱え直す。

 

「くだらねぇところで成長見せてんじゃねぇよ」

 

押村は少しだけ口元を緩めた。

 

「行きます」

 

三人は身を低くして、煙の中を進んだ。

 

千速が消火器で火を抑える。

押村が前方の障害物をどかす。

横溝が資料箱を抱え、背後を守る。

 

火の熱が肌を刺す。

煙で視界が白く霞む。

 

千速が咳き込む。

 

押村がすぐに振り返る。

 

「萩原」

 

「平気だ!」

 

「無理をするな」

 

「お前にだけは言われたくねぇ!」

 

その声に、横溝が怒鳴る。

 

「二人とも喧嘩してる場合か!」

 

三人は奥の非常口へたどり着いた。

 

だが、扉には古い鎖が巻かれている。

 

横溝が舌打ちする。

 

「やっぱり塞がれてやがる」

 

千速が周囲を見る。

 

「工具は?」

 

押村は壁際の非常用ボックスを開けた。

 

中には錆びたバールが一本。

 

押村が手に取ろうとした瞬間、千速が横から奪った。

 

「こういうのは私の方が得意だ」

 

「萩原」

 

「任せろ」

 

千速はバールを鎖に差し込み、全身の力で押した。

 

「っ……!」

 

鎖が軋む。

 

押村もすぐに手を添えた。

 

「一緒に」

 

千速は一瞬だけ押村を見た。

 

「遅ぇよ」

 

二人でバールを押し込む。

 

横溝も資料箱を床に置き、加わった。

 

「どけ、俺もやる!」

 

三人の力で鎖が悲鳴を上げた。

 

そして、音を立てて外れた。

 

非常口が開く。

 

冷たい外気が流れ込んできた。

 

「出るぞ!」

 

横溝が資料箱を抱え直し、三人は非常階段へ飛び出した。

 

地上へ出た時、消防隊がちょうど到着していた。

 

煙が地下入口から上がっている。

 

監察官室の職員たちが慌ただしく動いている。

 

だが、戸倉の姿はなかった。

 

千速が周囲を見回す。

 

「戸倉は?」

 

横溝が近くの職員の胸ぐらを掴む。

 

「戸倉警視正はどこだ!」

 

職員は怯えながら答えた。

 

「わ、分かりません! 先ほど外へ……」

 

押村はすぐに察した。

 

「逃げた」

 

横溝が低く唸る。

 

「くそっ!」

 

その時、押村のスマホが震えた。

 

差出人不明。

 

本文は一行。

 

『資料を持って出たか。なら次は萩原千速を返してもらう』

 

押村の表情が凍った。

 

千速が画面を覗き込む。

 

「また私かよ」

 

「萩原、下がって――」

 

押村が言いかけた瞬間だった。

 

敷地の外から、黒いワンボックスカーが急発進した。

 

その車の窓から、こちらに何かが投げ込まれる。

 

小さな金属筒。

 

千速が反射的に叫んだ。

 

「伏せろ!」

 

閃光。

 

強烈な音と光が、三人の視界を奪った。

 

押村は耳鳴りの中で、千速の腕を掴もうとした。

 

だが、手は空を切った。

 

「萩原!」

 

視界が戻りかけた時、千速の姿はなかった。

 

地面に、彼女の無線機だけが落ちていた。

 

横溝が怒鳴る。

 

「千速!」

 

押村は無線機を拾い上げた。

 

手が震えていた。

 

黒いワンボックスカーは、すでに県警本部の敷地を出ようとしている。

 

押村の顔から、完全に血の気が引いた。

 

横溝が叫ぶ。

 

「押村、追うぞ!」

 

だが、押村は一瞬動けなかった。

 

胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした。

 

千速がいない。

 

ついさっきまで隣にいた。

自分を「奏斗」と呼んでいた。

一緒に煙の中を走った。

 

その千速が、いない。

 

押村の手の中で、無線機が軋んだ。

 

そして、差出人不明のメールが再び届く。

 

『三年前の資料と交換だ。押村奏斗、一人で来い』

 

押村の目が暗く沈んだ。

 

横溝が押村の肩を掴む。

 

「押村!」

 

押村はゆっくりと顔を上げた。

 

その目に、今まで見せたことのない怒りが宿っていた。

 

「横溝警部」

 

「何だ」

 

「今度だけは、冷静でいられる自信がありません」

 

横溝は一瞬黙った。

 

そして、押村の肩を強く掴み直した。

 

「だったら俺が冷静でいてやる」

 

押村は横溝を見る。

 

横溝は鋭い目で言った。

 

「一人で行かせねぇ。千速も、資料も、全部取り返す」

 

押村は目を伏せた。

 

千速の無線機を握りしめる。

 

「……はい」

 

県警本部の外へ、黒い車が消えていく。

 

三年前の真実を記した資料。

戸倉の息子の名前。

そして、奪われた萩原千速。

 

地下保管庫から持ち出した真実は、すぐに新たな代償を求めてきた。

 

押村奏斗は、初めてはっきりと思った。

 

真実よりも大切なものがある。

 

だが、その大切なものを守るためにも、真実から逃げるわけにはいかなかった。

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