無価値スキル【価格表示】が覚醒したら、ガラクタで最強になった。   作:鍵宮ファング

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第28話 コレがワタシの恩返し

「クラド、カグヤ。ここは任せて、先に行って」

 

 ミリスの言葉を聞いた瞬間、二人は何を言われたのか理解できず、ただ呆然(ぼうぜん)と彼女の顔を見返した。

 

 ここへ残るということは、三人がかりでも勝てなかったゼロを相手に、たった一人で時間を稼ぐという意味に他ならない。

 

「それはダメだ!」

 

 真っ先に声を荒げたクラドは痛みも忘れたように身を乗り出し、今にも倒れそうなミリスの肩を掴もうと手を伸ばした。

 

「そんなの絶対ダメだ! お前一人残ったら――」

 

「クラド」

 

 だがミリスが静かに名前を呼ぶと、それだけで続きの言葉は喉の奥へ引っ込んでしまう。

 

「時間がないの」

 

 ミリスは裏口へ視線を向けた。

 

 遠くで鳴り続ける鐘の余韻(よいん)が、まだ地下倉庫の空気を震わせている。

 

 夜天競売会(ノクスアウクティオ)は、既に始まっている。

 

「でも!」

 

「それに、今下手に動くのも悪手(あくしゅ)です」

 

 今度はカグヤが口を開いた。

 

 普段通り落ち着いた声だったが、その指先は小さく震えている。

 

「この空間には奴の能力がまだあります。下手に移動すれば、会場へ向かうより先に切り刻まれます!」

 

 カグヤの言葉に反論できる者はいなかった。

 

 実際、こんな地雷原の中を駆けるのは、無茶というより自殺行為に等しい。

 

 それでもミリスだけは首を横へ振った。

 

「だからミリスが残る」

 

「いけません」

 

 即座にカグヤが否定する。

 

 その反応は、いつもよりずっと強かった。

 

「ミリス殿が残る必要なんてありません」

 

 カグヤは(うつむ)き、唇を強く噛み締める。

 

 そして、そっとミリスの肩に手を触れた。

 

「貨物なんて、もうどうだっていいんです。私の目的なんかより、ミリス殿の命の方がずっと大事です!」

 

 その場に沈黙が落ちた。

 

 ミリスは目を見開く。

 

「だから、お願いです」

 

 カグヤはゆっくりと顔を上げた。

 

 いつも冷静な紫の瞳が、今だけは少し潤んでいる。

 

「一緒に、乗り切りましょう」

 

 その言葉に、ミリスは小さく目を伏せた。

 

 少しだけ。

 

 本当に少しだけ、迷うように。

 

 けれど次の瞬間には、もう答えを決めていた。

 

「やっぱり、二人とも優しいね」

 

 そう呟いた瞬間、クラドたちの身体がふわりと宙を舞った。

 

「おいミリス! やめろ!」

 

「ダメです! 降ろしてください!」

 

 クラドが必死に腕を伸ばす。

 

 カグヤも空中を泳ぐように、必死にミリスのもとへ戻ろうと試みる。

 

 だが――。

 

「ごめん」

 

 ミリスは小さく微笑みながら、二人にそっと手を振った。

 

 次の瞬間、重力の向きが一気に反転する。

 

「うわっ――!」

 

「きゃあっ!」

 

 クラドとカグヤの身体が弾かれるように裏口へ吹き飛んだ。

 

 床も壁も関係ない。

 

 暴風のような重力が二人を押し流し、奥の通路へ叩き込む。

 

「ミリス!」

 

 最後に聞こえたのはクラドの叫びだった。

 

 それすら重い扉が閉まる音に掻き消される。

 

「あーあ」

 

 閉じた扉を一瞥(いちべつ)したゼロは、呆れたように肩を(すく)めた。

 

「逃がしちゃった」

 

 その声音に焦りの欠片もなく、むしろ彼の興味は完全にミリスへ移っていた。

 

 獲物を観察する肉食獣の目でミリスを見据(みす)え、指先でナイフを回す。

 

「でも、まあいいや。先にキミで遊ぶことにするよ」

 

 言葉が終わるより早く、ゼロが床を蹴った。

 

 空気が弾ける。

 

 一直線の突進。

 

 ミリスは反射的に手を振り上げた。

 

 石畳(いしだたみ)ごと持ち上げられた瓦礫(がれき)の壁が、二人の間へ割り込んだ。

 

 轟音(ごうおん)(ひび)く。だが次の瞬間には壁が崩壊する。

 

 ナイフが振られたのだ。

 

 ただそれだけで数トンはある瓦礫(がれき)紙細工(かみざいく)のように切り裂かれる。

 

 破片が吹き飛ぶ。

 

 ミリスは後方へ飛び退いた。

 

「くっ……!」

 

 裂傷(れっしょう)の走る脚が悲鳴を上げる。

 

 それでも止まらない。

 

 両手を振り下ろす。

 

 天井近くで浮いていた木箱が重力に引かれ、隕石(いんせき)のような勢いで落下した。

 

 ゼロが横へ一歩踏み出すと同時に、落下した木箱が床を砕く。

 

 だが当たらない。

 

 まるで未来が見えているように、最小限の動きで()け続ける。

 

 そのミリスとゼロの攻防を、ラグナは血に()れた床へ伏したまま見上げていた。

 

(ダメだわ)

 

 血に()れた床へ伏したまま、ラグナは苦々しく(くちびる)を噛んだ。

 

 クラドたちと戦っていた時もそうだった。

 

 ゼロは最初から本気を出してはいない。

 

 今だって戦っているように見えるだけで、実際は違う。

 

 ミリスもラグナも満身創痍(まんしんそうい)で立っているのがやっと。

 

 なのに、ゼロだけは散歩でもしているみたいな顔で攻撃を()ける。

 

 天井近くまで持ち上げられた木箱が落下し、倉庫の床を砕く轟音を響かせる。

 

 しかし、その直撃コースにいたはずのゼロは、まるで散歩の途中で水たまりを避けるかのような気軽さで身をずらし、直撃圏(ちょくげきけん)からあっさりと外れていた。

 

「もう終わり?」

 

 退屈(たいくつ)そうな欠伸混(あくびま)じりの声が響く。

 

 ミリスは答えない。

 

 代わりに両手を振り上げると、床一面に散らばっていた瓦礫(がれき)が一斉に浮かび上がり、暴風のようにゼロへ殺到(さっとう)した。

 

 普通なら逃げ場など存在しない。

 

 だがゼロは違った。

 

 肩を半寸(はんすん)ずらし、一歩踏み替えるだけで、殺到(さっとう)する障害物(しょうがいぶつ)()うように抜けていく。

 

 その動きには焦りも力みもなく、まるで最初から飛来する軌道を知っていたかのようだった。

 

 そして、その均衡(きんこう)が崩れたのは一瞬だった。

 

 ミリスの呼吸が乱れる。

 

 全身を(めぐ)る痛みと失血が限界に近づいていたのだろう。

 

 重力操作の出力がほんの(わず)かに鈍り、空中に浮かぶ瓦礫(がれき)の動きに(かす)かな乱れが生じる。

 

 ゼロはそれを見逃さない。

 

「あ」

 

 面白い玩具を見付けた子供みたいな声だった。

 

 次の瞬間には、もう目の前にいる。

 

「――ッ!」

 

 ミリスが反応した時には遅かった。

 

 ゼロの()りが腹部に深々とめり込み、(にぶ)衝撃音(しょうげきおん)と共に身体が吹き飛ぶ。

 

「がっ……!」

 

 壁に叩き付けられる寸前、空中で鮮血が弾けた。

 

 見えない、けれど確かに存在する刃。

 

 固定されていた不可視の斬撃が、吹き飛ばされたミリスの身体を容赦(ようしゃ)なく切り裂いた。

 

 肩が裂け、脇腹が(えぐ)れ、太腿(ふともも)から赤い飛沫が散る。

 

「ミリスちゃん!」

 

 ラグナの叫びが響く。

 

 それでもミリスは倒れなかった。

 

 床へ転がりながら震える腕を突き、何とか身体を起こそうともがく。

 

 その姿は痛々しいほどだったが、逆にゼロには理解できなかった。

 

 ナイフをくるりと回しながら近付いて、心底不思議そうに首を傾げる。

 

「ねえ、いい加減(あきら)めたら? キミ一人でぼくを倒すなんて無理だったんだよ」

 

 その口調には嘲笑(ちょうしょう)すらなかった。

 

 本当に事実を説明しているような口調で続ける。

 

「さっさと死んだ方が楽になるのにさあ」

 

 ミリスは(うつむ)いたまま、肩で荒く息を吐く。

 

 血は止まらない。

 

 意識だって途切れかけている。

 

 立っているだけでも奇跡と呼べる状態だった。

 

 それでも――。

 

「……嫌だ」

 

 (かす)れた声が漏れる。

 

 小さい。けれど、その中には確かな意思が宿っていた。

 

「諦めたくない……!」

 

 ゼロが(わず)かに眉を寄せる。

 

 この女は何を言っているのだろう。と、全く理解できなかった。

 

 ミリスは血に濡れた拳を握り締めながら、震える声で続ける。

 

「クラドは、暗い世界にいたミリスを連れ出してくれた」

 

 脳裏(のうり)に浮かぶのは、あの日差し伸べられた手。

 

 薄汚れていたが、確かな温もりのある手の記憶が(よみがえ)る。

 

「カグヤは、ミリスたちのために、一人でミザールと戦った」

 

 あの背中を思い出す。

 

 震えていたはずなのに、一歩も退かなかった少女の勇姿(ゆうし)を。

 

「ヴェルカは、ミリスたちに広い世界を見せてくれた」

 

 自由奔放(じゆうほんぽう)で自己中心的な酒飲みの笑い声が(よみがえ)る。

 

 仲間を思う度に、気付けば涙が(ほほ)を伝っていた。

 

 それでも言葉は止まらない。

 

「でもミリスは……まだ何も返せてない」

 

 恩返(おんがえ)しも、感謝(かんしゃ)も。

 

 何ひとつ。

 

 だから――。

 

「こんな所で諦めちゃダメなの!」

 

 叫びと同時に、空気が(きし)んだ。

 

 床が鳴る。壁が震える。

 

 倉庫全体を揺らすほどの重力が、ミリスを中心に膨れ上がっていく。

 

(もう……無理かも……)

 

 肺は焼けるように熱い。

 

 骨は(きし)み、筋肉は悲鳴を上げている。

 

 それでも、ミリスは両手を下ろさない。

 

(まだ……足りない……)

 

 ここで倒れたら終わる。

 

 クラドも、カグヤも。

 

 全部終わってしまう。

 

「《重力(グラビティ・)反転(リバース)》」

 

 その一言で、世界がひっくり返った。

 

 轟音と共に倉庫全体が激しく揺れ、積み上がっていた木箱が一斉に宙へ浮かび上がる。

 

 いや、違う。

 

 浮いたのではない。

 

 落ちたのだ。

 

 重力そのものが反転し、床が天井に、天井が床へと入れ替わったのである。

 

「へぇ」

 

 ゼロは感心したように声を漏らす。

 

 だが(おどろ)きはない。

 

 むしろ少し楽しそうですらあった。

 

「それが切り札?」

 

 新たな床――かつての天井へ軽やかに着地しながら、ゼロは指先でナイフを回す。

 

 その瞳には相変わらず敗北の影など欠片も映っていなかった。

 

(これ以上やったら、ミリスちゃん……)

 

 ラグナは血塗れの身体を横たえたまま歯を食いしばる。

 

 重力が反転したところで、ゼロの能力そのものは変わらない。

 

 不可視の斬撃の位置も、安全地帯も、本人は全て把握しているはずだ。

 

 だからこそ――。

 

 ザシュッ。

 

 不意に響いた裂傷音(れっしょうおん)が、その確信を打ち砕いた。

 

「……あれ?」

 

 ゼロが足を止める。

 

 右肩から赤い血が流れていた。

 

 浅い傷。だが間違いなく、自分自身の斬撃によってできた傷だった。

 

「どうして?」

 

 声が震える。微動(びどう)だにしなかった唇が、わなわなと痙攣(けいれん)する。

 

「どうしてここにあるんだ?」

 

 体勢を立て直そうと一歩退いた瞬間、今度は脇腹が鋭く裂ける。

 

 鮮血が舞い、ゼロの身体が僅かによろめいた。

 

 無表情は崩れない。

 

 それでも瞳だけは確かに揺れている。

 

 初めて、自分でも理解できない状況へ放り込まれた人間の目だった。

 

「そっか」

 

 ラグナは血を吐きながら笑う。

 

 苦しそうに、それでいて、どこか愉快(ゆかい)そうに。

 

「そういうことか」

 

 ゼロの斬撃は空間そのものへ固定されている。

 

 だがゼロ自身は違う。

 

 安全地帯を覚えていたのは、あくまで元の重力基準(じゅうりょくきじゅん)での話。

 

 世界が裏返(うらがえ)れば、頭の中の地図も裏返(うらがえ)る。

 

 今まで安全だった場所は、もう安全ではない。

 

「読み違えたのね」

 

 その言葉に、ゼロの目が僅かに見開かれた。

 

 ほんの一瞬。

 

 けれど確かに――()()という可能性を認識した瞬間だった。

 

「――《幸吸執(ラッキー・ストライク)》」

 

 ラグナの指先が震える。

 

 血に濡れた掌から何かが剥がれ落ちるような感覚が走る。

 

 それと同時に目には見えない何かが、ゼロの身体から抜け出していく。

 

 それは才能でも実力でもない。

 

 もっと曖昧(あいまい)で、最も理不尽な、勝敗を僅かに傾ける存在――運だった。

 

 ――《幸吸執(ラッキー・ストライク)》。

 

 ゼロから零れ落ちた運が、ラグナの中へ流れ込んでいく。

 

 ゼロは無表情のまま周囲を見回した。

 

「何をしたの?」

 

 ラグナは込み上げる血を吐き出しながら、それでも愉快そうに口元を吊り上げる。

 

「勝負の基本を教えてあげるわ」

 

 傷口の痛みを(こら)えようと息を吸い込み、それからゆっくりと言葉を続けた。

 

「それはね、“負けるかも”って不安を捨てることよ」

 

 ゼロは何も言わない。

 

 ラグナは構わなかった。

 

 今の彼女には、ゼロが何を考えているのか、手に取るように分かっていたから。

 

「アンタの記憶力は本物だわ。配置した斬撃の位置も、自分が歩いた軌道も、全部頭に入っていたんでしょうね」

 

 だからこそ、見えない地雷原の中を平気で歩けた。

 

 だからこそ、誰よりも自由に戦えた。

 

「でも、それは途中まで完成していたパズルと同じなのよ」

 

 ラグナはゼロを見据えながら笑う。

 

「多少ピースが入れ替わる程度なら問題ない。でも、土台ごとひっくり返されたらどうなると思う?」

 

 その言葉で、ゼロの眉がピクリと動いた。

 

 ゆっくりとミリスへ向けられた視線が、その答えを示している。

 

「重力反転……」

 

 小さな呟きに、ラグナは満足そうに頷いた。

 

「そう。アンタの頭の中にあった地図は、その瞬間に全部狂ったのよ」

 

 そこで不意に、ミリスが目をぱちぱちと瞬かせた。

 

「え?」

 

 数秒の沈黙が流れる。

 

 ラグナは嫌な予感を覚えながら視線を向けた。

 

「……え?」

 

 ミリスは本気で不思議そうな顔をしていた。

 

「そんな効果があったの?」

 

 ラグナの笑顔が固まる。

 

「アナタ無自覚でやってたの⁉」

 

「だ、だって必死だったし……!」

 

 困ったように言い返すミリスを見て、ラグナは頭を抱えたくなった。

 

 ゼロも一瞬黙り込み、倉庫の中に何とも言えない空気が流れる。

 

 だが結果は変わらない。ラグナは咳払いをして再び笑った。

 

「まあいいわ。理由がどうであれ、結果はオーライなんだから」

 

 そう言ってゼロへ視線を戻す。

 

「記憶が当てにならなくなった時点で、後は運と実力の勝負になる。そしてアンタは、その瞬間に一度だけ思ったのよ」

 

 ラグナの言葉に合わせるように、ゼロの瞳が揺れた。

 

「――()()()()()()()()()、ってね」

 

 沈黙。それが何より雄弁(ゆうべん)な答えだった。

 

 自分の斬撃に触れた時。安全なはずの場所で傷付いた時。

 

 ゼロは初めて理解できない状況へ放り込まれた。

 

 そして、その一瞬だけ敗北を想像してしまった。

 

「だから《幸吸執(ラッキー・ストライク)》が発動できた」

 

 ラグナは断言する。

 

「勝負はその瞬間、既に終わっていたのよ」

 

 ゼロはただ静かにナイフを握り直す。

 

 そんな彼を見ながら、ラグナは血塗れの顔で小さく笑った。

 

「知ってるかしら? 勝利の女神様のタイプ」

 

 ラグナはゆっくりと指を立てる。

 

「答えは簡単。どれだけ追い詰められても、どれだけ無様でも、“絶対に勝つ”って譲らない意地っ張り」

 

「……つまり、何が言いたい?」

 

「そんな人にしか、女神様は微笑まないってことよ」

 

 血に濡れた指先で、ミリスを指し示す。

 

「だから行きなさい」

 

 ラグナは舌を出して笑いかける。

 

「今この瞬間だけは、勝利そのものがアンタの味方なんだから」

 

 ゼロは舌打ちと共に後方へ飛び退いた。

 

 だが、その着地点を横切るように固定されていた斬撃が走り、鮮血を撒き散らす。

 

 それと同時に、彼の顔から余裕が完全に消え失せる。

 

「――ッ」

 

 理解できなかった。

 

 自分は覚えている。

 

 どこへ斬撃を置いたのかも、どこが安全地帯なのかも、その全てを頭の中へ叩き込んでいる。

 

 だから避けられる。

 

 だから勝てる。

 

 それが当たり前だった。

 

 それなのに、逃げようとする度に斬られ、距離を取ろうとする度に傷が増えていく現実。

 

 まるで自分自身が設置した罠によって追い詰められていくようで、ゼロの思考を少しずつ、しかし確実に(むしば)んでいた。

 

「何でだよ……!」

 

 ナイフを握る指先が震える。

 

 その震えは恐怖ではない。

 

 理解できないものへ直面した人間だけが抱く、純粋な混乱だった。

 

「意味が分からないんだよ! どうしてそこまで足掻(あが)く! どうして諦めない!」

 

 叫びながら振るわれた刃は鋭い。

 

 だが先程までとは違う。

 

 そこには余裕も、冷静さもなく、勝利を確信した者だけが持つ洗練も存在しなかった。

 

「どうせさっきの奴らだって、会長の足元にも及ばない雑魚じゃないかッ! だから簡単にお前を置いて逃げたんじゃないのかッ!」

 

 しかし、焦りに濁った攻撃を(かわ)しながら、ミリスはただ一言だけ呟く。

 

「……黙れ」

 

 静かな声だった。

 

 その声には今まで誰も聞いたことがないほど、強い怒りが宿っていた。

 

「どうせ無駄だ! キミたちみたいな雑魚はさぁ! 上流階級(ボクたち)搾取(さくしゅ)されるだけの家畜(エサ)なんだよォ!」

 

 ゼロは気付いていない。

 

 自分が追い詰められていることにも。

 

 目の前の少女が、既に手の届く距離まで迫っていることにも。

 

 だから。

 

「お前に何が分かる! このデク人形風情(にんぎょうふぜい)がよォォォォォォッ!」

 

 クラドを(あざけ)り、カグヤを見下し、全てを否定するようにナイフを振り上げた瞬間――。

 

 ミリスの拳が、真正面からゼロの顔面に突き刺さった。

 

 鈍い衝撃音と共に頬骨(ほおぼね)が砕け、歯が飛び散り、首が不自然な角度まで捻じ曲がる。

 

 何が起きたのか理解する(ひま)すら与えらず、ゼロの身体は壁へ吹き飛ばされた。

 

「――あぇ?」

 

 間抜けな声だった。

 

 だが、その疑問に答える者はいない。

 

 ミリスは既に踏み込んでいた。

 

 腹部(ふくぶ)へ。

 

 胸部(きょうぶ)へ。

 

 (あご)へ。

 

 顔面(がんめん)へ。

 

「馬鹿に……するな……!」

 

 次々と叩き込まれる拳は、その細い身体から放たれたとは到底思えないほど凶悪な破壊力を(ともな)い、ゼロの身体を壁と床の間で何度も跳ね回らせる。

 

 異常だった。

 

 本来、重力操作は空間に干渉(かんしょう)するだけの能力。

 

 自身の肉体を強化する(たぐい)の技術ではない。

 

 まして、ミリスは近接戦闘(きんせつせんとう)の専門家でも、(きた)え抜かれた肉体を持つ戦士でもない。

 

 にもかかわらず、その拳はガノックの一撃にも匹敵する力を生み出していた。

 

 理屈だけなら単純だ。

 

 殴打(おうだ)の瞬間に限り、拳の周囲に局所的(きょくしょてき)な超重力を発生させる。

 

 重力によって速度を増幅(ぞうふく)し、質量そのものを引き上げることで、本来ならあり得ない破壊力へ(てん)ずる。

 

 だが、それは理論上の話でしかない。

 

 拳を振る速度。重力を発生させるタイミング。

 

 そして、重力を解除する瞬間。

 

 その全てが一瞬でも狂えば、壊れるのは相手ではなく、自分の腕。

 

 人体の限界を超えた重力は、骨を砕き、筋肉を裂き、関節を内側から崩壊させる。

 

 それは技術ではなく、自傷行為と同じ。

 

 何年も研究し、何百回と失敗を重ねて初めて形になるはずの危険な発想なのだ。

 

 だがミリスは、その全てを飛び越えた。

 

 怒りだけで。

 

 仲間を侮辱(ぶじょく)されたという、ただそれだけの感情で。

 

 まるで最初から知っていたかのように、身体が勝手に最適解(さいてきかい)を選び続けるに至った。

 

「クラドは雑魚なんかじゃない!」

 

 拳がゼロの腹へ沈む。

 

「カグヤも、ヴェルカも! 雑魚なんかじゃない!」

 

 肋骨(あばらぼね)が砕ける。

 

「逃げたんじゃない! ミリスが逃がした!」

 

「が……がが……」

 

「だから、みんなを悪く言うことだけは、絶対に許さないッ!」

 

 最後の一撃が炸裂(さくれつ)した瞬間、ゼロの身体は砲弾のような勢いで吹き飛び、倉庫の壁を何枚も突き破った。

 

 肩で息をしながら拳を見下ろしたミリスは、自分でも驚いた顔で指を動かす。

 

 骨は折れていない。

 

 皮膚も裂けていない。

 

 けれど、二度と同じことをやれと言われても、出来る気はしなかった。

 

 理論も知らない。

 

 再現方法も分からない。

 

 ただ怒りのまま振るった結果、偶然成功しただけ。

 

 だから当然――

 

 その技には、まだ()()()()()()()

 

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