ベル・クラネルの代わりに世界を救うのは間違っているだろうか 作:ただくも
薄緑色の迷宮の光が届かない、陰湿な通路の奥。パチャリ、と湿った足音が響いた瞬間、正面の地面から『ウォーシャドウ』が這い出てきた。
上層における「新米殺し」の異名を持つ、悪名高きモンスターだ。
身の丈は160センチほど。平均的な体格である俺とほぼ同じ目線。手足の先から頭の天辺まで、すべてが光を吸い込むような黒一色だ。唯一、十字の形を描く頭部には、顔面と思しき手鏡のような真円状のパーツがはめ込まれている。異様に長い両腕の先には3本の鋭利な指が備わっており、その鋭い切っ先は剥き出しのナイフそのものだった。
真円のパーツが怪しく光り、ウォーシャドウは一切の声を上げぬまま、無気味な無音で長い黒腕を振り回して突進してくる。
俺は一歩深く踏み込み、鋭く迫る三指のナイフを紙一重でかわした。速度に任せて強引に突っ込んでくる敵の勢いを利用し、手首を返す。鉄の片手剣が、ウォーシャドウの長い二腕の隙間をすり抜け、真円のパーツへと正確に突き出された。
ガキィン! と硬質な音が響き、パーツが砕け散る。間髪入れず、引き抜きざまに刀身を払うと、黒い肉体が激しくブレて霧散した。
しかし、休む間もなく頭上から殺気が降り注ぐ。
天井の影から現れたのは、巨大な単眼を持った蛙のモンスター──『フロッグ・シューター』だ。
「ゲコォッ!」
不気味な鳴き声と同時に、肉を切り裂くような速度で長い舌が撃ち出される。弾丸さながらの勢いで迫るそれを、俺は反射的に身体を捻って回避した。鋭い舌の先端が通路の石床を穿ち、激しい火花が散る。
避けた隙を突かれ、別のウォーシャドウの不意の一撃が俺の左腕の薄皮を切り裂いた。痛覚が鈍化しているとはいえ、完全に感覚がないわけではない。出血死のリスクを避けるためにも、致命傷だけは絶対に許さない。
反転し、バックステップで間合いを外しながら、片手剣を斜め上へと振り抜く。襲いかかってきたウォーシャドウの胴体を鋭く両断し、そのままの勢いで着地と同時にフロッグ・シューターの懐へと踏み込んだ。
巨大な単眼が恐怖に揺れるよりも早く、鉄の刃がその喉元を深く断ち切る。
確実に、そして最短の動きで敵の息の根を止め続ける。
モンスターがいなくなり、静寂が辺りを包んだ頃、果てのない深淵の先を見据えながら、俺は一度、地上へと引き返した。
◇
ギルド内の受付のすぐ近くにある換金所。
カウンターの向こう側にいる無愛想な中年男性の職員は、俺が差し出した大量の魔石とドロップアイテムを、値踏みするような一瞥とともにトレイへと移した。
彼は言葉もなく、ただ淡々と、機械的な手つきで魔石の重量を量り、計算を進めていく。
「……2万8000ヴァリスだ。確認しろ」
低く、抑揚のない声。差し出された硬貨の袋を俺が受け取ると、おじさん職員はそれ以上視線を合わせることもなく、すぐに次の作業へと戻っていった。
換金所のカウンターを離れ、ギルドのロビーを見渡すと、デスクで書類に目を通しているエイナさんの姿を見つけた。
俺はそのまま彼女の方へと歩み寄り、声をかける。
「あの、エイナさん」
「あ、カナタ君……って、ちょっとキミ、その怪我は大丈夫!? 衣服もボロボロじゃない! 痛くないの? 結構深く切れているわよ!」
顔を上げた瞬間、俺の無惨な格好と左腕から滲む血に気づき、エイナさんは血相を変えて立ち上がった。
「大丈夫ですよ、エイナさん。俺、結構頑丈みたいで。……あの、すみません。無茶はしないって約束したばかりなのに、早速こんな格好で声をかけちゃって。でも、エイナさん。実は少し相談というか、
お願いがありまして」
「お願い……?」
「はい。良ければどこか個室で、俺のステイタスを直接見てくれませんか。それを見て判断した上で、もっと下の階層へ降りる許可をいただきたいんです」
俺がそう告げると、エイナさんはハッとしたように周囲を見回した。ステイタスは冒険者にとって命そのものの重要情報だ。
彼女はすぐさま俺の手を引き、完全に周囲から隔離された個室へと引っ張り込んだ。重い扉を閉めてきっちりと鍵をかける。
個室の中に入ると、エイナさんは手際よく俺の左腕に包帯を巻きながら、まだ信じられないといった様子で視線を巡らせていた。
「ステイタスを直接見せるだなんて、本当にいいの……? それに、下の階層への許可って……」
「はい。失礼します」
俺は衣服の襟を広げ、自分の背中をエイナさんに向けて見せた。主神によって刻まれた恩恵の文字。アビリティの数字だけが視認できるように服をずらす。
衣服の隙間から覗く俺の背中の文字を読み解いた瞬間、エイナさんは息を呑み、言葉を失った。
「これは……嘘、でしょ……?」
数日目の新人としては、完全に常軌を逸した成長度。特に俊敏に関する数値は、すでに中層の冒険者すら脅かし兼ねない領域に達していた。
「これだけの力が身についているんです。だから、もう少しだけ、下の階層へ潜る許可をいただけませんか? もちろん無茶はしません。エイナさんのアドバイスを厳守しますから」
真っ直ぐに彼女の目を見つめて懇願する。エイナさんは信じられないものを見る目で俺の背中を見つめ、やがて大きなため息をついた。
「……わかったわ。ただし、7層より先へ行くときは、必ず事前に私に相談すること。いいね?」
「はい! ありがとうございます、エイナさん」
俺が衣服を整え、個室のドアノブに手をかけたその時、エイナさんが後ろから静かに、だけど真剣な声をかけてきた。
「カナタ君。……これだけの速度で成長しているなら、身体や心にかかる負担も普通じゃないはずよ。進むことだけじゃなくて、しっかり休むことも同じくらい大事なんだからね。分かった?」
「──。はい、心に留めておきます」
一瞬だけ動きを止め、俺は振り返っていつもの笑みを浮かべてみせた。そのまま、気遣ってくれた彼女に会釈をして個室を後にした。
◇
ギルドを出た後、俺は足早に中央広場を抜け、西メイン通りにある大きな酒場へと向かった。巨大な木造建築の店舗。看板には『豊穣の女主人』と書かれている。
昨日、シル・フローヴァと交わした「お金が貯まったら必ず行く」という約束。ここで無視すれば、かえって彼女の──あるいはその背後のフレイヤの不審を買う。金が手に入ったその日のうちに来るのが、最も自然な行動だ。
ガラガラと扉を開けると、凄まじい熱気と喧騒が押し寄せてきた。
「いらっしゃい! 空いてる席に座りな!」と店主のミア・グランドが厨房から地鳴りのような声をあげる。俺は促されるまま、カウンターの端の席に腰を下ろした。
「……あ、昨日の冒険者さん! 本当に来てくれたんですね」
すぐに、灰色の髪を揺らしたシルが嬉しそうに駆け寄ってきた。
「約束ですからね。今日、まとまったお金が入ったんです。……あ、俺はカナタと言います。カナタ・カミシロです」
「カナタさん、ですね。私はシル・フローヴァです。お料理、おすすめのものを何か持ってきますね」
しばらくして、シルが運んできたのは、肉がこれでもかと盛られた煮込み料理と麦酒だった。周囲の冒険者たちが美味そうに頬張る中、俺もスプーンで肉を口に運ぶ。
──やはり、何も味がしない。口の中にあるのは、ただの温度を持った固形物だ。
「……! 凄く美味しいです、シルさん」
「……ふふ、よかったです」
シルが微笑んだその時、カウンターの奥からもう一人、薄緑色の髪のエルフが歩み寄ってきた。木製のトレイを抱え、冷徹とも言える澄んだ瞳で俺をじっと見つめている。
──『疾風』、リュー・リオン。
「シル、あまり長話をしてはお客の邪魔になります。……それに、あなた」
「え、俺ですか?」
リューの鋭い視線が、俺の全身を品定めするように射抜いた。元第一級冒険者。その眼力は、俺のボロボロの衣服や、隠しきれない異様な気配を正確に捉えているようだった。
「Lv.1の駆け出しの佇まいではありませんね。……無茶な深追いは身を滅ぼします。命を大事にしなさい」
「……はい。忠告、ありがとうございます」
俺が静かに頷くと、リューはそれ以上追及することなく、短く告げて給仕へと戻っていった。シルも「また後でね」と笑い、彼女に続く。背筋に冷や汗が流れるのを感じながら、俺は料理を胃袋へと流し込んだ。
◇
「カナタ君、ステータスの更新だよ。……準備はいいかい?」
深夜の廃教会。
ベッドにうつ伏せになった俺の背中にまたがり、恩恵の文字を更新したヘスティア様が、小さく息を呑む気配が伝わってきた。
カナタ・カミシロ
Lv.1
力:E(412)→D(522)
耐久:F(312)→E(410)
器用:E(437)→D(541)
敏捷:C(634)→B(788)
魔力:I(0)
≪魔法≫
【 】
≪スキル≫
【救界義務】
【聖火殉情】
すべての項目が大きく跳ね上がっている。特に敏捷は、Lv.1の限界とされる領域すら見え始めていた。
「……本当に君の成長速度は恐ろしいよ。身体だって、あちこち傷だらけじゃないか」
ヘスティア様の声は微かに震えていた。俺の身を案じ、今にも泣き出しそうなほどの心配が伝わってくる。だが、彼女はそこで涙を流さなかった。ぐっと拳を握りしめ、深く息を吐くと、ベッドから飛び降りて俺の前に回り込んだ。その表情は、神としての威厳と、強い意志に満ちていた。
「本当はね、カナタ君。安全にダンジョンに潜ってほしいよ。……だけどね、ボクは君の神様だ! 君がそれだけの覚悟で戦っているなら、ボクがいつまでもオロオロしてちゃいけないね。どっしり構えて、君の帰りを待つのがボクの役目だ!」
ヘスティア様は胸を張り、気丈に笑ってみせた。その優しさと強さが、俺の胸の奥に確かに温かいものを灯す。
「ところでカナタ君。明日の予定はどうなっているんだい?」
ヘスティア様が首を傾げて尋ねてくる。俺は上着を羽織りながら、淡々と答えた。
「明日も今日と同じように、ダンジョンに潜る予定です。少しでも早く、力をつけたいですから」
「それはダメだ!!」
ヘスティア様は即座に両手で大きくバツ印を作り、俺の言葉を力強く却下した。
「そんな身体で毎日潜らせるわけにはいかないからね! 明日はボクに一日付き合っておくれ。カナタ君、デートしようぜ!」
満面の笑みで、元気いっぱいに「デートしようぜ!」と言い放つ我が神。
終末の焦燥に追われる俺の心に、彼女の真っ直ぐな言葉が、心地よい光を投げかけてくれた。
「……はは。わかりました、神様。明日は、あなたに一日付き合います」
俺の口から出た笑みには、微かな本物の体温が混ざっていた。
スキルを略しました。