魔法科世界の術式蒐集者   作:パラレル・ゲーマー

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第10話 図書館の特別閲覧室と、観測者の一線

 公開討論会の会場であった講堂は、十文字克人という物理的・魔法的な要塞と、風紀委員、部活連、そして達也たちの迅速な対応により、ブランシュによる第一波の奇襲はほぼ鎮圧されつつあった。

 

 パニックに陥り逃げ惑う生徒たちの流れも、徐々に一定の方向性を持ち、統制の取れた避難行動へと変わり始めている。

 

 その混乱の只中で、僕は美月を守るために、極小出力の『場の制御』を行っていた。

 

 床の摩擦係数を瞬時に操作して転倒しかけた美月を支え、倒れたパイプ椅子を滑らせてレオが踏み込むための導線を確保し、避難する生徒たちの足運びが自然と出口へ向かうように床の微細な傾斜を弄った。

 

 そして、エリカが千葉家の剣術を振るいやすいよう、彼女の周囲の障害物の重心をわずかにズラし、戦闘空間を広げた。

 

 誰の目にも偶然の産物にしか見えない、不可視の支援。

 

 しかし、その全てを、前線で敵を無力化していた司波達也には見透かされていた。

 

 彼と目が合った時、僕は覚悟を決めていた。

 

 魔法式の隠蔽を解いた以上、もう言い逃れはできない。

 

 彼の中の僕に対する疑惑は、もはや後戻りできないレベルに達しているだろう。

 

 だが、後悔はしていなかった。

 

 隠すことよりも、友人を守ることを優先した。

 

 それが魔法式コレクターとして正しい選択だったのかは分からない。

 

 けれど、結果として美月は無傷で済んだ。

 

 パニックによる二次被害も防げた。

 

 それだけは、間違いなく良かった。

 

 安全圏からの観測という甘い幻想は、この場で確実に終わったのだ。

 

 騒ぎが収束へと向かい始めた、そのタイミングだった。

 

 達也の胸ポケットにある情報端末が、微かな振動とともに通知を告げた。

 

 彼が素早くそれを取り出し、画面を一瞥する。

 

 その瞬間、彼の感情の読めない顔つきが、氷のように冷たく、鋭いものへと変貌した。

 

「……図書館だ」

 

 短い、しかし絶対的な重みを持った一言。

 

 その言葉を聞いた瞬間、僕の全身の血液が凍りついたように冷え切った。

 

 図書館。

 

 特別閲覧室。

 

 そこに保管されているのは、一高の生徒たちが普段目にするような一般書籍ではない。

 

 魔法関連の機密研究データ、魔法技術の非公開文献、そして国家の将来を担う魔法師育成に関する最高機密データだ。

 

 来た。

 

 ここから先が、奴らの本命だ。

 

 僕は、ブランシュという組織の本質を脳内で整理した。

 

 彼らは表向き、魔法師という特権階級の打倒と、魔法による格差の是正を掲げる『反魔法主義団体』を名乗っている。

 

 だが、実際はどうだ。

 

 魔法を憎み、魔法を否定するはずの組織が、なぜ第一高校を襲撃し、最も魔法の真髄に近い『機密研究データ』を盗もうとしているのか。

 

 反魔法主義者が、魔法機密を欲しがる。

 

 その時点で、彼らの大義名分は完全に破綻している。

 

 思想団体ではない。

 

 平等や正義を求める運動でもない。

 

 魔法への憎悪という看板を隠れ蓑にして、魔法の力と情報を盗み出し、自身の利益や権力に変換しようとする、ただの卑劣な犯罪組織だ。

 

 その矛盾した悪意の真っ只中に、僕は利用されている壬生先輩の姿を重ね合わせていた。

 

「深雪、エリカ、レオ。行くぞ」

 

 達也の短く的確な指示に、三人が即座に頷く。

 

 僕は、不安そうに身を寄せている美月の方を向いた。

 

「美月はここで、風紀委員の人たちと一緒に避難誘導の方へ回って。お願い、絶対に無理はしないで」

 

「え……でも、水瀬さんは……?」

 

 美月が、僕の制服の袖を弱々しく掴む。

 

「僕は行くよ。……壬生先輩に、一度言葉をかけてしまったからね。このまま何もしないわけにはいかないんだ」

 

 僕が努めて穏やかに言うと、美月は心配そうに瞳を揺らしながらも、ゆっくりと頷き、僕の袖から手を離した。

 

「水瀬」

 

 エリカが、鋭い目で僕を見た。

 

「あんた、本当に行くの? ここから先は、ただの観戦じゃ済まないわよ」

 

「行くよ。ここで引いたら、僕は壬生先輩に偉そうに『利用されるな』なんて言った資格がなくなるからね」

 

 僕が真っ直ぐに答えると、エリカは少しだけ驚いたような顔をし、すぐにフッと笑った。

 

「そう。じゃあ、自分の身くらいは自分で守りなさいよ」

 

 達也を先頭に、僕たち五人は図書館を目指して校内を駆け抜けた。

 

 講堂から離れても、校内の至る所で混乱が続いていた。

 

 倒された案内板、割れた窓ガラス。

 

 避難を急ぐ生徒たちの怒号と悲鳴。

 

 風紀委員の誘導の声と、侵入者を封鎖しようとする部活連の怒声。

 

 耳をつんざくような警報音が鳴り響く中、通信障害の余波で端末の光が明滅している。

 

 その混沌とした状況下で、僕の精神領域は常に周囲の情報を拾い上げようと稼働していた。

 

《敵性魔法式を観測》

 

《簡易妨害術式を検出》

 

《通信阻害系の構造を確認》

 

《解析可能。ライブラリへインデックスしますか?》

 

 システムのアナウンスが響くが、僕は意識的にそれをシャットアウトした。

 

 今はそれどころじゃない。

 

 魔法式の整理なんて、あとでいくらでもできる。

 

 今は、壬生先輩の保護が最優先だ。

 

 これまで魔法式の収集を至上の喜びとし、どんな微細な術式にも飛びついていた僕が、自らの意志でその通知を無視している。

 

 剣道場の裏で、心の軸が揺れている壬生先輩に言葉をかけてしまったあの日からの、自分自身の変化に、僕は少しだけ苦笑した。

 

 図書館へと続く渡り廊下で、数人のブランシュの戦闘員が僕たちの行く手を阻んだ。

 

「止まれ! ここから先へは行かせ──」

 

 敵の言葉が最後まで紡がれることはなかった。

 

「邪魔だ!」

 

 咆哮とともに、レオが地を蹴った。

 

 その踏み込みの速さ、重さは、ただの高校生のものではない。

 

《身体強化系・実戦用補助術式を観測》

 

《筋出力補助、反動制御、骨格保護の各変数を明確に確認》

 

《既存の身体制御系統と統合可能》

 

 僕の目が、レオの肉体を覆う魔法式を瞬時に解析する。

 

 ただ筋肉を肥大させるのではない。

 

 超人的な出力を出すために、筋肉や骨格が自壊しないよう完璧に保護し、打撃の反動を逃がすための極めて実戦的で洗練された術式だ。

 

 収穫としては最高級だ。

 

 でも今は喜んでいる場合じゃない。

 

 レオの拳が敵の顎を打ち抜き、吹き飛ばす。

 

 その横をすり抜けるように、エリカが低い姿勢から一瞬でトップスピードに乗り、もう一人の敵の懐へ潜り込んだ。

 

《近接剣術系・瞬間加速補助を観測》

 

《刃筋補正および重心崩しの変数を検出》

 

《既存の接触面認識との高い親和性を確認》

 

 エリカの動きは、まさに千葉家の剣術の片鱗だった。

 

 無駄のない間合い管理、重心移動。

 

 相手の重心を的確に崩し、流れるような動作で関節を極め、無力化する。

 

 強い。

 

 普段のあの軽口の奥に、これほど研ぎ澄まされた刃を隠し持っていたのか。

 

 観測通知がうるさいほどに鳴り響く。

 

 頼むから今は黙っていてくれ、ライブラリ。

 

 君の主人は今、コレクターとしての職務を放棄しているんだ。

 

 数人の足止めをあっさりと突破し、僕たちは図書館の入り口へと到達した。

 

 だが、そこから先は、講堂周辺の喧騒とは全く異なる、異様な静けさに包まれていた。

 

 通常の避難場所として機能しているわけではない。

 

 閉鎖された情報施設特有の、冷え切った沈黙。

 

 僕は強烈な違和感を覚えた。

 

 講堂周辺での派手な騒ぎは、やはりただの陽動だったのだ。

 

 ここが本命。

 

 反魔法主義者たちが、魔法の機密研究データを狙う。

 

 皮肉にしては、全く笑えない冗談だ。

 

 達也は迷うことなく、真っ直ぐに特別閲覧室があるフロアへと向かった。

 

 特別閲覧室の重厚な扉の前には、数名のブランシュ側の見張りが配置されていた。

 

 彼らの立ち姿からは、先ほどの暴徒とは違う、実戦慣れしたプロの気配が漂っている。

 

「排除する」

 

 達也の短い号令とともに、戦闘が開始された。

 

 達也が先陣を切り、エリカとレオが左右からサポートに入る。

 

 そして、その後方から、深雪が初めて実戦でその力を見せた。

 

「お兄様の邪魔は、させません」

 

 彼女の静かな、だが絶対的な零度を伴った声が響いた。

 

 次の瞬間、見張りの周囲の空気が、文字通り『凍結』した。

 

《高精度冷却系魔法式を観測》

 

《分子運動制御に近似する極めて精密な干渉を検出》

 

《凍結系統の上位術式として登録準備》

 

 僕の全身に鳥肌が立った。

 

 綺麗だ。

 

 予想通り、いや、予想を遥かに超えている。

 

 彼女の魔法式は、ただ無差別に周囲の温度を奪うのではない。

 

 対象の熱量、分子の運動そのものをピンポイントで静止させる、異常なまでの精度。

 

 乱戦の中でも、その美しさは一切損なわれていない。

 

 入学式の日、「凍りつくほど綺麗な魔法式を使う人だ」と予測した僕の言葉は、全くもって甘かった。

 

 見たい。

 

 ずっとこの芸術品のような術式を見ていたい。

 

 だが、あの魔法式に魅入られていれば、間違いなく物理的に命を落とす。

 

 あれは、触れれば命を刈り取られる、美しすぎる刃物だ。

 

 僕は今回、直接的な攻撃には一切参加しなかった。

 

 その代わり、敵の足場の摩擦を瞬間的にゼロにして体勢を崩させたり、ドアの蝶番の金属疲労を加速させて蹴り破りやすくしたりと、味方の動きを極限まで補助する『場の構築』に徹した。

 

 戦闘には参加していない。

 

 ただ、場を整えているだけ。

 

 ……言い訳としてはかなり苦しいが、背に腹は代えられない。

 

 達也は僕のサポートに気づいているはずだが、黙認してくれているようだった。

 

 数秒で扉の前の障害を排除し、達也が特別閲覧室の扉を開け放った。

 

 室内には、多数の情報端末が並び、その中の一台に接続して何やらデータのダウンロードを行っているブランシュの関係者たちがいた。

 

 そして、その中央。

 

 端末の前に立ち、青ざめた顔で操作を行っている壬生紗耶香の姿があった。

 

 その彼女のすぐ隣に、一人の男子生徒が寄り添うように立っていた。

 

 司甲。

 

 僕は内心でその名を呟いた。

 

 原作知識の中でも、特に警戒すべき名前の一つ。

 

 壬生先輩の怒りに寄り添うふりをして、彼女をここまで連れてきた人物だ。

 

 彼は一高生としてごく自然に制服を着こなし、壬生先輩と非常に近い距離に立っている。

 

「壬生さん、迷わないでください。これは、一科生と二科生の差別をなくすために必要な行動なんです」

 

「あなたが開いたこの道が、二科生全員の明るい未来に繋がるんです。彼らのために、どうか」

 

「あと少しです。端末への認証を進めてください」

 

 彼の言葉は、一見すると壬生先輩を励まし、勇気づけているように聞こえる。

 

 だが、その声色には、致命的なまでに『共感』の温度が欠けていた。

 

 淡々とした、まるでプログラムされたセリフを読み上げているかのような響き。

 

 彼は壬生先輩の怒りに寄り添っているのではない。

 

 彼女の純粋な怒りを利用し、コントロールしているだけだ。

 

 甘い言葉だ。

 

 でも、温度がない。

 

 壬生先輩に寄り添っているようで、彼は彼女自身を全く見ていない。

 

 これは共感ではない。

 

 ただの悪意ある『誘導』だ。

 

 僕は、司甲という存在に対して、明確な嫌悪感と危険性を感じていた。

 

 もちろん、「こいつはブランシュの工作員だ!」などと原作知識をひけらかすような真似はしない。

 

 彼らがアクセスしている端末の画面には、幾重ものセキュリティプロトコルを突破しようとするログが流れていた。

 

 魔法関連の機密研究データ。

 

 学校の未公開研究資料。

 

 反魔法を掲げる組織が、魔法機密を盗む。

 

 もう、言い逃れはできない。

 

 これは思想などではない。

 

 利益と権力を目当てにした、ただの卑劣な犯罪行為だ。

 

 僕は、端末の前に立つ壬生先輩の様子に目を凝らした。

 

 彼女は、完全に悪意に染まって行動しているわけではない。

 

 むしろ、激しく迷い、震えているように見えた。

 

 彼女のプシオン──霊子の波動を観測する。

 

 揺れている。

 

 乱れている。

 

 昨日の討論会で、真由美会長の言葉を聞いて動揺した時の揺れとは、質が違う。

 

 本人の『意思』と、今行っている『行動の向き』が、不自然なほどにズレているのだ。

 

 何かされている。

 

 それは間違いない。

 

 催眠か、記憶の混濁か、精神的な操作か。

 

 今の僕には確証はないが、彼女が自分の確固たる意志で犯罪に手を染めようとしているのではないことだけは分かった。

 

 機密文献への不正アクセス。

 

 これはもう、学内改革という範疇を完全に超えている。

 

 なのに、壬生先輩の反応は、大罪を犯している人間のそれではなく、暗闇の中で誰かの言葉だけを頼りに、無理やり歩かされている人間のそれに近かった。

 

「……そこまでだ」

 

 達也の冷徹な声が、室内に響き渡った。

 

 司甲がこちらを振り向き、余裕を装った笑みを浮かべる。

 

「風紀委員ですか。ですが、これは学校を変えるために必要な行動です。差別を撤廃するためには、多少の強硬手段も──」

 

「魔法関連の機密研究データを外部へ持ち出すことが、一科生と二科生の差別撤廃とどう関係する?」

 

 達也の一言が、司甲の建前を根本から叩き斬った。

 

 僕は内心で快哉を叫んだ。

 

 お兄様、そこだ! 

 

 見事に急所を突いてくれた! 

 

 反魔法主義と機密データ窃取の決定的な矛盾。

 

 そこを指摘された時点で、彼らの掲げる大義名分は砂上の楼閣のように崩れ去る。

 

 司甲は一瞬顔を歪め、「それは……情報を公開し、独占を──」と苦しい言い訳を口にするが、説得力は皆無だった。

 

 そのやり取りを聞いていた壬生先輩が、ハッと息を呑み、大きく動揺する。

 

「邪魔をするなら、排除するまでだ!」

 

 司甲の背後にいたブランシュの戦闘員たちが、武器を構えて襲いかかってきた。

 

 乱戦が始まる。

 

 達也は瞬時に状況を把握し、魔法式崩壊処理で敵の魔法を次々と無力化していく。

 

 深雪は周囲の機材や味方を巻き込まないよう、対象だけを正確に凍結させる。

 

 エリカとレオも、実戦さながらの動きで敵を制圧していく。

 

《実戦用身体強化術式を観測》

 

《近接剣術系加速補助を観測》

 

《高精度冷却系魔法式を観測》

 

 僕のライブラリが、最高の魔法式を次々と記録していく。

 

 ああ、本当にうるさい。

 

 最高の素材ばかりじゃないか。

 

 でも今は黙っていてくれ。

 

 僕は今、コレクターとしてではなく、ここにいる一人の人間として動かなければならないんだ。

 

 僕は敵を攻撃しない。

 

 僕の役割はただ一つ。

 

 壬生紗耶香を守ること。

 

 戦闘の余波で、破壊された端末の破片が壬生先輩に向かって飛んでいく。

 

 僕は即座に『表面制御』で破片の空気抵抗を弄り、軌道をズラす。

 

 彼女が後ずさりして倒れそうになれば、足元の摩擦を調整して支える。

 

 僕は彼女の身体に直接触れることなく、彼女の周囲の『環境』を操作することで、安全地帯を作り出した。

 

「壬生先輩。今は、こっちへ!」

 

 僕が声をかけると、壬生先輩はハッと我に返り、僕の方を見た。

 

「水瀬さん……? でも、私は……これを……」

 

「理由は後で全部聞きます。今はとにかく生きて、ここから出てください!」

 

 僕が強い口調で言うと、彼女は涙ぐんだ目でコクリと頷き、僕の元へと駆け寄ってきた。

 

 その様子を見た司甲は、壬生先輩を守ろうとする素振りすら見せなかった。

 

 彼の視線は、壬生先輩ではなく、エラーを吐き出している情報端末の画面にのみ向けられていた。

 

 壬生先輩を説得し、甘い言葉を囁いていた男が、彼女の安否には一切興味を示さない。

 

 彼が見ているのは、ただの『データ』だ。

 

 その時点で、彼が何者であるかの答えは出ている。

 

 達也も、その司甲の動きを冷徹な目で見逃していなかった。

 

「ここまで来て止めるんですか、壬生さん! あなたの覚悟はその程度だったんですか!」

 

 司甲が、焦燥に駆られたように壬生先輩に向かって叫ぶ。

 

 その言葉を聞いて、壬生先輩の肩がビクッと跳ねる。

 

 僕は腹の底から怒りが湧き上がるのを感じた。

 

 ふざけるな。

 

 その言葉は、壬生先輩を案じるためのものじゃない。

 

 彼女を犯罪に加担させるための、ただの『鞭』だ。

 

「……差別撤廃のために機密研究データが必要だという論理的な説明は、まだ聞いていないな」

 

 達也が、低く告げる。

 

 司甲が、ほんの一瞬だけ退路へ視線を走らせた。

 

 逃げるつもりだ。

 

 だが、その動きは達也にも、そして風紀委員たちにも見逃されていなかった。

 

「司」

 

 背後から、鋭い声が飛んだ。

 

 司甲が振り向くより早く、駆けつけていた風紀委員の坂本が、その襟首をがっしりと掴んだ。

 

「またな、なんて言えると思うなよ」

 

「っ……!」

 

 司甲が身体を捻って逃れようとするが、坂本の手は外れない。

 

 達也はその隙に、司甲が操作していた端末側へ視線を走らせる。

 

 データの流出を防ぐこと。

 

 司甲を逃がさないこと。

 

 壬生紗耶香を保護すること。

 

 その三つが、ほぼ同時に達成されようとしていた。

 

 司甲は顔を歪め、何かを言い返そうとしたが、すでに言葉の力は失われていた。

 

 これで、壬生先輩にもはっきりと見えたはずだ。

 

 彼女が信じ、縋ろうとした言葉の裏に、全く別の薄汚い目的が隠されていたことが。

 

「私は……」

 

 壬生先輩が、その場に崩れ落ちるように膝をついた。

 

「私は……ただ、差別をなくしたくて……みんなに笑われないようにしたくて……でも、これは……」

 

 自分が何をしようとしていたのか。

 

 誰に利用されていたのか。

 

 少しずつ理解し始め、彼女のプシオンが激しい混乱の渦の中に沈んでいく。

 

「壬生先輩」

 

 僕は彼女の肩にそっと手を置いた。

 

「今は、全部を理解しなくていいです。まずは、ここから出ましょう」

 

 今はこれ以上、彼女を責めるべきではない。

 

 戦闘は完全に終結し、特別閲覧室内のブランシュ関係者は制圧された。

 

 機密研究データの流出も、寸前で止められた。

 

 司甲も捕らえられた。

 

 だが、事件が終わったわけではない。

 

 司甲は、終点ではない。

 

 彼を通じて一高に入り込み、有志同盟を操り、壬生先輩を利用し、機密研究データを盗ませようとした本体が、まだ外に残っている。

 

 そして、ここまで大がかりな事件を起こした以上、証拠隠滅や第二波が起きない保証もない。

 

 達也が、坂本に拘束された司甲から視線を外し、ゆっくりと僕の方を見た。

 

「……水瀬。君は、この男を最初から疑っていたな」

 

「……壬生先輩に向ける言葉に、一切の温度がなかったからね」

 

「それだけか?」

 

「それだけ、ということにしておいてほしいかな」

 

 僕が苦笑しながら答えると、達也は少しだけ黙り込んだ。

 

 彼はもう、僕が何かを知っていることをかなり確信している。

 

 だが、今は事後処理が最優先だという判断から、追及を保留してくれたようだ。

 

 特別閲覧室の制圧は完了した。

 

 だが、これはあくまで学内に入り込んでいた工作員と、実行部隊の一部を押さえただけに過ぎない。

 

 司甲の背後には、彼を操り、この事件を画策した『ブランシュ』の本体が存在する。

 

 達也が状況を整理し、立ち上がった。

 

「ここで終わりではないな」

 

 僕も内心で深く同意した。

 

 ここから先は、ブランシュ本部へのカチコミ。

 

 原作の次の段階へ進む。

 

 もう、学内の不満分子による揉め事というレベルではない。

 

 達也の瞳に、絶対零度の殺意が宿る。

 

「……ブランシュを潰す」

 

 図書館の特別閲覧室は、戦闘の余韻を残しながらも、不気味な静けさを取り戻しつつあった。

 

 だが、その静けさは決して平穏を意味するものではない。

 

 壬生先輩は利用されていた。

 

 有志同盟の生徒たちも、純粋な怒りを利用されていた。

 

 司甲は捕らえられた。

 

 けれど、司甲を通して彼女たちを操っていた組織は、まだ外に残っている。

 

 そして僕は、それを知っていながら、ここまで事態が進行するのを止めきれなかった。

 

 それでも、まだ終わっていない。

 

 司波達也が、ブランシュを完全に潰すと決断したのだ。

 

 魔法科高校の劣等生『入学編』。

 

 それはもう、僕が安全圏から傍観していられるような、生易しい学内の揉め事ではなくなっていた。




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