初日の興奮も冷めやらぬ夜。
自室のベッドに仰向けに転がりながら、僕は天井の模様を数えるふりをして、精神領域にアクセスしていた。
広大な《万象術式目録》の中に、新しく追加されたインデックスが眩しく輝いている。
『簡易座標補正系・小規模移動魔法』
『小規模加速魔法』
『物体移動補助術式』
『簡易冷却魔法』
『表面硬化魔法』
『空気振動制御術式』
『身体機能補助系・低出力強化魔法』
『重心制御補助魔法』
圧巻だ。
一高、最高。
初日だけで、僕が血の滲むような努力で十数年かけて集めた生活魔法のラインナップを、軽々と、しかも質において完全に凌駕してしまった。
これが魔法師の巣窟。
これが国内最高峰の教育機関。
僕にとっては、神様が用意してくれた常設ガチャ会場そのものである。
ただし、だ。
ベッドの上で一人ニヤついているのもそこそこに、僕は自制心を総動員して急ブレーキをかけた。
調子に乗ってはいけない。
今日だけで、すでに僕は千葉エリカから「面白い変人」認定を受け、何よりあの司波達也から「妙な観察対象」として認識された気配がある。
目立たず、有象無象のモブとして平和に魔法式を蒐集していくという完璧な計画は、すでに致命傷を負っているのではないか。
僕は身を起こし、今後の方針を真面目に整理し直した。
達也と敵対することは絶対に避けなければならない。
そして、深雪の隣という「神聖領域」を奪うような真似もご法度だ。
生徒会や軍、四葉家といったきな臭い裏事情には、絶対に首を突っ込まない。
目指すのは、あくまで「友人枠」。
もっと具体的に言うなら、「自然に彼らの隣にいても不審がられず、かつ合法的に魔法の発動を至近距離で観測できる友人ポジション」である。
友人とは何か。
それは、怪しまれずに隣を歩ける存在であり、つまり「最高の観測ポジション」のことだ。
僕の思考は少しばかり歪んでいるかもしれないが、本人は極めて真剣だった。
◆
翌朝。
春の空気がまだ少し冷たい登校路で、僕はエリカと美月に遭遇した。
駅からの道のりで自然と合流する形になったが、エリカは僕を見つけるなり、からかうような笑みを浮かべた。
「おはよ、水瀬。今日は男子列に行かない?」
「おはよう。行かない。たぶん」
「そこは断言しなさいよ」
エリカのツッコミに、隣を歩く美月がくすくすと上品に笑う。
僕は美月の顔色を窺い、昨日よりは少し血色が良さそうなことに気づいた。
「昨日より、少し平気そう?」
「はい。昨夜はよく眠れましたし、この空気の濃さにも少し慣れてきたみたいです」
「無理しないでね。辛かったら、僕を盾にして隠れてもいいから」
「ありがとうございます。水瀬さんは、優しいですね」
美月がふわりと微笑む。
すると、エリカが横から口を挟んだ。
「水瀬って、変だけど面倒見はいいよね。なんだかんだで周り見てるし」
「変、は余計だ」
「事実でしょ。観測者枠とか言い出すんだから」
そんな他愛のない会話を交わしながら、僕たちは校門をくぐった。
教室に入ると、すでに達也とレオが席の近くで話し込んでいた。
レオがこちらに気づき、片手を上げる。
「お、観測者枠さんのお出ましだ」
「おはよう、レオ。友人枠だよ。観測者枠はあくまでオプション」
僕は真顔で即座に訂正した。
エリカが吹き出し、レオが「オプションってなんだよ」と呆れたように笑う。
そのやり取りを静かに見ていた達也が、微かに口角を上げて言った。
「ずいぶん気に入られたな、水瀬」
心臓が跳ねた。
お兄様から、朝の挨拶に付随する軽い雑談を振られた。
友人枠作戦、早くも効果を発揮しているのではないか。
心の中でガッツポーズを決めつつ、表面上はあくまで淡々と返す。
「社会的に自然な距離感を模索しているだけだよ。一方的なストーカーだと思われるのは心外だから」
「それを口に出して宣言している時点で、自然ではないと思うがな」
達也の軽いツッコミに、僕は肩をすくめた。
よし、この感じだ。
この「少し変わっているが、害はないクラスメイト」というポジションを死守するんだ。
だが、朝のホームルームが始まり、授業が進むにつれて、僕は少しずつ現実の重さを肌で感じ始めていた。
教室の空気。
廊下ですれ違う時の視線。
昨日、一科生と揉めかけた時にも感じたが、この学校における二科生への風当たりは、決して生温かいものではない。
直接的な暴力や暴言が飛び交うわけではないが、一科生が二科生を「避けるように」歩く態度や、通りすがりに聞こえる「ウィード」という蔑称が、確実に空間を濁らせていた。
レオは授業中もどこか不機嫌そうに腕を組み、エリカは時折、廊下を歩く一科生に対して挑発的な笑みを浮かべている。
美月は居心地が悪そうに肩をすぼめることが増えた。
達也だけは、その全ての悪意を凪いだ海のように平然と受け流している。
僕は内心で、静かにため息をついた。
原作のテキストを読んでいた時は、ただの「そういう設定」として流していた。
物語を動かすための舞台装置だと割り切れていた。
だが、実際にこの場に立ち、同じ制服を着て、同じ空気を吸っていると、かなり不愉快だ。
僕は魔法式コレクターであって、差別社会の観察マニアではないのだ。
そんな重苦しい空気が漂い始めた昼休み前。
ある出来事が起きた。
深雪が、生徒会から呼び出しを受けたのだ。
首席入学の有望な一科生が、生徒会役員から直々に声をかけられる。
原作通りの流れだ。
「さすが一科生首席。もう生徒会からお呼び出しとはね」
「やっぱすげえな、深雪さんは」
エリカとレオが感嘆の声を漏らし、美月も「司波さんなら当然ですよね」と頷いている。
僕は、そんな彼らの会話を耳にしながら、内心で激しい葛藤に苛まれていた。
来た。
生徒会ルート。
そこには、七草真由美、渡辺摩利、中条あずさという、一高におけるネームド魔法師のトップ層が集結している。
彼女たちの魔法式、戦闘技術、そして魔工技術の知識。
それは、僕のライブラリにとって、喉から手が出るほど欲しい宝の山だ。
行きたい。
ついて行きたい。
しかし、ここで僕が「僕も行く」などと言い出せば、不審者メーターが振り切れる。
一科生の首席でもなければ、達也のように特別な関わりがあるわけでもない、ただの二科生なのだから。
我慢だ、水瀬悠。
ここで出しゃばれば、これまでの努力が水の泡だ。
深雪は当然のように、達也の様子を気にしている。
そして、何らかの理由──おそらくは生徒会側からの暗黙の要請もあって、達也もまた、彼女に同行する流れになった。
「じゃあ、少し行ってくる」
達也と深雪が教室を出ていくのを、僕はただ無言で見送った。
「水瀬、めちゃくちゃ行きたそうな顔してるけど」
エリカが横からツッコミを入れてくる。
「してない」
「してるしてる。目が『生徒会室のドアの隙間から覗きたい』って言ってるわよ」
「……少しだけ」
僕が渋々認めると、エリカはケラケラと笑った。
生徒会室へは行けない。
だが、せめて遠目からでもネームドキャラの姿を拝んでおきたい。
そんな浅ましい願いが通じたのか、その日の午後、廊下を移動する際に、僕は遠目に生徒会役員たちの姿を捉えることができた。
七草真由美。
十師族、七草家の令嬢にして生徒会長。
遠くから見ているだけでも、彼女が放つ政治的なオーラと、洗練されたサイオンの気配が伝わってくる。
常に絶やさない笑みが、逆に底知れない恐ろしさを感じさせるタイプの美人だ。
渡辺摩利。
風紀委員長。
彼女の歩き方、視線の動かし方一つとっても、圧倒的な実戦経験の豊富さが窺える。
あの人が魔法を使うところは、絶対に見たい。
彼女の戦闘系魔法式がどれほど洗練されているか、想像するだけで涎が出そうだ。
中条あずさ。
魔工技術に長けたレア枠の先輩。
もし可能なら、CADの調整や起動式の最適化について、一晩中語り合いたい。
いや、初対面の二科生がそんなことを言えば、即座に風紀委員に連行されるから我慢だ。
僕は廊下の端から、偶然を装って彼女たちの姿を目に焼き付けた。
今はこれでいい。
これくらい「ちょくちょく顔を出す」程度で満足しよう。
達也たちが戻ってくるまでの間、僕はエリカたちと一緒に待機していた。
「そういえば、水瀬は部活とか入るの?」
エリカの問いに、僕は内心で頭を悩ませた。
部活に入れば、魔法を使用する場面に立ち会える機会は格段に増える。
しかし、部活特有の拘束時間が増えれば、原作の重要なイベントを追うための自由度が失われる。
「見学はしたい。すごくしたい。いろんな部活の魔法を見たい」
「見るだけ?」
「まずは見ることが大事だから」
「あんた、本当に見るの好きねぇ」
「運動系の部活なら、試合とかで強い魔法見られるんじゃねえか?」
レオの何気ない一言に、僕はハッとした。
「レオ、天才か?」
「え、おう。……褒められてるんだよな?」
「今ので食いつくんだ……」
エリカが呆れたようにため息をつく。
そうか、試合の見学。
それなら、部員にならなくても、合法的に高出力の魔法式を観測できる。
今後の部活勧誘期間や、九校戦への期待が大きく膨らむ。
やがて、達也と深雪が教室に戻ってきた。
僕は表面上は平静を装いながら、内心では情報への渇望で暴れ回りそうだった。
どうだった?
誰がいた?
七草会長は笑ってた?
渡辺先輩は怖かった?
魔法は使った?
もちろん、そんな質問攻めにするわけにはいかない。
「で、どうだったの? 生徒会室」
エリカが代表して、軽い調子で尋ねる。
達也は最低限の事実だけを、淡々と説明した。
深雪が生徒会役員に勧誘されたこと。
そして──
「俺も、風紀委員に推薦されることになりそうだ」
その言葉に、僕は思わず一歩、達也の方へ近づいてしまった。
「……風紀委員?」
「ああ。まだ正式に決まったわけではないがな」
「校内の魔法使用違反を取り締まる、あの風紀委員?」
「そうだ」
「つまり、魔法トラブルの最前線に立つということ……」
僕の目が、おそらく物理的に少しだけ輝いていたのだろう。
エリカが即座に、僕の襟首を掴んで引っ張った。
「水瀬、今、絶対ろくでもないこと考えてるでしょ」
「考えてない。ただちょっとだけ、魔法式との遭遇率が飛躍的に高まりそうだなと、純粋な好奇心を抱いただけ」
「それをろくでもないって言うのよ」
達也が、呆れたような、しかしどこか納得したような目で僕を見た。
「君は本当に、魔法式を見ることが好きなんだな」
「好きだよ。授業の整った環境じゃ見られない、実戦やトラブル時の魔法式には、使い手の生々しい癖が出るから」
「危険も伴うぞ」
「だから、僕は近づきすぎない。安全圏から見る」
「……それが、観測者枠か」
「その通り」
達也は小さく息を吐き、微かに頷いた。
すると、レオが不思議そうに首を傾げる。
「じゃあ、水瀬も風紀委員になればいいんじゃねえか?」
僕は即答した。
「無理。目立つ。死ぬ」
あまりにもはっきりと言い切ったため、レオだけでなくエリカも深雪も固まった。
「僕は表舞台に立つ器じゃない。司波くんみたいに、不測の事態に冷静にリスク計算して対処できる能力もないからね。だから、僕は友人として司波くんを応援する。そして、可能なら遠くからその勇姿を見学させてもらうよ」
「……最後の一文がなければ、普通に良い友達の話だったのに」
エリカの的確なツッコミが入る。
これでいい。
僕が達也のポジションを奪う気がないことは、明確に伝わったはずだ。
その証拠に、深雪が僕に向ける視線から、わずかに警戒の色が薄れていた。
「水瀬さんは、本当に兄の魔法を観察したいだけなのですね」
「うん。司波くんは、この学校で最高級の教材だからね」
「……教材、ですか?」
「もちろん、人間として深く尊重した上での比喩だよ」
僕が真顔で訂正すると、エリカがこらえきれずに吹き出した。
達也は「一応、尊重はされているらしい」と、相変わらず淡々と呟いた。
放課後。
校内は、本格的な部活勧誘の熱気に包まれ始めていた。
廊下の壁には、剣術系クラブ、魔法競技系、魔法工学研究会など、色とりどりの勧誘ポスターが所狭しと貼られている。
僕はその光景に、目を輝かせていた。
部活。
それは定期的に魔法を見るための合法的な口実。
しかも、分野別に特化した魔法式をピンポイントで観測できる。
なんて素晴らしい制度なんだ。
帰り際、校庭の端で、射撃系クラブの上級生がデモンストレーションを行っているのを見かけた。
空中に投げ上げられた小さな的に向かって、彼がCADを構える。
ほんの数秒。
僕はその発動プロセスを見逃さなかった。
《新規魔法式を観測しました》
《簡易照準補助術式を登録》
《魔法式の最適化精度が微増しました》
僕の脳内に、また一つ新しい知識がインデックスされる。
部活勧誘、神イベントすぎる。
帰り道、僕は一人、今日の出来事を反芻していた。
生徒会。
風紀委員。
部活勧誘。
そして、一科生と二科生の軋轢。
原作の歯車が、確実に動き始めている。
危険は承知の上だ。
でも、同時に、これからどれだけの魔法式を集められるかという期待を、どうしても抑えきれない。
原作通りなら、これから達也は風紀委員として、校内のトラブルに関わっていくことになる。
近づきすぎれば、僕の平和な日常は崩壊する。
離れすぎれば、魔法式の観測ができない。
つまり、僕に求められているのは、針の穴を通すような絶妙な距離感のコントロールだ。
友人枠。
観測者枠。
そして、できれば安全圏。
僕の一高生活は、どうやらこの「距離感の調整」という最も難しいタスクから始まることになりそうだった。
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