朝、目覚めとともに意識がクリアになっていく中で、僕は今日一日の学園生活における重要なトピックを脳内で反芻していた。
風紀委員。
それは、国立魔法大学付属第一高校において、校内での魔法使用違反や生徒間のトラブルを実力で取り締まる、公式の治安維持組織である。
当然ながら、血気盛んで魔法という凶器を振り回す一高生たちを相手にするのだから、並大抵の実力では務まらない。
普通の感性を持った生徒であれば、「面倒くさそう」「危険だから関わりたくない」「優秀な一科生がやる仕事」と認識するのが自然だろう。
だが、僕の少しばかり、いや大いに偏った脳内辞書においては、風紀委員という単語は全く別の意味に変換されていた。
『魔法式ドロップ率上昇の確定イベント』である。
風紀委員が動くということは、そこに魔法的な衝突や実戦的な事象改変が発生するということだ。
授業という安全で統制された環境では決して見ることのできない、生徒たちの生々しい感情が乗った魔法式、あるいは咄嗟の判断で組まれた粗削りだが実戦的な術式。
そういったものが、風紀委員の周囲にはゴロゴロと転がっているはずなのだ。
一介の魔法式コレクターである僕にとって、これほど魅力的な狩り場はない。
しかし、同時に強烈な自制心を働かせる必要があった。
風紀委員のトラブルに自ら突っ込んでいけば、最悪の場合、流れ弾──文字通りの魔法的な致死の弾丸──を食らって死ぬ。
かといって、安全を重んじすぎて遠く離れすぎれば、肝心の魔法の発動プロセスを僕の知覚で『観測』することができず、《万象術式目録》への登録機会を逃してしまう。
つまり、僕に今最も求められているのは、絶妙な「距離感」だ。
死なない程度の安全圏を保ちつつ、術式の構造をギリギリ読み取れる特等席。
そのベストポジションを確保することが、今後の僕の豊かな魔法式ライフを左右する。
身支度を整え、家を出る。
春の柔らかな日差しが降り注ぐ通学路は、同じ制服を着た一高生たちで溢れていた。
駅から学校へと続く道すがら、見慣れた二人の姿を見つけて歩調を合わせる。
「おはよ、観測者。今日も清々しい顔してるわね」
開口一番、勝気なショートヘアを揺らして千葉エリカがからかうように声をかけてきた。
「おはよう、エリカ、美月。観測者というのは役職名じゃないから、普通に水瀬と呼んでほしいんだけど」
「えー、気に入ってるのに。で、今日はどうするの? 風紀委員の初仕事、最前線まで見に行く?」
「行かないよ」
僕は即座に首を横に振った。
「僕は風紀委員の腕章を持っているわけでもない、ただのしがない二科生だ。だから見に行ったりはしない。ただ、偶然に、本当に偶然に、トラブルが起きそうな場所の近くを、安全な壁際を這うように通りかかるだけだよ」
「それを見に行くって言うのよ。あんたのその言い換え、詐欺師に向いてるんじゃない?」
エリカが呆れたようにため息をつく横で、柴田美月が口元に手を当てて小さくくすくすと笑い声を漏らした。
その美月の様子を見て、僕は少しだけ眉をひそめた。
「……美月、昨日よりも少し人が多いみたいだけど、体調は大丈夫? 気分が悪かったりしない?」
部活勧誘期間が本格的に始まったせいか、登校する生徒たちの足取りには独特の熱気があり、あちこちで上級生たちが新入生に声をかけている。
それに伴って、人の流れも、魔法師特有の気配も、昨日よりずっと濃くなっていた。
霊子放射光過敏症──周囲のプシオン、つまり霊子の放射を視覚的に捉えすぎてしまう「水晶眼」を持つ彼女にとって、この喧騒は視界に無数のフラッシュを焚かれているようなものだろう。
「あ、はい。お気遣いありがとうございます。少し周囲が賑やかで、目がチカチカするというか……お祭りのような空気で、少し疲れるくらいです」
「そっか。無理は禁物だからね。ほら、こっち」
僕は美月の肩を軽く引き、彼女を道路の壁側へと誘導した。
僕とエリカが人混みに対する物理的な壁になるように配置を替える。
「あら、水瀬ってば、ほんと美月には甲斐甲斐しくて優しいわよねぇ」
エリカがニヤニヤと笑いながら僕の脇腹を小突いてくる。
「美月は保護対象だからね。当然の配慮だよ」
「ほ、保護対象、ですか……?」
美月が目を白黒させている。
「そう。感受性の高いレアなセンサー持ちは、大事に保護しないといけない。僕の貴重なレーダーが壊れたら困るから」
「……あんた、行動は紳士的なのに、言葉の選び方が最低よね」
エリカの的確なツッコミに、美月がまた吹き出した。
そんな他愛のない、しかし確かな温かさを持ったやり取りを交わしながら、僕たちは一高の校門をくぐった。
教室に入ると、すでに自分の席の近くで、司波達也と西城レオンハルトが何やら真剣な顔で話し込んでいた。
挨拶を交わして席に着くと、彼らの話題が昨日生徒会室で出たという「風紀委員」の件であることはすぐに分かった。
「で、達也。お前、本当にあの風紀委員をやるのかよ?」
レオが、信じられないものを見るような目で達也に尋ねている。
「まだ正式に引き受けたわけではないがな。だが、打診された以上、むげに断る合理的な理由もあまり見当たらない」
達也は、まるで「今日の昼食はサンドイッチにする」とでも言うような平然としたトーンで答えた。
「いやいや、断る理由しかないだろ! 二科生が風紀委員なんて、前代未聞どころか、絶対一部の一科生から反発食らうに決まってんじゃねえか」
「レオの言う通りよね。ただでさえ面倒な空気が漂ってるのに、火に油を注ぐようなものじゃない?」
エリカも腕を組みながら同意する。
だが、その時、教室の入り口から凛とした声が響いた。
「お兄様であれば、風紀委員のお役目も全く問題なく、完璧に務められると思います」
完璧な姿勢と歩みで近づいてきたのは、司波深雪だった。
彼女の瞳には、兄に対する絶対的で揺るぎない信頼が宿っている。
もはや信仰に近いその輝きに、レオもエリカも一瞬言葉を失った。
僕は内心で深く同意していた。
深雪さんの言う通りだ。彼女の兄への評価は盲目的に見えるが、実は極めて正確な事実に基づいている。
お兄様なら、どんな無茶振りだろうが、反発する一科生だろうが、大体なんとかしてしまう。
物理的にも、社会的にも。
「司波くんは、確かに風紀委員に向いていると僕も思うよ」
僕がふいに口を挟むと、達也を含めた全員の視線がこちらに向いた。
「へえ、水瀬もそう思うんだ。なんで?」
エリカの問いに、僕は達也の顔を真っ直ぐに見て答えた。
「司波くんは、感情の波に流されて行動することがないからね。トラブルが起きた時、相手の戦力と周囲の状況を瞬時に計算して、一番自分たちにとって損の少ない、合理的な解を冷徹に選べる。治安維持の仕事において、それ以上に適した資質はないと思う」
僕の言葉を聞いた達也は、感情の読めない静かな目で僕を見つめ返した。
「……評価が妙に具体的だな。どこかで俺がトラブルを処理するのを見たわけでもないだろうに」
「僕は観測者だからね。日頃のわずかな行動の端々から、対象の性質を推測するのには長けているつもりだよ」
「……本当に、便利な言葉にしているな、それは」
達也がわずかに呆れたように息を吐く。
よし。ヨイショしつつ、少し引いた位置にいる変な友人というポジションの維持に成功している。
ホームルームが終わり、休み時間になると、達也は深雪に促されるようにして教室を出て行った。
おそらく、生徒会室へ向かい、正式に風紀委員の任を受ける流れだろう。
行きたい。
心の奥底から、欲望の声が叫びを上げている。
七草会長の、あの底知れない笑みを間近で拝みたい。
渡辺風紀委員長の、隙のないサイオン制御を視界に収めたい。
中条先輩から、CADのハードウェア調整に関するマニアックな話を聞き出したい。
生徒会室は、今の僕にとって最高級の宝物庫だ。
だが、駄目だ。
ここで僕が「ついていっていい?」などと言えば、一発で不審者として警戒レベルを引き上げられる。
僕は机に突っ伏し、深呼吸をして己の欲望を鎮めた。
「水瀬、達也くんたちを見送る目が血走ってたわよ。そんなに暇なら、せっかくだし私たちと少し校内を見て回らない?」
エリカが僕の背中をポンポンと叩く。
「部活の勧誘、けっこう盛り上がってるみたいだし。レオも行きたいでしょ?」
「おう! 俺は運動系の部活がどんなもんか見ておきたいしな」
「私は……あまり騒がしくないところであれば、ご一緒します」
美月も控えめに同意した。
「僕は、魔法を実際に使って見せてくれるところなら、どこでも構わないよ」
「清々しいくらい目的がブレないわね、あんた……」
エリカに呆れられながらも、僕たち四人は賑わう校内へと足を踏み出した。
廊下や中庭には、各クラブの上級生たちがブースを設け、新入生を呼び込もうと熱心なアピールを繰り広げていた。
僕の目は、まるで高性能なレーダーのように、魔法式の気配を探して常に動き回っていた。
「あ、あっちで射撃系クラブのデモをやってるみたい」
エリカの指差す先、中庭の一角で、数人の上級生が的打ちのパフォーマンスを行っていた。
僕は吸い寄せられるようにそちらへ近づいた。
空中に、直径十センチほどの小さなターゲットが連続して投げ上げられる。
上級生の一人が、拳銃型の特化型CADを構える。
引き金を引く直前、彼の腕の周囲に微細な魔法式が展開されるのを、僕は確かに『観測』した。
『パーン!』という乾いた音とともに、空中の的が次々と撃ち抜かれていく。
これは、ただ単に弾丸の軌道を操作する魔法ではない。
弾道そのものを捻じ曲げるのではなく、術者の視線、腕の角度、筋肉の微細な震え、そして対象の未来座標を瞬時に計算し、射撃動作そのものの誤差を補正する魔法だ。
《既存登録済み・簡易照準補助術式の追加観測》
《補正変数の精密化プロセスを検出。統合解析を開始します》
《魔法式最適化精度が微増しました》
僕の精神領域で、昨日登録したばかりの術式が、より高度なものへと書き換えられていく。
出力は低いが、その変数処理の細やかさは芸術的ですらあった。
「……良い。すごく良い」
僕は無意識のうちに呟いていた。
「何が?」
「あの魔法式。出力に頼らず、微細な変数を無数に処理して結果を安定させている。非常に綺麗な構造だ。あれは良い魔法式だよ」
「……お前、射撃の腕前とか命中精度の話じゃねえのかよ」
「魔法はプロセスが全てだ。結果はそれに付随するおまけに過ぎない」
「水瀬のオタクっぷりが極まってきたわね」
エリカとレオのツッコミを心地よく聞き流しながら、僕たちは次に剣術系クラブのデモンストレーションへ向かった。
竹刀を持った上級生が、目にも留まらぬ速さで打ち込みを行っている。
一見するとただの優れた体術だが、僕の目には、その動きを根底から支える魔法の働きがくっきりと見えていた。
足捌きの際、地面との接地に生じるわずかな重心のズレを補正する魔法。
踏み込みの瞬間に、脚部の筋力を一瞬だけブーストする加速魔法。
そして、打突の瞬間に体軸を完全に固定し、反動を逃がさないための姿勢制御魔法。
派手な事象改変はないが、己の肉体を極限まで使いこなすための、洗練された補助術式のオンパレードだ。
《重心制御補助魔法・類似術式の複数パターンを観測》
《既存術式との統合解析を開始》
《身体制御系統の安定性が微増しました》
ああ、なんて素晴らしい。
やはりレオが言った通り、運動系の部活は実用的な魔法式の宝の山だ。
「なんか今、水瀬が俺の方を見て深く頷かなかったか?」
「レオに深い感謝を捧げていたんだよ」
「なんでだよ! 俺何もしてねえぞ!」
レオが困惑するのも無理はないが、僕は彼に後光が射しているようにすら見えた。
だが、そんな幸福な観測タイムも、長くは続かなかった。
校内を回るにつれ、どうしても目についてしまうものがある。
それは、一科生と二科生に対する、上級生たちのあからさまな態度の違いだ。
胸に八枚花のエンブレムをつけている一科生の新入生が通れば、上級生たちは愛想よく声をかけ、手厚くデモンストレーションを見せる。
しかし、僕たちのようなエンブレムのない二科生が近づくと、露骨に視線を外し、勧誘の声を止める部活も少なくなかった。
ひどいところになると、「二科生は見学だけにしてくれ」と体よく追い払われる始末だ。
レオは次第に苛立ちを隠さなくなり、腕を組んで舌打ちを繰り返している。
エリカは不機嫌そうに目を細め、一科生たちを挑発するような視線で睨み返している。
美月は、そんな刺々しい空気に当てられたのか、居心地が悪そうに俯きがちになっていた。
僕も内心で重いため息をついた。
魔法式を観測する環境としては、これ以上ないほど恵まれた学校だ。
しかし、この前近代的な身分制度のような空気だけは、どうにも好きになれない。
魔法の才能という、完全な遺伝と偶然の産物によって人間の価値が決定される社会。
僕は魔法式コレクターとしてこの世界を楽しんでいるつもりだが、目の前で友人たちが不当な扱いを受けているのを見て、平然としていられるほど冷酷にはなれなかった。
そんなささくれ立った空気が限界に達しようとしていた時、中庭の中央付近で、あるトラブルが発生した。
魔法競技系クラブのブース前で、上級生が新入生に向けて、移動補助魔法のデモンストレーションを行っていた。
空中に浮かべたソフトボール大のターゲットを、魔法で複雑な軌道を描いて動かして見せるというものだ。
その時、一科生と二科生の小競り合いに気を取られていた別の新入生のグループが、デモのエリアのすぐ近くを不用意に横切った。
「あ、おい! 危ないぞ!」
上級生が声を上げた瞬間、彼の意識が逸れ、魔法式の対象指定の座標軸にわずかなブレが生じた。
魔法は精密な計算の上に成り立つ。
変数が一つ狂えば、結果は大きく歪む。
空中に浮かんでいたターゲットが、予定されていた軌道を外れ、凄まじい勢いで跳ね返り、見学していた新入生たちの集団──美月がいる方向へと一直線に飛んできた。
硬い素材ではないが、あの速度で顔に当たれば、ただでは済まない。
「っ……!」
僕の身体が、思考よりも先に動こうとした。
いける。
僕の登録している『表面制御』でターゲットの空気抵抗を瞬間的に弄り、同時に『重心補正』の術式を外部に投射して軌道を逸らせば、十分に防げる。
CADにサイオンを流し込もうとした、その刹那。
「──そこまでだ」
低く、よく通る声と共に、一陣の風が吹き抜けた。
バンッ! という鈍い音が響く。
美月の目の前、わずか数十センチの空間で、飛来したターゲットが見えない壁に激突したかのように静止し、そのまま力なく地面に落ちた。
現れたのは、左腕に『風紀委員』の真新しい腕章をつけた、司波達也だった。
彼は乱れのない足取りで歩み寄り、落ちたターゲットを一瞥してから、デモを行っていた上級生に向き直った。
「対象指定のロックが甘い。見学者の導線管理も不十分だ。魔法デモを行うなら、周囲の安全マージンをあと三メートルは広く取るべきです」
感情の起伏を一切感じさせない、極めて事務的で冷徹な指摘。
上級生は一瞬反発しかけたが、達也の隙のない立ち姿と、先ほどの神業のような対処を前にして、気圧されたように口を閉ざした。
僕は、少し離れた場所から、震える息を吐き出していた。
達也がターゲットを止めた魔法。
それは、物理的な障壁を作ったわけでも、運動エネルギーを相殺したわけでもない。
《高精度対象指定処理に基づく事象への干渉を観測》
《既存の魔法体系外の情報処理プロセスを検出しました》
《解析保留。現状のライブラリでの完全な複写は不可能です》
脳内に響くシステムのアナウンス。
出た。
これだ。
お兄様の、地味に見えて根本的におかしい情報処理。
見た目はただの防御魔法や減速魔法のように見せておいて、その実、対象の構造情報そのものに直接アクセスし、運動という事象そのものを書き換えている。
対象指定の精度が、通常の魔法師とは次元が違うのだ。
これこそが、僕が喉から手が出るほど欲しい魔法の真髄。
解析保留上等。
いつか必ず、僕のライブラリに収めてみせる。
「大事にならなくてよかったわね」
エリカが、ホッとしたように息をついて僕の顔を見た。
「でも水瀬、あんた今、すごく嬉しそうな顔してるけど」
「……安全に問題が解決したからね。素晴らしいことだ」
「本当にそれだけ?」
「……優れた魔法式も見られたし」
「やっぱり。あんたの思考回路、どうなってんのよ」
騒ぎを聞きつけたのか、短い髪を凛々しく揺らしながら、風紀委員長の渡辺摩利が足早に近づいてきた。
「司波。さっそく現場に出くわしたようだな」
「ええ。幸い、実害が出る前に処理できました」
「見事な対応だ。さすが、真由美が目をつけただけのことはある」
摩利は満足そうに頷き、周囲の野次馬たちに解散を指示し始めた。
トラブルの余波で、見学スペースには倒れた看板や、散らばったパンフレット、そして先ほど達也が止めたターゲットが転がっている。
「私たちも、少し片付けを手伝おうか」
美月の提案に、僕たちは頷いて散らばったものを拾い集め始めた。
僕は、少し土埃がついてしまったターゲットのボールを拾い上げ、目立たないように手元のCADを操作した。
実技確認の時に使った、『表面清掃』と『微弱乾燥』、そして『摩擦係数調整』を組み合わせた複合魔法。
ターゲットの汚れを落とし、元の状態に戻そうとしただけだ。
だが、その時、僕の脳裏に先ほど射撃系クラブで見たばかりの、あの美しい『照準補助』の術式がフラッシュバックした。
『あ、これ。この座標の補正変数、表面の凹凸を認識するのにも使えるんじゃないか?』
思考は一瞬だった。
僕は無意識のうちに、自分が構築しようとしていた表面制御の術式の中に、先ほど観測したばかりの精密な変数を組み込んでいた。
魔法が発動する。
ただ埃を落とすだけではない。
ターゲットの表面にある微細な傷や凹凸をピンポイントで認識し、摩擦係数の調整を極めて均一に行う。
結果として、僕の手の中のボールは、ただ綺麗になっただけでなく、新品のような完璧な手触りを取り戻していた。
《簡易照準補助術式の補正変数を、既存の表面制御系魔法へ統合完了》
《複合魔法式の精密度が劇的に向上しました》
《魔法式最適化精度が微増しました》
やった。
僕の仮説は正しかった。
低級魔法でも、別系統の優れた処理を組み合わせることで、精度はどこまでも上げられる。
魔法の奥深さに、僕は一人で感動に浸っていた。
「──水瀬」
背後から、静かな声が降ってきた。
振り返ると、達也が僕の手元のボールを、文字通り『視透かす』ような鋭い目で見つめていた。
「……何かな、司波くん」
「今の魔法式。昨日、教室で君が見せたものと、少し構造が違うな」
心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
全身の毛穴がキュッと締まるような緊張感が走る。
しまった。
よりにもよって、お兄様の目の前で、アップデートしたばかりの術式を使ってしまった。
いや、待て。落ち着け。
普通の魔法師なら、あんな低出力の生活魔法の微細な変数の違いなど、絶対に気づかない。
だが、目の前にいるのは「普通」の対極にいる男だ。
情報の構造そのものを見る『精霊の眼』の前では、僕の魔法式の変化など丸裸も同然だったのだ。
僕は、顔の筋肉を総動員して「何も知らない一般生徒」の表情を作り上げた。
「……そうかな。昨日と同じ、ただの掃除用の複合魔法のつもりだったけど」
「出力や事象改変の規模は同じだ。だが、対象表面の認識精度と、座標補正の変数が明らかに精密化されている。昨日までの君の魔法には、あの処理は組み込まれていなかったはずだ」
逃げ道はない。
誤魔化しきれない。
僕は、腹を括るしかなかった。
「……よく見てるね。実は、さっき射撃系クラブのデモを見た時に、彼らの照準補助の魔法式がすごく綺麗だったから。その処理の仕方を、自分の表面制御に少し応用してみたんだよ。低級魔法のカスタマイズみたいなものだね」
「あのデモを見たのは、つい先ほどだろう。見ただけで、別系統の魔法の変数を即座に自分の術式に組み込めるのか?」
達也の瞳の奥に、明確な『疑念』の色が浮かんだ。
「うまくいく時もある、というだけだよ。今回はたまたま、変数の相性が良かったんだと思う。ほら、僕は魔法式の構造を見るのが好きだから」
僕は必死に弁明した。
コピー能力の存在は絶対に悟られてはいけない。
あくまで、「異常に観察力と応用力が高い魔法オタク」というラインで押し通すしかない。
達也は、僕の顔を数秒間無言で見つめ、やがて小さく息を吐いた。
「……そうか」
追及は、そこで止まった。
だが、彼の中で完全に納得がいったわけではないことは、その声音の冷たさから十分に伝わってきた。
「ちょっと、何? また水瀬が変なことしたの?」
張り詰めた空気を切り裂くように、エリカがパンフレットの束を抱えて戻ってきた。
「してないよ。ボールの汚れを少し魔法で落としただけだ」
「ただの掃除で、達也くんがそんな探るような顔する? 絶対またなんかマニアックなことしたんでしょ」
「俺は、彼女の魔法の応用力が少し興味深かっただけだ」
達也が淡々と答えると、エリカは「ほら、やっぱり変なことしてる」と僕を指差した。
「してない。掃除は生徒としての善行だよ」
「水瀬の善行、なんか裏に計算がありそうなんだよなぁ」
レオが疑り深い目を向けてくる。
「でも、ボール、すごく綺麗になりましたね」
美月が純粋な感嘆の声を上げてくれたことで、僕は「ほら、美月は正しい」と胸を張ることができた。
なんとか、この場はエリカたちの存在に助けられて、緊張を散らすことができた。
「司波、少しいいか」
少し離れた場所から、摩利が達也を呼んだ。
達也は「すぐ行く」と答え、僕たちに軽く会釈をしてそちらへ向かった。
僕はその後ろ姿を目で追うだけで、決してついて行こうとはしなかった。
摩利が、達也と話し始める前に、ちらりとこちらを見たのが分かった。
遠くて声は聞こえないが、おそらく「あいつは何だ」というようなことを聞いているのだろう。
達也が短く答え、摩利が少し呆れたような顔で僕を見る。
……うん。
たぶん、渡辺先輩にも「魔法式に執着する変わった友人」として認識された気がする。
僕の平穏な学園生活の防壁が、また一枚剥がれ落ちた音がした。
◆
放課後。
一人で帰路につきながら、僕は今日の収穫とリスクを天秤にかけていた。
登録・更新した魔法式。
精密照準補助術式。
重心制御補助。
そして、自分自身の表面制御のアップデート。
おまけに、達也のバグじみた事象干渉のデータ──解析保留だが──まで手に入れた。
部活勧誘イベント、想像以上に美味しい。
風紀委員の周囲は、やはり宝の山だ。
だが、代償として、達也の観察対象としてのランクが確実に一段階上がってしまった。
今日の彼の視線は、昨日までの「少し変わったやつ」を見るものではなかった。
「理屈に合わない未知の要素」を分析しようとする、冷徹な技術者の目だった。
まだ、コピー能力そのものがバレたわけではない。
たぶん。
だが、このまま無自覚にライブラリの魔法を披露し続ければ、いずれ確実に尻尾を掴まれる。
……バレてないよね?
ね?
僕は、春の夕暮れ空を見上げながら、誰にともなく問いかけていた。
◆
司波達也 視点
生徒会室での風紀委員就任の諸手続きを終え、帰り道を歩きながら、俺の思考は先ほどの水瀬悠の魔法式に向いていた。
彼女の魔法式は、昨日見たものと明らかに変化していた。
サイオンの出力や事象改変の規模自体は、二科生の平均的なレベルから逸脱していない。
だが、対象指定の精度、事象に干渉するための変数の補正、そのプロセスが、昨日とは別物のように洗練されていた。
俺は、射撃系クラブが行っていたデモンストレーションを思い返す。
水瀬が自らの魔法に組み込んでいた補正思想は、あの射撃補助の術式構造と酷似していた。
彼女は「見て参考にした」と言った。
確かに、優れた観察眼を持つ魔法師であれば、他者の魔法を参考にすることはある。
だが、つい数十分前に見たばかりの、全く異なる系統の魔法の変数を、即座に脳内で分解し、自分の魔法式に最適化して組み込むなどという芸当が、果たして人間の演算能力で可能なのだろうか。
ただの応用力が異常に高いだけなのか。
それとも、何か別の、俺の知らない『仕掛け』があるのか。
水瀬悠。
敵意はない。
だが、彼女の底はまだ見えない。
もう少し、深く観察する必要がある。
◆
その頃の僕は、今日手に入れた大量のインデックスを精神領域で舐め回すように眺めながら、照準補助と表面制御という全く異なる魔法式の相性の良さに、一人ベッドの上で感動の涙を流していた。
なお、自分が生お兄様の『要警戒・最優先観察対象』のレッドゾーンに片足を突っ込んでいることには、この時の僕はまだ、全く気づいていなかった。
ここまで読んでいただきありがとうございます! もし「面白い」「続きが気になる」と思っていただけましたら、ページ下部より【お気に入り登録】や【評価】、感想などをいただけると執筆の励みになります。 作者のモチベーション上昇に直結しますので、是非ともよろしくお願いします!