魔法科世界の術式蒐集者   作:パラレル・ゲーマー

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第5話 初出動と剣の魔法式

 朝、自室のベッドで目覚めた僕は、深い後悔とともに天井を見つめていた。

 

 やらかした。

 

 昨日の放課後、部活勧誘のトラブルの後始末でのことだ。

 

 射撃系クラブのデモで観測した『簡易照準補助術式』の精密な変数を、自分自身の『表面制御』系の魔法に統合して使ってしまった。

 

 僕としては、本当にそれだけだった。

 

 散らばったターゲットの汚れを落とすついでに、より精度の高い処理をテストしてみただけだ。

 

 魔法式コレクターとしての、極めて純粋で無邪気な探求心の発露である。

 

 だが、それを他でもない、司波達也──お兄様の目の前でやったのが、致命的にまずかった。

 

『今の魔法式。昨日、教室で君が見せたものと、少し構造が違うな』

 

 あの時の、対象を文字通り「視透かす」ような、氷のように冷たく鋭い瞳を思い出し、僕はベッドの中でブルッと身震いした。

 

 たまたま応用が利いたと必死で誤魔化したが、あの人がそれで完全に納得するわけがない。

 

 結論は出ている。

 

 今日からは、もっと慎重に行動しなければならない。

 

 ライブラリにどんなに新しくて美しい魔法式がインデックスされようとも、すぐに自分自身の術式に反映させたりはしない。

 

 少なくとも、達也の監視下にあると思われる状況では、アップデート前の「平凡な二科生の魔法」を演じ通す。

 

 うん、完璧な方針だ。

 

 これなら僕の平穏な学園生活は守られる。

 

 ……と、心の中で固く誓ったわけだが。

 

 この手のフラグがどれほどあっけなく折れるものか、僕自身が一番よく分かっていた。

 

 身支度を終え、駅からの通学路を歩いていると、前方にエリカと美月の姿を見つけた。

 

 小走りで追いつき、「おはよう」と声をかけた瞬間、エリカが振り返りざまにジト目を向けてきた。

 

「おはよ。……で、水瀬。あんた昨日、達也くんに何か怪しまれてなかった?」

 

 開口一番、確信を突くようなツッコミである。

 

「気のせいだと思うよ。僕はただ、善良な生徒として片付けを手伝っていただけだから」

 

「気のせいで、あのいつも冷静な達也くんがあんな探るような顔する? 絶対、また私たちが気づかないようなマニアックで変なことしたんでしょ」

 

「変なことなんてしてない。僕の魔法式の微細な改善プロセスに、彼の魔法工学的な興味が少しだけ惹かれたというだけだよ」

 

「普通の高校生が息をするように言う台詞じゃないのよ、それ」

 

 エリカが呆れ返ってため息をつく。

 

 その横で、美月が少し心配そうな表情で僕を見つめてきた。

 

「水瀬さん、大丈夫ですか? 無理はしていませんか?」

 

 彼女の言葉には、本当に僕を気遣う優しさが滲み出ている。

 

 美月は『霊子放射光過敏症(水晶眼)』の持ち主だ。

 

 周囲の魔法師が発するプシオン、つまり霊子の活動に伴って発生する放射光を、過敏に視覚として捉えてしまう体質である。

 

 サイオン、つまり想子の構造式を直接観測できる僕とは見えているレイヤーが違うが、彼女の世界もまた、情報過多で疲れやすいものだ。

 

 そんな彼女に心配をかけるわけにはいかない。

 

「大丈夫だよ、美月。僕は安全第一をモットーに生きているからね」

 

 僕が微笑みかけると、エリカがすかさず横から切り込んできた。

 

「安全第一をモットーにしている人間は、トラブルが起きそうな風紀委員の近くを、わざわざ壁際這って偶然通りかかろうとしたりしないと思うけど」

 

「偶然だから。世界の事象はすべて確率の揺らぎの上に成り立っているんだ」

 

「はいはい、出たわね水瀬語録」

 

 そんな軽口を叩き合いながら、僕たちは学校へと向かった。

 

 教室に入ると、達也の席の周りにレオたちが集まっていた。

 

 達也の机の上には、真新しい腕章が置かれている。

 

 黒地に白い文字で『風紀委員』と記されたそれを見て、レオが興奮気味に声を上げていた。

 

「お、本当に腕章渡されたのか。いよいよ今日から風紀委員ってわけか」

 

「ああ。正式に委員として登録された。今日の放課後から、部活勧誘期間の巡回に出ることになる」

 

 達也は淡々と答えるが、その隣で深雪が、まるで自分のことのように、いやそれ以上に誇らしげな笑みを浮かべていた。

 

「お兄様なら、どのような任務であれ、完璧にこなされます。校内の治安維持など、造作もないことですわ」

 

 深雪の兄に対する信頼は、もはや信仰の域に達している。

 

 僕は内心で激しく同意した。

 

 深雪さんの言う通りだ。

 

 お兄様なら大体のトラブルは物理的かつ合理的に制圧してしまう。

 

 しかし、僕にとっては由々しき事態でもあった。

 

 風紀委員お兄様、正式実装。

 

 まずい。

 

 彼がこの腕章をつけて歩き回るということは、彼の周囲半径数十メートルが「魔法的トラブルの多発地帯」になるということだ。

 

 近くにいるだけでイベント発生率が跳ね上がる。

 

「似合ってると思うよ、司波くん。威圧感が三割増しになった」

 

 僕は、友人枠としての距離感を保ちつつ、適当なヨイショを挟んだ。

 

「……褒めているのか、それは」

 

「もちろん。治安維持の担当者としては、最大級の賛辞だよ」

 

「水瀬の褒め方って、だいたい言い回しが物騒なのよね」

 

 エリカが呆れながら席に着く。

 

 すると、達也が腕章を手にとりながら、僕の方へ視線を向けた。

 

「水瀬」

 

「何かな」

 

「今日も、部活勧誘を見て回るのか?」

 

「その予定だよ。あくまで合法的な見学の範囲でね」

 

 僕が答えると、達也は短く、だが明確な警告のトーンで言った。

 

「……危険な場所には近づきすぎるな」

 

「……」

 

 僕は一瞬、目を瞬かせた。

 

「……もしかして、心配してくれてる?」

 

「俺が初日から余計なトラブルの報告書を書く手間を増やしたくないだけだ」

 

 すげなく返されたが、僕は内心でガッツポーズを決めていた。

 

 ツンデレか? 

 

 いや違う、お兄様は合理性の塊だ。

 

 だが、この「危ないから近づくな」という会話自体が、明確に友人枠のそれではないか。

 

 やったぜ。

 

「分かった。安全圏は厳守するよ」

 

 僕が真面目な顔で頷くと、達也は静かに息を吐いた。

 

「その『安全圏』の定義が、君の場合は著しく信用しづらいんだがな」

 

 手厳しい。

 

 だが、的を射ているだけに反論できなかった。

 

 放課後。

 

 昨日に引き続き、校内は部活勧誘の熱気に包まれていた。

 

 僕たち四人──エリカ、レオ、美月、そして僕──は、連れ立って中庭のブース群を見て回っていた。

 

「へえ、剣道部もあるんだ。剣術部とは別なのね」

 

 エリカが、あるブースの前で足を止めた。

 

 そこには『剣道部』と書かれた看板が掲げられ、道着を着た部員たちが新入生に声をかけていた。

 

「見学ですか? よければ、簡単な説明と演武をお見せしますよ」

 

 声をかけてきたのは、凛とした佇まいの上級生だった。

 

 長い髪を後ろで束ね、姿勢の良さが道着の上からでも分かる。

 

 彼女の胸には、一科生・二科生を区別するような偏見の色は見えない。

 

 壬生紗耶香。

 

 僕は内心でその名を呟いた。

 

 来た。

 

 原作序盤における重要人物。

 

 剣道部の実力者であり、この先の『ブランシュ編』へと繋がる大きな火種を抱えた人だ。

 

 ただのイベントキャラとしてではなく、一人の生徒として彼女を観察する。

 

 立ち姿が非常に綺麗だ。

 

 重心のブレがなく、常に次の動作に移れるだけの余裕がある。

 

 だが、その瞳の奥には、どこか硬く冷たいものが潜んでいるように見えた。

 

 この学校のシステムに対する不満か、あるいは魔法至上主義に染まった剣術部への対抗心か。

 

 僕は原作の知識があるがゆえに、彼女との接し方には少し慎重にならざるを得なかった。

 

「お願いします」

 

 美月が丁寧に頭を下げると、壬生先輩は微笑んで竹刀を構えた。

 

 彼女が披露したのは、派手な魔法を伴うものではなかった。

 

 すり足での移動、素振り、踏み込み。

 

 しかし、そのすべての動作の裏に、極めて精緻な魔法式が編み込まれているのを、僕の目は見逃さなかった。

 

《剣道系・姿勢制御補助術式を観測》

 

《重心制御補助魔法との類似性を確認》

 

《変数の統合解析を開始》

 

《身体制御系統の精度が微増しました》

 

 僕の精神領域に、心地よいアナウンスが響く。

 

 これは昨日の剣術系デモで観測したものとは違う。

 

 あちらが攻撃の威力を上げるための「加速」や「力の増幅」に重きを置いていたのに対し、彼女の魔法式は「崩れないための安定」に極振りしている。

 

 体軸のブレを極限までなくし、打突の前後に生じる隙を魔法的な姿勢維持でカバーする。

 

 無駄がない。

 

 美しい。

 

「水瀬、またなんかすごく幸せそうな顔してるわよ」

 

「良い魔法式を見ると、心が安らぐからね」

 

 僕が恍惚と呟くと、演武を終えた壬生先輩が不思議そうな顔で僕を見た。

 

「……魔法式に、興味があるんですか?」

 

「ええ、かなりあります。先輩の姿勢制御、すごく綺麗でした」

 

「……変わっていますね。剣道部の演武を見て、魔法式を褒める人は珍しいです」

 

「よく言われます」

 

 僕が真顔で答えると、彼女は少しだけ毒気を抜かれたように小さく笑った。

 

 だが、その穏やかな空気は、不躾な足音と声によって引き裂かれた。

 

「まだ竹刀なんて振ってるのか。古臭いな」

 

 現れたのは、胸に一科生のエンブレムをつけた数人の男子生徒だった。

 

 中心にいるのは、高慢な笑みを浮かべた上級生──桐原武明。

 

 剣術部に所属する二年生であり、魔法を乗せた剣技を得意とする、実力だけなら間違いなく一高でも上位に入る生徒だ。

 

 そして、壬生紗耶香にとっては、あまり穏やかではいられない相手でもある。

 

「魔法師の剣は、魔法を乗せて初めて意味があるんだよ。新入生を勧誘するなら、もう少し実戦的で現代的なものを見せるべきじゃないか?」

 

 その言葉に、壬生先輩の表情がスッと硬くなった。

 

 エリカの目つきが剣呑なものに変わり、レオも不機嫌そうに舌打ちをする。

 

 来た。

 

 原作序盤の火種。

 

 ここで僕が変に出しゃばって介入すれば、達也が動く導線を壊してしまう。

 

 観測者は、沈黙を守るべきだ。

 

 ただし、美月たち友人の安全確保だけは常に計算に入れておく。

 

「……私たちは、精神と技を鍛えることを主眼に置いています。魔法に頼り切った実戦性ばかりを追い求めるのは、本末転倒ではないでしょうか」

 

 壬生先輩が冷静に反論するが、剣術部側は鼻で笑った。

 

「精神論か。二科生にも門戸を開いているお遊びの部活らしい言い訳だな。実戦では何の役にも立たない」

 

 その露骨な見下し発言に、空気が一気に張り詰める。

 

 桐原武明が、腰に下げていた訓練用の木刀を抜き放った。

 

 そして、軽いデモンストレーション、あるいは威嚇のつもりなのだろう。

 

 CADを操作し、木刀に魔法を乗せた。

 

《振動系斬撃補助術式を観測》

 

《刃筋補正および接触面認識の変数を検出》

 

《身体制御系統との連携可能性を確認》

 

 僕のライブラリが猛烈に反応する。

 

 うわ。

 

 性格は控えめに言って最悪だが、構築される魔法式はめちゃくちゃ美味しい。

 

 対象の表面を正確に認識し、刃筋がブレないように微細な振動と補正を加える術式。

 

 悔しい。

 

 こんな嫌な奴からドロップした魔法式が、これほど高品質だなんて。

 

「水瀬、あんた今、めちゃくちゃ複雑な顔してるけど」

 

「嫌な相手の魔法式が良い構造をしていると、コレクターとしての喜びと人間としての反発で、心が真っ二つに割れそうになるんだ」

 

「相変わらず理解の斜め上を行くわね……」

 

 桐原が、ニヤリと笑って木刀を振り下ろした。

 

 空振りの素振り。

 

 直接人に当てるつもりはないのだろう。

 

 だが、未熟な感情が乗った魔法の余波が、想定以上に広がった。

 

 木刀から放たれた衝撃波が、剣道部のブースの横に立てかけられていた展示用の重い竹刀立てと、案内ポスターを貼った金属製の台を直撃した。

 

 ガシャアン! という音と共に、バランスを崩したそれらが、倒れ込んでくる。

 

 その方向には、美月が立っていた。

 

 また美月方向!? 

 

 この子、トラブルに巻き込まれやすい星の下にでも生まれているのか? 

 

 僕の思考が加速する。

 

 動くべきか。

 

 だが、昨日の達也の疑念が頭をよぎる。

 

 ここでまた精緻な魔法を使えば、完全に目をつけられる。

 

 しかし、美月に当たるのを黙って見ているわけにはいかない。

 

 僕が最小限の魔法を構築しようとCADに手をかけた、その瞬間だった。

 

「──そこまでです」

 

 凛とした、しかし周囲の空気を凍りつかせるような低い声が響いた。

 

 倒れかけていた竹刀立てが、何かに弾かれたように不自然な方向へ倒れ、美月を直撃する軌道から外れた。

 

 左腕に風紀委員の腕章をつけた、司波達也の姿があった。

 

 場が水を打ったように静まり返る。

 

 桐原が、達也の胸のエンブレムの無い制服を見て、一瞬鼻で笑った。

 

「……風紀委員? しかも二科生のウィードか」

 

「校内での不必要な、かつ危険を伴う魔法使用は禁止されています。今の行動は、勧誘デモの正当な範囲を逸脱している」

 

 達也は、相手の蔑称など全く意に介さない様子で、平然と事実だけを告げた。

 

「実害は出ていないだろうが」

 

「実害が出る前に止めるのが、風紀委員の仕事です。それとも、あのまま生徒に怪我をさせるつもりだったと報告書に記載しましょうか」

 

 ぐうの音も出ない正論。

 

 だが、プライドを傷つけられた桐原は、怒りに顔を歪めた。

 

「生意気な……!」

 

 彼は達也を試すように、再び木刀を構え、低出力の『斬撃補助術式』を展開しようとした。

 

 次の瞬間、僕の視界で信じられないことが起きた。

 

 桐原が構築しようとしていたサイオンの情報体が、完成する直前で、まるで砂の城が見えない風に吹き飛ばされたかのように、霧散したのだ。

 

 物理的な接触はない。

 

 達也はただ、軽く手を前に出しただけ。

 

《斬撃補助術式を観測》

 

《形成途中の魔法式崩壊を観測》

 

《既存体系外の干渉処理を検出》

 

《解析保留》

 

 僕の精神領域に、再びあのアナウンスが流れる。

 

 お兄様、また変なことした。

 

 魔法そのものを発動前に解体したのだ。

 

 ありがたいデータだが、何度見ても恐ろしい。

 

 魔法を不発にされた桐原は、何が起きたのか理解できず、目を見開いて硬直している。

 

「次に同様の魔法使用を確認した場合、正式な違反として生徒会に報告します」

 

 達也の冷徹な警告に、桐原たち剣術部員は周囲の野次馬の視線にも耐えきれなくなり、舌打ちを残して足早に立ち去っていった。

 

「……助かりました。ありがとうございます」

 

 壬生先輩が、達也に向かって一礼する。

 

「仕事ですから。お気になさらず」

 

 達也が短く返し、その場を離れようとする。

 

 その時、壬生先輩の横顔に浮かんだ複雑な表情を、僕は見逃さなかった。

 

 感謝だけではない。

 

 自分たちが力で止められなかったことへの悔しさ。

 

 二科生である達也が、一科生を圧倒したことへの驚き。

 

 そして、この学校の理不尽な序列への苛立ち。

 

 彼女の中で、何かがくすぶっている。

 

 あまり良い兆候ではない。

 

 そんな緊迫した空気が解けかけた時、トラブルはまだ終わっていなかった。

 

 先ほどの衝撃でバランスを崩したままになっていた金属製のポスター台が、遅れて傾き、今度こそ美月の背中に向かって倒れ込もうとしていたのだ。

 

 達也はすでに背を向けている。

 

 今度こそ、僕がやるしかない。

 

 僕は目立たないようCADを隠し持ち、極小の出力で魔法式を展開した。

 

 使うのは『表面制御』と『摩擦係数調整』。

 

 そこへ、先ほど壬生先輩から観測したばかりの『重心制御補助』と、桐原からドロップした『接触面認識』の変数を即座に統合する。

 

 対象は、床とポスター台の接地面。

 

 僕の魔法は、倒れかけた台の脚部の摩擦を瞬間的に増大させ、同時に重心を無理やり床方向へと固定した。

 

 結果として、ポスター台は美月の背中に当たる数センチ手前で、まるで床に接着されたかのようにピタリと止まった。

 

 出力が低いため、周囲からは「たまたまバランスを保って止まった」ようにしか見えないはずだ。

 

《振動系斬撃補助術式の接触面認識を、表面制御へ部分統合完了》

 

《重心制御補助との統合精度が向上しました》

 

 僕の脳内で、新たな魔法の進化が告げられる。

 

 今のは仕方ない。

 

 美月に当たりそうだったのだから。

 

 緊急避難だ。

 

 セーフ。

 

 たぶんセーフ。

 

 僕はそう自分に言い聞かせながら、ホッと息をついた。

 

 だが、その安堵は一瞬で打ち砕かれた。

 

 振り返った達也の視線が、僕を真っ直ぐに射抜いていたのだ。

 

 彼はその場では何も言わなかった。

 

 問い詰めもしなかった。

 

 ただ、極めて冷徹な「観察者」の目で、僕と、止まったポスター台を交互に見つめた。

 

 あ、見られた。

 

 終わった。

 

 いや、まだ終わってない。

 

 今のは友人を助けるための善行。

 

 善行だからセーフ。

 

 僕が顔を引きつらせていると、達也が歩み寄ってきて、すれ違いざまに低く囁いた。

 

「……今のも、ただの応用か」

 

「美月を守るための、緊急避難的な低級魔法だよ」

 

 僕が必死に取り繕うと、達也は短く鼻を鳴らした。

 

「そういうことにしておこう」

 

「……言い方」

 

 僕は冷や汗を拭いながら、彼の背中を見送った。

 

 読者視点なら絶対にわかる。

 

 お兄様の疑惑メーターが、レッドゾーンを振り切ろうとしている。

 

「水瀬、やっぱり美月には甘いわよね」

 

 一部始終を見ていたエリカが、ニヤニヤしながら肩を組んできた。

 

「美月は保護対象だからね。怪我がなくてよかった」

 

「……ありがとうございます、水瀬さん。また助けていただいて」

 

 美月が少し頬を染めてお礼を言う。

 

 僕は「どういたしまして」と素直に頷いた。

 

 魔法式ジャンキーではあるが、目の前の友人が傷つくのを放置するほど、僕は人間を捨てていない。

 

「ごめんなさい、騒ぎに巻き込んでしまって」

 

 片付けを終えた壬生先輩が、僕たちに改めて頭を下げた。

 

「壬生先輩が謝ることではありません。危険だったのは、威嚇に魔法を乗せた桐原先輩の方です」

 

 僕がはっきりと言うと、壬生先輩は少し驚いたように目を見開いた。

 

「それに、先輩の演武、本当に良かったです」

 

「え……?」

 

「打つための魔法というより、自分が崩れないための魔法。姿勢制御が洗練されていました。あれは、とても良い魔法式です」

 

 僕が真顔でそう告げると、壬生先輩は困惑しつつも、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。

 

「……本当に、変わった褒め方をされるんですね」

 

「よく言われます」

 

 こうして、僕と壬生紗耶香の間に、小さな縁が結ばれた。

 

 後の事件で、彼女が「剣道部の魔法式を褒めた変わった二科生」として僕を記憶していてくれることを祈りつつ、僕たちは中庭を後にした。

 

 帰り道、僕は今日の収穫を脳内で整理していた。

 

 剣道系姿勢制御補助。

 

 重心制御補助の派生。

 

 振動系斬撃補助術式、刃筋補正、接触面認識。

 

 そして、達也の魔法式崩壊処理のデータ。

 

 壬生先輩の魔法式は美しかった。

 

 桐原の魔法式も、悔しいが非常に優秀だった。

 

 人格と魔法式の美しさは、必ずしも一致しない。

 

 コレクターとしては最高の収穫だが、この世界の歪みの一端を見たようで、少しだけ心がざわついた。

 

 ◆

 

 司波達也 視点

 

 風紀委員としての初日の巡回を終え、俺は思考の海に沈んでいた。

 

 水瀬悠。

 

 彼女の魔法式の変化は、もはや「応用力が高い」というレベルを逸脱している。

 

 昨日は、射撃系のデモで見た『照準補助』の変数を、即座に自身の『表面制御』に取り込んだ。

 

 そして今日は、桐原武明が使った『接触面認識』の変数を、倒れかけた台を止めるための『摩擦制御』と『重心補正』へ自然に統合してみせた。

 

 どちらも、観測した直後の出来事だ。

 

 どちらも、全く系統の異なる魔法の変数を、自身の低級魔法へ完璧にフィットさせている。

 

 彼女本人の魔法式が、日単位……いや、時間単位で変異し、精度を上げている。

 

 単なる高い観察力だけでは、説明がつかない。

 

 最低限、水瀬は他者の魔法式を、通常ではあり得ない解像度で記憶し、一瞬で解析している。

 

 記憶、解析、模倣。

 

 あるいは──精神領域への『記録』。

 

 あの少女の底には、俺の常識を覆す何かが潜んでいる。

 

 水瀬悠。

 

 もう少し、具体的な材料を引き出す必要がある。

 

 ◆

 

 その頃の僕は、自室のベッドの上で、今日新しくライブラリに加わった魔法式の一覧を眺めながら、至福の喜びに浸っていた。

 

 斬撃補助術式。

 

 刃筋補正。

 

 接触面認識。

 

 うん、最高。

 

 どれも実用性が高すぎる。

 

 ただし、少しだけ自覚はある。

 

 今日だけで、二回もお兄様の鋭い視線を浴びてしまった。

 

 まずい。

 

 非常にまずい。

 

 だが、あのポスター台の件は仕方ない。

 

 美月を守るための、必要最低限の魔法だったのだ。

 

 友人を守るのは自然な行動。

 

 正当防衛ならぬ、緊急避難。

 

 だから、セーフ。

 

 たぶんセーフだ。

 

 僕はそう自分に言い聞かせながら、増え続ける魔法式コレクションに囲まれて眠りについた。

 

 なお、僕の行動がセーフかアウトかを判断する審判員の権限は、すでに完全に司波達也の手に握られているという事実に、僕はまだ目を背け続けていた。




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